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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。
重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」143号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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<独居より  2018年5月9日〜2018年8月7日>
5月9日 今日は雨のせいか肌寒いです。
連休が明けて、資料などが夕方にたくさん届きました。
今日はコーラスもあり、忙しいうちに診察も入りました。主治医から、5月17日に大腸内視鏡検査を行うことを伝えられ、書類に署名押印しました。
(中略)
5月15日 70年目のナクバのパレスチナの日。新聞の一面に米大使館エルサレム移転に抗議し、14日デモ隊にイスラエル軍が銃撃して子ども6人含む41人が死亡。3000人超が負傷したと報じられています。これは14日午後4時50分現在の数字。西岸地区でもガザ地区でも非暴力デモ。イスラエル軍には非暴力抗議すら通用しないことを世界に明かしています。今日ナクバの日も続いているでしょう。5月14日のエルサレムへの米大使館移転歓迎式典はイスラエルの招待した86ヵ国のうち20余ヵ国のみの参加です。参加した国々は自国への米の経済援助のための国々がほとんど。
パレスチナの人々が怒っているのは、93年「オスロ合意」でエルサレムの帰属は最終的地位を両者で決定するとしていたものを、「イスラエルの首都」と米政府が認めたことで既成事実化し、交渉の議題から無くすことを狙っているからです。とは言っても、すでに「オスロ合意」はイスラエルが放擲(ほうてき)しています。93年「オスロ合意」から減らすべき入植地は93年当時の2倍の250ヵ所あり、政府の認めていないものが更にあります。人口は3倍の60万人に増え(西岸40万人と倍増、東エルサレム21万人超)、とくに今は旧市街地の「ユダヤ化」のためにキリスト教徒を含めパレスチナ人への弾圧、様々な口実の追放を企んでいます。
米の大使館移転にネタニヤフが「勇敢な決断に感謝する」と持ち上げているのに対し、PLOのハナン・アシュラウィは、「重大な歴史的不正義が今日も続いている」と強く非難しています。
去年4月6日ロシア外務省は中東和平に関する声明で「東エルサレムを将来のパレスチナ国家の首都、西エルサレムをイスラエルの首都として認める」と述べて、これまでのテルアビブからイスラエルの首都認定を変えていましたが、東エルサレムはパレスチナの首都と認定しています。
また、アッバース大統領は去年11月11日のアラファト死去13周年のガザのビデオ演説の中で「ガザだけの国家も、ガザなしのパレスチナ国家もない」と表明し、中東和平交渉で二国家解決構想がダメになった場合、パレスチナ人がイスラエル人と平等の権利を持つ一国解決を目指すと述べたようです。これは一国解決を恐れるシオニストに対する表明ですが、本気で平等の権利を実現する一国解決に向けて、血も汗も流す覚悟とは思えません。去年からパレスチナ自治区の統一政府討議が続きながら、結局ハマースを武装解除しようとする米・イスラエルの後押しで、パレスチナ自治政府(PA)が行政・治安権限を全掌握目指しつつ、今もハマースは軍事部門を手離していません。
トランプのエルサレム首都宣言で、反米政治活動を共同しつつ、両者は統一政府に対しては解決になりえないままです。9年ぶりに開かれたPNCでは、ハマース・PFLPらボイコットのままアッバースをPLO議長に再選して終わりました。PNCは、トランプのエルサレム宣言問題を非難し、「パレスチナ国家の永遠の首都」としてエルサレムを首都とするパレスチナ国家樹立を目指すと5月4日PNC最終宣言を採択しています。しかし、70年目のナクバ、本気で難民問題の解決を、国際社会を動かして問うような戦略的方向は出されていません。
(中略)
5月18日 Mさんの便りで、「パレスチナ連帯!ガザと共に!15日間行動」の様子を知らせて下さいました。「5/14はイスラエル国旗を掲げた3人の女性が『行動の妨害』に来ました。しかし、むしろ行動参加者や通りがかりの人から、イスラエルの暴力的な行為について指摘されていました。15日最終日の大阪梅田には40〜50人の方々が行動参加下さいました。」とあります。70年目のナクバに連帯は果敢に日本でも声を挙げ続けていたのを知りうれしいです。でもイスラエル国旗で妨害に来る人がいるなんて、日本の今の安倍政治の反映ですね。イスラエル市民の連帯なら歓迎なのに……。大丸東京でもBDS運動のキャンペーンで「大丸東京店のイスラエル入植地ワイン販売」は「取り扱わないことになりました」と返答を得ていますとのこと。「パレスチナ現地はもとより日本政府・安倍内閣によるイスラエル協力関係強化も含めて、とても厳しい状況が続いています。微力ですが粘り強く皆さんと共に歩みたいと思います。」とMさんの声は辺境に居る私に大きな力です。もうすぐ5・30も近づきました。
(中略)
5月29日 今日は、丸岡さんの命日です。あの 3・11 の年ですから、もう 7 年も経ったのですね。この昭島医療センターの環境なら、丸さんももう少し何とかなったでしょうが……。新緑の森を見つめつつ、朝、丸さんに挨拶しました。
5月30日  再び 5 月 30 日を迎えています。正確には闘争は、日本時間では、5 月 31 日の明け方でしょうか。現地時間では、予定より飛行機が遅れて、夜 10 時過ぎていて、タラップを降りる時、空を見上げたら星が煌いていたと、岡本さんが後に語っていました。すでに 46 年目を迎えています。きっと友人たちが「葬式ではなく祭りを」という、リッダ戦士たちの残した言葉に応えて集い、小さな宴を催していることでしょう。またベイルートでは、 PFLP や岡本さんらが、バーシム奥平、サラーハ安田、ユセフ檜森、ニザール丸岡の共同の墓石の前で、彼らを労い敬礼していることでしょう。闘いを記憶し、連帯してくれる友がいるおかげで、バーシムたちの闘いとその実存は、46 年経った今でも生きています。
70 年代、非同盟運動や社会主義諸国が存在し、アラブでは「アラブ民族主義」が反植民地主義・反シオニズムを掲げ、パレスチナの全土解放闘争を支援していました。しかし、どの国も各々の経済的困難や矛盾を抱えていました。「アラブは一つ」と訴えつつも、アラブ民族主義が植民地支配の国境線を取り除けず、また、アラブ地域に偏在する石油などの富を「アラブの財産」として人々のものとせず、王制国家は資本主義国・石油メジャーらと国境の内側で利権をむさぼり合っていました。この克服できなかった格差は、今、どの国もアラブの大義の要であったパレスチナ解放の当事者性を失ったままにあることは、ガザの厳しい現実が、解決されずにあることに示されています。
「帰還の権利」が国際社会のアジェンダから外されてきたことが、ガザの封鎖された 70 年目のナクバの闘いで訴えられています。ベイルートのシャティーラ、サイダのアイネヘルワ難民キャンプが、パレスチナ解放闘争の基地だった豊かなリッダ闘争の時代を思い浮かべる時、この「ナクバの 70 年」ほど、パレスチナの存亡の危機を示しているものはありません。闘いの指導部の過ち(オスロ合意)は、かくも民族の危機を引きずるものだと、改めて憤りをもってイスラエル・米の仕打ちを直視しています。「今世紀は負けたかもしれないが、来世紀は勝つ!」と言っていた楽天的なパレスチナの友を思い出しつつ、「ナファス・タウイールだよ」を想いつつ。(「持久戦」・「息長く」の意「ナファス・クウイール!」と言われる度、当初意味を知らず、私はマレシと同じか「まあ、なんとかなるさ」という意味と思っていたのです。)
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5月31日 白井聡著の「国体論 菊と星条旗」はとても説得力のある日本論です。「国体とは何か?」という切り口から、2016年8月の天皇の「お言葉」を解題しつつ、天皇の危機意識の根源を追います。そして戦前と戦後の国体の形成・発展・崩壊を比較検証しつつ、戦後の国体を鮮やかに浮かびあがらせます。戦後はかつての天皇の位置にマッカーサーが在り、占領軍に主権が握られた状態にあったこと、しかしそれは過去形ではなく昭和天皇も奨励し、サンフランシスコ講和と同時に日米安保条約を結ぶことでその関係を継続して、今も変更がないこと。「米が望むだけの軍隊を望む場所と望む期間だけ駐留させる権利」(ダレス米大統領特使)を許したのです。
戦前も戦後も制限主権状態にあり、「国体」が国民の政治的主体化を阻害してきたこと、そして冷戦期「手段」であった対米従属は冷戦後逆に「目的化」され、安倍政権の現状で露呈しているのは天皇ではなく米国への忠誠であり、その分米国の作り上げた天皇制民主主義・「国民の統合」としての天皇の役割も危機に陥っている現状をあきらかにしています。「対米従属とは戦後の国体なのだ」と天皇の戦前と戦後の位置を明らかに示すことで、米が主権の要を握っている以上、戦後の国体もまた崩壊の危機にあることを訴えています。「お言葉」に衝撃を受けた著者が「戦後の国体」という切り口から不可視化された対米従属の構造を日本の特殊性として根底的に問う視座は深刻な安倍政治と対峙する論理を形成しているところが注目です。
私も憲法を骨抜きにした「統治行為論」を廃しない限り、今後の改憲論議は歯止めもなくなると危惧しつつ読みました。(伊達判決を葬った「統治行為論」の詭弁です。)でも、安保条約は望むなら破棄できます(第10条)その気があれば!です。
6月4日 日大の体質はまったく50年前と変わっていないのは、自民党に多くの責任があります。日大の理事らと利権を分かち合い、批判する勢力を官憲と一体に弾圧してきたからです。
68年9月30日両国講堂には3万5000人の日大生が集まり、5月に結成されたばかりの日大全共闘が日大経営陣の使途不明金の不正に団交で立ち向かいました。この日の団交で学生側が勝利し、全理事の退陣など12項目について理事会側に合意させました。ところがこの日の学生たちの勝利に危機感を持ったのは自民党政府・官僚です。68年ベトナム反戦闘争が世界中で戦われ、日本のベトナム戦争加担に対し抗議し、また自民党の文部政策を批判し全共闘運動が勢いを増していた時です。
この年の10.21闘争では1500人を超える人々が一日で逮捕されています。時の佐藤内閣は個別一大学の不正をただす行為に対して、10月2日「日大の大衆団交は認められない。政治問題として対策を講じる」と宣言し、日大当局と共謀します。翌10月3日には日大当局は「9・30確約(全理事退陣など12項目)」の破棄を宣言しました。そして10月5日警視庁は大学側の告発を理由に日大全共闘議長以下8名の逮捕状を発動し、権力と一体に運動を潰していきます。
東大闘争でも、69年1月の安田講堂攻防翌日の20日に東大は入試を断念し、同時に東大全共闘議長への逮捕状が発動されます。常に権力と一体に「合法性」を独占し、異議申し立ては「非合法」に追いやる手口。これが自民党のやり方で、「籠池逮捕」もその口です。市民の監視と発言の拡大で対峙を作り出すことは、スポーツ・社会問題・政治全分野で問われます。

6月13日 今日の午前中に受け取った6月12日の夕刊と6月13日の朝刊には、米朝首脳初会談が大きく報じられています。米が北への敵視政策をやめて、戦争終結・平和条約へと考えるなら、これまでと違って前向きに進みそうです。この問題の解決はトップダウンしかないし、それが始まったからです。金労働党委員長は戦略的であり、柔軟な戦術を多用して非核化もよし、と構えているようです。「主体思想」の国ですから、中国・ロシア・韓国を巻き込んで、戦略を実行しようとするでしょう。そして中国式の手法で経済強化を目指したいところでしょう。
文大統領が反共・陰謀の人でないことが前進を作り出しそうですが、問題は日本政府。過去の植民地支配と向き合い、謝罪と賠償を自ら求めてこそ、拉致問題の全面的解決になるはずです。ブレーキ役はもうなりたたないはずです。米朝首脳のような未知への決断力のある日本の首相が必要です。第二次大戦の「戦後秩序」は、植民地支配の矛盾を、東に38度線の朝鮮半島、西にイスラエル建国によるパレスチナ問題を抱えて出発し、その矛盾の解決は未だなされていません。
トランプ政権は東でのディールに気をよくし、益々イラン問題、エルサレム問題の混迷を、西でなりふり構わず続けそうです。イスラエルの、レバノン・シリア・イランへの戦争挑発にゴーサインを出し続けることでしょう。
(中略)
6月21日 今日は運動に出る人が多かったせいか、いつものベランダ(とっても狭いのは前に書いた通り)から、一階上の7階の屋上部分の自然芝のところで初めて運動へ。プラスチック柱から南に広がる緑地や街並みが少し見えます。昭島は、立川基地跡のところに医療センターがあるせいか、空き地が目立ちます。でも、みな隅に座ってそれぞれ固まって30分の交談を楽しんでいて、歩いたり走ったりしているのは約一名の私です。
今日は夏至。快晴ではないけれど、風が身体を包み、空がこれまでより広く見えるので、開放感があります。少しうれしい運動時間でした。
(中略)
7月3日 午後整髪、ショートカットにしました。暑くなるので整髪の順番が回ってきてホッとしています。
新聞の地域版に前川喜平さんの講演で「星野君の二塁打」の話をしていたと出ていて、へえ、まだ「星野君の二塁打」は小学校の教科書で扱っているのですね。あれは小学何年生で教えるのでしょう。昔、私はこの監督の考え、チームワークの重視に反対意見を述べたのを思い出します。星野君も自分のためでなく、チームの勝利を考えていたはずで、それを一方的に否定するのは星野君の決断を抑えつけるようではないか?と。小学校の先生は「でもね、監督に従うことが求められている」とあれこれ説明し、教室で「監督に賛成の人」と手を挙げさせました。大多数でしたが、挙げない人も何人も居ました。納得いかず家に帰って父に話したことを思い出します。「房子は房子の考えを大切にすればいい」と笑っていました。そんな事を思い出しました。
(中略)
7月5日 八王子時代から続いている行事ですが、七夕の笹飾りに希望者は短冊を交付されて希望などを笹に飾り付けることができます。私も子ども時代の習慣を思い出しつつ楽しんでいます。健康(みんなの)やパレスチナの平和を!など。
今日は一か月ぶりの診察。耳鼻科とも主治医は話してくれ、また私も補聴器の高値だったことを伝え、結論的に最もシンプルな解決──大声で話してもらうことと何度も聴き返すこと──で当面解決することにしました。

7月6日 九州・西日本・東海では大雨被害甚大とのこと。ここ昭島でも雨です。
今日は7・6事件の日。ブンドの中から、党の軍隊の形成と蜂起的闘いを求める部分が、党の革命をめざして赤軍フラクを形成し、中央の統制に反発して、明大和泉校舎にいた仏議長らをリンチしました。そして、機動隊の包囲下、リンチ重傷を負った仏議長を、結局破防法の逮捕状が出ていたのですが、逮捕させてしまった日です。加えて、東京医科歯科大に、その後襲撃に来た中大グループに、今度は塩見議長以下が拉致され、赤軍派の暴挙によってブンドが崩壊し始めた日です。でも時制的には、赤軍派の行動より早く、朝から中大グループは望月さんが上京して医科歯科大に入る以前に見つけ、拉致しています。
赤軍派形成、7・6事件は、自己批判してきた事件ですが、もっと言えば、それまでの私たちブンドの在り方、党内・党派闘争の在り方思考方法に問題があったと言えます。「新左翼主義」と言ってもいいのですが、常に対象批判・責任追及・自己正当化の三段論法で、「分裂の党観」に立っていた分、「批判精神」をもって真面目に真剣に問う分、分裂を作り出し、その思考が「違い」を追及して分裂の道を開いていきました。ブンドは連合的な大衆闘争機関として、その党的な指導を果たしているうちは、情勢もあって影響力を発揮しましたが、違いを理由にマル戦派に暴力をふるった時から(目撃した人によると、それを始めたのは学対の塩見さんで、その指揮下、早大社学同が明大学館五階ホールで、マル戦派で全学連副委員長だった成島さんに対するリンチを始めた)分裂の党派・党内闘争が始まった、といえます。党の統一の要諦は「違い」を受け入れることであり、共同の要諦は「違い」を認めリスペクトすることにある、と私は自分たちの活動反省を込めて実感してきました。それができないのなら統一も共同もしないのが肝要です。
かつて70年代から80年代、私たちはアラブで日本の共産主義運動・新左翼運動を「理論委員会」を設置して学習総括したことがあります。その時の教訓は「大地に耳をつければ日本の音がする」(亜紀書房刊)にまとめましたが、結論として党とは何か?と「党の役割」を一致してまず、それを基準に「自己批判―党の革命」の立脚点をもって進むことだ、ととらえました。「党の役割は、社会革命・変革の実現にむけて諸勢力を統一しつつ、革命に勝利すること」統一し得るようなあり方とは……など、当時母体を失って国内に力を持たない自分たちを「国際部の役割」と規定しつつ、国内の変革主体の形成の一翼たらんと総括していたのを思い出します。「7・6事件」は「内ゲバ」など、日本の闘いの在り方を問う契機でしたが、武装闘争の方向へと流れることで、ブンドも崩壊し「連赤」へと至って行ったと思います。自らの反省と共に心に刻む日です。
(中略)
7月12日 今日午後、転房になりました。南の少し緑の見えた房から、向かいの北向きの何も見えない房! プラスチック塀から光が入るので、昼と夕方などは判るのですが、やっぱり閉塞感が……。
(中略)
7月18日 今日も猛暑のようです。昭島の予想気温は36℃〜26℃。
昨日はコーラスで私にとっては新しい歌「ビリーブ」を習い、「夏の思い出」「花は咲く」「七夕」などを歌いました。
今日は東では城さんの控訴審開始。西では山田編集長に対する地裁判決の日です。今の司法はまったく期待がもてません。希有に憲法に沿った大飯地裁判決をたちまち高裁で覆してしまうからです。
ひまわり2本鉄砲百合4本(蕾各2つ)の豪華な花が届きました。夏を感じることが出来ます。これから緑色の百合の蕾は白百合に日毎変っていくのが楽しみです。
猛暑続き、去年は八王子で蚊やダニそれに暑さの中にいました。65才以上は夜冷し枕を毎晩、日中も貸与してくれました。運動場で麦わら帽子をかぶってクラクラする程の強い日差しの中走ったものです。でも昭島ではエアコンで暑さの心配はなく、ときどき寒い位。でも体調は緊張感を欠いたせいか、どこかここか痛んだりしています。腰痛、胃の鈍痛、倦怠感など体力が落ちています。
(中略)
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7月22日 米澤鐡志著「原爆の世紀を生きて──爆心地(グランドゼロ)からの出発」を読みました。この本は1945年8月6日朝、広島市内の爆心地近くの電車の中で母と共に原子爆弾を浴びた10才の少年が恐ろしい破滅と人間の生き死を見せつけられながら被爆の死の淵を彷徨い、9月1日母を失い、母乳を乳んだ一才の妹を10月に失いながら奇跡的に助かり、それからどんな人生を歩んできたかを伝える記録です。この「運命の子」米澤鐡志の生涯を貫く思想「核と人類は共存出来ない」が、どのように生まれてきたかを語り尽くしています。この運命の契機は苛酷で残虐であったけれど、それに立ち向かい自らの生き方として反戦平和の先頭に立って来、83才の今も闘い続けている米澤さんの感動的人生が綴られています。遠くない日本がどんな時代だったのか是非若い人々に読んでほしいと思います。歴史も判り易く読むことが出来ます。巻末には由井りょう子さんの文による「ぼくは満員電車で原爆を浴びた」の前著も紹介されています。京都時代の日共との対立や、その後の「社会主義革命運動」(社革)などの当時のことなど短くまとめられています。もっと知りたい点(書きたい点)もあったでしょうが、全体のバランスの中で良くまとめられていて良いと思います。本全体の装丁、デザイン、コラムなどの配置もとっても読みやすく良い本に仕上がっています。

7月23日 この間、7月19日以来、体調を崩し今日は39.1度。血圧も高くしんどかったのですが(週末は免業日で処方以外の薬はよほどでないともらえない。それで月曜日まで我慢していたら、今日は悪寒で冬物衣類を着て震えていました。)3時半に主治医診察でインフルエンザも念の為チェック。陰性です。熱さましの薬を飲んだら熱くなってすっかり熱が下がったらこの間のしんどさは嘘のように元気です。でもまだ食欲はわいてきません。ここも熱中症対策で戸外運動は19日以降中止。でも19日夜体調を崩したので熱中症も関係あったかもしれません。
(中略)
7月27日 朝、まだ頭が熱いお豆腐のように感じます。今日はN和尚がお盆法要に来て下さるのに。10時半過ぎ診察。いつもの主治医でない他の医師。状況を説明し、医師から7月24日の血液検査の結果、感染症の数値、CRPなども高いので、CT検査、測った心拍114なので心電図もとることになりました、病室に戻り、昼食前面会の呼び出しです。薬が効いて、シャキっとなっていたので、車椅子を使わずに面会室へ。お盆法要にN和尚とメイの友人のMちゃんが来てくれました。ちょっと体調を崩したことを先にお断りし、それも含めて読経でお盆法要して下さった。私とMちゃんは黙読しつつ合掌。その後、7月6日にN和尚の寺、福島住職の法昌寺で、高原夫妻がみえて、遠山さんの法要を執り行ったり、7月22日には、遠山さんのお母様の名で、お経を納められたそうで、ずっと祈っていた和尚の存在を、もっと早く遠山さんご遺族に知ってもらったら良かった……と思いつつ、嬉しいことでした。法要共々ありがとうございます。
(中略)
7月31日 今日はもう普通の体調に戻りました。ちょっと疲れやすい程度です。こんな歌が零れます。“七月尽総身にエネルギー取り戻し灼熱好きの私にかえる”
(中略) 
8月3日 この頃ジャーナリストの安田純一さんの映像がネットで出回ったというニュースがありますが、この拉致事件は金銭を要求しているもので、日本政府が国民に果たす義務として真剣に要求に向き合えば解決するものです。もし政府の身内のものだったら、もっと真剣に対処していることでしょう。一般の、殊に政府に批判的国民にはまったく冷たい安倍政権です。「裏交渉」はしていると思いますが、犯人を特定しようとか、全額を支払わないで済まそうとか、人命第一で対応していないのでしょう。安田さんの発言したという「韓国人オマル」というのは、裏交渉の符丁でしょうか。そのうち結果が出そうです……。
救援の山中さん救援紙100号までの縮刷版送って下さってありがとうございます。丁度69年から71年頃までの当時の攻防について調べたかったので大変助かりました。77年まであるので76〜77年の泉水さんの獄中決起も読めました。泉水さんの決起のお陰で八王子医療刑に移された友人の囚人は泉水さんの公判の証言に立って感謝を述べています。しかし獄中決起に官は制裁のごとく3月29日懲役2年6カ月の有罪を科しています。その後数カ月でダッカ闘争があったのですね。この救援縮刷版は調べ物をするのに大助かりですが、そればかりか時間があれば当時を思い返しつつじっくり読むと色々記憶も喚起されるし、懐かしい旧友らの名(逮捕とか獄中アピール、公判レポートなど)がたくさん!ああ、闘っていた時代がそのまま零れる良書。ありがとうございます。
(中略)
8月7日 7月イスラエル国会で「イスラエルはユダヤ国家」と宣言した「国民国家法」が可決されて以来、自治区や占領地ばかりか、イスラエル国内で反対が広がっています。4日にはテルアビブで数万人が参加し「民主主義に反する法を撤回しろ」と抗議集会が開かれています。アラビア語とヘブライ語がイスラエルの公用語だったのに、この法によって公用語はヘブライ語のみとなり、入植地建設も「国民的価値」として「その建設と強化を奨励および推進する」と謳い、エルサレムは「統一不可分のイスラエルの首都」と宣言しているものです。
トランプ政権に勢いづいた右翼連合政権は、これからこの基本法に沿って法整備に着手するとのこと。明確なことは、トランプ・ネタニヤフコンビが中東危機の元凶だということです。「二国解決」を求めるシオニストユダヤ人の労働党系や、今回はパレスチナアラブ系イスラエル人の中でもドルーズ派が公然と反対を訴えているのは当然ともいえます。アラブ系でも兵役に就きユダヤ系と「平等」と囲い込まれながら、この法で母国語は公用語から格下げされ、平等が目にみえて損なわれるからです。国内に14万人のアラブ・ドルーズがいます。「全市民平等」はこの新法で法的にも殺され、ユダヤ人の優位性を定義した以上「民主主義国家」のまやかしの看板ももう剥げています。益々、シオニズムの本性である「選民思想」を問う闘いへと発展することを願っています。
今日立秋、今度は台風接近!猛暑豪雨台風の夏乗り切って共に。
1968年から50年目の夏を思い返し、あれこれ反省も含めて思わず笑いがこみ上げます。
(終)

【お知らせ その1】
10・8山博昭プロジェクト関西集会
「世界が見た10・8羽田闘争」
●日時:11月17日(土) 開場:13:30 14時〜17時
●会場:エル・おおさか 5F 視聴覚室
アクセス:http://www.l-osaka.or.jp/pages/access.html
(最寄駅/天満橋駅から徒歩)
●資料代:1000円
講演1 アメリカから見た10・8羽田闘争、及び日本のベトナム反戦闘争
講師:幸田直子(近畿大学国際学部国際学科講師)
講演2 在日コリアンから見た10・8羽田闘争と韓国民主化運動
講師:金光男(キム・クァンナム)(在日韓国研究所代表)
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【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は11月23日(金)に更新予定です。

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2018年10月7日(日)、東京・四谷の主婦会館で、10・8山博昭プロジェクト主催による秋の東京集会が開催された。今回のテーマは「異なった視点からの10・8羽田闘争」。
集会の第一部の講演会では、ウイリアム・マロッティ氏(UCLAカリフォルニア大学ロサンゼルス校歴史学准教授)と嶋田美子氏(アーティスト・60年代研究家)が講演を行った。
今回のブログでは、このうち嶋田美子氏の講演を掲載する。
(ブログ掲載にあたっては、嶋田美子氏の了解を得ています)

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「60年代をどう歴史化できるのか −外からの視点」
嶋田美子 (アーティスト・60年代研究家)
「よろしくお願いします。何かちょっとここにいるのがアウェイ感があるんですけれども、まず私が何をしてきたかというのを自己紹介したいと思います。
私は実はアーティストで、東京の立川市の砂川町で生まれ育ちました。たぶん皆さんとは一世代違うので、実際の闘争とかの経験は全くないんですけれども、何となく近所でそういうことが起こってたなというのは実感はしています。ただ。年代的には実体験というものはありません。

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アーティストしては、私は『戦争と女性』や『従軍慰安婦問題』についての、これは戦時時代の日本の女性が植民地で何をしたのかという写真を基にして、いろいろ版画作品を作ってきました。これは日本人従軍慰安婦像になってみるというパフォーマンスで、ロンドンの日本大使館の前に座って従軍慰安婦像のマネをしているというものです。

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これはこの間、ロスアンジェルスのグレンデールに行きまして、ここにも従軍慰安婦像があるんですけれども、そこで金属色に自分を塗りまして、そこでまた日本人慰安婦像になっているという、黄色っぽい方が私です(笑)。

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これは日本でも靖国神社の前と国会議事堂の前でやりましたけれども、外国でやるときは別に30分いても1時間いても何も言われないんですが、国会議事堂の前は特にちょっとだけ座ったら、わーっと警官が来まして『動いてください』と言われて、本当に日本ではこういうことはしにくいなと思いました。

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 それでアーティストとしてこういうことをしてまして、60年代に何で関係があるかというと、2010年あたりから1960年代研究というものにはまってしまいました。そのきっかけというのは現代思潮社・美学校ですー現代思潮社は皆さまご存知の方が多いんではないかと思いますが。2010年頃にイギリスの作家の方がオルタナティブな美術教育の研究をしたいということで、『日本にそういうことがなかったか』と聞かれて、『それは美学校がありますよ』と言って、それで共同研究を始めた訳なんです。私もちょっと美学校に行ったことがありましたが、80年代だったので、全然昔とは違っていました。だんだん研究したり、石井恭二さん他、ほとんど今、美学校の関係の方もお亡くなりになったんですけれども、2010年あたりは皆さんまだお元気でいらして、お話を聞くことができて、それでものすごく面白いと思いまして、どんどんそれにはまっていきまして、2013年に、イギリスのサウスサンプトン大学の美術館で「反アカデミー」という展覧会で、美学校とコペンハーゲンの実験学校というのと、アイオワ州の実験的な学校の3つの資料を並べて展覧会をしました。これはそのカタログです。

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そこでいろいろリサーチもしたので、2015年にそれでイギリスの大学で博士号を取りました。
 現代思潮社は皆さまご存知だと思うんですけれども、石井恭二が57年に始めました。一番話題になったのが60年にサド裁判、澁澤龍彦の訳で『悪徳の栄え』を出版しまして、裁判になって、10年後有罪になるんですけれども、石井恭二さんの言葉として『右手にサド、左手に道元、脳髄にマルクス』というのがありました。(笑)

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それで『民主主義の神話』、これは60年安保の集大成的な本です。その後『トロツキー全集』とか出すんですけれども、ただ、現代思潮社が私が非常に面白いと思うのは、こういうすごいハードエッジな政治の活動もしていながら、基本的にシュールレアリズムなどの美術系、まあ美術でもシュールレアリズムはかなり政治に介入してますけど、そういう関係の本も出しています。67年には平岡正明の本も出していて、これ以前から平岡正明は犯罪者同盟というグループを作ったりして、そういうアーティストというか活動家というか変な人たちも現代思潮社の周りにどんどん集まってきてるんですね。でも、ちゃんとしたルフェーブルなどのフランス哲学本も出していました。特に68年頃から前衛美術の本?細江英公の『鎌鼬』、これは土方巽という舞踏の創設した非常に有名なアーティストですけれども、それの写真集とか、1970年は『オブジェを持った無産者』赤瀬川原平、亡くなった尾辻克彦ですけれども、赤瀬川原平さんが66年ころから千円札裁判に関わって、それについての本です。その千円札裁判にも、それは千円札を模造、模型を作ったということで裁判になったんですけれど、その支援も現代思潮社はしていました。
1962年に自立学校というのを谷川雁が始めまして、これはオルタナティブ教育の講義といいますか塾みたいなものなんですけれども、多くの人が美学校のプロトタイプだと言っています。これにも石井恭二、川仁宏、川仁宏というのは後に現代思潮社の編集と美学校の事務局長になるんですけれども、それらの方が関わっています。

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65年には『東京行動戦線』というニュースレターを出しまして、平岡正明の『デモから思想の集団へ』とか記事があります。もともと石井さんは反スターリン主義というか、共産党主導の既成の左翼の枠からはずれたところで運動していこうということなんですけれども、ここで明らかに直接行動ということを言っています。

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これは68年の『腰巻お仙』唐十郎、あと中村宏の画集です。このほかにもいろいろ出していまして、東京行動戦線65年あたりで石井さんたちが言い出した直接行動というのが、ちょうど同じ時期に美術の間でも、反芸術と言っていたんですけれども、直接行動というか、とにかく今までの枠から飛び出して何かをしようという運動が非常に盛り上がっていたところなんですね。その辺のシンクロニシティというか、政治とアートが協働していくところが非常に面白いと思いましてこの辺の研究をしていたんです。

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芸術の直接行動というのは、例えば、これはハイレッドセンターというパフォーマンスグループなんですけれども、これは64年の『銀座に謎の集団あらわる』です。64年といいますと東京オリンピックですが、東京オリンピックで街中を綺麗にしようとか、今と同じですけれども、浄化作戦みたいなことがあったんですね。それに対する皮肉、パロディとしてアーティストたちが集まって、わざと銀座の街を過剰に綺麗にするというーこれは雑巾で現座の歩道と車道を拭いているんですよ。そういうことをずっと半日くらいしていたという、皆が白衣を着ているので、お巡りさんも本当にこれは浄化運動だと思って、誰も何も言わなかったということがあるんですけれども、(笑)彼らも63年あたりまではまだ美術館とかで発表していたんですが、これ以降、美術館を否定して、今までのこれがアートだとされてきたことをどんどん否定していく訳です。

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さきほど出版物でもありましたけれど、唐十郎の状況劇場です。状況劇場も60年代中頃から、それまでの劇場とか建物の中でやるシアター演劇をやめて街中にテントを張ります。花園神社にテントを張って、ずっと旅芸人みたいにして上演していた訳ですけれども、それも68年末ごろになりますと、やっぱり新宿も浄化運動になりまして、花園神社が場所を貸してくれなくなって、これは新宿中央公園で無許可でテントを張ってやろうとしたところ、まわり中、機動隊に囲まれたシーンです。そレでもテントの一部を開けて機動隊を背景にしてそのままずっと上演を続けて、上演直後に唐と関係者が警察に捕まったということがありました。

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ほかにも現代思潮社には直接あまり関係ない人たちなんですけれども、グループで街頭でパフォーマンス、それも非常に危ない感じのパフォーマンスをする人たちがいまして、これはゼロ次元というグループです。これは紀伊国屋書店の地下ですね。今もありますけれども、そこに全裸でガスマスクを被って行進してそのまま逃げるということをしていました。これは写真記録だけ残っています。彼らはもともと名古屋のグループなんですけれども、やっぱり60年代の中頃に東京に来まして、こういうことを街頭でしていました。

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ゼロ次元と、彼ら似たようなことをする人たちが一緒にいろんなイベントをしていたんですけれど、ベトナム反戦のイベントがあります。これはダダ・カンという、今も仙台に住んでいるパフォーマンス・アーティストです。糸井貫二という方で、今95歳ですけれども、お元気です。この『殺すな』というのは1967年ですね。岡本太郎の字で『殺すな』という、ニューヨ−クタイムスに一面広告でベトナム反戦の広告を出したんですけれども、それに共鳴してダダ・カンはそれを持って走るという行為を時々やってまして、何度もやっているんですけれども、この写真は1971年仙台でのものです。糸井貫二は、グループなどには属さなかったんですけれども、時々こういう風に、その時々の政治情況に共鳴して裸で走るとか、こういうことを街頭パフォーマンスをしました。70年には大阪万博の太陽の塔の眼のところを赤軍というヘルメットを被った人が占拠したことがあるんですけれども、そのニュースを聞いて、それに共鳴して、何かしなくちゃと、その場で万博会場に行って、太陽の塔の周りを裸で走って逮捕されたということもしています。

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これはあまり知っている人がいないんですけれども、クロハタというグループで、彼らは非常に政治的な演劇的なパフォーマンスをしていたんですけれども、これは明らかにベトナム反戦とありますね。焼身の儀式クロハタ本庁。由比忠之進が1967年11月にベトナム戦争に反対して焼身自殺したことに共鳴して、これは新宿の街中なんですけれども、ここで追悼の儀式をするということで、これはたぶん人形で、こちらの人が松江カクさんというアーティストでクロハタの中心人物ですが、その人形を新宿西口広場に持って行きまして火を付けたと。これがその写真です。

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十重二十重に人が囲んで、向こう側でガスマスクを付けて万歳しているのがゼロ次元です。ダダ・カンもここにいまして、いつも彼らとよく行動を共にしていたのがヨシダ・ヨシエという美術評論家で、彼も非常に政治的な運動に共鳴して三里塚にも行っていたんですけれども、彼とダダ・カンはこの後逮捕されました。
こういうことは美術史の中では、ほとんど今まで無視されていまして、ダダ・カンもゼロ次元も、たぶん10年前に美術関係者に聞いても誰も知らなかったんじゃないかと思うんですけれども、幸い黒ダライ児さんという人が『肉体のアナーキズム』という本を出しまして、それにゼロ次元とかダダ・カンとか、あまり資料に残っていないけれども、非常にその当時、社会に介入して重要なことをしたアーティストのことを書いて、今は割と注目、注目とまではいかないですけれど、少なくとも美術館での展覧会にも入るようになっています。

それで、この辺の美術とか政治の60年代の動きが非常に面白いので研究していましたら、去年の秋から東大で授業をしないかというお誘いがありまして、これは留学生向けのグローバル教養演習というんですけれども、それを英語で授業をやって欲しいと。それで『何を教えたらいいんですか』と言ったら、『日本に関することだったら何でもいい』というので、だったら『60年代の現代思潮社とアングラ・ア−トをやります』と言ったら『いいですよ』というので、シラバスを出しました。それを見たほかの学芸員や美術関係者が『嶋田さんね、あんなことやっても絶対に誰も来ないから』と言われました。あまりにマイナーで、そんな日本人も知らないようなことを何で外国人が興味を持つかと。それでフタを開けましたら20人近く生徒が集まりまして、無事にゼミを開くことができました。それで、1人だけあとでドロップして18人か19人なんですけれども、みなさん本当に熱心で、全く休みもせずちゃんと半年間授業を取ってくれました。留学生は 東大と提携しているいろんな国の学校から来るんですけど、アジア、ヨーロッパ、北米、南米、オーストラリアなどで、みなさん学部生で大体二十歳くらいなんですよ。日本語もほとんど出来ない。日本の60年代のことについてもあまり知らないんですけれども、リアクションが非常にビビッドというか面白かったんですね。
この授業は日本人の学生が取ってもよくて、他のクラスは日本人の学生が3分の1とかあるらしいんですけれど、このクラスは日本人は誰も取らなくて(笑)、でも、始まってから学生たちがすごく面白いからというので、ほかの日本人学生に『このクラスはこういうことをしているんだよ』と言ったんですって。授業は六全協くらいから初めて、1970年くらいまでだったんですけれど、その子が日本人学生に60年安保の授業の話をしたら、東大の学生は誰も60年安保を知らなかった。安保って何ですか、それ?みたいな感じだったそうです。でも知らないのは留学生たちも同じなんですけれども、日本人学生は無関心、知らないというより知的好奇心がないというか、そういう感じでした。半年間で10年間くらいの事をやって、美術館に展覧会にも見に行ったりして、最後は自国のことと関連して、レポートを書くか何かプロジェクトしてくださいと言ったんですけれども、そうしたらベトナム系のフランス人の学生がいまして、彼女はたぶん親がベトナムから移民した子たちなんですけれども、彼女がパリの五月革命以降の、フランスの大学の改革と、日本の大学の、例えば東大の68年以降どう変化したかを比較してレポートを書いてきまして、やっぱり東大はあまり変わっていなかったということがわかりました。(笑)フランスの国立大学は、今まで通り保守的な大学もあるんですけれども、かなり68年以降、移民やマイノリティーに関する学部が増えたりとか、非常に変化があったということをレポートしてきました。

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中国人の学生はこれを見せたらすごいリアクションしたんですよ。『造反有理というのは文化大革命じゃないか』と。(笑)その子は二十歳だったんですけれども、ずっと小さい頃から、文化大革命は本当に悪いことだったと、ほぼ内容も知らされない感じで、今ここ数年は、文化大革命についてもう少し幅の広い研究とか、映画とかが作られたりしているらしいんですけれども。とにかく彼にとっては『造反有理』という言葉が、東大の門に書かれていたんだということが、ものすごくショックだったらしくて、何でこれがここに書かれていたのか検証したいと言っていました。いろいろ調べたみたいですけれども、それはなかなか日本語がそんなによくできないので、まだそれほど進んでいないようですが、彼はそういうところをもう少し研究したいと言っていて、たぶん中国に帰ってしまうと研究できないので、(笑)アメリカかヨーロッパに留学して研究を続けたいそうです。
あとイギリスから来た女の子なんですけれども、彼女は駒場寮の研究をしたいと言っていて、(笑)教養学部だったので授業は駒場なんですけれども、駒場寮があったということをちょっと話したら、その歴史を知りたいから調べたいと言ったんですけれども、東大には駒場寮の資料が一切ないんですね。彼女が調べた範囲ではほとんど何もなかった。それでもあきらめずに、彼女は京都に行って、京大の吉田寮の研究をしています。(笑)今年に入っても泊りがけで吉田寮に行ったりしています。京大では結構英語が通じるらしいんですけれども、大して日本のことを知らなくて、日本語ができない人たちがそういう風にどんどん自ら飛び込んでいって、私が知らないようなことまで調べあげてレポートしてくれたので、本当にこれは面白かった。日本人の学生とのギャップがあまりに激しいので、その子たちに『何でこれそんなに面白いの』と聞いたんですよ、彼らが言うには、やっぱりこれはユースカルチャーだと、自分たちは二十歳くらいだけど、すごく同時代的なところが、フィーリングが分かるところがあると。それともう一つには、彼らはまだ若いですれども、自分の国の60年代の歴史を知っているんですね。パリから来た女の子はベトナム戦争、自分のルーツのことも知っているし、フランスの68年のこともよく知っているんですね。ですからそれと関連で考えられるということがありました。それを聞いてこれからどうにかしなければと思ったのは、こういう風に海外の人に向けてやるのも面白いんですけれども、やっぱり日本の教育をどうにかしなければいけないんじゃないかと。まあ日本でも1968年に関するいろんな試みはやられていると思うんですけれども、色々と問題があります。例えば『1968』という分厚い本を2冊、小熊英二が出しましたけれども、あれは当事者インタビューもないし、特に文化の面を全部切り捨てているんですね。もう言語道断だと思います。(笑)68年についてはこれまでもお見せしましたけれど、ああいうもの、アーティストとかノンポリとかヒッピーとか、今まで政治的と思われていない部分が実に政治的だったんですね。彼らがあってこそー政治運動もですけれどもー両方があっての60年代なので、文化を切り捨てて60年代を語るということは全くナンセンスなんです。

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これは去年、『「1968年」無数の問いの噴出の時代』が国立歴史民俗博物館でありました。非常にまじめでカタログもすばらしい展覧会でした。ただ、これもやっぱり、私のアーティストの立場から見ると、文化的な面が、特にもうちょっと風俗的とか、たぶん学術的にはくだらないと見なされるような部分が欠落していると、どうしても60年代というものの全体が見えないような気がするんですね。でも資料的はいろんなものがあって面白かったです。

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それで今、千葉市美術館で『1968年激動の時代の芸術』という展覧会をやってます。これもかなり資料が出ていまして、単に美術美術を並べただけじゃなくて、結構面白いんです。これは先週のオープニングで、城之内元晴さんの『新宿ステーション』という映画が展示されていまして、それを観る足立正生です。(笑)

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これも展示されたものですけれど、現代思潮社の本の出版記念講演のポスターで、『トロツキー選集全巻完結記念講演会』、このデザインは中村宏です。中村宏さんというのは絵描きさんで、『砂川五番』とかを描いた、50年代はわりとルポルタージュ絵画の作家です。中村さんも美学校で教えていたんですね。これは中村さん自身が『こんなのまだあったのか』とすごく驚いてました。

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これは木村恒久さんというデザイナーで、この方もやはり美学校で教えていたんですけれども、これは新宿駅に積み重なる米軍機です。もちろんこれはコラージュなんですけれど、これもたぶん制作は68年頃だと思います。もちろんフォトショップはないです。コンピューターもないです。これ全部手で切って貼って、それをもう1度写真に撮ったものなんですけれども、かなり近くで見てもどういう風に作ったのかよく分かりません。木村さんもやはり60年代に革命的デザインとしていろんなことをしてまして、こういう風な社会的テーマでのコラージュをたくさん作っています。
この『1968年激動の時代の芸術』という展覧会はかなりいろんな面白いものがあります。ただ、これも第一部のところは学生運動とかそういう政治運動の資料もあるんですけれども、だんだんほかの部屋に行くと美術作品を並べただけみたいになってしまっています。
1960年代というものをどのように歴史化していくか、それを提示していくかというのには二つ問題があると思うんです。一つはより総合的なアプローチ、文化と政治性を両方なければいけないと思います。このような1968の展覧会にしても、まだどちらかに、どうしても政治的な資料だけとか、または美術の動きだけというものに、枠にとらわれている感じが、まだします。もう一つは60年代というものを単に日本のものー日本の独自の視点があるということは非常に大切で、日本の68年というのも重要なんですけれどもーそれをグローバルな視点で見るということが非常に重要だと思います。それは今回、東大の若い学生から私が学んだことなんですけれども、彼らから見てとか、同時代的に他のところで何が起こっていたかというものを見ることによって、日本の60年代というものが、より厚みを増して、より興味深いものになっていくんじゃないかと思います。
その同時代性ということで言いますと、その同時代性というのは同時多発的なんですね。例えば今までの歴史ですとパリでパリ・コミューンが起きました、それはシチュエーショ二スト運動があったからです。それがパリを中心として周りの地方に波及していきましたみたいな感じ、または先進的な国で、例えばアメリカでベトナム反戦運動がありました、それがもうちょっと後進国的な日本にも伝わってきました、みたいな、そういう一方向性の歴史認識ではなくて、実はあまり関係のないように見えて、いろんなところでいろんなものが同時に起きていたと、そういう認識が面白いんじゃないかと私は思うんです。
特に、この間香港に行っていまして、香港の1967年の香港暴動というのがあったことを知りまして、それの資料がアジア・アート・アーカイブというところに行って出てきました。

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これは『Who is Guilty of these Atrocities?』このような暴行は誰が責任があるのか、誰のせいなのかという冊子です。これは、今までの歴史では中国共産党に扇動された農民や労働者が決起して、警官隊と衝突して、警官を2名か3名殺害とされています。その時にいろいろデモとかがありまして、警官が市民に非常に暴力をふるったと。それでこういう小冊子が作られたのですが、それと同時にそれを警察側から見た、警察がどのように香港を守ったかみたいな小冊子もありました。たぶんこのような暴力的といいますか、武装的な衝突が起こったのは香港でも67年が初めてではないかと思うんですけれども、これも香港には香港の事情があって、日本にはもちろん日本の事情があるんですけれども、ほぼ同時にこういうことが起きているということが非常に興味深いです。
その上に、1967年のこの暴動を受けてなんですけれども、創建実験学院という非常に実験的な、オルタナティブな教育の場を作ろうという運動が、67年のあと68年に香港で起きました。この学校は67年の香港動乱後に68年に創設されまして、創設に関わったのは香港、台湾のアーティスト、建築家、映画評論家、出版社、これを読むと現代思潮社・美学校に似ているなと思います。1年でポシャってしまって、有志が九龍地区でそのあとも続けたそうなんですけれども、この実験学校も美学校も大きな動乱が起こって、政治的な不安の中で、教育というものに対して問題提起が起きたわけです。前の山本義隆さんの講演会でもありましたけれども、産学協同体質に対する反対、それと大学を解体するとか、『帝大解体』ってありましたけれど、そういうことの提起がなされた。それを受けて美学校もこの実験学校もあったと思うんです。
それなので、元の現代思潮社・美学校に戻りますと、そういう60年代に提起されたものがいまだに、特に日本ではきちんと継承されていないというか、きちんと考えられていないと思いますので、やっぱりその辺のところから考えることによって、60年代を単に昔のことではなくて、今に伝えていけるのではないかと思います。
ちょっと香港のこと戻りますと、この創建実験学校とか、67年動乱の資料が今出てきてアーカイブに入っているというのも、アンブレラ運動が起きまして、今まではとにかくそういうのは中共のせいだとか、暴動だと言われていた訳ですね。中国共産党に洗脳された人たちが暴動を起こした、と。ただ、アンブレラ運動後もうちょっと情報が出てきてから、やっぱりそういう説明は一面的なものにすぎないのではないか、と。映画とか海外からの本とかいろんな情報がすでに香港には60年代にあった訳で、単に中共対植民地政府との対立だけではなかった、むしろ世界的な60年代の運動の中でそれを見直そうと。今そういうインフォメーションがいろいろ出てきています。しかし、香港は一応自治的なことがあるんですけれども、やっぱりその辺を大学教育の中でいろいろやっていこうとすると、中国の方の締め付けがいろいろ厳しい訳ですね。

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ですから、オルタナティブな教育の場を作りましょうということで、これは『Foo tak building』という一つのビルの中に『Art and Culture Outreach』というのをアーティストの人たちがこしらえて、本屋をやったり、そこで出版物も作ったり、ディスカッションをしたりする場所にしています。

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これは『Rooftop Institute』というので、これも香港にあるんですけれども、これもアーティストが自分の家の一番ビルのてっぺんのところで、屋上ですね、屋上を塾みたいなことにして若い人たち、ここで日本人のアーティストも呼んでいるんですけれども、お互いに学習し合うという、そういう活動をしています。

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特にPK Huiさんという、大学教授だったんですけれども、彼はアンブレラ運動以後に大学の専任教授のポストを辞めて、実験教育の場を今、創造しようとしています。『流動共学』という名前で、いろんなところに移動しながらやる教育の場を作ろうと、この『流動共学』はアートの学校というわけではないんですが、わりとアートを中心にしていろんなことをやっています。主催している人たちはHuiさんもそうなんですけれども、年代が上の人が多いんですよ。60代くらいの人が始めて、それで今運営してたり参加してたりするのはほとんど若い人たちです。日本でもそういう形で美学校的なといいますか、真にオルタナティブなー今の教育の枠内で何かを変えるというのもいいんですけれどもーそうではなくて、むしろ今のものに替わる、今にないものを作っていくという、そういう場を作っていくことによって、そして、そこでアートと政治とかを語ることによって、自立学校や美学校、大学闘争の中で提起された問題が、また継承できるのではないかと、そういう風に思っています。

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あと、今日はあまり学生がいないのであれなんですけれど、(笑)これは最近友だちがロンドンに行って、こういう展覧会があったよと写真を送ってきてくれたものです。ここには『Every woman ought never to go out without a hammer in her pocket』女の人は外へ出ていく時はポケットの中にハンマーを持って行きなさいね、と書いてあるんですけれども、これは何かといますと、婦選運動、女性の参政権の運動の資料の展覧会なんですね。

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これは『Window Smashing』、婦選運動というのは、最初は婦人運動家の中流階級の人たちが提唱し始める訳ですけれども、実際に婦選を獲得するためには直接行動しなければだめだった。イーストエンドの貧乏人のクラスの女の人たちが実力行使に出る訳ですね、外に行ってデモをしたりして、それでこのスローガンになる訳です。みんな外に行く時はハンマーを持っていましょうね。そういうことによってしか、規則とかにとらわれずに、運動というかアクションしないと何も手に入らないということです。この展覧会がどこであったかというと、ナショナルアーカイブなんですね。国立資料館です。国立の博物館です。国立の博物館がこういう展示をしているんです。資料をただ並べるだけじゃなくて。日本の美術館や博物館だと常に中立性を求められるんですね。中立な美術はないと思います。中立な展示も意味がないと思います。ですから、こちらでやってらっしゃるベトナム反戦の展示は素晴らしいと思うんですけれども、やはり何かのメッセージを伝えるために私たちはアートや展覧会をするんであって、単に中立的なブツを並べるために展覧会をするのではないんです。
『今の学生たちへ 行動してもいい 規則に従わなくてもいい』とここに書きましたのは、60年代についての講義をしたのは秋学期で、今年の春学期にはフェミニズムの講座をしたんですね。それには日本人の学生も来たんですけれども、大正時代の女性アナーキストの話をした時に、『そういう暴力はよくない』と言うんですね。あと、『フリーラブとか不倫とかするのはよくない』とか、とにかくそういうルールに従わないことをしているから、日本の女性運動はダメだったんですよとか、女子生徒からそういうことを言われて、愕然としました。ルールを誰が作って誰のためにあるのかということをあんまり考えなくて、とにかくルールがあるんだから従わなきゃいけないみたいなことが、とても多いんですよ。そういうことを言った子に対して、私が何か言うより前に、ほかの学生が『それって違うんじゃない』みたいにすごく反論して面白かったんですけれども。今の学生たちというか日本の学生たちとか日本の人に向かって、とにかく何でもかんでも規則に従わなくてもいいということを伝えたいと思いますし、やっぱりこういう風な『Window Smashing』、こういうことを国立の博物館で出来るような、国立でなくてもいいですけれども、私たちの出来る範囲で、こういう形で60年代文化を今につなげて、今のこの状況を変えるようなシチュエーションを作りたいと思います。
ありがとうございました。(拍手)」

司会(佐々木幹郎)
「どうもありがとうございました。大変刺激的な話で(笑)見事にまとめられましたね。素晴らしい講演でした。嶋田さんありがとうございました。(拍手)」

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【質問】
水戸喜世子
「国会前のどこでパフォーマンスをされたのですか?」
嶋田
「国会議事堂の前の門のところです」
水戸喜世子
「別に何か像があって、そこの横に座ったということではないですか?」
嶋田
「あそこは何もないので、椅子を持って行って・・」
水戸喜世子
「何分くらい座られたんですか?」
嶋田
「行く時から金箔に塗っていましたから、何か不審者じゃないですか。(笑)もう向こうからお巡りさんがこっちを見ているなという感じはあったんですけれども、そこで椅子を持って行って座ろうと思ったら、もうパッて取り巻かれて『何ですか、あなたは』ということで・・」
水戸喜世子
「それは新聞にも何も出なかったんですか?」
嶋田
「出ないですね。『写真を撮っているだけですよ』と言ったんですけれども、『ここで写真を撮っちゃいけません』と言われて・・・」
水戸喜世子
「日本以外にはどこでやられたんですか?
嶋田
「日本以外はロンドンの大使館前と、ロスアンジェルスの従軍慰安婦像のところです。機会があればほかでもやりたいんですけれども」
水戸喜世子
「応援します」(笑)
嶋田
「一緒にやりましょう」(笑)(拍手)

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参加者A
「中国人の学生の話がありましたが、毛沢東と文化大革命は中国での評価はどうなんですしょうか?」
嶋田
「どうなんでしょう。一応、毛沢東は毛沢東で別個としてリスペクトして、文化大革命はダメでしたよみたいな感じらしいんですけれども、文化大革命の間に党の文化みたいなものがあって、バレーとかですね。ああいうものが称賛されて、普通のポップ・カルチャーみたいな歌謡曲とか、そういうものは本当に迫害されたですって。ですから、その辺の時代の抵抗としてのポップ・カルチャーみたいなことを、今いろんな映画になったりとか、確か去年、青春の何とかいう映画があったと思うんですけれども、それもバレリーナで共産党主導のバレーはしたくないんだけど、自分のやりたい踊りをするとダメだと言われるみたいな、そういうことの表現とかはできているらしいんですけれども、文化大革命自体の意味を検証するとかいうことは、まだなかなかできないみたいです。」
参加者A
「政治と文化がここのテーマだと思うんですが、ちょっと若い人に、日本人ですが、文化大革命に話をすると、あんなもの評価するのはとんでもないと言うので、やっぱり政治と文化をもっと検証する必要があると思う。」
嶋田
「あと、香港にいた時に、足立・若松映画祭がありまして、そこで赤P(赤軍―PFLP世界戦争宣言)を上映していまして、あれは中国本土では上映できないそうなんです。香港ではできたので、結構本土から若者が観に来ていて、私は観ても分からないんですけれども、一緒に行った香港の人が、彼女は元々上海の人で、ちょっと聞いたりすると、あの人は本土からだと分かると。結構本土の若者が来ていたというんですけれども、あの中でパレスチナの人が毛沢東の本を持っていたりしますよね、そこでみんなドッと沸いたりしたんですね。(笑)ですから、結構そのリアクションが、私はどういう意味かまだ分からないですけれども、まあ面白かったです。」

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参加者B
「フェミニズムについていろいろ研究されているというお話があったんですけれども、60年代から70年代にかけてウーマンリブが生まれたり、田中美津さんとかいろいろあったと思うんですけれども、その頃の運動に対してはどう思っているかお伺いしてよろしいでしょうか?」
嶋田
「今日、本当は来るはずだった青山学院大学の先生のチェルシーさんも60年代の女性についての研究をしているので、彼女の方が詳しいと思うんですけれどもー。フェミニズムの中では60年代は、上野千鶴子さんがおっしゃっているのですけれども、リブやフェミニズムが生まれたのはバリケードの中でおにぎりを作らされていたからだと。それに対しての異議申し立てということで、確かにその部分もあると思うんですけれども、何かそれはあんまり座りがいい話だと、私はちょっと思ってしまうんですね。というのは、ゲバルトロ−ザとか、女子大がいろいろ運動もしていましたし、女の子が実際にそういう破壊活動なりバリケードなりに加わったこともあるし、または、その中でおにぎり作っているけど、おにぎり作って何が悪いというのもありまして、女性がそういうことをしない、したくないからフェミニズムに行ったというのは、それに一理はあるとしても、ちょっとあまりに単純化しすぎているような感じがしてしまいます。フェミニズムの話を特に今若い女性に言っても、さきほども言いましたように『暴力はいけません』ってすぐに言うんですよ。暴力はあまねく暴力で、対抗暴力も無い。この間、セリーナ・ウイリアムスと大阪なおみのテニスの試合で、セリーナが何か言ったりラケット投げたりすることも暴力的だったからよくないとか、そういう感じなんですね。特にフェミニズムだけとはいいませんけれども、女子の中の暴力に対するアレルギーみたいな、暴力いけませんと言っていればいいみたいなところがあるので、やっぱり私はもっと女性と暴力について、特に一番最初に出しましたけれど、戦時中の日本の女性が暴力的でなかったとは絶対に言えないので、むしろその正反対であったので、もうちょっとその辺のところも深く考えていかないといけないと思います。あまりに全部を女性性(非暴力的)、男性性(暴力的)として分けるのは、 もうちょっと別の見方があってしかるべきではないかと思います。」
(拍手)

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(終)

【お知らせ その1】
10・8山博昭プロジェクト関西集会
「世界が見た10・8羽田闘争」
●日時:11月17日(土) 開場:13:30 14時〜17時
●会場:エル・おおさか 5F 視聴覚室
アクセス:http://www.l-osaka.or.jp/pages/access.html
(最寄駅/天満橋駅から徒歩)
●資料代:1000円
講演1 アメリカから見た10・8羽田闘争、及び日本のベトナム反戦闘争
講師:幸田直子(近畿大学国際学部国際学科講師)
講演2 在日コリアンから見た10・8羽田闘争と韓国民主化運動
講師:金光男(キム・クァンナム)(在日韓国研究所代表)

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【お知らせ その2】
50年前の芸術はこんなにも熱く激しかった
「1968年激動の時代の芸術」展
10月7日に行われた10・8山博昭プロジェクト東京集会で講演したウイリアム・マロッティさんと嶋田美子さんが企画に関わっている展示会です。
●会  場:千葉市美術館
●開催期間:2018年9月19日から11月11日

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【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は11月9日(金)に更新予定です。

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重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、重信房子さんの神田カルチェラタン闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ−ブの樹」編集室及び重信さんの了承を得てあります。)

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【初めての御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争 1968年6月】   重信房子
 67〜68年のベトナム反戦を求める闘いが米政府を追い詰め、米国内でも学生・市民の反戦運動が広がっていました。また、欧州でも反戦闘争と労働運動・学生運動が結びつき、革命をもとめる新左翼潮流の活動が汎欧州レベルに広がっていきました。このころのこうした海外の動きは、日本の新聞の国際面でも大きなニュースとなって私たちの興味を引いていたのです。毛沢東の言葉を借りれば、「国家は独立を求め、民族は解放を求め、人民は革命を求める」。60年代を体現し、ことに資本主義国においては、その闘いの質の同時性を表現していました。これまでのソ連型の共産主義・社会主義にとってかわる闘いが各地で討論となり各国共産党批判となっていました。資本主義にとってかわる社会主義計画経済は、資本主義を揚棄する道に進んでいるのか?否。プロレタリアートの独裁とは、プロレタリアートが例外なく社会成員を解放する能力を持つこと、つまり人間解放が故ではなかったのか?それが党独裁の官僚機構へと変質しているのではないか?チェコスロバキアではドプチェク第一書記のもとで改革が始まり、ソ連との矛盾があきらかになっていました。ソ連中心の国際共産主義運動は「平和の共存」の名で各国の階級関係の現状固定をのぞみ、人民の闘いに連帯する国際主義を失っているのではないか?などなど。当時の欧米の新左翼運動や人種差別に反対する運動は、ラジカルな変革を求めていました。5月にパリでは、学生運動と労働運動が結びついた「5月革命」と呼ばれる闘いが始まろうとしていました。
 私たち社学同・現思研は神田・御茶ノ水の大学同士の助け合いの「闘いの季節」の中にいました。現思研の67年68年の活動は、いわば全盛時代で、学生運動の盛んな時代と重なります。
私が、まだ卒論作業に意欲的なころにパリの5月革命の闘いがニュースになりました。「すごい!労働者と学生が一体になって蜂起している!」と新聞、テレビのニュースから学館の仲間たちは沸き立っています。「パリのカルチェラタンの機動隊との攻防はすごいな。あれは学生街だぞ!御茶ノ水街・神田街でも戦えるんじゃないか?!」と大いに話題になりました。
パリの5月、カルチェラタン闘争から1ケ月くらい後のことです。6月には、7日全学連統一行動、6月15日共産主義者同盟の政治集会や6月21日全学連集会が街頭行動としても続きます。東京の社学同の中心として「2・2協定」をのりこえて再び明大も力を増し、中大や専修大と共にラジカルに活動していたころです。私たちの仲間ばかりか、いろいろな友人たちが御茶ノ水から神田一帯のカルチェラタン闘争を、いつかやろうと言い出しました。明大が地理的にも重要な場所にあります。御茶ノ水駅から明大前通りの駿河台下まで解放区にできるからです。
 6月のある日、当時社学同の委員長だった早大の村田さんが現思研に来ました。早大の村田さんと医科歯科大の山下さんが、私の社学同加盟の時の推薦人でした。「おいカルチェラタンやらんか?!パリのカルチェラタンみたいなの。やれるのは、やっぱり明治だろ。中大で全学連の社学同集会をやって呼応させるから」と。全学連統一行動の中で、当時ブントはアスパック(アジア太平洋閣僚会議)反対闘争を、日米によるアジア政治経済支配として重視していて、中核派とは違う党派性として主張していました。「4・26の国際統一行動は、機動隊に御茶ノ水駅で封じ込められたから、今度はゲリラ的に闘って、解放区を作ろうぜ」と村田さんは気軽に言います。
「でも、とっかかりがないと・・・。どうやってカルチェラタンのような解放区が出来るかな」みんなで語り合いました。「やったら何とかなるって」といつものブントの官僚的な説得ですが、実は現思研のみんなもやりたいのです。昼間部に頼まず、夜間部に頼んできたのは、昼間部は中大全学連社学同系集会に参加動員のためだったかもしれません。
とにかくみんなでワイワイ話し合って、「やってみよう」ということになりました。社会的な影響や責任は問われるな・・・と思いつつ、新宿駅のフォークソングの広場まで制圧しようするこの間の警察の強権や、日大を含めた街頭抗議も続いていて、「4・26闘争のお返しとして駅前交番を占拠して赤旗を立てよう」などと、ゲリラ戦術になると、みんな次々とアイディアが浮かびます。二部の学生が授業の始まる直前の5時ころには、御茶ノ水駅から明大前通りは、昼間の学生あわせて歩道をはみ出すほどの人でいっぱいになります。その時を狙おうということにしました。それに、私たちの多くは、仕事をもって勤めていて、昼間から参加できる人は少ないのです。中大で行われる全学連社学同の決起集会も夕方には呼応できるし、5時半の授業開始前に闘いを始めることにしました。

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(8号館)
明大前通りとマロニエ通りの角に立つ8号館は学生会館の旧館で、各学部自治会室、生協事務室、それにサークル部室が入っていて、ちょうど、明大前通り側に小さなドアがあります。この8号館のドアの内側に5時ごろ集合することにしました。それまでに、このドアの近くに長椅子と長机をできるだけ多く集めて積んでおくことにし、昼間部の仲間も手伝ってくれることになりました。学館旧館(8号館)の明大前通りに面した小さなドアは、すぐ歩道から車道に続いているので、5時になったら一斉にそのドアから机と椅子を車の通行を止めるために車道に並べて、バリケードにしようということにしました。この明大前通りも車の往来はひっきりなしです。それには、たくさんの椅子と机がいるな・・・などと話していました。
6月21日、初のカルチェラタン闘争が始まりました。この日、現思研や居合わせた社学同の仲間や政治的には関係ない友人たちも、午後のうちに、教室から長椅子と長机を持ち出して、学館旧館ドアの内側にきれいに積み上げました。入り口は狭いけど奥行があり、いくつも積むことはできたし、通路も確保しているので、出入りの邪魔にはなりません。「正門のバリケード封鎖もこんなもんだった。これくらいで大丈夫だろう」と話しながら準備を終えました。
5時ごろ、現思研の仲間ははりきっていたけれど、職場からまだ戻ってこれない人もいました。どうしようか。入学して間もない法学部の樫村クンが、「決めたとおりにやりましょう」と主張したので、彼を目直して、そうだね、そうしよう、と、そこにいた10人くらいの者たちで2人1組になって、まず長机を運べば道路に5つの机を横に並べられるというので、じゃあ、始めようと決断しました。樫村クンらが、まず、少し場違いな感じて恥ずかしそうに長机を道路に運びだして、明大前通りの真ん中に置きました。途端に激しいクラクションが鳴りわたりました。一人が赤旗を横にして、工事現場のストップのような合図をして笛を吹き、車を止めようとしました。怒った車の運転手は徐行し、クラクション鳴らしながら次の机が運ばれる同じころ、最初の机に前進して接触し、机を倒しました。本当にアッという間でした。ピ−ッと笛と共に、あちこちから学生たちが道路に飛び出してきて運転手の車を囲み、もたもたしている私たちの机を奪うと、さっさとバリケードを作り始めたのです。そして赤旗に誘導されて車は中華料理「味一番」のある狭い通りへ迂回し通行するよう学生たちが采配しています。
中大中庭で、社学同のアスパック粉砕・東大闘争支援の全学連集会を行っていた1,000人近い全学連部隊がタイミングに合わせて行動を開始したらしい。中大では午後から、全学連副委員長の中大の久保井さんや、同志社大の藤本さん、明大学生会中執委員長米田さん、東大全共闘、160日ものストライキ中の医科歯科大など、全学連の社学同系の部隊が、独自の集会を開いていました。機関紙「戦旗」によるとヘルメット部隊1,000人、集会3,000人とのことです(当日の毎日新聞では500人とのこと)。それによると、集会を終えて4隊に分かれてジグザグデモで街に繰り出したのです。それにあわせて、私たちのバリケードが解放区がはじまったのです。

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あたりを見まわすしと、「待ってました!」とばかり、学生たちや勤め帰りの人らしい人々も、バリケードを補強して、どんどんその机・椅子を担いで御茶ノ水の駅の方へと移動して解放区の陣地を押し上げて広げています。ふりかえると、駿河台下では、正門よりずっと向こう側にむかって交差点のところまで机を運んでいる人もいます。工事用の看板なども集めてきて、たちまち御茶ノ水駅から駿河台下まで、またたく間に解放区が出来上がってしまいました。車の通らない「歩行者天国」の道路をジグザグデモがあちこち繰り出しています。さっそく立看に「解放区」・「反安保反戦の砦神田カルチェラタン戦闘中」など、御茶ノ水駅近くの通りの真ん中に立てました。あたりは万を超える人々が道路でデモしたり、踊ったり楽しんでいました。当時の「戦旗」には、こんな風に当日のことを記しています。
「6・21全学連駿河台で2万余のバリケード集会。
70年の新局面切り拓くASPAC(アスパック)粉砕第二波機動隊を圧倒。
全学連集会は中大中庭で1,000人のヘルメット、3,000人の大集会として行われた。2時45分、久保井司会で開始、藤本基調報告、東大時計台占拠で全学ストを喚起した東大全学闘争委員長、160日スト中の医科歯科大、熊本大の原島委員長、明大中執からの決意表明。4時半に4隊に分かれて中大を出発。神田駿河台一帯をジグザグデモし、一梯団が医科歯科への支援デモを敢行する最中、その三梯団はバリケードを駿河台通りの街頭に進出させる。パリのラテン区に比すべき学生の街神田一帯は、まさに反戦闘争の砦として出現する。5時半、機動隊は御茶ノ水駅、駿河台下の両方向から全学連の部隊を挟み撃ちしようと攻めてくる。激しい投石の雨を降らすが、機動隊はバリケードをトビで破壊して迫てくる。一進一退、数千の学生・市民・労働者もバラバラと投石。機動隊後退。再びバリケードが出現し、御茶ノ水駅まで押し返す。機動隊はいったん、御茶ノ水橋を渡り、順天堂大横まで総退却。この時、医科歯科大5階の学生・研修医が占拠している医学部長室辺からスピーカーでバリケード戦に結集し、連帯の呼びかけ。機動隊は態勢を立て直し聖橋口から御茶ノ水橋に配置し、横と正面からバリケードの破壊。『突如』出現した街頭バリケードがASPAC、70年安保粉砕の新たな戦術であることを理解して、万余にふくれた大衆は『機動隊帰れ!』のシュプレヒコール」と興奮気味に記録しています。

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実際、当日は、みな、新しい闘い方に大興奮でした。いったん、バリケードで解放区ができると、あちこちからうっぷん晴らしの野次馬含めて、万余の学生たちがバリケードと投石で陣地を広げます。御茶ノ水駅前交番も避難し、無人となったのです。すかさず明大の仲間が赤旗をそこに掲げました。広々とした明大前通りにフランスデモで道いっぱい手をつないでワルシャワ労働歌や国際学連の歌を歌いながら行進しては機動隊へと投石。今ではあの一帯はアスファルトで固められてしまいましたが、当時はレンガや正方形の敷石で歩道がおしゃれだったのです。この敷石をみんなで掘り起こしては、車道で力いっぱい落として割り、礫(つぶて)にして抵抗しました。ポケットいっぱいにつぶてを抱えては、最前線から機動隊へ投石を繰り返しました。機動隊もいたちごっこを止めて遠巻きにし始めたので、その間、赤ヘルメットの大衆集会、歌やジグザグデモが夜まで続きました。8時半すぎには、社学同部隊は撤収したのですが、野次馬や一般の人たちは、機動隊との攻防に普段のうっぷん晴らしもあってか、ずっと闘っていました。夜学授業が終了する10時にも、学生会館内には勝利の戦術に「やった!やった!」と喜ぶ人々でいっぱいでした。
これ以降、カルチェラタン闘争のスタイルは、何度も御茶ノ水駅のこの明大前通りから駿河台下までを解放区として戦う戦術を繰り返しました。今からは考えられない「騒乱」ですが、当時の私たちは街頭戦の新しい闘い方を提示する一翼を担ったことで、現思研としては達成感で意気揚々でした。今から見れば無謀の謗りを免れない行為といわれるでしょうが、当時はこういう楽しい開放感と、一つの戦術の小さな勝利感と、人々との連帯感が、学生運動の拡大をつくりだしていったと思います。東京における社学同の拠点は、この地域、明大、中大、医科歯科大、専修大、東大医学部、慈恵医大など、御茶ノ水と神田にありました。その分、社学同仲間は何かあるたびに、中大と明大の学館に集まって語り合ったものです。
68年は、このように、反戦闘争が社会的にも日常化していたので、佐世保の住民や、王子野戦病院に反対する住民、三里塚の農民と共同し、国会の社会党、共産党などの野党勢力の力もあって、正義感を持って闘いを続けえたのだと思います。公正・正義を求める闘い、その一員として参加できることが喜びであり、闘争は楽しいと実感していた時代です。全面的に肯定しえない点もありますが、当時は非暴力直接行動の中で、様々な野党勢力と共闘しながら戦おうとする、謙虚さがありました。
しかし問題は、その後、私たち社学同や三派系勢力が「図に乗って」いき、佐世保や王子、三里塚など、住民の支援と連帯に支えられて闘いえたことを、自分たちの力と自惚れて、運動の急進化へとまっしぐらに進んだことです。党派による戦術の急進化の競合は、後の分裂や運動の否定面を広げていきました。その苦い後の教訓とともに、68年の朗らかな闘いを思い返します。
(終)

【お知らせ その1】
1968年6月21日の神田カルチェラタン闘争を報じた「戦旗」137号(1968.6.25)をHPにアップしました。
新左翼党派機関紙・冊子
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html ;

【お知らせ その2】
50年前の芸術はこんなにも熱く激しかった
「1968年激動の時代の芸術」展
10月7日に行われた10・8山博昭プロジェクト東京集会で講演したウイリアム・マロッティさんと嶋田美子さんが企画に関わっている展示会です。
●会  場:千葉市美術館
●開催期間:2018年9月19日から11月11日

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【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は10月26日(金)に更新予定です。

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重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、前田祐一さんの10・21防衛庁闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ−ブの樹」編集室及び前田さんの了承を得てあります。)

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【1968年10月21日 防衛庁は燃えているか!】
日本はベトナム北爆の基地提供国、防衛庁に巣食う戦争犯罪人を告発せよ!
10.21防衛庁突入総指揮、よど号ハイジャック共謀共同正犯 前田祐一
 1968年は、1月のベトナム民族解放戦線のテト攻勢、2月の中大学費値上げ白紙撤回から始まった。米軍・南ベトナム軍に対する北ベトナム軍・民族解放戦線のテト攻勢の勝利は、世界を動かし、パリの5月革命(カルチェラタン)、ドイツ赤軍結成、アメリカブラックパンサー(4月にキング牧師が暗殺されている)、8月プラハの春、10月日本の防衛庁突入へと連なる歴史があったと思う。過渡期世界論が第2次ブンドの指導理論となったのも1968年であり、私達は、世界同時革命が始まっているかのような予感さえ感じていた。前年に10.8佐藤訪ベト阻止羽田、11.12佐藤訪米阻止羽田を闘い、2月−3月には、新東京国際空港公団三里塚現地事務所突入闘争を闘っていた。成田については、当時の我々は、東大都市工学部大学院との事前の共同研究から、新しい国際空港は、アジアのハブ空港にするべく東京湾上に作るべきと主張し、当時の東京都知事が美濃部亮吉氏であったことを奇貨とし、全学連=東京都の統一戦線を形成し、新国際空港を成田に建設することを阻止しようとしていた。もし50年前、新東京国際空港が東京湾上に建設されていれば、その経済効果は計り知れないものがあった筈である。利権に群がる愚かな政治家が、失われた50年を生み出し、国家に多大な損害を与えたのである。万死に値する行為であると言わざるを得ない。そうした日々の中で10・21が近ずいて来ていた。50年前、日本の学生運動を最前線で担っていた我々は、所謂、団塊の世代のトップランナーであり、戦後民主主義と憲法9条を頭から叩き込まれ、「聞けわだつみの声」第5福竜丸「ビルマの竪琴」「野火」「火垂るの墓」を原体験に持つ世代であり、戦争を忌避する尋常ならざる感覚を持っていた世代であった。
そうした感覚を持っていた我々は、必然的に抗議の意思をぶつけるターゲットは、ベトナム戦争の片棒を担ぐ国家の中央権力であり、その象徴としての防衛庁こそターゲットにすべきものと考えていた。私は、10月に入って間もなく。10.21の総指揮を早大のHと2人でやれとの密命を受け、一人で密かに、乃木坂周辺の下見、防衛庁建屋の構造、突入口、部隊編成、アクセス方法の調査等、周到な準備に入っていた。
しかしながら、他の党派が新宿闘争を主張していたことから、ブンド内の幾つかのグループも新宿を言い始め、その後の第2次ブンド分裂の予兆が表面化した。その最終作戦会議は中大学館で開催され、標的は防衛庁か、新宿か、それともう一つ、火炎瓶を使うかどうか、殴り合い寸前の攻防となった。
新宿を主張する複数の意見があったが、多数の群衆・市民がいることによる発信効果に論理的拠り所を置く主張が多かったが、戦略を間違えた議論であると多くの者には映り、新宿の主張は怒号でかき消され、ブンドの組織決定は中央権力攻撃・防衛庁に決まった。実際には、当日、新宿に行った部隊も少数いたとのことだが、詳細は不明。肝腎な火炎瓶を使うかどうか、この議論は、誰もが未経験であり、投げれば放火罪が適用され、重罪が科されることが明白であることから、総指揮をする自分としても腰砕けの主張しかすることが出来なかった。結論として防衛庁には使わないこととなったが、標題に書いた通り、もし、あの時防衛庁に火炎瓶が投げられ、防衛庁が炎上し、焼失していたら、歴史は、大きく変わっていたであろうと身震いする。歴史の事実は、この防衛庁から3ヶ月後の1969年1月、東大安田講堂攻防戦で火炎瓶が登場し、7月の第2次ブンド分裂、赤軍派誕生へと歴史は動き続ける。
事前の下見を続けていた私は、当時乃木坂にあった防衛庁が、左右から挟み撃ちにされれば、どこにも逃げ場がない攻めにくい地形で、しかも防衛庁正門扉は、かなりの厚みの鉄扉で簡単には壊れないことを思い知らされていました。従って如何に短時間で正門扉を破壊し突入出来るか、もたもたしていれば、左右挟み撃ちで全員逮捕される。鉄扉を効率的に破壊する何かが必要だ、従来のカッコ付けだけのすぐ折れる角材では役に立たない。そこで考えたのが、工事現場にゴロゴロしていた丸太棒を拝借し、最も戦闘的な部隊が、連続して破壊打撃すれば鉄扉の一部位、曲がったり壊したり出来る筈だと考えたのです。

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1968年10月20日深夜、直系30センチ長さ10メートル位の丸太棒20本を調達拝借し、中大学館内に隠匿しました。翌、10月21日、中大中庭で全学連委員長:藤本敏夫のアジテーションから始まり、総指揮の私から、予め指示した通りのルート、時刻に部隊別に、乃木坂・防衛庁に集結せよ!詳細は現場で指示する旨絶叫し、20本の丸太棒を肩に担いだブンド精鋭部隊が中大中庭を出発し防衛庁に向かいました。

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最精鋭部隊を率いる私は、御茶ノ水駅聖橋口を正面突破し信濃町駅下車、明治公園前を乃木坂へ進軍、防衛庁正門まで何事もなく到着、続々と別ルート部隊も集結、正門鉄扉に丸太棒を担いだ精鋭部隊が何十回となく体当たりし、突入口を作るべく格闘しました。防衛庁内からは、高圧の放水が巻き散らされ、1時間以上体当たりを繰り返しましたが、正門鉄扉はビクともしません。このままでは、挟み撃ちにあって全員逮捕され、何も出来ないまま終わってしまう。判断が迫られていました。正門は壊れない、正門を乗り越えて突入し、中から開けられるかやってみるしかない!早大のHが、最初に乗り越えました。正門を乗り越えて中から開けろ!

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しかし、正門を乗り越えた向こうには、自衛隊の屈強な精鋭が木銃を構えて待機しており、一人一人拘束され連行されていきました。ほぼ同時刻、機動隊が動きました。左右からの一斉突撃に会い、多くの学生が負傷し身柄を連行されていきました。1968年10・21は無残に終わり、私も逮捕されました。
(終)

【お知らせ その1】
1968年10・21防衛庁闘争を報じた「戦旗」号外(1968.10.25)をHPにアップしました。
新左翼党派機関紙・冊子
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【お知らせ その2】
10・8山博昭プロジェクト2018年秋の東京集会
「異なった視点からの10・8羽田闘争」

●日 時 2018年10月7日(日)17;30〜20:30(開場17:00)
●会 場 主婦会館プラザエフ9階「スズラン」(JR四谷駅下車)
●参加費 1,500円
第一部 講演
「政治のターニングポイントとしての10・8羽田」
ウイリアム・マロッティ(UCLAカリフォルニア大学ロスアンゼルス校准教授)
「60年代をどう歴史化できるのかー外からの視点」
嶋田美子(アーティスト)
第二部 ベトナムからの挨拶
フィン・ゴック・ヴァン(アオザイ博物館館長)
チャン・スアン・タオ(ホーチミン市戦争証跡博物館館長)

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【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は10月12日(金)に更新予定です。

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重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、水谷保孝さんの佐世保闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ−ブの樹」編集室及び水谷さんの了承を得てあります。)

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【1968年は佐世保エンプラ闘争で始まった】
水谷保孝(元佐世保エンプラ闘争被告)

●日本のベトナム反戦の広さを示す
 世界史的な「1968年革命」から50周年となる本年2018年、私にはあの高揚した佐世保エンプラ闘争の記憶が大きな感動とともに蘇える。
当時、アメリカのベトナム侵略戦争は南ベトナム解放民族戦線の驚異的な戦闘によって苦戦に陥り、それゆえ北爆、枯葉剤、ナパーム弾の大量投下を強め、ベトナム人民に残酷な犠牲を強いていた。そのなかで、「動く核基地」原子力空母エンタープライズ佐世保入港は、日本を出撃基地としてベトナム戦争を一層激化させるものだった。よりによって広島県とともに原爆の惨禍に苦しんできた長崎県に核空母を寄港させることは、日本のベトナム参戦と核武装化を決定的に進めるものだった。
1966年12月に再建された全学連(三派と称されるが、社学同、社青同解放派、マル学同中核派、ML派、第四インターの五派)は、幾多の闘いを経て、内部での対立と亀裂を抱えつつ、1967年12月、エンプラ寄港実力阻止方針を決定した。ベトナム侵略戦争への加担を許さない、けっして加害者にはなるまい、70年安保闘争と日本帝国主義打倒の展望をつかむぞ、という強い決意がそこにはあった。
明けて1月の15日、警察・機動隊は、法政大学から出発した中核派系学生のうち131人を問答無用で大量逮捕した。16日に博多駅事件という同じ予防検束に出てきた。14日には、前年の10・8羽田弁天橋の闘いで京大生・山博昭君を警棒乱打で虐殺しておきながら、中核派2学生を「奪取した装甲車で轢き殺した」とでっち上げ逮捕した。かつ破防法適用恫喝が加えられた。
16日、全学連は、九州大学教養部に入構することができ、学生会館で総決起集会をもち、闘いの意味と獲得目標をめぐって激論を交わした。
以後、17日の平瀬橋の闘い、18日の佐世保橋と米軍住宅地の闘い、19日の佐世保橋の闘い、20日の佐世保市街地での一斉カンパ行動、21日の佐世保橋の闘い、22日のカンパ行動、23日のエンプラ追い出し闘争と続いた。それは、間断なく発射される催涙弾、佐世保川の水(佐世保湾から入り込む海水なのだ)をくみ上げ催涙剤を混ぜた大量の放水、特殊警棒の乱打、背後からの襲撃、倒れた者への集中的な攻撃、報道陣や市民への無差別の警棒乱打、市民病院や民家への見境のない乱入という常軌を逸した警察暴力との闘いだった。
全学連は、警棒で殴打され、催涙弾で撃たれ、催涙液で眼を傷め、体中が火傷する状態になりながらも、血を流し、炎症の痛みをこらえ、涙を流しながら前進をくり返した。めざすは佐世保基地突入、基地内集会だった。17日以降の激突、凄まじい過剰警備の様子が報道されるや、西日本、東日本から学生が自治会ごと、グループ、個人で続々と佐世保に駆けつけた。
地元九州の労働者、労働組合が大挙結集し、18日佐世保市民球場から5万人デモ、21日松浦公園から2万人デモを繰り広げた。反戦青年委員会がその牽引車となった。何よりも、佐世保市民が数千・数万の規模で過剰警備を弾劾し、機動隊に立ち向かった。

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●三派の共闘と対立
断片的だが象徴的な若干の事実を記しておきたい(以下、敬称略)。
17日、九州大学を出発した中核派は、別途用意した角材を入手する作戦に失敗した。窮した秋山勝行(全学連委員長)はブントの成島忠夫(同副委員長)に相談したところ、成島は自分たちが確保する予定の角材の一部を中核派に譲ることを快諾した。博多駅からやがて鳥栖駅に着くと、ホームで待機していたブントの別動隊が角材を車内に持ち込んだ。成島がホームを走って中核派の車両に乗り込み、角材を梱包した束を二つか三つ示して、「これを使え」と叫んだ。吉羽忠(同国際部長)が「有難い」と感激の声をあげ、成島と抱き合った。「中核派、頑張れよ」と成島が応じた。私もブントの別動隊と固く握手し、健闘を誓いあった。聞くと、佐賀県(あるいは熊本県)出身のブント同志の実家が山を所有しており、そこから新しく角材を切り出したとのことだった。
 ブントから譲られた角材をもって、中核派は最初の平瀬橋の激闘を闘うことになったのだ。 
 全学連各派は、対権力の闘いで競い合い、大学内や全学連集会の場で何かにつけて殴り合っていた。エンプラ闘争でも、九州大学の学生会館での決起集会で何がきっかけかは忘れたが、演壇上で激しく衝突し、殴り合いを演じた。だが、前記のような闘う者同士の友情も忘れてはいなかった。

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●装甲車を奪取した佐世保橋上の党派闘争
 21日は、社会党・共産党、総評が松浦公園で集会、その後に佐世保橋を通過し基地の横を行くデモが予定されていた。全学連は、松浦公園の集会に参加し、デモの先頭に進み出て、佐世保橋に向けてデモした。かなりの角材を確保していた。
 佐世保橋で、全学連は繰り返し突進した。機動隊が攻めてくると退き、それを数万人の市民が包み、守った。機動隊はそれ以上前に進むことができず退くと、また全学連は佐世保橋に進み、機動隊の前面に激突した。やがて、佐世保橋と川の東側一帯は解放区となった。その間、労組のデモが佐世保橋東詰めに到達した。
学生と市民と労働者のものすごい圧力を受けた機動隊は後ろに退いた。全学連は猛然と突進し、機動隊に肉薄し、投石し、角材と旗竿を振るい、これをついに橋の西詰まで後退させた。彼らは装甲車2台を部隊と一緒に下げる余裕がなく、乗り捨てていった。全学連は装甲車上に登り、旗を大きくうち振った。装甲車を奪ったのだ。
 なおも全学連は機動隊との激突を続けた。その状態がしばらく続いた時、奇妙なことが起こった。デモの先頭で肩を並べて角材を振るっていた解放派の顔見知りの指揮者が、「社会党の闘争本部が、労働組合のデモを佐世保橋に進め、前に出るから、学生はプラカードを捨て、投石をやめ、装甲車から降り、後ろに退けと通知してきた。われわれはそれに従う。中核派も従ってくれ」と申し入れてきた。私は即座に拒否した。「市民と労働者と学生が一体となって佐世保橋を占拠しているではないか、基地突入へともに闘っているではないか、そのときに学生に闘いをやめろというのか、解放派は親(社会党)からやめろといわれたら従うのか、それが解放派の正体か」と怒鳴った。たちまち殴り合いになった。周辺にいたそれぞれの活動家たちが角材で殴り合った。
私は、装甲車の上に上がり、中核派の隊列に向って、「解放派が進路を妨害している、解放派を粉砕して前進するぞ」と二度三度、呼びかけた。そして装甲車の上から下にいる解放派のヘルメットに向って「解放派はどけ」と叫びながら、旗竿で何度も突いた。その顛末はよく憶えていないが、解放派の方から橋の東詰めに退いたのではなかっただろうか。
敵機動隊の面前で党派間ゲバを演ずるとは思ってもみなかったことだった。

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●中核旗、基地内走る
そのさなか、下から「水谷、早く降りてこい」という声が聞こえた。車の上から降りると、彼は声をひそめて、「本多さんの伝言だ。佐世保川を見ろ。そういえばわかる、とのことだ」といった。私はハッとなり、そっと佐世保川の川面を見た。すると、干潮時となり、川の水位がぐっと下がっていた。夕闇が降りつつあった。
私は赤松英一(京都大)とK(横浜国大)を探した。赤松はすぐ近くにいたが、Kの所在がわからない。だが時間がない。私と赤松は、中核派集団のうち後方にいる約100人に5列縦隊のスクラムを組ませた。そして、「わっしょい」の掛け声で先頭の向きを逆にぐるっと回して、橋の東詰めに向けてデモし、袂から右に向きを変え、川下方向に150メートルほどデモした。ここなら歩いて渡れる。川幅は約50メートルだ。デモを止め、肩車に乗って演説した。
「見ろ。佐世保川の水位が干潮で下がった。今から川を渡ろう。鉄条網を越えたら米軍基地だ。念願の佐世保基地突入を今、やるぞ」と。全員が歓呼の声を挙げた。数人が岸から飛び降りるのを見て、私は中核旗を担いで、川を渡った。ばしゃばしゃと水しぶきがあがった。向こう岸に着いた。有刺鉄線が身体を突き刺す痛みを感じながら、一気に高さ2メートルの鉄条網の上に乗り、旗を大きく打ち振った。見ると、デモ隊の大半が元の岸に残っている。三〇人ほどが川を渡ったが、鉄条網を越えた者は数人しかいない。私は「早く来い、基地に入れ」と手を振り、叫んだ。
先に基地内に入っていた赤松が角材を振り回しながら、「早くしろ。機動隊が駆けつけてくるぞ」と叫んだ。私はすぐに鉄条網の上から飛び降り、旗を掲げて走った。はるか右前方に十数人の刑事と機動隊員が駆け寄ってくる姿が見えた。左前方の小高い丘に教会があった。その前には、カービン銃をもった米兵が二人、猟犬を従えていた。私と赤松は「よし、あっちだ」と米兵に向って走った。「カービン銃で撃つなら撃ってみろ」と心の中で叫んだ。
驚いた様子で立ち尽くす米兵に近づいた地点で、刑事らが襲いかかり、乱闘となった。われわれは組み伏せられ、逮捕された。刑事たちは手錠を持っていなかった。よほど慌てていたのだろう。基地内に侵入したのは結局、二人だった。
佐世保橋上では、その間も全学連、労働者、市民と機動隊との激突がくり返された。

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●政治局が現場に立っていた
 佐世保闘争では、各派の活動家は誰もが勇敢だった。ブントは、折りしも一気に燃え上がった中央大学の学費闘争に力を注ぎ、そのため佐世保現地には西日本勢以外には参加は少なかった。それでもブントは、角材調達で一日の長があり、しっかり武装して果敢に機動隊に立ち向かった。解放派は、三池闘争の地でもある九州は自分たちの本拠地という意識が他派に比べて強く、身体をはって闘う決意に満ちていた。
とくに感嘆したのは、19日である。この日、解放派は前夜、佐賀大に入り、いち早く佐世保に登場した。中核派が九大から佐世保橋に到着したときには、すでに解放派が機動隊との激闘を重ねていた。高橋孝吉(全学連書記長)を先頭に、丸太を抱えて猛然と機動隊に激突していた。それを何度も繰り返した。機動隊の壁がどっと崩れ、解放派の隊列が機動隊の海に突っ込んでいった。
私は「ああっ、この手があったか。解放派にやられたな」と思った。この日、中核派は立ち遅れていた。
とはいえ、「佐世保の1週間」でスポットを浴びたのは中核派だった。私はその理由は、各党派の最高指導部の構えの差だと思う。中核派の上部組織・革共同の政治局は、本多延嘉書記長を先頭に佐世保に乗り込み、常に現場に張り付いていた。しばしば伝令をとおしてデモ指揮者に指令を出した。
また事前には、政治局の指導のもと、佐世保現地調査が行われた。その一つとして、佐世保川の最下流は佐世保湾の海水で浸されており、潮の満干によって川の水位が大きくちがうという、佐世保市民なら誰でも知っている事実を現地で教えてもらっていた。干潮時には川を歩いて向こう岸、つまり基地フェンス前に行けることがわかっていた。数十人の中核派指揮者団は、最後の手段として、夕刻時の佐世保川渡河の秘策を発動するならば必ず基地に突入できるという確信をもっていた。指揮者の強い確信はデモ隊全員に受けとめられ、伝播するものだ。
この小さな戦術を含め、政治局が現場に立ち、組織の命運をかけていることを感得した数十人の指揮者団と全参加者がベトナム反戦の正義に揺るぎない確信をもったことが、機動隊に惨めにうちのめされ、催涙液でひどい痛みと苦しみを味わってもまったくへこたれなかった一つの要因だったのではないかと思う。

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●エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民
 50年後に佐世保エンプラ闘争を検証すると、その歴史的意味が当時のとらえ方とはやや異なって発見される。
 当時、「佐世保現象」ということばが生み出された。連日、何千何万という市民が学生を包んで、機動隊と対峙した。市民が機動隊の暴力行使に身体を張って抗議し、機動隊の囲みから学生を救い出し、また自ら石を投げ、棒を振るう人たちもいた。全学連が街頭カンパに出ると、カンパ箱代わりのヘルメットに次々と多額のカンパが投ぜられた。
 佐世保市民は全学連の単なる応援団ではなかった。戦前・戦時下の軍港佐世保の歴史、被爆県長崎の経験、その後の「米軍基地の町」の体験から、核戦争への強い不安と怒りを共有していた。当時の新聞報道にもそれを示す市民の動き、怒りの声がいたるところに記録されている。
 そのなかから福岡ベ平連(石崎昭哲事務局長)などが誕生した。何よりも2月19日、佐世保ペンクラブ代表の矢動丸廣氏の呼びかけで「19日佐世保市民の会」が生まれた。市民の会は毎月19日、市内デモを続け、50年後の今も持続している。半世紀を越えて営々と反戦の意志を反復表明する、このような市民運動はどこにもない。静かな、しかし驚異的なほど強靭な反戦、非戦の運動である。
 矢動丸氏は、全学連のエンプラ裁判では特別弁護人を務め、長年にわたって私たち被告学生を激励し続けた。矢動丸氏は、戦前・戦中は佐世保女子高校教員を務め、その後、戦後早くに井上光晴らと郷土雑誌『虹』を創刊するなど、地元の文学者として敬意を払われていた。
同裁判の地元の弁護人・小西武夫弁護士は、戦時中、海軍法務大佐として軍法会議の法務官であった。辛い判決を下さざるをえなかった戦争体験から、戦後、非戦を誓ってクリスチャンとなり、エンプラ闘争以後、全学連の闘いに公然と支援を寄せた。
ところで、エンプラは1月22日、佐世保を出港した。ベトナム侵略戦争が激化するなか次の寄港が日程に上るのは明らかだった。それについて、佐藤栄作首相の側近中の側近、木村俊夫官房長官は「今回の寄港にともなう教訓と国内での反響、とくに佐世保市民が警備陣に対してある程度の批判的な動きを示した点を重視したい」と、慎重な姿勢を示したのだった(毎日新聞、1968.1.22)。
実際、その後15年にわたって、エンプラはついに佐世保に入港することはなかった。1983年に再度来たときは、すでにベトナム戦争はアメリカの歴史的敗北をもって終結していた。
半世紀という長い眼でみたとき、佐世保エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民だった。政府権力からみると、全学連の闘い以上に、佐世保市民の存在こそ脅威だったのだ。

●ラディカル左翼の総括の一視点
 私は当時からずっと、中核派セクト主義の急先鋒だった。その私の苦い反省も含めて、1960年代〜70年代のラディカル左翼を総括するとき、三派全学連や反戦青年委員会における党派関係、とりわけ中核派と解放派の党派闘争の問題を厳しく、かつ率直に自己検証することは不可欠の作業であろう。われわれは対権力の闘いでの戦友関係であった。だが、党派の創立あるいは本質において水と油のような関係でもあった。だからこそ、そこをのりこえて共闘関係を形成するにはどうすればよかったのだろうか。別のところでも書いたが、われわれが抱いていた党概念のコペルニクス的転換が求められている。
 半世紀という長い歴史のスパンで総括することで、階級闘争の全体像とそこで世界革命・アジア革命・日本革命をめざしたわれわれの存在意義と大きな誤りもみえてくるのではないだろうか。
 最後になりましたが、この度、執筆の機会を与えてくれた重信房子さんと『オリーブの樹』編集部に心から感謝申し上げます。(2018年8月10日)

【お知らせ その1】
10・8山博昭プロジェクト2018年秋の東京集会
「異なった視点からの10・8羽田闘争」

●日 時 2018年10月7日(日)17;30〜20:30(開場17:00)
●会 場 主婦会館プラザエフ9階「スズラン」(JR四谷駅下車)
●参加費 1,500円
第一部 講演
「政治のターニングポイントとしての10・8羽田」
ウイリアム・マロッティ(UCLAカリフォルニア大学ロスアンゼルス校准教授)
「60年代をどう歴史化できるのかー外からの視点」
嶋田美子(アーティスト)
第二部 ベトナムからの挨拶
フィン・ゴック・ヴァン(アオザイ博物館館長)
チャン・スアン・タオ(ホーチミン市戦争証跡博物館館長)

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【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は9月28日(金)に更新予定です。 

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