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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。
2017年10月8日、東京・四谷の主婦会館で「羽田闘争50周年集会」が開催された。
この集会は1967年10月8日の第一次羽田闘争から50年を記念して、10・8山博昭プロジェクトの主催により開催されたものである。
当日は、プロジェクトの事業の報告や俳優の品川徹さんによる詩「死者の鞭」の朗読、水戸喜世子さんによる記念講演、歌人の福島泰樹さんによる「山博昭に捧げる短歌絶叫コンサート」などがあったが、今回はその中から、水戸喜世子さんによる記念講演を掲載する。(講演内容に水戸さんが加筆訂正したものです。)

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●羽田闘争50周年集会記念講演
「10・8と反原発の今をつなぐものー私にとっての10・8」  水戸喜世子
皆さま、今日はよくおいで下さいましてありがとうございました。
私は救援の人間ですので、救援というのは普通は黒子で、縁の下の力持ちで、こういうところに出る立場ではないんですけれども、何故かこういう話をすることになりました。

<みなさま、鈴木道彦さんをご紹介します>
今日ここに、フランス文学者の鈴木道彦さんが遠い所を お出で下さっています。10・8が起きて、新聞は暴力学生一色になって、暴徒キャンペーンが張られる中で、知識人が3回にわたっていろいろな形で声明を出して下さいました。その多くの方はお亡くなりになっていらっしゃるんですけれども、ご高齢をおして来ていただきまして本当にありがとうございます。

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10・8は私の夫も反戦青年委員会として参加していました。その時は東京大学の原子核研究所の助教授の立場でしたが、研究所は進歩的な人といえば共産党系の人たちばかりでしたから、参加するのはとても大変だったと思います。そういう中で一人参加して、帰って来てすぐ準備して翌朝には報告集会を開いて、立看板を出して職員に呼びかけて、それでも10人くらい集まってくださったと、喜んでいました。その日から来る日も来る日も電話をかけて、自分で作って文章を読みあげて、署名してくださいとお願いしていました。梅本克己、大井正、大江健三郎、小田実、小田切英雄、・・・という方々でした。声明を出すだけでなく、学生を救援しようじゃないかという救援の訴えの中にも鈴木先生のお名前が入っております。暴力一色のキャンペーンの中で、50人くらいの当時の知識人の方が名前を連ねて、政府はベトナム戦争に加担するなという志と行為を自分たちは支援するんだ、何故、学生たちの目的を新聞ではちゃんと伝えないんだという、怒りを込めた声明でもありました。黒田喜夫さんら文学者が書かれた声明も出て、それがどんなに私たちの力になったのかということを、今、鈴木先生にお目にかかって、改めて思い起こしたところです。
山博昭のモニュメントを作りたいという一つの思いで、私たちはここにこうして出会うことが出来た者たちです。共謀罪、秘密保護法、集団的自衛権と、黒い罠が一つまた一つと仕掛けられ、権力者が一網打尽にこの国に住む人を戦争の中に叩き込みたがっている気配を感じます。そんな折だからこそ、このような場を持つことができた巡り合わせを心強く嬉しく思います。

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<一人一人に「反戦」の根拠があり、足跡があり、ついに奪い返した「表現の自由」の感動!>
結論を申しあげますと、長いこと奪われ、押し込められてきた表現の自由、憲法で保障されている表現の自由を、自分たちの側に初めて奪い返したという、私にとっては胸のすくような瞬間が10・8でした。表現の自由が人間の根源に関わる欲求であるということも改めて思いました。憲法に書いてあるたったの5文字「表現の自由」を実現するまでに、どんな経過があったのか、私の体験からお話したいと思います。
完全装備の治安弾圧部隊に、当たり前の市民が石ころと棒きれで立ち向かえるという、それは本当に私にとって驚きでした。ただ、その代価はあまりにも大きいものでしたけれども。一瞬取り戻したかに思えた表現の自由も、今また、以前よりももっと厳しくなった感があります。でも、私たちの記憶の中に、本気になって頑張れば、願いは実現するものであるという感動と、歴史を残してくれました。山博昭の死を私たちが思い続けることが大事だと、困難な時代にあって一層強く思うこの頃です。
十・八は突然やってきたものではありません。(一人ひとりの長い歴史があって)やっと十・八にたどり着いたんだと私は思っています。私の場合はどうであったか、お話したいと思います。

<小学生に刻み込まれた軍国主義思想。とってかわった『民主主義』も馬脚を露す。>
私は1935年の生まれです。学校に入ってすぐに教わったことは「我慢すること」。「ほしがりません、勝つまでは」。「国のために死ぬことこそが人の道である。」としっかりと刻み付けられた少女の時代でした。それがある日突然「個人が大切。幸せになっていいんだよ。」という真反対の価値観が同じ一人の少女の上に重ねられたんです。本当に混乱した思春期を過ごすはめになったのです。戦後の人にはこのように鮮烈で衝撃的な意識転換の記憶はないと思います。「新しい憲法の話」という、ほんのしばらくの間だけ学校で正規に使われて、すぐに副教科書に移行してしまったんですけれども、その「新しい憲法の話」という本が私に、人は誰も平等に自由に幸せに生きる権利があるということを教えてくれた最初でした。お互いの自由や幸福を尊重するために民主主義がある、と習いました。ですから、大学に入って、学生ならば学生自治会に参加するのは当然だと思いました。ですけれども、私が入った大学は学生大会を開いてもなかなか定員が集まらない、本当に私はその現実を見て驚いたんですけれども、自治会活動に入っていくようになりました。18歳の春です。

<オイコラ警官の復活。「基地は違憲」判決から「基地は合憲」米国介入判決へ>
大学に入っていろんな運動に関わりましたけれど、一番学んだのが砂川の基地拡張の反対闘争、いわゆる砂川闘争でした。初めはスクラムを組んで警官に向き合っている、対峙している。私たちは警官に向かって、平和な故郷が大切だということを分かって欲しくて「赤トンボ」を歌ったり、「農民の土地を奪ってアメリカの基地にする。あなたは人殺しの片棒を担いでいる。」と話しかけると、警官はうなだれてうつむいていくんですね。そういう闘いの始まりでした。それが2度目か3度目になると、警官はまるで怯えたように凶暴になっていきました。意味不明な暴力を受けました。1956年10月の行動では、とうとう4千人のデモ参加者に対して千人の怪我人が出るという、歴史に残るような不当な弾圧が行われて、その時の新聞は「警棒の雨、暴徒と化した警官隊」と書いたほどでした。これが1956年ですから、まだ戦後たかだか10年しか経っていないのに戦前復帰が始まっていたということです。民主警察はどこへ行ってしまったのでしょう。
「オイコラ警官というのはなくなるんだ」と先生に習ったんですね。テストで、髭を生やした威張った警官の絵には、私たちは×を付けました。ところが、それは真っ赤な嘘でした。

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弾圧されても地元の反対同盟と学生・労働者はひるまないで闘争は続いて、57年に、たまたま学生が基地の柵を倒して数メートル中に入ったということで、警察は事後逮捕で23名、指導者ばかりを逮捕しました。その中で7名が起訴されましたが、全員無罪判決が出ました。皆さんよくご存じの伊達判決です。下級審では本当に真面目に司法ということを考えている裁判官が時々いらっしゃるんだと思います。刑事特別法違反でしたが。この法律の根拠が安保条約ですから、安保条約が9条違反なのだから、そんな罪名で起訴されたものは無罪であるとしたのです。これに驚いたアメリカは最高裁に介入しました。介入の事実が2008年から明るみに出てきました。アメリカは一定期間が過ぎると国家秘密は公開されていきます。驚くべき内容で、田中最高裁長官に対してアメリカが介入して、地裁から高裁をすっ飛ばしてすぐ最高裁に飛んで合憲であるという決定をだした。最高裁は15名いるので、多数意見、少数意見が必ず出る。ところが、「少数意見を書くと、国民がまた暴れ出すから、全員一致で私たちは判決を出すつもりです」と、田中最高裁長官は自分の方からそういうことを言っているんですね。本当に恥ずかしい、これが日本の最高裁の長官かと思うような態度でアメリカに対応しているということが明るみに出てきました。この最高裁の判決を、自民党の高村さんたちが集団的自衛権の根拠にしたのです。それに対して国会に呼ばれた憲法学者たちが、それは見当違いだと正面から反対して、彼らは全く根拠を失っている状態だと思います。ですから、今の戦争法(安保法制)を初め、共謀罪もそうですけれども、私たちはそれを法律として認める必要は本当にない、それを廃案に持っていく闘いをしなければいけません。

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私が砂川にこだわるのは、日本の中に軍事基地があるというのが憲法下では絶対に許せないからです。戦後習った民主教育の中で、もう日本は再び戦争はしないと決めたのに、なぜ日本の中に軍事基地があるのかということを私は理解できないんですね。伊達判決は本当にシンプルですっきりしていて、私にはとてもよく分かるんですけれども、どうしてそれが通らないんだろうと不思議ですけれども、それはきっと私のような戦後民主教育を受けてきた者の憲法感覚なんだと思うんです。

 <保育所無いから、仕事辞めて、子ども連れで米領事館前座り込み。夜は屈辱のデモに耐える>
私は、その後(水戸巌と)結婚して、最初の就職が関西だったものですから、関西で6年間過ごしました。その6年間の間に、大学の研究所の前に引越しをして仕事をしていました。1年間に3人の子どもが出来てしまいまして、年子で双子ということで、それを預かってくれる人がいくら探してもいない、ベビーシッターを頼みましたが、それも永続きしないので、とうとう仕事を辞めることになりました。でも、辞めていいこともあったのです。ちょうどその頃、60年代半ばですが、ベトナムで北爆が盛んになってきました。民間の人たちの上に落ちる爆弾、悲惨な写真が新聞に毎日のように出て、胸が締め付けられる思いの日々でした。自分の子供に重ねてしまうのです。私たちはそれで、神戸のアメリカ領事館前で始まっていた座り込みに参加するようになるのですが、ちょうどヨーロッパでもそういう運動が盛んになっていた流れではないかと思います。そこで「神戸ベ平連」をみんなで作って、子ども3人を連れて、近所のママ友のお母さんたちも誘って座り込みを始めました。その活動は50年以上たった今も、当時の人たちによって続いています。「神戸ベ平連」ではなくなりましたけれども、沖縄に若い人を送ろうというカンパの呼びかけをするなどして反戦活動が続いています。

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神戸にいる頃、昼間はベ平連の活動を子供と一緒に穏やかにやっていましたが、一方では日韓基本条約の締結をめぐって、韓国の中での血を見るような闘いに応えるために、日本でも日韓条約反対の運動が盛り上がっていました。私は子供を夫に預けて夜のデモに参加していました。その頃のデモはひどいものでした。文字通りサンドイッチデモで、デモの両端に二列の機動隊が付くのです。足で蹴っても通行人から見えない、殴っても見えない。それから前でデモ指揮の人がジグザグをやろうとすると殴られる。デモが終わって見てみると、先頭のデモ指揮者はいつも顔から血を出している。最後尾の人は尾てい骨を蹴りあげられる。、横にいてもアザができるくらい蹴られる。そういうデモをずっとやっていました。その時はさすがに悲しくて、いつになったらトンネルから出られるのだろうという思いをして、デモに行きたくないという思いと、デモ指揮をして最前列で私たちをかばって、いつも血を流して闘ってくれている人たちのことを思うと、行かないわけにはいかなくて、参加していました。私は「痛いデモ」というのを砂川の次には日韓で体験しました。

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 <砂川、羽田闘争に参加する巌。山崎君の死。それでも「やったぞー!」>
6年間の関西の暮らしは出産、育児の合い間の反戦運動で、のどかな日常生活がありました。東京に戻ってきたのは(夫が)東大原子核研究所に転勤になったからで、67年の1月でした。戻って、夫が真っ先に参加したのが砂川闘争でした。私は今回は小さな子たちがいるので参加できません。頑張ってきてね!と4人で送り出すだけ。砂川闘争はまだ延々と続いていて、2月26日の大きな集会の呼びかけに応えて、一人で参加していきました。ところが帰ってきた顔を見ると、顔面を殴られて前歯は折れているし、服はドロドロで、まるで人相が変わった人が玄関に立っていて、子供と私は呆然として言葉も出なかった記憶があります。7年ぶりの東京も、60年安保の時代とは打って変わって「痛いデモ」に逆戻りしていたのです。

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その傷がやっと治った半年後の羽田闘争に、彼はたった一人、反戦青年員会の隊列に入って、穴森橋の戦いに参加していきました。穴森橋がどうであったか。記録があるので読み上げます。「穴森橋の後ろの座り込みをしている時に、萩中公園に戻り始めた反戦青年委員会の隊列は、その側面と前方を機動隊に囲まれた後、一瞬の停滞の後、機動隊の警棒が無防備の反戦の労働者(当時はヘルメットなしだった)の上に打ち下された。頭部裂傷で顔面を真っ赤にして倒れる人が続出した。萩中公園に結集した全部隊は、学生が殺されたという知らせを受けて弁天橋に向かい、抗議集会を開いた。再び橋を渡ろうとするデ隊に対して、催涙弾と警棒の弾圧が加えられ、ここでも多くの重傷者を出した。」この日の闘いで山博昭くんが頭蓋骨骨折(牧田病院の診診断書)で死亡。負傷者・重傷者はわかっているだけで約100名にのぼります。診断書は、私が子供の保育園の送り迎えに使っていたスバル360で、弁天橋、穴森橋あたりの病院を全部歩きつくして、治療費を払って診断書を受け取ったものなんです。1ケ月くらいかけてそれをやりました。診断書は、国会の法務委員会で過剰警備であるということで追及してもらおうと思って、北小路さんと議員面会所に一緒に行って出しました。悔しいですがその実物のコピーは手元にありません。ただ、当時の雑誌(「現代の眼」)には罪名が書いてありますし、救援の縮刷版にも主なものは載せています。
日が暮れて夫は、子どもたちの前で「やったぞー」と拳を上に突きあげてみせて、意気軒昂に帰って来た時は、洋服は血まみれでも、大きな怪我はありませんでした。無事に帰って来てくれただけでも有難い事だと思いました。洋服の血は怪我人を全部病院へ運んできたからだと言っていました。デモに参加するときの学生時代からの彼の流儀です。彼は仲間とハイキングに行く時でも、体が弱い人とか、体調が悪い人の安否が最後まで気になって確認するような人でしたから、おそらく全員の確認をしてから家に帰ってきたんだと思います。
洋服を見ただけでも、デモが大変なものであったことが想像できました。

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 <国民的高揚があった60年安保闘争とその後の冬の時代を耐えた力が10・8ベトナム反戦につながる。>
60年安保反対闘争の国民的な盛り上がりを振り返ると、大阪でも、御堂筋をフランスデモして、道幅いっぱいに手をつないで歩く、爽快なデモができました。樺美智子さんが亡くなりましたが、国会の中に突入するような闘いも経験しています。60年安保の時の被告の弁護を最後までやって下さった5人の弁護士の一人に内田剛弘先生がいます。結局、被告は実刑なしで執行猶予がついて、しかも、逃げるのを襲ったのは過剰警備であるから無罪であるということで、多くの人を無罪にしています。そういう素晴らしい裁判闘争も経験しました。その60年安保が収束してしまった後の数年間は、日韓条約反対デモに象徴されるように一切の表現の自由を奪うかのような本当に屈辱的な時期だったのです。
そこで起きたのが10・8だったのです。それまでの屈辱的なデモはまるで永久に続くかのように思えて、無力感につぶされそうになっている時に10・8が起きたんです。泣きながら、涙を流しながら、それでも嬉しくって、うれし涙になるようなそんな10・8だったんです。これを暴力だと言う人がいたら、それは政府に向かって異義ありと声を上げたことのない人だと私は思いました。民衆を大事に思ったことのない人は、それを暴力だと言うかもしれませんけれども、完全装備の機動隊に対して、本当に棒と石ころ、子供のけんかみたいなものですが、それでそこまで闘った、命がけで闘ったということに私は本当に感動しました。

<反戦運動こそが憲法9条を生かすこと。憲法を守らず、弾圧する以外に政策を持てない政府は変えねばならない>
この感情は私の子供の時からの体験に根差しているのでしょう。あれだけの残酷な戦争を体験してまだ70年しか経っていない。日本人の中に戦争の心の傷はまだ残っているはずです。戦争反対の意思表示をするのに、何故こんなにも国家権力の暴力を受けなければならないのか、私の中に疑問としてあります。住民が自分の土地を軍事基地に使わせたくないという砂川の人たちの思い、三里塚の人たちの思い、それは日本人の根底にある思いだと思います、ベトナム戦争に日本は協力するなというのも、憲法に書いてある平和の理念に全く沿った行為、それが国家の暴力で阻止されて痛い目に会わなくてはいけない、時には殺されなければならない、本当に私は理不尽だと思います。これが民主主義といえるでしょうか。紛れもなくファシズム国家だと思います。警察力でしか、まともな人民の意思を押さえつけることが出来なくなっている。羽仁五郎さんは、今の段階の資本主義国家は何一つ政策を打ち出すことが出来ないと書いています。彼らにできる行為は一つだけで、それは反革命である、それだけであると言っています。社会ファシズムだと言っています。共謀罪であるとか秘密保護法であるとか、警察力、それから情報操作、メディアなどの社会的ツールを駆使して人民を押し込める他やりようがないんでしょう。私は暴力は好きではありません。ヘルメットは防御になるから被れと言われれば被りますけれども。
話が飛びますが、台湾で政権を取った原動力は日本で全共闘時代を共に過ごして、母国に帰った人たちが後輩の学生に働きかけて準備したんだという話を私は直接当事者から聞いたことがあります。国会を占拠して、学生たちが実によく働いて政権を交代させましたよね。韓国でも反原発で共闘することがありましたが、座り込みでロウソクを持って祈りのデモをする、集会をする。放水にも耐えて闘う。それならば私にも出来る気がします。守りには強いけれど、棒を持って石を持ってというのは私にはちょっと無理かなという気がしています。

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<口先の「反戦」ではなく、己のあり方として「反戦」と向き合った10・8の若者たち>
羽田10・8の闘いのもう一つの素晴らしい意味は、他人事として口先だけでベトナム侵略戦争反対を唱えるグループ、既成政党がありましたね。それを、そうではなくて、現地で闘っているベトナム人と同じ目線に立って、自分の国の首相の戦争加担を止めようとした、他者の闘いではなく自分自身の闘いであったこと、それが人々の感動を呼び起こしたのだと思います。世界に衝撃を与えて、南ベトナムの闘う学生を励ますことに繋がった理由です。山本義隆さんがおっしゃったように、向こうの人たちが大変好意的に私たちのことを受け入れて下さったということは、単に山さんが亡くなったということだけではなくて、その時闘った皆の闘い、誰が死んだって不思議じゃない状況を、診断書を1枚1枚受け取りながら想像しました。そんな闘いがベトナムの方たちに少しは理解されたんだと思い、私は少し嬉しくなりました。ベトナム人民の闘いを我が事として引き受けて、その中で失った大切な一つの命。一つの命を失ったということは本当に大きなことで、どんなに悔いても、それは悔い足りない事ですけれども、それに対して山建夫さんはこのように書いています。短いので聞いてください。
「最後に弟へ。お前は言ってたっけ。同じ死ぬなら戦争で死ぬより反戦の闘いで死ぬって。心から平和を願う人々の心に、細々としかも消えることのない灯りとなったお前を、俺は誇りに思う。」
このようにお兄さんは書いてくださっています。(拍手)本当に慰めになります。

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<「羽田十・八救援会」は三人の幼い子の手を借りて発足。子持ちの主婦にもできること>
羽田十・八救援会というのは、知識人、こういう思いを支える人たちによって誕生しました。中でも忘れられないのは、山君のお母さんが毎月8の付く日に必ずカンパを送って下さっていたんです。そこにいつも短い文、自分の今日の暮らしとか思いを付けて送って下さっていました。1回だけお母さんにお会いして、その時にいただいたのが(ぬいぐるみの)コアラちゃん。うちの子供たちがまだ3歳4歳の小さい時だったものですから、ぬいぐるみを持ってきて下さって、それ以来大事にしています。救援の訴えを振替用紙を入れて全国に送りました。どこへ送ったらいいか分からないので、学会員名簿とか文化人手帳などを集めてきて、片っ端から送りました。1万通以上送ったと思います。小さな私の子供たちも切手を貼ってくれるんですけれども、山建夫さんがこの前、「切手を逆に貼ってあったのは意味があったのかと考えた」と言われて、クスッと笑ってしまいましたが、たぶん子供たちが貼って送ったものだと思います。結構な戦力でした。小さな官舎に居たものですから、2階と1階があって、1階の四畳半は全部作業場になっていたんです。その時に、見かねて作業を手伝ってくださったのが、今も反原発を一生懸命なさっている私の女友達や槌田敦さんだとか山本義隆さんでした。
救援会が何をやったかと言いますと、学生が学生をひき殺したというストーリーが予め出来ていて、死因の記者会見の前にそういう情報が流されていました。だから運転して逮捕された学生を支えなければいけないということで、私は生れて始めて、警視庁に差し入れに通うようになりました。とびきり上等なケーキ1個を大事に抱えて持って行ったり、まっ白なセーターを持っていったりしました。差し入れの時に自分の住所を書きたくなかったから、嘘の住所を書いていたら、ある日それが見つかって、警視庁の一室に閉じ込められて追及されました。下手な嘘はつかない方がいい。いろんなことをそこで学びました。警察で出されたお茶を飲んではいけない、指紋が付くからダメだとか、救援をしていくうえでいい経験をしました。もちろん逮捕学生は、不起訴で釈放されました。
それから救援組織というのもだんだん広がっていって、最初は羽田十・八救援会でしたけれども、闘いは連日三里塚、王子、佐世保と休む暇もなくて、私たちだけでは完全に手に負えなくて、知人友人を介して三里塚闘争救援会、王子野戦病院救援会と分担していただきました。日大闘争・東大闘争は単一組織ですから独自に救対を持ち、私たちは連絡を取り合うだけで実務はノータッチでしたが、その人たちで合同救援ニュースを作ってやがてそれは救援連絡センターになっていきます。

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<羽田、王子野戦、三里塚、日大闘争、東大闘争・・・が産み落とした「ゴクイリイミオイ」>
救援連絡センターには被疑者を逮捕した警察から弁護士選任が入ってきます。誰か逮捕されると、「ゴクイリイミオオイ」(591−1301)と警察に言うと、仕方なく警察が電話してくれる。救援連絡センターは弁護士事務所の出張所になっているわけですから、刑訴法違反になるので電話しなくてはいけない。例えば「目黒警察の留置番号5番の人が面会を要求している」という電話が警察から入ってくる。夜中に電話が入ってくることが多いので、当時は徹夜で救援連絡センターを開いていました。連絡があると、地域の救援会、例えば目黒救援会というところに電話を入れる。「留置番号5番の人は逮捕されているから3点セットを持ってすぐに行ってください」。3点セットとは歯ブラシと下着とタオル、それと食料の差し入れ。当時は手作りの差し入れを受け付けてくれていたので、各救援会は競争して美味しいおにぎりを作ってくれました。中に牛肉を入れたり塩鮭を入れたり、連絡会議ではその報告でもちきりでした。そういう支えが市民の中に広がっていって、都内には全部の区毎にできました。それから北海道から沖縄まで、誰に頼まれたわけでもなく、自主的に全部で82の救援組織が出来たのです。それは皆さんが作った闘いの結果だと思います。闘いが共感を呼んで、そういう救援組織が出来ていきました。
大きな逮捕といいますと。69年の10・11月闘争です。そこで日本の戦後の最高の数だと思いますが、4,200名余が留置され、東京の留置署は満杯で、千葉や埼玉にまで送られていきました。誰がどこに行ったか一人でも逃したら大変なので、警察からきちんと受け取って、記録をして、弁護士に依頼をするのですが弁護士が足りないので、3泊4日の間には行けませんでした。救援連絡センターの仕事は、3泊4日の間に1回は弁護士接見するというのが最低のきまりですが、それが出来なかった。勾留機関の23日の間にやっと1回行けるという状態になってしまいましたが、一人でも行方不明にならないようにということで救援会と連絡を取って、差し入れで弁護士不足をカバーすることが出来たと思います。それが最後の街頭闘争のピ−クでした。救援連絡センターの縮刷版を見ても、その後は逮捕者が減って、息が切れたんですね。いつまでもそんな闘いが続くはずがないというか、息が切れたら休めばいいと、縮刷版を見ながらつくづく思いました。そうやって、後は大量逮捕ではなくて、三菱重工爆破だとか小さいグループ、連赤、テルアビブまで庄司弁護士にお願いして行っていただくこともあり、闘いの変化に応じて、救援も変わっていきました。
救援会の中でも新しい試練を迎えたのだと思いますけれど、権力の弾圧に対しては救援センターは絶対に立ち向かうという二つの原則があります。「一人の弾圧に対しても全人民の弾圧として受け止める」、もう一つは、「思想信条の如何を問わずこれを救援する」。この2つの原則だけは私たちは守ろうということで、どんな小さい一人の逮捕者に対しても関わってきたと思います。私は74年に関西に来ていますので、後は水戸と山中幸男さん(現救援連絡センター事務局長)が引き継いでくれて、今日まで活動を続けて下さっていますが、その縮刷版を見ると、その後の闘いの方がむしろ救援としては大変な時期でした。

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羽田闘争については京浜安保共闘のメンバーが空港内にちょっと足を踏み入れたということで刑期12年という求刑が出たんです。それに対して、全体の運動がほんとに大変な影響を受けることになるので、絶対にそんな不当な判決を認めてはいけないと、水戸は弁護士と必死になって奔走していました。その結果刑期をずいぶん短くできて、保釈も出た。それが坂口弘君です。彼は出てしまったために、あんなに大変な事件を起こしてしまった。水戸は、入れておけばよかったと、後から半ば本気で後悔していました。救援の悩ましいところですね。軽井沢で大変な事件が起きました。家族を含めた人権侵害を見張るために私たちも軽井沢に行きました。長野救援会の力を借りて、尾行する警察を巻きながら、とにかく家族をマスコミから守らなければいけないということで必死でした。水戸は軽井沢山荘の真正面に行って、とにかく殺すな、という訴えをやりました。その事について坂口君は、後で本当に申し訳なかったという手紙をくれていますが、水戸は山に入る日まで拘置所通いをして坂口君への援助を惜しみませんでした。頼るべき組織や友人を失ってしまった人にこそ、救援の手が届かねばならないお手本を水戸巌は示してくれました。

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<殺すな!死刑制度の廃止を。  人類と共存できない原発を廃炉に!
自分ができることで、闘いを持続すれば必ず 勝てる>
70年代に入って、水戸が取り組んだのが死刑廃止でした。反戦の闘いの中から死刑判決を出し、国家権力による殺人を見過ごすことは絶対にできないという信念でした。それは本当にすごい決意で、安田弁護士を奮い立たせました。議員時代に死刑廃止を掲げていた中山千夏さんにも頭を下げて共にやろうとタッグを組みました。反弾圧運動が彼を絶対的「死刑廃止」論者に高めていったのです。おそらく死の瞬間まで、死刑廃止が脳裏にあったに違いありません。
 大量逮捕が終わった頃、日本の原発ラッシュが始まり、そのころから原発立地に入って測量と反対運動を精力的に始めていました。原発が出来たころから、事故隠しは日常茶飯事でしたから、松葉の新芽を取って、半導体測定器で測れば、(原発は必ず海岸沿いですから防風林として松葉がどこにもあります。)1年間に漏れ出した放出量がほんの微量でも検出できるので自分で車を運転して定期的に全国の原発を調べて歩いていました。時には排水口の汚染水も。六ヶ所村など原発立地になるところにも通って、原発を作ってはいけないと、話して歩いていた時期が70年代からです。彼が一番言いたかったことは、原発は原爆と同じなんだ、原発技術の生みの親は原爆であるということです。瞬間的な核反応を利用して爆発させ死の灰をまき散らす原爆の技術をトロトロと燃やして電気を取り出すために使うなど、そもそもが間違っている。核反応に耐えるような原子炉の材質を私たちはまだ手に入れていないこと、普通規模の原発を1年運転すれば、広島原爆10発分の死の灰が原子炉内に貯えてしまうと、その危険性を訴え続けました。彼の主張は樋口判決の中に生きていて、それは伊達判決と同じくらい素晴らしい判決だと私は思っていますけれども、大飯原発の再稼働を禁じる判決を出されました(2014年5月)。それは本当に感動的な言葉です。例えば「原発の稼働が電力供給の安定性・コストの低減に繋がると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人たちの生存そのものに関する権利と、電気代の高い低いの問題等々を並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている」とか。「極めて多数の人の生存そのものに関わる権利、そういう権利と電気代が高い低いというものを同列に論じていいものであろうか、法的には断固許されないことであると考えている。このコストの問題に関連して国富の流失や喪失の議論であるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流失や喪失というべきではなく、豊かな国土と、そこに国民が根を下ろして生活していることこそが国富であり、これを取り戻すことが出来なくなることが国富の喪失であると、当裁判所は考えている。」こんなことを言って下さっているのです。
こんなに分かりやすい言葉で書かれた「判決」を見たことがない。それは今になって気が付いたことですけれども、樋口さんが何故こんなに易しい言葉で書いてくださったかというと、関西電力がこの判決を不服として控訴して、今高裁で審議されていますけれど、目に余るひどい訴訟指揮です。裁判だけで勝とうと思うな、市民が立ち上がらなければいけないよというメッセージだったのですね。樋口さんが言いたかったことを私たちは本当に心に置いて市民が頑張る。アメリカの意思、国際マフィアの力が働いての原発推進ですから、原発を止めるのは大変なことです。
でも、私たちは羽田10・8に向けて、戦後営々と蓄えてきた反戦の力を爆発させたように、樋口判決を土台にして、脱原発に向け、自分ができることを力の限りやり続ければ必ず原発を止められる。羽田10・8が教えてくれているように思います。
長くなって申し訳ありませんでした。どうも有難うございます。」

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司会 道浦母都子
「水戸さん、どうもありがとうございました。50年間の思いですから、とても決まった時間の中には納まらなかったと思います。でも、私も救援会のおかげで警察署に電話をかけてもらい、弁護士が来てくださってという経験がございます。水戸さんは反原発で闘う女性になって走り回っておられます。もっとお話ししたいことがあっただろうと思いますがありがとうございます。

(終)

【本の紹介】

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●山本義隆『近代日本150年――科学技術総力戦体制の破綻』
科学技術振興・信仰に基づく軍事、経済大国化を問う。西洋近代科学史の名著から全共闘運動、福島の事故をめぐる著作までを結ぶ著者初の新書。
黒船がもたらしたエネルギー革命で始まる日本の近代化は、以後、国主導の科学技術振興・信仰による「殖産興業・富国強兵」「高度国防国家建設」「経済成長・国際競争」と、国民一丸となった総力戦体制として150年間続いた。明治100年の全共闘運動、「科学の体制化」による大国化の破綻としての福島の事故を経たいま、日本近代化の再考を迫る。

【お知らせ1】
●日大全共闘結成50周年の集い
2018年6月10日(日)午後
水道橋近辺で開催

【お知らせ2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は2月23日(金)に更新予定です。

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今回は、前回に引き続き国際基督教大学(ICU)における闘いを掲載する。
週刊アンポNo11に掲載されたアメリカからの留学生の闘いである。前回のブログ(No482)を読んだ上で読むと、背景がよく分かると思う。

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【自由な個人以上のもの ICU留学生はたたかう 週刊アンポNo11 1970.4.6】
<大学側のたずなを切って>
 わたしたち、キャサリン・ホリコシ、サンドラ・シャー、フィリス・オガタの3人は、1969年の春、ICU(国際キリスト教大学)に入学を許可され、カリフォルニア大学からの交換留学生として、1969年8月29日に日本に来た。10月にICUの寮に入り、11月に退学処分を受け、1970年2月17日には、2月23日までに寮を出るようにとの通告を受けた。権力にそむくことに恐怖を感じながらも、わたしたちは通告に従うのを拒否することを決定した。この決定の原因になった一連のできごとは、1969年9月に始まった。
 カリフォルニア大学からの留学生は、8月の末に日本に着いたが、3週間の間旅行をしていてICUにはいなかった。9月に東京に帰ってきた時、下宿より寮に入りたいという人がいたのに、わたしたち留学生は全員、下宿に住むように言われた。ICUの教授会が内部であまりに分裂していて、1969年の春に教授会の執行部によって全共闘に出された確認書を、教授会全体としては、認めることができないという状態だったからだ。教授会が確認書についてあいまいな態度を取りつづけるかぎり、全共闘は授業を行わせないことにしていた。ICUの学生は、わたしたちに不信感を持っていたにちがいない。彼らは最初、わたしたちを寮に受け入れるのをためらった。この不信感は理解できたし、わたしたちの中では彼らの三項目要求の運動に強い共感を感じている人もいたが、それにもかかわらず、わたしたちがICUに現れたことは、紛争が解決されないうちに、学生の抗議に反して、執行部がまもなく授業を再開するつもりであるというしるしだった。執行部がわたしたち留学生をICUの学生に対して使うかもしれないと感じて、わたしたちのうちある者は留学生の指導教授であるハンス・バーワルド教授に、ICUの学生の運動を支持し、“不正な授業再開”のための執行部の道具にはなりたくないというわたしたちの欲求をはっきりと伝えた。
 非常に用心深く、また三項目要求の運動についてできるだけ知識を与えたあとで、3つの寮がわたしたちを受け入れ、10月に3人の留学生が寮に移った。

<バックに黒い影が>
10月20日に主な教育区域を囲む波型の金属のへいの建設が始まり、機動隊が呼ばれた。バーワルド教授は、わたしたちに登録用紙を配った。恐れていたことが現実に起こった。“不正な授業再開”が行われ、わたしたちは協力しなければならないだろう。バーワルド教授が他のどんな選択をすることも認めていないのだから。
 10月24日、執行部は9月に入学した学生全員のためのオリエンテーションを開いた。このオリエンテーションで、授業が紛争についての討議には使われないことが明らかになり、22名の留学生のうち15名が執行部を非難する請願書にサインして、現在ICUの事務取扱である三宅教授にこれを手渡した。登録の最終期限は11月1日だった。9名の留学生が登録を拒否した。
 その次の日、バーワルド教授は、登録するようにという彼の命令に従わないなら、契約不履行の法律が適用される可能性があるといって、わたしたち9名をおどかした。このため3名が登録した。バーワルド教授は三宅教授に請願書のことで謝罪し、留学生の登録の最終期限を独断的に3日間くりあげた。教授の言い分は、カリフォルニア大学からの留学生がICUで問題を起こさないことをはっきりさせるのが自分の責任だ、というものだった。執行部への完全な協力方針をとって、バーワルド教授は、中立であると主張した。しかし教授と討論していくうちに、このことは中立の問題ではなくて、さらに上の権力に従っているだけなのだということが明らかになってきた。この時わたしたちはバーワルド教授は、窮地におちいっているわたしたちを助けてはくれないだろうし、わたしたちを彼の命令に従わせるためならどんなことでもするだろう、ということを知った。
 10月27日は授業再開の最初の日で、機動隊はデモをする学生たちを乱暴に鎮圧した。機動隊は何の武装もしていない学生たちに対して、ジュラルミンの楯と警棒を使った。多くの学生が負傷し、一人の少女は頭をひどく打たれて局部麻ひをおこし、広範囲にわたる病院の治療を必要とした。機動隊がICUの紛争についてまったく何も知らないのに、学生を敵にして戦うというのは信じがたいことだった。ICUは大学どころではなくて、ファシスト帝国だった。

<登録を拒否>
 10月28日に、登録を拒否するわたしたち5人の留学生は。プラカードをもったおだやかなデモをした。法律が適用されるというおどかしで登録してしまった、留学生のベン・ボーティンが参加した。わたしたちはへいの検問所の前でデモをし、執行部に抗議した。このデモのため、わたしたち6人全員は、11月1日、正式に交換留学生の資格をとり消された。
 法律が適用されるかもしれないというおどかしを受けて、ワレン・デヴィスは10月28日に登録しデモに参加しない決心をした。しかし彼は、抗議する学生たちを鎮圧することによってしか正常な教育活動を続けられないなら、その教育活動に協力することはできないことを知った。
 象徴的なことに、へいは大学内の分裂を保つのに役立っていた。へいの内側には、偽りのおだやかで正常な環境を。外側には迫害を。この分裂は耐えがたく、次の日、ワレンは登録をとり消した。彼はすぐ、交換留学生の資格をとり消された。
 三宅執行部の学生の攻撃の道具となることを拒否した留学生は全員で6人だったが、わたしたちは、わたしたち以外の留学生で、わたしたちのしていることを正しいと信じているけれど、その確信を主張することのできない人たち(バーワルド教授のおどかしはあまりに手きびしかったのだ)から支持を得ていた。
 11月の間中、三宅施行部は学生への圧迫をエスカレートさせ、多くの学生がとるにたりない嫌疑で逮捕され、負傷した人もいた。わたしたちが執行部を公然と批判し、またその不条理な授業への登録を拒否した結果、ICUはわたしたちをICUの学生とは認めないとした。わたしたちは学生ヴィザで日本に来ているので、出入国管理事務所はICUに私たちの立場についての説明を求めた。ICUは、留学生たちがヴィザをとる前に、ICUは入学を許可しなければならなかったのだから、彼らは法律的にはICUの学生と認められているが、授業に登録しないのだから、もはやICUの学生ではない、と回答した。出入国管理事務所に隠されたのは、わたしたちが登録を拒否した理由だった。ICUはその回答に、まるでわたしたち6名が勉強したくなくて登録を拒否したかのような感じを持たせた。やはり出入国管理事務所に隠されたことは、登録を拒否したICUの1年生たちは退学処分を受けていない、ということだった。ICUにおいてインターナショナリズムは、もしかつて存在したのなら、今は死んでしまったことが明らかになった。

<暴露されたからくり>
日本とカリフォルニアでわたしたちへの支持があったため、カリフォルニア大学のいろいろなグループが交換留学生の資格取り消し処分のことで、交換留学性制度の責任者であるウィイリアム・アラウェイ教授に働きかけた。わたしたちは日本および合衆国憲法によって保護されている自由を行使したため処分され、無権利状態で、弁論するどんな機会も与えられずに、一人の人間によって判断を下されたのだ。権力の乱用を批判されて、アラウェイ教授はICUの状態を“再評価”するため、12月に日本に来た。最初の決定を下した同じ人に訴えなければならないというのはまちがいだ、と考えながら、わたしたちは教授に処分について考え直してくれるよう訴えた。日本にいる間に、教授は処分を取り消すと発表した。
 ベン・ボーティンは処分を取り消された。しかし教授の発表は全くのうそだということがわかった。彼以外の6人は資格を取り消されたままだったのだ。教授はわたしたちに条件付きの処分取消しを提案した。それによるとわたしたちは、不条理な授業をボイコットするストライキを中断しなければならなかった。ストライキをする理由も、このストライキを支持するという留学生の権利の重要性も理解しなかった。アラウェイ教授は決心を変えず、たとえ三宅執行部が学生に対して罪を犯したとしても、カリフォルニア大学交換留学生は、その執行部に協力するというバーワルド教授の決定を支持した。
 わたしたち6人はこうした状態で処分取り消しを受けることを拒否した。カリフォルニア大学とICUは共謀して、学生たちに無理やり授業を正当なものと認めさせようとした。
 ストライキを支持することに確信を持っていたため、登録を拒否する留学生の一人であるトム・ブラムは徴兵に関する彼の立場に不安を抱き始めた。学生という立場になかったら、徴兵を免れることはないのだ。学生の立場を守るため、彼は12月にバークレイの大学に戻った。 
 寮を立ち退くようにというおどかしがひどくなるにつれて、ICUの状態は耐えがたいとして、ワレンは12月に寮を出た。

<進め!かぎりなく>
 執行部は学生に対する攻撃をエスカレートさせて、1月27日までに休学届を出さないなら退学させるとおどかした。
 執行部の力は学生の抵抗する力より強くて、1月27日に学生たちは休学届を提出し、登録に対するストライキは解除された。わたしたちも休学届を提出しようとしたが、執行部はわたしたちを退学させるか、少なくとも日本人の学生と引き離したいと願っていて、これを受け取らなかった。
 ふたたび働きかけがあったため、アラウェイ教授は2月17日に、ICUはわたしたちを学生として受け入れるべきであり、カリフォルニア大学もわたしたちを交換留学生として受け入れるという手紙を送った。2月18日、ICUのドナルド・ワース教授はわたしたちに個人面接を行った。予想していたように、わたしたちが新たに留学生として入学するなら、復学を許可すると言われた。この方法でICUはわたしたちが10月からICUの学生だったことを隠すつもりだったのだ。ICUはまた、寮から出ることと、再入学誓約書にサインすることを要求した。
 このすべての手続きをすませる最終期限は2月23日だった。5日間しかなかったのだ。ICUはわたしたちが自発的に復学を拒否しているかのように見せかけながら、わたしたちを復学させまいと一生懸命だった。そして、わたしたちが条件付きの復学を受け入れた場合には、わたしたちの行動を完全に制限するにちがいなかった。
 この状態は受け入れられないものだった。彼らに従うことは、私たちの自由を放棄し、執行部により行動を制限されることだった。執行部は全能者となるだろう。批判を受け入れることさえしないのだから。
 登録を拒否する留学生の一人であるカティー・クラークは、ICUの状態に絶望し、最初に三宅執行部とバーワルド教授の決定に抵抗する必要があると感じ、ますます、彼女と対立している人たちは人間的でないという感じを抱き始めた。紛争がすぐに解決するというきざしはまるで無く、カティーは2月、ICUを退学することにした。
 その代わりに、わたしたキャッシーとサンディーとフィリスの3人は、寮を立ち退くようにとの通告に従うことを拒否するため、ICUに残された。わたしたち3人がまだICUに残っているのを不思議がる人がいるかもしれない。わたしたちが残っているのは、わたしたちが今持っている自由とは何なのかを理解したためだ。わたしたちは誰も暴虐に対して闘おうとして日本に来たわけではないけれど、自由のために闘ったから、わたしたちは今自由を持っているのだということを理解した。誰もわたしたちのために自由を獲得してくれることはできない。わたしたち自身で勝ちとらなければならない。そして不正な権力への協力に反対する時はいつも、わたしたちは自由な個人以上のものとなる。不正な規則に従うことは少しもりっぱなことではないからだ。
(終)

【本の紹介】
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・山本義隆『近代日本150年――科学技術総力戦体制の破綻』
科学技術振興・信仰に基づく軍事、経済大国化を問う。西洋近代科学史の名著から全共闘運動、福島の事故をめぐる著作までを結ぶ著者初の新書。
黒船がもたらしたエネルギー革命で始まる日本の近代化は、以後、国主導の科学技術振興・信仰による「殖産興業・富国強兵」「高度国防国家建設」「経済成長・国際競争」と、国民一丸となった総力戦体制として150年間続いた。明治100年の全共闘運動、「科学の体制化」による大国化の破綻としての福島の事故を経たいま、日本近代化の再考を迫る。

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は2月9日(金)に更新予定です。

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2018年最初のブログは、久しぶりに「全国学園闘争の記録」シリーズを掲載する。
今回は国際基督教大学。ICUと言った方が馴染みがあるかもしれない。
1969年当初、同大の自治会は全学部が革マル系であった。そんなこともあり、当時、集会やテデモで「国際基督教大学」の旗やヘルメットを見たことがない。
当時の新聞を見ても、同大の闘争に関する記事はほとんど見当たらない。唯一見つけたのが、この写真である。

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週刊アンポNo4に、国際基督教大学の闘争の記事が掲載されているので、それを見てみよう。闘争というより、機動隊の暴力に対する告発記事になっている。

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【「大学公認の警察暴力 国際基督教大学の場合  週刊アンポNo4 1969.12.29】
ICU(国際キリスト教大学)は学生総数1,100人、東京の西の郊外にあって、36万坪の広大なキャンパスは文字通りの武蔵野風景を誇っている。ここで警察機動隊により、どんな暴行が学生たちに加えられたかを語る前に、ICU闘争の経過を簡単に述べよう。

<「無方針の方針」が強行された>
 話は2年前にさかのぼる。大学側は入試制度の改訂を行おうとした。能力開発研究のテスト導入と受験料の値上げである。これに反対する学生達の闘争は大学側のガードマン導入により圧殺され、多数の学生が負傷し、63名の学生が処分された(いわゆる能研闘争)。それ以来、大学は学生諸活動の見張り役としてガードマンを常駐させたのである。
 今年の2月27日、学生らちは全学共闘会議を結成して3項目の要求を大学側につきつけた。①ガードマン体制を撤廃せよ ②教授会議事録を公開せよ ③能研闘争での処分を撤回せよ。3月13日の学生総会で3項目要求は支持され、全共闘は学生会の代表兼・総会開催権・大衆団交権のすべてを獲得した。それ以降、2回の全学討論集会、5回の大衆団交がもたれた、久武雅夫学長。武田清子学部長は2度目の団交の直後、辞職してしまった(3月30日)。大衆団交は非人道的であり、思想のせん滅戦だからイヤだというのがその理由である。教授会は代理を立てて大衆団交を継続して7枚の確認書を交わし、学生の勝利として一応の終わりをむかえたかにみえた。5月2日の新学期から授業を進めながら確認書の実質化をはかるはずだった。ところが、5月1日、大学側は「新学期に際して責任のとれる執行部が不在のため」を理由に突如「授業再開無期延期」を決めた。
 湯浅八郎理事長を中心にした大学側は既に「無方針の方針」を決めていた。即ち、一切の話し合いを拒否して全共闘を孤立させる。進級・卒業・就職といった強制力がはらたくぎりぎりの「タイム・リミット」まで学生を“野ざらし”にする。その時点がきたら授業再開を強行し、確認書は黙殺する。これが方針だ。
 8月25日の学生総会では「確認書の実質化を明言しない形でのいかなる授業再開にも反対する」ことが決議された。
 10月19日の学生総会でも、新しく就任した三宅執行部拒否、大衆団交要求の動議が可決された。そして、その翌日の10月20日、その決議をあざ笑うように三宅彰学長事務取扱は機動隊を呼んだ。彼の言葉によれば「あくまでも自由な教育と学問の場としてのICUを守る」ために「すぐに授業を再開し、教育機関として社会に負っている責任を果たすべく決意した」のである。(10月14日付の文章『学生諸君に訴える』による。)
 いま、本館・図書館・教会堂など大学側が「教育区域」と呼ぶ一群の建物は、3メートル程の高さの鉄板でグルリと囲われている。大学当局の方針を承認した学生たちが入構証をもち検問所をくぐってヘイの中に入り、教室では教師たちが授業という名の「業務」をフルスピードで続けている。ヘイの外には、このなし崩しの授業再開に抗議して登録を拒否している学生およそ200人ががんばっている。登録をせず休学届を出さないからという理由で、大学は1月27日に彼らを自動的に除籍するという。
 大衆団交は非人道的な思想のせん滅戦だといわれている。だが、機動隊という名の黒い群れを呼びこんで、学生に犬のようにけしかけ、思想と人間、まるごとのせん滅が行われた次のような事態は、どのように「人道的」だというのか。

<「理性と学問の府」はこうして守られた>
 (10月22日)
 20日の機動隊導入に抗議して約150人の学生(うち半数以上が女子)は学内デモをしていたところ、待機していた機動隊(七機)はこれを人目にふれぬ雑木林の中へ「排除」し、そこで殴る、蹴る、あげくの果てに警棒を抜いて頭を打ちすえるなど権力公認の暴行をつづける。4名が病院に運ばれる。
 S君の証言「林の中で機動隊1名がデモ指揮者の顔面を殴った(前歯欠損)。私は女子寮の方に逃げ。玄関前で楯をもった隊員を指さして抗議したところ、その横にいた指揮者が指揮棒を横に振り私のこめかみを打った。一瞬気を失い、寮内に運ばれ、救急車で病院に運ばれた。」
(10月26日)
約150名でデモをしているところを機動隊が襲う。突然パトカーが構内に入ってきたので、学生の一人がこれを追い、立ちふさがろうとしたところ、逮捕、連行される。別な学生が「彼は何もしていない」と抗議したところ、私服刑事は「みせしめだ」と答える。
(10月27日)
朝8時ごろから検問所近くに全共闘の学生が集まり、来校した学生に授業を拒否するよう説得していた。8時半ごろ。全共闘学生およそ150名はその場に座りこみ、同数のシンパが周りで見守っていた。これに対して三宅学長事務取扱はヘイの中の台上から、そして奥津学長補佐は機動隊の陣頭に立って退去を命じた。彼らが「お願いします」と言って警察指揮官に頭をさげると、機動隊(七機)と三鷹署員、約100名による「規制」が始まった。それは女子学生へのほしいまままのワイセツ行為であり男子学生への暴行だった。学生たちはつきとばされ押されながら第二男子寮近くを歩いていた。この時、4年生の新崎映子さん(22)は、一機動隊員がななめ後ろからふりおろしたジュラルミンの大楯で後頭部を強打されたのである。
 彼女のその後の経過についてはあとで詳しく述べるが、新崎さんの場合のように機動隊の大楯が、頭や首筋をなぐりつける「凶器」に使わている証拠写真2枚を掲げる。これは11月21日昼、場所は同じICUで写され。大楯で打たれてている学生はO君である。①の写真で機動隊員はO君をねらって楯を高くふり上げようとしている。O君は無防備であり、頭を低くして全く無抵抗の姿勢をとっている。

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その直後、②の写真で、この機動隊員は楯のへりで強くO君の後頭部を打ちすえている。

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 O君の証言「午前12時20分よりの食堂前での集会の後、デモに移った。検問所前で10数人の機動隊員の方向へ進んだ。僕は前から三列目の左側に位置していたが、そこへデモ指揮者が入ったので僕は四列目に移った。その直後、左側から楯で押され、2.3発なぐられた後、楯の面で2.3度頭を打たれ、さらにふり上げられた楯の角で左後頭部を打たれた。一瞬意識を失ったようで、片手を頭に当てたまま、となりのK君と列外に倒れ、救対の人に病院へ運ばれた。後頭部の傷口から血が吹き出していて五針ぬった。相手の機動隊員は左側の最後尾にいたものと思われるが顔までは覚えていない」。―この機動隊員は逮捕され裁かれていないのか。
(10月28日)
朝8時頃より学生は座り込みを始める。機動隊の「排除」にあい2名が「威力業務妨害」で逮捕される。抗議の演説を始めた全共闘議長は機動隊員にとり囲まれて、これも逮捕される。昼から「不当逮捕抗議集会」とデモが行われたが、機動隊はこれを襲い、さらに5名を逮捕、連行する。この日は一般学生や教師など目撃者が少なかったせいもあり、機動隊員の暴行は熾烈を極めた。
 Th君の証言「デモの後尾にいた。前列の方で激しい暴行を目撃したので、“機動隊、何をするのか、やめろ”と叫んだ。その直後、左肩を殴られふり向いた瞬間、機動隊員のこぶしが私の鼻の中央部にまともに当たった。反撃すれば“公務執行妨害”で検挙されると思い、にらみつけていると、指揮棒でみけんを突かれた。その後、鈍痛や鼻血があり、鼻の骨が折れていると知らされた。」
 機動隊員による暴行はこの後も連日続いた。ここに掲げた表は事実のほんの一部にすぎず、全共闘学生のほぼ全員が暴行を受け、殴られ蹴られるのは「いつものこと」と彼らは言う。

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 かって「大学自治」とは、学問・思想の自由を国家権力から守るものといわれた。ところがICUでは、大学当局と警察の結託により、まったく逆に、市民の目から「警察暴力の自由」を守る方向に利用されている。アカデミズムを囲んでいたはずの美しい森は、今、警察暴力を包み隠している。
 さて、新崎映子さんはその後どうしたか。

<権力の犯罪を権力に訴えるジレンマ>
 機動隊員の大楯の一撃でこん倒した新崎さんは、ただちに救急車で三鷹中央病院に運ばれた。ここは、救急指定病院なので闘争で負傷した学生が多く送り込まれ、そのためか大学と連絡が緊密だといわれる。彼女は、吐き気、左半身のじびれを訴えたが、なぜか病院は「医学上何の異常も認められぬ」と診察し、「本人の希望によって入院させている」と大学に報告した。
 めまい、吐き気のおさまらぬ彼女はついに31日、当人の意思で順天堂病院内科に入院、
11月2日危険な状態に陥り、脳神経外科に移された。彼女を診察したO医師は「一口では言い尽くせない。めまい等の運動失調、吐き気、左半身マヒ、眼痛など『脳かん部を中心とする多彩な症状』という危険なものでした」と語る。診断書には「ワレンベルク氏症候群」で「今後も引き続き長期にわたる入院加療を要する」と記されている。「半年、1年の単位になるでしょう。後遺症についてはまだ何ともいえない。若さによる回復力に期待しています」(O医師談)。
 症状悪化に驚いた級友は、看護を続けつつ、加害者の機動隊(=東京都)と大学当局を、賠償金請求と特別公務員暴行陵虐罪で告発する準備を始めた。
刑法第195条 特別公務員の暴行陵虐
 裁判、検察、警察の職務を行い又は之を補助する者其の職務を行うに当たり、刑事被告其他の者に対し暴行又は陵虐の行為を為したるときは七年以下の懲役又は禁固に処す
 まず殴った隊員の名がわかれば訴訟は大いに有利だが、厳しい「襲撃」の最中に顔を覚えている学友はいなかった。
 さらに、順天堂病院では、現在の彼女の重い症状が機動隊員によるという確実な証明はできなという。負傷直後の状態を診察していないし、三鷹中央病院の診断書には何も「自覚症状」が記されていないからだ。当人は最初から異常を訴えており、だからこそ再入院したのだが、その事実は1枚の診断書で否定される。
 O医師は続ける「この症状は『頸椎動脈循環不全』(その結果、小脳に血液が通わなくなる)で引き起こされる。その原因にはさまざまあるが、外からのケガが直接原因になった症例はない。だから機動隊に殴られたとしても、せいぜいそれが誘因になったとしかいえない。彼女の体質からこうなったのかもしれない。」 
 だが編集部とともに会見に立合った東大青医連の脳神経専門のM氏は言う「後頭部に大楯による強打のような垂直な激しい力が加わること自体、異常なケースなのだから、症例がないのは当然なのだ。経過からみて、警官の暴行によって起こったと想定するのが自然だと思う。」
 沖縄で学校の先生をしている映子さんの父親は、事件後上京してきた。大学当局は最初、当日の暴行現場に三宅学長代理、奥津学長補佐がいたにもかかわらず、「報告を受けていない」と突っぱね、さらに「ころんで頭を打ったという」などと事実自体を否定しようとし、その転倒説を順天堂病院を始め大学内外に流布した。そして12月2日、「法律的には、大学には何の責任もない。ただ保護者が治療費を支払えないのなら、一部支払ってもよいがそれには限度がある」というとぼけた回答を寄せた。父親は納得せぬまま、12月6日、ビザの関係で沖縄へ帰った。
彼女の兄は「いろいろ言いたいこと、中には腹にすえかねることもある。しかし今は、とにかく治療第一と考え、本人と訴訟の話はしていない。最終的には本人の意思に任せる」と語る。長い裁判(22才の彼女には、就職・結婚など大事な時間)が本当に彼女のためになるのかという家族としての心配、さらに機動隊の暴行を法廷で立証しても、勝てるとは限らない、相手は国家権力なのだから、という深い疑惑を秘めた言葉だった。
 訴訟準備委員会は最終的に彼女の承認を得るために症状の回復を待っている。幸い病状は少し上向きで、どうにかベットに起き上れるようになった。しかし法廷闘争の見通しは決して明るくない。弾圧によりICU闘争自体が困難な局面を迎えている中で、大学当局は居直り、警察は妨害し続けるだろう。
 その後も、ふえる負傷者の救対に追われつつ、準備を進める学生たちをいらだたせるのは、「警察の犯罪を、警察・検察・裁判に訴えるしかない」状況だ。機動隊によって暴行を受けると、警察差し回しの救急車で警察の指定病院に運ばれ治療され、生活と闘争の場であるキャンパスに戻ってくると、また暴行が始まる。どんな真実も、法律上立証できなくては認められないし、その捜査は警察自身が行う。国家暴力の体系が巧妙に仕組まれ、システム化されているのだ。
 それにもかかわらず、いやそれだからこそ、われわれはあらゆる形での他の人々への訴えをやめてはならない。国家お墨付きの「法的事実」に、われわれの「実体的真実」をぶつけ、権力の犯罪を裁くのだ。ICUの学生たちの訴訟もそこに意義がある。

【声明】
 10月27日、東京三鷹市の国際基督教大学構内において、一女学生が歩行中、機動隊員によって楯で後頭部を殴打される事件が発生した。我々はこの事件を重視し、現在学校当局と機動隊(=東京都)を告訴する準備を進めている。
 大学は、一部反動派によって一方的に5月段階で授業再開が中止されたまま実質的な休校状態が10月27日迄維持されていた。即ち、彼らは、学生を「タイム・リミット」に追いつめる事によって、全学共闘会議の提起した大学(=社会)の存立基盤を問う問題に対して回答する事を回避したのである。10月27日の授業再開はかかる背景の中で、機動隊常駐、検問所体制という弾圧体制のもとで強行された。当局の指示のもとに機動隊は、一握りの「受講者」のために「阻止線」を拡大し、我々の集会すら暴力的に解散させようとした。そして遂に、無抵抗の女子学生に、上記の如き重症を負わせるという結果を生じさせた。
 この「事件」は、既に商業新聞によって報道されている。だが事態の本質は「傍観者が巻き添えをくった」などというものではない。
 大学当局はこの事件に対し、極めて卑劣な対応をとり続け、虚偽の「報告」を学内に流したあと、医学上の調査結果を恣意的に抽出した文章を作成するなどしている。
 我々の「訴訟準備」は、かかる当局そして機動隊=国家権力の「病理構造」を弾劾するのみならず、「資本制大学止揚」として位置づけられた全共闘の闘いの正当性に立脚するものであり、かかる闘いの一環である。「訴訟」はブルジョア法の枠内における闘いでしかないが、ブルジョア的諸権利すら完全に剥奪された現在にあっては、かかる闘いも我々は同時に推進しなければならない。
機動隊による暴行傷害はこれに留まらず、入院加療を要した者だけで20数名に上る。全国の闘う学生・労働者・市民に連帯を訴えたい。
国際基督教大学全共闘・訴訟準備委員会
(終)

【お知らせ】
次回は1月26日(金)に更新予定です。 

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重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの八王子医療刑務所内での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」140号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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独居より 8月19日 〜 11月8日
8月19日 久しぶりの晴れ間に蝉が鳴いてにぎやかな夏! と思ったら、夕方から大雨。今年は、もうクラッとする灼熱は味わえないままに秋に向かうのでしょうか。もう一回くらい「暑い!」とバテる程の夏が欲しい! (中略)

8月21日 連休全体が明けたようですが、まだ学校は夏休みです。7月に雨が降らなかった分、8月は梅雨じめり続き、今日も曇天です。
今日は午後CT検査。昼は延食です。今日は血圧が低く、98と57ですが元気。CT撮影も、主治医がCVポートから造影剤を投入します。すぐに終了。戻って、よく食べました。いつもはお腹がすかないうちに食事の時間になるのですが、今日は14時からだったので、しっかり食べました。(中略)

8月31日 あっという間に八月尽。今日は台風の影響で肌寒い日となりました。Yさんが送って下さった連赤関連の高原さんの文章、今日受け取りました。同時に受け取ったUクンが送ってくれたものと重なるものもありました。「赤軍派が残した3つの問題 連合赤軍とよど号ハイジャックと日本赤軍 人民闘争の中で対応を考えて下さい。2017年6月23日高原浩之」という文で各方面に配られているようです。
(1)が「連合赤軍45周年集会」批判。集会はなぜ殺された家族の感情を踏みにじるようなことをやるのか!と怒りの批判です。自分は赤軍派の7名の最高指導部の1人で、かつ殺された遠山美枝子の夫という二重の立場に立って文章を書いている、としています。集会には「路線の総括がない」と批判し、総括がない分センセーショナルに上辺だけ見てTVなどマスコミと同質であり、個人的資質論になるか、殺された者の家族の感情を踏みにじるしかない、と批判しています。
「この集会は、教訓は引き出すことが出来ないにもかかわらず、殺された者の家族の感情に何の配慮もせず、逆にそれを踏みにじっている。加えて、植垣など、生き残った(正確には他人を殺して自分が生き残った)連中に免罪符を与えている」と批判しています。高原さんが連赤の犠牲になった遺族の心情を代弁していることはとっても理解できます。遺族の方々への配慮に欠けた面も人選やテーマでもあったのかもしれません。
でも高原さんは「赤軍派の指導部の一人として」と「遠山さんの夫として」の二重の立場に立つとしつつ「家族としての立場」から「目には目を」の思想で告発批判しているように思えてなりません。「指導部の一員」の自己批判と責任の側からの思想的実践的立場が欠落しているように感じてしまいました。酷な要求かもしれませんが、指導部であった高原さんこそが煉獄の犠牲者家族の苦しみを越えて、植垣さんらと真正面から会い総括を求めてほしいと思います。そのこと抜きに「人民闘争の中での」総括は終わらないと思います。
「加害」の人々(この人々も十分苦しんで来たと思います)と犠牲者の家族は和解出来ないとしても、同じ運動でリーダーの一人だった高原さんこそ「加害」の人々の真摯な謝罪を橋渡しをしながら遺族をねぎらい教訓を整理していく責務があると思います。「加害」の人々もあなたが導いた人々なのです。赤軍派や狭い身内からではなく、人民的に見れば赤軍派も連赤も「党の役割」を果たさなかったことにおいて皆「加害」の位置にいるとも言えます。私含め「加害」よりも被った「被害」の側に身を置きがちです。
2000年に逮捕された後、接見禁止の解けた2008年からいろいろな人々に会えました。ある時面会した青砥さんから、赤軍派に彼が参加したきっかけが私だと知りました。初の赤軍派の政治集会に上京した青砥さんに会場の受付係の私が、赤軍派指導部に会うようにと引き合わしたとのことです。そうか……そのように私も人々の人生を転ずることをやってきたのだ……と改めて自覚しました。特に現思研の仲間たちには強くその責任を実感しています。遠山さんにもです。みな相互関係の中で過ちを再生産していました。「非加害」の側に身を置いては見えないものもあります。赤軍派も連合赤軍もまたそのような「被害」や「加害」不可分の中にあると思います。
高原さんの今回の批判が新しい何かを生み、共謀罪、安保法、改憲へと国家主義強権で進む日本の現実の流れに有効に抗する現在の実践に連なることを願っています。

9月4日 もうすっかり秋です。今日は房内検査で荷物整理(他の人より多い)を指示されました。資料や本など宅配で減らしているのですが根本的に改めねばなりません。(中略)

9月12日 今日はN和尚が法要面会に来てくれました。メイの友人のMちゃんも一緒に、兄の三回忌と彼岸、みんなの年中安泰や私の病気平癒も併せて祈念してもらいました。法華経を私も黙読しますが、なかなかお経についていくのが難しいです。でも、心地よい一時を与えてもらった感じです。感謝です。残った時間を、私に手紙や資料、書籍などを送ってくださる友人への感謝や話などで、あっという間の貴重な時間、「あと3分!」と、たちまち30分は終了。ありがとうございます。(中略)

9月14日 今日は、午前中の運動(ベランダ)の終わるころ、診察の呼び出し。汗がおさまらない中、汗を拭き拭き診察室へ。今日は胃カメラやCTの映像写真で説明してくださる予定です。ノートを房にとりに戻って診察室に入ると、CTフィルムに光を当てる台に乗せて、DRが熱心に注視しているところでした。CT写真を見る専門家が、肝臓に少し異変があると、主治医に伝えたとのこと。まだ小さい点のような黒いものがいくつか写っていることを示して、「あなたは肝炎を患ったことがないので、原発性の肝臓癌はありえないが、大腸・小腸からの転移はありうる。これが何か、専門家はまだ判断できないので経緯観察することになっている」と、おっしゃっていました。
CTに写るのは最低どの位の大きさか?と尋ねると、「5㎜位なのでしょう。5㎜以下はCTに写らないというので、5㎜位なのでしょう。何か癌でないものかもしれず、心配しても無意味なので気にしないように」とのこと。CTを頻繁にやって放射線を浴びるのは良くないので、3か月後くらいにまた、CTを撮ることになりました。「定期的にチェックしてもらっているので、異変も早く発見できて良かったと思う」と伝えて、CVポートのフラッシュをして診察を終えました。

9月22日 安倍首相と菅官房は露骨な解散方針。国民は怒らないのか? 北の脅威を利用して大勝狙い。でも保守乱立で浮動票が安倍に投じられるかは疑問です。それにしても米の戦争政策に舞い上がって、更なる圧力を求める安倍は国際社会で良識すらかなぐり捨てているよう。これも全部米トランプと国民向けの選挙対策でしょう。
米元大統領のジミー・カーターは 94年の戦争危機をトーンダウンさせ、北とも対話をさせた人物ですが、9月12日にトランプを批判しています。「米国は休戦協定を平和条約に格上げすべきで、そのためにトランプは金委員長と直接話し合うべきだ」と述べています。米が軍事合同演習を止めるところからアジアの緊張緩和がはじまるはずです。「核がある」という事実を確認しているのに米・日で「認めない」という方が危険です。北の核を認め、核管理体制を共同する方が戦略的選択肢でしょう。

9月28日 新聞を見ると「希望の党結党会見」綱領「寛容な改革保守」(27日夕刊)「民進の『希望』合流提案へ」「前原氏党公認出さず」(28日夕刊)と「希望」の改憲踏絵によって民進党をバラバラにさせる道へと小池、前原で話が進んだようです。
リベラルを排除し、安倍自民党と小池非自民党の両改憲勢力の政権を問う選挙とか。とりあえず安倍自民党と対決しつつ、公明党と連携して「希望」で政権狙いの小池流。でも自民より右も含めて「希望」に右潮流が続々参じています。政策で一致する野党勢力の育成に市民的リベラルの柱は今のところないようです。
共産党らを戦略的には支援しつつ当面「反『安倍自民』実現」が現実的なのか? 小池はもともとタカ派。流動はいいけれど民進は解体するし、その先が恐ろしい。もっとも自民の負けない小選挙区。しがらみ自民対公認欲しい雑多な「希望」という改憲勢力同士。「日本が変わる危険な選挙」となるのでしょうか。
 9月28日第二インティファーダから17年目。パレスチナではネタニヤフの強権益々アラブの混乱を望み、シリア内戦介入ばかりか昔からクルド支援。クルド独立支持はイスラエルばかりか米も本音は同じ。中東の戦乱は新たな火種を広げつつあります。一方ガザの「人道危機」は9月11日今年からハマースの新政治局長になったイスマイール・ハニヤがカイロでエジプト高官と討議し、その圧力かハマースの「ガザ行政委員会」解散に合意したとのこと。
17日ハマースが正式にガザ行政委を解散し総選挙に応じると表明。これに対してPFLPは歓迎を表明し、アッバース大統領府のイスラエルと一体のガザに対する措置停止を求めています。そして分裂を終わらせるためのPNC開催による政治プログラム合意の討議の続行を求めました。パレスチナに新しい動きは生まれるでしょうか?
様々に変化する世界を座して見つめるしかないのですが、心を鍛え判断を常に自己検証しながら72才の一歩を再び歩みはじめます。酉年のバースデー! みんなに感謝を伝えます。(中略)

9月30日 小池「希望」公認に「安保・憲法観の一致が条件」と表明。逆にこれでよかったのでしょう。民進党の水と油の改憲派とリベラル系が分かれて、市民の受け皿に「民進党」または新党で闘う条件がつくられるでしょう。でも、いつもリベラル派は戦略なしの後手後手。リーダーシップ不在です。共産党も実態にふさわしく名称変更し、国民の利益の側の受け皿を大きく育ててほしいものです。あっという間に九月尽です。

10月2日 ラジオのスポットニュースで、枝野らが「立憲民主党」を結成するとのこと。国民の大多数は、九条改憲を望んでいないので、それを実現する野党や市民の受け皿ができるならいいことです。(中略)

10月8日 今日は秋晴れ。今日までに「かつて10・8羽田闘争があった」を読み終えようと思いましたが、616頁もあってまだあと少し。大事な524頁からの「五〇年目の真相究明─山崎博昭君の死因をめぐって」の途中です。あの時の状況、精神、健全な世論と暴徒攻撃の警察、マスコミを思い返しながら読んでいます。

10月10日 今日衆院選公示。新聞休刊日でニュースも自由に聞けない房では気になります。「反安倍政権」で登場してはずの「希望」が、小池の「さらさらない」選別発言で流動。「立憲民主党」には「連合東京」まで支援を決めるほど追い風に。しかしマスコミ操作の自民党はこぞって小池個人や希望に批判を焦点化。そのお陰で安倍自民は漁夫の利の選挙になっています。どう考えたって「立憲民主」に刺客をたてる「希望」には希望がない。小池都知事選勝利も「風」もあったが「連合東京」や公明党の力が支えたのが大きかったのに。小池のあまりの政局作りや策略のあれこれも、実際に安保法制支持だし、鼻について国民も引いてしまっているのでは? それをマスコミが煽っている感じです。いつものように選挙でいじめられる役は、今回「希望」に向いて、「立憲民主党」への勢いには向いてないようです。何とか「立憲民主」「社民」「共産」が一議席でも多く!と。

10月13日 Mさんの便りで、10月5日の名古屋泉水国賠訴訟控訴審「ほぼ完全勝利でした。」と知り、嬉しくなりました。「面会・手紙という交通権は刑務所の受刑者の更生・社会復帰にとっていかに重要なものかということ、また外部の者にとっても受刑者との間でのコミュニケーションを通して人格の発展が図られる。この権利が剥奪されるようなことがあってはならない大切な事柄であるという、我々原告側の主張した趣旨が全面的に認められた画期的な判決でした。」とのこと、本当に良かった。苦労された弁護士に感謝し、泉水さん含め原告の方々に連帯!そして泉水さんの「与作」の歌をアラブで歌ったという松下竜一さんの本からのエピソードを泉水さんの人柄共々語っています。(中略)

10月24日 今日、全当選者の確定した新聞が届きました。3分の2以上の改憲派ばかり(当選者の8割超)投票率53.68と低い分、自民に有利だったようです。今回の選挙では、国民の声を反映したのは立憲民主党、という側面が次の可能性ですね。
自民党は、得票率比例区では33.3%ですから、全有権者の20%以下(17.5%)です。それが、全体を転換させる改憲に導こうと、再び政権を支配する日本です。東京ブロックでは、比例区の投票先は、自民30.42%、立憲23.58%、希望17.44%、公明10.81%、共産10.37%、維新3.32%、社民0.95%でした。共産、社民支持が「立憲」に流れたのです。
朝日新聞の試算では、小選挙区で、分裂野党の226区で与党が8割勝利していて、野党共闘が実現していたら、63小選挙区で逆転していたとのこと。単純にそう言い切れないとしても、互角に近い状態はつくられたでしょう。今回の選挙の教訓は、安倍政権に対して旗色を鮮明にして、かつ、保守層を含みうる国民的合意を示せば、政権交代に迫りうる、ということでしょう。
「国民的合意」は改憲に向かっていないのに(ことに9条)国会議員8割超が改憲の方向を向いていて、これから国の形を変えそうです。「天皇退位」「東京オリンピック」と、安倍政権の煽る「北朝鮮」と合わせて、大衆操作・国家主義が強まりそう。でも「立憲」が第一野党として、しっかり市民と連帯し、右に引っ張られずに野党共闘を作り出せれば、無党派層が支えるかもしれません。ニュースやTVのない獄で、新聞を読みつつ考えています。変化は流動をもたらすので良いことです。「自民」「希望」「維新」の似た者同士の路線にも、「情報公開」など違いもあるし、改憲以外で安倍政権を変える流れは作れないのか……と。「希望」も分裂や脱党もあるでしょうし。まずは「立憲」が数合わせより、市民・国民の投票の意図を汲んで今後進めば、5年10年後に期待できます。
パレスチナでは9月以来、ファタハとハマースの政治的和解が表明されています。12月1日にはガザ・西岸地区の統一政府が成立する予定で、話し合いを他の組織含めて行っています。しかし、米・イスラエルの介入と「オスロ合意」に縛られたパレスチナ自治政府の要求に、ハマースが「降伏」しない限り、実効性ある「統一政府」は難しい。その要は、ハマースの軍事部門の「解体」についてです。ハマースを含む反占領闘争(非武装も武装も)は、イスラエルの占領と表裏の関係にある分、イスラエルが武力と「封鎖」を解かない中で、ハマースが武装解除できるのか、疑問です。
常にイスラエルの介入で、パレスチナ内の対立は増幅させられてきたのですが、ネタニヤフは、すでにパレスチナ自治政府のファタハとハマースの統一政府が発足しても、和平交渉しない方針を決定しています。そして、ハマースの「イスラエルの国家承認、軍事部門の解体」などを主張しています。
「オスロ合意」では、イスラエルの承認・合意なしには、何事も成立しない構造がつくられており、自治政府が、イスラエルとの保安共同で「反テロ」の名で、反占領闘争を弾圧しつつ、もう一方の手で「統一政府」を目指しているのは二律背反です。その本質は、ハマースの武装解除を狙っているのが、米・イスラエル・パレスチナアッパース派らの思惑です。それを承知の上で、戦略的な前進のため、ハマースが「非武装」を受け入れるでしょうか。しかし、受け入れても、更に高いハードルを設定している米・イスラエルです。パレスチナの統一は「オスロ合意の脱却」以外、成立しません。
また、米・イスラエル・アッパース派の望む「統一」には、パレスチナの分裂しか成り立たないのが現状です。12月の統一政府発足を期待するパレスチナ人はほとんどですが、その実効性や持続可能性は、ほとんどのパレスチナ人は難しいと知っています。何故なら、パレスチナレベルの決定が生かされていないからです。
今日は久しぶりのグラウンド運動。もう桜の木が色づき落葉しています。それでも黄蝶、紋白蝶が舞い、タンポポが咲いている八王子です。気持ちの良い野外運動です。

10月31日 もう10月尽。屋外に出ると、厚い雲間に青空があり、曇ったかと思うと太陽が射し込む暖かい秋。もう桜の紅葉が塀際の並木を美しく変えています。
メルマガで10月14日のガーディアン紙」とのインタビューで元英首相のトニー・ブレアのこんな言葉を知りました。「ハマースをボイコットしたのは誤りだ。」「今考えれば、ハマースを対話の場に引き込み、彼らの態度を変える試みをすべきだった。イスラエルが強硬に反対していて、それは難しかった」などと述べています。外部のご都合主義の介入は、結局強硬なイスラエル政府の言いなりで、米国が後押しして「国際社会」の意見にさせてしまい、誤った道を作りました。
ファタハも自らの利益と外国援助金で成り立つ政府の現状維持で、現在に至る対立まで続きました。11月の統一のための全パレスチナ勢力の話し合いに注目したい。(中略)

11月7日 ロシア革命百年目です。革命をヒューマニズムの実現として世界の労働者たちは考え、西から東へと芸術家らも亡命していきました。労働者階級、自らを解放することによって、例外なく社会成員を解放する能力を持った階級としてヒューマニズムが描かれ、マルクスからレーニンへと。でもロシア革命によって、新しい世界が拓き、ロシアの地方性を「普遍性」として、それを教条したり押し付けたり。多くの過ちもあったけど、ロシア革命によって、資本主義も分配や社会福祉など成熟させざるを得なかったし、世界の抑圧された人々が結び合う力を育てたので、やっぱり偉大な現代史の出発点でしたね。
 今日は立冬。それなのに、タンポポや銀ヤンマが独り飛んでいました。暖かい小春日和のロシア革命記念日です。公正な富の分配、金銭に支配されない人間性の連帯、益々変革の必要を実感しつつ歩んでみました。 

11月8日 一転して小雨曇天の八王子。今日は17年目の逮捕記念日。様々の想いが胸をめぐります。あの人はどうしているだろう、まだ生きておられるか……と、当時の様々な国の友人たち含めて、断ち切れてしまった関係のその後を想像しています。お詫びと感謝しかありません。変革や闘った連帯の誇りに、反省すべき多くの事柄が軽々とならないよう心して進みます。これまでのみんなの支援・友情に感謝し、再会を誓って学び、心身鍛えねば!と強く希求する逮捕記念日です。いつもありがとうございます。(中略)

11月9日  今日、受け取った「支援連ニュース」にAさんの書いたとってもわかり易い、泉水さんの国賠訴訟の事が載っていました。「泉水博さんとの面会交通権裁判の控訴審、勝ったぞ! 被告・国側は上告せず」のタイトルです。
「2006年の監獄法廃止と、その後の『刑事被収容者処遇法』は、社会関係を遮断する監獄法の考え方を改め、広く外部交通が認められるようにすべき、と規定しているととらえ、外部交通を積極的に認め、交友関係の維持も、通常の交友関係であれば足り、その長短や濃淡は問わないとして、受刑者との面会それ自体が改善更正と社会復帰に資するものであるから、刑事施設の長の裁量の幅は、相当程度制限されるものと解され」と、判決で述べているとのことです。当然でまっとうな判決です。
施行の当初は法の精神に則って面会、私も可能で友人たちと会いました。ところが2011年秋から、八王子でも親族と、特別な理由、身元引受人以外、不可となりました。泉水さんの判決勝利によって、今後運用幅が広がるといいのですが…。
また、「日本赤軍云々」という国・被告の論理も、すでに解散しており、面会や文通があったとしても、他のメンバ−と意思を通じるとか、刑事施設の規律や秩序を害したり矯正処遇の実施に支障を生ずるおそれがあったとは認められない、との判決。これで、泉水さんを案じて面会してきた戸平さんもまた会えますね。親しかった間柄、友人として家族として、再び面会可能は嬉しいです。
この裁判を、無給で徹底して論理的に裁判所に訴え続けてくださった安田弁護士、山下弁護士には、心からお礼を申し上げます。Aさんから、どうか伝えてください。また、共に闘ってくださった皆さん、ありがとう! まだ、他の泉水さんの公判が続きますが、泉水さんも元気で闘いを選択したことで受けた嫌がらせなど、乗り越えて進むと確信しています。藤山雅行裁判長に、国は上告の論理なく諦め、勝利確定! ですって。うれしいですね。このニュース。

(終)

【お知らせ】
年末年始はブログとホームページの更新はお休みです。
次回は1月12日(金)に更新予定です。

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このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)を紹介しているが、この日誌の中では、差し入れされた本への感想(書評)も「読んだ本」というコーナーに掲載されている。
今回は「オリーブの樹」140号に掲載された本の感想(書評)を紹介する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「かつて10・8羽田闘争があった」(10・8山博昭プロジェクト編・合同フォレスト発行)】
「かつて10・8羽田闘争があった」(10・8山崎博昭プロジェクト編・合同フォレスト刊)を読みました。
 この本は、50年前ベトナム侵略戦争に反対し、佐藤首相ベトナム訪問に反対し、立ち上がった若者たちが羽田空港周辺で闘い、その中で虐殺された故山博昭君の追悼と、当時の闘いを明らかにし、歴史に刻むために編まれた書です。
 600ページ以上もあるこの本を10月6日に受け取り、10月9日まで一気に読みました。気持ちとしては一気ですが、物理的には徹夜で読むことができない獄で中断を余儀なくされつつ、一心に読みました。
初めに、博昭君の兄建夫さんが、弟がどんな子供だったのか、どんな家庭の中で育ったのかそして突然の死の衝撃を「あゝ弟よ君を泣く君死にたまふことなかれ」の題名の一文に想いを凝縮して記しています。この家族の思いを通して、当時の闘い、命知らずに使命感に燃えて立ち上がる若者たちと支えつつ案ずる家族の姿が痛いほどわかります。自分の周りの若者たち、ブントや赤軍派の友人たち、また、バーシム奥平、サラーハ安田、ユセフ檜森、ニザール丸岡らが、山君の「死」と連動して浮かび、胸を熱くさせます。
この本はそのあと、第1部から第4部に分けて編まれ、第1部では、このプロジェクトに関わった方々中心に10・8から50年を経ての総括的な感慨が記されています。50年前救援に関わり、このプロジェクトに加わった水戸喜世子さんや山本義隆さんら大手前高校の同志、同期の方々の文です。どの方々も10・8闘争とそこでの山君の「死」がそれ以降の運動の飛躍の出発点であり、またそれぞれの人生に大きな影響を与えずにはおかなかったことを深く語っています。10・8闘争が同世代の人々の結び目であり、それ故再び50年後に共通の思いを持ちえたことが伝わります。
第2部では、67年10月8日闘争に共に参加した山君の学友や戦友たちによる、弁天橋やその付近での攻防を中心に編まれています。日本が再び侵略戦争の道に加担することを許してはならない! と、不退転の当時の騒然とした時代がよみがえります。ここでは、戦友、友人たちが山君がどのような部署について闘ったのか具体的で詳細に語っています。私もこの本に一文を寄せましたが、私の文が記憶違いの不正確さがあると読みつつ思いました。一つは、10・8当日ブントや私たちは、鈴ヶ森ランプ出入り口から高速道路を駆け登ったのですが、私は「逆走した」と書きました。しかし、「出口」でなく「入り口」だったら、「逆走」ではないと。もう一つは、私は高速道路上で、機動隊の「ジェラルミンの盾と金属棒でデモ隊の頭を殴ったり蹴ったりしている」とん書いたのですが、まだジェラルミンの盾は無かったのか? 68年の記憶と混同してしまったのかもしれません。他の方々の具体的手記を読みつつ思いました。それに部隊「数百人」と書きましたが、情報誌では、この時のブント社学同らは、1,200人、1,000人と書いている人もいます。確かめずに書いたため、不確かだったと思います。
第3部は、「同時代を生きて、山博昭君の意志を永遠に」と、様々な立場、年代の方々の視点からの文や10・8のこのプロジェクトに賛成した意志のコメントなど。折原浩論文も収められています。
第4部は、「歪められた真実」。これは圧倒的説得力があります。この第4部の真実から改めて逆に第2部の手記をじっくり詠み直した程です。(第1部にも当時の遺族を代表した小長井弁護士も記しています。)この第4部の「50年目の真相究明――山招博君の死因をめぐって」がそれです。辻恵と10・8プロジェクト事務局が執筆し、調査で到達した地平、事実の再現に向けた詳細な聴き取りと図解説明によって正確に真実が明かされています。当時は、「山は学生の運転した車に轢き殺された」とか「暴徒キャンペーン」が激しかったのを思い出します。検死前から「轢殺説」を流しながら、自供攻勢でも結局つじつまが合わせられず、犯人学生説は失敗だったことも記されています。
また、この文で初めに山君を検死した牧田病院長の発表では、「直接の死因は頭骸底出血と頭骸骨折だがタイヤの跡は認められなかった」と述べたものが変更修正されたり、警察の国会答弁もつじつまが合わないなどを、この中で明らかにしています。
この警察のねつ造の記述との関連で、辻恵は60年安保闘争で殺された樺美智子さんに言及しています。2010年に樺さんの「死の真相」が明かされていたことをこの文で私は初めて知りました。「樺美智子さんの『死の真相』――60年安保の裏で」として、2010年12月公表された。筆者は丸屋博医師。60年6月16日に樺さんの遺体を司法解剖のため慶応大法医学解剖室で、中館教授執刀で行われ、その口述筆記したものを丸屋博が当時の解剖学の著名な権威、草野教授に鑑定してもらうために持参し、そこで死因の説明を受けた。丸屋は自ら樺さんの残されていた臓器を確かめた上で、「樺さんは腹部に(警棒状の)鈍器で強い衝撃を受け、外傷性膵頭部出血、さらに扼痕による窒息で死亡した」という結論をまとめたという。(実際、樺さんと一緒にいた女学生は命はとりとめたが、同様の重致傷で入院。)
検察に提出したこの「第一次鑑定書」を、検察は受け取りを拒絶して書き直しを迫った。それで、執刀医の中館教授は修正を加えて「第二次鑑定書」を作成したが、それでも検察は不都合で使わず、解剖に一部立ち会っただけの東大の上野教授によって別の鑑定書が作られた。そこで、「人なだれによる圧迫死、内臓臓器出血も窒息によるもの」と変更した。そして第二次鑑定書も闇に葬った。このように丸屋博医師によって50年を経て明らかにされた。
闘う側にいた私たちは、詳しい山君の死因は知らずとも「権力の虐殺」であり、怒りと共に次の11月闘争に向かったのです。50年を経て、改めてその詳しい実証に当時のデモで、激しく対峙した権力の殺意をよみがえらせて、身震いしてしまいます。しかも巧妙に権力は真相を葬った。歴史に繰り返されている権力の姿を、反戦平和を求める市民運動の側から露にし、今現在の深まる「共謀罪」「安保法」」「改憲」に立ち向かう一つの力として、この本を多くの方々に読んでもらいたいと思いました。(10月13日)

【お知らせ】
ブログ「野次馬雑記は掲載から10年を迎えました。第1回は2007年12月2日です。当初はヤフーの「ジオログ」に掲載していましたが、「ジオログ」廃止にともない、現在の「ヤフーブログ」に移行しました。
「ジオログ」の時を含めて30万近い方にアクセスしていただきました。ありがとうございました。
もうすぐ掲載回数も500回を迎えます。いつまで続けられるかわかりませんが、もう少し頑張りたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。
次回は12月22日(金)に更新予定です。 

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