えいきの修学旅行

練習としてアメーバブログに飛騨の久々野6/22、牛臥山6/26、切手7/1の3城を投稿します。

群馬県

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群馬県のページです

10/31長井坂城その1(群馬県昭和村永井、渋川市赤城町棚下)http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/11707580.html
10/24中山城(群馬県高山村中山)http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/11634636.html
平成23年9/9根利道http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/11157784.html
11/7  関東管領の府 平井城を訪ねて その4 http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/5664849.html
10/31鷹留城 その3 Ⅳ郭、搦手、菩提寺長年寺 http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/5414701.html
10/30鷹留城 その2 主郭、Ⅱ郭、Ⅲ郭  http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/5406080.html
10/29鷹留城 その1 主郭まで http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/5374584.html
9/30  関東管領の府 平井城を訪ねて その3   http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/4466863.html
9/30  関東管領の府 平井城を訪ねて その2 http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/4466129.html
平成22年9/18  関東管領の府 平井城を訪ねて その1  http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/4037234.html

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 粟沢の憲政潜伏伝承の山の尾根に立った時、居住には適さないなあ、と、腑に落ちない感が胸にわだかまっていました。
尾根を東に降りて行くと、途中で引き返した沢つたいに登るラインがぶつかる。その辺りが怪しい!と、もう一度(3回目)行ってきました。
 尾根つたいに150mほど東に降りると、なだらかになり、
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東西30m南北10m程の平地がありました。
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2mほどさがって平地があり、
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自然地形かもしれませんが。
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これも自然地形なのでしょうが、なにやら意味ありげな岩。
 
 沢も近く、この辺りなら居住が可能なのでは、と思いました。樹がなければ藤原方面(東)、幸知方面(南西)、清水峠方面(北)が見渡せます。
 ここかなぁ。
 
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山麓のなにやら建っていたような土地。
 
憲政は平井城退去に際し、男子達を個々に落ちさせた。嫡子龍若丸は家臣と共に上野に潜伏。家臣の裏切りにあい北条に差し出されて切られてしまう。(諸説有)
鶴若丸は乳母とともに多比良方面に落ちる途中、追手が迫り、橋の下に身を隠したが、橋の上から槍で突かれ、乳母共々落命。
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その辺りに立つ上杉乳母神社
 
そして竹松丸。矢島勇編纂平井城の主要歴史概説によると、乳母とともに乳母の実家藤岡に潜伏。後、憲政から長尾景虎へあてた依頼状、系図を桐の箱に入れ越後へ。が、道に迷い放浪。
(いとしろ)(岐阜県白鳥町)の白山中居神社社家月置兵衛という世話った。白山行者のアシストでもあったのかと考えが、関連は無さそうです。後、養子となり元服名乗月置家神職。三代後、上杉に復姓。現当主上杉正躬氏(昭和63時点)に伝わる。
 
ということで、   まで
その5へつづく…。

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12.鷹留城主郭(Ⅰ郭)
 
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13. 大手方面から主郭へ入る道
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14.主郭内から見る。
 ちょうど二本の木が、木戸というか門に見える。
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15.主郭の南、Ⅱ郭から主郭を見る。
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16.Ⅱ郭から北のⅢ郭を見る。
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17.Ⅱ郭とⅢ郭の東下の竪掘
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18.Ⅲ郭西側の竪掘 
 ブルーシートの右は林道からの大手入口
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19.南から見たⅢ郭
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20.Ⅲ郭南東の竪掘上部を塞ぐような石垣
 
Ⅲ郭と周囲の放射状の竪掘群は、武田占領後の普請のようです。
 
その3 Ⅳ郭、搦手方面、菩提寺長年寺へつづく

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 天文21年(1552)関東管領上杉憲政が平井城退去に同行した城下常光寺の龍樹和尚は、越後落ちに際し、高齢のため、清水峠を前にした粟沢の地へ守り本尊伽羅陀仙延命地蔵菩薩とともに留まることになりました。ひとり残った龍樹和尚は像を安置して一庵を開き、建明寺開山となりました。その地は寺屋敷とういう地名が残ります。火災に遭い現在は湯原に在ります。
 憲政公が御館の乱で非業に生を終えた後、寳珠院殿徳山建明大居士、という米沢とは違う戒名で弔っています。どことなく他のより、慕う心が感じられるような気がします。
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上杉憲政守り本尊、伽羅陀仙延命地蔵菩薩
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清水峠への出入りがあった粟沢
 
 建明寺で、御住職に興味深いお話を伺うことができました。憲政が越後へ落ちるまで潜伏していた、という伝承があるところが、粟沢寺屋敷背後の山にあるというのです。上杉憲政の越後落ちは私のなかでは雪中突然という印象が強く、平井退去後、すぐに越後へ落ちたと思っていました。が平井退去が天文21年(1552)、長尾景虎のもとへの越後落ちが永禄元年(1558)とすると実に6年もの差があるのです。諸方への外交、戦闘などを奥利根地域に潜伏しつつ行っていたのでしょうか。
 初回の訪問日は日暮れも近く長岡の稽古時刻も迫っていたので、粟沢まで行っただけで引き返しましたが、憲政潜伏の地を見なければ、と、2週間後に再度訪問しました。
 
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粟沢寺屋敷附近から憲政潜伏伝承の残る山を見上げる。
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沢つたいに登城を試みるが断念、引き返す。
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保安林標識の脇になにやら道らしきものが見え、ここから攻城開始。
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 10分ほどでそのような道らしきものも消え、見上げるような急斜面が立ちはだかる。なにがなんでも行ってやる!と、帰りのことなど全く考えずに直登決行。
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人の掘った跡らしきものに励まされ
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苦闘40分、山頂の尾根に到達
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 山頂の尾根
 僅かながら段郭らしきものもありました。急崖の頂きという雰囲気で居住していたかは、?な感じですが、追手を監視するという意味では最適な場所だと思いました。もっともこんなところにまで追い詰められた、という感はありますが。
 
 私的には興味深い伝承を辿る、満足のいく探検でした。
 関連する事を御存じの方ございましたら、ご教示ください。

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要害、平井金山城。
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登り口
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山麓の石垣群
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 保存会の方々の心配りに、ほろっときました。このような暖かい言葉を他の山城で見たことがありません。
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物見台跡
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重畳たるとりつき
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主郭
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主郭下の北・大手方面虎口
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井戸跡
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八脚門下の登城路。右側に石積み、窪みがる。
突きあたりを右に折れると八脚の櫓門。
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窪み。用途は何だろうか?
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八脚の櫓門跡。一番感動したところ。
 
 天文21年(1552)関東管領上杉憲政平井城退去の際、護持した守り本尊、伽羅陀仙延命地蔵菩薩が水上町の建明寺にあるというお話を聞き、帰路立ち寄ることにしました。その3へつづく…。
 

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