えいきの修学旅行

竹さんの『戦国の城の一生』、予約していたAmazonの他からも届く。二冊も手に入るぜ。

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柏鉢から北上、戸隠栃原地区に進みます。

イメージ 2戸隠は、飯縄山の西まわりで越後と犀川流域から麻績あるいは安曇野へと繋ぐ。
善光寺平を中野まで進み北上する現在の国道18号ルートよりも1日、また飯山から北上する国道292号ルートよりも2〜3日早く越後と犀川流域あるいは安曇野を連絡することができる。

戸隠栃原地区は、越後を目指す信玄、越後を守る謙信、時期が下って麻績・安曇野を勢力下に置きたい景勝にとって、山間地とはいえ戦略上重要なエリアであろう。

 戸隠村の中央部栃原地区に、戦国期の城館が複数存在する。
 栃原地区に所在する城館は、戸隠山宗教勢力によるものではなく、在地武士の城館である。

 聞き取りで、栃原の馬は、雪が解けると新潟県の妙高へ馬の出稼ぎ(農作業)に行ったというお話を伺った。長野(善光寺平)とはあまり行き来はなかったが、妙高とは繋がりがあったという。

イメージ 1戸隠栃原地区遠望

盆地の主城福平城を中心に、詰の城大築城、他の円光寺館、大昌寺山城、古城、高城、鬼ヶ城などが福平城を求心にして群集する。







イメージ 3居館とされる円光寺館から主城福平城














イメージ 5山上にも城、城、城





高城は平成30年8月現在、未踏

先方衆、相模小太郎さん同行ですら、辿り着くことができなかった

そんな戸隠の城館を、9月いっぱいかけて福平城、円光寺館、大昌寺山城、古城、大築城、鬼ヶ城の順で紹介しようと思います(掲載順変更あるかもしれません)。




 戸隠山宗教勢力の動向も、大藪宏(1996)『戸隠山物語』を参考に記しておく。

 弘治三年(1557)年第三次川中島合戦の頃、武田は飯縄山と戸隠山に帰順を呼び掛けた。飯縄山の千日太夫は武田に服したが、戸隠山の衆徒はその要請を無視、2月17日に侵攻を受ける。戸隠山の衆徒は越後領内の関山に避難した。越後勢が旭山城を再興し、犀川以北を回復すると6月には戸隠山の衆徒は関山から帰還した。しかし、翌永禄元年には、武田側に就くことを固める。8月、信玄は戸隠山大権現に甲越の戦いの戦勝を祈願した。翌2年、武田勢が越後境に侵攻するも越後勢の反撃にあい、戸隠山も越後勢の侵入を受け、衆徒は鬼無里や小川郷に避難した。9月に入ると越後勢は駆逐され、衆徒は帰還するが、同7年には奥院祇乗坊真祐は衆徒80人余りとともに戸隠山の三院を戦火の及ばない小川郷の筏ヶ峰へ移した。時代は下り文禄3年(1594)、45代別当賢栄は景勝の後援を得て戸隠山の大々的な再建に乗りだした。

 参考文献 大藪宏(1996)『戸隠山物語』、保険毎日新聞社、pp.69-73

                    
                       戸隠
イメージ 4右方背後に妙高山がぽっこり

なぜ信濃の国の空はこのように美しいのか。














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