えいきの修学旅行

練習としてアメーバブログに飛騨の久々野6/22、牛臥山6/26、切手7/1の3城を投稿します。

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日尾衆と日尾城周辺

 さきに書いた一乱と重複します。
                        日尾城
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 日尾城は秩父郡の西北部にあり、一乱当初は反北条方・上杉方であったが、永禄4年九月には小田原北条当主の直臣南図書と同じく氏康直臣出浦小四郎が協力して日尾城を乗取り、北条方の城となった。
この秩父制圧の戦闘は、史料に見ることができる。
 
 
「(前略)秩父郡日尾之城南図書乗取、属味方候、依之、人数を分、荒○(川)を打越(中略)天神山自落、(後略)」(『小田原市史』資料編中世二501号文書)
 
 
 この永禄4年の日尾城乗取りを契機に、日尾衆が成立。南は筆頭、出浦は構成員という立場で日尾衆を軍事指揮し、配下戦闘員の走廻を氏邦に報告・知行宛行の取次をおこなうことになったのであろう。(伊藤 2013,pp.2-3)
 
 永禄5年正月の乙千代(氏邦)判物写(大宮郷郷正中村(井上)久之助所蔵文書)で、先に書いた千馬山城の用土と南を取次として、氏邦は秩父衆に対し走廻の報告・知行宛行の約束の伝達を行っている。
 
 南は、永禄5年8月の別史料南図書助判物(戦北775,出浦文書)では北条当主の家臣としてみえ、この時点では氏邦家臣ではない。
 この史料の後、南は史料にあらわれなくなる。
  
  かわって諏訪部主水助(遠江守)が元亀二年から日尾城主・日尾衆筆頭として史料に登場する。諏訪部主水助の兄とされる惣右衛門は、小田原北条当主馬廻衆であり、小田原北条当主の直臣と推定される。弟主水助は氏政の命で氏邦家臣とされ(附けられ)日尾衆筆頭となったのだろう。(伊藤 2011,p.3)
 
 鉢形城の稿で書こうと思っていることだが、この間(南の史料最後永禄5年から諏訪部の史料初見元亀二年)、永禄6年には一乱は終結し、日尾城周辺のみならず、鉢形領域全域において軍勢・知行の再編が行われる。そして氏邦に付属されていた小田原北条直臣たちが、氏邦家臣へと直り、知行宛行の権限が小田原北条当主から氏邦に委譲されていく。 (伊藤 2011,pp.5-6)
 
 また、鉢形領を取り巻く情勢が大きく変わる。
 甲相同盟の破綻(永禄11年(1568))、越相同盟の成立(永禄12年)、越相同盟の破綻・甲相同盟の成立(元亀二年(1571))。
 
 氏邦の鉢形領は、同盟関係から一転し敵対することになった西上野・信濃を勢力下におく武田勢との最前線、また敵対関係から一転し同盟関係となった上杉家との交渉口となる。
 
 なんか氏邦鉢形領紀行のクライマックス、鉢形城に向かいだしてきてしまいました。
 
 日尾衆に戻します。
 
 日尾城周辺でも西上野から侵攻してきた武田方の襲撃があり、諏訪部率いる日尾衆との熾烈な戦闘が繰り広げられている。武田は北条への侵攻を鉢形領のみ
でおこなっていたわけではなく、駿河、西伊豆でも大掛りな侵攻を行い、氏邦は鉢形衆を率いて諸方へ出兵している。薄くなった領内の守備を充当するためか諏訪部は在地土豪層と思われる野伏を招集・軍事指揮、かれらの戦功を氏邦に取り次いでいる。招集された野伏や土豪は上吉田など現在も人が集住していない山間の道沿いに各戸点在(写真とってきませんでした)している土地の人々で、当時も大きな集団ではなく、各戸単位の人々であったと思う。
 
 また千馬山城で触れた用土の同心であった高岸氏も、元亀二年には日尾衆に編成替を受けている(戦北1563、高岸文書)。
 
 文字が多くなってきましたので、このへんでまとめます。
 
 日尾衆は、永禄4年の小田原北条直臣による日尾城乗取を契機に小田原北条城直臣を筆頭に編成され、一乱終結後、氏邦鉢形領掌握過程における編成替を経ながら、永禄11年から元亀2年に至る武田との抗争に伴い周辺土豪層・野伏を加え形成されていった。
 そして天正18年の秀吉による小田原北条討伐では日尾城に籠城、鉢形城落城まで存続した。
 より詳しく知りたい方(ここまでお付き合いいただいた方もそう多くはないと思いますが)は、『埼玉地方史』6の、たけださん研究論文「戦国期日尾城における衆編成」をお読みください。
 
日尾城周辺の写真を紹介し、次記事で日尾城を、そして、鉢形城へと進めます。
 
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ピンク字は、写真紹介箇所です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 1麻生
神流川沿いの山中で山中(さんちゅう)といわれる武蔵・上野・信濃の境目。
 
日尾衆の山口上総守が、息子孫五郎の討死を含む軍功により扶助された。孫五郎の討死もこの付近。
 

イメージ 2諏訪部氏の勧進とされる日尾城近く馬上(もうえ)の諏訪神社
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3覆いのお堂の中に諏訪神社
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4諏訪神社
 
左の白い版に昭和55年九月諏訪神社?線工事 寄贈主として南様のお名前がある。南図書助との関連はわからない。
 
 
 
 
 
 
イメージ 5社殿前
諏訪部が立ち、みた風景か。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6社殿前から日尾城
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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日向薬師、鳳来寺薬師とならび日本三体薬師のひとつとされる小鹿野町両神薄の法養寺薬師堂。
武田の侵攻により焼失、のち氏邦によって再建されたと伝わる。
 
 
 
 
 
 
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お堂の中には、天正13年〜14年、氏邦が家臣ともに奉納した薬師如来坐像と木造十二神立像が安置されている。その、ほぞには、旦那安房守氏邦本命 星、日尾城主旦那 諏訪部達江守、 他の墨署名がある。別記事で再度扱います。
 
 
参考文献 伊藤拓也(2011)「戦国期鉢形領成立過程における「一乱」」、『埼玉史談』       第58巻第一号(通巻305号、埼玉県郷土分化会)
       伊藤拓也(2013)「戦国期日尾城における衆編成」、『埼玉地方史』6
       鉢形城歴史館(2007)「鉢形城主北条氏邦の信仰」
 

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