えいきの修学旅行

今年3回ほど遭難しかけたのでガーミン購入。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全131ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

 
 三木で徳川城郭に触れたので、徳川城郭をいきましょう。

 佐久城見取り図(佐久城公園駐車場に設置・ブログ掲載用に必要部分を切り取り)
イメージ 1
南郭は消滅しているが、主郭、主郭出入口、馬出の遺構が明瞭に残る。

駐車場はここhttps://yahoo.jp/hRq7bj











 現地説明板によれば、浜名氏の居城であったが、永禄11年(1568)、遠江に侵入した徳川勢に対し、今川方として抗戦、降伏した。以後、徳川家臣本多桃助信俊が守備した。天正11年、野地城構築により廃城になったとされている。

 私は天正12〜14年時期でもいいように思うが、天正11年段階における徳川城郭の馬出、枡形出入口ということになる。

イメージ 20主郭枡形から馬出

















イメージ 32うい

















イメージ 2側面の出入口から

兵を容れ、主郭出入口を守る。














イメージ 3馬出の前面土塁

















イメージ 6馬出土塁上から前面の堀
















イメージ 5直上から


















イメージ 7土塁上から馬出への出入口


側面(写真左)から馬出に入り、折れ(上へ)、主郭出入口へ至る土橋に進む








イメージ 8土橋

枡形で食い違い、主郭へと入るが、これは後ほど。













イメージ 4主郭に向かって土橋右の堀
















イメージ 9左の堀
















                     
イメージ 10
主郭枡形へ至る




















   主郭

イメージ 11桝形は郭内よりも高く造作されている

奥は西面猪鼻湖。
湖側には土塁を備えない。












イメージ 14郭内から枡形

















イメージ 28南西側土塁上から枡形を監視
















イメージ 29南西土塁上から枡形前の土橋

完全監視。














イメージ 27南側土塁上から土橋と枡形
















イメージ 31土塁上から堀

土塁の高さも加わり、頑強である。

対岸は馬出。












イメージ 18主郭内から土塁線


土塁は強固な造りで、土塁下の堀とで頑強に主郭を守る。













イメージ 12南西

















イメージ 13主郭内 北

井戸がある。















イメージ 15井戸

井戸背後は東面土塁。














イメージ 16東面土塁


















イメージ 19西から北面は猪鼻湖
















イメージ 17北に搦手

湖への降り口か。















イメージ 21搦手

















イメージ 22枡形とまではいかないが、一段あるか
















イメージ 24急な坂屈曲導線

舟運からの物資搬入には向かないのではないか。













イメージ 23降りた

















イメージ 25猪鼻湖

















イメージ 26美しい

















イメージ 30対岸から佐久城

















 参考文献 現地説明板

 三木の畝堀と同時期の徳川城郭、如何でした。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

         一連の砦群、ラストになります

         寺洞砦・オトシ砦
イメージ 1本記事は、宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』を参考に、堀・郭名・測値を同書に拠り記述します。

位置は高堂城https://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/20157867.htmlをご覧ください。




蓬ヶ洞砦同様、金森勢の来襲に備えて急造された砦と思われる。
畝堀は蓬ヶ洞砦に比べて不完全で、Ⅱ砦、オトシ砦には見られない。急造したが間に合わなかったのかもしれない。

イメージ 2蓬ヶ洞Ⅰの砦から東に降り、60mほどに堀がある

片落としで遮断意図は弱い。












イメージ 3そのまま進み

















イメージ 4このピーク上が寺洞Ⅰ砦
















イメージ 5寺洞Ⅰ砦 郭1

東西40m、南北最大16mで辺縁に武者走り状の削平はあるが、内部は甘い。未完の様相か。










イメージ 9切岸下に畝堀

切岸は出来ている。















イメージ 12切岸下、通路や空間は無く、直に畝堀が敷設されている














イメージ 8


















イメージ 14しかし、不明瞭な畝堀も多い
















イメージ 10未普請を思わせるところもある
















イメージ 6南尾根 堀ア

この尾根を降ると広瀬城との鞍部(名張配水池)に至るが、藪度は中の上。











イメージ 7斜から


















イメージ 11東尾根

堀切はなく、オトシ砦に至る。














イメージ 13北尾根方向

切岸下に畝堀、堀イ(堀というより切岸)。

Ⅱ砦に至る。














   Ⅱ砦

イメージ 15100m降り、堀ウ

ウの北が寺洞Ⅱ砦















イメージ 16堀ウ

















イメージ 17西掘下げ















イメージ 18東掘下げ
















イメージ 19郭2(寺洞Ⅱ砦主郭)
削平は甘い。














イメージ 20先の堀ウ

Ⅰ砦側遮断の意図は、?













イメージ 21他は3〜5mの切岸下に、畝堀ではなく武者走り状の帯郭が周る

写真、切岸壁高さがわかりにくい。









イメージ 25こっちの写真のほうがわかりやすいか














イメージ 26横堀ではなく、畝堀敷設もない

あるいは、畝堀敷設前の状態か。












イメージ 28北西に竪堀オ
















イメージ 27北東に竪堀エ
















イメージ 22北東尾根は武者走り下に堀カ

50m先の尾根の頭に郭4












イメージ 23郭4
















イメージ 24北東尾根からⅡ砦
写真は素で

主郭

武者走り


堀カ











   オトシ砦

イメージ 29Ⅱ砦の東尾根を約150m下った小山上がオトシ砦













イメージ 3014×13mの円頂で、ほぼ地山のままのよう
 広瀬城の大手筋と搦手への峠道を見張る。










イメージ 31切岸といえない数m下方に腰郭が巻いている

















 Ⅱ砦、オトシ砦は郭内削平、畝堀は、施工前であったかもしれない。未完なのか、あるいは、これが元々の三木の砦構造で、畝堀は、天正13年時に金森勢襲来に備えて急遽増強のため付加したのかもしれない。

 昨年、同時期の対豊臣戦を意識した三河・遠江・駿河の徳川城郭を歩いた。
 越中は、もう随分前か。
 三木ー佐々ー徳川は対豊臣同盟者。
 豊臣勢を撃退した徳川城郭(14年は地震による中止のようだが)は、出入口に枡形と馬出を構え、堀は深さ・幅とも三木レベルを凌駕する。
 織豊武将である越中の佐々は許された。
 近代的装備の金森勢に、畝堀で対抗しようとした三木は敗れ、滅亡した。
 運命と因は繋がっていると感じた。

参考文献 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、pp.248-9


開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

                 つづいて蓬ヶ洞砦
イメージ 43本記事は、宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』を参考に、堀・郭名・測値を同書に拠り記述します。

位置は高堂城https://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/20157867.htmlをご覧ください。




 蓬ヶ洞砦は高堂城と広瀬城の間に位置する。文献・史料はないが、広瀬城と同類の畝状施設、横堀が設けられ、天正13年、金森勢の侵攻に備えて広瀬城防御態勢を整えた時期に、同城の背後を固める意図で構築されたのものであろう。

 ただし、蓬ヶ洞Ⅰの砦は、郭2は畝堀ではなく横堀が守り、郭1は横堀ではなく畝堀が守るという構造の差が有る。

イメージ 1Ⅰの砦堀ウから北西約80m付近(砦高堂城大手側)に物見場となる3を置く













イメージ 2Ⅰの砦方向に下り、暗部に片落としの堀イ















イメージ 3堀イ

















イメージ 4Ⅰの砦側から堀イと物見3
















                      Ⅰの砦へ

イメージ 5高所がⅠの砦

こちら(西)側に堀ウ、郭2が置かれている。













イメージ 6堀ウと郭2

堀ウは西を遮断し、南と北に横堀として巡り2を守る。













イメージ 7堀ウ南への遮断掘下げ
















イメージ 9南横堀線

















イメージ 8北遮断掘下げ

















イメージ 10郭2

奥、堀エで隔て、郭1。

郭1側面は圧巻の畝堀群。










イメージ 11郭1から郭2

















イメージ 28上写真左(南)側面


郭2は遮断堀切と横堀で守られている。
















   蓬ヶ洞Ⅰの砦 郭1
 
イメージ 12郭1

東西62m、南北最大幅25m、削平は緩い。土塁は備えず、東(写真奥)は堀カ、西(手前)は堀エで遮断、西は郭2を置く。
写真の両側、北(左)と南(右)には執拗な畝掘が敷設されている。南はⅡ砦に繋がるが、一条の竪堀は横堀を伴い、制限された連絡を構築している。

イメージ 13堀エ北掘下げ

郭1側に土塁を伴う。













イメージ 36城内畝堀側から堀エ北掘下げと土塁

なかなかエグい。














イメージ 14南掘下げ

















                  砦の東域を区切る堀カ

イメージ 19堀カ

この尾根先方向役140mに寺洞砦。













イメージ 20南掘り下げは、城内外両側に土塁を伴う















イメージ 41北側から堀カ
  
北掘下げは城内側に土塁を伴わない。








                                        

                    北面 畝堀群ケ

イメージ 21エの城内側土塁に引き続き、畝堀が敷設される














イメージ 22横堀連結の放射ではない
















イメージ 155mの切岸下に18条














イメージ 16





















               南面畝堀群ク、キ、オ(横堀連結)

イメージ 17キは12条















イメージ 18




















イメージ 23
クは10条

















イメージ 24キとの間がⅡの砦(南95m)に連絡する南尾根で、その部分は一条の長い竪堀オが途中に横堀をL型に付随させ、おそらく通行を統制する構えを見せる。









イメージ 25堀オ
















イメージ 26オ横堀部

















イメージ 27Ⅱの砦側から

左の堀残しが通行可能。














 畝堀採用と横堀採用の差は、畝堀は潰し、横堀は陣地としても使用という運用意図の差か。
 月芳さんとも話したが、畝堀は確かに横移動が制限される。帯郭や横堀に配置する兵の数が足りなかったので、畝堀で帯郭を潰したのではないだろうか。



   蓬ヶ洞Ⅱの砦

イメージ 29郭4単郭の砦で、前後(南北)の尾根を堀シ・ス、コで遮断、両側(東西)をソ、セの畝堀群が守る












イメージ 31郭4

南北45m、東西最大幅14m。
辺縁は武者走り状の削平がなされているが、内部の削平は不完全で、急造、未完が想定される。








イメージ 32北を遮断する堀コ
















                                                                                          
                          東面

イメージ 33東面は13条の畝堀群ソ
















イメージ 303〜6mの切岸下、帯郭を潰すような敷設
















イメージ 35宮坂先生は、とっていないが、郭4から降る、長い竪堀が一条ある

主郭内からの排泄用途も考えられるのではないか。










                       西面

イメージ 37畝堀群セ

不明瞭なものも含め12条を想定。












イメージ 34北より支尾根に堀サ














                            
                               
                        南             

イメージ 38郭4南部

南端は堀シ、スの二重堀切で遮断する。












イメージ 39南端 堀シ、ス















イメージ 40もう一枚
















イメージ 42Ⅰの砦から北方の視界
















参考文献 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、pp.246-7

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

 卒業研究が一段落。3週間ほど余裕がありますのでブログ書きます。
 やはり、論文よりも写真ふんだんに使って好き放題書けるブログの方がいいです。
 ヤフーブログ閉鎖はショックですが、最近は多くの方に当「えいきの修学旅行」をご覧いただけるようになり、光栄に思っています。全体訪問者数が10万カウントに届きそうです。
                    
                    書くのは飛騨
イメージ 1



















イメージ 2地理院地図にマーク

高堂城は、広瀬氏が山崎城から移り、居城としたが、三木氏に滅ぼされ、三木氏の城となったようだ。
天正13年の金森勢による侵攻には、三木氏は広瀬城を中心とした防御態勢で備えた(高堂城には畝型施設が無)ようで、一帯には畝型施設(阻塞・竪堀)を設けた砦群が密集します。


らんまる攻城戦記に三木悲話伝説ありhttp://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-809.html
記事中の4枚目写真にいつぞやの私(青いやつ)が写っています。なぜか、記事とは関連がない登場で、ミステリーです。

 広瀬城は2013年に書きました。
 
 6年ぶりとなる飛騨は、友達月芳さんと組んで徘徊しました。
 打ち合わせのメールでは、はじめ、「梨打、蓬ヶ洞、尾崎あたり」となっていて、高堂は山深くパスだなと了解の返事をしたら、次のメールでは「高堂、梨打あたり」、となっていて、うっ、高堂になっていて、恐れつつも了解の返事をし、覚悟を定め、家を出ました。

 車が二台あったので、私の車を広瀬城とオトシ砦の間に置き、月芳さんの車を瓜巣公民館に駐車、瓜巣側から高堂城へと登り、高堂城→蓬ヶ洞→寺洞→オトシ砦へと下りつつ徘徊しました。
 最終のオトシ砦では、消耗の為か一時前後不覚に陥るほどの修行でした。
 独行では大変(断念か遭難も)なことになっていたかもしれません。月芳さん、ありがとうございました。

 高堂城は、上記城砦群のなかでは三木時代の改修を受けなかったようです。
 広瀬時代の飛騨の山城の姿を、ご覧ください。

                     高堂城登り口
イメージ 3ここ

林道、数百m車で入ることができますが、公民館に停めさせていただきました。

高堂城主郭まで、比高約250m。





イメージ 4土橋状にウキウキ

登り口から22分。

宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』(1・以下宮坂先生・記事中、郭・堀名、測値は同書に拠る)によると、東尾根馬止めまでは馬が登るとあり、しっかりとした道がつく。

イメージ 5抉ってあるようにみえる














イメージ 6大手尾根

側面に帯郭上の削平が付随する。












イメージ 7帯郭状の削平段

南西の付け根に北尾根からの連絡路が入る。高堂徘徊後、ここに戻ってきた。









イメージ 9東尾根石積を見上げつつ、馬止へ


















 
   東尾根

イメージ 8馬止め















イメージ 10奥(東)、意図段高く郭8














イメージ 11郭8東端

出入口造作か、片凹み。












イメージ 12切岸下に堀ア

6年前も感じたが、飛騨の城は、堀よりも切岸・壁による遮断が標準仕様のようだ。









イメージ 13馬蹄段が続く















イメージ 14郭9















イメージ 15堀長い先端が物見台














イメージ 16物見台
















                   馬止めに戻ります

イメージ 17馬止めの上方

馬蹄段、石積の造作がある。

上方、郭7、6を経て山頂主郭1。









イメージ 18石積は、大手の主要関門を示す造作であろうか

















   山頂主要部

イメージ 19山頂

説明板裏にQRコードの情報あり。












イメージ 43高堂城主郭1















イメージ 20東尾根からの入り

出入口造作はわからない。












イメージ 21大手筋東尾根への備え

郭6、その下方に郭7。

東尾根は先述。









イメージ 42飛騨の国

信濃とも美濃とも趣が異なる。












イメージ 26北下方

郭4、5を配す。

郭4は帯郭状に郭6と繋がる。











イメージ 28郭4から主郭















イメージ 27郭4北下方、郭5

防御は堀によらず、切岸による。


北尾根後述。










イメージ 22
主郭南西部















イメージ 23南西下方に郭2















イメージ 24郭2は西に腕のように伸び、下方に郭3を抱く

郭3から西尾根、南尾根が派生する。











イメージ 25西尾根

城郭造作はないようだ。















 
   南尾根
 
イメージ 29郭3から馬蹄段を経て、約200m先に郭10を中核とする一帯が備えている












イメージ 30高所が郭10

両脇に戦艦のように帯郭が付随する。












イメージ 31郭10
















イメージ 32木の抜け後か、平坦ではない















堀ア(月芳さん)イメージ 33

緩い…。
















   北尾根

イメージ 34郭5先端


郭5は、10mほどの切岸で聳え、城中、最も堅固に思えた。











イメージ 35下から郭5切岸















イメージ 37なかなかの威容である















イメージ 36下方、左右から交互に重なり合う段が、緻密な設定で造作されている












イメージ 38月芳さん、モーグルスキーのアスリートのよう














イメージ 39標高690mラインに大手尾根への連絡路あり













イメージ 40大手尾根への連絡路














イメージ 41675,670mラインの二段削平

要注意:このラインからは、現状では大手尾根への路を確認できない。












   まとめ

 高堂城には、三木氏が用いた城郭構造である畝型施設(阻塞・竪堀)や横堀は設けられていない。
 堀は緩く遮断機能は弱い。切岸による壁が防御の要であったようだ。
 三木氏の改修は施されず、広瀬時代の城の姿であろう。

参考文献
(1)宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、pp.254-8

  
   おまけ
           高堂城とは趣が異なる蓬ヶ洞Ⅰ砦の畝状竪堀
イメージ 44

















開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

                        滝境城
イメージ 1
高天神城と小山城をつなぐ位置、駿河湾を臨む台地上に築かれている

武田高天神を攻略、あるいは死守するに際し、重要な役割を果たしたことであろう城である。
位置・主郭にマーク:https://yahoo.jp/QrHPK0




イメージ 2郭配置概要

地理院地図に、鈴木東洋(1991)「滝堺城「ここにも高天神城のそれと似た遺構があった」(以下鈴木論文)掲載縄張図に準拠し、郭名番号、横堀位置を書き込んだ。

1が主郭とされ、台地先端3から1-2-4-5と間に堀を入れながら数珠のように繋がっている。1の西には畝を敷設された武田の横堀が巡る(これが私のターゲット)。4は、丸ではない武田の馬出である。

崖に守られた台地上に、広い郭スペースが確保され、高天神へ補給・後詰する物資・軍勢の収容が可能である。





  
  主要部

イメージ 3軍団を収容できるスペースが確保されている















イメージ 6郭2-1間の堀は、埋められたかもしれないが、現況では強固な構造ではない

区切りを意図した構造か。

台地先端方向には郭3(後掲)。

西辺縁下には横堀が巡る。これが私のターゲット。



イメージ 5西辺縁

















イメージ 4畝を視認

しかし、11月は降下を試みるが、崖が険しく叶わず。

2月に覚悟を定め、再訪、執念で降下、撮影に成功。








イメージ 7滝境城横堀

畝が仕切っている。















イメージ 8仕切られ、遮られ、喜悦
















イメージ 9仕切った畝の南の横堀
















 鈴木論文では、元亀元年(1570)から同二年の武田氏と後北条氏の敵対状況における接触時に、武田氏が後北条氏の築城法を長所をとりいれたと想像、滝境城の成立時期との一致を指摘し、「後北条氏のそれより、畝間隔が少し長く、畝即ち障子の高さも比較的低く、高天神の場合と似ている」と評価している。

イメージ 11

















イメージ 12南から

















イメージ 10畝も興味深いが、横堀の凄味も強烈
















イメージ 13もう一条

















イメージ 14
うぃ、鬼気迫る

天正3年、信長、家康そろって討ち取ろうとした勝頼の心とは違う。














   郭2の東にひと尾根おあり、堀切と堡塁状の小郭がある

イメージ 24郭2東のひと尾根

















イメージ 25しかし踏み込まず

















イメージ 15郭1の南(先端方向)は堀で縊り、土橋で郭3に接続する

















  南(先端方向)
 
イメージ 16両側を縊り、土橋で接続する
















イメージ 23郭3側から接続土橋

鈴木論文によると右(東)側の堀には城山坂からの道が通っていたようである。

しかし、道を確認する勇気はなかった・・・。







イメージ 19郭3
 
両側の崖がすごい。














イメージ 17茶畑農家さんに「落ちんように気をつけい」と忠告いただいた














イメージ 18南東、堀で区切ってもう一郭
















イメージ 22先端崖下にももう一郭あるようだが、降りず















イメージ 20駿河湾

















イメージ 21富士山


















 
  北(台地方向)

イメージ 26郭2と5の間には馬出郭4が配されている
 
土橋(道)のように見えるが道の脇は平場で、堀で縊られた馬出郭である。

丸馬出形状ではない。
外郭出入口でないことと城の格によると考える。



イメージ 27郭5と馬出を区画する東の堀
















イメージ 28郭5

















イメージ 29郭5の台地側出入口

ここが外郭出入口にあたり、左(西)に二重堀切、右(東)に郭6との区切りとなる堀(道)が谷となって守る。








イメージ 31西 城内側の堀
















イメージ 32西 城外側の堀
















イメージ 30東 郭6と隔てる堀(道)

谷となる。













イメージ 36台地から滝境城入口

郭6は関門外であり、嶮しい谷に隔てられているため、城の郭外にあたるのではないだろうか。








イメージ 34左が郭6















イメージ 35郭6から郭2

谷により隔たる。














イメージ 33関門外台地



















 参考文献

 鈴木東洋(1991)「滝堺城「ここにも高天神城のそれと似た遺構があった」、『古城』第35号、静岡古城研究会 

開く コメント(2)

開く トラックバック(0)

全131ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事