えいきの修学旅行

田立の掃討して飛騨へ。宮地、楢尾山、萩原諏訪、桜洞、為坪、久々野、牛臥山、切手の偵察。

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                    鍬塚城
イメージ 1鍬塚城は、名倉盆地の南端北方標高790mの山嶺上にあり、名倉奥平氏の支城と伝わる。名倉側から比高は100m余だが、東のタコウズ面は比高300mを越える要害である。
  名倉奥平氏は、戦国当初、宗家作手奥平氏とともに今川方に属していた。永禄元年、織田方の遠山勢と名倉船戸橋で戦い、武功をあげている。義元死後は松平家康、元亀元年には武田方に属す。天正3年、長篠の戦い時には、作手奥平貞能とともに徳川方に付き、鳶ケ巣山砦の夜襲に加わっている。天正9年には信長の命により三河・信濃境を固守するよう命じられており、その頃の修築も考えられる。(宮坂 2015,p451)

イメージ 35郭・堀・地点名・測値は宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版に準拠し、同書を基に記述する。

東、南、北は急峻である。名倉側の西尾根が大手で、虎口Aが大手門、7が大手城門の馬出にあたる。7は上部郭6により監視を受ける。ルートは虎口Bから郭6に入り、郭2を経て主郭1南の枡形虎口Dに至る。また虎口Cから横堀状通路を通り、郭5を経て東の通路から主郭東虎口、あるいは郭4の東から主郭北東隅に至る。こちらは搦手であろう。
虎口B、C、ルートともに上方から横矢が掛かり、横堀、桝形虎口等戦国後期の技法により強固に構えられ、織田・徳川・武田境目の堅城である。

イメージ 2大手前 西尾根は土橋状

前編では、大手ルートを辿り、主郭へ向かいます。


遠景写真はネット既出ですが、城内の様子は初出です。







イメージ 3
大手門にあたる虎口A

前面両側を竪堀状に削ぎ落し、尾根を狭め土橋を造成している。
城門背後は馬出機能の郭7が控える。

さらに後背高所、郭6が完全監視、支援する。





イメージ 4
さっそく興奮

ここに至るまで、山を二つ間違え難渋しましたが、そんなことはどうでもよくなります。










イメージ 5
大手虎口A・郭7を突破すると、郭6監視下を抜けることになるが、射勢熾烈であろう。












イメージ 28
郭6

あそこから射られる。

背後上方、堡塁と主郭が支援する。










イメージ 6
郭6際で、横堀線の下方を搦手へ至る通路と大手ルートが分岐し、大手ルートは虎口Cと虎口Bに分岐する。

虎口C先は横堀線から郭5へ至る。虎口B方向が大手ルートで、虎口Bから郭6内に入り、郭2を経由し、桝形虎口Dから主郭へ至る。

郭6上方主郭との間に小堡塁があり、主郭・小堡塁・郭6・横堀線とで、この切所に射線を集中し侵入を困難にしている。


イメージ 7横堀線の下方を搦手へ至る通路







大手ルートは右折れ






イメージ 31右折れし、横堀線虎口C方向と大手虎口B方向へ分岐する。
当った正面は石を使い堅固な壁状。
横堀線、主郭、堡塁、郭6から射線が集中する。

主郭、堡塁は、ルート側に土塁を備え、防御力の高い強固な迎撃陣地になっている。



イメージ 8坂の上に虎口C















イメージ 27
坂虎口C

右側壁は石壁状で強固。













イメージ 29強固な石壁
















イメージ 30虎口C先、横堀

横堀を通路とし、郭5へ至る。後編で。













イメージ 9虎口Cに入らず、右折れし、虎口B
こちらが大手ルート。
石を用いた強固な城門を彷彿。











イメージ 10虎口B側面は、堡塁、主郭が重層し、重層高所から横矢を浴びる













イメージ 11虎口Bから虎口B・C分岐をみる

小桝形ともとれないだろうか。











イメージ 12
側面頭上主郭監視下を郭6を抜け郭2に向かう














イメージ 13
主郭南東下をまわり郭2へ

主郭へは、左上主郭南部に桝形虎口が開口する。

南下には郭3.。










イメージ 33斜めに登る主郭虎口Dへの登路














イメージ 34張出にあたらず、桝形虎口Dにはいる

後編で主郭内から辿るが、この桝形(虎口)構造と導線は、奥平氏の共有の構造技術ではないか。









イメージ 15導線を少し南に引いてみる















イメージ 16斜め登り導線
















イメージ 14主郭桝形虎口D
















イメージ 17鍬塚城主郭















イメージ 18主郭辺縁は西から北面まで土塁が備わり、防御を固めている。
東から南面辺縁には無い。

辿ってきた大手ルート、横堀通路に備えた構造であろう。

賽之神城にも土塁の設けられた辺縁と無い辺縁があるが、賽之神城における土塁の有無の意図は、別の解釈をした。


イメージ 26主郭土塁を南端から















イメージ 19下には郭6から郭2へ繋がるルート














イメージ 20南西隅は広く櫓台状

ふと賽之神城が脳裏をよぎる。












イメージ 21南東隅櫓台は堡塁と共に直下に郭6・虎口Bを監視しており、侵入者を的確に射ることができる。



堡塁も虎口B・C側に土塁を備え、守備兵を守りながら迎撃が可能な、防御力・迎撃力の高い陣地である。




イメージ 22うぃ

今回の鍬塚城記事は、平成28年度『えいきの修学旅行』における傑作ではないか。










イメージ 23その右(北)、虎口Cから横堀線

横堀線は郭5へ至る通路でもあり、通路上方には主郭土塁が沿い、監視を絶やさない。









イメージ 24横堀線情報に付き添う主郭西辺縁土塁

石を用いた補強で頑強である。また天板には石の集積箇所があり、私は旗塚を想起した(塀の基礎かもしれない)。旌旗たなびく城壁、大手侵入者への勢威は如何ばかりか。






イメージ 25石の集積

私は旗塚を想う。















 前編まとめ

 以上、前編では大手ルートを辿ってきた。
 大手門にあたる虎口A・馬出7、さらに虎口B・C、そして主郭桝形虎口と 強固な迎撃工夫が凝らさせたルートが設定がされている。
 敵勢強く当たる面には石を用い強固に備えている。
 もうひとつ、堀切を用いていない。
 元亀・天正と武田圏、織田徳川圏と、所属圏が変わる戦国後期最厳の境目において、所属大勢力の築城術の影響を受けながら改修強化された堅城である。
 しかし、大勢力が主体になり構築した大規模築城ではなく、名倉奥平氏が主体に改修した普請であったことと考える。
 
  
 で、
 鍬塚城って、どこにあるの。

イメージ 32ここ。

★は平成27年10月から28年10月までの1年間に私が踏み歩いた東濃・三河・北遠の諸城(河尻城など一部消)。

なんで新潟のあいつ、こんな美濃三河遠州の山奥を歩き回っているんだ。
 って疑問に思われる方も多いと思う。

それは、プロローグで触れた奥平氏を原因とする。
後編では、その釈明と、搦手ルートと他の郭の様子を紹介します。














参考文献 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版

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