えいきの修学旅行

田立の掃討して飛騨へ。宮地、楢尾山、萩原諏訪、桜洞、為坪、久々野、牛臥山、切手の偵察。

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   元屋敷城(参考文献 朝日町の山城では泊城)は、境の要害・宮崎城(電波塔付近)の海岸沿いを固める支城として機能したと思われる。
 現在もJR北陸本線、県道60号線が裾を、直下を国道8号線が通る要衝に築かれている。
イメージ 1  橋のやや上流に落ちてくる竪堀様の谷は引火矢谷と呼ばれ、天正12年、佐々成政が宮崎城に入れ備えた益木・三輪の両将と、宮崎城奪還を目指し攻め登る上杉景勝勢とにより弓鉄砲にて大激戦せる地という。(境村史泊町商工案内)
 また、朝日町の山城では、元屋敷集落の成立をこう記している。天正時代、佐々と上杉のせめぎ合いから、越中ー越後国境は風雲急を告げてた。それを伝え聞いた諸国の浪人たちがいつの間にかこの地に集まり、元屋敷集落を構えたと「金森古文書」の記事が伝説的に信じられる。と。
 牢人達が背後に荒城のある元屋敷に屯して無頼を働いていたら…。
 私にとっては、ご縁もあり、そんな情景が脳裏にありありと浮かぶ歴史ロマン湧き立つお城です。
 
イメージ 4
 
元屋敷城へは、宮崎城E郭三の郭北陸宮陵墓とされる付近背後の切岸下の尾根から行くことができますが、その切岸はとても降りることができないので、上の山への遊歩道脇からD郭 ひろしき・三の丸下の帯郭様の藪の平地から踏み込みました(季節によっては突入できないかも)
 
  
 
 
イメージ 5この尾根伝いに降りていきます。
ここからの歩行はそれほど困難ではありません。元屋敷城二の丸まで私の足で25分。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6途中、宮崎城F郭を経由します
 
 
 英字郭、○数字地点は、佐伯哲也著 越中中世城郭図面集に合致します。
 
  
 
 
  
 
 
イメージ 7堀切
 
遮断されてはいない
 
堀切で通路狭め、宮崎城ー元屋敷城間の関門城戸をおいていたのであろうか
 
 
 
  
 
 
イメージ 8元屋敷城側(下)から見上げる
 
 
 
 
 
 
 
尾根に導かれるままに降りていくと
  
 
 
イメージ 9
鞍部に、穴のあいた地点がある
 
穴は木の跡か、通路を狭める遺構かはわからりません。
 
 
ここから元屋敷城への登りとなります。
 
  
 
 
 
イメージ 2
郭D 櫓台⑤が立ちはだかり、道は黄線のように頭上から監視されながらまわり込み入ります
 
郭Dは朝日町の山城では番所郭としている。
 
 
 
  
 
 
イメージ 3線なし
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
  イメージ 10
 
 まわりこんで郭Dに上がる辺りに、佐伯氏は竪堀とする虎口にも竪堀にもみえる遺構がある
 
 
 
 
 
 
  
 
イメージ 11郭D番所曲輪 奥、一段高く櫓台⑤がある
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
イメージ 14縄張図 朝日町の山城より引用
 
宮崎城から左図右から番所曲輪を経て来ました
 
○二の丸を北にまわり嘴状の土橋から角馬出を経て本丸へ。
 
○郭A本丸はそれほど高くはないが幅広の土塁を備える。南の虎口は平虎口だが、主郭側に堀切、南曲輪側に切岸と土橋で狭められた馬出状の郭C三の丸、その先に南曲輪を配し、戦闘郭としている。
 
○元屋敷集落からの道はこちらに入ったようで、衝立のように土塁を立て、遮っている。
 
左図で搦手口としている北(上)からのルートは、佐伯氏は触れていません。
 
 
 
イメージ 17細長い土橋状の尾根を登ると二の丸
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
イメージ 24二の丸
郭A 東面下ー北面下を取り巻きます
 
こちらからだといまいちよくわかりませんが、
 
 
 
  
南の櫓口から見ると
 
 
 
イメージ 30このようになかなかいい郭です
 
二の丸東部
 
 
 
 
 
 
  
 
 
イメージ 32二の丸 北部
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 33北に、佐伯氏は竪堀、朝日町の山城は搦め手口、とする痕跡があります。
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 34二の丸から郭A 本丸・武者溜りへは、嘴状の土橋から角馬出⑥を経て入ります
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 27郭A内
 北部は一段低くなっています
 
 
  
 
 
 
  
 
 
 
イメージ 12郭A 
高地に泊城本丸跡の標柱がある
右手前が北部の低地
 
 
 
 
  
 
 
 
 
イメージ 13
泊城本丸跡標柱
朝日町の山城を執筆された方々が設置したのであろうか。
 
 
 
 
  
 
 
 
 
イメージ 15本丸東土塁
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
イメージ 16本丸南土塁
 
こちらが元屋敷集落に向いた土塁のため造りが頑丈堅固に見える
 
 
 
 
  
 
 
 
イメージ 18
本丸南の堀
左が郭A 本丸 右が馬出状の郭C 三の丸
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
イメージ 19
本丸西の堀
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
イメージ 21郭A 本丸と、郭C 三の丸を繋ぐ虎口③
 
緑の葉のあつまっているあたり
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 20
本丸虎口③を南から守る馬出状の郭C 三の丸
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
イメージ 23郭C 三の丸西は谷に落ち込む崖
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
イメージ 22
郭C 三の丸南は切岸で切り立てられ、土橋(写真右端)で南曲輪に繋がる
 
  郭C 三の丸は、堅固な普請である
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 25南曲輪
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
イメージ 26南面に土塁がある
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
イメージ 28尾根を遮るようにも、土塁が衝立つ
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
イメージ 29元屋敷集落からあがってくる尾根
 
大きな石が据えてある
これも進路を遮る意図か
(ころがってるだけかもしれない)
 
 
 
  
 
 
 
イメージ 31石の辺りから見上げる
土塁で見通せないようになっている
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 元屋敷城、遺構は旧い形態ではなく、宮崎城方面、元屋敷集落方面にぞれぞれ考えられた普請をして備えている。朝日町の山城では、遺構には越後系の竪堀と織豊系の虎口の混在が考えられるとしているが、佐伯氏は、織豊系城郭の要素が見られないとし、16世紀後半上杉氏による築城を推定している。
 謙信後期もしくは景勝期における、上杉氏による普請が基になっているであろう。
 
 
 参考文献 佐伯哲也著 越中中世城郭図面集
              竹内俊一著 朝日町の山城
 訪城にあたり、朝日町図書館、朝日町役場の方々に御親切なアドバイスをいただきました。

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私も佐伯さんの本をみましたが、宮崎城に対して堀切などであまり遮断していないことから、宮崎城の出城的なものと捉えているようですね。そんな感じなんでしょうか。一瞬、宮崎城攻めの陣城なのかなとも思ったのですが、いずれにせよ宮崎城と相当至近距離ですし、関係が非常に気になりますね。

2013/1/28(月) 午後 10:58 竹 返信する

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陣城という考えも面白いですね。
実見した感じでは、元屋敷城の備えが、宮崎城側よりも元屋敷集落側に堅固に作られています。宮崎城ー元屋敷城の間の普請が、宮崎城E郭三の丸の切岸は鋭いですが、他にはF郭、鞍部の穴、D郭で、敵を食い止める、もしくは戦闘する、といった雰囲気は感じません。元屋敷城の推定戦闘方面は、主郭の堀切の南、C郭三の丸、南に土塁を備えたB郭南曲輪であろうと思われます。とすると宮崎城→元屋敷城→城外へ、向かっている繋がりかと思います。

2013/1/28(月) 午後 11:25 [ えいき ] 返信する

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