えいきの修学旅行

竹さんの『戦国の城の一生』、予約していたAmazonの他からも届く。二冊も手に入るぜ。

平成28年作成

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年末のご挨拶

                  北信飯山小境城
イメージ 20性懲りもなく、また小境城へ行ってきました。

しばらく雪が降らなかったので、小境城、もしや登れるのでは?、と、気が気ではなく、なら確かめに行けば納得するだろうと、性懲りもなく行ってきました。






イメージ 21ズーム

今年最後の城歩きですので、ダイジェストし、年末のご挨拶をいたします。











イメージ 5竪堀サの段差

防御施設であろう。













イメージ 6上段から見下ろす

段差で枡形状になっていないか。












イメージ 7竪堀コ伝いルートでの突入は雪で無理



あきらめて、










イメージ 8南尾根伝いに主郭を目指す





この私が登った南尾根、郭5から撮った写真があります。






イメージ 22南尾根(郭5からズーム撮影)

自分のしたことだが、唖然…。












イメージ 10郭2に到達

郭2から主郭壁













イメージ 9主郭(標高595m)に到達

ドキドキしています。心疾患を心配…。

私は後背五重堀切の最北堀ケが未踏。









イメージ 11しかし、最初の堀オが雪で降りれません。

土でないと滑って無理(11月は土でしたので、木に掴まりながら側面から降りた)、落ちるのは可かもしれないが、登ってくるのは不可能。
しかも、目指す堀ケは五重先。




イメージ 23こんな五重堀切(11月撮影)、雪で滑りながら超えるなど不可能。

11月、帰りは竪堀クを伝って下山。その竪堀も雪で通行無理。









 
    これ以上の危険はおかせません。
    繰り返し踏み歩いたので、城の構図が足の裏と脳に沁み込んでいます。
    また来ればいい。
    退却し、11月未踏の中腹(標高500m付近)、郭3・4・5を目指す決断。
    

イメージ 12小境城は、市河を見張るには絶好である。

市河が志久見口に蠢動すれば、即わかるであろう。

軍勢の能力、行動意図を分析し、謙信に報告する高い能力を有する侍が在城したはずである。






イメージ 13権現清水まで降りて、南から郭3-4間の虎口を目指す

これ、耕作地?
下方は耕作地っぽいが、この辺りは被官層の集住の跡ではないか。








イメージ 14
段差ではなく通路に思える

随所に、石積。
耕作に伴う土留めかもしれないが、郭3−4間の虎口が石構造であり、武士構造と考えてもいいいと思うが。









イメージ 15石列















イメージ 16郭3(左)−4(右)間の虎口















イメージ 17郭3虎口

土塁を石積で補強し、石塁に近い虎口構造。

私は先ほどの削平地集合エリアを被官層の集住地、ここ郭3を城主居館に比定。







イメージ 18郭3















イメージ 19
郭3に付随する郭4と郭5(高所)




おっと、本記事は年末のご挨拶。
小境城ダイジェスト、これくらいにしておいきます。








  平成28年は、前年27年11月に博物館学芸員課程の単位試験を終了(3月に課程修了)したため、その分の勉強時間を城・記事作成に投入できるようになりました。
 で、今年は能登の天正期上杉の城と三遠南信の境目の城をメインターゲットに駆け回り、記事にしました。能登は、良く書けたと思います。作手は、もっと勉強が必要です。
 記事にしていませんが、近江、武蔵、上野、甲斐、駿河の城も駆け回りました。記事、いつになるやら…。
 また、私の日常職業とさせていただいている地元頸城村(上越市頸城区)茶臼山城の記事を「頸城村の山城 花ヶ崎城と茶臼山城」として一部写真を加え加筆しリニューアルしました。それをWordで印刷して冊子とし、頸城の文化施設ユートピア希望館と南川公民館に提出しました。
 内容、問題なかったようで、郷土資料として採用いただき、希望館の常設展示室と南川公民館の図書コーナーで展示いただいています。
 天正期上杉圏の城については、やや詳しくなってきたかと思っていますが、そのような事をする以上は、外してはいけない背景を外してしまってはならないと、10月から歴史学の基礎を学び始めました(私は薬学部卒)。よって、来年はまたそちらに時間をかけなければなりません。今年のような更新はできないかもしれませんが、嵌っていますので書き続けようと思っています。
 ブログを始めた頃に書いた、主に上野と北信の城も、修行を積んだ眼で改めて見て書き直したいと考えています。

 嵌り込んでしまっている感のあるえいきの修学旅行ですが、来年もどうぞ、お付き合い下さい。
 皆様、よいお正月をお迎えください。
 皆様の新しい年が、素晴らしい年となりますよう祈念いたします。

イメージ 1★は平成27年10月から28年11月までの間に歩いた主な三遠南信の城.。

津具城、川尻城など、★がマークされていない城も幾つかある。

作手に行くと「帰ってきたー」と思ってしまいます。



















イメージ 2
これは能登

藪修行に最適。

穴水、珠洲の方々にも親切にしていただきました。
昼食はたいてい8番らーめんなのですが、かき、なまこ、素麺など、謙信が食べた能登の魚介類も食してみたいです。


















イメージ 3頸城ユートピア希望館常設展示室

場所はここhttp://yahoo.jp/zAj_UP








イメージ 4このように展示され、閲覧いただけます。
私のデビュー作といったところ。

ほたる調剤薬局に数部ありますので、奇特な方はお立ち寄りください。差上げます。
ほたる調剤薬局は、
ここhttp://yahoo.jp/fxFEpeです。


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                      日近城
イメージ 1日近奥平氏の動向、登り口は日近城1をご覧ください。
日近城1 日近奥平氏の動向 http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/18907371.html










イメージ 68日近城は、随所に石積がみられ、虎口の妙が映える城である。また、名倉・作手共通の構造の他、名倉奥平圏には見られず、作手で見られる大土塁、堀切通路が構築されており、作手の城の構築者と時期を考えるうえで重要と捉える。
記事中の郭・堀・地点名称は高田徹日近城概要図(『愛知の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版)に準拠します。


  記事構成
○まず大手虎口D(2017.2追補)付近の、主郭切岸、大土塁Fが一体となった防御構造。
○次いで、東から北に巡るJ-K-L-Mの横堀・犬走り防御ライン。
○ルートを辿りながら、主郭へ向かいます。西尾根の虎口の妙を堪能下さい。
○日近城主郭。
  
イメージ 64まず大手虎口D付近の、主郭切岸、大土塁Fが一体となった防御構造。











                                                                                                           
イメージ 2主郭南塁線土塁から虎口D付近













イメージ 3大土塁F上から















イメージ 70大手虎口D(2017年1月に再訪撮影、以下4枚追補)
高田の解釈を引用します。「南方の麓方面から直進したルートが、丁度石積部分で90度折れ、左方(写真右側)へ導かれる。折れを伴いながらも、虎口空間を確保するに至らず、道幅分を確保するに留まる。但し、この石積を設けることで明確な折れを伴う虎口を意識し、それを造り出すことに成功している」(高田 1995,p.67)。
イメージ 73書き込みなし














イメージ 71導線から枡形様空間














イメージ 72石積
高田の観察を引用
「石積はおよそ3段積まれ、長辺(40〜50cm)部分を表とし、奥行きを30cmほど する石材を積み上げている。石材は長辺を水平上とし、各端部に上方に置く石材が かるように積んでいる。現存の石積上端と曲輪面とほぼ同レベルであることから、 2,3段の石積であった可能性が高い。」(高田 1995,p.67)。

 一見、竪堀にみえる構造の上端で折れ昇降できる構造は、清水城、大給城でも私の心に掛かり、徳川影響下を示唆するのではないかと考えた。

イメージ 4郭Ⅴ虎口D付近
虎口Dから郭Ⅴに入った付近は、主郭から東に張出し突出し東部と南塁線から頭上監視を受ける。そのい主郭塁線には土塁が備わる。
郭Ⅴから東には大土塁Fがアームのように伸び、進行・見通しを阻害し、虎口Dを監視する。
大土塁Fと主郭との間は堀切Hが断つ。

この大土塁、堀切、という構造は、名倉圏には無いが、作手と日近に見ることができる構造である。大土塁は賽之神城、古宮城、亀山城。堀切は賽之神城。

イメージ 5主郭南壁面には大石、石積が見られる
塁線上は土塁(後述)。


主郭へのルートはこの背方向ですが、大土塁F、堀切H、東から北の横堀防御ラインを辿ってきます。







イメージ 6
石積















イメージ 7堀切H

大土塁Fと主郭を断っている。
遮断や郭を区切る堀切は、一連の名倉・作手の城では見なかった。この堀切は、大土塁伝いの郭主郭への進入を阻止するための堀切であるだけではなく、東から北へ巡らす横堀防御ラインへの通路であろう(高田.2010,p.160)。同様の構造は河尻城にもある。また賽之神城の堀イ・ウも私は遮断堀切ではなく、通路としての堀と考えている。


イメージ 8大土塁F

名倉圏、また武田の竪土塁とはスケールが異なる。
同様の構造は、亀山城、賽之神城(古宮城はさらにでかい)にみることができる。

おっともう私の推論の核心に入っている。





イメージ 63大土塁Fの南東は堀切G

高田は「堀切Gは大土塁Fとセットになって、尾根続きからの侵入を遮断している」(高田 2010.p.159)









イメージ 9大土塁F上端

主郭と分断する堀切H。

段差を設けた通路でもある。













  主郭の東から北に巡る横堀ー犬走りによるJ-K-L-M防御ライン
イメージ 69


鳥瞰図の主郭背面にある









イメージ 10堀切Hを北へ出ると横堀J

横堀形状、高田は約4mの幅を測り、信濃の武田横堀と雰囲気を異にする。
北に向かって犬走り状に降る。








イメージ 11犬走り形状から、Kで小横堀形状















イメージ 12振り返り、Kから犬走り形状、L、Hを見る














イメージ 13Kから西に南防御ライン

犬走り状













イメージ 14再度Lで横堀状となる















イメージ 15このあたりにも石垣とも呼べそうな石積がみられ、堅固な補強がされている。













イメージ 16Lの西はMで、高田は「小規模な尾根を削ぎ落した、切岸のライン」としている。


小規模の尾根も、元々あった石の利用だと思うが、堅固な様相である。








イメージ 17竪堀状の先に切岸ラインM















イメージ 18切岸ラインM

Hから東ー北面の一筆の防御ラインが構築されていることになる。











イメージ 19城門を彷彿させるかのような石積
賽之神城でも感じたが、石積で補強された土塁というよりも石塁、いや石垣に近いのではないか。
城戸でもあったのかと考えたが、尾根伝いルートの存在は確認できなかった。








       
    虎口Dから主郭方向・西尾根ルートとの合流点へ
イメージ 65












イメージ 20虎口D入って郭Ⅴを左(西)へ

主郭塁線上からの後・横矢が掛かりながら、主郭南隅下を回り西尾根ルートとの合流点へ向かう。









イメージ 21主郭南隅下

このあたりから帯郭通路状













イメージ 24通路右、主郭切岸直下基底部に石積が見られる

ここに城戸があってもいい。












イメージ 25基底部石積
高田は「切岸直下のラインを整えることで、導線部分のエッジを決め、主郭側の切岸をより強化する役割を担っているものと考える」
(高田 1995,p.67)と評価している。また石材は花崗岩で、城跡西尾根、広祥院本堂裏に同様の石材の露出を確認し、日近城の石積は城郭周辺地からの供給と推定している(高田 1995,p.69)。

イメージ 26上方は自然石?

私は垂直に近い壁面を維持するため、石を用いて造作していると考える。











イメージ 22西尾根から虎口Cに入ったルートが合流する。

虎口Cは城戸が連続し、さらに虎口Bに連結する虎口で、この城の虎口の妙が映える箇所である。









イメージ 23虎口C上部、西尾根ルートが合流




虎口の妙を体感するため、西尾根ルートを辿ってきましょう。








  
          広祥院背後からの西尾根ルート
イメージ 66












イメージ 27
郭Ⅳ側面監視下の導線

虎口は高田図、鳥瞰図とも虎口名なし。












イメージ 28虎口

郭Ⅳには入らず、郭Ⅲ壁下に当たり、右折れ。

虎口周辺、石による構築を思わせる痕跡あり。









イメージ 29うにょ、っと右折れ

両脇、石を用いた堅固な虎口があったのではないか。

私は、さらにその先も石を用いた城戸構造を想定。









イメージ 30郭Ⅳ側から

織豊の屈曲ではないが、石を用い折れた先の城戸は、奥平圏で発達した虎口の工夫と考える。

郭Ⅳから背を射ることができる。







イメージ 31その先も石垣様の城門があったのではないか。
城門が連続していれば、かなり高度な構造であるが、私はそう観た。

日近奥平の大手はこちらではないか。








イメージ 32
ブログの容量が心配…















イメージ 33二重城戸?、虎口、郭Ⅳを振り返る















イメージ 34進みます

左、郭3監視下の導線。













イメージ 35左にカーブし、虎口C















イメージ 36
虎口Cも城戸を連続させる虎口と観た

郭Ⅲは経由しない。
上方の小スペースが監視・迎撃可能だが、孤立している。

虎口Cの上城戸・下城戸はえいき命名。





イメージ 37上方から虎口C下城戸

石により枡形を造っているが、やはり、張出に当てて入れる織豊の構造ではない。


右に郭Ⅲ。
ルートは左に進む。






イメージ 38
郭Ⅲ















イメージ 39下城戸から上城戸へ連続する














イメージ 40大石、石積で両脇を固めた虎口C上城戸














イメージ 42郭Ⅲから虎口C

下城戸、上城戸が連続する虎口。

奥平独自の虎口の妙であろう。









イメージ 43上方から上城戸
















イメージ 41上城戸を抜けると、先述の大手虎口D−郭Ⅴを経由する大手ルートと合流する。
虎口Dから郭Ⅴを経由する大手ルートは、日近奥平のルートではなく、後の時代の改修による設定と考える。










            いよいよ日近城主郭へ
イメージ 67













イメージ 44虎口B付近
(高田がどの構造を虎口Bと指すのか読み取れなかった。この導線自体、矢印部郭へ入る地点、あるいは私が虎口C上城戸とした構造を指すのかもしれない)
郭Ⅱ監視下の導線を進み、遊歩道は主郭Ⅰへ直進するが、高田は→部で右折れ、郭Ⅱを経由するルートを提唱している(高田 2010,p.158)。


イメージ 45主郭手前で右折れ















イメージ 46郭Ⅱを経由し,左折れ、虎口Aから主郭に入る。
郭を経る導線が出現。
虎口Aに向かう導線は主郭からの横矢を受ける。
そして郭と郭が虎口で接続する。
郭Ⅱは南西に突出する形状で、その南東塁線は土塁を備え、下方大手通路に備えている




イメージ 49塁線土塁は石積補強がされ強固である













イメージ 47塁線土塁は下は虎口Dから入った郭Ⅴ・大手ルートを頭上監視。塁線土塁は監視・迎撃に必要な高さを切岸高と合わせ維持するための構築であろう。










イメージ 48虎口Aから主郭へ

郭Ⅱ経ることにより直角に二折れの導線が造られている。今まで見てきた奥平の虎口構造とは異なる。


主郭も郭Ⅱから延伸する塁線土塁が東から北面に備わる。





イメージ 50日近城主郭

西面には塁線土塁はない。












イメージ 60東塁線土塁














イメージ 61(城内最初の写真を再掲)

下方、大手虎口D、郭Ⅴ、大手ルートに対する監視・射撃射掛けのため、土塁は必要であろう。









イメージ 51虎口A内から郭Ⅱ

南西に突出し、大手ルートと、西尾根ルートが合流し主郭へ向かう導線に対し、監視・迎撃を行う。

上写真から進む大手ルートに沿って塁線土塁が備わっている。





イメージ 52西面は横堀Lから切岸壁Mに折れる上方部のみ土塁の痕跡があるのみで、他は塁線に土塁はない。

J-K-L-Mと主郭の東ー北ー西下方に構築された防御ラインに対する監視・迎撃機能のため、壁の傾斜・高さを考慮し、土塁は不要と考えたのだろう。賽之神城の土塁の無い辺縁と同様に解釈できる。


イメージ 53下方防御ライン

土塁が無くとも、監視・射撃射掛けが有効。











イメージ 54北突出部から東面、郭Ⅱまで塁線土塁が備わる













イメージ 55北から東突出部をみる














イメージ 57下方防御ラインに対し監視・射撃・射掛けるうえで、土塁が必要と考えたのだろう。











イメージ 56東突出部

幾何学的な塁線形状に古宮城を想う。











イメージ 58東突出下に大土塁Fと遮断する通路堀切H

監視・攻撃機能のための高さを保持するため、土塁が設けられたのだろう。









イメージ 59大土塁F



東突出部は大手虎口Dから入った者を、大土塁Fアームで包み、監視迎撃する櫓機能でもあろう。







イメージ 62このように突出している















 まとめ

 はじめに書いたことだが、日近城は、随所に石積がみられることと、虎口の妙が映える城である。また、名倉・作手共通の構造の他、名倉奥平圏には見られず、作手で見られる大土塁、堀切通路が構築されており、作手の城の構築者と時期を考えるうえで重要と捉える。

 石積を用い、重要地点の虎口や壁面を強化する普請は、奥平共通の指向と技術であり、郭を経ない西尾根からのルートが奥平の大手ルートと考える。そこには武田、同時期の徳川にはない奥平独自の城戸の連続や開口部・折れなど、虎口の工夫がされている。
 南麓方向大手虎口Dから、郭Ⅴを経るルートは、大土塁F・堀切Hとともに後の改修による構築と考える。郭Ⅱから主郭Ⅰへ至る導線も、郭を経る導線であり、そして郭と郭が虎口で接続している構造は、後の改修と考える。
 J-K-L-Mに至る一筆の横堀・犬走り防御ラインの構築も、後の改修による構築と考える。

 高田は「日近城は作手奥平氏、あるいは上位権力である徳川氏により築城(改修)されたと考えるのが妥当であろう」(高田 2010,p.160)としている。

 私が後の改修と考えた構造は、天正元年作手奥平氏の分裂・定能信昌の武田離範以降、同14年家康上洛までの間に、徳川権力によって徳川領国岡崎防衛(岡崎衆と武田の繋がり、あるいは武田または後の豊臣方による侵攻)構想のもとで構築された構造と考えている。
 そのへんの昨年の「作手へ」シリーズから今年の名倉・作手・日近奥平圏とその周辺を踏み歩いた私のあーだこーだは、奥平領国の城達のまとめとして書くことにする。
 (年明けになると思います)




参考文献  
高田徹(1995)「日近城の石積遺構」、『愛城研報告』、2、愛知中世城郭研究会
高田徹(2010)「日近城」、愛知中世城郭研究会・中井均編、『愛知の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版、pp.158-61

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  日近奥平圏に移ります。

イメージ 3日近奥平の位置を確認。
先述の名倉奥平氏は、美濃・信濃・三河に接し、織田・武田勢力圏の境目に位置する。日近奥平氏は三河岡崎に近く、奥平にとっては徳川との境目に位置する。

日近奥平氏に関して、鍬塚城記事中に高田徹著述を引用させていただきました。

以下に、柴裕之(2014)「三河国衆奥平氏の動向と態様」,『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』より日近奥平氏の動向を要約し追加します。

奥平貞昌の弟貞友は、今川義元の時代の天文16年8月24日付け今川義元判物写(『松平奥平家文書写』戦今1141)によると、今川方として作手奥平定能と共に医王山砦を攻略し、拠点を日近に移している。そして日近奥平貞友は義元に謀反を企てたようだ。 永禄4年4月以降、松平(徳川)氏と今川氏との抗争が本格化した際、作手奥平氏は今川方であったが、日近奥平氏は徳川方に属していた。
 永禄7年2月以前、作手奥平氏は徳川氏へ従属するが、同年同月の松平家康判物写によると「日近、如近年其方方可為家中事」とあり、徳川方に従属していた日近奥平氏を家中として統制するようになった。
 元亀三年、奥平氏は武田方に従属するが、その際、日近奥平氏の娘おふうは奥平定能の子千代丸(仙丸)とともに武田方へ人質として送られた。
 天正元年8月、奥平定能・信昌は、三河牛久保領の領有を調停できなかった武田から離反し、徳川方へと移る。作手奥平氏は定能の父道紋(定勝)は武田方に残り分裂した。
 名倉奥平信友も徳川方へ転じる。徳川方とはいっても、背景には織田信長の意向がつよく、信長の意を受けた織田・徳川方への従属とみるべきである。
 日近衆の動向はわからないが、武田方に送られていた仙丸とおふうが同年9月21日に鳳来寺にて処刑されていることから、日近奥平衆も定能・信昌と共に織田・徳川方へ転じたものと考える。
 長篠・設楽ヶ原合戦後、作手の武田方は駆逐され、奥平信昌は作手領の他に山家三方衆の領域であった奥三河地域、さらに三河国吉良・田原、旧来からの遠江での知行地を支配する(柴 2014,pp.235-62)。

        
イメージ 1日近奥平の郷
(奥平貞友隠居屋敷と伝わる瑞屋敷から)













イメージ 2桜形駐在所の背後一帯は「オヤシキ」と呼ばれる。
高田徹は日近奥平氏の屋敷と比定している。











イメージ 11日近城の麓
広祥院











イメージ 10広祥院後背に日近城














イメージ 4瑞屋敷
奥平貞友隠居屋敷と伝わる。

左、西尾根から日近城へ、中央から大手に至る。
右におふうのお墓。








イメージ 7西尾根から郭Ⅳへ至る














イメージ 8大手虎口へ至る














イメージ 5そして、おふうの墓














イメージ 9左がおふう、中央がおふうの祖母貞子、右が仙千代の墓と伝わる。

天正元年9月、鳳来寺口で処刑になった後、説明板によると、「乳母と柳田専念寺の僧永順と百姓助左衛門はひそかに三人の首を奪って、おふうを生地であるこの地に葬った。」




イメージ 6上方に日近城















イメージ 12日近城鳥瞰図
(岡崎市教育委員会設置説明板より)


城の様子は稿をあらためます。











参考文献 高田徹「日近城」、愛知中世城郭研究会・中井均編(2010)『愛知の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版、pp.158-61
柴裕之(2014)「三河国衆奥平氏の動向と態様」,『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』、岩田書院

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 名倉奥平氏の城をもう一つ。
                   清水城
イメージ 1
小城ですが、魅かれるものがありました。

比高20mの小山だが、北は急壁で厳しい要害である。また西麓台地上に居住区画が付随し、一体となっている。


桜が懐かしい。





イメージ 55郭・堀・地点名・測値は宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版に準拠し、同書を基に記述する。
主郭(郭1)は30×18mの弓型で、北は急壁下に堀切っている。採土でとられた周辺は、城構造か不明。
郭2は、馬出ではなく、A関門からの主郭虎口に至る導線と、西の居住区画を監視し、守備の中核となる郭である。
南中腹には関門Aから横堀線を巡らせ防備を固めている。現在、城山稲荷参道が横堀線を通過してら城内に入るが、関門Aが、城内道と城外を結節する大手と考える。






 大手関門Aから主郭へ向かい、その後で横堀線から北堀切を巡り、最後に西台地上居館旧区画群を辿る構成で綴ります。


イメージ 3南から大手関門Aへ















イメージ 2
書き込み

南城外からの登城路と、南中腹横堀線、西麓台地上居住区画郭3・4方向、主郭1への導線が結節する重要関門であり、宮坂は詳細はふめいとしながらも本来の大手と推定している。






イメージ 4ぐぃっ、と接近


この虎口も石による補強が見られる。











イメージ 5右に横堀線

明瞭な写真は後掲。













イメージ 6左に折れ、関門A















イメージ 7居住空間と想定される郭3(こちらも後掲します)。














イメージ 48関門Aから主郭虎口への導線














イメージ 49書き込み

郭2の監視下、斜めに登る。
登った先に主郭虎口が開口。










イメージ 10側面頭上は郭2が監視















イメージ 11登り上がり先に虎口が開口

鍬塚城と同型の奥平の桝形虎口。


これを下方横堀線からみる









イメージ 17と、こう















イメージ 12うリっ















イメージ 13張り出してはいない















イメージ 15桝形内
















イメージ 14桝形の東、主郭内から虎口への導線を見る

張出にあたってはいる構造ではない。











イメージ 16イメージ書き込み



















                    主郭

イメージ 20主郭中央付近から北

弓型に30×18m。

辺縁に鍬塚・寺脇のような土塁はみられない。

北は急崖で、下方に堀切・土塁状の構造がある。







イメージ 19主郭北下

急壁で寄せ付けない。土塁は不要であろう。

下方の堀切・土塁状の構造は城遺構ではない可能性もある。








イメージ 21西斜面

急壁で、辺縁に土塁は不要。












イメージ 22反対の東から南面は、傾斜が緩いので横堀を入れて備えている。
迎撃に邪魔なのであろうか、土塁は設けられていない。










イメージ 23
現在、城山稲荷参道が横堀線を突破して付けられている。













イメージ 24南西下、中核となる郭2が舌状に配される

堀切で区切られていない。

主郭虎口の前で守る馬出ではないが、関門A−主郭への導線を側面頭上から掌握する。

西下、居住空間郭3・4を監視できる。



イメージ 25
郭2から関門A周辺

完全監視、掌握。













イメージ 26西下に台地上の居住空間と考えられる郭3・4

北際は竪堀。宮坂は「南に延びていたものを埋め立てたようにも考えられる」としている。









イメージ 27郭3北斜面の竪堀

名倉奥平氏は郭を堀切らない構想の築城者のようなので、私は竪堀であろうと考える。
後述するが、あるいは登城路として利用された徳川期の竪堀なのでないかと考えている。





イメージ 29竪堀の東、西斜面には小さい帯郭が主郭北西部からの導線で付随する。

上写真の竪堀と、竪堀上端を射角に入れている。










イメージ 28郭2から主郭


















                  南斜面横堀


イメージ 18主郭ー関門Aの導線からみる














イメージ 30横堀線の中ほど、稲荷参道が突破














イメージ 31横堀線から稲荷参道下方

迎撃斜面。


参道入り口はこのあたりhttp://yahoo.jp/UIWwqr









イメージ 34上方に城山稲荷















イメージ 8参道より東

この先、北の堀に至る













イメージ 9横堀北端付近

耕作による改編を受けている。












イメージ 32主郭北下堀切

掘と土塁とみていいのか?













イメージ 33土塁状構造の右側は採土の跡か
















                 西台地上区画郭

イメージ 35南西下方区画


奥(北)の土塁土橋伝いに接続と考える。











イメージ 36土塁土橋

ふと、賽之神城ばりの石積(石垣)補強がされていることに気付き驚愕。

耕作による構築かもしれないが、賽之神城主郭と同技術であれば、名倉奥平氏による城構造であろう。





イメージ 37判断しかねるが、武士の構築に思える














イメージ 38
郭4下方壁は、石積により基底部壁面が構築されている。
城普請による構造か、耕作地としての構造か。











イメージ 39土塁(いや石塁)土橋の上、郭4へ














イメージ 40郭4入口















イメージ 41郭4

山上の戦闘郭とは異なる様相で、居住区画であろう。












イメージ 42さっきの下方区画















イメージ 43小高く郭3















イメージ 44郭3-郭4の段差















イメージ 45郭3へ

山上戦闘中核郭2壁下北際は竪堀。












イメージ 46竪堀

堀幅が信濃でみる竪堀幅よりも広い。

こちら側に昇降口のような導線がある。耕作のための道かもしれないが、ここが城戸で、竪堀は登城路あるいは脱出路ではないだろうか。




イメージ 54竪堀下方から


ここを登り、上端手前で城戸?に右折れすると、











イメージ 50郭2・付随小帯郭から、城戸?に入る者を高所・背から撃つことができる













イメージ 52郭2の睥睨下、















イメージ 51郭3を通り関門Aへと向かわせれば、郭2によって掌握されたルートとなる。













イメージ 47郭3から関門A















イメージ 53そして、最初に辿った主郭への導線になる
















 清水城まとめ

  戦闘郭は山上の主郭と郭2のみで、居住空間を西台地上に付随させている。
  小城であるが、主郭と郭2による迎撃機能が巧みに発揮できるよう導線が設定され、要害地形を活かし、緩い斜面には横堀を入れ備えている。じつに機能的な城で、戦国名倉の武士を彷彿とさせる城である。
 虎口・導線は奥平形状、横堀は武田勢力圏の形状と考える。
 郭に土塁は見られず、また堀切で区切られていない。土塁が設けられていないの、主郭・郭2が想定する敵迎撃面・地点が、敵に十分な高低差を持っているからと考える。



参考文献 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版

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                      寺脇城
イメージ 1名倉奥平氏の本城とされる。

名倉奥平氏に関して、鍬塚城で書いたことは省きます。

以下追加分。

 





イメージ 53天正三年、設楽ヶ原の前哨戦での名倉奥平氏の動きを平山優(2014)『長篠合戦と武田勝頼』より引用。

     「奥平定能・信昌親子と歩調を合わせて、武田氏から離反していた名倉奥平信光は、津具(愛知県設楽町)筋に独自に侵攻し、後藤久左衛門ら多数を討取った。家康は四月十二日に奥平信光の戦功を賞している(『譜牒余録』『愛知県史資料編11 1078号』)」。この時奥平信光に討たれた後藤氏とは津具城主で、この地域には武田氏の支配する津具金山があり、金堀奉行屋敷も配置されていたと伝えられる。」(平山 2014,p193)

津具城、鍬塚城で提示したえいきのスマホyahoo地図に★がありませんでしたので示します。もちろん踏み歩いています。
この津具城も近隣の武田圏城郭として書きますので記憶下さい。


 「その後、名倉奥平信光は徳川方として松平忠明、忠吉に従って尾張清洲城の家老となり、戸田加賀守と改名している。」(宮坂 2015,p441)
                      
 では寺脇城、宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版を基に辿ります。 郭・地点名は同書に準拠します。

イメージ 14寺脇城主郭(郭1)















イメージ 13寺脇城主郭は三方背後を分厚い土塁と堀(イ)によって守られている。


賽之神城、鍬塚城でも感じたが、奥平氏の重厚な土塁は共有の構造であろう。








イメージ 2土塁南端















イメージ 3南西から内壁をみる















イメージ 5天端を歩きましょう

北西隅は幅広に出張る櫓台状。
左、主郭土塁背後は外線にも土塁を備える堀イが巡る。









イメージ 7土塁下、外に土塁を沿わせ巡る堀イ

下でみると横堀状(後掲)。












イメージ 6南西中央付近















イメージ 8土塁上から主郭1

東から南面は土塁を備えていない。賽之神城、鍬塚城でも重厚な土塁は、主郭を全周囲郭しておらず、開放面も設けている。









イメージ 9

高さがあり、城壁様。













イメージ 10
内面に比し、急である
















イメージ 11北コーナー















イメージ 12東端から北コーナー


東端脇に虎口C












                  
 イメージ 52主郭虎口(桃囲い)は虎口Bと虎口Cが設けられており、虎口Bが大手、虎口Cが搦手であろう。
大手虎口Bは、賽之神城虎口Cとの比較のため、私は特に注目している。虎口Bは枡形状で、桝形からスロープ状の土橋で出る。
大手ルートは墓地のあたりから堀ア底を通り、関門Aで城内に入る。関門Aは側面を竪堀で狭められ、段差をあがる。

寺脇城も、城内郭は、堀切で区切られていない。









イメージ 36主郭搦手虎口C

郭3下方に北東の堀(後掲)













イメージ 37郭3から虎口C















イメージ 43主郭大手虎口B 















イメージ 44枡形である















イメージ 45傍に石の集積

これも旗塚と思うが、里に近いので境界を示すものかもしれない。











イメージ 46
外から主郭大手虎口B

明確に張出に当たり、折れ入る構造ではないが、左側主郭角に当たり、スロープからカーブする(さらに後述します)。
天正期、北陸の佐々、前田といった織田配下部将の手による構築(改修)した城では、張出に当たり、折れ入る枡形虎口が構えらている。

イメージ 4枡形先はスロープ状に土橋がカーブ



では、大手ルートを登城してきましょう。












             大手ルートを登城します

イメージ 15寺脇城の看板あり














イメージ 16金網の奥、左に墓地















イメージ 17墓地で右折れ
墓地の裏にも分派堀アが抉る。













イメージ 18堀ア底に繋がる掘割道















イメージ 19堀ア

堀底が大手の通路。
大手登城路としての威容を放つ。











イメージ 20郭4段差にあたり、左折れ(右は竪堀・土塁で回り込み阻止)、関門Aとなる


左側面上郭2、正面郭4から撃たれる通路である。


途中、左に稲荷参道があるがパス。





イメージ 21壁にあたり、左折れ















イメージ 22関門A

折れ、坂、狭まり、進攻速度は落ちる。












イメージ 23関門A内は、城内郭4
















イメージ 54左側面は頭上から郭2に完全監視

あたかも殺傷意図が降りかかる気分。





関門A前の戦闘場を振り返る。




イメージ 25関門A















イメージ 24攻防の切所…















イメージ 26関門A東回りは竪堀・土塁で回り込み阻止















イメージ 27郭2切岸下を郭4を通過

左に折れあがり主郭大手虎口Bへの導線。
奥に進むと北西堀切に合流し搦手虎口Cへ至る(後で)。
郭4東下方には郭5。

寺脇城も、城内郭は、堀切で区切られていない。





イメージ 28郭4















イメージ 29
東下方に郭5















イメージ 30
郭5北西端は土塁で進入を塞ぐ















イメージ 32郭4から主城域

郭2−3ラインの壁を登り、スロープ状土橋から桝形虎口Bに入る。











イメージ 31郭2−3ラインへの登り口

先にスロープ状土橋。













イメージ 47郭2−3ラインあがると右に郭3














イメージ 48左に郭2


その間を通り、












イメージ 49スロープ状土橋から主郭大手桝形虎口Bへ


途中、旗塚らしき石の集積。










イメージ 50織豊の、張出に明確に当たり、折れ入る構造ではないが、カーブするスロープから虎口脇(主郭角)に当たり折れ、桝形に入る。
賽之神城同様、奥平氏における虎口構造の進化形態と捉える。







イメージ 51主郭大手桝形虎口B



枡形奥で右折れし、主郭内へ入るようだ。












                   城域北線へ

イメージ 33郭3下郭4を北へ















イメージ 38
郭4北端は、壁高く寄せ付けない















イメージ 39上方には北東の堀が守る

しかし、堀でもあり掘割道でもあるようだ。

左に郭3へ上がると先述の搦手虎口Cへの導線。









イメージ 34北東の堀















イメージ 35北東の堀北西端

道が入っていたのであろうか。












イメージ 40
ちょい手前、左に主郭背後の堀イ線














イメージ 41主郭背後の堀イ















イメージ 42横堀状に見える















 寺脇城まとめ

 名倉奥平氏本城寺脇城は、本城ゆえの威容を示す登城路設定が成されている。
 また、元亀・天正と武田圏、織田徳川圏と、所属圏が変わる戦国後期最厳の境目において、所属大勢力の築城術の影響を受けながら改修強化された様相をその構造から読みとることができる。
 横堀形状に、武田圏の影響を、虎口・土塁構造に、賽之神城・鍬塚城系統、つまり奥平氏独自の進化形態を、また堀切によって郭を区切らない縄張に、西国圏の影響を私は捉えている。
 鍬塚城同様に、大勢力が主体になり構築した大規模築城ではなく、名倉奥平氏が主体に改修した普請であったことと考える。



参考文献 平山優(2014)『長篠合戦と武田勝頼』、吉川弘文館
       宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版

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