えいきの修学旅行

田立の掃討して飛騨へ。宮地、楢尾山、萩原諏訪、桜洞、為坪、久々野、牛臥山、切手の偵察。

日記

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ひと山越えて

金沢で試験があり、1010直江津発のはくたかで向かう。直江津駅で、思いがけず「はくたか」「くびき野」「妙高」のスリーショット。北陸新幹線が開業する来春には、みんななくなってしまうから貴重かも。
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1300試験開始で1時間前に金沢着の予定が、市振駅で70分停車…。
40分遅刻で2科目受験のところ1科目のみ回答。
1科目は虚を突かれた設題で、どのみち降伏だったが…。
 
イメージ 2帰りのはくたかまで1時間あり、前田土佐家資料館を修学。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
前田土佐家の養生訓 ー加賀藩上級武士の医療ーという企画展がされていて、高貴であっても、近代以前の寿命の儚さが私には沁みた。
戦場に携帯した薬として資料45戦場携帯薬書上、46戦場携帯薬用法・効能、47金創医術秘薬という出品があった。詳しい展示解説はなかったので、より知りたくて質問したが、学芸員さん不在ということで、詳細がわからなかった。で、後日学芸員さん出勤日に照会させていただくことにした。その依頼をするにあたっての自己紹介が複雑で、自分の複雑さに失笑してしまった。
 
試験も済んだので(再試があるが)三度目の埼玉遠征に向かおうか。
埼玉に出るには、長野県を抜けなければならず(関越というルートもあるが)、すでにかの気高い信濃は最低気温5度なんてでてる。
往復が朝夕だと凍りそうになる。

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イメージ 153名の参加を得、2014上地流空手道協会新潟県支部合宿を開催しました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2上地流の根幹、三戦の型
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3型の分解
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7突き
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4蹴り
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5ミット練習
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6組手練習
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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乾杯!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一大イベント無事済んで、ほっとしています。
 
今年は怪我もあり、思うようにお城めぐりできませんでしたが、ぼちぼち再開しようと思っています。
目下、伊藤論文のフィールドの八幡山・秩父や、松山小川町周辺の埼玉への遠征と、北信の月生・雨引・大岩の三城襲撃を企んでいます。埼玉は3次程度の反復遠征になりそうです。北信は、らんまるさんのブログを拝見するとなかなか険難そうで、躊躇しながら予習しています。
叶えば米沢館山城、今年の最終目標能登七尾城に行けたらいいかな。
今年もあと三か月、ぜんぜんボチボチではなく心は全開気味です。
 
そういえば10月11月は3科目試験申し込んでいたような…。

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主催空手大会の一週間前、転倒し、鎖骨を骨折してしまいました。一週間仕事を休み手術し、退院しました。
諸方に迷惑をかけ、諸方のご助力によりなんとか大会開催にこぎつけることができました。
大事の前は自重しなければなりませんね。
大会終了しても、手綱をとれませんのでお城はしばらく預けです。
仙台講演聴講も企てていたのですが、こちらは介護者にお世話になってしまったので理解を求めがたく、断念します

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うちの空手の会報に「第一義に至る道」と題して、上地流空手道修行が謙信の掲げた第一義に至る道に通じているということを作文しました。
 
第一義とは、謙信が、正義や義理を第一の旨とし掲げ戦国を戦った語として世上流布していますが、本来の意味はそうではなく、仏教の真理を顕す語であり、般若心経・空の教えを例えていった語であることを臨済禅の素録『碧巌録』を基に説明しました。
我々の修行する空手の空も、その般若心経の空から頂いたこと、そして、琉球大学法文学部助教授であった中村完が1981年に発表した「空手道形の生体反応に関する生理心理学的研究」という論文を科学的根拠に、2011年に私がまとめ配布した「上地流呼吸法の手引き」とを合わせ、上地流空手道の三戦(さんちん)を無我的心理の体験修行と意義付け、上地流空手道修行が謙信の掲げた第一義に至る道に通じているという論述です。
宗家上地完明先生が東京大会のプログラム寄せた呼吸の意義付けと相通じる内容で、新潟の上地流空手道の根幹となる意義付けです。
 
空手のところは上地流経験者でないと理解しがたいですが、興味ございましたら一読ください。
 

 
 
第一義に至る道
                           師範 えいき
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写真は、謙信の書とされる扁額で、林泉寺山門に掲げられている。
第一義(だいいちぎ)は、世上、謙信が、正義や義理を第一の旨とし掲げ戦国を戦った語として流布している。しかし、本来の意味はそうではない。
臨済禅の素録『碧巌録』第一則に以下のようにある。
 
梁武帝、問達磨大師、如何是聖諦第一義。磨云、廓念無聖。  
 
読み下すと、梁(りょう)の武帝、達磨大師に問う。「如何なるか是れ聖諦(しょうたい)第一義」。磨云く、「廓念無聖(かくねんむしょう)」。
 
意味は、梁の武帝が、達磨大師に問いました。「仏教の、曇りのない究極の真理とは何でありますか?」(如何なるか是れ聖諦第一義) 達磨大師は「からりと晴れわたった空」(廓念無聖) だと答えた、となる。
つまり「第一義」とは、「仏教の真理」を顕す言葉であり、それは「からりと晴れわたった空」であるということである。空(そら)といっても、空そのものを指すのではなく、雲ひとつない真っ青に晴れわたった空、まじりっけひとつない空といった心境のことで、禅でいう空(くう)の教えを例えて言ったものである。禅でいう空の教えとは般若心経の空であり、色即是空 空即是色の空である。
 
(ここから空手の話)
 
もともとは「手(てい)」「唐手(とうでい)」「拳法(けんぽう)」と称された我々の空手も、この般若心経の空をいただき空手と称した。[i] 
空手は一種霊妙な武術にも見え、高尚に空を掲げるむきもあるが、本稿では、私たちが実体験できる心境の変化として説いてみる。
スポーツや練習を行った後、心身の爽快感を得るのは多くの人々が実感するであろう。この感覚・心境の変化は、先の「廓念無聖」からりと晴れわたった空、といった心境に、大袈裟かもしれないが通常よりも近いものではないだろうか。一歩進めて我々上地流空手道修行を考えてみる。自主練ではなく、道場の稽古に出、我々独自の呼吸とともに三戦をし、小手鍛えをし、痛みと緊張感に律せられた上地流空手道の稽古を終えて帰るときの爽快感は、もっと高い次元の爽快感ではないだろうか。
  上地流空手道 三戦
イメージ 2「ふっ」とここで笑みの漏れた者は、日常の稽古に真面目に取り組んでいる者である。これは我々上地流空手道修行者にしかわからない心地であるが、「廓念無聖」からりと晴れわたった空、といった心境により近い心理ではないだろうか。
琉球大学法文学部助教授であった中村完が、1981年に発表した「空手道形の生体反応に関する生理心理学的研究」という研究論文がある。実はこの研究にあたっての実験は、私が修行した宜野湾市普天間の上地流宗家道場において、上地流修行者6名を被験者として行われたもので、行前(三戦を行う前)、行中(おこなっている最中)、行後(行った後)に、脳電位、呼吸、心拍数、筋電位を測定し、生理的機能の状態を明らかにするとともに、心理的効果について検討がなされた。
実験から、三戦行中時、脳電位の徐波が抑制され速派が有意に出現し、行直後に最も徐波が出現する。呼吸はやや大きくてゆっくりした呼吸に有意に変化する。しかも、それは大きな一回の呼吸の中に、数回の早い小さな呼吸を含む多重相の呼吸である。心拍数は有意に増加、筋電位も有意な高い放電状態が見られる。という測定結果が得られた。
これは、三戦行中時、修行者は高度な緊張状態にあることを示すものである。修行者は、三戦行中時に心身を自主的統御の緊張状態に置き、諸生理機能を特定のパターンをもって顕著に高進し活発化させている。行中時の心身状態は、意識機能が通常の状態と異なり、変容した状態になっている。行中時の意識状態は注意が集中された状態であり、自己の雑念や観念は放下されて一時的に内的思考が制止されている。つまり、行中時の修行者の意識は、内外界の多様に変化する刺激に惑わされることなく、一定時間統一した無我的心理の状態になっていると考えられる。
これら考察から、三戦の意義を、無我的心理状態の長期の体験が、修行者の認知様式を変化させることになり、意義のある生理的機能の変化状態を統御する能力と、その変化状態の程度を感知する能力を養成している。と科学的に解明している。
私は、上地流空手道の三戦を、中村論文による科学的考察と、「上地流呼吸法の手引き」(永野2011)でまとめた長短二息の呼吸の原理とを合わせ、武道的調身、調息、調心を行う無我的心理の体験修行と意義付ける。
      上地流合宿時坐禅
イメージ 3それは禅の坐禅修行の原理に通じるものである。
すなわち春日山修武館で行っている上地流空手道修行は、謙信の掲げた第一義に至る道に通じているのである。
 
 


[i]船越義珍(1956)『空手道一路』、産業経済新聞社 
上地完英監修(1977)『精説沖縄空手道』、丸正印刷社463頁
 
参考文献 『碧巌録』、岩波文庫 
      中村完(1981)「空手道形の生体反応に関する生理心理学的研究」、『琉球大学法文学部紀要 社会学篇』
 
 
編集後記
 
 
  碧巌録第一則には続きがある。
 
帝曰、対朕者誰、磨云、不識
 
読み下すと、帝曰く、「朕に対する者は誰ぞ」。磨曰く、「識らず」。と続く。不識院謙信の名乗りは、ここからきている。(下線引用者)如何にこの第一則の教えが謙信の核心であったかわかるであろう。
北陸新幹線の開業が来年に迫り、なかなかに頚城地方は熱気がある。同時に、謙信の義を振りかざす風潮も盛んになっている。
謙信の活用がいいことのように叫ばれるが、無知や邪な理念による活用から、謙信の遺徳を、歴史遺産を、守り正しく伝えていくことも春日山を郷土とする者の使命である。
同じく平成二十七年は、私が春日山に道場を開設して20周年になる。20年の年月を経た上地流空手道修行が、第一義に帰結するとは思ってもみなかった。
私は、振りかざすのではなく、行をして、頸城平の子供達と第一義に至る道を究めていきたい。
本号作成にあたり、臨済宗関興寺住職の杉岡明全和尚に御教導をいただいた。ここに感謝したい。
 

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空手会報編集が佳境

空手の会報編集が佳境です。
今回は、「第一義に至る道」をタイトルに作文を書きました。
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第一義は、世上、謙信が正義や義理を第一の旨とし、掲げ、戦国を戦った語として流布していますが、臨済禅の素録『碧巌録』第一則
 
梁武帝、問達磨大師、如何是聖諦第一義。磨云、廓念無聖。
 
を基に、本来の意味はそうではないということ、私が行っている上地流空手道の修行が第一義に至る道に通じる、ということを説いてみました。
 

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