えいきの修学旅行

4時起きで作手へ。明けやらぬ灯りの少ない信濃の国を駆け抜ける。先月断念した木和田城ヶ根城に到達。御嶽海、頑張れ。

平成27年作成

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全12ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

古宮城2

 
 その2では、ルートを辿りながら、古宮城を堪能しましょう。

 まずは、北大竪堀下の北麓の出入口付近から、北大竪堀底を土橋Dまで、次いで大手ルートと郭2北西下土塁上で集合する地点まで辿ります。
イメージ 56


















イメージ 1北大竪堀下方
写真右側には大竪土塁が沿う。













イメージ 2北大竪堀下方

右竪土塁にも切り口があり、東西両外郭土塁内に通行もできる。後ほど。まずは土塁外の堀への接続をみます。









イメージ 9北大竪堀下端

ガードレールの手前に外周の水堀の痕跡。












イメージ 13
外周の水堀















イメージ 10外周水堀との接続部

橋で城外と接続していたか、あるいは城外が湿地であれば、船の出入口であったのではないか。
船を引き入れ、物資の積み下ろしをするゾーンと観る。








イメージ 11
堀に接続

堀城内側左(西)には外周の一重目土塁が囲う。













イメージ 12下方から北大竪堀

竪堀底は、船から降ろした物資を引き上げる搬入路であった可能性がある。

山上に向かって右(西)に土塁切口があり、山麓を囲う土塁内平地に接続している。





イメージ 16山上に向かって右(西)の切口

北大竪堀西の区画は大手ルートに接続し、中枢に至る。度肝を抜く構造が待ち構えている。後ほど。









イメージ 14左(東)は、現在竪土塁下部を乗り越すことができるが、西の切口とは明らかに違い、土塁で塞がれていたと考える。











竪堀東 イメージ 3大竪土塁

乗り越え不可能。













イメージ 17大竪堀西は竪土塁状の高地を段差で区画し、郭Ⅲまで三段の小防御郭が設けられているようだ。

その段差には、昇降は困難であろうが、物資を引き込むことができそうな切口もある。






イメージ 15堀底登坂は、迎撃・妨害がなければ困難ではない。














イメージ 4
登っていくと、郭Ⅰ北線ー郭Ⅲ北ラインで傾斜が緩くなり、横堀状に変化し、ややカーブする。この先は正面頭上に南西区画が待ち構え、また左側面頭上には郭Ⅰ西部が塁線土塁を伴い、土橋Dに至るまで厳重に監視される。







イメージ 5見事に張出した南西区画が、、正面から迎撃。














イメージ 6折れ歪みを伴った横堀形状にも見える














イメージ 7奥は大竪堀上端 土橋D

右、郭Ⅲから虎口C前の屈曲部は、迎撃兵が横矢を掛ける左の郭Ⅰ西部・南西区画よりも低い。
左の郭Ⅰに堀底からあがることは不可能だが、右に上がることは可能。しかし、上がったところで、さらけ出した身体に郭1から横矢を射込まれるだけ。



イメージ 8土橋D(その1掲載写真)

土橋Dには堀底からの高さがさほどない。堀底を引き上げた物資を付近で城内に受け入れることができる高さ造作であろうか。










 湿地の水運により、物資を集積するには、当該地域の水運を支配管轄していなければならない。
 謙信が根利道の権益を侵害したとして阿久沢氏に訴えられている例もあり、国人にとって街道や水運の支配権限は重要な権益だった。越後においては、景勝が豊臣大名となるに及んではじめて国人領内の街道・橋・水運の権限に介入できている。
 それほど重要な権益を元亀末から天正初期の段階において奥平が武田に差し出すであろうか。武田が軍勢を遠江・三河に進めるにしても、それは奥平(山家三方衆)の案内があってはじめて可能になる軍事行動であり、街道や水運といった奥平にとって重要な権益を差し出させるほどの強権を武田が奥平に行使したとは思えない。
 水運を利用して物資を搬入する勢力は、この地域の領主権を持った勢力であろう。それに武田の補給は現地での集積もあろうが、信濃から行われたと考えるのが妥当ではないか。天竜川のような信濃からの河川が流れていれば舟運による兵站補給も行われたと思うが、作手の場合、信濃から運ばれてくる物資の大半は牛馬に積まれて運ばれてきたことと考える。牛馬に積まれた物資を古宮城に搬入するために作手で船に積み替えるということは不合理ではないか。
 とすると、舟運を利用して古宮城に物資を集積した勢力は、奥平か、後の徳川になると考える。


 北大竪堀の西切口から竪堀西区画に入り、大手土塁上ルート(白ルート)に合流しましょう。

イメージ 57



















イメージ 19北大竪堀下方西切口を入ります。














イメージ 18入ると、外から二重目の土塁内

左に、三・四・五重目となる土塁線が…。











イメージ 55段々の小テラス状区域を経て、三・四・五重目の三重の土塁線(郭Ⅱ塁線も含めると四重)が、北から西に向かって構えられている。それらは郭Ⅱ塁線北西隅監視下にある五重目土塁上(大手ルート)で集合する。このような構造は、北信・越中の武田・上杉城郭で私は見たことがない。三重目の塁端が低く、そこから土塁上を伝い、もしくは三重目と四重目の間、五重目と四重目の間の堀底を伝い、集合か。

イメージ 20五重目・四重目間の堀底は明確に通路状。

四重目塁端は城戸を想わす構造にも見える。











イメージ 60
三重目土塁、三重目と四重目間の堀底

いずれも通行可能だが、一列でしか通行できず、完全に側面から監視を受けた通行になる。

左にカーブしつつ登り集合する。






イメージ 61
四重目土塁端が、ちょうど城戸監視のように際立つ。後ほども触れるが、四重目土塁端と、これら塁上に小石を寄せ集めた構造が随所にある。作手山城案内人原田純一に伺ったところ、近現代の境界を示すものではないか、との見解をいただいた。私は旗塚のような、旗を立てる基礎ではいかと考える。これは、あくまで私のロマン思考であるが、城側の旌旗を立て、勢威を示した可能性もあるのではないか。


イメージ 62
 累々に旌旗立ち並ぶ威容を思うと身震いがする。
 その勢威を示す方向は、北、あるいは北西で、作手街道の北に向かって(作手街道を作手に南下する勢力に向かって)である。










  ここで北大竪堀下方西切口を見下ろしてみます。

イメージ 21
侵入者は水堀から北大竪堀下端に入り、右に折れ、この出入口を入る。そこは、段々の小テラス区域ならびに上の塁線からも完全な監視下にある。










イメージ 22
折れ構造により、入るまで累々とした内部構造は見えない。入って、あの累々を見たら度肝を抜かれることだろう。その時には射殺されていそうだが。

このような出入口構造も北信の武田・上杉城郭では見ない。






  では、城の南西、A虎口から大手ルートを辿り、集合します。


 
       大手は、城の南西部が推定される。

イメージ 59



















イメージ 23大手と考えられる南西部は、民家敷地に接していて、現況ではどのような構造であったかはわからない。











イメージ 63大手は、作手街道に接し、方向としては亀山城方向に設けられていることになる。

通常、城の大手は自領(自勢力)側に向かって設けられる。









イメージ 25
西は唯一の陸続き部で、外周に堀、内に三〜四重の土塁線を設け防備を固めている。西と言っても北西面にあたり、先述の北大竪堀とで囲い込んでいる。
その囲い込みで備えているのは、北西方向で、作手街道を北から南下する勢力に対してである。





イメージ 24
囲い込む土塁

私のその2のテーマはルートに絞ってあるので、このエリアは深入りはせず、後ほどルート上から俯瞰します。



ルートに戻ります。





イメージ 58
白ルートをB虎口付近まで辿ります。概ね佐伯提唱大手ルートです(愛知の山城では詳細まで記述されつくしていない)。














イメージ 26街道との接続構造は分からないが、大手虎口Aに向かう道は雰囲気が残る。













イメージ 27横堀線に番所風

先、左に折れると虎口A。
見通せていない。












イメージ 28横堀線















イメージ 29クイっと左折れ















イメージ 30桝形様の虎口Aに入る

右手は高く桝形を固める。

これも武田の虎口ではないのではないか。










イメージ 31
正面奥には高く郭Ⅱ

郭Ⅱからの監視状況は、その1に掲載。

右にコの字状の小郭が隠れている。

左側面には土塁囲いの郭Ⅳ。

これは武田構造とは異なる構造で、また、亀山城類似と観たほうが妥当ではないか。

イメージ 32右のコの字状の小郭

馬でも繋いだか、城兵が隠れていたか。高地は櫓台状に優勢に立てる。











イメージ 33
左側面に土塁囲いの郭Ⅳ
















イメージ 42郭Ⅱから俯瞰(その1掲載)














イメージ 34虎口A入ると郭Ⅱ南西隅直下にぶち当たる

大手ルートは左(西)に折れ、郭Ⅱ下土塁上通路を西から北へ回り、虎口Bまで周るる。
右方向は佐伯は紙面の都合か記述していない。
先に右方向に進んだ場合の現況を見ておこう。




イメージ 35ガバっと約30mにわたりえぐられている。現況では上端を通過でき、郭Ⅱ南切岸下をまわり土橋Dに至ることができるが、往時は南回り(上端通過)はできなかったのではないか。できたとしても、頭上の郭Ⅱの妨害があっては、崖に落とされ通行は無理であろう。







イメージ 36虎口A入って郭Ⅱ切岸下にあたり、左

郭Ⅱ切岸下横堀を進んだtところで、郭Ⅱ頭上からの迎撃を避けることなどできず堀底で殺されるだけであろう。

土塁上を進む。






イメージ 37西から北に陸続きが想定される面には、累々と備えている。
先ほど深入りせず戻ったゾーン。











イメージ 38
内土塁線は、北に向かい備え構えるように大手ルート土塁と組み合わさった構造になっている。












イメージ 39この備え、繰り返して書くが西から北に向かって(作手街道を北から南に南下する勢力に対し)構えられている。











イメージ 40大手ルート土塁と組み合わさる

後に強化したとか、改修という構造ではなく、最初から作手街道を南下する勢力に対し構築された構造と観る。








イメージ 41大手土塁ルート

一列で、右側面高所の郭Ⅱから終始横矢を掛けられながら、ここを通過しなければならない…。










イメージ 43堀底も歩行は可能だろうが、這い上がることは困難。這い上がるもなにも、郭Ⅱから頭上射撃を受けたら逃げようもない。また土塁上・堀底ルートを攻め入るのではなく、北西から軍勢で波のように寄せたとしたら、累々・堀底が防波堤や波消ブロックのように機能し、防御ラインとなる。そこを上の塁々から迎撃すればよい。



 防御ラインの構築という発想も、上杉では天正にようやく顕れる構想で、織田との越中戦線における織田との抗争の中で戦国後期に発達していった城郭構想と考えている。

イメージ 46
土塁上には先述の土塁上の石を集めた構造が随所にある。
私は旌旗を立てる基礎と観るが、原田は近現代の境界を示すものではないかとする。

またまた繰り返すが、これらは北西に向いている。作手街道を南下する勢力に対し向けられているのである。



イメージ 47北麓からの土塁線が集合する付近にもある。















イメージ 44三重目土塁が北下から接続する。














イメージ 45四重目も
















イメージ 50集合地点は、側面頭上郭Ⅱから、完全に捉えられている。














イメージ 49
集合地点を郭Ⅱからみる(その1掲載)













イメージ 48さらに、北大竪堀下端からの出入口を見る。

累々、厳重に見張る。













イメージ 51そしていよいよ古宮城中枢への最厳重関門区域。
虎口Bー郭Ⅲー虎口Cー郭Ⅱ東部が厳重に重なり、寄せ手の侵入を阻む。

その1で記述したが、そこは、防御構造が従深に重なるだけでなく、郭Ⅰ西部・南西区画から執拗に横矢を受けるのである。




イメージ 52もうひとつ小技を。

虎口C前の屈曲部は、この土塁通路に対し土塁を備えている。郭Ⅰ側には土塁はない。つまりこの土塁通路を城中枢に向かう敵に対し、虎口C前の屈曲部に居る城兵は土塁に拠って撃つことができる。土塁上通路を進む敵は身を晒している。もちろん右側面高く、郭Ⅱが横矢を掛けている。



イメージ 54虎口C前屈曲部土塁から大手土塁通路を見る。(その1掲載写真)

迎撃兵は、土塁に拠っているが、この背には土塁はない。つまり、この屈曲部に至った寄せ手は背の郭Ⅰ西部に身を晒して横から射られるのである。
郭Ⅱからの横矢にも晒されながら、ここを通ってくることなどできるであろうか。

古宮城、二部構成の予定でしたが、三部構成にします。


イメージ 53
その3で、虎口Bから中枢部に突入します。(その1掲載写真)


その2で見てきた中に、私は武田の要素を感じない。
馬念さんにブレーキを掛けられています…。







参考文献 愛知中世城郭研究会・中井均編(2010)『愛知の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版
       徘徊後、原田純一作手山城案内人より数多くのご教示をいただいた。




この記事に

開く コメント(2)

開く トラックバック(0)

亀山城の西から北にかけて、文殊山城、賽之神城、古宮城と、つらなるように築かれている。
イメージ 1

古宮城の周囲は湿地で、作手街道に接する西側が唯一陸続きだったようである。南西麓が大手と考えられ、作手街道を挟んで賽之神城と連絡し、呼応するような関係にある。

位置関係は作手へを参照下さい。http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/18106303.html


イメージ 45
古宮城(南から)















イメージ 51作手資料館展示古宮城ジオラマ

南の白鳥神社周辺の構造は、神社造成による改変が考えられる。

白鳥神社はここ






  古宮城は、遺構がよく残り、くまなく紹介すると膨大な内容になってしまいます。
 佐伯哲也が『愛知の山城ベスト50を歩く』の中で記す古宮城の記述を参考に、えいきの修学旅行では以下の2部構成で綴ります。
 その1で古宮城の中枢である郭Ⅰと郭Ⅱ、場内を二分する大竪堀、郭Ⅰ東麓を紹介します。
 その2では大手ルートと北大竪堀下からのルートを辿り、ルート設定の妙を堪能します。

イメージ 50まず中枢主要部・郭Ⅰ東部からいきましょう。

ブログ説明のため、佐伯哲也作図古宮城跡概要図に準拠した名称の郭名Ⅰ〜Ⅳ、地点A〜Dを白字で、えいき呼称を桃字で表示してあります。














イメージ 49主郭となる郭Ⅰの大手門に相当する虎口E

武田の両袖桝形虎口と呼ばれる形式で、虎口の出入りで喰い違い桝形内で屈曲する。
この虎口構造は武田の特徴ではあるが、武田後に使用した信濃・遠江の徳川城郭においても、採用を考えることができると思う。



イメージ 2いきなり書き込みなしも。


入城は、その2で大手ルートを辿って、しましょう。











イメージ 3
高さ、幅とも約4m(佐伯)の重厚な土塁














イメージ 48郭Ⅰは仕切り土塁で区画され、佐伯は東部を居住空間、西部を戦闘空間と、機能を分けて考えている。西部は大竪堀ならびに郭Ⅱ東部、主ルートに対し横矢を掛ける迎撃郭と考える。

まず郭1東部周辺を見てきましょう。





イメージ 4郭Ⅰ東虎口

桝形ではなく、スロープ状。














イメージ 5東麓に降りるルートもあったかもしれないが、よくわからない。
右(南)に回り、虎口E前に接続している。











イメージ 6東麓
土塁が平地を確保し囲っている。土塁の外には堀。













イメージ 7南に回り、虎口E前に接続する切口














イメージ 8切口のさき、横堀に沿って土橋があり、土塁上の通路となる。













イメージ 9土塁上通路は虎口E南前の帯郭に接続する。

スロープ状の東虎口から出撃し、虎口E突入を迫る敵の背後を襲う構想のルートではないか。

このように写真掲載容量を浪費していては、ブログが膨大に成り過ぎてしまう…。

東虎口から郭1に戻ります。


イメージ 46東虎口から郭1東部

虎口E側の南土塁は高く厚く重厚に構えられている。












イメージ 10
郭1東部、東から北かけては土塁は低く薄く囲郭する。


下方には竪堀、竪土塁、それら囲われた郭がある。









イメージ 11
上下は切岸、左右は竪土塁に囲われた郭。機能や、どう運用したのかわからない。












イメージ 12うえ写真の郭の北側竪堀

北信の竪堀よりも幅が広い。












イメージ 13
東側竪堀を下方から

北信の山城とは構造物のスケールが違う。私は踏査当初、勝頼すげーなっていう驚愕と、織田徳川と戦う厳しさを思って戦慄する思いで徘徊していた。








イメージ 14山麓は平地部を確保し、土塁で囲ってある。
土塁の外は水堀であったようだ。

佐伯は「山麓を横堀で囲い込む縄張を持つ武田氏城郭は、管見の限り存在しない。横堀で山麓を囲い込む縄張は、小牧・長久手の合戦で徳川家康の本陣となった尾張小牧山城で見られる。」と、古宮城の築城者を武田に限定するのは早計とする根拠のひとつとしている。

ちょうど前日、私は小牧市まなび創造館で開催された平成27年歴史講座「織田信長をめぐる人々」第三回 平山優 「信長と武田信玄・勝頼親子 −三方原、長篠合戦を中心に」 を拝聴するため小牧市に遠征、小牧山城を見学した。

イメージ 54小牧山城ジオラマ
山麓を土塁、堀で囲いこんである。










イメージ 55小牧山城山麓を囲い込む土塁


私も構想的に小牧山城山麓との類似を感じる。



郭Ⅰに戻り、西部を見ましょう。





 次は郭Ⅰ西部、戦闘郭です。

イメージ 52








       


                              虎口E西土塁上から郭Ⅰ西部
イメージ 15
左(西)側は、土塁下に北大竪堀が北麓まで走り、対岸は大手ルート並びに北大竪堀下端の出入口からのルート集合し、虎口Bから郭Ⅲ、虎口Cを経て郭Ⅱ東部へと入る重要区域に、極めて有効に横矢を掛ける。つまりこの城の中枢部への侵入を側面から厳重に監視・阻止する防御上の最重要郭である。
さらに、今私が立っている土塁も、虎口E桝形を造形するため鉤型におれ、南西区画を区画している。この南西区画も絶妙で、虎口C、郭Ⅱ東部、郭Ⅱ東部から郭Ⅰ虎口E前に至る土橋Dに高所から横矢を掛けている。

 ぐだぐだ書きましたが、その巧妙な絶妙な横矢をご覧ください。

イメージ 16南西区画の鉤型土塁の折れ

写真左外でもう一折れする。











イメージ 17南西区画を南西隅から




左の塁線は西土塁線 
左下に北大竪堀 









イメージ 18この塁線形状、武田であろうか。
 

この塁線は、城兵の身を守りつつ、北大竪堀底・対岸に強烈に横矢を掛ける。









イメージ 47古宮城中枢への関門を高所側面から厳重監視。古宮城の中枢に入るには、横矢にさらされながら、前面に折れの伴う土塁を備えた虎口Cを抜き、郭Ⅱ東部に突入しなければならない。

郭Ⅱ東部入っても、写真上部の土塁で囲われた郭Ⅱ西部に城兵が詰めており、郭Ⅱ西部と郭Ⅰとで挟撃されることになる。


イメージ 19この横矢の設計、高さ角度とも絶妙。ここから横矢を掛ける城兵は塁線土塁に身を守られているが、敵兵は城兵の横矢に身をさらけだしている。









イメージ 20北麓方向

郭Ⅲ・虎口Bも、郭Ⅰ西部から厳重に側面から監視されている。もちろん郭Ⅱからもだが。










イメージ 21郭Ⅰ西部

東部側の仕切り土塁よりも、北大竪堀側土塁のほうが低く、造作されている。北大竪堀対岸との高低差を考慮したうえで、横矢を掛ける城兵の攻撃ならびに防御を考慮した工夫であろう。






イメージ 22横矢、名残惜しいのでもう一枚

大手ルートが、郭Ⅱ西部から横矢を受けながら土塁上を歩き、虎口Bを経て郭Ⅲへ入り、屈曲、虎口Cから郭Ⅱ東部に入る。郭Ⅱ西部に背を向け土橋Dから郭Ⅰ虎口Eに向かう。
武田の丸馬出の側面虎口前に、このような工夫があったであろうか。


イメージ 23書き込みなし
















イメージ 24北麓へ降り下る北大竪堀

下端には出入り口構造があり、あるいは物資を引き上げる搬入路であったかもしれない。










イメージ 25北大竪堀に沿って設けられた大竪土塁

この構造もスケールが大きい。











イメージ 26大竪土塁の東

大竪土塁に区分けされ、戦闘郭風にはみえない。












イメージ 27山麓を囲う土塁に切口があり、こちらにも厳しくはないが出入り口構造があったようだ。



北大竪堀下の出入り口からのルートは、その2で辿ります。


郭Ⅱへ。






 ルートはその2で辿りますが、郭Ⅱの機能を理解するために、佐伯説大手ルートを私なりに読み解いて書いておきます。
 また、佐伯は郭Ⅱを「武田氏城郭で良く見られる丸馬出の性格を兼ね備えている」としています。

イメージ 56郭Ⅱは土橋Dで郭Ⅰと接続する。A虎口からの土塁上ルートに対し、執拗に横矢を掛ける。また北大竪堀下からのルートは、その土塁上で集合し、虎口B、郭Ⅲ、虎口Cを経て郭Ⅱ東部へと至るが、郭Ⅱ東部は
土塁で区分けされた(隠された)郭Ⅱ西部と郭Ⅰから挟撃を受ける。その防御構想を突破することができたのなら、土橋Dから郭Ⅰ南腰曲輪へと進み、虎口から郭Ⅰへと到達することができるのである。


イメージ 40
南北の大竪堀上端、古宮城中枢区画である郭Ⅰと郭Ⅱを繋ぐ土橋D(北大竪堀上側から)

中枢の頸にあたる。

南北大竪堀は城内を二分するが如く南北に降るが、この頸部・土橋Dでのみ接続している。




イメージ 41土橋Dから南大竪堀










振り返る。




イメージ 42土橋Dから北大竪堀
















イメージ 43
土橋Dから郭Ⅱ東部

暗くて様子がよくわかりません。二枚後に虎口C内付近からの撮影の様子のよくわかる明るい写真を掲載します。









イメージ 29
土橋Dを郭Ⅱ東部から

南北大竪堀に挟まれた土橋Dの頸構造がわかるであろう。

現況では隅から郭Ⅰ南西区画に登れるが、往時は×と考える。
郭Ⅰ南西区画側土塁は低く、高い郭Ⅰ南西区画からの攻撃は容易であろう。




イメージ 44郭Ⅱ東部を北東部虎口C内付近から

南東隅に土橋D、北に虎口Cが接続する。虎口Cはその2のおたのしみに。

西に方形居館の土塁を思わせる大土塁が構えられ、郭Ⅱ西部を区画する(隠す)。南北両端に切口がある。
郭Ⅱ東部は、背(この写真の)には郭Ⅰ南西区画から、腹には大土塁付郭Ⅱ西部から、腹背から挟撃を受ける。
 丸馬出の機能を超えている。

         ずいっと、北切口から郭Ⅱ西部に入ります。

イメージ 53北切口から郭Ⅱ西部

丸馬出の丸塁線に該当する土塁下には、横堀が巡り、その外周土塁上は虎口Aからの大手ルートが巡る。 郭Ⅱ西部土塁上からは、その土塁上通路、ならびにその大手ルートの要衝である虎口A、北大竪堀下からのルートが集合する地点、虎口C前・郭Ⅲ・虎口Bを完全に頭上から監視し、執拗に横矢を掛けることができる。

イメージ 28上写真の右側面下
(郭Ⅱ北下)

鋭い壁下に横堀が巡り、その外を囲う土塁上が虎口Aからの大手ルート。










イメージ 30郭Ⅱ土塁上から虎口C前の屈曲・郭Ⅲ・虎口B・大手土塁上通路を見る。完璧に高所から監視、横矢を掛ける。またこのゾーンは先に見た郭Ⅰ西部からも横矢を受け、火箭が集中する。武田の縄張を超えているように思える。

この付近、その2で向かってきましょう。



イメージ 31
書き込みなしもご覧ください。














イメージ 32北西隅付近からは北大竪堀下からのルートが集合する地点を捉えている。













イメージ 33
虎口Aからの大手土塁上通路に、北大竪堀下からのルートが集合する地点。
完璧に捉えている。

土塁が分派しゴージャスな三重の塁線となる。その2をお楽しみに。








イメージ 34
一騎駆けの土塁上通路を、このように側面高所から監視・執拗に横矢を受けながら、通過することなどできないであろう。
もちろん堀底などは直上から頭上攻撃を受ける。

丸馬出前面の堀の外周土塁上を通路とする構想は、私がこれまでに見た武田の構造には無いのではないか。



イメージ 35大手の虎口A

側面には土塁囲いの郭Ⅳが付随し構える。

亀山城類似の構造。










イメージ 36虎口Aを監視する南西隅から郭Ⅱ西部

丸というより方形プランと考えることはできないだろうか。

また、横堀塁線土塁に沿って郭内が中央部よりも高いのがわかるだろうか。






イメージ 37
南切口から

この高さは、大手土塁上通路を狙う城兵の犬走り状の段ではないか。











イメージ 38
写真暗いが、銃や弓の射手が拠るには絶妙の高さと観る。













イメージ 39郭Ⅱは、武田の丸馬出し機能を超えていると私は思う。
勝頼すげーなって畏怖は、武田の城ではないのではないか、という想いに変わってきた。

では、ルートはどうか。その2で。







参考文献 愛知中世城郭研究会・中井均編(2010)『愛知の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版



この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

亀山城2


 主郭から西虎口を出て、西虎口前の構造を辿ります。

イメージ 13

                   















イメージ 17主郭西虎口

 両側とも櫓台様






 





イメージ 14主郭内南側から見ると、lこの虎口も左側櫓台土塁が張出し、食い違っているのがわかるであろう。






 




イメージ 15土塁上から食い違いを確認
 
南虎口からの侵入者に対しては他の虎口同様に寄せて側に張り出し、虎口を隠すように構えるが、北虎口からの侵入者(北西面腰曲輪から北虎口への侵入者へも)に対しては、この張出部が前面に構え、織豊の虎口の様相を示す。
 


 
西虎口出ると、土塁囲いの馬出し様の西曲輪が配され、西曲輪と主郭西虎口両側櫓台からとで、北虎口、南虎口に対しても備えている。

イメージ 16反対側の西虎口右(主郭内から)北隅の櫓台状土塁高地






 

 



イメージ 18櫓台状高地から土塁囲いの西曲輪




 








イメージ 19その(北虎口)先の腰曲輪
 
左上方に竪土塁。『愛知の山城ベスト50を歩く』では、この方面を大手口とする伝承を記している。
 
2017.2.15
主郭西虎口ー西曲輪北虎口の導線に関し、追補記事を公開します。 http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/19000026.html


イメージ 21西虎口から主郭を出ます。

前には土塁囲いの西曲輪。












イメージ 20 西曲輪





 




 



イメージ 22左方 南虎口

駐車場に至る遊歩道整備に伴う切通しにも見えるが、土橋・左右食い違いの南西の両曲輪に挟まれ、防御構造にもみえるので虎口とした。

最後に、駐車場からこのルートを辿ってきます。



  

     西曲輪の先、左(南)から右(北)に俯瞰します。


イメージ 23西曲輪の南端 南虎口

遊歩道切り通し。


 

 







イメージ 24西曲輪の下方にもう一郭、土塁囲いの腰郭を重ねて配している。



右方、二条の竪土塁に挟まれた竪堀が接続している。

以下写真3枚、2017.2写真を差し替え改編。 





イメージ 38
竪土塁は40mに及ぶ長大な規模

二本の竪土塁は井戸を守り、右側の竪土塁は、北麓からのルートを限定する機能を持つと考える。
土塁間の堀は、井戸と腰曲輪をつなぐ通路でもあり
、北麓からルートを進む敵に備える武者隠しにもなる。



イメージ 39井戸の痕跡















イメージ 40下方、井戸跡付近から

井戸から上方は西曲輪南西下の腰曲輪に接続する。













イメージ 25西曲輪(左)と主郭(右)の間の北虎口


こっちが大手であった伝承もあるそうだ。
 

では北虎口を出ます。
 


 
 

イメージ 26北虎口先、腰曲輪

『愛知の山城ベスト50を歩く』によると「諸国古城之図」では堀と曲輪が描かれていることから、現状を注意して見ておく必要があるとしている。

左に、さきの竪土塁 
右は北西崖面腰郭
 



イメージ 27竪土塁に沿ってルートがあったのだろうか?








 




イメージ 28上写真の、ちょい右



険しい。




 





イメージ 29主郭北西面崖腰曲輪方向






 


 




イメージ 30こちらの下方にルートがあったのだろうか?

 現状ではわからない。




 

  






イメージ 31北西面腰郭から北虎口に向かうと、他の虎口と異なり、張出した土塁が正面に当り、構えている。

織豊の要素にも見えるが、竪堀側からだと、そうではなく、前面が張出す食い違い構造。







     膨大な内容になり、恐縮です。
     ラスト、駐車場から遊歩道を西曲輪南虎口→主郭西虎口へと辿ります。
 

  
 駐車場から西曲輪南虎口→主郭西虎口へと辿ります。

イメージ 32
















 イメージ 33ここ





 


 





イメージ 35すぐです。

信濃の国の苦難に比べれば、スキップして入場できます。


  







イメージ 34先ほど紹介のゾーンです。















イメージ 1曲輪、虎口が段々に喰い違いながら構えています。















イメージ 2まず右、横堀状に、南曲輪脇の虎口から出たルートが接続する。













イメージ 3左、僅かに高く、土塁囲いの腰曲輪














イメージ 4南虎口の両側は、右の南曲輪が僅かに手前で、左の西曲輪が奥に食い違う。













イメージ 5南曲輪















イメージ 10南曲輪の城内側は、主郭南東下を巡る横堀














イメージ 6食い違い、悶え喜ぶ私。















イメージ 7左、西曲輪















イメージ 8土橋の右は横堀















イメージ 9主郭南東下を巡る横堀















イメージ 12主郭西虎口
















イメージ 11亀山城主郭へ

















 作手の城たちを書かせていただくにあたり、仁義として奥平亀山城からスタートしました。

 初回から盛り込みすぎですが、古宮城、賽之神城、文殊山城と年越しで書き進めます。武田の三河遠江への進出拠点、奥平を監視するための城とされているようですが、どうでしょうか。
 天正3年長篠合戦後も、信濃は武田領国であり、天正10年の武田滅亡後の天正壬午の乱、天正12年の小牧長久手、天正14年の第二次小牧長久手勃発の危機、同年の家康上洛まで、三河の北の信濃は争乱が続いていました。徳川本国である三河の北に位置する作手も、けっして安穏地域ではなかったのではないでしょうか。その間の亀山城の機能、作手の防衛はどうであったのか気になります。

 それはさておき、上記三城いずれも遺構がよく残り、あたかも元亀天正年間にタイムスリップした心地になることができる素晴らしいお城たちです。
 お楽しみに。

参考文献 現地説明板
       愛知中世城郭研究会・中井均編(2010)『愛知の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版

イメージ 36亀山城から文殊山城













 
イメージ 37
賽之神城、古宮城















 平成29年6月13日追記
 平成28年に、他の奥平圏の諸城を踏み歩き、以下に見解を改めました。

 亀山城は、いうを憚るが、永禄以前からの作手奥平氏の本城とするには疑問を感じている。しかし、これは越後人である私が口を出す範疇を越えている。
 主郭全周囲郭の緊張、馬出の付随、導線から隠された虎口、大手口の方向・付け替えは、奥平圏では異様であり、私は武田の匂いを感じる。天正3年、勝頼は作手から野田、二連木、吉田を経て長篠城攻囲に着陣したので、作手に武田の拠点城郭があったことは確かであろう。それが古宮城というのが通説であるが、私は古宮城は武田の城ではないと考えるので、武田が拠点としたのは亀山城か賽之神城になる。賽之神は勝頼が入るには小さく武田の要素も少ない。どちらかというと亀山城のほうが相応しいか。
 天正元年の定能・信昌の武田離反後、武田が亀山城を接収し、三河進出の拠点城郭とすべく改修を行ったのではないだろうか。また、設楽ヶ原合戦後の徳川の影響下でも、大竪土塁、虎口脇の小郭を付随させる改修がされ、さらに慶長年間、松平忠明期に修築を受けたことと考える。亀山城の疑問は、そういった経緯により、所有者と周辺地域との関係が異なる状況の変遷によるものか。導線で虎口が隠されたように見えるのも、導線の付け替え次第では隠れない。


平成29年1月公開の「奥平圏の城4まとめにかえて」 http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/18946298.html に記載しています。




この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)


                    亀山城イメージ 1
戦国期作手奥平氏の要害

『愛知の山城ベスト50を歩く』によると、在城期間は「応永年間から長篠城へ変わる天正年間の時期と慶長7〜15年に奥平信昌の四男松平忠明が城主となっている二時期が知られている」としている.





イメージ 47
←現地設置説明板より引用
上の写真は、北から見ています。















イメージ 3亀山城主郭

土塁が囲郭し、西(南西)と東(北東)に虎口が開く。北西面は遠景写真の側で急崖、南東面は土塁下に豪快な横堀を巡らしている。









イメージ 2北西面土塁

遠景写真の側。













イメージ 41一段、腰郭が巡っていたようで、主郭の東西両虎口と接続している。














  南東面

イメージ 42南東面土塁

下には横堀が巡る。

横堀は通路となっていて、主郭西虎口前と東虎口前二の丸南西虎口と接続する。途中、大手口、南曲輪東脇の虎口とも接続する。

それら通路、虎口を頭上からしっかり監視している。



イメージ 43土塁上から

南曲輪東脇虎口













イメージ 44
通る者は厳重な監視を受ける。















イメージ 46大手口もしっかり監視

横堀底、大手口は後掲。
















  東の構造を見てきましょう。

イメージ 48



















イメージ 40東虎口1
(北東に開口ですが、紹介を簡易にするため、東虎口とします)












イメージ 31
虎口前、左は竪堀状に
切るが、帯曲輪に接続する通路であったようだ。













イメージ 4虎口出ると二の丸

虎口両側土塁上からは虎口、虎口前、二の丸を攻撃できる。











イメージ 32
虎口出て左

竪堀状の通路。













イメージ 45主郭北西面へ腰曲輪へ







東虎口前、二の丸に戻ります。








イメージ 5二の丸

土塁が設けられている。













イメージ 6
二の丸の左(北)に、桝形様の虎口内構造がある。

改変?












イメージ 7桝形様構造の先に虎口

食い違い構造を見せる。













イメージ 8東虎口2 左右土塁囲いの郭、側面から虎口、虎口先を頭上から守る。













イメージ 9辺縁の土塁に拠り、切岸下の削平地を見る。














イメージ 12
東虎口2を出ます

ここも両測の土塁が食い違いを見せる。












イメージ 13二の丸辺縁土塁下を通る















イメージ 14
下ります















イメージ 15
城外へ















イメージ 33
城時代のものかわからないが、堀割道が走る。















   
では、今辿ってきたルートを攻め上ってみましょう。

イメージ 16
東虎口2が、食い違い、構える。

寄せ手に対し手前側が張出し、虎口を見えなくしている。織豊の逆。

二の丸辺縁土塁下に突き当たり、右折れ、右から左折れし回り込み、虎口に入る。




イメージ 17
繰り返す。
寄せ手に対し手前側が張出し、虎口を見えなくしている。












イメージ 18東虎口2
















イメージ 19枡形様空間に入る

両側面から挟撃を受ける。
(改変かもしれない)

奥に主郭の出入口にあたる東虎口1。









イメージ 11東虎口1

さぞ堅固な城門であったことであろう。












イメージ 10東虎口1を斜から

この虎口も、両測の土塁の食い違いが明瞭。












 この写真撮影地点より左(南)に主郭南東下横堀ゾーン、大手口と標柱される東へのルートが接続する。
 大手口は複数伝承があり、利用時期によって付け替えがあったようだ。


  
 二の丸から現地標柱大手口を見てきましょう。

イメージ 50



















イメージ 20二の丸南西虎口先

東の城外に至る大手口横に土塁で囲われた東曲輪が配置され、大手口・大手口ルートに迫る者に備えている。右方向は主郭南東下横堀底をルートとして、南曲輪、主郭西虎口から出たルートと接続する。





イメージ 21右は主郭南東面切岸

際を横堀が巡る。













イメージ 30土塁囲いの東曲輪

右横に大手口。

主郭はもちろんだが、虎口やルートに対し、土塁囲いの曲輪が配される傾向があるようだ。東虎口2・その先のルートに対し、二の丸がそう。
奥平の傾向と見ていいだろう。



イメージ 28
東曲輪は東下に大手ルートを監視。
右側面に大手口。













イメージ 22
横堀ゾーンも素晴らしいのですが、先に大手口を見てきましょう。













イメージ 23大手口
ここの食い違いも、左・寄せ手側東曲輪が張出している。












イメージ 24左に折れ、城外へ。



では大手口から攻め上ってみましょう。










イメージ 25土塁囲いの東曲輪が正面から監視、当たり、左に折れ、右に回り込み大手口に至る。

ここも、寄せ手に対し手前側の東曲輪が張出し、虎口(大手口)が見えないようになっている。

この出入口構造も奥平の傾向と見ていいだろう。



イメージ 26
回り込んで大手口















イメージ 27
正面高地・主郭から監視を受ける。
もちろん、側面東曲輪からも。



右に進むと、二の丸へ。

左は横堀底を南曲輪方向、主郭西虎口先に接続する。




 
 写真、だだもれ気味ですが、普段挑む信濃や越中の城に比べ、比べようもないくらい歩き易く撮りまくってしまいました。お付き合いください。




 主郭南東下を巡る横堀を見てきましょう。
 
 イメージ 49


















イメージ 29大手口入って、左。

主郭南東下を巡る横堀。

堀底ルートとして南曲輪、主郭西虎口先に接続する。

右側面頭上は主郭で、完全に主郭の監視下にある。







イメージ 34長さ50mを越える豪快な横堀

北信の山城でみる武田の横堀よりも深く、城外側土塁の高さも高い。










イメージ 37
カーブ部、土塁が切れていて、南曲輪を仕切り、南曲輪下を巡るルートの虎口となっている。












イメージ 38虎口















イメージ 35虎口先、南曲輪下を巡るルート。
南曲輪は、もちろんこのルートを見張るはずですが、西虎口前の構造としてその2で写真掲載します。笹藪ですが…。








イメージ 39横堀は、主郭西虎口を出た先に接続する。














イメージ 36
西虎口でた先、接続部





あまりに写真多くなってしまいましたので、2部構成にします。その2では、主郭に戻り、主郭から西虎口を出て西虎口前の構造を辿りましょう。






参考文献 現地説明板
       愛知中世城郭研究会・中井均編(2010)『愛知の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版


この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)


 上杉の構造とばかり頭を占めていては、固定観念が出来上がってしまうので、視点を変えるため武田の城を書こうと愛知県旧作手村に行ってきました。
 武田の上杉との境目・飯山周辺から、織田・徳川との境目に記事を移します。
 主目標は古宮城です。

イメージ 1
永禄11年(1568)の飯山城攻めを最後に、武田の鋭鋒は南の駿河へ向かいます。駿河を手中にした武田は、元亀2年(1571)に甲相同盟を復活させ、元亀3年三河・遠江へと軍を進めます。敵は織田・徳川です。その際、武田が案内としたのが山家三方衆でした。山家三方衆とは田峰菅沼氏、長篠菅沼氏、作手奥平氏の三氏で、山家三方衆のうち最も強大だったのが作手奥平氏でした。しかし、山家三方衆内部での対立や徳川織田武田の境目という位置から、その帰属は不安定なものでした。武田が三河・遠江に軍を進めるにあたり、拠点とすべく作手奥平領内に築いたのが古宮城とされています。











                    古宮城
イメージ 7
西(写真左)以外は、湿地に囲まれた要害でした。














イメージ 8
湿地に守られた要害というだけでなく、ひと山まるごと人の手が加わり計画的に構築されています。












イメージ 9武田の枡形内で食い違う両袖枡形虎口














イメージ 10
すげーな勝頼って、勝頼の武人としての鋭さと戦国の厳しさに驚愕しつつ、徘徊していましたが、

横堀に付く土塁の高さが武田のものより高い。









イメージ 11
このような虎口前の食い違い構造、武田に似ているようで違うのではないか。












イメージ 17長大な竪土塁も














イメージ 12
山麓を囲い込む構造も、北信では見ない。
佐伯さんも『愛知の山城ベスト50を歩く』のなかで、同様の疑念を記している。











イメージ 13このような外郭の出入り口も…。

勝頼を畏怖しつつ、徘徊していましたが、これははたして武田の城だろうか、という想いのほうが強くなりました。








イメージ 2
奥平の亀山城の北東僅か1kmの位置に古宮城があります。

また古宮城の出城として武田によって築かれたとされる賽之神城、武田との和睦の証として奥平により築かれたとされる文殊山城が亀山城を監視するが如く山上高所に築かれています。

古宮城と賽之神城は、一体化した構造とみてよいと思いますが、その賽之神城にも、私には武田の構造とは思えないハイテク虎口と土塁があります。



イメージ 3亀山城主郭西虎口

食い違いながら櫓台が楼門様に構えられている。












イメージ 18長大な竪土塁






 







イメージ 4亀山城主郭















イメージ 5主郭から文殊山城


出城ではなく、武田が見張る。

と考えるとそのようでもあるが…。








イメージ 6賽之神城、古宮城と連なる


奥平氏は、信玄死後、道紋(定勝)・常勝は武田に残留するが、一族を割り定能・信昌父子は武田を離反し、徳川につく。
三河牛久保領の配分を巡って山家三方衆内での対立を武田が調停しなかったことが武田への不信の背景にあり、そこへ徳川方は知行宛行や奥三河全域の給与のほか、徳川家康の息女亀姫を信昌に輿入れさえるという破格の条件で引き込みをはかった。


 作手資料館に掲示されている奥平氏の動向によると、武田に従属する前の元亀元年姉川の戦いにおいて徳川方として従軍した奥平勢は、首級96を挙げる武功を挙げている。奥平の武勇は、家康の脳裏に記憶され、家康は信昌の武人としての只ならぬ才覚を見出していたのだろうか。

 天正元年、武田方であった長篠城は、徳川の攻勢を受け、武田は武田信豊・馬場信春らの軍勢を派遣し長篠城を救援すべく軍事行動を起こす。しかし、その最中に奥平定能・信昌父子は武田から離反、亀山城を脱出し、徳川方に付く。奥平父子の離反によって武田の長篠城救援は頓挫し、9月7日に長篠城は徳川方に降伏・開城してしまう。

 武田は、奥平定能・信昌の裏切りをうけて、預かっていた人質である定能の息子仙丸(仙千代丸)、日近奥平貞友息女おふう、萩奥平勝次次男虎之助を鳳来寺麓金剛堂前で処刑する。

イメージ 14鳳来山の麓、参道入り口に奥平仙千代の墓がある。














イメージ 15奥平仙千代のお墓















イメージ 16おふうのお墓

















 奥平信昌は、天正3年、徳川方城将として長篠城に籠り、日本の歴史の表舞台へと立つことになる。長篠城に、勝頼率いる武田本軍を引き付け抗戦、そこに信長・家康率いる織田・徳川連合軍が後詰めに来援、設楽ヶ原の合戦へと進む。信昌は、日本の表の境目のその舞台において、天下に武名をあげたわけである。

 作手は、私が普段踏み歩く越中・越後・北信とは異なり、まさに日本の表の境目です。日本の歴史の表舞台です。

 武田が奥平を信頼せず、近接して古宮城を築き、亀山城を見下ろす高所の文殊山城・賽之神城とで監視していた、ということになっています。奥平の動向や、その武力、信昌の力量を図ると確かにそのように考えられます。

 しかし、古宮城のような要塞を、奥平領内に、しかも亀山城に近接して築くことができたのでしょうか。周囲の高所の山城を連ねて見張られるような従属があるでしょうか。古宮城、文殊山城、賽之神城の構造は武田の手によるものでしょうか。

 上杉ばかりの視点を変えようと、武田の城を求めて作手を修学旅行先に選んだわけですが、どうもこれらが武田の城という定説は私には腑に落ちません。
 それを解明することは私の能力では及びませんが、時に首をかしげながら、素晴らしい遺構を残す作手のお城たちを綴ってまいります。

 古宮城を書く前に、仁義として作手奥平氏の城・亀山城を書かなければならないでしょう。

 では、亀山城からスタートします。

参考文献 平山優(2014)『長篠合戦と武田勝頼』、吉川弘文館
       愛知中世城郭研究会・中井均編(2010)『愛知の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版

この記事に

開く コメント(4)

開く トラックバック(0)

全12ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


みんなの更新記事