えいきの修学旅行

田立の掃討して飛騨へ。宮地、楢尾山、萩原諏訪、桜洞、為坪、久々野、牛臥山、切手の偵察。

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池田城と樫ノ木城

 越後上杉の近代的(天正以降)普請が考えられる城として、北信の鞍骨城、桝形城 → 福島の向羽黒山城 → 頸城郡内の茶臼山城、鳥坂城、赤坂城と紹介してきました。ここで矛先を転じて越中の池田城と樫ノ木城という2城を紹介します。両城は富山平野南南西部の直線約7kmの距離にあります。
池田城は、永禄末期に椎名ー武田と繋がり上杉に抗戦した、寺嶋氏という越中在地領主の城です。
樫ノ木城は元亀から天正にかけて上杉氏が利用した、典型的な上杉の普請が見られる城です。池田城、樫ノ木城は史料にも登場します。 
                      ↓Googleマップに記入引用
イメージ 1
 
 では、池田、樫ノ木の両城が登場する史料と年代背景を紹介します。
池田城は上杉方神保氏の重臣であった寺嶋氏が、永禄11年(1569)頃転身、上杉に敵対し籠城した城です。背景には神保父子の内紛があり、、武田に与した松倉城椎名氏の誘いに応じたようです。池田城は椎名氏松倉城と、芦峅寺、その先立山往来を通じて信濃・飛騨へ繋がり、武田との連絡が可能になる位置にあります。(江馬氏は家内で表裏複雑・武田方である時は、江馬経由でも池田城ー松倉城と繋がる)
   下の文書は、越後上杉の侵攻に対し、寺嶋氏は池田城に拠り、芦峅寺の百姓の合力を得て抵抗したことを示しています。
 
 永禄12年9月18日 芦峅・本宮百姓中宛 寺嶋職定書状
「従越後乱入付而池田城内へ別而忠節神妙候、依之公用之儀三分之壹三ヶ年令用捨候、弥可馳走候、為其一筆遣候、謹言 永禄十貳年   職定」
 
 が、中地山に進出していた飛騨江馬氏の圧力もあり上杉方に包囲され抵抗を続けることは難しかったようで、永禄13年から元亀元年頃没落したようです。(椎名氏の没落もこの頃)
 
 
*中地山城のリンク貼りますが、江馬氏、三木氏に関して随分記事書きましたので関心ございましたら書庫の富山県、岐阜県御覧ください。 中地山城http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/14407014.html
 
イメージ 3池田城 掘底道
 
ルートは設定されていたようだが、造作された虎口はない
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10竪堀
古風だが鋭い。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4
E郭からD,C郭を見る
 
郭を繋ぐ虎口は見られない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
樫ノ木城は、元亀元年(1570)8月10日越中に在陣している村上源五に宛てた上杉政虎書状で、飛騨の三木良頼に軍役として相守るべき旨、申すよう伝えています。
 
「樫木出城之儀、良頼為軍役可相守之旨、可被申含候、越中可半可属謙信之方、…後略」(上越市史別編924・謙信呼称年代に検討の余地がある)
 
また、天正元年(1573)樫ノ木城の城将と伝わる村田秀頼に大田上郷の料所取扱いを命じています。
 
「今度改而、太田之上郷吾分ニ為料所申付候、(後略)」(上越市史別編1176)
同日、河田長親に大田下郷の料所取扱いを命じている。(上越市史別編1175)
 
 ここででてくる太田保の上郷・下郷は、もともと室町幕府体制では細川家領であり、椎名被官神前ti筑前の預かり地となっていたものを、謙信が自領化し、料所(直轄地)としたもので、料所の扱いを側近で越中在陣衆のリーダー的な地位にあった河田長親と、旗本・村田秀頼に命じたわけである。
 
 太田保私領化に見られるような越中・能登での謙信の行為は、若き景虎が関東管領上杉憲政を奉じ、武田・北条の圧力から関東・信濃の国人の領地を保護すべく戦った行為とは異なるようである。
                      ↓Googleマップに記入引用 
イメージ 2
 太田保の平野部と丘陵部を境する熊野川に臨む断崖上に、前衛的に津毛城を置き、樫ノ木城はその背後、眼下眼前に太田保を睥睨する山上に築かれている。また飛騨勢を抑える位置にある。上杉にとっていかに重要な城であったか推し量れるであろう。
 
イメージ 8樫ノ木城には虎口がある
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9上杉の畝状空堀もある
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11櫓台状高地もある
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6主郭からは、眼前に津毛城、その先に太田保が見渡せる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7ズーム
 
富山市中心部
 
手前丘陵端に津毛城がある。
 
 
 
 
 
 
 
 イメージ 5
熊野川に臨む津毛城
(学園の校地となり遺構はない)
 
津毛城では、謙信が、庄屋を引見すると称して奥の間に招じ入れ、次々と首を刎ねた、という伝承がある。武力による接収故であろうか。恐ろしや謙信。 
 
 
 
 
 
 
この太田保の私領化と、先にふれた神保父子の内紛は、織田信長に越中進出の名義を与えることになります。謙信死後の天正6年9月、信長は庇護していた細川昭元と神保長住を担ぎ、斎藤新五を将として軍勢を越中へ派兵します。そして10月4日、太田保津毛城前月岡野で河田等上杉軍と合戦に及び、敵首360を討ち取っています。(信長公記) 
 この敗戦で、上杉勢は魚津城ー松倉城まで後退することになります。
 
では記事で、じっくり池田城、樫ノ木城を紹介します。
  
参考文献 『中世の魚津』
高岡徹「戦国期における上杉氏の越中在番体制とその展開」
佐伯哲也『越中中世城郭図面集Ⅰ』
久保尚文『越中中世史の研究』
高岡徹 大山町歴史民俗資料館講座「大山地域周辺の中世城館と戦国史」の解説 
 

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