えいきの修学旅行

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氏邦鉢形領紀行 終章

  ブロ友たけださんから頂いた研究論文をテキストに、4度の北武蔵遠征を経て11月7日に書き始めました氏邦鉢形領紀行、ようやく終章となります。
  
イメージ 26
 
   長々とおつきあい頂いた方が御座いましたら、感謝申し上げます。
 
 ざーとまとめますが、書いてきた内容ですので、横線のところまでとばしていただいてもかまいません。水色アンダーラインは追記。
 
   乙千代(氏邦)が北武蔵の有力国人藤田氏に入婿、一乱を経て、支城領・支城衆を形成・編成していく過程を、たけださん研究論文を基に、えいきのフィールドでの修学からその様相をブログ紀行にまとめてきました。
 永禄初期に入婿した氏邦ですが、永禄3年の越後長尾景虎の関東侵攻により藤田家は長尾方(上杉方)と北条方に分裂します。当初、反北条の上杉方が、泰邦遺族を立て本拠花園城周辺や天神山城を押さえ大勢をしめていました。北条方で確認できる城は用土氏の千馬山城のみでした。劣勢だった氏邦方ですが、北条直臣と用土氏等の協力を得て天神山城・高松城・日尾城を攻略、劣性を跳ね除け、永禄6年には一乱を平定、鉢形領を掌握します。上杉方であった藤田被官や遺族は北条の介入を受け没落。猪俣氏には北条家臣富永氏から邦憲が入ります。一乱を経て鉢形領を制圧・掌握した氏邦は、国人藤田氏統治機構による支配体制から氏邦を領主とし小田原北条勢力を背景にした統治機構へと再編します。知行宛行の権限も、小田原北条当主から氏邦に移行され(永禄7年6月以降)、氏邦は北条分国の支城主・その鉢形領は支城領・その軍勢鉢形衆は支城衆と成ります。
 
 氏邦鉢形領を取り巻く情勢が、甲相同盟の破綻(永禄11年(1568))、越相同盟の成立(永禄12年)、越相同盟の破綻・甲相同盟の成立(元亀二年(1571))と、大きく変わります。
  
 氏邦の鉢形領は、同盟関係から一転し敵対することになった西上野・信濃を勢力下におく武田勢との最前線、また敵対関係から一転し同盟関係となった上杉家との交渉口となります。
 
 氏邦の鉢形入城の時期は諸説あり断定できないが、永禄5年8月4日以降、同12年2月以前の間と考えられる。初めての入部先が鉢形であった可能性も比定しきれない。(伊藤 2011,pp.4-5) 
  
 おっと、たけだんは2012年に「戦国期武蔵八幡山(雉岡)城周辺における地域編成-衆編成を中心に-」のなかで、『長楽寺永禄日記』永禄8年8月19日条から、永禄8年八月段階では氏邦は鉢形城以外の城を居城としていることを後注(1)で指摘し、氏邦の鉢形入城時期を永禄8年8月以降に絞っていました。(平成27年1月2日追記)
 
 
 鉢形城周辺には新井氏が勢力をもっていたが、鉢形城は山内上杉氏が去って後は、城郭としての利用はされていなかったようで、この間(永禄8年8月以降、同12年2月以前(H27.1.2改訂))に氏邦が改めて居城として築城(改修)された。氏邦が居城とするのは藤田本城花園城でもよかったようなものだが、武田に抗するには、花園城よりも荒川南岸の鉢形のほうが有利であろう。そういった防衛上の事情と、新統治機構の秩序の体現のためには鉢形城居城は有効であったと思います。
 
  氏邦は、武田との同盟復活の成った元亀三年閏正月以降天正4年2月までに、山内上杉歴代の受領名安房守を称し、その支配を上野へ向け進めて行きます。 
 
 北条が本格的に上野を領国化するのは、天正10年3月武田の滅亡後で、真田は北条に従属(のち徳川→上杉に従属)、6月本能寺の変後、神流川の戦いで滝川一益を破ると信濃・甲斐にまでその鋭鋒を進めます。そして氏邦は、天正10年7月以降同15年11月に、北条名字に復し北条氏邦と称します。
 
 永禄12年越相同盟成立時には外交儀礼的に北条一門の格を有する位置ではなかった氏邦の北条内での立場・地位は、北武蔵から上野へ領国を広げ、大名級の実力を備えた経過をもって、その立場・地位が北条一門・北条氏邦と成ったのではないでしょうか。
 
 上記ような情勢を追いつつ、花園城→天神山城→千馬山城→日尾城→鉢形城→八幡山城と記事を書き進めました。
 
 研究者は文献史料や考古史料で証明できないと書けませんが、私は歴史好きな素人ですので、修学からの感想で書きます。
 
 氏邦入婿前(入婿時)の藤田の本城は、花園城だと思います。大藤田の本城に相応しい規模と構造です。後に北条の手が加わったとは思いますが、もともとの藤田の花園城の構想が大きく、構想を変えるほどの改修はできず、手を加えたとしても部分的な補修・補強程度であったと思います。一乱後、城としの使用が見えない天神山城にも、出入口の内枡形、横堀、折れ、石積による壁の補強が見られ、氏邦入部前から藤田の城郭普請技術として、これら構造を用いていたのでしょう。
 
 千馬山城は藤田時代からの城ですが、一乱時唯一北条方の城であり、一乱を平定していく過程でも制圧され帰順した勢力の人質を留め置くなど、北条方の拠点として機能します。一乱当初は氏邦は小田原に居たようで氏邦が入部するまで実質的に北条の出先最重要拠点城でした。北条の最新の普請技術が加えられ、横堀のラインの雰囲気(研究者ではないので雰囲気で書きます)、折れが、横矢を掛ける張出に進化したと考えます。
 
 さらに、鉢形城を居城とするに及び、鉢形城は城郭として機能しておらず、北条の構想による縄張、構造を用いた築城が可能で成されたのではないでしょうか。そして北武蔵防御から上野への進出という軍事要塞としての八幡山城へと、私には藤田から北条への時代の移りと軍事技術の進化にともなって進展していった様子が見えます。
 
 では、出入口の防御が郭の中の内桝形から郭の外の郭馬出へ、石積が壁の補強から見せる意図の石垣に、横堀のライン・折れが郭線防御構想による幅と直線・張出の組み合わせに、そして郭が巧妙に連携する縄張へと、目につく変化を写真を抜粋して掲載します。詳細は各城記事をご覧ください。
 
まず出入口の桝形の変化
 
イメージ 10花園城 内桝形
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7天神山城出郭 内桝形
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8天神山城出郭内桝形の前には、土橋で接続して馬出様区画があるが、背の城内側に土塁があり、またその郭からの出撃路が機能的には思えない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11鉢形城大手馬出
 
桝形は郭の外に出で構えられ、桝形自体が出撃部隊を収納する郭馬出となる。出撃部隊を敵から守るように、また敵から見えないように、土塁は郭の外に向かって設けられている。
 
 
 
 
 
 
イメージ 20
鉢形城 三の曲輪と二の曲輪を接続する郭馬出
 
曲輪と曲輪が、土橋と馬出をj経て接続する。その土橋には横矢が掛かる。
 
天神山城出郭に比べ機能的に進化している。
 
 
 
 
 
 
イメージ 12八幡山城 郭馬出
 
鉢形城と同様、北条の郭馬出
 
しかしこのようにもろにそのまま利用されると味気ない。
 
 
 
 
 
 
 
 
                                     次に石積から石垣への変化
 
イメージ 23
天神山城
 
石積による壁の補強
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 24花園城 
 
石積による壁の補強にとどまらない美しさを感じる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 21鉢形城 三の曲輪虎口内
 
河原石を用いた石垣になる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 22
鉢形城秩父曲輪
 
会所の池の背後、内に向け設けられている。
 
会所に通された人物が見る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                         次いで横堀の折れの様相
 
イメージ 9天神山城出郭の横堀の折れ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 13花園城 堀の折れ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 イメージ 6
花園城 堀の折れ 堀底から
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14千馬山城の横堀の折れ
 
藤田の堀・折れと雰囲気が変わる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 イメージ 15
堀底から折れ部を見る
 
堀の直線の雰囲気が防御線のように意図され、さらに折れが明確に張出構造になり、堀線に横矢を掛けているように見える。
 
北条の最新の築城術による改修か。
 
 
 
 
 
 
                                   ここからは明瞭な北条の氏邦の城 
 
                                   私の余計な講釈はいらないでしょう。
 
イメージ 16鉢形城
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 17八幡山城ほうき郭
 
堀の折れと張出
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 18鉢形城
 
郭の外線を喰い違わせ、郭が郭の外線を防御する。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 19八幡山城の記事で、郭が郭の外線を防御する構造や、郭の配置と、その郭の土塁の配置から郭によって郭を監視する構造を、わりと出来良くかけていると思います。
 
 
 
 
 
 
 
 

 では、紀行中で扱えなかった事項で、関連し私が興味を持った事項を3つ。 
 
イメージ 2八幡山城に近い生野山
 
氏邦が豊臣軍北国勢に鉢形城を開城する二日前の天正18年6月12日、上杉景勝軍が進軍。八幡山城周辺は豊臣方に制圧された。
その日、八幡山城衆であったと考えられる加藤出雲(良秀)は生野山で打死にする。
 
 
 
イメージ 1鉢形城下の良秀寺
 
加藤出雲の子供が出雲の屋敷地の跡地に親の菩提を弔うため建立した。八幡山城・鉢形城落城後の七月に豊臣方の岡本義勝が発給した史料(「武州文書」『新編武州古文書』上、角川書店、1975年、606頁)に良秀寺建立の経緯が読みとれる。(伊藤 2012,pp.57-8)
 
 
加藤出雲は鉢形城下に屋敷を構える氏邦家臣であり、小田原合戦時は八幡山城の城衆であり、6月12日八幡山城近く生野山において打死にした。敗れた側であるが、屋敷地に寺を建立することを許され、また寺を建立する力のあるほどの家であったと考えられる。
現在も周辺に吉田・新井と並び加藤姓は多く、小田原武士ではなく、元々鉢形城周辺に土着していた者が鉢形衆として氏邦家臣になっていたものと思われる。北条が滅び氏邦が去って後も、これら土着の侍達は許され元々土着の地に帰農、現在に子孫が続く家も多い。
 
イメージ 25久米六の井戸
 
八幡山城下久米家当主の館跡に今も残る井戸。
 
たけださんは「戦国期武蔵八幡山城周辺における地域編成」のなかで久米氏を特筆している。
久米家は児玉の有力町衆で、永禄7年6月18日、一乱を平定して間もない氏邦から過所・氏邦知行分に於ける諸役免許の朱印状を得ている。氏邦は八幡山城下の整備を久米家を活用し行った。久米氏は、北条が北武蔵に勢力を伸ばす以前の天文13年(1544)にも北条家より過所を得ている。武家の軍事支配が及ばない広域で商業を行う大商人であったようだ。
八幡山落城の天正18年6月12日には、即、前田利家より地下人・百姓の還住を保証する印判状を受けている。また小田原合戦後、領主となった竹谷松平氏も天正18年12月8日に久米氏等に児玉新宿役免許判物を与えている。(伊藤 2012,pp.58-9)
 
 
秩父衆の軍役・軍装・鉢形城内の掃除当番などの関しては、リアルな史料が残りますが著名でもあり、本ブログでは取り上げませんでした。
 
 イメージ 3
日尾城近くの小鹿野町両神簿の薬師堂
 
付近は人民断絶と評されるほどの武田勢の襲撃を受けた。
説明板によると武田の兵火により焼け落ちたのを鉢形城主氏邦が再建したという。天正13年から14年頃に氏邦は家臣とともに、薬師如来坐像と木造十二神将立像を奉納している。この十二神将立像の、ほぞには、それぞれ奉納した人物が旦那として墨書銘がある。
代表的な銘を鉢形城歴史館発行の『鉢形城主北条氏邦の信仰』より拾ってみた。
 
子守 願主成範 旦那吉田存 札
寅神 旦那猪豊後□久繁
午神 日尾城主旦那 諏訪部達江守
申神 旦那安房守 氏邦本命 星
酉神 旦那宝積坊 □鑁僧都
戌神 本郷越□神                    まるで氏邦帷幕のようではないか。
 
 
イメージ 4イメージ 5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 上段左から 申神、未神、午神               上段左から 寅神、丑神、戌神 
 下段          亥神、子神、酉神               下段          巳神、辰神、卯神  
 
 天正18年6月14日、豊臣北国勢に攻囲された鉢形城は、降伏開城する。氏邦は前田家に預けられ能登七尾で千石を宛がわれる。17年後の慶長二年(1597)8月8日に、能登で生涯を終える。
 
  鉢形開城に際しての氏邦の行動は「北国人数および浅弾人数、押寄すべく支度候処、急ぎ懇望申し、身命を助け候」  「前代未聞の比興者の由、敵味方申し候」 と武人としての氏邦の評価はよからぬもののように評されるむきがある。しかし、そうであろうか。私が寄居町で修学した限り、寄居町の人々の氏邦を慕う風は強い。また豊臣北国勢は、鉢形開城まで、秀吉に叱責されつつ2か月余りを要している。
 
これは鉢形城に拠る氏邦の武威・人望が「豊臣北国の大軍を寄せ付けなかった」と私は解釈したい。 人望故、氏邦自身も助命されたのだろう。
 
 
 たけださん論文を隅々まで読み返し、愚考しつつ思いついたことなどもあり、たいへん深い修学となりました。世のため人のためになれば、とも思いますが、まずは私自身の修学のため、ブログ書きつつ勉強しようと思います。
 たけださんの深い研究に敬意を表し、また御厚情と御教示を頂きました寄居町公民館長、郷土史家、鉢形城歴史館学芸員の先生方、鳥瞰図転載・参考とさせていたきました余湖さん、訪問の道標とさせていただきました るなさん、他応援いただいた皆様に感謝申し上げ、紀行を終わります。
                                                  平成26年12月27日
                                            えいき拝
 
参考文献
伊藤拓也(2011)「戦国期鉢形領成立過程における「一乱」」、『埼玉史談』第58巻第一号(通巻305号、埼玉県郷土分化会)

伊藤拓也 (2013)「新井氏と吉田氏ー鉢形衆の構成員ー」、『埼玉史談』59巻4号

伊藤拓也(2013)「戦国期日尾城における衆編成」、『埼玉地方史』67
伊藤拓也(2012)「戦国期武蔵八幡山(雉岡)城周辺における地域編成―衆編成を中心に―」、千葉史学 第61号
黒田基樹・朝倉直美(2010)『北条氏邦と武蔵藤田氏』、岩田書店
黒田基樹(2012)『戦国北条五代』、戎光祥出版株式会社
鉢形城歴史館(2004)『鉢形城開城ー北条氏邦とその時代ー』
鉢形城歴史館(2007)「鉢形城主北条氏邦の信仰」
鉢形城歴史館(2014)『関東三国志-越相同盟と北条氏邦-』
 

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 鉢形城は資料を方々に求めて内容が拡散し過ぎてしまいましたが、紀行最後はえいきの修学旅行の原点にもどり、たけださんの研究論文(2012)「戦国期武蔵八幡山(雉岡)城周辺における地域編成-衆編成を中心に-、『千葉史学』 第61号 をテキストに八幡山城の修学をまとめます。
 城以降の解釈は私の独善ですが、歴史背景については上記たけださんの研究論文を基に記述しています。
 
八幡山城は鉢形城よりも上野国境に近く、東は深谷・北東は本庄・西は御嶽城に通じる要衝に位置します。
イメージ 1
 
 元亀年間は氏邦家臣鉢形衆が寄親が城衆として在り、その筆頭に横地や黒沢がついていたようだ。黒沢については伝承のみであるが、横地左近については元亀4年(1573)以降八幡山城周辺を管理していた史料・成田氏長書状写(「百家系図57」戦北4783)があり、横地左近が八幡山城の城将であったことが証明される。横地の先代左近が小田原北条氏の家臣であったのが、氏邦につけられ、氏邦家臣鉢形衆に直ったものと考えられる。
 元亀四年というと、武田との同盟復活が成り、氏邦が山内上杉歴代の受領名安房守を称し(元亀三年閏正月以降天正4年2月まで)、その支配を上野へ向け進めて行く時期にあたる。
 氏邦の上野進出軍事拠点として整備された城と考える。
 
 天正7年6月横地は越後国境に近い猿ヶ京付近の土豪とみられる田村角内という人物に名乗りを認定する官途状(「細谷文書」『群馬県史』資料編7-2961号)を発行している。氏邦は、天正6年御館の乱に際し、軍勢を率いて沼田から越後樺野沢へ侵攻進駐している。横地も氏邦重臣として上越国境に進出したのであろう。
 
イメージ 2
別名雉岡城とも呼ばれ雉岡城跡公園として整備されている。
写真の公園入口はここ
 
入り口は南東隅から 分厚い土塁をぶち抜いている。
 
 
 
  
 
 
 
 
     現地設置雉岡城縄張想定復元図
イメージ 48白字はブログ説明用に命名・加筆してあります。
 
大手は鉢形城方向に向いており、上野方向に向かって二の丸・ほうき郭、さらに三の丸が構えられています。
 
 郭の配置と、その郭の土塁の配置から郭によって郭を監視する構造が読み取れます。
 本丸は二の丸・ほうき郭・南二郭を土塁越しに監視し、監視される郭の本丸側は土塁が切れていて本丸から見通されます。また本丸側には土塁が設けられ、それら郭からは見通すことかはできません。
 
 さらにほうき郭は南三郭東部低地を監視し、東面に張出を設け東面堀線に横矢を掛けています。
 
花園城、天神山城とは異質な北条ばりの堀、直線、張出、馬出を見ることができます。
 
 
 
いちぶ学校敷地となっていますが、永禄の後の元亀天正期の北条の城を十分堪能できる名城です。
 A・B地点は回遊のポイントになる地点です。
南三郭→大手→馬出→南二郭→本丸→ほうき郭と左回りに辿ります。
 
イメージ 3公園入り口の左、車道は、大手前南の堀にあたる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4入り口右は南西の水堀
 
内には分厚い土塁。 
 
じつは私の氏邦鉢形領修学旅行は、この八幡山城から始まりました。
 
 いきなり、興奮気味のスタートでした。
 
 
 
 
 イメージ 5
 入口はいると南三郭で、見えているのが低い東部。分厚い土塁が巻き、その外に上の写真の堀が巡りっています。
奥、きれているところに南三郭とほうき郭の間を本丸際まで入りこむ堀。
 
ななめ左上に高い区画。
 
左に南面土塁。
 
 
 
イメージ 7南三郭北東カーブ分厚い土塁下の堀際で城デート。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6
土塁のきれた先は、上の堀がほうき郭と隔て、本丸際まで入り込む。
 
この土塁の切れは、ほうき郭から監視・撃つことができるための構造と考えます。
 
ほうき郭には土塁が設けられています。
 
 
  
 
 
イメージ 8こんな凄い城公園、羨ましい。
 
ほうき郭は北条らしい直線と張出が設けられ、これも胸とおなかが一杯になるほどの遺構ですが、ぐるーと左からまわってきて後ほど紹介します。
 
入り口に戻ります。
 
 
 
 イメージ 9
 高い区画へ
大手口が入り、南二郭へ接続する馬出があります。
 
左には南三郭南面土塁。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10高い区画
 
塙塙保己一記念館が馬出に建つ。
 
右に堀で隔たり南二郭。堀底には夜泣き石。
 
左に大手。
 
 
 
 
 
 
イメージ 11南二郭と南三郭を隔てる堀。
堀底には夜泣き石。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 13馬出前、南に大手口
 
西は中学校で切り取られているが、じゅうぶん遺構を堪能できる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 12馬出前から南三郭南面土塁をみる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14大手に入ると鉤型に折れ、馬出に入る。
 
塙保己一記念館の、この乙な立地、素晴らしい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 15
土橋で馬出に入り、右に折れさらに土橋で南二郭に接続する。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 16右に折れ、土橋。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 17さらに右に折れ登る
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 18折れ登る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 19登り、左に折れる
 
 ここからはルートではなく、南二郭当面土塁かもしれない。
 
ここまで大手から4折れの導線。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 20進むと金毘羅神社
 
南二郭の東面土塁上か。
 
左に南二郭は中学校に削り取られている。
 
あまり残念にも感じない。
 
奥、本丸との間にも堀があり、木橋で接続していたようだ。
 
 
 
イメージ 22南二郭北東
 
左上に本丸
 
写真、木の緑でよくわかりませんが、堀(白塗り)が見事です。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 21線なし
 
斜め右上に堀底に降ります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

イメージ 23少し降りると堀が見易い
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 24先に辿ったA地点から本丸際まで入り込むと書いた堀がここまで入りこんでいる。
奥に見える土塁はほうき郭の南面土塁。本丸側には土塁がない。
 
 
二の丸は高校敷地になっている。
 
 
 
 
 
イメージ 25北条の堀!
 
 
 
 
 
 
 
大手馬出方向を振り返る。
 
 
 
 
 
 
イメージ 26夜泣き石がみえる。
 
奥突き当り上が馬出(塙記念館)への土橋。
 
 
 
 
 
 
本丸へ登ります。
 
 

イメージ 27本丸、二の丸は学校敷地に削り取られています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 28さきの南二郭と本丸の間の堀
 
木橋架橋で接続していたのだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 29本丸側架橋部か
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 30本丸
削り取られているが、左側に郭があったようだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 31本丸に児玉中学校
 
削り取られたのではなく、この高さの土塁で、郭内に建っているのか? としたら、凄!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 32北、行き止まり下に児玉高校グラウンド、校舎。
 
グラウンドが二の丸、校舎付近が三の丸。ことらには高低差があり、土塁がなくとも見通されないのではないか。
 
 校地向う、三の丸北の堀線は写真とりました。後掲。
 
 
 
 
イメージ 33
東下、ほうき郭との間の堀
 
 
ほうき郭の西面本丸側には土塁がない。
 
本丸から監視・制圧できる。
 
堀底に降り、ほうき郭へ向かいます。
 
 
 
 
 
イメージ 34この堀幅、まさに北条の軍事要塞。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

イメージ 35ほうき郭
 
南東隅をみている。
北部は消滅しているが、北条の直線と張出は明瞭に残る。
 
私はこの土塁だけでも胸が一杯ですが。
 
土塁下は南三郭と隔てる堀。
 
 
 
イメージ 36北部は消滅
 
が、気を落とすことはありません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 37東・張出部の堀
 
張出から横矢を掛けることができる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 38角度を変えて
 
八幡山城が紀行のラストですから写真ふんだんにいきましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 39張出から横矢が掛かる堀線
 
おくに最初のポイント南三郭・A地点。
ぐるーっと周ってきました。
 
車の後方に城デートの二人。
羨ましい。
 
 
 
 
 
イメージ 40堀の南三郭との接合部も、喰い違い・張出すことで横矢を効かすことができている。
 
 巧妙な仕掛け。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 41堀は南三郭との間、本丸際まで入り込む
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 43ほうき郭から堀を隔てて南三郭A地点をみる。
 
ほうき郭側には土塁があるが、南三郭は土塁がきれている。南三郭の低い東部は、ほうき郭から監視・撃つことができる。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 42ほうき郭南土塁西端より本丸を望む。
堀底左はB地点。
 
本丸は高い。
 
ほうき郭の本丸側には土塁がない。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 44すこし引いて、ほうき郭内から。
 
土塁は南面南三郭側
 
本丸側・西面には土塁がない。
 
ほうき郭は本丸から監視されている。
 
 
 
 
 
 八幡山城、いちぶ中学校・高校敷地になり消滅していますが、このように巧妙な郭の配置や、北条の堀、張出が堪能できます。氏邦が上野に乗り出す軍事拠点・要塞として、その武威を上野に向け放ったことでしょう。
 
 八幡山城は城将は横地左近ですが、氏邦の城であり、領域支配権や知行宛行の権限は氏邦が握っていました。横地左近は城将として城の管理や城衆の軍事指揮し、九郷用水の上・中流域の管理、城下の再編や開発を氏邦の指揮のもと行ったようです。
 
イメージ 45児玉高校校地南・三の丸外郭線
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 八幡山城は天正18年6月12日、鉢形城開城の二日目に落城する。
周辺では豊臣方と戦闘が行われ、生野山に進軍した上杉景勝勢との合戦で八幡山城衆の加藤出雲が討死する。エピローグで触れます。
 
 小田原合戦後、八幡山城周辺は竹谷松平氏に宛がわれ、氏邦と横地に分かれていた支配に係る権限は竹松松平氏に委譲され一本化される。竹松松平氏は慶長6年に転封になり、八幡山領を統轄する領主はいなくなる。
 近世に残る八幡山城周辺の児玉町市街は、氏邦・横地によって整備され形成されたものといえるだろう。 
 
イメージ 46児玉市街
 
再編には久米氏ら有力町人も関わった。
久米氏に関してもエピローグで触れます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 47
金谷天竜寺
 
横地氏の菩提寺のような寺院で、天正13年に現在地に移転されたと伝わる。
氏邦・横地によって城下町の形成が行われた証であろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 参考文献 伊藤拓也(2012)「戦国期武蔵八幡山(雉岡)城周辺における地域編成-衆編成を中心に-、『千葉史学』 第61号
 
参考サイト 旦さまと私 http://blogs.yahoo.co.jp/lunatic_rosier/55871723.html

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 鉢形領を掌握した氏邦は、支城主として北条氏当主より領支配の権限を委譲され、自らの領国を経営、自らの軍団・鉢形衆を養い率い戦国関東に立つことになる。
 
 永禄11年に甲相同盟が破綻、翌年越相同盟が成立すると、鉢形領は同盟関係から一転し敵対することになった西上野・信濃を勢力下におく武田勢との最前線、また敵対関係から一転し同盟関係となった上杉家との交渉口となる。
 越相同盟締結においては、氏邦が氏邦→由良成繁→沼田在番衆→山吉豊守→上杉輝虎の由良手筋を担い奔走する。武田方の攻撃に対しながら、鉢形城は北条の外交施設として他国使者との会談場所ともなっていた。
 
   現地設置鉢形城跡曲輪配置図(ブログ説明用に白・ピンク加筆)
イメージ 25三の曲輪の秩父曲輪が池を備えた会所、その南逸見曲輪は弁天島と池の痕跡があり、小船を浮かべて楽しむ園地だったのではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 1
私は大手馬出を経て土橋で三の曲輪への虎口へ至るのが大手と思っていたが『関東の名城を歩く 南関東編』や現地説明板では、そのようには記載されておらず、 逸見曲輪に入る大手を想定しているようだ。
 大手馬出は大手の出入口ではなく大手口を側面から防御する施設ということのようだ。
 この記事では大手馬出から三の曲輪へ入ります。
 
イメージ 2道路右側は水堀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 15大手馬出
(鉢形城1で紹介・参照ください)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3大手馬出から土橋で三の曲輪虎口へ接続している。ややスケールが小さい気はするが、これが大手だと思っていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4
右土塁上に櫓を備えた頑強かつ壮麗な門を想像していた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5入ると武者溜りのような空間。
内面には北条の石垣。
左、秩父曲輪の門前には蔀が設けられ、門への階段を隠していた。また蔀により、武者隠し区域・ルートが屈曲している。
写真奥が二の曲輪、右が逸見曲輪方向。
 
 
 
 
 
イメージ 22内から
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6武者溜り内面・櫓台下の石垣
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14櫓台上から秩父曲輪復元門をみる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7秩父曲輪へ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8門前から、大手馬出から接続する武者溜り・櫓台・虎口をみる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

イメージ 9
門入って、秩父曲輪内西面。
全長100mの河原石による石積土塁。
 
秩父曲輪は、上下段二層に分かれている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10
入ったところが下段郭で、説明板によると掘立柱建物跡と自在鉤や鍋などの生活用具が出土しており、日常生活の空間を推定している。
 
溝は石組排水溝。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11東端付近に石組井戸。
 
東は堀を挟んで二の曲輪
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
イメージ 12堀を挟んで二の曲輪
 
こちら三の曲輪側が城外側になるが、見通せている。
土塁が見通せないほどの高さであったとしたら、相当な高さで、どれほど凄い城壁であったであろうか。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 13ちょい右、南東方向
 
しかし堀向う柵後ろ土塁前に守備兵が居ても、こちらから射放題な気がする。ましてや背後の土塁が城壁状であったらなおのこと…。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 16振り返り、南東から秩父曲輪
左が低い曲輪で生活空間を想定。右が上段郭で、奥に池のある庭園があり、庭園を囲うように建物が建てられていました。茶道具やカワラケが出土していることから、宴会や歌会などを行う特別な空間を想定してる。(説明板より)
 
 
 
 
イメージ 17
会所であろうか
 
掘立柱建物跡を四阿と丸太で表示。
 
 翕邦挹福を行った地か。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 18庭園池跡
石垣も庭の景色か。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 イメージ 19
掘立建物裏
井戸跡
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 21雁木(階段)が設けられている
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 20北西隅から西面
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 イメージ 23
三の曲輪虎口脇櫓台上から逸見曲輪・弁天社方向
 
 
 
弁天社は池中の弁天島祀られていたと考える。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 24逸見曲輪
 
広大な園地を所持する者など、北武蔵のみならず、後に上野を領有化し、大名級の実力と格を持つに至った氏邦ならではの所産ではないだろうか。
同じく他家(大石)に入った氏康の男子・氏照の滝山城内にも設けられている。
 滝山城(注:なかなか重いです)http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/14195960.html
 
  
 越相同盟締結・稼働に中心になって奔走した氏邦であるが、永禄12年6月に越相同盟成立を示す血判起請文が輝虎と北条父子の間で交換された際、氏邦の血判起請文は作成が確認されていない。黒田は氏邦の立場が外交儀礼的に北条一門の格を有する位置ではなかった可能性をしてきしている。(黒田 2014,p.53)  
 
 氏邦は、武田との同盟復活の成った元亀三年閏正月以降天正4年2月までに、山内上杉歴代の受領名安房守を称し、その支配を上野へ向け進めて行く。甲相一和の国分協定は西上野を武田、北条は東上野を領有とされた。といっても実力による制圧・併呑である。
 
 このころ、上野国境に近い八幡山城を軍事拠点として取り立て、城将に鉢形衆横地左近を据える。八幡山城は次記事で修学をまとめます。
 
 天正6年謙信の死後発生した御館の乱に際し、氏邦は北条より上杉に養子に入っていた景虎を支援するため上野から越後にまで侵攻する。しかし勝頼と景勝が同盟し景虎が敗死。越後への進出は頓挫する。武田との同盟は崩れ、上杉より上野割譲をとりつけた武田が、西から沼田に迫る。氏邦は天正7年7月に沼田城を攻略しているが、天正9年6月、沼田城内にいた藤田信吉は武田方に内応、沼田領は武田のものとなる。この時、沼田城を守備していた鉢形衆は、信吉と武田勢に城の内外から攻めたてられた随分討死があったようだ(『管窺武鑑』)。藤田信吉は氏邦がはいった藤田氏の一門で用土氏であり、用土氏の権力は藤田に入った氏邦から次第に排斥されていたようだ。沼田城と沼田領は、勝頼からもう一人の安房守真田昌幸に預けられる。用土信吉は藤田に復姓、藤田信吉となる。(『北条安房守と真田安房守』)
 
 北条が本格的に上野を領国化するのは天正10年3月武田の滅亡後で、真田は北条に従属(のち徳川→上杉に従属)、6月本能寺の変後、神流川の戦いで滝川一益を破ると信濃・甲斐にまでその鋭鋒を進める。この時期が先の北信竹の城でとりあげた、景勝制圧下の北信井上を狙う真田重臣矢沢頼綱への北信濃井上の宛行を約束する印判状が発行される時期(天正10年7月)である。(景勝に阻まれ、井上の領有化は成らなかった)竹の城http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/16995193.html
 
そして氏邦は、天正10年7月以降同15年11月に、北条名字に復し北条氏邦と称している。
 
 永禄12年越相同盟成立時には外交儀礼的に北条一門の格を有する位置ではなかった氏邦の北条内での立場・地位は、北武蔵から上野へ領国を広げ、大名級の実力を備えた経過をもって、その立場・地位が北条一門・北条氏邦と成ったのではないだろうか。
  氏邦の地位が低かった背景に、氏邦の生母が側室だったのではないかという推論(朝倉直美 2014,p.65)がある。氏邦の母は氏康正室瑞渓院殿とされているが、側室で、三山綱定の姉あるいは娘であったのではないかという説で、越相同盟締結により上杉に養子に入った景虎と付き従った重臣遠山康光の例から類推している。三山綱定は北条二代目当主氏綱の重臣で、氏康が乙千代(氏邦)を藤田家に入婿させる際に取次に指名し乙千代に付き従わせ、以後氏邦が鉢形領・鉢形衆を掌握していく過程を後見・奏者として支えた重臣である。
 
 藤田乙千代から藤田氏邦へ、そして北条氏邦へと成る背景には、北武蔵掌握のため藤田家を継承し、一乱を経て領国統治機構ならびに軍勢の再編を行い掌握、北条の最前線として戦闘・外交に奔走、そして上野へと北条の勢力を拡張した氏邦が、実力・力量から藤田家名を必要としなくなったという状況と、その氏邦の働きを小田原北条当主が認めて一門に引き上げたということも考えられるのではないだろうか。
 
上野への進出については今回の修学・氏邦鉢形領紀行とはずれますので、本記事が11月以来書き綴ってきた氏邦鉢形領紀行のクライマックスになります。
 次に鉢形領の上野への進出軍事拠点として整備された八幡山城をまとめ、エピローグへとなります。
 
イメージ 26上野への地図
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参考文献 現地説明版
 伊藤拓也(2011)「戦国期鉢形領成立過程における「一乱」」、『埼玉史談』第58巻第一号(通巻305号、埼玉県郷土分化会)
 鉢形城歴史館(2009)『北条安房守と真田安房守』、寄居町教育委員会鉢形城歴史館
 黒田基樹(2014)「北条氏邦と越相同盟」、『関東三国志-越相同盟と北条氏邦-』、寄居町教育委員会鉢形城歴史館
 朝倉直美(2014)「越相同盟と鉢形領-氏邦と三山綱定と鉢形衆-」、『関東三国志-越相同盟と北条氏邦-』、寄居町教育委員会鉢形城歴史館
      

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鉢形城2

 現地設置鉢形城後曲輪配置図(ブログ説明用に白・ピンク字加筆 原図は1に掲載)
イメージ 24
 
その2では、曲輪をまとめました。本曲輪区域の御殿曲輪、御殿下曲輪、笹曲輪。
二の曲輪と辿ります。
 北東で荒川と深沢川が合流するため、曲輪は南西に向かって広がって設けられている。
 
 
 
 
  
イメージ 1
御殿曲輪は北西に向かって高く三段に区分けされている。氏邦はどこに居たのであろうか。
中段から上段の区画をみる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2現在南西隅(写真左奥)に遊歩道が入るが、中段区画以外の方向は、土塁を巡らし荒川の断崖と切岸城壁・土塁で侵入を拒んでいたと思う。
北西隅は櫓台状で、郭内下に窪地がある。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3北西隅
 
窪は井戸?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4北西隅土塁上
 
櫓台があがるスペースはある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5下は荒川の断崖
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6北西隅土塁上から御殿曲輪上段区画
 
 
御殿曲輪は北東に向かって下がって行きます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7中段区画
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8下段区画
 
荒川の断崖沿いの土塁を背に鉢形城本丸跡の碑がある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9鉢形城本丸跡
 
ここを中心郭としているのか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10御殿曲輪北東は、1で紹介した堀イで尾根を掘り切っている。
 
この下方に笹曲輪がある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11
笹曲輪
 
笹曲輪には北条後の成瀬時代の石垣がある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 12
笹曲輪の石垣
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 13北条の石垣ではなく、成瀬時代の石垣。
秩父曲輪や馬出Bに見られる石垣とは積み方が異なる。
 
 
 
  
 
では御殿下曲輪へ
 
 
 
 
イメージ 14御殿下曲輪
 
説明板では、ここも含め本曲輪とし、上級武士の館地区としている。
 
道路右(東)には寄居町シルバー人材センターがある。
 
 
 
 
 
 
イメージ 15御殿下曲輪に建つ寄居町シルバーセンター  
 
立ち入れなかったが、曲輪配置図によると写真奥、深沢川に沿って土塁が設けられているようだ。
 
 
  
 
では二の曲輪へ
  
 

イメージ 16
この段差が御殿下曲輪と二の曲輪を分けるものなのか、二の曲輪内の区分けなのかわからないが、明瞭な段差が残る。左が御殿下曲輪方向、右が二の曲輪・三郭の曲輪方向。
 
城外のほうが高い…。
防衛上の構造ではないかも。
 
 
 
 
イメージ 18中ほど、通路で接続している
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 21二の曲輪
 
北西隅に城山稲荷神社。
その脇から1で辿った馬出Bを経て三の曲輪の秩父曲輪へ接続する。
 
三の曲輪・秩父曲輪とは最大上幅約24m,深さ約12mの大規模な堀で隔てられている。
 
 
 
 
イメージ 17
堀に沿って土塁が設けられているが、高さが不明なことから位置を示すことを目的に低く復元してある。(現地説明版)
 
二の曲輪からは、掘立柱建物跡・工房跡・土坑・溝などが検出されている。工房は炭や鉄滓、鞴の羽口が出土していることから、鍛冶工房と判断された。(これも現地説明版)
 
 
イメージ 19北西隅城山稲荷神社
 
この後背下で、馬出Bを経て秩父曲輪と接続する。
 
この北西隅高地を櫓台として秩父曲輪ー馬出Bー三の曲輪への接続口を監視していたのだろう。
 
 
 
 
 
 
イメージ 20馬出Bから二の曲輪と三の曲輪を隔てる最大上幅約24m,深さ約12mの堀をみる。
 
二の曲輪土塁と堀との間に広く長い空間は、現地説明版によると敵に攻められた際に城兵が守備につく空間と思われるとされている。
 
だがそこに居ては、高い三の曲輪を占拠した寄せ手に、皆殺しにされそう…。
 
 
イメージ 22再掲(鉢形城1)ですが、反対(東)から。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 23馬出Bから秩父曲輪
 
 
 三の曲輪秩父曲輪・逸見曲輪は氏邦鉢形領紀行のクライマックスを兼ねて3でまとめます。
クライマックスは最終回ではありません。まだ八幡山城と上野への進出を書きます。
 
 
 
 
参考文献 現地説明版
       峰岸純夫・齋藤慎一(2011) 『関東の名城を歩く 南関東編』、吉川弘文館

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 氏邦鉢形領紀行、一か月かかりましたが、ようやく鉢形城へと辿りつきました。
 
  永禄6年(1562)には一乱は終結し、日尾城周辺のみならず、鉢形領域全域において軍勢・知行の再編が行われる。そして氏邦に付属されていた小田原北条直臣たちが氏邦家臣へと直り、知行宛行の権限が小田原北条当主から氏邦に委譲されていく。 (伊藤 2011,pp.5-6)
 一乱を経て鉢形領を制圧・掌握した氏邦は、国人藤田氏統治機構による支配体制から氏邦を領主とし小田原北条勢力を背景にした統治機構へと再編する。
 氏邦の鉢形領・鉢形衆は永禄6年2月〜翌7年6月に成立した。
 
 氏邦の鉢形入城以前、鉢形城付近には新井氏が勢力を持っていたが、山内上杉氏が鉢形城から去って後は城郭として使用してはいなかったようだ。
 
 氏邦鉢形領を取り巻く情勢が大きく変わる。
 甲相同盟の破綻(永禄11年(1568))、越相同盟の成立(永禄12年)、越相同盟の破綻・甲相同盟の成立(元亀二年(1571))。
 
 氏邦の鉢形領は、同盟関係から一転し敵対することになった西上野・信濃を勢力下におく武田勢との最前線、また敵対関係から一転し同盟関係となった上杉家との交渉口となる。
 
 氏邦の鉢形入城の時期は諸説あり断定できないが、永禄5年8月4日以降、同12年2月以前の間と考えられる。初めての入部先が鉢形であった可能性も比定しきれない。(伊藤 2011,pp.4-5) 
 黒田は永禄12年(11年?)12月の氏邦駿河出陣時まで、氏邦の本拠を花園城とし、12年2月までの間に本拠を鉢形城に移したとしている。氏邦出陣前であったか留守中であったか確定できないが、武田との対戦に備えてのものであったとしている。(黒田 2014,p.56)
  
 氏邦が居城とするのは藤田本城花園城でもよかったようなものだが、花園城は荒川北岸にあり、上野からの上杉の侵攻、後に同盟関係から一転し敵対することになった西上野・信濃を勢力下におく武田勢からの侵攻に対しては、鉢形領は北条の最前線になる。荒川北岸の近く御嶽城は争奪の的となり、敵方となることもあった。 イメージ 1永禄12年2月20日には武田勢により鉢形城が攻撃され、鉢形衆が迎撃している。武田との同盟が復活する元亀二年末まで、氏邦の鉢形領内は、再三にわたる武田勢の襲撃により「人民断絶」と評されるほどの侵攻を受けた。
 
武田に抗するには、花園城よりも荒川南岸の鉢形のほうが有利であろう。そういった防衛上の事情と、新統治機構の秩序の体現のためには鉢形城居城は有効であったと思う。
  
 
 
 前置きが長くなりました。
 氏邦が翕邦挹福を実行する居城・鉢形城を いきましょう。
          現地説明板鉢形城跡曲輪配置図
イメージ 40
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鉢形城を攻囲し攻城戦を行うとなれば、敵は荒川を渡河し、小田原方向を背に鉢形城に寄せることになる。
頑強に抗戦して最中に後詰が来援すれば、寄せ手の背後から包囲、鉢形城籠城勢とで挟み撃ちにできる。
挟撃されるを避け、撤退するには荒川を渡河しなければならない。退却する敵を荒川渡河時に襲撃、その断崖と急流に追い落とすことができれば、敵に多大な損害を与えることができるであろう。
 
後詰が来援する前に城を落そうとすれば猛攻となろう。後詰が駆け付けるまで猛攻を凌ぎ城を維持するための防御ラインは、堀により三重構想に構えられていたのではないだろうか。(注:あくまで私の愚考です)
                                                                      イメージ 41荒川の断崖を背に、御殿曲輪を主郭にその前に堀ア・イで構成された第3防御ライン。
 
 その外郭に二の曲輪・御殿下曲輪・笹曲輪を配し、前に深沢川と堀ウ・三の曲輪と二の曲輪をj隔てる堀で構成された第二防御防御ライン。
 
 その外に三の曲輪・外曲輪を配し、その前に堀を巡らした第1線防御ライン。
  (もっと外に惣構え的な堀があったかもしれませんが)
 
 搦手は荒川と深沢川の合流点方向に搦手を置き、といっても合流点付近の断崖は、敵前にとても攻め寄せることなどできない。対極の三の曲輪西に大手を置いていた。
 
 また第一防御線出入口、第二防御線出入口には郭馬出を設けている。
 
その1では、三重の防御ラインを、その2で居城としての曲輪をテーマにまとめてみます。
 
イメージ 2背後は御殿曲輪背後は荒川の断崖
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3深沢川と荒川の合流点近く、深沢川に架かる搦手橋
 
といってもここを架橋し城外と接続していたわけではないようだ。
 
 
 
 
 
 
イメージ 4深沢川に架かる搦手橋上から、荒川合流地点
 
一筋、道はあったそうだが、こんな崖を敵前に登り降りできないだろう。
 
 
 
 
 
イメージ 5
 氏邦の力量が見える気がする
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6搦手橋の城外がわ横に搦手馬出がある
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7馬出しには見えない。
 
お祭りの基地になっているようだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8外曲輪に鉢形城歴史館
 
寄居町公民館長の御厚情により、郷土史家、学芸員の先生をご紹介いただき、懇切丁寧なご教示を頂くことができました。お名前は伏せますが、ここに感謝申し上げます。
 
 
 
イメージ 9
 鉢形城歴史館の南西、外曲輪前の堀エ(第一防御ライン)
 連雀小路と鍛冶小路の間にあたる。
堀向うに後述する良秀寺(写真には写っていません)。
 堀幅が花園城、天神山城の比ではない。
武田、上杉に対した永禄・元亀以降も、天正18年の豊臣勢の来寇まで改修増強がされたことであろう。
 
イメージ 10大手付近の堀
威容もある。
 
出入口には北条の郭馬出が設けられている。このへんも花園城、天神山城とは次元が異なる。
 
 
 
 
 
 
イメージ 11鉢形城大手馬出
 
氏邦居城の玄関口。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 12大手馬出
郭ってて土橋で接続。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 13馬出を守る堀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14堀と土塁で囲われた大手馬出内 諏訪神社が鎮座。
 
城内・三の曲輪への入口でだけでなく、社殿右奥にもう一つ接続口がある。
 
 
 
 
 
 
イメージ 15本殿脇、北西にもう一郭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 16大手馬出の堀が囲い込む
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 17城内・三の曲輪への接続口
 
土橋で、三の曲輪城門へ接続する。
 
 
曲輪についてはその2でまとめます。
 
 
 
 

第二防御ラインは深沢川と堀ウ、三の曲輪と二の曲輪を隔てる堀で構成されている。
イメージ 18搦手橋から城内側の深沢川
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 19鉢形城歴史館北西背後付近の二の曲輪と外曲輪を隔てる深沢川
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 20城内に取り込んでるってのが凄い。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 21現在は鉢形城歴史館に接続している。
 
二の曲輪側に枡形のような低い一郭があり、またサイドに馬出Aがあり、往時もこの辺で接続していたのであろうか。
 
 
 
 
 
イメージ 22枡形のような一郭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 23深沢川に面し、馬出A
 
深沢川に垂直に堀ウが接続し掘られ、第二防御ラインが折れ設けられている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 24堀ウ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 42
三の曲輪と二の曲輪を隔てる堀
 
発掘によると畝があり障子堀であった。
二の曲輪は堀に沿って土塁が設けられていた。
 
このどん詰りに三の曲輪の秩父曲輪と二の曲輪を接続する馬出Bがある。
 
イメージ 25第二防御ライン北端
三の曲輪の秩父曲輪と二の曲輪を接続する馬出B
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 26もう一枚
 
小さいが堀は鋭く深く、また馬出内には西・南・東に石積補強がされ強固な石積土塁の高さが保持されている。
 
 
 
 
 
 
イメージ 27馬出B内
 
小さいが郭ってる。
 
左には五段の石積土塁
 
 
 
 
 
 
 
 
 イメージ 28
西面石積土塁
 
草でいまいちよくわかりませんでしたが、説明板では全長約17.5m、高さ約2.3m、馬踏(上幅)約2.3m、敷(下幅)約6.9mの五段の石積が施されている。
 
 
 
 
イメージ 29
馬出Bからは土橋で二の曲輪へ接続する。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 30土橋左(北)は荒川の断崖
第二防御ラインの北端。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 31二の曲輪へのルート
二の郭北西隅の監視を受ける。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 二の曲輪と御殿下曲輪との間に道路が通り、この道路が堀跡であればもう一重防御ラインがあるのことになるのですが、わからないので御殿曲輪を囲う、切岸下際の堀アと笹曲輪側の尾根を分断する堀イを第三防御ラインとしました。
イメージ 32
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 33城壁のような切岸下際に堀ア
 
氏邦の最終防御ライン
落城か、後詰が来るか、というギリギリの状況での攻防ライン。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 34ずいぶん埋まっているのだろうが、障子・畝の痕跡のような構造がある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 35
折れを伴い障子畝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参考までに山中城の障子堀写真を一枚。
 
 
 
 
 
イメージ 36山中城障子堀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 37鉢形城も往時は同様であったことであろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 38堀ア中を土橋で御殿曲輪の高地中ほどの上がる虎口
 
右(北東)に高地を分断する堀イ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 39堀イ
 
右(北東)下方に笹曲輪
 
 
 
 
 
その2では各曲輪内を巡ります。
 
 
 
 
 
参考文献 伊藤拓也(2011)「戦国期鉢形領成立過程における「一乱」」、『埼玉史談』       第58巻第一号(通巻305号、埼玉県郷土分化会)
       黒田基樹(2014)「北条氏邦と越相同盟」、『関東三国志-越相同盟と北条       氏邦-』、寄居町教育委員会鉢形城歴史館

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