えいきの修学旅行

竹井英文さんの『戦国の城の一生』、予約していたAmazonの他からも届く。二冊も手に入るぜ。

新潟県 頚城

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新潟県 頸城

私の住む、新潟県頸城地方のページです。

 春日山城御屋敷郭 愛宕口★ http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/6822413.html
 春日山城御屋敷郭 黒金門口★ http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/6769630.html

関東遠征の道1日目春日山-直峰城http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/7961855.html

 旧柿崎町・吉川町・大潟町・頸城村
★入河沢城まとめ〜地表面監察・整備活動から〜https://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/19276420.html  ★自説に固執 逆四角錐台形にほりこまれた虎口https://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/19266572.html
 雁海城まとめのつづきhttp://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/17550072.html

 旧新井市・中郷村・妙高高原町・板倉町
★鳥坂城3・畝型施設 http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/18388400.html
★箕冠城その3大熊ー市川繋がりhttp://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/13456580.html


 旧能生町・糸魚川市・青海町

★不動山城2 城内北東竪堀構造 https://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/19709128.html
★不動山城1 要害集落から三郭への城道に対する備えhttp://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10792239.html
箕冠山城、鮫ヶ尾城、鳥坂城遠景、堀之内館http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/7392605.html
徳合城 その2 城壁・山麓郭群http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/7230524.html
 

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青線から左のエリアを紹介します
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 能生谷から西の海岸線は木浦城から金山城へ連絡します
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海岸線と蔦峠を見張る木浦城遠景
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金山城遠景  直下を北陸道のトンネルが通る
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ズーム
 
  早川谷には、守護上杉氏の一族山本寺家の居城、不動山城が在ります。
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 不動山城遠景
  金山城と不動山城を結ぶライン上の田屋橋からみる
 
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越集落側から見る
要害地区は城主居館地区。
 謙信時代の不動山城主、山本寺伊予守定長は、天正三年の上杉謙信軍役帳に槍五十挺、手明十人、鉄砲二挺、大小旗三本、馬上六騎の兵力で一門の列に名があります。東の越側以外は断崖で堅固な要害です。海からは3km程内陸にあり、浜街道と海は金山城が監視したと考えられます。また浜街道は木浦城から金山城を経て糸魚川の松山城、勝山城に繋がり越中へ、山街道は根知城を経て信州仁科口へ繋がる要衝でした。
 
 不動山城には落城の伝承が二つあります。以下、糸魚川郷土史研究より。
 長尾為景(謙信の父)が越後守護上杉房能を追い詰め松之山に自刃させました。為景に担がれ房能の跡を継いだ養子定実と為景が争うと、山本寺景貞は房能の跡を継いだ養子定実に味方したため、永正九年3月28日、為景に攻められました。為景方は船で田伏(浦本説もある)に上陸し、金山城に入り本陣とし、猛攻を繰り返し、東側より夜間に乗じて攻め登り、4月3日午後5時頃落城。景貞は郎党二十名ばかりにて越中に逃亡したとされています。それぞれの陣立も、山本寺方、本城八百騎、先陣三百騎、二陣二百騎、白髭森三百騎、搦手三百騎、後陣三百騎、計二千二百騎。
為景方、大手口千五百騎、搦手口千五百騎、後陣五百騎、計三千五百騎とあります。
 
 私の妄想。軍役71人とのひらきが気になりますが、雰囲気は湧きますね。地下人を動員するとこんな大軍になるのでしょうか。
 田伏浜から上陸し、金山城に入るには、春日山方向からは早川を越えなければならず、そこから不動山を攻めるには再度大手前面の掘と見立てた早川を渡河し、攻め込まなければならない。越中方面との遮断が目的にあれば金山占拠はわかるが、どうだろうか。
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 浦本から上陸し、そこから山伝いに東海に登り、拠点となし、当時は搦手であったのか隠し道であったのかわからないが、現御溝川の沢伝いに不動山の北裾をまわり込み、陣場平を経て要害(根小屋地区)に取り付けば、東から攻めたことになり伝承と一致する。越や新町方面から大手を攻めるよりも抵抗は少なかったと思う。浦本説が正しい気がします。金山占拠はあったかもしれないが。
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 黄線が溝川沿いに陣場平へ進むコース。黄線のように攻めたのであろう。
 
 もうひとつの落城伝承は、謙信死後、景勝と景虎が争った御館の乱で、山本寺景貞は景虎に味方し、越中に逐電した。これがそうであろうか。
 
 弟の孝長は景勝に味方し、名跡を継ぐ。後年、越後へ侵攻を目指す柴田勝家率いる織田勢に対し、魚津城に越後方の主将格として篭城。天正十年六月二日、熾烈な戦いの末、自害した。不動院山本寺殿虎山玄龍大居士 として普済寺に。
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普済寺
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普済寺からみた不動山
城の様子はこちら↓にまとめました。
不動山城その1要害集落から三郭への城道http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10792239.html
不動山城その2三郭から主郭へhttp://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10802863.html
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姫川の先、親不知の向こうは隣国越中
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 姫川の向こう、勝山城が越中口を警備し、松山城へ連絡を伝え、松山城から越後国内根知城、不動山城、木浦城へ連絡し、さらに春日山城まで繋がっていました。
 松山城は上越市史では1なのですが、糸魚川市の検索地図では2になります。
 もう少し雪が消え、登ってみればわかる。
 平成23年7月、松山城登ってきましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10592241.html 
 1から右側の尾根に遺構がありました
  
 参考文献  上越市史 糸魚川郷土史研究
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夕暮れの越中境方向 
 

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越中への道 能生谷

越中方面への道ということは、越中方面から侵攻される道、ということでもあり、謙信は永禄4年信州川中島へ出陣の際、春日山城の留守将長尾政景に宛て「もし越中に火急の事態が起こったら、能生・名立への応援部隊を差し向け陣を張らせよ」と備えを命じています。
能生は、谷全体で防衛線を構成しています。  
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 海沿いの黄線は現在の国道8号線。当時は浜街道。軍勢は浜街道ではなく、内陸の山と谷を越える山街道を利用しました。不便な、とも思いますが距離が短く、基幹となる大規模な城である徳合城(旧能生町)、不動山城(糸魚川市)、根知城(糸魚川市)を小規模の要害を縫うように繋いでいます。
 
山街道には春日山を出て城ヶ峰―桑取谷―名立谷―徳合城―高倉―能生谷―城山城の北、鶉石から鳶峠を越え早川谷の不動山城というルートと、中ノ俣城―桑取谷―名立谷―花立峠―谷内城―能生谷―平城の南、島道から外山越えー早川不動山城という2ルートがありました。
不動山城からは、金山城を経て海沿いを勝山城―親不知―上路道―越中へ。また、根知城を経て仁科口から信州へ繋がります。 
 他に春日山城郷津港から海路という手段もありました。
 
徳合城は先に紹介しましたので割愛させていただきます。
徳合城 その1 館地区 http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/7229038.html
徳合城 その2 城壁・山麓郭群★http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/7230524.html 
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山中の高倉集落
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能生谷へ降りる手前の中野口城
 能生谷西地区(平、小見、城山)糸魚川方面からの狼煙通信などの連絡を、春日山方面へ繋ぐ役目を担ったことと思います。
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能生谷
 
 名立から花立峠を越え谷内城を経て能生谷能生川上流に出るルートもありました。
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谷内城遠景
 
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バイクをおいて徒歩で迫るが、雪で封鎖。断念。
冬、ここまでにバイクで行くこと自体が無謀です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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能生川下流東(海洋高校)から城山、小見、平城方向を見る
 能生谷から糸魚川へ向かう能生谷西には、城山、小見、平の3城が屹立し、峠の出入り口を固める。
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小見集落から見る城山城
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小見城遠景
 手前は北陸新幹線。小見には御館の乱で北条景広を討ち取り、名を後世に残した荻田家関連の伝承があります。
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平城遠景
 平家の小松内大臣重盛の子維盛が落ちのび隠遁したという。殿屋敷、一の木戸。二の木戸、馬場、かわい谷などの地名が残ります。春待ち遠しい。
 平城は早川谷との外山越えを押さえ、能生谷の中では規模も大きく、中心的機能を果たしたと考えられます。
 
 能生谷は、根知、不動山ほどの規模の大きな堅城はありませんが、西に対する春日山防衛の最終線として、谷全体で厳しく固められていました。
 
 春になったら、全城攻略してみたいが、どれも上りが急そう。すごいアップダウンになりそうです。ふと、何歳までこんなことできるのか考えると、早く転身すべきかも…、という思いが脳裏をよぎります。
 
参考文献 上越市史中世史部会編上越の城、能生町史

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 雪で山城の登城が困難なので、冬の山城遠景と、大家健図説中世の越後、上越市史中世史部会編上越の城を参考に、謙信が関東へ遠征したルートを辿ってみます。このルートは史料の裏付けはありません。 (平成27年10月23日修正)
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一日目は関川を渡河し、錦要害、大間城、直峰城までの24km行程です。

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                              春日山城遠景 

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銅像前から山上を見上げる
三の丸の左奥は三郎景虎邸。山上から景勝方に鉄砲を撃ち掛けられたという。 

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木田付近の関川。橋は北陸道。
 府内の応化橋は回らず、最短で錦要害へ向かう木田の渡しで関川(荒川)を渡河したと思います。 イメージ 7
錦要害(旧三和村)(大間城が錦要害かもしれない)
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大間城遠景(旧三和村)。西から見る。この大間城が錦要害か。
 名称は上越市史中世史部会編上越の城に拠った。また、本丸西側切り口は、大手道筋などを監視するための施工とも考えられる。この切り口から周辺の眺望は大変良好である。としている。春待ち遠しい。
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本丸ズーム
城主は島倉孫左衛門とする説がある。
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城の南東、阿弥陀寺池からの登り口。
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鞍馬 
 平野部から山間地へ入るところに位置する。謙信公も関東への最短の道とした当時、馬の鞍をおろし休めた処(現地案内板) どこを指すかは、私にはわかりませんでした。ここから先は関東上野まで、日本有数の豪雪地帯を通り抜ける。
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浦川原を越え、牧野峠を越えると、直峰城(旧安塚町)が見える。
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直峰城遠景
南北朝時代は南朝につき新田義貞方として活躍した風間信濃守の居城。
添景寺は謙信が春日山を出て1泊目に宿泊した館跡とされる。御館の乱では景勝方の城として春日山と景勝の本拠地、上田の庄を坂戸ー犬伏ー直峰ー春日山とがっちり繋ぎ、景勝方勝利の重要拠点として機能した。
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本丸ズーム
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謙信一泊目の宿営地とされる添景寺。上杉軍道が全面急崖下を左に登る。
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城域南中腹の軍勢宿営地と想定される平坦地。


 

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御館かいわい

 山城の遠景ばかりでしたので、山ではない関連する近所のスポットを撮ってきました。
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国府別院。(裏側から)
 親鸞証人が越後配流され竹之内草庵に1年住んだ後に移り住んだ竹ケ前草庵の地。見方によっては、水掘、土塁を巡らした城館に見える。長者なり武士の館であったのであろうか。時代は変わって、天正六年上杉謙信没後の御館の乱に際し、この辺りは記録に残る大場、居多の激戦場になった。
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 春日山城から御館を攻めるにしても、御館から春日山城を攻めるにしても、このあたりを確保しなくてはならなく、その戦闘の際には、拠るべき要地の争奪が熾烈であったと思う。国府別院は池に囲まれた要害として機能するし、上杉謙信再建の国分寺は高台にあり、軍勢の駐屯にてきした広さを持つ。東西に虎口を設け、北には大土塁を衝立、南は山門の線の土塁で三角形に睨む。居多神社(現地よりも海方向にあった)は景虎側につき、景勝方に焼き払われ、神職父子は国外に逃亡している。
 
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国分寺正面。門は山門。仁王様が居ます。
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山門西土塁線
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山門東土塁線
 
境内は広く、大軍が駐屯できる。
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西虎口
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東虎口
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北面の大土塁
高3m以上はある。
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裏門付近の北面大土塁
凄い。
 
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愛宕神社
謙信が願文と軍配を納めた神社。霊感あり。
 
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居多ヶ浜あたり。
 「去(六月)十一・十三両日相動、初十郎(上杉景信)、宗徒之者数輩討取…」上杉一門栖吉城主上杉景信が討取られるほどの激戦が行われた。栖吉は上杉謙信の母の実家であり、長尾景虎が一時栖吉長尾家を継いだという説もある名族。謙信死後(三月)、すぐにも(六月)頭領が討死するほどの栖吉長尾と上田長尾の血で血を洗う争いが行われていた。
 
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御館公園
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案内解説版
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室岡博著上杉謙信とその風土に掲載されている昭和三十九年十一月撮影の御館跡の写真。
 堀と土塁が残っていた。これほど貴重な遺構を、市民は守らなかった。国鉄と直江津市、高田市、新潟県は、この貴重な遺跡を破壊し、この世から消した。
 流行にのって、実のない装飾としては、声高に義だ愛だと叫ぶ人は今でも大勢いる。心根が嘆かわしい。

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