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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。
2018年最初のブログは、久しぶりに「全国学園闘争の記録」シリーズを掲載する。
今回は国際基督教大学。ICUと言った方が馴染みがあるかもしれない。
1969年当初、同大の自治会は全学部が革マル系であった。そんなこともあり、当時、集会やテデモで「国際基督教大学」の旗やヘルメットを見たことがない。
当時の新聞を見ても、同大の闘争に関する記事はほとんど見当たらない。唯一見つけたのが、この写真である。

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週刊アンポNo4に、国際基督教大学の闘争の記事が掲載されているので、それを見てみよう。闘争というより、機動隊の暴力に対する告発記事になっている。

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【「大学公認の警察暴力 国際基督教大学の場合  週刊アンポNo4 1969.12.29】
ICU(国際キリスト教大学)は学生総数1,100人、東京の西の郊外にあって、36万坪の広大なキャンパスは文字通りの武蔵野風景を誇っている。ここで警察機動隊により、どんな暴行が学生たちに加えられたかを語る前に、ICU闘争の経過を簡単に述べよう。

<「無方針の方針」が強行された>
 話は2年前にさかのぼる。大学側は入試制度の改訂を行おうとした。能力開発研究のテスト導入と受験料の値上げである。これに反対する学生達の闘争は大学側のガードマン導入により圧殺され、多数の学生が負傷し、63名の学生が処分された(いわゆる能研闘争)。それ以来、大学は学生諸活動の見張り役としてガードマンを常駐させたのである。
 今年の2月27日、学生らちは全学共闘会議を結成して3項目の要求を大学側につきつけた。①ガードマン体制を撤廃せよ ②教授会議事録を公開せよ ③能研闘争での処分を撤回せよ。3月13日の学生総会で3項目要求は支持され、全共闘は学生会の代表兼・総会開催権・大衆団交権のすべてを獲得した。それ以降、2回の全学討論集会、5回の大衆団交がもたれた、久武雅夫学長。武田清子学部長は2度目の団交の直後、辞職してしまった(3月30日)。大衆団交は非人道的であり、思想のせん滅戦だからイヤだというのがその理由である。教授会は代理を立てて大衆団交を継続して7枚の確認書を交わし、学生の勝利として一応の終わりをむかえたかにみえた。5月2日の新学期から授業を進めながら確認書の実質化をはかるはずだった。ところが、5月1日、大学側は「新学期に際して責任のとれる執行部が不在のため」を理由に突如「授業再開無期延期」を決めた。
 湯浅八郎理事長を中心にした大学側は既に「無方針の方針」を決めていた。即ち、一切の話し合いを拒否して全共闘を孤立させる。進級・卒業・就職といった強制力がはらたくぎりぎりの「タイム・リミット」まで学生を“野ざらし”にする。その時点がきたら授業再開を強行し、確認書は黙殺する。これが方針だ。
 8月25日の学生総会では「確認書の実質化を明言しない形でのいかなる授業再開にも反対する」ことが決議された。
 10月19日の学生総会でも、新しく就任した三宅執行部拒否、大衆団交要求の動議が可決された。そして、その翌日の10月20日、その決議をあざ笑うように三宅彰学長事務取扱は機動隊を呼んだ。彼の言葉によれば「あくまでも自由な教育と学問の場としてのICUを守る」ために「すぐに授業を再開し、教育機関として社会に負っている責任を果たすべく決意した」のである。(10月14日付の文章『学生諸君に訴える』による。)
 いま、本館・図書館・教会堂など大学側が「教育区域」と呼ぶ一群の建物は、3メートル程の高さの鉄板でグルリと囲われている。大学当局の方針を承認した学生たちが入構証をもち検問所をくぐってヘイの中に入り、教室では教師たちが授業という名の「業務」をフルスピードで続けている。ヘイの外には、このなし崩しの授業再開に抗議して登録を拒否している学生およそ200人ががんばっている。登録をせず休学届を出さないからという理由で、大学は1月27日に彼らを自動的に除籍するという。
 大衆団交は非人道的な思想のせん滅戦だといわれている。だが、機動隊という名の黒い群れを呼びこんで、学生に犬のようにけしかけ、思想と人間、まるごとのせん滅が行われた次のような事態は、どのように「人道的」だというのか。

<「理性と学問の府」はこうして守られた>
 (10月22日)
 20日の機動隊導入に抗議して約150人の学生(うち半数以上が女子)は学内デモをしていたところ、待機していた機動隊(七機)はこれを人目にふれぬ雑木林の中へ「排除」し、そこで殴る、蹴る、あげくの果てに警棒を抜いて頭を打ちすえるなど権力公認の暴行をつづける。4名が病院に運ばれる。
 S君の証言「林の中で機動隊1名がデモ指揮者の顔面を殴った(前歯欠損)。私は女子寮の方に逃げ。玄関前で楯をもった隊員を指さして抗議したところ、その横にいた指揮者が指揮棒を横に振り私のこめかみを打った。一瞬気を失い、寮内に運ばれ、救急車で病院に運ばれた。」
(10月26日)
約150名でデモをしているところを機動隊が襲う。突然パトカーが構内に入ってきたので、学生の一人がこれを追い、立ちふさがろうとしたところ、逮捕、連行される。別な学生が「彼は何もしていない」と抗議したところ、私服刑事は「みせしめだ」と答える。
(10月27日)
朝8時ごろから検問所近くに全共闘の学生が集まり、来校した学生に授業を拒否するよう説得していた。8時半ごろ。全共闘学生およそ150名はその場に座りこみ、同数のシンパが周りで見守っていた。これに対して三宅学長事務取扱はヘイの中の台上から、そして奥津学長補佐は機動隊の陣頭に立って退去を命じた。彼らが「お願いします」と言って警察指揮官に頭をさげると、機動隊(七機)と三鷹署員、約100名による「規制」が始まった。それは女子学生へのほしいまままのワイセツ行為であり男子学生への暴行だった。学生たちはつきとばされ押されながら第二男子寮近くを歩いていた。この時、4年生の新崎映子さん(22)は、一機動隊員がななめ後ろからふりおろしたジュラルミンの大楯で後頭部を強打されたのである。
 彼女のその後の経過についてはあとで詳しく述べるが、新崎さんの場合のように機動隊の大楯が、頭や首筋をなぐりつける「凶器」に使わている証拠写真2枚を掲げる。これは11月21日昼、場所は同じICUで写され。大楯で打たれてている学生はO君である。①の写真で機動隊員はO君をねらって楯を高くふり上げようとしている。O君は無防備であり、頭を低くして全く無抵抗の姿勢をとっている。

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その直後、②の写真で、この機動隊員は楯のへりで強くO君の後頭部を打ちすえている。

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 O君の証言「午前12時20分よりの食堂前での集会の後、デモに移った。検問所前で10数人の機動隊員の方向へ進んだ。僕は前から三列目の左側に位置していたが、そこへデモ指揮者が入ったので僕は四列目に移った。その直後、左側から楯で押され、2.3発なぐられた後、楯の面で2.3度頭を打たれ、さらにふり上げられた楯の角で左後頭部を打たれた。一瞬意識を失ったようで、片手を頭に当てたまま、となりのK君と列外に倒れ、救対の人に病院へ運ばれた。後頭部の傷口から血が吹き出していて五針ぬった。相手の機動隊員は左側の最後尾にいたものと思われるが顔までは覚えていない」。―この機動隊員は逮捕され裁かれていないのか。
(10月28日)
朝8時頃より学生は座り込みを始める。機動隊の「排除」にあい2名が「威力業務妨害」で逮捕される。抗議の演説を始めた全共闘議長は機動隊員にとり囲まれて、これも逮捕される。昼から「不当逮捕抗議集会」とデモが行われたが、機動隊はこれを襲い、さらに5名を逮捕、連行する。この日は一般学生や教師など目撃者が少なかったせいもあり、機動隊員の暴行は熾烈を極めた。
 Th君の証言「デモの後尾にいた。前列の方で激しい暴行を目撃したので、“機動隊、何をするのか、やめろ”と叫んだ。その直後、左肩を殴られふり向いた瞬間、機動隊員のこぶしが私の鼻の中央部にまともに当たった。反撃すれば“公務執行妨害”で検挙されると思い、にらみつけていると、指揮棒でみけんを突かれた。その後、鈍痛や鼻血があり、鼻の骨が折れていると知らされた。」
 機動隊員による暴行はこの後も連日続いた。ここに掲げた表は事実のほんの一部にすぎず、全共闘学生のほぼ全員が暴行を受け、殴られ蹴られるのは「いつものこと」と彼らは言う。

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 かって「大学自治」とは、学問・思想の自由を国家権力から守るものといわれた。ところがICUでは、大学当局と警察の結託により、まったく逆に、市民の目から「警察暴力の自由」を守る方向に利用されている。アカデミズムを囲んでいたはずの美しい森は、今、警察暴力を包み隠している。
 さて、新崎映子さんはその後どうしたか。

<権力の犯罪を権力に訴えるジレンマ>
 機動隊員の大楯の一撃でこん倒した新崎さんは、ただちに救急車で三鷹中央病院に運ばれた。ここは、救急指定病院なので闘争で負傷した学生が多く送り込まれ、そのためか大学と連絡が緊密だといわれる。彼女は、吐き気、左半身のじびれを訴えたが、なぜか病院は「医学上何の異常も認められぬ」と診察し、「本人の希望によって入院させている」と大学に報告した。
 めまい、吐き気のおさまらぬ彼女はついに31日、当人の意思で順天堂病院内科に入院、
11月2日危険な状態に陥り、脳神経外科に移された。彼女を診察したO医師は「一口では言い尽くせない。めまい等の運動失調、吐き気、左半身マヒ、眼痛など『脳かん部を中心とする多彩な症状』という危険なものでした」と語る。診断書には「ワレンベルク氏症候群」で「今後も引き続き長期にわたる入院加療を要する」と記されている。「半年、1年の単位になるでしょう。後遺症についてはまだ何ともいえない。若さによる回復力に期待しています」(O医師談)。
 症状悪化に驚いた級友は、看護を続けつつ、加害者の機動隊(=東京都)と大学当局を、賠償金請求と特別公務員暴行陵虐罪で告発する準備を始めた。
刑法第195条 特別公務員の暴行陵虐
 裁判、検察、警察の職務を行い又は之を補助する者其の職務を行うに当たり、刑事被告其他の者に対し暴行又は陵虐の行為を為したるときは七年以下の懲役又は禁固に処す
 まず殴った隊員の名がわかれば訴訟は大いに有利だが、厳しい「襲撃」の最中に顔を覚えている学友はいなかった。
 さらに、順天堂病院では、現在の彼女の重い症状が機動隊員によるという確実な証明はできなという。負傷直後の状態を診察していないし、三鷹中央病院の診断書には何も「自覚症状」が記されていないからだ。当人は最初から異常を訴えており、だからこそ再入院したのだが、その事実は1枚の診断書で否定される。
 O医師は続ける「この症状は『頸椎動脈循環不全』(その結果、小脳に血液が通わなくなる)で引き起こされる。その原因にはさまざまあるが、外からのケガが直接原因になった症例はない。だから機動隊に殴られたとしても、せいぜいそれが誘因になったとしかいえない。彼女の体質からこうなったのかもしれない。」 
 だが編集部とともに会見に立合った東大青医連の脳神経専門のM氏は言う「後頭部に大楯による強打のような垂直な激しい力が加わること自体、異常なケースなのだから、症例がないのは当然なのだ。経過からみて、警官の暴行によって起こったと想定するのが自然だと思う。」
 沖縄で学校の先生をしている映子さんの父親は、事件後上京してきた。大学当局は最初、当日の暴行現場に三宅学長代理、奥津学長補佐がいたにもかかわらず、「報告を受けていない」と突っぱね、さらに「ころんで頭を打ったという」などと事実自体を否定しようとし、その転倒説を順天堂病院を始め大学内外に流布した。そして12月2日、「法律的には、大学には何の責任もない。ただ保護者が治療費を支払えないのなら、一部支払ってもよいがそれには限度がある」というとぼけた回答を寄せた。父親は納得せぬまま、12月6日、ビザの関係で沖縄へ帰った。
彼女の兄は「いろいろ言いたいこと、中には腹にすえかねることもある。しかし今は、とにかく治療第一と考え、本人と訴訟の話はしていない。最終的には本人の意思に任せる」と語る。長い裁判(22才の彼女には、就職・結婚など大事な時間)が本当に彼女のためになるのかという家族としての心配、さらに機動隊の暴行を法廷で立証しても、勝てるとは限らない、相手は国家権力なのだから、という深い疑惑を秘めた言葉だった。
 訴訟準備委員会は最終的に彼女の承認を得るために症状の回復を待っている。幸い病状は少し上向きで、どうにかベットに起き上れるようになった。しかし法廷闘争の見通しは決して明るくない。弾圧によりICU闘争自体が困難な局面を迎えている中で、大学当局は居直り、警察は妨害し続けるだろう。
 その後も、ふえる負傷者の救対に追われつつ、準備を進める学生たちをいらだたせるのは、「警察の犯罪を、警察・検察・裁判に訴えるしかない」状況だ。機動隊によって暴行を受けると、警察差し回しの救急車で警察の指定病院に運ばれ治療され、生活と闘争の場であるキャンパスに戻ってくると、また暴行が始まる。どんな真実も、法律上立証できなくては認められないし、その捜査は警察自身が行う。国家暴力の体系が巧妙に仕組まれ、システム化されているのだ。
 それにもかかわらず、いやそれだからこそ、われわれはあらゆる形での他の人々への訴えをやめてはならない。国家お墨付きの「法的事実」に、われわれの「実体的真実」をぶつけ、権力の犯罪を裁くのだ。ICUの学生たちの訴訟もそこに意義がある。

【声明】
 10月27日、東京三鷹市の国際基督教大学構内において、一女学生が歩行中、機動隊員によって楯で後頭部を殴打される事件が発生した。我々はこの事件を重視し、現在学校当局と機動隊(=東京都)を告訴する準備を進めている。
 大学は、一部反動派によって一方的に5月段階で授業再開が中止されたまま実質的な休校状態が10月27日迄維持されていた。即ち、彼らは、学生を「タイム・リミット」に追いつめる事によって、全学共闘会議の提起した大学(=社会)の存立基盤を問う問題に対して回答する事を回避したのである。10月27日の授業再開はかかる背景の中で、機動隊常駐、検問所体制という弾圧体制のもとで強行された。当局の指示のもとに機動隊は、一握りの「受講者」のために「阻止線」を拡大し、我々の集会すら暴力的に解散させようとした。そして遂に、無抵抗の女子学生に、上記の如き重症を負わせるという結果を生じさせた。
 この「事件」は、既に商業新聞によって報道されている。だが事態の本質は「傍観者が巻き添えをくった」などというものではない。
 大学当局はこの事件に対し、極めて卑劣な対応をとり続け、虚偽の「報告」を学内に流したあと、医学上の調査結果を恣意的に抽出した文章を作成するなどしている。
 我々の「訴訟準備」は、かかる当局そして機動隊=国家権力の「病理構造」を弾劾するのみならず、「資本制大学止揚」として位置づけられた全共闘の闘いの正当性に立脚するものであり、かかる闘いの一環である。「訴訟」はブルジョア法の枠内における闘いでしかないが、ブルジョア的諸権利すら完全に剥奪された現在にあっては、かかる闘いも我々は同時に推進しなければならない。
機動隊による暴行傷害はこれに留まらず、入院加療を要した者だけで20数名に上る。全国の闘う学生・労働者・市民に連帯を訴えたい。
国際基督教大学全共闘・訴訟準備委員会
(終)

【お知らせ】
次回は1月26日(金)に更新予定です。 

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重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの八王子医療刑務所内での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」140号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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独居より 8月19日 〜 11月8日
8月19日 久しぶりの晴れ間に蝉が鳴いてにぎやかな夏! と思ったら、夕方から大雨。今年は、もうクラッとする灼熱は味わえないままに秋に向かうのでしょうか。もう一回くらい「暑い!」とバテる程の夏が欲しい! (中略)

8月21日 連休全体が明けたようですが、まだ学校は夏休みです。7月に雨が降らなかった分、8月は梅雨じめり続き、今日も曇天です。
今日は午後CT検査。昼は延食です。今日は血圧が低く、98と57ですが元気。CT撮影も、主治医がCVポートから造影剤を投入します。すぐに終了。戻って、よく食べました。いつもはお腹がすかないうちに食事の時間になるのですが、今日は14時からだったので、しっかり食べました。(中略)

8月31日 あっという間に八月尽。今日は台風の影響で肌寒い日となりました。Yさんが送って下さった連赤関連の高原さんの文章、今日受け取りました。同時に受け取ったUクンが送ってくれたものと重なるものもありました。「赤軍派が残した3つの問題 連合赤軍とよど号ハイジャックと日本赤軍 人民闘争の中で対応を考えて下さい。2017年6月23日高原浩之」という文で各方面に配られているようです。
(1)が「連合赤軍45周年集会」批判。集会はなぜ殺された家族の感情を踏みにじるようなことをやるのか!と怒りの批判です。自分は赤軍派の7名の最高指導部の1人で、かつ殺された遠山美枝子の夫という二重の立場に立って文章を書いている、としています。集会には「路線の総括がない」と批判し、総括がない分センセーショナルに上辺だけ見てTVなどマスコミと同質であり、個人的資質論になるか、殺された者の家族の感情を踏みにじるしかない、と批判しています。
「この集会は、教訓は引き出すことが出来ないにもかかわらず、殺された者の家族の感情に何の配慮もせず、逆にそれを踏みにじっている。加えて、植垣など、生き残った(正確には他人を殺して自分が生き残った)連中に免罪符を与えている」と批判しています。高原さんが連赤の犠牲になった遺族の心情を代弁していることはとっても理解できます。遺族の方々への配慮に欠けた面も人選やテーマでもあったのかもしれません。
でも高原さんは「赤軍派の指導部の一人として」と「遠山さんの夫として」の二重の立場に立つとしつつ「家族としての立場」から「目には目を」の思想で告発批判しているように思えてなりません。「指導部の一員」の自己批判と責任の側からの思想的実践的立場が欠落しているように感じてしまいました。酷な要求かもしれませんが、指導部であった高原さんこそが煉獄の犠牲者家族の苦しみを越えて、植垣さんらと真正面から会い総括を求めてほしいと思います。そのこと抜きに「人民闘争の中での」総括は終わらないと思います。
「加害」の人々(この人々も十分苦しんで来たと思います)と犠牲者の家族は和解出来ないとしても、同じ運動でリーダーの一人だった高原さんこそ「加害」の人々の真摯な謝罪を橋渡しをしながら遺族をねぎらい教訓を整理していく責務があると思います。「加害」の人々もあなたが導いた人々なのです。赤軍派や狭い身内からではなく、人民的に見れば赤軍派も連赤も「党の役割」を果たさなかったことにおいて皆「加害」の位置にいるとも言えます。私含め「加害」よりも被った「被害」の側に身を置きがちです。
2000年に逮捕された後、接見禁止の解けた2008年からいろいろな人々に会えました。ある時面会した青砥さんから、赤軍派に彼が参加したきっかけが私だと知りました。初の赤軍派の政治集会に上京した青砥さんに会場の受付係の私が、赤軍派指導部に会うようにと引き合わしたとのことです。そうか……そのように私も人々の人生を転ずることをやってきたのだ……と改めて自覚しました。特に現思研の仲間たちには強くその責任を実感しています。遠山さんにもです。みな相互関係の中で過ちを再生産していました。「非加害」の側に身を置いては見えないものもあります。赤軍派も連合赤軍もまたそのような「被害」や「加害」不可分の中にあると思います。
高原さんの今回の批判が新しい何かを生み、共謀罪、安保法、改憲へと国家主義強権で進む日本の現実の流れに有効に抗する現在の実践に連なることを願っています。

9月4日 もうすっかり秋です。今日は房内検査で荷物整理(他の人より多い)を指示されました。資料や本など宅配で減らしているのですが根本的に改めねばなりません。(中略)

9月12日 今日はN和尚が法要面会に来てくれました。メイの友人のMちゃんも一緒に、兄の三回忌と彼岸、みんなの年中安泰や私の病気平癒も併せて祈念してもらいました。法華経を私も黙読しますが、なかなかお経についていくのが難しいです。でも、心地よい一時を与えてもらった感じです。感謝です。残った時間を、私に手紙や資料、書籍などを送ってくださる友人への感謝や話などで、あっという間の貴重な時間、「あと3分!」と、たちまち30分は終了。ありがとうございます。(中略)

9月14日 今日は、午前中の運動(ベランダ)の終わるころ、診察の呼び出し。汗がおさまらない中、汗を拭き拭き診察室へ。今日は胃カメラやCTの映像写真で説明してくださる予定です。ノートを房にとりに戻って診察室に入ると、CTフィルムに光を当てる台に乗せて、DRが熱心に注視しているところでした。CT写真を見る専門家が、肝臓に少し異変があると、主治医に伝えたとのこと。まだ小さい点のような黒いものがいくつか写っていることを示して、「あなたは肝炎を患ったことがないので、原発性の肝臓癌はありえないが、大腸・小腸からの転移はありうる。これが何か、専門家はまだ判断できないので経緯観察することになっている」と、おっしゃっていました。
CTに写るのは最低どの位の大きさか?と尋ねると、「5㎜位なのでしょう。5㎜以下はCTに写らないというので、5㎜位なのでしょう。何か癌でないものかもしれず、心配しても無意味なので気にしないように」とのこと。CTを頻繁にやって放射線を浴びるのは良くないので、3か月後くらいにまた、CTを撮ることになりました。「定期的にチェックしてもらっているので、異変も早く発見できて良かったと思う」と伝えて、CVポートのフラッシュをして診察を終えました。

9月22日 安倍首相と菅官房は露骨な解散方針。国民は怒らないのか? 北の脅威を利用して大勝狙い。でも保守乱立で浮動票が安倍に投じられるかは疑問です。それにしても米の戦争政策に舞い上がって、更なる圧力を求める安倍は国際社会で良識すらかなぐり捨てているよう。これも全部米トランプと国民向けの選挙対策でしょう。
米元大統領のジミー・カーターは 94年の戦争危機をトーンダウンさせ、北とも対話をさせた人物ですが、9月12日にトランプを批判しています。「米国は休戦協定を平和条約に格上げすべきで、そのためにトランプは金委員長と直接話し合うべきだ」と述べています。米が軍事合同演習を止めるところからアジアの緊張緩和がはじまるはずです。「核がある」という事実を確認しているのに米・日で「認めない」という方が危険です。北の核を認め、核管理体制を共同する方が戦略的選択肢でしょう。

9月28日 新聞を見ると「希望の党結党会見」綱領「寛容な改革保守」(27日夕刊)「民進の『希望』合流提案へ」「前原氏党公認出さず」(28日夕刊)と「希望」の改憲踏絵によって民進党をバラバラにさせる道へと小池、前原で話が進んだようです。
リベラルを排除し、安倍自民党と小池非自民党の両改憲勢力の政権を問う選挙とか。とりあえず安倍自民党と対決しつつ、公明党と連携して「希望」で政権狙いの小池流。でも自民より右も含めて「希望」に右潮流が続々参じています。政策で一致する野党勢力の育成に市民的リベラルの柱は今のところないようです。
共産党らを戦略的には支援しつつ当面「反『安倍自民』実現」が現実的なのか? 小池はもともとタカ派。流動はいいけれど民進は解体するし、その先が恐ろしい。もっとも自民の負けない小選挙区。しがらみ自民対公認欲しい雑多な「希望」という改憲勢力同士。「日本が変わる危険な選挙」となるのでしょうか。
 9月28日第二インティファーダから17年目。パレスチナではネタニヤフの強権益々アラブの混乱を望み、シリア内戦介入ばかりか昔からクルド支援。クルド独立支持はイスラエルばかりか米も本音は同じ。中東の戦乱は新たな火種を広げつつあります。一方ガザの「人道危機」は9月11日今年からハマースの新政治局長になったイスマイール・ハニヤがカイロでエジプト高官と討議し、その圧力かハマースの「ガザ行政委員会」解散に合意したとのこと。
17日ハマースが正式にガザ行政委を解散し総選挙に応じると表明。これに対してPFLPは歓迎を表明し、アッバース大統領府のイスラエルと一体のガザに対する措置停止を求めています。そして分裂を終わらせるためのPNC開催による政治プログラム合意の討議の続行を求めました。パレスチナに新しい動きは生まれるでしょうか?
様々に変化する世界を座して見つめるしかないのですが、心を鍛え判断を常に自己検証しながら72才の一歩を再び歩みはじめます。酉年のバースデー! みんなに感謝を伝えます。(中略)

9月30日 小池「希望」公認に「安保・憲法観の一致が条件」と表明。逆にこれでよかったのでしょう。民進党の水と油の改憲派とリベラル系が分かれて、市民の受け皿に「民進党」または新党で闘う条件がつくられるでしょう。でも、いつもリベラル派は戦略なしの後手後手。リーダーシップ不在です。共産党も実態にふさわしく名称変更し、国民の利益の側の受け皿を大きく育ててほしいものです。あっという間に九月尽です。

10月2日 ラジオのスポットニュースで、枝野らが「立憲民主党」を結成するとのこと。国民の大多数は、九条改憲を望んでいないので、それを実現する野党や市民の受け皿ができるならいいことです。(中略)

10月8日 今日は秋晴れ。今日までに「かつて10・8羽田闘争があった」を読み終えようと思いましたが、616頁もあってまだあと少し。大事な524頁からの「五〇年目の真相究明─山崎博昭君の死因をめぐって」の途中です。あの時の状況、精神、健全な世論と暴徒攻撃の警察、マスコミを思い返しながら読んでいます。

10月10日 今日衆院選公示。新聞休刊日でニュースも自由に聞けない房では気になります。「反安倍政権」で登場してはずの「希望」が、小池の「さらさらない」選別発言で流動。「立憲民主党」には「連合東京」まで支援を決めるほど追い風に。しかしマスコミ操作の自民党はこぞって小池個人や希望に批判を焦点化。そのお陰で安倍自民は漁夫の利の選挙になっています。どう考えたって「立憲民主」に刺客をたてる「希望」には希望がない。小池都知事選勝利も「風」もあったが「連合東京」や公明党の力が支えたのが大きかったのに。小池のあまりの政局作りや策略のあれこれも、実際に安保法制支持だし、鼻について国民も引いてしまっているのでは? それをマスコミが煽っている感じです。いつものように選挙でいじめられる役は、今回「希望」に向いて、「立憲民主党」への勢いには向いてないようです。何とか「立憲民主」「社民」「共産」が一議席でも多く!と。

10月13日 Mさんの便りで、10月5日の名古屋泉水国賠訴訟控訴審「ほぼ完全勝利でした。」と知り、嬉しくなりました。「面会・手紙という交通権は刑務所の受刑者の更生・社会復帰にとっていかに重要なものかということ、また外部の者にとっても受刑者との間でのコミュニケーションを通して人格の発展が図られる。この権利が剥奪されるようなことがあってはならない大切な事柄であるという、我々原告側の主張した趣旨が全面的に認められた画期的な判決でした。」とのこと、本当に良かった。苦労された弁護士に感謝し、泉水さん含め原告の方々に連帯!そして泉水さんの「与作」の歌をアラブで歌ったという松下竜一さんの本からのエピソードを泉水さんの人柄共々語っています。(中略)

10月24日 今日、全当選者の確定した新聞が届きました。3分の2以上の改憲派ばかり(当選者の8割超)投票率53.68と低い分、自民に有利だったようです。今回の選挙では、国民の声を反映したのは立憲民主党、という側面が次の可能性ですね。
自民党は、得票率比例区では33.3%ですから、全有権者の20%以下(17.5%)です。それが、全体を転換させる改憲に導こうと、再び政権を支配する日本です。東京ブロックでは、比例区の投票先は、自民30.42%、立憲23.58%、希望17.44%、公明10.81%、共産10.37%、維新3.32%、社民0.95%でした。共産、社民支持が「立憲」に流れたのです。
朝日新聞の試算では、小選挙区で、分裂野党の226区で与党が8割勝利していて、野党共闘が実現していたら、63小選挙区で逆転していたとのこと。単純にそう言い切れないとしても、互角に近い状態はつくられたでしょう。今回の選挙の教訓は、安倍政権に対して旗色を鮮明にして、かつ、保守層を含みうる国民的合意を示せば、政権交代に迫りうる、ということでしょう。
「国民的合意」は改憲に向かっていないのに(ことに9条)国会議員8割超が改憲の方向を向いていて、これから国の形を変えそうです。「天皇退位」「東京オリンピック」と、安倍政権の煽る「北朝鮮」と合わせて、大衆操作・国家主義が強まりそう。でも「立憲」が第一野党として、しっかり市民と連帯し、右に引っ張られずに野党共闘を作り出せれば、無党派層が支えるかもしれません。ニュースやTVのない獄で、新聞を読みつつ考えています。変化は流動をもたらすので良いことです。「自民」「希望」「維新」の似た者同士の路線にも、「情報公開」など違いもあるし、改憲以外で安倍政権を変える流れは作れないのか……と。「希望」も分裂や脱党もあるでしょうし。まずは「立憲」が数合わせより、市民・国民の投票の意図を汲んで今後進めば、5年10年後に期待できます。
パレスチナでは9月以来、ファタハとハマースの政治的和解が表明されています。12月1日にはガザ・西岸地区の統一政府が成立する予定で、話し合いを他の組織含めて行っています。しかし、米・イスラエルの介入と「オスロ合意」に縛られたパレスチナ自治政府の要求に、ハマースが「降伏」しない限り、実効性ある「統一政府」は難しい。その要は、ハマースの軍事部門の「解体」についてです。ハマースを含む反占領闘争(非武装も武装も)は、イスラエルの占領と表裏の関係にある分、イスラエルが武力と「封鎖」を解かない中で、ハマースが武装解除できるのか、疑問です。
常にイスラエルの介入で、パレスチナ内の対立は増幅させられてきたのですが、ネタニヤフは、すでにパレスチナ自治政府のファタハとハマースの統一政府が発足しても、和平交渉しない方針を決定しています。そして、ハマースの「イスラエルの国家承認、軍事部門の解体」などを主張しています。
「オスロ合意」では、イスラエルの承認・合意なしには、何事も成立しない構造がつくられており、自治政府が、イスラエルとの保安共同で「反テロ」の名で、反占領闘争を弾圧しつつ、もう一方の手で「統一政府」を目指しているのは二律背反です。その本質は、ハマースの武装解除を狙っているのが、米・イスラエル・パレスチナアッパース派らの思惑です。それを承知の上で、戦略的な前進のため、ハマースが「非武装」を受け入れるでしょうか。しかし、受け入れても、更に高いハードルを設定している米・イスラエルです。パレスチナの統一は「オスロ合意の脱却」以外、成立しません。
また、米・イスラエル・アッパース派の望む「統一」には、パレスチナの分裂しか成り立たないのが現状です。12月の統一政府発足を期待するパレスチナ人はほとんどですが、その実効性や持続可能性は、ほとんどのパレスチナ人は難しいと知っています。何故なら、パレスチナレベルの決定が生かされていないからです。
今日は久しぶりのグラウンド運動。もう桜の木が色づき落葉しています。それでも黄蝶、紋白蝶が舞い、タンポポが咲いている八王子です。気持ちの良い野外運動です。

10月31日 もう10月尽。屋外に出ると、厚い雲間に青空があり、曇ったかと思うと太陽が射し込む暖かい秋。もう桜の紅葉が塀際の並木を美しく変えています。
メルマガで10月14日のガーディアン紙」とのインタビューで元英首相のトニー・ブレアのこんな言葉を知りました。「ハマースをボイコットしたのは誤りだ。」「今考えれば、ハマースを対話の場に引き込み、彼らの態度を変える試みをすべきだった。イスラエルが強硬に反対していて、それは難しかった」などと述べています。外部のご都合主義の介入は、結局強硬なイスラエル政府の言いなりで、米国が後押しして「国際社会」の意見にさせてしまい、誤った道を作りました。
ファタハも自らの利益と外国援助金で成り立つ政府の現状維持で、現在に至る対立まで続きました。11月の統一のための全パレスチナ勢力の話し合いに注目したい。(中略)

11月7日 ロシア革命百年目です。革命をヒューマニズムの実現として世界の労働者たちは考え、西から東へと芸術家らも亡命していきました。労働者階級、自らを解放することによって、例外なく社会成員を解放する能力を持った階級としてヒューマニズムが描かれ、マルクスからレーニンへと。でもロシア革命によって、新しい世界が拓き、ロシアの地方性を「普遍性」として、それを教条したり押し付けたり。多くの過ちもあったけど、ロシア革命によって、資本主義も分配や社会福祉など成熟させざるを得なかったし、世界の抑圧された人々が結び合う力を育てたので、やっぱり偉大な現代史の出発点でしたね。
 今日は立冬。それなのに、タンポポや銀ヤンマが独り飛んでいました。暖かい小春日和のロシア革命記念日です。公正な富の分配、金銭に支配されない人間性の連帯、益々変革の必要を実感しつつ歩んでみました。 

11月8日 一転して小雨曇天の八王子。今日は17年目の逮捕記念日。様々の想いが胸をめぐります。あの人はどうしているだろう、まだ生きておられるか……と、当時の様々な国の友人たち含めて、断ち切れてしまった関係のその後を想像しています。お詫びと感謝しかありません。変革や闘った連帯の誇りに、反省すべき多くの事柄が軽々とならないよう心して進みます。これまでのみんなの支援・友情に感謝し、再会を誓って学び、心身鍛えねば!と強く希求する逮捕記念日です。いつもありがとうございます。(中略)

11月9日  今日、受け取った「支援連ニュース」にAさんの書いたとってもわかり易い、泉水さんの国賠訴訟の事が載っていました。「泉水博さんとの面会交通権裁判の控訴審、勝ったぞ! 被告・国側は上告せず」のタイトルです。
「2006年の監獄法廃止と、その後の『刑事被収容者処遇法』は、社会関係を遮断する監獄法の考え方を改め、広く外部交通が認められるようにすべき、と規定しているととらえ、外部交通を積極的に認め、交友関係の維持も、通常の交友関係であれば足り、その長短や濃淡は問わないとして、受刑者との面会それ自体が改善更正と社会復帰に資するものであるから、刑事施設の長の裁量の幅は、相当程度制限されるものと解され」と、判決で述べているとのことです。当然でまっとうな判決です。
施行の当初は法の精神に則って面会、私も可能で友人たちと会いました。ところが2011年秋から、八王子でも親族と、特別な理由、身元引受人以外、不可となりました。泉水さんの判決勝利によって、今後運用幅が広がるといいのですが…。
また、「日本赤軍云々」という国・被告の論理も、すでに解散しており、面会や文通があったとしても、他のメンバ−と意思を通じるとか、刑事施設の規律や秩序を害したり矯正処遇の実施に支障を生ずるおそれがあったとは認められない、との判決。これで、泉水さんを案じて面会してきた戸平さんもまた会えますね。親しかった間柄、友人として家族として、再び面会可能は嬉しいです。
この裁判を、無給で徹底して論理的に裁判所に訴え続けてくださった安田弁護士、山下弁護士には、心からお礼を申し上げます。Aさんから、どうか伝えてください。また、共に闘ってくださった皆さん、ありがとう! まだ、他の泉水さんの公判が続きますが、泉水さんも元気で闘いを選択したことで受けた嫌がらせなど、乗り越えて進むと確信しています。藤山雅行裁判長に、国は上告の論理なく諦め、勝利確定! ですって。うれしいですね。このニュース。

(終)

【お知らせ】
年末年始はブログとホームページの更新はお休みです。
次回は1月12日(金)に更新予定です。

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このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)を紹介しているが、この日誌の中では、差し入れされた本への感想(書評)も「読んだ本」というコーナーに掲載されている。
今回は「オリーブの樹」140号に掲載された本の感想(書評)を紹介する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「かつて10・8羽田闘争があった」(10・8山博昭プロジェクト編・合同フォレスト発行)】
「かつて10・8羽田闘争があった」(10・8山崎博昭プロジェクト編・合同フォレスト刊)を読みました。
 この本は、50年前ベトナム侵略戦争に反対し、佐藤首相ベトナム訪問に反対し、立ち上がった若者たちが羽田空港周辺で闘い、その中で虐殺された故山博昭君の追悼と、当時の闘いを明らかにし、歴史に刻むために編まれた書です。
 600ページ以上もあるこの本を10月6日に受け取り、10月9日まで一気に読みました。気持ちとしては一気ですが、物理的には徹夜で読むことができない獄で中断を余儀なくされつつ、一心に読みました。
初めに、博昭君の兄建夫さんが、弟がどんな子供だったのか、どんな家庭の中で育ったのかそして突然の死の衝撃を「あゝ弟よ君を泣く君死にたまふことなかれ」の題名の一文に想いを凝縮して記しています。この家族の思いを通して、当時の闘い、命知らずに使命感に燃えて立ち上がる若者たちと支えつつ案ずる家族の姿が痛いほどわかります。自分の周りの若者たち、ブントや赤軍派の友人たち、また、バーシム奥平、サラーハ安田、ユセフ檜森、ニザール丸岡らが、山君の「死」と連動して浮かび、胸を熱くさせます。
この本はそのあと、第1部から第4部に分けて編まれ、第1部では、このプロジェクトに関わった方々中心に10・8から50年を経ての総括的な感慨が記されています。50年前救援に関わり、このプロジェクトに加わった水戸喜世子さんや山本義隆さんら大手前高校の同志、同期の方々の文です。どの方々も10・8闘争とそこでの山君の「死」がそれ以降の運動の飛躍の出発点であり、またそれぞれの人生に大きな影響を与えずにはおかなかったことを深く語っています。10・8闘争が同世代の人々の結び目であり、それ故再び50年後に共通の思いを持ちえたことが伝わります。
第2部では、67年10月8日闘争に共に参加した山君の学友や戦友たちによる、弁天橋やその付近での攻防を中心に編まれています。日本が再び侵略戦争の道に加担することを許してはならない! と、不退転の当時の騒然とした時代がよみがえります。ここでは、戦友、友人たちが山君がどのような部署について闘ったのか具体的で詳細に語っています。私もこの本に一文を寄せましたが、私の文が記憶違いの不正確さがあると読みつつ思いました。一つは、10・8当日ブントや私たちは、鈴ヶ森ランプ出入り口から高速道路を駆け登ったのですが、私は「逆走した」と書きました。しかし、「出口」でなく「入り口」だったら、「逆走」ではないと。もう一つは、私は高速道路上で、機動隊の「ジェラルミンの盾と金属棒でデモ隊の頭を殴ったり蹴ったりしている」とん書いたのですが、まだジェラルミンの盾は無かったのか? 68年の記憶と混同してしまったのかもしれません。他の方々の具体的手記を読みつつ思いました。それに部隊「数百人」と書きましたが、情報誌では、この時のブント社学同らは、1,200人、1,000人と書いている人もいます。確かめずに書いたため、不確かだったと思います。
第3部は、「同時代を生きて、山博昭君の意志を永遠に」と、様々な立場、年代の方々の視点からの文や10・8のこのプロジェクトに賛成した意志のコメントなど。折原浩論文も収められています。
第4部は、「歪められた真実」。これは圧倒的説得力があります。この第4部の真実から改めて逆に第2部の手記をじっくり詠み直した程です。(第1部にも当時の遺族を代表した小長井弁護士も記しています。)この第4部の「50年目の真相究明――山招博君の死因をめぐって」がそれです。辻恵と10・8プロジェクト事務局が執筆し、調査で到達した地平、事実の再現に向けた詳細な聴き取りと図解説明によって正確に真実が明かされています。当時は、「山は学生の運転した車に轢き殺された」とか「暴徒キャンペーン」が激しかったのを思い出します。検死前から「轢殺説」を流しながら、自供攻勢でも結局つじつまが合わせられず、犯人学生説は失敗だったことも記されています。
また、この文で初めに山君を検死した牧田病院長の発表では、「直接の死因は頭骸底出血と頭骸骨折だがタイヤの跡は認められなかった」と述べたものが変更修正されたり、警察の国会答弁もつじつまが合わないなどを、この中で明らかにしています。
この警察のねつ造の記述との関連で、辻恵は60年安保闘争で殺された樺美智子さんに言及しています。2010年に樺さんの「死の真相」が明かされていたことをこの文で私は初めて知りました。「樺美智子さんの『死の真相』――60年安保の裏で」として、2010年12月公表された。筆者は丸屋博医師。60年6月16日に樺さんの遺体を司法解剖のため慶応大法医学解剖室で、中館教授執刀で行われ、その口述筆記したものを丸屋博が当時の解剖学の著名な権威、草野教授に鑑定してもらうために持参し、そこで死因の説明を受けた。丸屋は自ら樺さんの残されていた臓器を確かめた上で、「樺さんは腹部に(警棒状の)鈍器で強い衝撃を受け、外傷性膵頭部出血、さらに扼痕による窒息で死亡した」という結論をまとめたという。(実際、樺さんと一緒にいた女学生は命はとりとめたが、同様の重致傷で入院。)
検察に提出したこの「第一次鑑定書」を、検察は受け取りを拒絶して書き直しを迫った。それで、執刀医の中館教授は修正を加えて「第二次鑑定書」を作成したが、それでも検察は不都合で使わず、解剖に一部立ち会っただけの東大の上野教授によって別の鑑定書が作られた。そこで、「人なだれによる圧迫死、内臓臓器出血も窒息によるもの」と変更した。そして第二次鑑定書も闇に葬った。このように丸屋博医師によって50年を経て明らかにされた。
闘う側にいた私たちは、詳しい山君の死因は知らずとも「権力の虐殺」であり、怒りと共に次の11月闘争に向かったのです。50年を経て、改めてその詳しい実証に当時のデモで、激しく対峙した権力の殺意をよみがえらせて、身震いしてしまいます。しかも巧妙に権力は真相を葬った。歴史に繰り返されている権力の姿を、反戦平和を求める市民運動の側から露にし、今現在の深まる「共謀罪」「安保法」」「改憲」に立ち向かう一つの力として、この本を多くの方々に読んでもらいたいと思いました。(10月13日)

【お知らせ】
ブログ「野次馬雑記は掲載から10年を迎えました。第1回は2007年12月2日です。当初はヤフーの「ジオログ」に掲載していましたが、「ジオログ」廃止にともない、現在の「ヤフーブログ」に移行しました。
「ジオログ」の時を含めて30万近い方にアクセスしていただきました。ありがとうございました。
もうすぐ掲載回数も500回を迎えます。いつまで続けられるかわかりませんが、もう少し頑張りたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。
次回は12月22日(金)に更新予定です。 

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2017年11月12日、14時から大阪・梅田スカイビルイーストタワーで、10・8山博昭プロジェクト主催による「羽田闘争50周年in関西」集会が開かれた。
この集会に参加したので、その報告を掲載する。

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10・8山博昭プロジェクト(以下「プロジェクト」と記載)では、1967年10月8日の第一次羽田闘争から50年目となる本年10月8日に、東京・四谷の主婦会館で「羽田闘争50周年―山博昭追悼―」集会を開催した。それに続いて、1967年11月12日の第二次羽田闘争(佐藤訪米阻止闘争)から50年目の日に、大阪でも集会を開催することになった。この日は、10月8日の第一次羽田闘争で羽田・弁天橋の上で亡くなった山博昭君の誕生日でもある。
第二次羽田闘争についは、関係する記事(「前進」1967.11.13)をホームページの「新左翼党派機関紙・冊子」ページに掲載したので、ご覧いただきたい。

私がプロジェクトの集会・講演会の関係で大阪に行くのは、これで4回目となる。これから当分は大阪に行くこともないと思うので、集会の前に大阪在住のN君に会うことにした。N君とは年賀状のやりとりはしていたが、実際に会うのは約40年ぶりである。
N君とは明治大学に入学当初、クラスが一緒となり、明大全共闘でも一緒に活動していた仲間である。N君に関する思い出としては、大学1年の時の大阪行きである。1970年に大阪で万国博覧会が開催されたが、その前年の1969年8月7日から11日まで、大阪城公園でベ平連が中心となって「反戦のための万国博」、いわゆる「ハンパク」が開催された。

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(「ハンパク」の写真)
この時、N君に誘われて「ハンパク」に参加した。大阪に行ったのはこれが初めてだった。会場に日大全共闘のテントがあり、そこで日大全共闘の黒ヘルを借りて御堂筋デモをしたことを思い出す。もう48年も前もことである。
新幹線の中でそんなことを思い出しながら、新大阪に到着。集会会場のある梅田スカイビルに向かった。大阪駅を出ると、特徴のある梅田スカイビルが見えた。

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梅田スカイビルの飲食店でN君と久しぶりに話をした。お互いの近況や健康状態などの話をしたが、N君も67年10・8に影響を受けて活動を始めたと話していた。
N君も当日の集会に参加した。

「羽田闘争50周年in関西」集会の様子は、写真を中心にして報告する。
集会は、発起人でもある歌人・道浦母都子氏と、山博昭君の高校時代の同期生である黒瀬準氏の司会により始まった。
集会の冒頭、山博昭君を追悼して全員で1分間の黙祷を行った。

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最初に、プロジェクトの代表でもある山博昭君の兄、山建夫氏から「50年経ちました。弟が繋いだ縁で沢山の方が動いていただいて、プロジェクトの目標はほぼ達成しました。60周年は終わったが、これからも続けていくので協力をお願いしたい。」という挨拶があった。

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挨拶に引き続き、50周年を迎えてプロジェクトが目標としていた三事業について、目標が達成されたとの報告があった。
事業の一つ目、山博昭追悼のモニュメント建立については、山建夫氏から「本年6月17日に東京・大田区の萩中公園に隣接した福泉寺に山博昭の名を刻んだ墓石と『反戦の碑』を建立した。」との報告があった。

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事業の二つ目の50周年記念誌の発行については、プロジェクトの関西運営委員会の新田克己氏から「10月8日に『かつて10・8羽田闘争があった』(合同出版)を刊行した。」という報告があった。

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記念誌は、今回は「寄稿篇」ということで61名の方が寄稿している。また、来年の10月8日を目途に、記念誌2巻目の「資料篇」を刊行するとのことである。

事業の三つ目のベトナムでの展示会の報告の前に「2017年 プロジェクトの歩み」と題した30分の記録映像が上映された。この映像は、映画「三里塚に生きる」や、現在上映中の「三里塚のイカロス」の代島治彦監督が撮影したものである。
上映の前に代島監督から挨拶があった。

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映像は10月8日の弁天橋での献花・黙祷の様子をはさんで、8月19日から24日までのベトナム展示ツアーをメインにしたものである。

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映像上映後、事業の三つ目のベトナムでの展示会の報告があった。ベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館において、プロジェクトと博物館との共催により、8月20日から11月15日まで、「日本のベトナム反戦闘争とその時代」を開催したが、この展示会について、発起人でもある山本義隆氏からベトナムでの展示に至る経緯とベトナム・ツアーの報告、そして今後のベトナムでの巡回展示など新たな展開について報告があった。

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プロジェクト三事業の報告の後、「芸人9条の会」のメンバーでもある「パギやん」こと趙博さんの歌と語りがあった。最近、東京の脱原発集会でも歌っているので、歌を聴いたことがある方もいると思う。1967年の10・8の時は小学5年生だったと語っていた。
趙博さんは、山博昭君を追悼して「死んだ男の残したものは」と中島みゆきの「世情」の2曲を演奏した。
「シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく」という歌詞の「世情」の選曲はよかった。

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追悼の歌はここで終わって、お笑い系ということで、「芸人9条の会」のテーマソング「ワテらは陽気な非国民」を演奏。

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最後に「当世新説阿呆陀羅経」を演奏して第一部は終了した。

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休憩をはさみ、発起人でもあり、山博昭君の大手前高校の同期生でもある作家・三田誠広氏より「1967年から1970年代にかけての激動の時代をふりかえって」と題した講演が行われた。早稲田大学時代のこと、山博昭君のこと、現代の社会に関することなど、身振り手振りを交えて熱く語った。

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三田誠広氏講演の映像が、プロジェクトの関西運営委員会のメンバーにより、ユーチューブにアップされているので、こちらもご覧いただきたい。

会場では、三田誠広氏が芥川賞を序章した作品「僕って何」のサイン入り初版本が販売され、休憩時間前に完売した。

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講演の後、発起人の辻恵氏からプロジェクトの今後について「今日の集会で、2014年に発足した山博昭プロジェクトの第一ステージは終わる。今の状況に切り込んで、これからどのようにプロジェクトが第二ステージを歩んで行くのかが問われている。第2ステージに向けて今後1年をかけて、どういう方向で進めていくのか議論していく。
一つはベトナムとの関係、もう一つは世代の越えて若手の皆さんと共同の議論の場を作って行くこと、この二つを軸に考えていきたい。今後も参加をお願いしたい。」との報告があった。

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最後に若手研究者である幸田直子氏(近畿大学国際学部講師)から「グローバルヒストリーとしての1968」というタイトルで発言があった。
「アメリカでは1960年代は革新的な政治的・文化的・社会的な変化をもたらした時代として記憶されている。1960年代に多くの国で学生や市民による反体制運動が起こった。最近、グローバル史としての1960年代に注目が集まっている。
特に1968年がグローバルな歴史的瞬間、空間であったことが明らかになった。アメリカ政府は日本の安全という観点から1960年代から日本の学生運動の情報収集を行ってきた。30歳以下の人への日本本土から沖縄へのビザを発行しないように指示していたことも明らかになった。日本とアメリカのベトナム反戦運動は越境的につながり、反戦運動が展開された。ベトナム反戦運動は、単にベトナム戦争に反対しただけでなく。既存の権力構造に対する大きな運動へと発展したのではないかと思う。
ベトナム反戦運動を「歴史」としてどう考えるか。1960年代の後半、アメリカでは社会の衰退、モラルの崩壊などにより反対勢力が生まれる。1960年代の運動を批判するロナルド・レーガンなど保守的な政治家の登場を新自由主義の起源とする学者もいる。
オキュパイ・ウオールストリートの運動の時にアメリカにいた。そこでは1960年代の運動に参加していた人々と若い活動家との交流があった。
日本においてベトナム反戦運動はどのようなレガシーを残したのか?これはベトナム反戦運動の研究者の課題だと思っている。」

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若手研究者の発言の後、発起人が演壇に集まり、挨拶した。

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最後に発起人の弁護士・北本修二氏から閉会の挨拶があった。
「集会に沢山の方が参加していただき、ありがとうございます。10・8羽田闘争は決して日本だけの現象ではなくて、全世界の反体制運動のうねりの中の象徴である。日本のうねりに火を付けたものが山博昭君の犠牲だったと思う。これからも続けていきたいと思うので、よろしくお願いしたい。」

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この集会に関する新聞記事が、当日の朝刊に掲載されたということもあり、集会には、約150名の参加者があり、大盛況だった。

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集会終了後、近くの飲食店で懇親会があった。30数名の方が参加した。
懇親会では参加者がそれぞれ発言を求められ、私は関西運営委員会に敬意を表して「第二ステージは関西運営委員会を中心に進めていただいきたい」と発言した。

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今回の集会では、時間は短かかったが若手研究者の発言を取り入れるなど、プロジェクトの第2ステージに向けての意欲が感じられた。
今後のプロジェクトの第二ステージに期待したいと思う。 
(終)

【お知らせ その1】
国立歴史民俗博物館 企画展示 (千葉県佐倉市)
「1968年」無数の問いの噴出の時代

●展示期間 10月11日(月)から12月10日(日)
詳細は国立歴史民俗博物館のHPを参照してください。
http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/index.html

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【お知らせ その2】
野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は12月8日(金)に更新予定です。

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2017年8月20日から11月15日まで、ベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館において、10・8山博昭プロジェクトと博物館との共催により、「日本のベトナム反戦闘争とその時代」展が開催されている。
 この展示会は、昨年、同プロジェクトが東京と京都で開催した「ベトナム反戦闘争とその時代―山博昭追悼」展の内容を更に充実させたものである。
この展示会に合わせて、同プロジェクトの企画により、8月19日から8月24日まで約50名の方がベトナム博物館展示・ツアーに参加した。

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私はこのベトナム・ツアーには参加しなかったが、ツアーに参加した方が「10・8山博昭プロジェクトベトナムホーチミンの旅」という映像をユーチューブにアップしていただいた。その映像とナレーション及び参加者へのインタビューを基に、私の方でベトナム・ツアーの報告を作成したので、今回はそれを掲載する。

【10・8山博昭プロジェクト ベトナムホーチミンの旅】
2017年8月19日午後、10・8山博昭プロジェクトホーチミン市訪問団約50名が日本から到着。夜は、サイゴン川ディナークルーズにて結団式を行いました。
 
<オープニングセレモニー>
2017年8月20日、いよいよ今日は本ツアーのメインイベント、10・8山博昭プロジェクトにとってもホーチミン市戦争証跡博物館にとっても史上初の試みで記念すべき日の「日本の反戦闘争とその時代」展示会オープニングセレモニーの日です。

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10・8山博昭プロジェクトからは山本義隆氏(開幕挨拶)佐々木幹郎(詩朗読)山建夫氏(相互の記念品授与、テープカット)が登壇しました。
その中から、山本義隆氏の挨拶を掲載します。文章だけではわかりませんが、映像を見ると、正に「渾身のアジテーション」という表現がぴったりの挨拶でした。

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「10・8山博昭プロジェクトを代表してご挨拶を申し上げたいとおもいます。山本義隆と申します。はじめにベトナム戦争の時代における日本の反戦闘争に関するこの展示会を開催するにあたり、この機会を与えて頂いたホーチミン市戦争証跡博物館とホーチミン市人民委員会に心から感謝の意を表明したいと思います。
50年前、1967年10月8日、日本の学生組織である全学連が、この日、日本の首相・佐藤栄作が南ベトナム政府を公式訪問するのを阻止する目的で、日本の東京の国際空港、羽田に向かっておりました。その羽田空港に至る橋の上で武装した警官隊が学生に襲いかかり、そして大学生、山博昭君が命を落としてしまいました。当時、南ベトナム政府はすでに民衆の支持を失い、その南ベトナム政府を軍事力で支えていたアメリカは、南ベトナムの農村を破壊し、北ベトナムの都市を空爆しておりました。そして日本はその米軍に対して軍事基地を提供し、かつ様々な軍事物資を提供しておりました。ベトナムはフランス帝国主義とアメリカ帝国主義に勝利した世界で唯一の国であります。そういう意味において私はベトナムという国を偉大な国だと思っております。日本は1940年にフランスの支配下にあったベトナムに軍を進め、そのことが一つの原因となって、ベトナムに飢饉がもたらされ、多くのベトナムの人たちが命をなくしたことが知られています。それから四半世紀のち、1960年代中期に日本は再び、アメリカのベトナム戦争に加担したのです。1967年に日本の首相が南ベトナム政府を公式に訪問することは、南ベトナム民衆に敵対することを世界に公表し、そしてアメリカの軍事戦略を政治的に支持することになります。これは、日本の心ある民衆にとって許すことができないことであったのです。山博昭君の犠牲という、尊い命を奪った、あの日の全学連の行動は世界に日本の良心を示したものだと私は思っております。
それ以来、日本の反戦運動は、学生、労働者、農民、そして多くの市民によって長年にわたって闘われ続けました。アメリカの原子力空母の日本寄港を阻止する闘い、米軍基地拡張を阻止する闘い、野戦病院開設を阻止する闘い、そして米軍のジェット燃料輸送を拒否する闘い。さらには、沖縄における米軍基地の基地労働者の闘いへと日本の闘いは発展していきました。さらに、日本国内における米軍基地からの脱走兵の支援の運動、脱走を呼び掛ける運動、さらには、上官の命令に対する拒否をする運動などを闘って、在日米軍への働きかけを強め、そして日本の国内ではさらに新国際空港の建設に反対する農民の反対運動や、自衛隊の内部からさえ反戦の訴えがあげられていったのです。この間の日本の民衆の闘いは、日本の民衆がはじめて世界の歴史に手をかけた希有な経験だったと思っております。
今回のすなわち10・8山博昭メモリアルエキシビション、これは私たちが取り組んできた展示会でありますけれども、それは山博昭君を追悼するとともに、あらためて反戦、戦争に反対することの意義を現代において問い直そうとする試みであります。この企画がベトナムの人たちと、日本の民衆の間の友好と連帯を深め強めることを心から祈念しております。最後にあらためて、この企画を推進しこの企画の実現のために力を尽くしてくださった、この戦争証跡博物館のヴァン館長と、およびスタッフの皆さまに心からの感謝の念を表明して、私の挨拶に代えたいと思います。」

<元ベトコン兵士との懇親会>
オープニングセレモニーの後、戦争証跡博物館館長の特別な計らいで、元ベトコン兵士の女性(81歳)と男性(82歳)の講演と懇親会を持つことが出来ました。

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女性はビラを撒いたことで共謀罪のような罪に問われて監獄(かの恐怖の「虎の檻」)に閉じ込められていた女性として悲惨な体験談を。そして、自らを元気づけるために歌っていた歌を博物館スタッフと共に披露してくれました。そして男性は手榴弾を投げた罪で捕らわれ、同様に「虎の檻」で24歳から42歳まで過ごしたこと。死刑判決を受けた後、3回の脱走を試みたが失敗し、戦争終結で奇跡的に生還した体験談を話してくれました。
「私のように政治犯として捕らえられた場合、自白するまで打たれるなどの拷問を受けることになります。」
「今回参加された皆さまのおかげで、ベトナム戦争が1日でも早く終わったということに感謝します。」

<展示会の様子>

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展示会の様子は、ベトナム国内のいくつかの新聞にも掲載されました。

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<クチトンネルとツーズー病院平和村訪問>
翌日、ベトコンが作戦を展開してクチトンネルを見学。

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その後、向かったのは枯れ葉剤被害者の保養施設、ツーズー病院平和村です。
子供たちに絵本やおもちゃなどを届けました。

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<参加者へのインタビュー

●救援連絡センター事務局長 山中幸男

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「日本のいわゆる新左翼というのは、山博昭が殺された羽田10・8佐藤訪ベトナム阻止闘争から始まっていると言えば始まっている。その歴史が全くこちらには伝わっていなかった。ちゃんと伝わったのは実に50年経とうとしている今日という、このつらい思いをみんな感じているから。」

●「情況」元編集長 大下敦史

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「歩ける状態じゃなかったんだよ。あと4ケ月でなんだかんだと言われていたからね。これだけは人生の区切りだと思って来ているからね。」

●元東大全共闘議長 山本義隆

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「チラシは刷ればいいんだから。展示物は一つ一つ集めて持っている人を探して、展示できるような形で金もかけて細工してだからこれは大変ですよ。直接手紙を書いて貸してもらったり、譲ってもらったり、それを一つ一つクリアポケットに入れてパネルに貼ったり、、コピーを作ったり、パネルにいきなり貼ってラミネートしたり、それぞれ資料ごとに相当手間暇、時間、金はかかっています。」

●山博昭君の兄 山建夫

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「米軍機だけれども日本の基地から飛び立ったということがあって、この日本からそういうことがなされているということが許せない。放っておくということは私たちはそれを認めていることになる。学生たちの反戦意識というのはすごく盛り上がっていた。一番衝撃的だったのは、米兵に連れられてベトコンの青年が歩いてきて画面の横からバンと撃つ、ああいう映像というのは本当にショキングで、これを見て黙っているのかお前はと問われかけている。」

●大手前高校同期生 黒瀬淳

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「僕と山は防衛ラインの方に配置されて、生まれて初めて機動隊を撃退したんですよ。3回くらい機動隊が攻めてきたけど、3回とも追い返して、それでもいつ来るか分からないから防衛ラインは崩さずにいたんですけれども、みんな攻める方が気になって振り向くんですよ。そうしたら防衛ラインのリーダーがみんなの頭を殴って回ってね、行きたいだろう、行きたいだろう、だけど俺たちの任務はここだから振り向くなって言われたんですけれども、やっぱりみんな振り向いて、山君だけ口に出してね、行きたいね行きたいねってずっと言ってたんですよ。それは僕という友人が隣にいたから口に出したんだと思うんですよね。他の人も思いは同じかもしれないけれど、知り合いがいないから口には出さない。彼が口に出し行きたいね行きたいねとずっと言っていて、それで本当に行ってしまったんです。だから、その時分かれて僕とはそれっきり。最後に見た姿は、思いがけず行ってしまったんで、びっくりして振り向いたら、勇躍、石を投げていた姿が最後に見た姿です。」

●水戸喜世子

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「山崎君がたまたま一人亡くなっただけで、亡くなるべき人は本当にたくさんいた。脳挫滅だとか片目が潰れた人だとか、本当に死なないのが不思議だと思う人がいっぱいいて、それくらい犠牲者がたくさん出た大衆運動だった。」

●佐々木幹郎(詩人)

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「僕は彼を追悼するために『死者の鞭』という詩を書いたんですけれども、書いたときは、もうこの詩を最後に詩は書かないと思って書いたんですよ。なぜ書かないと決めたかというと、次、死ぬのは僕だと思ったんですよ。山が先に死ぬのはおかしいと。(博物館に)山の遺影を置いてもらおうと、僕が言い出したんですよ。ベトナムにアクセスする機会がなかった。何もつながっていなかった。
50年後に山を追悼するんだったら、直接ベトナムとつながろうではないか。山が行けなかったベトナムへ行こう、博物館に山の遺影を飾ってもらおう。」

●展示を見ていたベトナム人留学生

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「ベトナム人なんですけれども、申し訳ないという気持ちになりました。日本人の学生も死んじゃったりということを今回初めて知りました。」

●歌人・道浦母都子

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「一つはほっとした、一つはまた悩みが出来た。ここに来れて一段落、一区切りでいるけれども、この後、一生かかってそのことを考え続けないといけない。山さんは死んでいる。私たちは生きている。それはものすごい違いでしょ?」

●ツアー参加者 Y氏

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「この山博昭チームでベトナムに来て、枯れ葉剤のビーカーに入った標本、それを見た時に、命が叫んでいるわけですよ。みんな口を開いて体でホルマリン漬けの中で叫んでいるわけ。それを見た時、自分たちが山も含めてベトナム戦争に反対した意味が、初めて分かったような気がした。
山くんが前に出たい前に出たいと言うのは、必死にそういうことを純真に止めたかったんだということで、セレモニーの時に、スピーチでアメリ軍の拷問に遭った2人の方がおっしゃったじゃないですか。あなたたちの闘いのおかげでベトナム戦争を早く終わらせることができたと言われた時に、僕は初めて山博昭君の叫びが、子どもたちの叫びが救われたというか浮かばれたというか、そいう風に思って、このプロジェクトチームのすごさというか、涙が止まりませんでしたね。」

最終日、山プロジェクトを常設展示に、という交渉が館長と行われた。

佐々木幹郎氏談
「我々としては永久展示を、常設展示をする場所が欲しい、そこに山博昭君コーナーと名付けてくれないかと、それはスタッフと一緒に相談して、その方向で進めたいと。重要なのは、ホーチミンに来れない地方の田舎の人たち、もっと貧しい人たち、その人たちにこの展示を見せたいと。だから南の端の島から北の方まで、ちょっとずつ展示をしていくことを考えていると、それを許可して欲しいと、そういう言い方なんです。」

山建夫氏談
「突き動かしたのは、50人の団体で来て、みんなでやっているんですよということは大きかったと思う。3〜4人の代表だけでやっている仕事に見えるのと、50人が来てあれこれ支えているのとでは違う。それは大きいと思う。」

6日間のベトナムツアーは無事終了した。

以上、10・8山博昭プロジェクトベトナムツアーの報告でした。
この報告作成の基となった近藤伸郎氏の 「10・8山博昭プロジェクトベトナムホーチミンの旅」(約20分)というユーチューブの映像は、以下のアドレスでご覧になれます。

(終)

【お知らせ その1】
「羽田闘争50周年 山博昭追悼」関西集会
●日時  2017年11月12日(日)14:00〜(開場13:30)
●会場  梅田スカイビルイースト36階
●参加費 1,000円
●主催  10・8山博昭プロジェクト
第一部 50周年を迎えて三事業の報告
第二部 パギやんの歌と語り(趙 博)
第三部 建碑式、ベトナム展示会の撮影記録上映 (撮影:代島監督)
第四部 記念講演「1967年から1970年代にかけての激動の時代をふりかえって」  三田誠広(作家)

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【お知らせ その2】
国立歴史民俗博物館 企画展示 (千葉県佐倉市)
「1968年」無数の問いの噴出の時代
●展示期間 10月11日(月)から12月10日(日)
詳細は国立歴史民俗博物館のHPを参照してください。

【お知らせ その3】
野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は11月24日(金)に更新予定です。

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