えいきの修学旅行

竹さんの『戦国の城の一生』、予約していたAmazonの他からも届く。二冊も手に入るぜ。

平成30年作成

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                        古城
イメージ 1城歴に関し、詳細は不明である。
福平城の北東1.3kmに位置し、栃原地区の東の関門にあたる。






 





           古城概念図
イメージ 28宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版を参考に、郭・堀名を同書に準拠し、ブログ説明用に地理院地図に作図。 記事内測値も同書に拠る。

主郭は南北39m、東西は南辺が30m で、南東隅が高く郭内は傾斜する。東西の切岸は高く鋭いく、南はイ・ウの二重堀切、南は堀エによって守られている。
防備は切岸、堀に土塁を加え、なかなかに手を加えている。













イメージ 3郭5

石組があるが、もしや写してはいけないものかもしれない…。

右に壁高く郭1。
撮影地背後に竪堀在り。







イメージ 4竪堀

















イメージ 5南に主城域

堀ウに写真右から斜めに導線が入る。堀ウを通り、西面へ抜け、土塁開口出入口から主郭へ入ったと考える。









イメージ 6主郭切岸は壁高い鋭い
















イメージ 7堀ウ、イに接近

















イメージ 8ウ底を郭1、2土塁の挟撃下、通行
















イメージ 9西へ抜ける

















イメージ 19ルート側面頭上郭1は北西から西辺に土塁を備え、聳えるように威圧をを加える












イメージ 10郭1西切岸面

現況では導線ははっきりしないが、土塁の開口があり、そこから郭1内へ入ったものと考える(次項で郭1内から掲載)。











     郭1

イメージ 11北隅から南方

南西隅が高い。















イメージ 12北辺

















イメージ 2北切岸下に郭5

















イメージ 13南西隅高所へ

南辺は遮断堀切エに沿って土塁が沿う。












イメージ 14南西隅高所

















イメージ 15南西南高所から西辺

土塁開口箇所に堀ウからのルートが入ったと考える。











イメージ 16西辺土塁開口部

















イメージ 18開口下

西辺北部から北西辺土塁の下方を堀ウに至る導線で、監視は十分に効く。











イメージ 17西辺土塁北部

















イメージ 29北西辺土塁

土塁下は堀ウ、イの二重堀切。














イメージ 20北西辺から二重堀切

土塁・壁下、堀イ畝に限定された堀ウ底は、郭1監視下、限定された通路となろう。










                     反対南尾根


イメージ 21堀エ

南尾根は堀エが上幅14mで豪快に遮断する。

堀エは郭1、南(3)両側に土塁が沿う。









イメージ 22エ東掘り下げ

















イメージ 23堀エに沿って設けられた郭1南辺土塁
















イメージ 27エ底(東から)

南(左)にも土塁が沿う。畝構造か。

主郭側内壁は10〜12mを誇る。










イメージ 24エ底から主郭南西隅を見上げる

威容を放つ城壁である。
















   南尾根

イメージ 25郭3

約37m先堀オまでが城域となる。













イメージ 26堀オは土橋で渡るが、宮坂先生は疑義も呈している。

郭内側にL型に土塁が残る。後世の土橋造成によりLとなったか。













   北西尾根

イメージ 31郭1北西辺から北西尾根 

先掲したが北西尾根は堀イ―ウの二重堀切が敷設されている。イーウ間の畝は錣状に際立ち、二重とする(堀ウ堀底通路に関しては先述のため省略)。
郭2は南東隅にL型土塁を備え、南東辺は堀イに沿う。堀イーウ間の畝とで畝も二重となる。

イメージ 30郭2L型土塁から堀イ


錣状に際立つ。
上杉の仕業か。










イメージ 32郭1に向かう
















イメージ 33郭2


北西部に虎口様の窪みあり。












イメージ 34窪み

出入口か?













イメージ 35北西端

舳先は竪土塁が付随か。












イメージ 36降って堀ア、郭4

4の北東に帯郭状の段が付随しこのありまでが北西の城域となろう。

郭4の北西約40mを車道が通る。








イメージ 37入口

南東約40mで郭4付近












 参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版。pp.396-7


イメージ 38次はあそこ





大築城。









イメージ 39


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                    大昌寺と大昌寺山城
イメージ 1福平城の南約800m、北北東約1kmに円光寺館の南南西約1kmに位置する。













                                      大昌寺山城概念図
イメージ 2
宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版を参考に、郭・堀名を同書に準拠し、ブログ説明用に地理院地図に作図。 

宮坂先生は本城福平城の支城として築城されたものと推定している。
北東面に横堀を巡らせている。この横堀は前面に土塁を備え、背後に高く土塁を備えない郭1北東面が控える。前面土塁を備えた横堀、郭1の二段の防御施設であろうか。とすれば、天正期上杉圏下に付加された防御施設かもしれない。

また、寺に近接し、郭のとり方が単純なことから、あるいは寺の城の可能性もあるのではないだろうか。







イメージ 3大昌寺

常ならぬ美しさと威厳。














イメージ 4身震がいした

宮坂先生は『長野県町村誌』から、「曹洞宗高府村明松寺派なり、本村の御南の字方清水にあり。、寺伝によると永昌(1504〜20)の頃溝口伯耆守開基し、密造寺と号し、真言宗なりと云ふ。溝口氏没落後廃絶し… 」と紹介している。
また、鬼女紅葉ゆかりの寺でもある。

イメージ 5城は墓地を登る

















イメージ 6登り切ったら、矢印部からとりつく

お寺に近く、比高も45mなので易く考えていた。












イメージ 71分ほどで社の跡に至るが、断念しようかと思うほどに藪がきつかった














イメージ 8社の跡

















イメージ 9嘆くなかれ、そこは既に城の北東隅に隣接している 

北東面は前面に土塁を備えた横堀を巡らせている。

後背郭1には北東辺縁に土塁を備えていない。






イメージ 11前面土塁と横堀イ

倒木の奥に土橋。













イメージ 13土橋















イメージ 12郭1への導線

まっすぐな坂登路。

堀込などの出入口造作はない。










イメージ 14坂から土橋



















   

イメージ 15郭1


45×25m程の長方形で、削平はされている。


写真中央やや左に祠の址。







イメージ 16もしかして、お寺?
















イメージ 19北東辺から横堀線
















イメージ 10北西下に帯郭
















イメージ 17南東下に山の神
















イメージ 21南東辺には土塁

土塁下は堀ア。













イメージ 20土塁郭内側中腹に石仏

わずかばかりお供えしました。











イメージ 22土塁下に堀ア

幅7m。













イメージ 23北東下方

横堀イと合流。













イメージ 24南西下方

山の神も囲う。














イメージ 26山の神















イメージ 27山の神の南東横を囲う堀ア














イメージ 25山の神から下方から堀ア















イメージ 18さきほどの仏様

堀アに面し、土塁からやや引いてお座りになられている。

なにをご覧になられているのか。

また来ます。









参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版、pp.380-1



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 戸隠栃原城館群概要:https://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/19854984.html             
                   
                     円光寺館
イメージ 1福平城の南東700mに位置し、福平城を築いた溝口氏の居館地と考えられている。
しかし、福平城が館城機能も有しているので、福平城が拡張されて後は、城主ではなく、有力人物の居館、あるいは寺院であった可能性もあると思う。




イメージ 2国土地理院の空中写真に、宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版を参考に郭・堀名を同書に準拠し、おおよその位置にブログ説明のために書き込んだ 。記事中測値も同書に拠る。

館主要部1、2で、1には円光寺が在り、北から東に土塁が囲う。さらに北、東、南は堀ア、イ、ウが囲う。宮坂先生は西には町、下町の地名が残ることから、城下町の形成も推定している。














イメージ 7堀端南東隅から

















イメージ 8裏木戸付近















イメージ 9藪に踏み込んでみたが、木戸構造はわからなかった。














イメージ 6円光寺館主要部

郭1に円光寺が建つ。

1は西辺の北から南、東に土塁が囲う。土塁南端上にお墓建つ。その手前から堀イを越え裏木戸へ至る。






イメージ 12裏木戸への導線
















イメージ 10郭1

郭2とは小段差で区切られている。












イメージ 11東辺土塁

















イメージ 13東辺土塁上















イメージ 14西辺土塁

西辺は東よりも短く、北部16m程。












イメージ 15北西隅

櫓台か。













イメージ 18北西隅から大手と考えられる城下町推定エリアへの導線













イメージ 19他の城との連絡も良い














イメージ 22大昌寺・大昌寺山城も近い














イメージ 16北辺土塁上

内壁は斜高5m。













イメージ 17北辺下堀ア

外壁は10m。


















イメージ 3郭3北東からの1への入り
土塁北西隅の監視を受ける。
ここhttps://yahoo.jp/najHEC大昌寺・大昌寺山城にも近い。










イメージ 4堀ア

右側郭1土塁壁は約10m。













イメージ 20導線南西部郭3
















イメージ 5郭4

















イメージ 21土塁北西隅が睥睨


















 参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版、pp.382-3






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                    福平城(西から)
イメージ 31戸隠栃原の主城とされる福平城















イメージ 1国土地理院空中写真に宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版を参考に、郭・堀名を同書に準拠し、ブログ説明用に書き込んだ。

主郭1の前面(南)は土塁で区切り郭2を、段々に3を配している。
主郭の北は堀ア、イと二重に備えている。 驚きの箱掘で、土塁も付随し厳重に防備を施している。さらに北に堀ウ、エが設けられており、城域は広い。拡張されたものであろうか。
西は堀オが守る。

堀ウ底には段差が設けられている。

私は福平城の箱掘の構築、堀底段差普請は、天正期景勝勢力圏下の普請と考える。









イメージ 32福平城主要部
(南から)

今木八幡社背後が郭1。












イメージ 2郭2

平成27年設置長野市教育委員会設置の説明板によると、享禄年間(1528〜32)に構築されたとし、文禄年間までこの地を治めていた溝口伯耆守の居城、また今井四郎兼平が築いたとの伝説も記している。




イメージ 3郭2から郭3

監視下置く。















イメージ 4今木八幡社背後の土塁で郭1を区切る

小さい車なら、ここまで入ることができる。










イメージ 5お堂背後、土塁

















イメージ 6土塁の南西端から主郭、堀ア底に至る導線がある















イメージ 7南を土塁と郭2、北を堀に守られた郭1
















イメージ 8郭1北を守る堀ア


驚きの箱堀で、堀イとの間に土塁を置く。

土塁は、幅広の箇所もあり、そこは塁ではなく、防御陣地、あるいは櫓台としての構造であろう。





イメージ 9一旦土塁がきれて北東部
















イメージ 10驚きの箱掘

まさか戸隠で箱掘に出会うとは思わなかった。
宮坂先生は勢溜りにもなると記している。

郭1側壁は10mにも及び、堅固に主要部を守る。





イメージ 11土塁外はさらに堀イが二重に守る

甚だ堅固である。














イメージ 12堀アーイ間の幅広のところ

藤塚というらしい。














イメージ 13藤塚から堀ア越しに郭1
















イメージ 16堀イ

















イメージ 14堀イも城内側壁は堅固である



















イメージ 15堀イから郭4への接続部
















イメージ 17虎口のようにもみえる窪がある
















イメージ 18郭4

















イメージ 19西と北は堀ウが守る

堀ウは通路としても使用されたはずで、郭4は堀ウ通行者を監視する役割もあったことであろう。









イメージ 20堀ウ東西















イメージ 21東西の堀底には段差が設けられている














イメージ 22西段差

郭4西辺と合わせた設置。












イメージ 23東段差















イメージ 24西段差上から東西の段差間

枡形運用?とまではいかなくとも、通行の一旦停止線にはなろう。









イメージ 25西段差を下方から

















私は、福平城の箱掘の構築、堀底段差普請は、天正期景勝勢力圏下の普請と考える。


イメージ 26掘ウ東から南北への折れ部














イメージ 27ウ南北線















その西イメージ 28は堀オ(冒頭の写真の堀)が守る

















  東西堀ウ線から約130m北に二本普請の堀エが東西に設けられている。

イメージ 29堀エ西端















イメージ 30二本の堀エ


















   まとめ

 戸隠栃原地区は、麻績・安曇野を勢力下に置きたい上杉景勝にとって、拠点城郭牧之野島城と越後を最短で繋ぐ戦略上重要なエリアである。
 私は福平城の箱掘と段差普請に注目し、同城は景勝圏前線と本拠越後との中継、ならびに戸隠領有化拠点ために景勝領有下の天正期にも手を加えて使われた城であろうと考える。

 参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版、pp.385-7



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柏鉢から北上、戸隠栃原地区に進みます。

イメージ 2戸隠は、飯縄山の西まわりで越後と犀川流域から麻績あるいは安曇野へと繋ぐ。
善光寺平を中野まで進み北上する現在の国道18号ルートよりも1日、また飯山から北上する国道292号ルートよりも2〜3日早く越後と犀川流域あるいは安曇野を連絡することができる。

戸隠栃原地区は、越後を目指す信玄、越後を守る謙信、時期が下って麻績・安曇野を勢力下に置きたい景勝にとって、山間地とはいえ戦略上重要なエリアであろう。

 戸隠村の中央部栃原地区に、戦国期の城館が複数存在する。
 栃原地区に所在する城館は、戸隠山宗教勢力によるものではなく、在地武士の城館である。

 聞き取りで、栃原の馬は、雪が解けると新潟県の妙高へ馬の出稼ぎ(農作業)に行ったというお話を伺った。長野(善光寺平)とはあまり行き来はなかったが、妙高とは繋がりがあったという。

イメージ 1戸隠栃原地区遠望

盆地の主城福平城を中心に、詰の城大築城、他の円光寺館、大昌寺山城、古城、高城、鬼ヶ城などが福平城を求心にして群集する。







イメージ 3居館とされる円光寺館から主城福平城














イメージ 5山上にも城、城、城





高城は平成30年8月現在、未踏

先方衆、相模小太郎さん同行ですら、辿り着くことができなかった

そんな戸隠の城館を、9月いっぱいかけて福平城、円光寺館、大昌寺山城、古城、大築城、鬼ヶ城の順で紹介しようと思います(掲載順変更あるかもしれません)。




 戸隠山宗教勢力の動向も、大藪宏(1996)『戸隠山物語』を参考に記しておく。

 弘治三年(1557)年第三次川中島合戦の頃、武田は飯縄山と戸隠山に帰順を呼び掛けた。飯縄山の千日太夫は武田に服したが、戸隠山の衆徒はその要請を無視、2月17日に侵攻を受ける。戸隠山の衆徒は越後領内の関山に避難した。越後勢が旭山城を再興し、犀川以北を回復すると6月には戸隠山の衆徒は関山から帰還した。しかし、翌永禄元年には、武田側に就くことを固める。8月、信玄は戸隠山大権現に甲越の戦いの戦勝を祈願した。翌2年、武田勢が越後境に侵攻するも越後勢の反撃にあい、戸隠山も越後勢の侵入を受け、衆徒は鬼無里や小川郷に避難した。9月に入ると越後勢は駆逐され、衆徒は帰還するが、同7年には奥院祇乗坊真祐は衆徒80人余りとともに戸隠山の三院を戦火の及ばない小川郷の筏ヶ峰へ移した。時代は下り文禄3年(1594)、45代別当賢栄は景勝の後援を得て戸隠山の大々的な再建に乗りだした。

 参考文献 大藪宏(1996)『戸隠山物語』、保険毎日新聞社、pp.69-73

                    
                       戸隠
イメージ 4右方背後に妙高山がぽっこり

なぜ信濃の国の空はこのように美しいのか。














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