えいきの修学旅行

竹さんの『戦国の城の一生』、予約していたAmazonの他からも届く。二冊も手に入るぜ。

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                         旗持城
イメージ 1越後上郡頸城地方と中郡柏崎を繋ぐ米山峠を扼す要衝に位置する


橋は国道8号米山大橋。



払川から見上げる(標高366m)。




イメージ 2米山大橋より一段高く、山腹は北陸道自動車道が貫く















 
 旗持城は、御館の乱において景勝方の城として機能する。
 そしてこの城の陸海路の監視・掌握機能の重要を裏付けるように、旗持城・城将佐野左衛門は史料に登場する。

 天正6年9月2日北条丹後守宛上杉景虎書状

     「(前略)八崎被押着、籏持山如何様ニも及行可然候、(後略)」(上越市史別編1648)

イメージ 4北西麓鉢崎

















 同年10月7日遠藤等宛山浦国清書状

     「(前略)はたもち之儀、わうふく之さかい、是又節々飛脚・使者被差越、被入念可然候、一両日以前北丹人衆上府候、過分之人衆ニも無之候、(後略)」(同1692)

 同年10月24日には旗持城将である蓼沼藤七・佐野清左衛門尉に宛てて、景勝が、館(御館)での一戦で北条・清七郎(本庄)人数を追崩、討取、手負際限無伏出し、館際まで追籠、夜中に敵が米山三十里を通るの知らせ、往行之者討留候様 命じている(同1707)。

イメージ 3頸城春日山方向
















 
 翌7年、景勝は越中の河田長親の加勢(同1734)や北条丹後守討死(同1751)など重要な戦況を佐野に伝え、去る9日の北条の者共多数討取捕、大澤頸・生捕共々差遣(同1761)、青海川引付や鯨浪小屋属手(同1764)に対し感状(同1761)を与え、2月25日には琵琶嶋可働之に注意を与えている。

 3月3日、佐野は琵琶嶋(柏崎)から兵粮が枯渇する御館への海上輸送を妨害、船頭以下頸をとり、差登らせたことを景勝から賞されている。
 
 同7年3月3日佐野清左衛門尉宛上杉景勝書状

     「今度自琵琶嶋地館江兵粮入置処ニ、従其地賊舟共出、方々江押散、舟共取之、殊ニ上乗者、其外舟頭以下数多討捕、頸是迄指登候、(後略)」(同1784)

イメージ 5北陸道、海上ともに掌握
















 補給の途絶えた御館は、同月17日に落城、景虎は24日に鮫ノ尾城にて切腹する。

 景勝がこの城を抑え、越後上郡御館と中郡御館方有力武将本拠地との連絡を阻止したことが、御館の乱における景勝勝利へと導く鍵となったこと、 旗持城がいかに戦略上重要な城であったかわかるであろう。



   では城の様子

旗持城実測図(中世越後の歴史より引用・ブログ説明のため郭堀命名茶字加筆)
イメージ 38

山頂に主郭1、南尾根に郭2、北尾根にも小さい郭3.4.5を置く。
西がルートであろうか、西・南西にテラス状の腰郭を備える。
他の尾根筋は急峻だが、実戦の城であり油断なく切岸により処理している。天正6・7年の、尾根筋の切岸処理を見たく、近所の特権を利用し、雪消え直前のタイミングを狙いすまして挑んできた。












イメージ 6主郭南西隅に登山道が入る
















イメージ 21入河沢城のような明確な堀込みではないが、虎口であろうか













イメージ 7山頂主郭

















イメージ 34主郭から柏崎方向















イメージ 8北西が一段低く、さらに一段低い南西腰郭北端に接続していたように見える

しかし、実測図ではとられておらず、あるいは中越・中越沖とたてつづいた地震による地滑りかもしれない。
低く区画されたものならば、ここから南西腰郭に降りて主郭下を主郭監視下南に通過するルートも想定できよう。

イメージ 19主郭南西下腰郭

腰郭下方を登山道が横切る。

横堀状にはなっていないが、テラス状にルート監視ができる。








イメージ 20下方、登山道(ルートか)を頭上監視


















   北尾根

イメージ 9郭3

舌状だが郭を造作している。













イメージ 10下方に郭4

















イメージ 11さらに郭5

















イメージ 12その下方

一眼レフって枝が奇麗に映る。

胎姫神社あたりに接続しそうだが、降りれば登らなけらばならず(東・南尾根未確認のため)、そこまでは降りなかった。先日録画でみた間宮林蔵のような探検精神までには我は及ばない。
旗持城山頂の地籍は柏崎なので、険しいがあるいはこちらが大手か。



   東尾根

イメージ 13行く

私はここを確認に来たのだ。













イメージ 14東一段目

















イメージ 15壁際

浅く掘ってあるか。















イメージ 16切岸下に東2段目

こんな細い急峻な尾根筋だが、切岸加工は鋭い。

やはり、実戦の城の凄みで、油断も隙もない。








イメージ 17東3段目

















イメージ 18残雪部が東4段目



この先は踏み込み不可。














   南尾根

イメージ 35南には米山















イメージ 22堀アが区切る

堀アは堀というよりもルートを主要部へ迎え入れる関門にあたるかもしれない。










イメージ 33アの南に郭2

旗持城のなかでは主郭とともにスペースが求められた郭である。
左右(東西)に帯郭を備える。








イメージ 23東帯郭















イメージ 24西帯郭
















イメージ 25郭2の南はの堀イで遮断














イメージ 26堀イ

もっとも堀切らしい。













イメージ 27郭2下の削平の下

切岸による尾根の処理。












イメージ 28さらに下


切岸壁、削平の繰り返し。











イメージ 29残雪が堀の痕跡を顕しているが、さほど気合の入った堀切ではない












イメージ 30さらに下方

執拗な切岸壁、削平の造作。












イメージ 32行けるところまで















イメージ 31郭2の下方6段目までで中止

このようなところ、伝ってくるか、と思うが、実戦の城では油断があれば死である。










  まとめ

 旗持城は天正6〜7年における実戦の城である。登山シーズンは藪で確認できない尾根の処理を確認するため、このタイミングを狙って挑んだ。実見しなければ気が済まない。近所の特権でもあり、義務でもある。

 尾根筋は執拗に切岸、削平により侵入を妨害している。実戦の実相であろう。
しかし、急峻な山容ということもあろうが、城郭構造としては茶臼山城ほどの進化した工夫は見当たらない。雁金も類型としては同じであろう。これが天正6〜7年の越後頸城郡の城の姿である。


 直嶺、茶臼山、雁海、町田、鮫ヶ尾、不動山などの構造は、やはり一段新しい、あるいは築城主体が異なると考える。

  参考文献 上越市史別編2
 参考資料 花ヶ前盛明(1986)『中世越後の歴史』、新人物往来社、p.327



   登り口
イメージ 36このあたりhttps://yahoo.jp/r6arzK


堀アまで47分。











イメージ 37途中、お城坂(標柱は倒れている)

 登り口から28分。






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