平成30年作成

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 三連続で奥三河の小城郭
 
 木和田城ヶ根城

 標高680m、上木和田集落とは283mの比高がある。10月に一度トライしたが、傾斜・藪とも嶮しく、時間も足りなかったため断念した。
 
 11月、南西から迫れば、傾斜と高度が緩く、道は無くとも到達できるのではないかと執念深く作戦を立てる。到達できる確証が無かったため、独行で企てていたが、遠征前日、原田先生から「木和田城ヶ根行くときは連絡ください。ご一緒します。楽しみにしています。」とメール到来。虫が知らせたのか、運命か。お言葉に甘え、明日行きますと、連絡、同行いただくことになった。
  
 
縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ東三河地区』より引用) 
イメージ 1
この城が陥落したことが、貞奥平氏(貞能・信昌父子)の作手撤収に繋がったという説もある(1)。主郭は10m×15mの小さな砦だが、北に土塁で挟んだ武者隠し区画()を設け、その下方に出入口を造作している。出入口は、帯郭からの導線を西側竪堀で狭めつつ前面土塁で曲げ、東側竪堀との間を折れて通るという工夫が見られる。
 この一連の造作を確認したい一念が、この城への私の執念の根源であった。
 
尾根続きにもB、Cの堀切が設けられている。
 
 
 
  
 
 

イメージ 2登り口 
 
舗装林道で、駐車スペースもある。
 林業作業の踏み跡あり、石が目印になる。 
谷の奥まで行って右側の尾根にあがってもよさそうだが、私達は右手の尾根筋にあがり、北東に登り詰めた。

 イメージ 3舗装林道わき、作業踏込み口に石










         




 
イメージ 4ピンクリボンの上が城域で、南から接近することになる
 登り口から30分。












イメージ 5影地が南の前段付近にあたるであろうか


















イメージ 6主郭に到達
 
 















イメージ 13主郭東部

緑の奥が櫓台状高所。














イメージ 14櫓台状高所

















イメージ 15北東眺望

















イメージ 7主郭から南の前段

















イメージ 12主郭西下 帯郭

















イメージ 11主郭から北

武者隠し、導線の造作がある。
















イメージ 8土塁と土塁の間に設けられた区画が石川の指摘する武者隠しか













イメージ 17その下方

竪堀と土塁で帯郭からの導線を折れ曲げている。

土塁内側には横矢が掛かる。
佐分清親は、室町期の城を戦国期に改修したと推定している(3)。





イメージ 16その導線を帯郭から















イメージ 20城外から















イメージ 21書き込み無し














  

イメージ 18東竪堀















イメージ 19西竪堀

城内側に竪土塁状が沿う。

















イメージ 10堀B

















イメージ 9堀C


















引用資料 愛知県教育員会(1997)『愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ東三河地区』

註(1) 定本(1990)定本東三河の城、郷土出版社、p.203
  (2)愛知県教育員会(1997)『愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ東三河地区』、p.116
  (3)佐分清親(1990)「三河の城私考「作手村」」、『古城』第33号、静岡古城研究会、p.8


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  もういっちょ、奥三河の小城郭 笠井島城
 
 笠井島城縄張図)『愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ東三河地区』より引用)
イメージ 1

当貝津川の湾曲部、舌状高地に築かれている。川の対岸は鳳来寺道で、このあたりが作手奥平圏の北限になろうか

笠井島城の位置https://yahoo.jp/9FMAdV


縄張図には出入口造作と、その外に三日月型馬出形状のような段が描かれている。私はこれを確認しに行ったのだ。











イメージ 2南西から迫り、城域となる段差

小田城に次いで、作手山城路案内人原田先生に同行願った。
地元の山城案内人すら未踏の城に、新潟の私が連れ込んだわけである。






イメージ 3段差は一応は堀の形態か
















イメージ 4主郭方向

前段壁下に土塁で堀を造作している。














イメージ 5書き込みなし















イメージ 6土塁前















イメージ 7土塁の無い部分の堀

さほど掘ってない。土塁が主構築であろう。











イメージ 9前段あがって、堀、土塁を見下ろす














イメージ 8北に竪堀















イメージ 10前段あがって主郭壁

導線は右(南)回りであろう。











イメージ 11右回り















イメージ 20入って主郭南西部















イメージ 14南回り導線の主郭入り

格別な造作は見られない。











イメージ 12主郭南西辺縁から、辿ってきた南西前段、土塁・堀切


















イメージ 13主郭北東部

縄張図では、出入口造作と、その外に三日月型馬出形状のような段が描かれていて、この構造を確認したくて、やって来た。
原田先生、こんな私にお付き合いくださり、ありがとうございます。



イメージ 15岩の間が縄張図で出入口造作に見えたところで、原田先生がお立ちの所が三日月型馬出形状に見えた段。










イメージ 16構築された出入口?

幅約80cm。












イメージ 17三日月型馬出形状の段を側面から














イメージ 18三日月段下方より


これは計画的に設計された城郭構造では無いと捉えた。










イメージ 19その北東下方

当貝津川に至る。














イメージ 21舌先端下当貝津川

川からの物資引き上げはどうか。

道路は国道420号線・鳳来寺道。









イメージ 22国道420号線より笠井島城
















 行き方

 笠井島城の当貝津川対岸、国道420号湾曲部から南100m程で、当貝津川を渡る橋があり、川の城側に数軒の民家がある。橋を渡ってすぐ正面上の民家の脇から北東方向に登り込む。
 このコースは困難で、お勧めはしない。
 城地周辺は林業作業がされており、当貝津川上流方向からの接近が可能かもしれない。

イメージ 23登り口から国道420号線と当貝津川に架かる橋

















引用資料 愛知県教育員会(1997)『愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ東三河地区』
同行者 作手山城路案内人 原田純一先生

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 論文書き中ですが、奥三河の小城郭を投稿します。

                      小田城
イメージ 22小田集落背後の標高703m(比高100m)の山上に築かれている。
城の西(左)側を菅沼から笠井島へ抜ける道があり、その道を東方から守る城のようだ(1)。

作手村史によると、城主は奥平貞勝の次男源五左衛門常勝で、永禄8年武田方となり、後に作手に帰ったが家康に自刃させられたとある。永禄8年(1565)というとかなり早い。亀山城よりも約12km北東に位置し、鳳来寺道、田峯境に近い。それだけ武田の脅威に近いということか。

 登り方(2019.3.10上写真とともに改訂)

 矢印地点から柵沿い山に入る。
 林道入口このあたりhttps://yahoo.jp/5PLuFp 城の位置がわかるので、行かない方もご覧下さい。
 注:小田集落内、スマホ接続できず。
イメージ 23ここから柵沿いに山に踏み込む

1分ほどで、右に洗心荘。

私の足で9分で横堀到達。










小田城縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ東三河地区』より引用)
イメージ 1
城の東、緩傾斜の尾根筋に向かって横堀が二重に張られている。主郭周囲を一重目横堀ー帯郭が周回する。
この横堀構造を見るために原田先生に同行願った。
主郭と一重目横堀からは、東尾根筋(幅広く尾根とはいわないかもしれない)を俯瞰できない。二重目横堀線が、尾根筋に対して射撃(弓・鉄砲)位置を占める。二重とも、身長以下の深さで、遮断線というよりは塹壕状であり、二重目の横堀はまさに射撃陣地であろう。二重目は北に竪堀としても掘り下げているように見えた。

主郭北東部に、堀込の痕跡らしき窪みがあり、その下方、帯郭の角に石積が見られた。出入口造作に関わる構造であろう。
帯郭が周回する。

峠道は、南から外側の横堀に入り、いずれかの方向の尾根に抜けたとする高田徹の説もある(2)。


                    小田城主郭
イメージ 2
祠が祀られている

しかし、主郭に至る道は滅していて、祭祀が継続されているかはわからない。











イメージ 3北東部の窪み

下方に石積があり、出入口造作に関わる堀込みの痕跡であろうか。












イメージ 6堀込み下方、横堀ー帯郭ラインに石積

原田先生をスケール利用。












イメージ 4積んでいる

作手賽之神城、日近城、名倉寺脇、清水、鍬塚城にも石積と堀込出入口造作を見ることができる。
奥平一門の、格式であろうか。








イメージ 5石積付近から北、帯郭
















イメージ 7一重目横堀、というかこのあたりでは帯郭か













イメージ 20一重目横堀南部




私の目的、小田城の横堀











イメージ 19祠の前に一重目横堀

書き込むと横堀線が文字で埋まるため避けた。










イメージ 9主郭辺縁から
二重横堀線と東尾根筋

主郭からは東の尾根筋は見通せない。










イメージ 12一重目横堀















イメージ 13原田先生に測量ポールを持っていただく

80cm程度なので、1mに満たない胸よりも低い構造であろう。








イメージ 10一重目横堀前面土塁














イメージ 11一重目横堀から二重目横堀

主郭同様、一重目からも東尾根筋を俯瞰できない。塹壕状ではあるが、前面土塁を胸壁とした射撃陣地としては使えないと考える。
主郭を守る横堀であり、東尾根を俯瞰、射撃するにはもう少し東に出なければならない。それが、二重となった理由であろう。

イメージ 14二重目横堀















イメージ 15もう一枚(二重目横堀)














イメージ 17二重目横堀から主郭方向

一重目横堀の塹壕状況が明瞭。兵が隠れていそうである。









イメージ 16前面土塁は一重目同様80cm程度

塹壕状、かつ射撃陣地と成り得る。











イメージ 18東尾根斜面から城方向

原田先生が嵌っているのが二重目横堀。

塹壕状射撃陣地に観えませんか。

とすると、この二重目横堀線の構築者は、奥平か武田か徳川か。
そのあたりを今、論文にしている。

イメージ 8横堀北

掘り下げ、竪堀状である。

















イメージ 21南斜面に近代まで信仰が続く信仰の場がある

小田集落から谷筋を登りここに至る道があったはずだが、滅している。谷筋降下はリスクが高く、西から城に至る道の探索はしなかった。







参考文献 作手村史
引用資料  愛知県教育員会(1997)『愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ東三河地区
同行者 作手山城路案内人 原田純一先生

註(1) 定本(1990)定本東三河の城、郷土出版社,p.206
  (2)高田徹・石川浩治(1995)「奥平氏関係主要城館概要」、『愛城研報告』、第2号、愛知中世城郭研究会、p.84

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直嶺城追加・北尾根

 
 記事が長野県だらけですが、私は越後人です。
            地元のお知らせです。

 平成30年10月27日(土) 雁金城保存会視察研修講演会

 直嶺城のご案内(14:00〜15:00直峰城駐車場起点)と、「景勝期上杉番城の姿」と題してお話しをさせていただくことになりました(16:30〜17:30米本陣)。

  保存会会員外の方も参加いただけますので、ご希望される方がおられましたら、ほたる調剤薬局・えいきtel025-539-2146まで、もしくはメールでeiki0779@joetsu.ne.jpにご連絡ください。
 
 ※米本陣 http://www.mypara.co.jp/  
   入館料が必要です。

 下見がてら直嶺城北尾根の写真を撮ってきましたので平成27年直嶺城記事に追加します。
 ※危険なため、当日北尾根のご案内は致しません。

 ※当面、講演用パワーポイント作成のため、また、その後もとなりのとなりの県の城館群に関する論考を論文としてまとめますので、3カ月程度は濃い内容でのブログ記事更新はお休みします。

イメージ 17松崎へ至る北尾根

細尾根だが、急壁と堀ア、イ、ウ(ブログ説明用にえいきが命名)、で防御している。
その堀の形状は箱掘である。







イメージ 8北尾根根元

堀ってあるが、壁が主防御構造で、堀用途というより北東尾根連絡路の受けであろう。

根元先の尾根小郭を頭上監視。






イメージ 2堀ア

堀底形状。














イメージ 1北東尾根との連絡路















イメージ 3根元堀アの先

尾根小郭。













イメージ 4振り返る

北尾根根元。

堀・壁上伝蔵跡の防御施設。











イメージ 5尾根先方向急降下















イメージ 6降下先尾根上約30m小郭














イメージ 7尾根先方向降下

一段経て堀イ。













イメージ 9堀イ

ここも箱掘と観たが、畝のような隆起もある。











イメージ 16尾根先方向から堀イ















イメージ 10堀イ先尾根上小郭















イメージ 11尾根先方向舳先

壁下に堀ウ。

堀ウまでが城域か。











イメージ 13急降下


この降下は危険。












イメージ 12堀ウ

小さいが箱底のようだ。

何時の時代か、遊歩道があったの…。









イメージ 14堀ウ先尾根上















イメージ 15鉄塔に至る

ウの先に堀構造は確認できなかった。













 細尾根だが、壁と堀切で執拗に防御している。
 その堀形状は、小さくても箱掘のようだ。

 平成27年記事 ★直嶺城1 http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/17653428.html
          ★直嶺城2 http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/17662136.html
             (少々直しました)
 

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 戸隠栃原城館群概要:https://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/19854984.html

      一連の戸隠城館群ラスト、鬼ヶ城(高城は未踏)を書きます
イメージ 1
















イメージ 36鬼ヶ城

宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』(以下宮坂2)によると紅葉紅葉の伝説地で、山麓の中峰から鬼無里へ至る古道に面しているそうだ。
郭番号は宮坂2に準拠、記事中測値も同書に拠る。





イメージ 2これまで書いた戸隠城館は独行だったが、この城は単独で挑むのは危険かつ困難なため、信濃先方衆らんまる・でいびす両将、相模からの横目?小太郎さんに助力頂いた。
らんまるさんのジムニー号で林道終点まで同乗(地図ポイントできず・らんまる攻城戦記参照ください)。



 

  この城は、構造の分析・評価などの御託よりも、我らの修行をお楽しみください。


イメージ 3林道終点から稜線まで攀じ登り、北から岩尾根を伝う














イメージ 4いきなり沢越えの試練
















イメージ 5そして攀じ登る

















イメージ 6あそこ(稜線)まで到達できれば、なんとかなりそうだ(写真4枚で済ませてますが、容易ではありません)











イメージ 7成功の兆し

















イメージ 8稜線到達

そう遠くない昔まで、稜線上は道であったようだ。












イメージ 9おっ、堀切か

















イメージ 10ふっ

















イメージ 11そうだ、目指す城はまだ登るのだ
















イメージ 12岩の上に平場あり

















イメージ 13平場

そしてここから城へ向かって岩尾根が始まる。













イメージ 14うぃ


右側に少々迂回。














イメージ 15もしや旭山城のような石垣か?

もう、そう見えてしまう自分が怖い。












イメージ 16往く

















イメージ 17今の平場

居住できるとすれば、少しでも風も凌ぐことができるここが最適か。











イメージ 18岩尾根を伝う

















イメージ 19現在地・方位を確認か
















イメージ 20修行再開

高所が郭4。















イメージ 21郭4

西(右)西に土塁…、がある。













イメージ 34北端

造作はしてあるようだ。













イメージ 35伝い登ってきた北の岩尾根
















イメージ 22郭3

















イメージ 231まで約48mある

















イメージ 24郭1北手前

石に聖地感。















イメージ 25郭1

15×8m。

石で造られた基壇と成り得る構築あり。











イメージ 26なにかを祀る基壇であろう

行者の祈りの場と得心。













イメージ 2710mほど緩く降り郭2
















イメージ 33郭2

















イメージ 28南東辺は土が盛る

土塁か?

防御施設などといったしろものではなく、落っこちないための構造か。









イメージ 29三角点















イメージ 30下方

中峰に至る(宮坂2)。













イメージ 37上方

先の大築城とは様相が異。
侍の城ではないであろう。










イメージ 31郭1の基壇


やはり行者の遥拝、祈りの場を想う。












イメージ 32天地、山川草木、宇宙と一体になった行者様に、会ってみたい

夕景、夜空、夜明け、どれほど美しい(晴天に限る)だろうか。
一夜、ここで明かしてみたいものだ。








参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版、pp.370-1


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