えいきの修学旅行

竹井英文さんの『戦国の城の一生』、予約していたAmazonの他からも届く。二冊も手に入るぜ。

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                   犀川が善光寺平へ出るところ
イメージ 1犀川の渓谷を挟み小松原城、吉窪城が構えられている

平成30年の雪消えとともに私はここから犀川沿いに分け入り、私にとって未知の信濃の城達を2か月ほどかけて踏み歩いた。






イメージ 2天照寺裏手から登る林道有

天照寺はここhttps://yahoo.jp/MCzU3u











イメージ 3山上の果樹園・池跡の南西のピークが小松原城

果樹園・池の北東のピークを徘徊した時間を含み、天照寺裏から21分。









イメージ 4道がある

城道であろう。















イメージ 11Bにとりつく

















イメージ 12高所、郭1が監視する
















          小松原城概念図
イメージ 34愚図ですが宮坂武男『信濃の山城と館3』を参考にブログ説明用として書きました。郭・虎口名は同書に準拠し、郭1・3内の凹凸は略してあります。
 1が主郭で、周囲を土塁で囲い、北面は横堀を回して防備を固めている。
 他のエリアの塁線には土塁による防備を施している。














イメージ 13B付近は岩と土塁とで関門となっているようで小松原城の入り口であろう。

この時点で、戦闘よりも信仰を感じ取る。
城の入口(城門)というよりも岩の畏怖そのままの宗教施設の入口造作ではないか。




イメージ 5B開口内

窪状になり、土塁の仕切りがある。

窪・仕切りの奥は郭3。










イメージ 6郭3(後掲)には入らず、北上
















イメージ 9遮行した上に主郭虎口




















   主郭

イメージ 10主郭虎口

掘り込まれている。















イメージ 21主郭内

岩の凹凸と傾斜があり削平はできていない。

しかし、土塁で囲郭され、城としての備えはしっかり造られている。







イメージ 8郭内から虎口

















イメージ 20主郭南東隅からB監視状況

写真右下部、主郭よりも一段低い区画もB監視用途か。











イメージ 14中央やや南西の岩上に祠
















イメージ 7信仰心による造作

















イメージ 22祠から主郭郭内北東

犀川を視認。














イメージ 15囲郭土塁

















イメージ 16さらに横堀がつく

これは驚き。















イメージ 17第2から3回川中島対戦が行われた天文・弘治年間に横堀を構えていたのか

それはないであろう。

取り立ては、天正壬午の乱の上杉勢か。





イメージ 18横堀と囲郭土塁の二重塁線で主郭を守る

小松原城は、信仰の場を囲郭造作で城郭としたものと考える。









イメージ 19堀底

素晴らしい横堀陣地。
















   南部 郭2・3

イメージ 23主郭切岸したに、不整地だが、広く郭3

東にB。

西側、崖上高く三角形の郭2。

郭3は主郭・2よりも低く監視下にある。







イメージ 24角形の郭2

東端は主郭土塁が沿う。

主郭・2とで郭3を監視という意図を持った造作のようには感じない。
防御を意識した縄張りというよりも、元来の地形を活用した結果なのではないか。



イメージ 25主郭南西端から郭2・3東土塁
















イメージ 26天端

通路。


南西に郭4。










イメージ 27郭4

南から西に土塁を構える。
しかし、城の南西を守る郭にも感じない。

戦闘とは別の意図(機能)の郭ではないか。






イメージ 28A虎口から郭3

高所は主郭。

この城は宗教者の空間であろう。










イメージ 29A虎口

両脇に土塁。













イメージ 30郭3南部

切れる箇所もあるが、土塁が延びる。












イメージ 31南端へ向かう南西面土塁














イメージ 32西面土塁
















イメージ 33Bに戻った

防御施設としての畝や土塁ではなく、岩に宿る霊性を畏怖するままなのではないか。










  まとめ

 宮坂先生は、この地方は小田切氏の勢力範囲に属していることから、小松原城は小田切氏の犀川以南の要害城として使われたことを推定している。
  小田切氏は犀川対岸吉窪城を要害とし、犀川以南へも進出、戦国時代には上杉方に属し、小田切駿河守は葛尾城を守って討死、後武田に従い、さらに上杉に属し、一流は徳川旗本となったという。

 私は、城内の不整地状況、畏敬の念を抱く岩々の存在、郭のとり方が防御施設としての意図を感じないことから、宗教者の信仰・修行の場であったものを、戦国の情勢が緊迫したときに、武士が土塁と堀によって主郭となる宗教空間を囲郭(南面郭3側は急壁)し、城域となるエリアの塁線に土塁による防備を施すことによって、取り立てた城ではないかと考えている。
 あるいは小田切氏が宗教者であったのかもしれない。

参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館』、戎光祥出版、pp.236-7

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ここへは、一度訪れましたが、登城口が見つからず撤退しています。これを参考に、この秋ごろ訪城してみたいと思います。

2018/6/23(土) 午後 1:24 [ 馬念 ] 返信する

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お寺の裏に山道があります。果樹園・小屋まで登り、池跡側左手です。私も最初は小屋の右手、犀川側の山上を徘徊し、途方にくれました。

2018/6/23(土) 午後 9:29 [ えいき ] 返信する

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