えいきの修学旅行

練習としてアメーバブログに飛騨の久々野6/22、牛臥山6/26、切手7/1の3城を投稿します。

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     前記事牧野島城前振りからご覧下さい。

     https://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/20097955.html               


   
  丸馬出・主郭東枡形

イメージ 1三日月掘と丸馬出

典型的な武田城郭構造だが、武田構築ではないと書いた。

撮影地脇には犀川側に掘り込みあり。









イメージ 2犀川側掘り込み

















 イメージ 3三日月堀

















イメージ 4川側から馬出内へ
















イメージ 5丸馬出

















イメージ 6主郭東枡形と丸馬出との接続

橋の奥、玄蕃稲荷社が張出、横矢を受ける。











イメージ 7主郭東枡形への架橋
















イメージ 8橋には張り出した玄蕃稲荷社からの横矢が掛かる
堀幅が変わる。後に土塁を削って張出を創出したのではないか。











イメージ 9主郭東枡形へ

と、その前に振り返る。














イメージ 10城側から丸馬出

















イメージ 11主郭東枡形

城内へ向かって、左から入り、右抜け。
内開口(城門)は、狭まり、乗り越え造作があり、停止を余儀なくされる。突破を計る敵兵は、両側土塁は分厚く、土塁上からの頭上挟撃を受ける。





 見事な枡形であるが、先(武田期)に構築されて在った土塁を、後(上杉あるいは徳川期)に刳り貫いて構築されたのものではないだろうか。

イメージ 12狭まり、乗り越える造作

一旦停止。














イメージ 13牧之島城主郭

写真左犀川側を除き、土塁と堀に守られている。













イメージ 14主郭側から枡形

刳り貫き構築にみえる。














イメージ 16主郭内から南東塁線 

主郭東は城外と接続せず、元々(武田期)は堀と分厚い土塁で守っていたのであろう。それを刳り貫いて東枡形を設け、架橋した外に丸馬出を設けたのだろう。





この城の典型的な武田城郭の売りとして語られることの多い主郭東両袖枡形と丸馬出は、後代の構築と考える。


イメージ 15玄蕃稲荷社から丸馬出ー主郭東枡形への横矢視界


この玄蕃稲荷社が鎮座する北東土塁上は、二の丸・主郭北枡形ー二の丸にも横矢を掛ける。







イメージ 17玄蕃稲荷社から主郭北枡形ー二の丸への横矢視界
















   
  主郭北枡形

イメージ 18主郭内から北東塁線

開口部は四脚門があり、櫓門を想定(宮坂2)。











イメージ 19
こちらはフラットに出入りする

城内側が両袖になっている。












イメージ 20土塁上から

木橋の袂は冠木門を想定(同前)。
橋は工事中。


こちらの桝形は土塁と一体として同時に構築された構造であり、武田期に構築された両袖枡形虎口であろう。




イメージ 21二の丸から

中央やや左から入り、右抜け。















   
  西

イメージ 22北隅

郭内隅に井戸跡、土塁上に馬場信房之城址の碑。












イメージ 23南西塁線の南部に切口あり

北、東のような枡形構造ではない。













イメージ 24外は西の堀で左(南は)犀川の断崖
















イメージ 25南西土塁上

















イメージ 26土塁上から西の二重掘


凄えーという驚きと、安全地帯であるはずの半島先に向けてこのような防御が要るのかという疑問が織り交ざる。








イメージ 30内側の堀















イメージ 29明確な箱掘















イメージ 28外側の堀

銃撃戦闘を想定した構造であろう。

方面ということで考えれば対小笠原勢を想定した景勝の構築であろうか。








イメージ 27西二重堀の外から牧之島城中枢
















  まとめ

 武田の典型的な武田城郭として著名な牧之島城の現遺構を、その典型の根拠となる丸馬出、三日月掘、枡形虎口を、東の両袖枡形虎口以外は武田の構築ではないとひねくれて観た。
 多田暢久、石川浩治、馬念さんの先行研究でも、同様の捉え方をしているが、近年の著名なガイドブックや現地説明板等では、多く、武田の典型的な城郭として書かれている。
 牧之島城を訪れる人の多くは、その三日月掘・丸馬出・東枡形虎口を目にし、武田の典型的な城と理解し、その姿に魅了されることであろうが、それは間違った歴史認識に基づく情報から得た知識ということになる。
 私はひねくれ派ということになるが、こういった見方もあるということを微力ながら発信した。
 信濃の城の魅力を深める一助になれば幸いである。




 参考文献・サイト

 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版、pp.450-452
 数野雅彦(2002)「武田系城郭の枡形虎口について」、『織豊城郭』第9号、織豊期城郭研究会、p.73
 
 馬念(2015)「牧之島城 」その壱・弐、『古城の風景』


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おもしろいです。勉強になりました。
近くにある犀川交流センターに一泊して見に行ったのが懐かしい。

自分は武田在城時は岡城のような構造であったのかなと
想像しておりました。

武田の桝形はどの特徴で判断してるんですかね?
桝形の食い違い構造のズレの大きさとかですかね?

2019/3/2(土) 午後 7:04 [ kby*c97* ]

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ヤフーブログ終了の知らせに消沈しておりました。書き込みいただき、少々元気が出てきました。ありがとうございました。
ここで武田の枡形としているのは両袖枡形です。
私が主郭東枡形を武田ではないと考えた根拠は、枡形形態ではなく、丸馬出が守っていることと、元々在った土塁を刳り貫いて後から構築していることです。
岡城をご覧になられたのであれば、お分かりいただけると思いますが、岡城、新府城、長沼城、海津城など、武田の丸馬出は、その時の外郭出入口に設けられる傾向があります。牧之島城は、主郭北枡形から二の丸を経て東に出る導線が考えられますので、主郭東辺は堀と土塁によって防御(遮断)されていたと考えます。すると、二の丸から東に出る出入口・古図に並んで描かれた丸馬出の北のそれが守るところが外郭出入口にあたると考えます。後代、なんらかの理由があって、主郭東に出入口(東枡形)を設け、それに付随して復元された現丸馬出も構築されたものと考えます。続きます。

2019/3/2(土) 午後 10:33 [ えいき ]

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ちなみに、従来武田の典型的な城郭とされていた遠江諏訪原城は、発掘調査の成果から、焼土層の下層面を武田期の、焼土層のない一面上構造を家忠日記に記載される天正三年以降の徳川期の普請とされ、二〇一八年に島田市教育委員会から発行された『史跡 諏訪原城跡』にでは、主郭両袖桝形虎口、二の丸丸馬出は、徳川により構築された構造と明記されています。
喰い違いのずれに関しては、数野論文で武田氏館西曲輪北側枡形虎口は、一号門と二号門は直線から二折れ(食い違い)に、さらに二時期の変遷を考察しています。また時期だけでなく城の格によっても違いがあると考えています。なので武田とはいっても特徴は一様では捉え難いです。
性分なもので、くどくなってしまい、申し訳ありません

2019/3/2(土) 午後 10:59 [ えいき ]

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すみません、申し遅れました。東濃のMです。
詳細なご説明恐れ入ります。ありがたいです。
このブログ自体が貴重な財産なので安定したサービスに
どうにか移管されることができればと思います。
桝形にそれほど深い考察がなされているとは思いませんでした。
発掘調査の結果だけを見聞きしても
いまいち把握しきれないことがあるので
背景や研究者の考察を知ることができれば理解が進みます。
ほんの2、30年前までは城郭研究は
趣味の世界と言われていたようですが、
現在では立派な史学研究の一分野になっていることが
学ぶほど認識できます。
しかしおもしろいですね。また深い。

2019/3/3(日) 午後 10:08 [ kby*c97* ]

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Mさんでしたか。少々あせりました。次の遠征(来週か再来週)は東濃の仕上げに行きますので、天気見ながら連絡差し上げます。

2019/3/3(日) 午後 10:30 [ えいき ]

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ご一緒できたら幸いです。自分も回らないと。今年は雪が少ないから飛騨高山行くべきだと焦っています。

2019/3/4(月) 午後 6:48 [ kby*c97* ]


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