えいきの修学旅行

竹さんの『戦国の城の一生』、予約していたAmazonの他からも届く。二冊も手に入るぜ。

平成23年作成

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 次のページ ]

イメージ 30加茂要害山城
 
前の記事(神社の城?加茂山城塞群)であれこれ書いたので、遺構を紹介します。
 整備されたハイキングコースが巡らされており、歩きやすい山城です。
 
 
 
 
 
 
イメージ 31
 主郭を中心に、ほぼ東西南北に十字に延びる尾根を堀切で区切り郭を配している。
 西は、広い二郭、三郭を配し、大手と思われる本量寺両脇からの段になって繋がる尾根の上に構える。
 北は切岸で郭を区切り、急で険しいが道が耕泰寺の谷に繋がっている。搦手であろうか。
 南は、東西南の郭群(尾根)へのターミナルとなる馬だし様の郭(南二郭)がある。その先に堀切で区切った南三郭、南四郭が続く。
 西は、剣ヶ峰城へと続く尾根で、堀切で郭を区切り、竪堀で尾根を狭めている。
 遺構はそれほど堅固なイメージはないが、尾根は削ぎ立っています。
 
 かも市史たより12号掲載の鳴海忠夫調査作図の縄張り図を引用し、私ブログ説明用に郭名を加筆してあります。
イメージ 6本量寺保育園裏の登り口
場所はここhttp://yahoo.jp/1_hD0n
バイクは置けますが、駐車スペースはありません。主郭まで私の足で三郭、二郭を見て20分程度。
 
加茂山公園(駐車場あり)の青海神社裏からハイキングコースが剣ヶ峰城を経て通っています。
 
 
 
 
イメージ 17本量寺(本庄氏館跡推定説有)と加茂の町
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 24城壁が迫ってきます。
 
左上が三郭、正面が二郭、右上が主郭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 23二郭と、三郭、稲荷神社の結節となる堀切に入ります。
 
イメージ 25二郭から、二郭と三郭の間に入る登山道(写真左から)を見ます。
 
堀切の向こうが三郭、手前が二郭。
三郭左下の小郭には稲荷社が建ちます。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 26稲荷社
右の切岸上が三郭。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 27三郭
二段になっています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 28三郭南東の崖
削ぎ立っています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 29
三郭、段の先
 
この郭の左右(北西、北東)隅から、尾根を小郭が段に本量寺量脇につながっています。大手と思われます。
北東への尾根
イメージ 1
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2北西への尾根
 
 
                 二郭へ戻ります。
 
 
 
イメージ 3
二郭
右上が主郭
登山道は左から桟敷段脇を通り、登ります。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4正面の段の上が拠点郭南二郭
右うえが主郭虎口
イメージ 8
左の斜面に桟敷段があり、城道は桟敷段を通り、拠点となる南二郭に入ってから通っていたかもしれません。
 
大家健著 図説中世の越後より引用加筆
 
 
イメージ 5東斜面の桟敷段
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7加茂要害城主郭
二段になっています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9
主郭一段高い区
北西隅(写真左上)に、北の郭へ降り口があります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10
木が城戸のよう
急な切岸を降ります。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11
降りた先から
 通常使う道ではなく、搦手的な緊急の道であったと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 12北の郭から見る主郭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 13北郭の先は落ちていくような道が耕泰寺の谷に続きます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14搦手の番所というか城戸があったところでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
主郭へ戻り、ターミナル的な馬だし様の南二郭、西の尾根、南の尾根へまわります。
 
 
イメージ 15
 
主郭からみる、主郭虎口
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 16主郭の南には、堀切を挟んでターミナル機能的な馬だし様の南二郭があります応援部隊が待機し、東西南北に出撃、収容できます。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 18
堀切を右に降りるとハイキングコースに出、西の尾根伝いに剣ヶ峰城へ繋がります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 20剣ヶ峰城へ続く西の尾根
堀切で狭められている箇所があります。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 19ハイキングコースが堀切、郭の横を通っています。
 
 
 
 
 
 
 
ハイキングコースを主郭方向へ戻り、南の尾根にまわります。
 
イメージ 21先ほど降りてきた主郭と、南二郭の堀切を見上げる
左が主郭、南二郭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 22左に進む道が南三郭と南四郭の間の堀切
 
ここに加茂山要害城砦跡の説明看板があり、
「戦国時代の遺構を持つ城である。簡素ではあるが本丸、空堀、根古屋の跡が認められる。城主は上杉氏の家臣、早部甚甫守、長尾加賀守、本城備前守、宇佐美平六、栗山大学等といわれている。」と説明されています。
 
 
 
 
 
参考文献 加茂市史 大家健著 図説中世の越後 かも市史たより12号

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

 本庄顕長が一時領したということで本庄氏の流れで加茂要害を調べていたら、藤木久志著 城と隠物の戦国誌という本の中に、加茂要害城を含む加茂山の城塞群(要害山城、剣ヶ峰城、城山砦)は、加茂山北麓に鎮座する青海神社の城ではないか、という説が書かれていた。 イメージ 1
 加茂の周辺地図です。古志長尾は謙信の母栖吉御前の実家、三条付近は謙信の父長尾為景の府内長尾の領地。
 現加茂市域には青海荘、大槻荘、石川荘があり、青海神社は神亀3年(726)、青海郷を開拓した青海首一族によって創建されたとされ、延暦13年(794)京都の賀茂別雷神社と賀茂御祖神社の御分霊を御遷祀し石川庄は賀茂神社の神領となった。上杉謙信の母は栖吉長尾の出で、青海神社略記によると青海神社に祈願して三条において後の上杉謙信を生んだと伝えられている。誕生を筮わせて履卦の六三が出たので虎千代と号した。
 「ー又使シテ之ヲ筮ハシムルニ履卦ノ六三ニ遇フ。曰ク、虎尾ヲ履ミテ人ヲ咥フワ凶、武人大君ト為ラント。乃チ小使ヲ虎千代ト号ス。ー」通説では春日山といわれている。ゆえか謙信、崇敬し社領3700石に加増と伝わる。この3700石というのは越後の有力国人に匹敵する大身です。定納員数目録では揚北の有力国人安田氏2474石、色部氏4868石。私は3700石は多すぎるだろうと思いましたが、調べていくうちに社領3700石、城持ちの神社というのは本当なのではないかと思うようになりました。
イメージ 5
 
加茂山城砦群
城山砦は尾根の向こう、青海神社は山の右裾向こう側になります。
イメージ 6左図、北は下です。
上の写真と向きをほぼ同じくしてあります。
大家健著 図説中世の越後では、要害山城は本庄氏の要害、北直下の本量寺を館跡と推定しています(加茂市史にはその記載はない)。
本量寺右の谷の前面が根子屋という地名で、谷の奥に耕泰寺があります。
 
 
 
イメージ 7本量寺 門
せり上がりが、武門の面影に思えます。
本庄氏の館跡か。
イメージ 8本量寺境内
イメージ 9
本量寺門前
城下の雰囲気を感じます。
門前は五番町
           
 
 
 
 
 
 
 
 
耕泰寺へ 
 
イメージ 10
耕泰寺門前 この辺りは根子屋という地名
谷の奥に耕泰寺があります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11耕泰寺
写真左の山上が要害山寺城
右の山上が剣ヶ峰城
地名が根子屋なので谷に侍達が住んでいたかもしれませんが、谷の両側の山はかなり急で、土砂崩れのリスクはなかっただろうか。
 
 
 
 
 
 
青海神社へ
イメージ 12
 場所はここhttp://yahoo.jp/XuVaJn
 天文13年(1544)後奈良天皇には菊亭晴季の名を以て長尾晴景に対し「当国中、静謐ならしめ、豊年を祈願するために、大納言勧修寺尚顕を勅使として差遣したるをもって、宸筆の心経一巻を神前に奉納せよ。」との綸旨を賜った。翌14年、勧修寺大納言尚顕は宸筆の般若心経を奉じ越後府に来たり、青海神社の参向して宣命と祭文を奉納せられ越後国の静謐と豊年を祈願した。青海神社の神威盛大なることがわかる。
 
 
イメージ 2参道
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3
現在も、神威、ただならぬものを感じます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 御館の乱では、加茂山の城塞群は、景虎方となったようで、天正8年(1580)4月22日に景勝が管名綱輔に加茂山張陣を賞し落とすよう指示している。
「ー賀茂山取詰、于今張陣之由大義察之候ー 賀茂山可被付落居事、簡要候、謹言、」
 青海神社は三条、栃尾、栖吉と同調して景虎方に属し、景勝に攻められたようで、乱後、3700石の社領のうち約6割と加茂要害城を取り上げられ、そこに景勝差配により本庄顕長が2298石で入ったのではないだろうか。 イメージ 4
 
加茂市史の翻刻・賀茂村検地帳
 
城と隠物の戦国史では、文禄4年(1595)の賀茂村検地帳の約6割が本庄分、他のほとんどが明神分など、神社領と推測できるとしている。
(私は計算まではしていません)
 
 青海神社は明暦までは青海神社は古川右近、賀茂別雷神社は市川左近、賀茂御祖神社は市川式部の三神社三神主制であった。城三つというのも、それぞれが持っていたのではないだろうか。
 
 現宮司は古川氏。
 
  加茂山城塞群は、社領3700石の神社の城だった気がしてきませんか。
 
参考文献 城と隠物の戦国誌  図説中世の越後 加茂市史 
       かも市史だより12号
 
加茂要害山城はこちらhttp://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/12092346.html

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

イメージ 1
 名胡桃城は、利根川、赤谷川の合流点南西右岸の段丘上に築かれています。もとは、沼田氏配下名胡桃氏の居館が般若郭にあったようです。天正八年、武田勝頼の意を受けた真田昌幸が沼田城を攻略。その頃、真田氏によって改修され、今に残る城郭となったとされます。天正十七年豊臣秀吉の裁定により、沼田城が真田から北条に明け渡されましたが、利根川以西の名胡桃城は真田氏に残されました。しかし、北条氏の沼田城代猪俣邦憲が突如名胡桃城を攻略。これが秀吉の惣無事令に反する行為として秀吉の小田原攻めが布告されることになります。
イメージ 11
 この天正十七年の沼田名胡桃をめぐる争乱は、池波正太郎の真田太平記第三巻に胸躍る歴史小説として描かれています。
 また上杉謙信の関東遠征のルートである猿ヶ京ー沼田間に位置し、現在も国道十七号が城域を通ることから中継地として利用されたのではないかとも思います。
 
左縄張り図は現地解説版。
 
イメージ 13般若郭
駐車場になっています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14般若郭からみる三郭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 15三郭前面には馬だしがあります。
馬だしにとまる私の馬。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 16三郭
私は菜の花が心地よく感じました。自生でしょうか、現地の方々の心遣いでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 17三郭と二郭を繋ぐ土橋
 
土橋ではなく、木橋が架かっていた可能性があります。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 18土橋から般若郭を見る
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2二郭
 
発掘では、土橋を渡った二郭側に食い違い虎口、石垣に守られた土塁が発掘されたようです。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3二郭から見る本郭
ここも、二郭側に門跡が発掘され、二郭とされている郭が主郭だったとも考えられます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4二郭と本郭を繋ぐ木橋の橋脚台
 
橋脚跡が発掘され、ここも土橋ではなく木橋が架かっていたと思われます。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5本郭虎口
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6
名胡桃城本郭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7本郭南東面
鋭い崖。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8
本郭からみる、ささ郭
本郭の先、崖先端(東)には、ささ郭、物見郭が続きます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9ささ郭の土塁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10
ささ郭から見る沼田城方面
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 12突端、そで郭と物見郭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参考文献 現地解説版 関東の名城を歩く北関東編
 
 
 

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

慶長瀬波郡絵図に描かれている村上要害(本庄城)
イメージ 1
山上に要害、山麓に館地区が描かれている。
上杉景勝が会津に移封後に入封した村上氏時代以降に書かれたためか、村上要害と記されているが、上杉氏移封前は本庄城であったと思われる。
 永禄11年4月、越後府内を脱出した本庄繁長は、鮎川氏の大場沢城を攻撃、駆逐することにより、上杉輝虎(謙信)に反乱をおこす。信州からは武田勢、越中からは椎名勢、越後国内では本庄繁長の乱と、輝虎を窮地においこむ武田と呼応した反乱であった。信州口に厚い手配を終えた輝虎は、11月7日、直接本庄城攻撃を指揮する。20日夜、城下に迫り、東の堀を埋め、柵を取り払う。以後、包囲を固め包囲戦となる。その間、武田方に宛てた本庄繁長の書状(猿沢城の項で掲載した書状の続き)から状況が伺える。「− 己当地之儀、輝虎直詰、外張昼夜被逮其伝候、併要害涯分備手堅候、可御心易候、当国之人数払而爰元ニ在陣仕候間、縦令上田之衆(庄カ)迄被遣御馬候共、後詰之沙汰不可有之候、以夜継日御急専一ニ候、此由可預御披露候、恐々謹言、極月廿四日 平繁長」(上越市史六三〇) 輝虎が直に越後勢を率い、ここに集まっている間に、武田信玄が飯山を抜き信濃川沿いに、もしくは沼田から上越国境を越え上田の庄へ攻めいれば、輝虎は窮地に陥ったであろう。そういえば関東遠征の道3日目http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/8225231.htmlで妄想しています。
 しかし、武田は矛先を南に変え、駿河へ侵攻。越後上田の庄に迫ることはなかった。武田の呼応が消えた繁長は、翌12年3月、嫡子千代丸(後の顕長)の人質提出、自身の蟄居を条件に降伏、反乱は終結する。より大きな動きで、甲駿相三国同盟が破れ、越相同盟の締結に至る背景があった。
イメージ 2
 
東からみた本庄城全景
山上には石垣つくりの村上城の遺構が残りますが、本庄氏が去って後、上杉移封後の遺構と思われますので、このブログでは東山麓の館地区を辿ります。村上城全般に関しては、ビジュアル再現村上城という素晴らしいサイトがありますのでご覧ください。
 
この山裾に本庄繁長の居館を中心とした根小屋が眠っています。
イメージ 12
 瀬波郡絵図に描かれた根小屋地区
居館を中心に柵で守られ区切られた城下町が描かれています。
 
下縄張り図は、大家健著 図説中世越後の歴史より引用し説明用に加筆してあります。
大家氏は、この絵図を左右反対にみると、縄張りと一致すると述べています。
 
イメージ 16
 東虎口、居館、南虎口の順で辿ります。
 
 
 
 
 
イメージ 17東虎口の南端に大山祇神社があります。
場所はここhttp://yahoo.jp/NVDFkP
 
参道を進み、右へ
  
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 18堀越しに累々と根小屋遺構が見えます。
右側が東虎口
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 19東虎口(南からみる)
 
出丸と堀に守られています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 20出丸
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 21東虎口から山上を見上げる
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 22東虎口付近を北から
 
 輝虎率いる攻囲軍が、城下に迫り東の堀を埋め、柵を取り払っのはこのあたりか。
 
 
 
 
 
 
 
 
居館へ向かいます。
イメージ 3
神社から上がったあたりから、館跡方向
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4居館正面
イメージ 5
 
 
 
 
 
 
 
虎口が、絵図の木戸と重なる
 
 
 
イメージ 6
居館跡
南西には一段高い郭がある
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7 居館虎口付近から前面を見る
 
絵図の柵で囲われた屋敷群、広場が重なる。被官の屋敷が並び、軍勢を揃える広場か。  
 
 
 
 
 
 
南虎口へ向かいます。
 
                 館の南は、要害との関門田口門へ続く谷状の堀切が走ります。
イメージ 8
 
館付近の郭と南虎口を区切る堀切を田口門へ続く道
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9南虎口の東裾は、アテーナ駐車場の北に、もたいないくらい当たり前にあります。山上要害へ登山道がついています。
場所はここhttp://yahoo.jp/rHRdfU
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10水掘りだったのでは。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11南裾から50mほど登ると南虎口があります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 13 南虎口を上から
 
木橋を挟んで外と内に桝形が連結します。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14線なしもどうぞ
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 本庄氏は、永禄の反抗により、同族の好身を捨て輝虎方として本庄を攻めた色部氏より席次を下位にされる。 以下、色部弥三郎(顕長)宛謙信書状
「本庄弥次郎先年逆心、同名之好身ヲ指捨、父修理進以来、其方於代も無二愚老前相守候、依之、任望、於向後者本庄弥次郎座敷以下迄下ニ有之間布候者也、仍如件、」(上越市史1058)
 謙信死後、御館の乱では景勝に味方する。新発田重家の乱に際しても景勝方として働きがあったようで、新発田重家の乱平定後の天正11年には、景勝から十郎の席次と名跡を許されている。
「当代別而依被抽忠勤、幕之紋出之候、并座敷是又相定同名十郎席候、十郎名跡相立之上、出仕可為隔日候、仍後証状、如件、天正十壱年七月十二日」
 十郎は、御館の乱では景勝の最も敵(かたき)となった古志長尾当主上杉十郎景信のことであり、景勝政権下では、上杉一門の席次と名跡を与えられたことになる。これって破格のことなのではないだろうか。
 時代が流れ、謙信時代の歴戦の武将達は内乱により討死、あるいは病死する。本庄繁長は、景勝政権下も戦国生き残りの猛将として庄内平定における十五里原の戦い、関ヶ原の東北戦伊達政宗から福島城を守り抜いた松川の戦いなどで武名を挙げる。
 関ヶ原敗戦後の戦後交渉を上杉家代表として徳川と行ったのは本庄繁長であった。上杉一門の家格と、実在の謙信時代の猛将としての武名は、徳川方からも尊敬をうけていたのではないだろうか。
 ここでは触れなかったが、生い立ちから小川長資切腹までの幼少期、その後の本庄氏家督として戦国乱世を生き抜く波乱万丈の生涯は、もしどこぞのテレビ局にドラマにしていただけるなら、戦国ロマン溢れるドラマとなると思う。 イメージ 15
 
村上市郷土資料館にある本庄繁長の兜
私は、この兜をかぶっていた人物が、見える気がします。
 
 お墓は福島市、長楽寺にある。
 
 
 
 
 
参考文献 大家健著 図説中世の越後
村上市史 神林村誌

この記事に

開く コメント(2)

開く トラックバック(0)

 イメージ 1沢城は「本庄氏記録」によると、永正五年(1508)家督を房長(繁長の父)に譲り隠居した時長が隠居したところとされます。 隠居所としては、威厳漂う根小屋を持ち、背後に二段に福館、サルクロ要害を擁する要害堅固な遺構は不釣合いな感がします。村上要害東麓の根小屋に移る前の本庄氏の本拠でしょう。 永禄11年、上杉輝虎に反抗し村上要害に篭城中の本庄繁長が書いた油井源三(武田信玄衆北条氏照)宛書状中に、武田方の使者が猿沢城まで入った様子が伺えます。「 ー 従去月七日輝虎向当城、被逮詰陣候間、通融聢無之候条、号猿澤之地御使被踞候、御書披見迄者延引候間、 − 」(上越市史六三〇)
イメージ 2
 
屋敷跡からみたサルクロ(左)、福館(右)
 
土塁に虎口とおもわれる切込みがあります。
 
イメージ 9
 根小屋(館跡)が政庁と本庄氏被官の屋敷地で、屋敷跡が本庄氏の居館か。
 緊急時要害へ引き篭もる場合を考えると、本庄氏居館は根小屋(館跡)の奥部分が適当のような気がします。屋敷跡は隠居屋敷であろうか。
 根小屋は、本庄氏被官の武家屋敷地で、猿沢集落に武士以外の城下町が形成されていたと思われます。
瑞雲寺、神明宮背後の物見台、堀、薬師山で根小屋、屋敷跡が守られています。
 
 
イメージ 18神明宮
場所はここhttp://yahoo.jp/ktYPNf
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 22瑞雲寺北の物見台
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 23神明宮背後の堀切
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 24根小屋南東面の堀
 左が根小屋
素晴らしい
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 25根小屋虎口前面の東は水堀を思わせます
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3
根小屋 虎口
 
城門を思わせます。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4根小屋郭内
本庄氏被官の侍屋敷が建ち並んでいたことでしょう。
発掘整備したらどれほど面白いか。
 
 
 
 
 
 
 
薬師山をまわり、福館を目指します。
イメージ 5薬師山の根元、福館への登り口
案内などはありません。地元の方に、「熊の棲み処ですから気をつけてください」とご忠告いただきました。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6途中、堀切があります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7福館は、根小屋の居館に対る副館か。
福館は、畝形阻塞で制限した窪み状の虎口を前面に、東と西の高地に守られています。
侵入路はこの虎口のみと思われ、堅固な構えです。
さらに背後に詰めの要害、サルクロがありますが、福館を突破しないと進めません。
 
 
 
 
 
 
イメージ 8
窪み状の虎口
梯子で登ったのでしょうか。写真を撮りつつ、戦闘があったとすれば、ここで上から幾本もの槍を刺され討ち死にした侍がいたことが脳裏に浮かび、遺構にはしゃいでいてはいけないと思いました。
イメージ 10
 大家健著 図説中世の越後より引用
 
 
 
 
 
イメージ 11虎口前面脇の畝形阻塞群 
 
写真だとよくわかりませんが、実地ではよくわかります。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 12奥からの写真だともう少しわかりやすいでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 13畝形阻塞の前面は崖
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14虎口前の竪掘も窪みがあり、竪堀という以外の意図もあったのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 15うえの郭からみた虎口
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 16
東と西の高地に挟まれた福館
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 17東の高地
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 19西の高地上
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 20サルクロ方向
木と藪。
熊の心配もありサルクロ突入はあきらめました。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 21現在の猿沢集落
城下町の雰囲気がします。
 
 
 
 
 
 
 
参考文献 大家健著 図説 中世の越後 村上市史 神林村誌 上越市史

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 次のページ ]


.


みんなの更新記事