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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。
今回は、前回に引き続き、2017年7月15日(土)、東京・渋谷の「渋谷ロフト9」で開催された、浅間山荘から45年「連合赤軍とは何だったのか」をテーマにしたシンポジウムの発言概要を掲載する。
前回はシンポジウムの第一部を掲載したが、今回は第二部である。
以下、シンポジウムの呼びかけ文である。

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【呼びかけ文】
 連合赤軍事件から45年の月日がたちました。
 余りにも早く若い生涯を終えねばならなかった仲間たちと、私たちが冥界で会いまみえる日もそう遠くないように思われてきた今日、連合赤軍とはなんであったのかについて、議論したいと思います。
 連合赤軍事件に対する世の中の関心は続いています。
 BS朝日により2時間枠の番組が制作され、好評を得て再放送もされました。
 桐野夏生さんの『夜の谷を行く』は、「山で子を産んで育てる」という革命左派の夢想的な思想をテーマとして書かれ、好評です。
 事件の異常さ、悲惨さをセンセーショナルに語るのではなく、その背景と思想を深く掘り下げようとする姿勢が見て取れます。
 5年前のシンポジウムでは、「当事者が語る」会として、さまざまな人たちの質問に答え、これまで考えていたことを語りました。
 今回は、より深く事件そのものの本質に迫りたいと思います。
 背景となった戦後の政治史のなかでの位置を振り返り、さらに、映画としてこの事件を表現した人々の思いを聞き、また、漫画や小説の形式でこの事件の本質を追求した作家たちの話に耳を傾けたいと思います。
  この事件のことを深く考え、教訓を後世に残さねばならないと考えている方々の参加を広く呼びかけます。
 2017年6月
               連合赤軍事件の全体像を残す会
開場:12:30 開会:13:00
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●構成
第1部 戦後史の中の連合赤軍
 白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)
 鈴木邦男(一水会名誉顧問)
 青木理(ジャーナリスト)
第2部 映画がとらえた連合赤軍
 足立正生(「実録連合赤軍の最初のシナリオ執筆」)
 掛川正幸(「実録連合赤軍」決定稿シナリオ」)
 青島 武(シナリオライター。連合赤軍を描いた「光の雨」等多数)
 原渕勝仁(フリーTV番組制作者)
第3部 作家が描いた連合赤軍
 桐野夏生(作家。最新作は連合赤軍の女性を描いた『夜の谷を行く』)
 山本直樹(エロ漫画家。連合赤軍を詳細に追った『レッド』を連載中)
 金井広秋(慶応大学の紀要に「死者の軍隊」を連載。彩流社刊)
・司会 金 廣志、椎野礼仁
・当事者
 岩田平治(革命左派)、植垣康博(赤軍派)、前澤虎義(革命左派)、雪野建作(革命左派)
青砥幹夫(赤軍派)

前回、シンポジウムの第一部を掲載したが、今回は第二部を掲載する。なお、第三部は写真撮影も録音も不可だったので、今後、「連合赤軍事件の全体像を残す会」が発行する予定の冊子でその内容を見ていただきたい。
以下、第二部である。

【第二部 映画がとらえた連合赤軍】(発言概要)
司会:椎野礼仁(編集者・元共産主義者同盟戦旗派)

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「二部は映像作品を観てから始めます。映像作家たちはどう連合赤軍を描いたのかというテーマでやります。」

(パネリスト4名の映像作品を上映)

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総合司会:金 廣志(塾講師・元共産主義者同盟赤軍派)

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「映像で観ると少しイメージが違いますね。まず、足立さんにお伺いしたいと思います。足立さんは、若松孝二監督とともに多くの仕事をされてきました。1971年に若松監督とパレスチナに渡り、重信房子が率いる日本赤軍のメッセージともとれる『赤軍―PFLP 世界戦争宣言』を撮りました。そして1974年に日本赤軍に合流して、1997年にレバノンで逮捕され、3年間抑留され、2000年に強制送還されました。このことについて、連合赤軍を絡めてのお考えを伺いたいと思います。」

足立正生(映画監督・脚本家。「実録連合赤軍の最初のシナリオ執筆」)

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「発言する前に、第一部を聞いていて非常に腹が立って、残念でしょうがない。つまり、いくら決定的な敗北や間違いを犯したとはいえ、彼らは何を目指して何をやろうとしていたのか、そのことについて司会は一切関心を払っていない。つまり、革命をやろうとしていたんだ、という話が前提にされて省かれている。正に現代に迎合した進行をやっているので、腹が立った。
それから、若松孝二と撮ったフィルムも、実はドキュメンタリーとか呼ばないで、ニュース映画と呼んだ。それは、世界でも日本でも非常に熱き時代ではあった。しかし、同時にその中身を支えていたのは、革命をやるにしても、そこでデモ一つやるにしても、その柱になっていたのは世界の人びとと一緒にやろう、はっきり言えば国際主義というものがあった。それが今や全くない世の中になっている。良くて国際連帯という言葉に切り縮められていた。
それらのことを踏まえて言うと、『赤軍―PFLP 世界戦争宣言』を作って全国上映して回ります、パレスチナでもヨーロッパでも上映して回りますが、それはニュース映画としてみんなに観て欲しかった。特に連合赤軍を作った赤軍派と革命左派の人たちに観て欲しかった。それで、共同キャンペーンを申し込んだが、連合赤軍に合流する赤軍派の人たちには、『我々は武装闘争に集中したいので、そのような文化活動をやっている暇はない。共同キャンペーンは断ります。』とはっきり言われた。そこにも出ているように、武装闘争をやるので文化活動をやれないという切迫したものはあっただろう。ただし、先ほどの発言の中で一番腹が立って聞いていたのは、青木理さんの『客観的に見れば追い詰められていたのではないか。』という発言がありましたが、皆さん、それについて答えて欲しい。追い詰められていただけではない、やろうとしていた事があったし、私は外から見ていたから、その山岳地帯に行けない人も大勢いて、残念がっていたのも知っています。つまり、山岳ベースに入ったのはほんの一部であり、指導部かもしれないけれど、実体的には全体の中の一部であったろうと思います。それをどう考えるのか。そういうことを考えると、今の時代に合わせた解釈の仕方になっている。おもねる必要はないじゃないか、というのが片一方にあります。」

総合司会:金 廣志
「革命家、足立正生の熱いメッセージをいただきました。次に掛川さんです。掛川さんは若松監督の『実録連合赤軍』の脚本を書かれました。この脚本は、当初、足立監督が依頼されて脚本を書いたと伺っています。ところが若松監督が気に入らなくて、掛川さんに再依頼されたという話も聞いております。映画で加藤元久君が『勇気がなかったんだよ』(注)という台詞がありました。これは実際にはない発言なんです。そして、これが若松孝二のメッセージだったのか、そして掛川さんが脚本段階で書かれたのか、あるいは若松監督が入れたのか、その辺についてもお話しをいただければと思います。」
(管理人注:映画の終盤、浅間山荘の中で加藤元久が叫んだ言葉のこと。)

掛川正幸(脚本家。「実録連合赤軍」決定稿シナリオ」)

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「最初に、『勇気がなかったんだ』というのは僕は脚本には書いていません。あれは若松さんがどうしても入れたいということで書きました。あれについては、僕自身、ちょっと腑に落ちない部分があります。というのは、何に対して勇気がなかったのか、という問題が非常に曖昧になっている。あれは、単純に考えれば、間違ったことに対してノーと言う勇気がなかった、つまり森たち指導部がやっていることに対してノーと言う勇気がなかった、という捉え方になってしまう。僕はそれはちょっと違うと思っている。
それと、僕が『実録連合赤軍』を書くきっかけですが、実は(映画の)4〜5年前に『時効なし』という若松さんの本を作った。そのインタビューの中で、あとは連合赤軍くらいしかないかなと言っていて、それはそれで終わって、何年かして若松さんから電話があって、資料を集めてくれということで、資料を集めて出して、それがいつの間にか作品を書くということになってしまった経緯があります。ですから、僕は足立さんが書いた第1稿も見ていませんし、どういう経緯で若松さんが『実録連合赤軍』を撮ることを決めて、僕の方に書かないかという話があったのかも、経緯はほとんど知らないです。ただ、そう言われたから資料を集めますということで書き始めました。」

総合司会:金 廣志
「次に青島さんですが、青島さんは高橋伴明監督の『光の雨』の脚本を書かれています。プロデューサーもやられています。この映画は2001年に公開されていますので、『実録連合赤軍』に先んじて連合赤軍を扱った記念碑的な映画であったと思います。我々から見ると、若松監督の映画の方が嘘っぽい、『光の雨』の方が自分たちのリアル感に近いと言っている方がたくさんいます。連合赤軍の映画は、その前に、長谷川和彦監督が撮ろうとしましたが、実現せずに、兄弟分である高橋伴明あるいは兄貴分である若松孝二が映画を撮ることになったと思います。その辺も含めて、『光の雨』の舞台裏について少しお話しいただけないでしょうか。」

青島 武(脚本家。連合赤軍を描いた「光の雨」等多数)

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「『光の雨』は1億円で作って、宣伝費3千万使って、1億3千万回収しました。1999年頃、映画化の話があった。事の始まりは、立松和平さんが集英社の『すばる』という文芸雑誌に『光の雨』という小説を3回連載しました。ものすごく長くなると予想される原作で、3話の内の1話は、逃亡中のある革命戦士を単純に守って、かくまうだけの名もない女性兵士の描写から始まる。ということは、立松和平さんが、大河ドラマのごとくあの時代を書こうとしているという意欲的な連載でしたが、坂口死刑囚の手記の一部がそのまま使われているということになって、問題になって連鎖が中止された。その後、何年か経って、立松さんがそのままではということで、全く変えて、山岳アジトで起きたことだけを『光の雨』という同名小説で、新潮社から出し直した。その出版記念会の時に、高橋伴明監督が、『立松がここまでやったので、俺は映画でこれをやる。』と映画化を宣言してしまったことから始まって、当時はお金は一銭もない。当時は連合赤軍事件を映画化することは、ほとんど空手形。映画の世界では詐欺師が自分の土地でもないものを売るという企画の一つだった。30年間、誰も映画化できなくて、浅間山荘がバブルの頃に売りに出るということがあって、それをデレクターズカンパニーが買って、本当に鉄球で壊すという話もあるくらいのところで、それがなかなか出来なくて、立松さんの『光の雨』の事件があって、盗作で苦しみながらも、立松さんが書き直したということに高橋伴明監督がとても感銘を受けて、映画化しようということになりました。
最初は全然書けなくて、僕も書く気がなくて、新宿のゴールデン街で団塊の世代の某脚本家にお願いしましたが、『書くなら俺だな』と言いながら、その後何も仰らない。どうするか。連合赤軍事件を映画化するということで、僕がプロデューサーとして企画書を書いて、お金下さいと言っても、誰もお金を出さない。映画化できると誰も思っていないから。今まで、東映の深作監督がやろうとしました。いろんな方が本当にやろうとしたができなかった。撮影できることが可能だと分かる台本がない限りお金が集まらない。脚本家に払う原稿料がないのでお前が書けということになって、書いたんです。
半年くらい考えながらも全然書けない。ふと、ある日、書けないのは、僕が当事者ではないからだ。でも、この小説は当事者に向けて書かれたのかというとそうではない。この映画の中に僕の居場所はどこにあるのか、ということで、僕たち映画を作る人間の話にした。だから、『光の雨』という立松和平さんの小説を入れ子状態で劇中劇に入れてしまって、これを今作るとしたらどんな問題が起きるのか。インターナショナルのイの字も知らない若い俳優に、助監督が一生懸命インターナショナルを教えるという場面が浮かんだ。これはちょっと面白いかもしれない。そんなことで、立松さんの原作の趣旨が、事件を知らない人たちに事件を伝えたいということだったので、その部分は原作と大きく離れますけれども、趣旨的には合っているのではないか、ということで、こういう入れ子状態になった。それが2001年の話で、紆余曲折があって映画になった。」

総合司会:金 廣志
「最後は原渕さんです。原渕さんはテレビを舞台として様々なドキュメンタリー番組を手掛けてきました。
原渕さんは、北朝鮮やレバノンに渡って、よど号メンバーや日本赤軍メンバー会っている。原渕さんは本の中に書いていますが、『よく分からないけれど妙に引かれてしまう』という話をされています。若松監督とともに10年近く行動を共にされてきましたが、原渕さんにとって、連合赤軍、赤軍派はどんなものなのか、率直なご意見をお聞かせ下さい。」

原渕勝仁(放送作家。フリーTV番組制作者)

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「その前に『勇気』の件を一言。若松監督は何故『勇気』を入れたのか。若松監督がレバノンのベーカー高原で坂東国男さんに会った時に、坂東さんの口から、銃銃戦の中で一番過激にやったのが加藤元久さんだったが、『勇気』の件は、映画のようには言わなかったけれど、坂東さんや坂口さんに、『もっと勇気があったら僕の兄ちゃんは死ななかったのかな』と言ったということです。さすがに坂東さんは、それを聞いてヘコんだという話を若松監督が聞いて、これは絶対入れたいと。ただ、それを淡々と喋るのではなくて、ああいう形でデフォルメして表現したと思う。正直、あのシーンは何度見ても泣ける。僕はあのシーンと、浅間山荘に立て籠って、お母さんが呼びかけに来て『こんなことをするために活動を始めたの。違うでしょ。』と言うシーンがある。僕はその2ケ所で泣けますね。別に泣けることを自慢してもしょうがないですが、監督はそういうものを作りたかったと思う。監督にはほぼ理屈はないと思います。僕にもありません。人間の生き様として、圧倒的なすごさを感じていて、リスペクト以上のものを僕は持っている。だから若松監督に密着した。
映画の世界には関わっていない。若松監督はすごく魅力的でチャーミングな人でした。」

総合司会:金 廣志
「足立監督からどんどん挑発して言ってください。」

足立正生(映画監督・脚本家)

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「今、『勇気』ということについて、若松孝二が坂東から聞いた言葉であるということ、そのことの間違いはないですが、『勇気』という意味がこの映画の中では全く違ったものに変えられて使われてしまったという、本当に慚愧に堪えないところがある。
若松に坂東が言ったのは事実ですが、つまり言いたかったのは、あの山岳基地の極限状況ではあるけれども、みんな何かを目指して、いろいろ便利な言葉はあるけれども、革命を目指していたことは間違いない訳ですよね。俺が押し付けることはないけれど、全員そうでしょ。革命をしようとしていた。その中でどうしたらいいか悩むこと、分からないこと、疑問に持ったり立ち止まることがある。その悩むこと、分からないと言い切ること、それを引き受けることが勇気だということを、坂東や私が若松さんと話して入れようとしていた。これが1点。
それから、もう一つ、『実録連合赤軍』制作委員会というものを最初に作りまして、その時に私が提案したのは、浅間山荘を中心にした映画にしようとした。特に僕の方でもっと分かりやすくするために、革命家は何を考え、その成長過程で起こった問題であるから、それが一番出るのは何がいいかというと、山越えをして浅間山荘にたどり着いた彼らが、浅間山荘に入って行ったら、管理人の牟田泰子さんが手を挙げていた。それはどういうことかというと、山岳警察が逮捕に来たと思った。彼女が手を挙げて逮捕することろから浅間山荘の中の話が始まって、そのプロセスで兵士たちと泰子さんの間で生まれた内容というのが、非常に根源的な人間としての問題からスタートして、最終的には加藤の弟が母親がわりと思うくらいにまでいった中での話です。ですから、『実録連合赤軍』の中で、結論として、落とし前がついたなんて先輩が言ったからというので、腹を立てて、『落とし前はついていない。勇気がなかっただけじゃないか』と言うのは、別に坂口や坂東が勇気がなかったという問題ではなくて、革命家が自分が分からないなら分からないこと、悩んでいること、それでも目指していること、そういった自分を認められるかどうかというところに『勇気』はある。実は『光の雨』の隠されたテーマはそこにある。
私が書いた本は牟田泰子さんを軸にしてやろうとしていたので、彼女の人権の問題もあるのでずいぶん準備したんですが、頓挫して、それはなしにした。その後、掛川さんが書いた本を読んで、最初のテーマはどうした、何やこれは、ニセ・ドキュメンタリーをやってどうするんだ、というようなことを言って、どうしても入れろと撮影中も言ってたら、最後に来て、『お前が言っていたのは入れたよ』とポンと本を渡されて見たら書き込みがしてある。なおかつ、『勇気』というのがとんでもなく切り詰められているというのがありまして、それ以降、絶交になったりしました。(笑)」

総合司会:金 廣志
「第一の問題について、雪野さんにお考えを伺ってみます。」

雪野建作(当事者・革命左派。IT会社経営)

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「私はちょうど山荘の半年前、8月21日に新宿で捕まっています。その後は獄中に居て、あの事件は未決拘留中に知った訳です。ものすごい衝撃を受けました。一つは、私がいる間に2人、戦線から離れた人を処断している。これは、その後、組織的には大きな転換点だった。私はそれを立件されてはいなけれど、知ってはいました。知っていて、私がその時どういう態度を取ったかというと、『それはしょうがないだろうな』と、その時は考えました。7〜8ケ月前に似たようなことがあって、その時は話があって、調査まで行ったけれど実行には至らなかった。そのことがあったので、1回目は割とすんなりと決まった感じだった。そのことがあったので、あのことがこんなことになってしまったのか。2人を処刑したというのが、私がよく知っている昔からの仲間、そういう人たちがあんな形になるとは全然想像もできなくて、ものすごいショックでした。
あのことがこんなことになってしまった、というのが正しくその時の印象です。
それと『勇気』という問題と関係しますが、私は外にいる時に結構永田と議論、論争しています。もうデタラメなことばかりやっているので、最初の野営地、放棄されたキャンプ場に我々がいて、まる2日3日議論したことがあります。ただ、全然通じない。これはしょうがない、ということで、自分の意見は留保するが多数だからその方針は認めるということで、銃を軸とする方針をしょうがないということで黙認した。自分は反対だけれど全体がそういう方針で行くのならしょうがないということで進んで行った。
それがさっき言っていたような結果になった時に、本当に何か問題があった時に、それを最後まで突き詰めてやらないとダメだと。もう少し言うと、その時に、どうしても納得がいかないという時は、そこでノーと言う必要がある。足立さんのお話で、分からないと言う『勇気』ということがありましたが、それと同じようなことを感じた。そういう意味でいうと、あの時、本当に目も当てられないような状態でゲッソリして、その時、本当に骨身に染みるような形で、納得がいかない時は絶対にそれはそのまま曖昧にしてはいけない。
もう一つ言うと、曖昧にしないで結論が出なくても、その時にノーと言わなくてはいけない時にはノーと言わなくてはいけない。私は当時、真岡事件で指名手配されていたので、そういう状況でただ一人で生き延びて運動を続けるということが頭に浮かばなかった。
その点、金さんは孤立無援ながら15年逃亡して時効まで逃げた人です。とても金さんみたいな根性がなかったので、その時は組織から離れて自分の立場を貫くということが出来なかった。
まとめると、そういう『勇気』ということは足立さんとはその点は全く同感します。」

総合司会:金 廣志
「今、雪野さんから話もありましたけれど、今、ここにいるメンバーも私もですが、私たちは生きようなんて全然思っていなかった。死のうという訳ではないですが、自分たちの命は預けたと思って活動している。雪野さんと同じで、事件は本当に衝撃だった。まさか、ということだった。それは、世間やマスコミが受けた衝撃という問題ではなく、我々自身の問題だった。その耐え難さというのは、僕は捕まりに出る訳にはいかなかった。このことを抱えなければいけない、僕がのこのこ出て行って、申し訳ありませんでしたと捕まったら、『何だざまあみろ。やっぱり赤軍なんてこんな程度のものか。』と言われると思った。だから一生出てくるつもりはなかった。でも15年というのが一つの節目かなと思って出てきました。
足立さんにもっと挑発してもらいたいので、司会は足立さんに任せます。(笑)」

足立正生(映画監督・脚本家)

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「任せられても困るけれど、非常に独善的なので、みんなを挑発するなんてことはできません。雪野さんも仰っていたけれど、僕が欲しかったのは、皆さんの当時でもいいし今でもいいですが、自分たちがやろうとしていたこと、そこから考えて、僕なんかは坂東なんかと後付け的に話し合った内容でしかない訳ですが、そちら側から見ても、革命をやろうとした上で起こった問題ということを私は抜きにしてはいけないと思う。第一部の発言を聞いていても、警視庁公安部が分析しているようなことしか言わない。それはそれで、理性のある論理的な正しいことかもしれないけれど、そこで全部消されていること、失われていることはある。第二部は、表現者として連赤の問題をどう思ったのか、それを外側から『なぜる』ようにやっている訳ですから、僕が例えば『勇気』という言葉で突き付けたのは、非常に小さなテーマである訳ですけれど、皆さんに一言ずつでも発言して欲しい。
青砥さんからよろしくお願いします。」

青砥幹夫(当事者・赤軍派。会社員)

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「足立さんが仰った、分からないこととか立ち止まる勇気は当然必要だと思いますが、我々は革命運動に挺身するという前提で全ての行動を提案していましたし、特に赤軍派の場合は、私もそうですが、ほとんどの人間は、迷って立ち止まった時は必ず左に行くんです。それをずっと繰り返してきました。一方で、それから脱落していく人間もいます。そういう人間は去るに任せる。やりたい人間だけが左の方に進んでいくという伝統をずっと受け継いできたものですから、それは山に入ってからも基本的に同じです。ただし、山の中で自分たちが十分に納得できないまま、目の前で仲間を死なせてしまうという状況が、果たしてそれでも自分が選ぶべき左なのかどうなのか、そういう迷いは当然沢山ありました。そこで、さきほどの『勇気がなかったんだ』という発言が初めて生きてくるのではないか。確かにそういう面はあったと思います。ただし、そこで立ち止まる余地があったのか。そんなものありません。前に進むしかない。早く終わって警官隊と遭遇して戦死すればいいという考えが非常に強かったと思います。そういった気持ちで山の中にいました。」

足立正生(映画監督・脚本家)
「さきほど山田さんの言葉で、死を突き付けることで人間を追い込むことはできない、ということを仰った。その山田さんがもう一つ言っていますよね。『この総括運動は間違っている。だけど、これをやって俺を殺すことによって革命が前進すると思うのなら殺せ』ということも言っていますよね。」

青砥幹夫(当事者・赤軍派。会社員)
「それは私は直接聞いていません。」

足立正生(映画監督・脚本家)
「そこが表裏一体となって非常に重要なことだと思っていた。岩田さん、離脱したということは非常に勇気のいることでもあった訳ですよね。私は、かっての党派活動家の人に聞いて回って、内ゲバに行くかどうか、あるいは査問会議に出席するかどうかで自分を問うて、逃亡した人たちに何人かお会いして話を聞いて回ったこともあります。彼らは、『逃げることは弱いからだ』としか言わないから、『冗談じゃない、そこは最も勇気のいったことであるから、そこからもう1回考えてみてくれ。』と僕は挑発している。岩田さん、よろしく。」

岩田平治(当事者・革命左派。会社員)

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「さっき青砥さんが言ったように、山の中にいる時は、立ち止まって考えて、顧みるという余裕なんてない。死に突き付けられているから。ただ、私はたまたま名古屋の方に活動に出させてもらえたから、そこで考えるというか、私は(山から)下りる時にこれでいいのかどうか分からなかったけれど、山から出されて活動中に、これが本当に正しいのか正しくないのかよく考えてみようというつもりで出た。もう二度と山に戻ってこないかもしれないと考えて、自分の個人なメモなど携えて山から下りましたが、10日くらい活動した中で、やっぱり論理的には革命をやらなければいけないし、正しいことかもしれないけれども、そういうものには、正しかろうが正しくなかろうが付いていけない。論理じゃないと思いますが、人間というのは、聖書の最初の言葉は『まず言葉ありき』ですよね。人間の人間たるゆえんは言葉であると思います。論理的にいかに物事を理解するかということだと思いますが、その時は16歳の娘さんとか、私の何も知らない彼女を山に連れてこい、という自体の中に、もう付いていけないということで私は逃げました。ただ、その時も、革命ということがありましたので、前澤さんが迎えにくれば素直に行って、殺されようかと、そういう気持ちはありました。
ですから、そんなに確信があって、これは間違っているということではなかったです。」

足立正生(映画監督・脚本家)
「了解しました。前澤さんお願いします。」

前澤虎義(当時者・革命左派。塗装会社現場チーフ))

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「さっきも出ましたが、同じ意見です。革命左派の指導部は全然信用できなくて、能力がないという評価をしていました。取り換えればいいけれど、取り換えるには俺は能力ないし、という形で行き着くところに行くしかないという感じだったから、初めから銃撃戦やるつもりだったから、あと1年生きているかなというのがその時の前提条件だった。最初のリンチが始まった時に、我々が殺した人には申し訳ないけれども、こいつらを引けばいいのかなという部分で、しょうがないのかなという風に最初の一人二人は考えた。そうすれば、その前に脱落者がいっぱい出ていたので、銃撃戦をなんとかやれる態勢が出来るのかなというので、止むを得ないのかなと思ってしまった。
岩田君が名古屋に行ったのとちょうど同じ日に、青砥さんと一緒に東京に赤軍派のシンパをオルグしに行った。そうしたら、あいつらを殺して、こんなに幼い子を連れて行って、殺すために連れていくのか、ということで、その時にもう論理的にメチャクチャで、いわゆる総括が全然信じられないという気持ちになった。逃げるというか帰りたくないという気持ちはあったけれど、結局ズルズルと闘争から離れる喪失感というか、離れられないということがあって、最終的な逃亡はだいぶ先になった。結構早い段階で帰りたくないという気持ちはあった。」

足立正生(映画監督・脚本家)
「植垣さん、短く。」

植垣康博(当事者・赤軍派。討論スナックバロン経営)

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「実際に武装闘争に関わるきっかけは、当時の革命論や軍事論はいろんなものが横行していました。しかし、それは全部実際の行動をやっていない上での、実際の経験がない上での理論でした。僕は机上の空論ではダメだ、とにかくやってみなくては分からない、というのが僕が最初に運動に関わった大きな動機でした。要は革命と口で言うのは誰でもできる。実際にするとなると別問題。実際にどういう革命の闘いが可能なのかを求めていく。そういう意味で僕はゲリラ戦をやっていた時に、常に試行錯誤の思いでやってきました。だから指導部からあれやれこれやれと来るけれど、必ずしもそれをその通りに実行していなかったので、森さんからいろいろ文句を言われましたが。
大事なのは、勇気があるかないかという問題より、逡巡した時にどうするか。逡巡した時にどこに行けばいいのか、それが正しいかどうかはやってみなければ分からない面がある。だから逡巡した人はしなくてもいい。ただ、やる以上は常に試行錯誤だということを前提に行動していれば、たぶん、僕らみたいな大きな過ちを犯すことはないのではないか。
これからの時代、また、どんな闘いが展開することになるか分からないけれど、毎日試行錯誤の思いで行動して、過ちを犯すことも恐れてはいけない。」

足立正生(映画監督・脚本家)
「連赤問題をテーマにあるいは課題にして 原渕さんは最終的にシンパシーを持ったということを言っていましたが、掛川はそんなことないだろう?」

掛川正幸(脚本家)
「連赤にシンパシーがないのか?いや、ありますよ。(笑)」

青島 武(脚本家)
「世代的な奇妙な憧れみたいなものはありました。ただ、中身は分からずに。皆さんと12年違いますが、この映画を作ってから、憑き物が落ちたように興味がなくなりました。(笑)」

足立正生(映画監督・脚本家)
「そういう人もいる。順番に原淵さんから、表現者として連赤は何だったのか。」

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原渕勝仁(放送作家)
「若松さんが何故この映画を作りたかったのか、言っておきたかったことがある。まず(1972年映画)『突入せよ「あさま山荘事件」』に対するものすごい怒りがあった。あれは浅間山荘の内部とか山の話が一切出てこない。皆さんの顔も出てこないし、名前も出てこない。モンスターですね。怪物がいて、そこに突入する。ものすごくヒロイックで面白い映画です。だけど、若松さんはあの映画が大嫌い。火炎びんをぶつけてやりたいぐらいの怒りがあったと言っていました。
もう一つ、熊切監督の『鬼畜大宴会』(1998年)という映画があります。これは、永田洋子と思われる女性が出て来て、これがとんでもない人物として描かれている。あの映画の女優はセクシーなんです。永田洋子は一般的に美人ではないと言われているけれど、何か惹かれるものがあったのかなと。もしそうであれば、あの映画も一面は捉えていた映画だったと思う。
若松監督は、あれも観て、ものすごく怒っていました。若松監督は、『実録』と謳ったように、牟田泰子さん以外は全部実名です。
今、お話しを伺っていても、正解というのが皆さん自身の中にもない。僕は100年後まで語り継がれる事件だと思います。僕はこれからも、きちっと事実を追い続けて、何らかの形で表現していきたいと思っています。」

足立正生(映画監督・脚本家)
「掛川さん。」

掛川正幸(脚本家)
「連合赤軍とは何だったのか。僕は同時代ですから、掛け値なしに自分たちのことです。ただ、何で連赤に加わらなかったのかというと、偶然としか言いようがない。もう一つ、若松さんから話がきた時に、とにかく資料を集めろ、記録を残すという意味で、全部もう一度リサーチし直したら、自分自身で記憶がごちゃ混ぜになっていて、前後が逆転していることもありました。そういう意味で、この映画のシナリオを書いて、そこで自分の原点というか、過ごしてきた時間をもう一度確認することができた。そういう映画ではないか。」

足立正生(映画監督・脚本家)
「青島さん、最後に一言。」

青島 武(脚本家)
「今日、この会場に団塊の世代の方だけでなく、僕は55歳ですが、僕より若い人たちが沢山いらっしゃる。そういう人たちが何故いらっしゃるのかなという興味がある。僕が『光の雨』を作った時に思ったのは、12歳下の僕の視点みたいなことが、日本映画で初めて作られた連合赤軍事件映画として、それを入れたかったということがあって、それが何となく出来てしまったから、(先ほど)興味がなくなったという話をしましたが、そのことなのかなという気がします。」

足立正生(映画監督・脚本家)
「表現者と革命を長い間やっていた人々とのセッションになった訳ですが、ちょっと乱暴な私が司会と話の方向を絞ったので、皆さん、面白くなかった点は許して下さい。ただし、付け加えると、若松孝二が80歳になったのを記念して80周年というのをやり、この映画『実録連赤』を改めて新しい舞台で若い人々が作った。それは演出家のシライケイタさんというまだ30代の人です。インタビューできる人には全部インタビューして回り、正に『光の雨』をもう1回実行する訳です。それで、その上で、自分たちの理解したものでステージを作る。
実は、僕がわざわざ何故一般論的な概念の広い『勇気』という言葉を出したかというと、その芝居のキーワードを『勇気』という言葉にしていました。私は非常に感動したこともあります。ですから、表現者の側からすれば、連合赤軍というのは自分の問題だったというのが一つ。そして、そこで問われた問題は何だったのかというと、革命を目指したロマンを追求したその上での問題という大枠は外れないのではないか。このことを会場にいる皆さんに確認していただければ幸せです。
確認できる人は拍手してください。(拍手)」

総合司会:金 廣志
「どうもありがとうございました、これで第二部を終了させていただきます。」

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(第二部終了)

※ブログ掲載記事は発言の概要です。聞き取れない部分などは省略しています。また、話し言葉なので、分かりやすくするために書き言葉に書き直している部分もあります。
第三部を含め、シンポジウムの正確な内容を知りたい方は、「連動赤軍の全体像を残す会」が発行予定の「証言」12号をご覧ください。

※当ブログでは、5年前の連合赤軍40周年の時にも関連記事を掲載しています。こちらも参考にご覧ください。
●野次馬雑記No241 ( 2012.5.15 )
「1972年・連合赤軍浅間山荘銃撃戦と総括による死をどう受け止めたのか」
(「もっぷる通信特別号 3・31人民集会特集」(1972年4月20日発行)の概要)
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/31769396.html

●野次馬雑記No245  ( 2012.6.22 )
「シンポジウム 浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍」
(連合赤軍40周年シンポジウムの発言概要)
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/31769408.html

(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は9月1日(金)に更新予定です。

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2017年7月15日(土)、東京・渋谷の「渋谷ロフト9」で、「連合赤軍の全体像を残す会」主催により、浅間山荘から45年「連合赤軍とは何だったのか」をテーマにシンポジウムが開かれた。
以下、その呼びかけ文である。

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【呼びかけ文】
 連合赤軍事件から45年の月日がたちました。
 余りにも早く若い生涯を終えねばならなかった仲間たちと、私たちが冥界で会いまみえる日もそう遠くないように思われてきた今日、連合赤軍とはなんであったのかについて、議論したいと思います。
 連合赤軍事件に対する世の中の関心は続いています。
 BS朝日により2時間枠の番組が制作され、好評を得て再放送もされました。
 桐野夏生さんの『夜の谷を行く』は、「山で子を産んで育てる」という革命左派の夢想的な思想をテーマとして書かれ、好評です。
 事件の異常さ、悲惨さをセンセーショナルに語るのではなく、その背景と思想を深く掘り下げようとする姿勢が見て取れます。
 5年前のシンポジウムでは、「当事者が語る」会として、さまざまな人たちの質問に答え、これまで考えていたことを語りました。
 今回は、より深く事件そのものの本質に迫りたいと思います。
 背景となった戦後の政治史のなかでの位置を振り返り、さらに、映画としてこの事件を表現した人々の思いを聞き、また、漫画や小説の形式でこの事件の本質を追求した作家たちの話に耳を傾けたいと思います。
  この事件のことを深く考え、教訓を後世に残さねばならないと考えている方々の参加を広く呼びかけます。
 2017年6月
               連合赤軍事件の全体像を残す会
開場:12:30 開会:13:00
________________________________________

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●構成
第1部 戦後史の中の連合赤軍
 白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)
 鈴木邦男(一水会名誉顧問)
 青木理(ジャーナリスト)
第2部 映画がとらえた連合赤軍
 足立正生(「実録連合赤軍の最初のシナリオ執筆」)
 掛川正幸(「実録連合赤軍」決定稿シナリオ」)
 青島 武(シナリオライター。連合赤軍を描いた「光の雨」等多数)
 原渕勝仁(フリーTV番組制作者)
第3部 作家が描いた連合赤軍
 桐野夏生(作家。最新作は連合赤軍の女性を描いた『夜の谷を行く』)
 山本直樹(エロ漫画家。連合赤軍を詳細に追った『レッド』を連載中)
 金井広秋(慶応大学の紀要に「死者の軍隊」を連載。彩流社刊)

・司会 金 廣志、椎野礼仁
・当事者
 岩田平治(革命左派)、植垣康博(赤軍派)、前澤虎義(革命左派)、雪野建作(革命左派)、 青砥幹夫(赤軍派)

会場は渋谷駅から歩いて10分ほどのところ、東急百貨店の近くの円山町にある。前日にネットで予約したのだが、予約番号が112番。100名以上は参加するということだ。開場の少し前に「渋谷ロフト9」に到着したが、会場の間には、すでに数十人の人たちが集まっていた。

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会場に入るのは予約番号順なので、しばらく待ってから入場すると、会場内はほぼ満席。何とか席を確保したが、事前予約をしていない人たちもいて、その人たちは立ち見である。定員が130名くらいだから、160名くらいの参加があったのではないだろうか。
当時の世代(高齢者)が多いかと思ったら、以外にも若い人も多く参加している。私の両隣に座ったのも、若い女性と外国人男性だった。
定刻になりシンポジウムが始まった。

【第一部 戦後史の中の連合赤軍】(概要)
司会:椎野礼仁(編集者・元共産主義者同盟戦旗派)

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「お暑い中、立錐の余地もないような状況で、定員がほぼ予約で埋まったらしい。有難うございました。今日はタイムキーパをやります。」

総合司会;金 廣志(塾講師・元共産主義者同盟赤軍派)

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「本日はシンポジウム『浅間山荘から45年 連合赤軍とは何だったのか』にお集まりいただき有難うございます。本年2017年は浅間山荘銃撃戦及び連合赤軍総括リンチ事件から45年という節目の年にあたります。5年前に40年の会をやって、その次は50年という話をしましたが、あと5年たったら誰が生きているか分からない、みんな死んでいるんじゃないかと言う話も出て、45年という機会にこういうイベントをやらさせていただこうということになりました。
こういうところで当事者が集まって、きちんといろいろな意見を表明してもらうべきだと思って45年を行うことにしました。
先ほどもお話ししましたけれど、この一連の事件は、併せて連合赤軍事件と呼ばれていますが、元々、連合赤軍というのは連合というのが付くとおり、単一の組織ではなかった。共産主義者同盟赤軍派と日本共産党革命左派、実際には共産党とは本当は関係のない組織ですが、そういう別々の組織が1971年9月に連合して、12月に群馬県の山岳ベースに、延べ29名のメンバー、男性19名、女性10名が結集して新党を結成した、そういうことで一つの組織になったのが連合赤軍と呼ばれているものです。
その過程で、共産主義化と称する同志に対する総括、リンチ事件が起こったわけです。1971年12月から翌年2月にかけてのわずか2ケ月の間に、12名の同志を殺害するという凄惨な事件を起こしたわけです。実際にその時に当事者であった者が、ここに4名おります。また、警察に追い詰められた5人のメンバーが、軽井沢にある浅間山荘に立て籠りまして、1972年2月19日から2月28日の10日間にわたって銃で抵抗して、2名の警察官と1名の民間人が射殺されました。その当時、テレビはNHKも民放も全てこの浅間山荘の実況中継でした。視聴率が最高で90%を記録するという空前の事件として、当時の人たちに記憶されています。ここにいる本人たちは、その時点で逮捕されていますから事件をテレビでは見ていません。私は外にいましたので。その10日間を本当に緊張感を持ってテレビの前にいたことを覚えています。
本日はこれらの事件の内実について、当事者及びゲストを交えて45年前を振り返りながら進行させていただきたいと思います。
最初に連合赤軍のメンバーであった当事者の紹介をさせていただきます。

(メンバー紹介)

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それでは第一部のパネリストを紹介させていただきます。

(パネリスト紹介)

まず、本日のパネリストで最も若い白井聡さんにお伺いしたいと思います。
今年は連合赤軍45年でもありますが、1917年のロシア革命から100年という節目の年でもあります。ロシア革命の指導者レーニンは『全ての権力をソヴィエトへ』というスローガンを掲げました。それは労働者や農民たちの評議会に革命の未来が委ねられると主張していた。それは直接民主制に最も近い社会主義体制を創り上げると主張していたが、ソ連は結果としてロシア共産党が全てを支配する官僚専制の国家になってしまった。そして、スターリンによる数百万人と言われる大粛清があって、1991年にソ連は崩壊しました。それについて白井さんにお伺いしたいと思います。
我々は人類の未来に対する理想として社会主義、共産主義というものを実現していこうと思い、新左翼運動に結集しました。そして、私たちの運動も、スターリンの大粛清と同じような連合赤軍事件という大きな衝撃とともに終焉を迎えたと言っていいと思います。
白井さんはレーニンの研究者でもあります。テーマは大きいですけれども、社会主義は単なる理想でしかなかったのか、また、スターリンによる粛清と連合赤軍による総括・リンチというのは同種の思想によるものなのか、また、真の社会主義というものはあるのか、
お伺いしたと思います。」

白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)

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「今のご質問の答えとしては、全て分からないとしか言いようがない。しかし、呼んでいただいて分かりませんではまずいので、少々、自分の考えるところをお話ししたいと思います。
ご承知おきのとおり、レーニンがやった革命はスターリンに受け継がれていって、それはひどいテロ体制で、政治的なライバルを追い落とす。追い落とすと言っても単に失脚させるという甘いものではなくて、反革命というレッテルを押す。反革命ということになると、単に悪い人とかダメな人ではなくて犯罪者ということになりますから、自己批判をさせられる。しかもすごいのは、自己批判しても許してくれるわけではなくて、良くてシベリア送り20年、悪くすると死刑。例えばブハーリンという人がいましたけれど、レーニンの死後、後継者候補の一人になって、一時、スターリンにくっついてトロツキーを追い落とすということをやって、しかし最後にはスターリンによって落とされていく。その最後たるや悲惨なものです。逮捕されて反革命だろうと尋問されて、事実無根ですがスパイ容疑もかけられる。単にスパイだからけしからんというのではなくて、唱えているところの理論が反革命的なものであると規定されてしまう。ブハーリンはどうしたか?結局、最後は命乞いをするわけです。獄中でスターリンを賛美するような論文を書き、そして自分の理論がいかに間違っていたのか、悪気はなかったけれど結果として反革命的な誤った理論を述べてしまった、反省して心を入れ替えてソ連の社会主義建設のために尽くしたいというようなことを書く。痛々しいとしか言いようがない。学問的には学識豊かな人で理論家として優れた人だったが、そういう形で命乞いをする。スターリンは猫がネズミをいたぶるように扱うわけです。殺すということは揺るがないけれど、わざわざそういう弁明をさせて殺される。これがコミュニズムにおける政治闘争の最も陰湿なヴァージョンであります。
これが連赤事件と果たして関係があるのかどうか。私はあると言えばあるのかなという印象を持っています。
私は日本の社会主義運動や社会主義思想、革命運動について勉強していますが、私の見るところでは、大きな断絶が戦前に起きています。マルクス主義の導入、ことに福本イズム。福本和夫という人がドイツに行って、ロシアマルクス主義の文献も読みますし、ドイツにおけるマルクス主義哲学を勉強して帰って来て、当時、日本にはマルクス主義思想・学説は紹介されていて、アナーキズムなどの社会主義思想も輸入されていろいろな実践がされていた。そこに福本和夫がやってきた、何を言ったか。それまで日本でやられてきたマルクス解釈や社会主義運動は全部エセだ、まがい物だ、ダメだと言う。本当の社会主義思想というのはこれしかない、この解釈しかないんだという形でやる。これが一瞬だけではあるけれども、ものすごい求心力を持ってしまう。当時の日本共産党の非合法化の背骨となる理論となる。私は、この時が一つの転機だったと思う。転機というのはどういう意味かというと、ある種、変革を目指す運動をする人たちの気風が変わってしまったということです。つまり、福本以前の社会主義者、無政府主義者は、良くも悪くもとてもいい加減だった。喧嘩をしてもいつの間にか仲直り、理論的には喧嘩をしていても、私生活では人間関係を保っていたり、という雰囲気があったと私は思う。どうも福本イズム以降、変わったのではないか。つまり、お前間違っているとなった時に、それは理論だけだはなく実践的にも人格的にも他者を否定する雰囲気が出来てしまう。福本イズムはソ連から革命的でないと否定されてしまうという過程を経て、福本和夫自身が失墜してしまう。ある意味、福本イズム的なものが、悪い意味で日本の運動の中に残存し続けた。
僕は、浅間山荘に至る連合赤軍事件は、それの一番極限的な形態だったのではなかい、と思っています。」

総合司会:金 廣志
「次に鈴木邦男さんから発言していただきますが、鈴木さんは早稲田大学在学中は全国学生自治体連絡協議会という民族派右翼の組織の初代委員長として、新左翼に対抗してきました。1970年の三島事件を経て一水会を結成しました。鈴木さんの側からご覧になった1960年代あるいは70年代の新左翼運動に対するご感想、連合赤軍に対するお考えなどをお聞かせいただけないかと思います。」

鈴木邦男(一水会名誉顧問)

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「鈴木邦男です。見ましたところ左翼、極左過激派、犯罪者ですね。(笑)青木さんは違うか。僕はずっと右翼運動をやっていまして、右翼の中でも内ゲバ的な要素はあったんです。特に1970年というのは、マスコミも政府も公安も、全て70年安保、70年危機と言って、70年には革命が起きるんだと言って、70年に左翼の連中が革命を起こす、日本で暴力革命をやるんだから、それに対して俺たちは闘わなければいけないと思っていました。ところが全然なかったですね。左翼を全力で潰したからでしょうね。ですから、70年を前にして左翼がほとんどいなくなっちゃった。左翼に対抗していた我々も手ごたえを失ってしまって、そうすると民族派学生の中で内ゲバが始まる。敵がいないのだから我々が学生運動のトップになるはずなのに、そうならないのはこいつらがいるから、あいつらがいるからだと。僕は生長の家の生学連(生長の家学生会全国総連合)という運動をやっていましたが、日本学生同盟という大きな団体があって、そこと内ゲバをやっていまして、しょっちゅう殴り合いをしていました。東京都学協というのを作ろうととした時に、我々が集会をしていたら日学同の連中が騒いで、それを廊下に引きずり出して僕らが殴りつけていたら、丁度、講師だった三島由紀夫が出て来て、「なんだこれは」と言った。もう、こいつらダメだと思ったんでしょうね。そういう風に右の中でもいろいろ紛争があったし、僕自身も全国学協の委員長を追い出されたりして、内ゲバの時代でした。でも、1970年に三島事件があって、こんなことやっていられないと思って、それがあったので、たぶん連合赤軍にはならなかった。我々だって、ああいう離れたところで皆で論争していたら、たぶん殺す気にもなっただろうし、これは他人ごとではないと思いました。ただ、そういう風にはならなかったのは三島事件があったからだと思います。
植垣さんと前に話した時に、連合赤軍事件で左翼は終わったと言われた。その時に、もし三島由紀夫や高橋和己が生きていたら、ああはならなかったと思った。それを阻止できたというのではなくて、評価が違っただろうと思う。みんな、ほら見ろ、左翼はあんな人殺しをするんだ、ということで終わってしまった。ところが、それを反省して更にこういう道もあったんじゃないかとか、いろんな事を言えたのは高橋和己や三島由紀夫だったんじゃないか。でも、三島由紀夫は1970年に亡くなったし、71年には高橋和己も亡くなった。この2人が亡くなったのが非常に大きかった。我々はざまあ見ろとか一般の人の言う気持ちは全くなかった。これは我々だって起こったかもしれない事件だと思いました。三島事件があったから救われた、僕はその時、産経新聞に勤めていたが、2年後に『一水会』を作りました。『一水会』のスタートと連合赤軍は重なっているが、非常に対照的だったのではないかと思う。」

総合司会:金 廣志
「それでは青木さんにお伺いしたいと思います。青木さんはBS朝日の『あさま山荘事件 立てこもり犯の告白』でインタビュアーを務めておられました。ここに座っている連合赤軍のメンバーの何人かにもインタビューされています。連合赤軍メンバーに対する印象について、率直なご感想をお聞かせいただきたいと思います。もう一つ、連合赤軍を扱うドキュメンタリーはたくさんありますが、当事者にいろいろ話しを聞いて、番組の中でいつも、どうだこの極悪犯めみたいなことで引っくり返している。青木さんは非常に誠実に、一緒に考えるというインタビューをされていたと思います。それは振りだけだったのか、心の中では全く違うことを考えていたのか、率直なご感想をお聞かせ下さい。」

青木理(ジャーナリスト)

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「こんにちは、青木です、あの番組は僕がやりたいと言ったというより、むしろスタッフがやろうということで、ある種、今のメディアというのは、みなさんご存じのとおり非常に不自由で、連合赤軍あるは浅間山荘事件のことを取り上げるのだったら、一番お手軽に作るのは、連合赤軍のメンバーに話を聞く一方、警察側の証言も紹介する。両方並べて警察は正義でこんな犯罪者たちと描くのが一番安全なんですけれども、スタッフはそれはやりたくない、むしろ連合赤軍事件とは一体何だったのかというのをきちんとやろうじゃないか、当局に聞く必要はないということで現場を歩き、連合赤軍のメンバーの方々にお話しを聞いた。
僕は単なるジャーナリストで極めてノンポリで、特に政治思想もなければ政治運動に加わったこともない、特定の政治団体、政治党派の支持もないですけれど、実は連合赤軍に関してはけっこう長く、外部からウオッチしてきました。僕は元々通信社の記者をしていまして、しかも警視庁記者クラブにいて、警視庁公安部の担当記者を1995年、96年ころからしていた。公安が監視対象としている人たちをウオッチするというが仕事で、その縁で鈴木さんとも知り合って、連合赤軍の皆さんには取材はしていなかったですが、そういう意味では公安警察の担当記者としてずっと見ていた。シンパシーは持っていた。
ドキュメンタリーを作る時に難しかったのは、僕も元々活字の人間なので、インタビュアーは初めての体験だったんですけれども、前提として、特に今の若い世代の人たちが観るということになると、あんたたちがやったことは悪いことだったよね、という前提を踏まえないと、たぶん観てもらえない、理解してもらえないとスタッフの皆さんは言う。僕もそう思いました。だから何度も何度も同じ質問をして、あなたたちどうしてこんなことをしたのか、あなたたちがやったことを今、どう思っているのか、正しかったのか正しくないのか、もちろん間違っていたでしょ、という前提で話を聞かないと成り立たないというあたりが、ひよっとしたら限界だったのかという気はします。
今日、皆さんと議論したいと思っていいるのは、日本のいわゆるリベラリズムみたいなものを、ある種、連合赤軍事件とその後の東アジア反日武装戦線狼とか爆弾事件が大きく変質させてしまった契機であったのは間違いないだろう。僕らの世代は無色透明、政治運動というものに学生たち若者たちが関わらなくなった、一つの大きな転機になったのが連合赤軍事件、浅間山荘事件。その前は、普通の人たちは、大学生のやっていることは過激だけど、言っていることは分からなくはない、というような感じがあったのではないか、と僕は勝手に思っている。僕は左翼ではないので、右翼の取材もしている。ちょっと前に『日本会議の正体』という本を書いた。その時に、鈴木さんがいた生長の家の学生運動が、今の日本会議の母体になっているんですけれども、そのメンバー何人かにインタビューした。彼らは『俺たちのことを何で今さら取材するんだ。俺たちは60年代後半からずっと同じ事をやっているだけなんだ。気が付いたら左翼がいなくなっただけで、何で俺たちのことを取材するんだ』という訳です。そのとおりだと思いました。連合赤軍事件は何だったのか、45年目ですけれども、捉え返す。たまたま僕がドキュメンタリーをやった時にスタッフからアイディアが出たんですけれども、シールズという学生諸君の安保関連法反対運動が起きて、あの運動をどう評価するのか、いろいろなご意見があると思いますが、たまたま起きていた。45年目にきちんと連合赤軍事件を総括しないと、日本の左翼運動というかリベラル運動というか、あるいは学生が政治に関わる、学生が政治意志を表明することがなかなかしにくい状況が続くのかな、と思っています。その辺を実は聞きたいと思って来ているところもあります。」

司会:椎野礼仁
「補足しますと、ドキュメンタリーというのは、BS朝日が毎週木曜日にやっているザ・ドキュメンタリーという2時間枠の番組で連合赤軍をやって、放送したら普段より視聴率が良くて、2ケ月くらい後に再放送になったという、その番組の話です。」

総合司会:金 廣志
「今、3人の方からもお話しがありましたが、私たちが1960年代の後半に活動している時に、正直な話、社会的には圧倒的なシンパシーを得ていたんですね。今は、左翼あるいは新左翼運動イコール悪、あの連合赤軍めが、あの人殺しめが、という通り一遍の言葉が連ねられているよううな気がするんですけれども、1960年代後半から70年にかけてというのは、社会的には新左翼に対するシンパシーが強かったと思います。ですから、三島さんも非常に危機感を感じていたんだろうなと思います。
これからフリーな感じでお話をしていただきたいと思いますが、一番極悪人だと思われている植垣さんから。」

植垣康博(当事者・赤軍派。討論スナックバロン経営)

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「極悪人の植垣です。白井さんの話の中で福本イズムの話が出ましたが、僕はもっと率直に言って、日本共産党がロシア革命の後のコミンテルンの日本支部として日本共産党が作られたことが、革命運動、左翼運動の上にものすごく大きな影響を与えたと思います。特に日本支部として作られた日本共産党の作風とか記述は、ほとんどソ連共産党の作風、記述が持ち込まれる展開になったのではないか。それがその後の日本の左翼運動を規定してしまったのではないかと思う。特にソ連共産党の組織構造は、政治局があって、中央委員会があって、地方委員会があって、というもの。日本の左翼諸党派はどれもこれも同じ組織構造です。その組織構造の基だと、どうしても一党独裁的な傾向が前面に出てくる。要するに他党派の存在を許さない。その中でスターリン時代の粛清も日本に持ち込まれてきたことが、日本の左翼の根底に巣食っていて、これが連合赤軍という形でボーンと表に出てきた。ただ、連合赤軍より前にあった宮本顕治たちがやった小畑達夫スパイ査問事件とか、正に連赤と同じでした。自分たちの追求で小畑が死んだことに対して、追及に耐え切れなくなったことによるショック死だ、という言い方をして彼らはそれを正当化した。それと全く同じ論理で、僕らは総括要求で仲間の死を正当化した。
そう考えると、福本イズムの問題もあると思うが、ソ連共産党の流れで日本共産党が作られて存続していったことが大きいと思うが、どうでしょう?」

総合司会:金 廣志
「明日の『赤旗』には、『未だ極悪人の植垣反省せず、責任を日本共産党に転嫁』そんな風に出ているかもしれません。(笑)」

白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)
「ちょっと今の話には違和感があります。確かに戦前、共産党でそういう作風が始まったのは事実だとは思いますけれども、新左翼は日本共産党に対する反撥から分裂・分岐したはずなのに、いつの間にかそれと似てしまった、ということでしょうか。」

植垣康博(赤軍派)
「組織となるとどうしても似てしまうところがある。その辺は高橋和己が『わが解体』で日本共産党のリンチ問題など取り上げている。本を読んで、日本共産党の方が先にこういうことをやっていたんだということに初めて気が付いた。連合赤軍の場合、武装闘争という世界に入ったことによって、武装するということは権力を持つということなんです。権力を持つことによって、自分たちの左翼の政治というものが具体的に実行したら、ああいう展開になってしまったという思いをしています。」

白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)
「そこで、先ほど青木さんが仰ったことと繋がってくると思いますが今、連赤について実りある形で振り返るような企画をマスメディアを通じてやろうとすると、とりあえず悪だと規定しないと話が通じない、それが問題だという話がありましたけれど、私が思うには、微妙な言い方になりますが、こういうのはよくあることなんですね。僕が一番印象を受けたのは、チェ・ゲバラの日記です。立派は人だったということになっていますが、最後、ボリビアの山中で殺される直前の記述を見ていると、山岳ベースにいた時の連合赤軍の人たちの精神状態に近い状態にあったということがよく分かります。本当に追い詰められて、飯もろくに食えない状況になってくるし、そういう条件の中で同志たちとの人間関係がものすごくギスギスしてきて、些細なことで心がささくれだって、ある種、殺意の気持ちまで覚えてしまった、ということを書いています。
つまり、こういうことは、何か一つ間違えれば十分に有り得ることなんだと。今、とにかく悪だよね、という前提でしか議論が始められない状況というのは何がまずいかというと、こういうことはよくあるんだ、本気で物事をやろうとすると、有りがちな危険性なんだということ、当たり前の事実だと思いますが、このことが隠蔽されてしまうことだと思う。作風の問題もそうだと思う。」

総合司会:金 廣志
「岩田さん、その辺どうですか?」

岩田平治(当事者・革命左派。会社員)

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「私は歴史的な流れの中で作風の問題だとか、共産主義のいろいろな流れの中から連合赤軍が出てきて、武装闘争という方針が出てきたのはそのとおりだと思いますが、私にとって一番の問題だったのは、何故私はそういうことを支持して、参加して、ある時はそれを信じて同志を殴ったのか、ということです。裁判の過程では、武装闘争を目指していた2組織が。金は奪ったけれど警察署を襲えない、銃は奪ったけれど警察署は襲えない、そういうことの中で2つの組織が、路線は違うというのはあったにしても、武装闘争を標ぼうしている以上は、お互いに闘おうとして闘えなかったという中で2つが一緒になって、闘えない原因は何かと求めた時に、条件が揃っているのに闘えないのは構成員の問題だということで、構成員の方に目が行って、構成員を点検する中でああいうことが起こったというのは、裁判の時の一兵士の立場の弁明だった。
それはそれとして、何で私はあの時に加藤さんを殴ったのだろうか、訳も分からずに反対も出来ずにああいう中に参加していったのだろうかと考えた時に、私が思っていた『共同幻想』、つまり革命とかそういうものの中で『対幻想』、恋人に対する愛情とか、そういうものが否定されていったのが、あの過程ではなかったのか。鈴木(邦男)さんが、以前、一番危険なのは愛と正義だと言っていましたが、愛というのは男女間の愛ではなくて、国家に対する愛とか何かに対する愛と正義という、そういう『共同幻想』が、個々の人間をああいう極限状況の中で突き詰めていった時に、殺していった。それが『幻想域』だけだったなら良かったけれど、そうではなくて、ああいう極限の突き詰められた中で実際にそういう形になった時には、まともに残った男女関係は何もない。私が出た後、森も自分の奥さんがいたにもかかわらず永田と結婚しなければならなかった。森さんも、自分を殺して闘いとして永田と一緒にならなければいけなかったのではないか。
私の中では、いろんな契機の中で私がそういうことを選んでいって、最終的にそういうものに参加して、ある時は納得しながらそういうことをやっていた、ということに対する向き合い方というのを一番考えなければいけないと思う。」

鈴木邦男(一水会名誉顧問)
「作風とかいろいろ言われましたけれど、それ以前に何か僕は、成功した革命と失敗した革命、それに尽きるのではないかという気がする。ロシア革命、キューバ革命、中国革命、または明治維新とか、成功した革命は、連合赤軍と同じような、あるいはそれ以上の内ゲバとか陰惨な事件があったけれど、ああいう輝かしい革命があったけれど、そういう中にこういう犠牲もあった、と温かくみんな迎え入れてくれる。ところが失敗する革命だと、ほら見ろ、こんな連中がこんなことやっていると言われてしまう。獄中から出て来ても、もう一回再審請求をして死刑にしろと言う人もいるくらいですから、そういうもので決められてしまうのではないか。
明治維新の時だって、水戸なんかではずいぶんひどいことをやっていましたよね。」

植垣康博(赤軍派)
「新選組は敵を殺した数より仲間を殺した数の方がはるかに多い。」

鈴木邦男(一水会名誉顧問)
「連合赤軍は新選組だ、と書いている人がいましたね。(笑)仲間うちに対する敵意と憎悪の方が、どんどん膨らみやすい。トランプを殺したいと思わなくても、裏切った仲間は殺したいいと思うでしょ。本当は愛だとか正義だとか、そういうものから出発したはずなのに、そういうもので人間を引っ張って行こうとしてもなかなか付いてこない。殺意だとか憎悪の方が人間を引っ張っていくには都合がいい訳です。今の自民党だってそうです。俺たちが頑張ってきたのに駄目だったのは憲法があったせいだ。ダメだったのは中国とか韓国がイチャモンを付けているからだ、と憎悪を燃やして他に敵を作っている。
今、『日本の暗黒事件』という本を読んでいたら、『永田は総括のターゲットとして美人の女性メンバーを選んだとも伝えられている』と書いてある。よくこんなことを言うね。それで連合赤軍で、徹底的な悪はこいつらだと言われて、どうなったかと言うと『本来あるべき市民運動や労働組合争議までも下火になり、代わって狂信的な宗教集団や差別を助長する極端なナショナリズムが出現する』。確かにそうなったよね。全部、連合赤軍のせいだ、と思いました。」

司会:椎野礼仁
「青砥さんから発言をお願いします。」

青砥幹夫(当事者・赤軍派。会社員)

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「山の中での一番重要な発言は、亡くなった山田さんが中央委員会の中で『死を突きつけても総括要求にはならない。何故なら死は一般的なものだから』というお話をなさたということを、僕は聞いています。このことは、山田さんの本意ではないと思いますが、どうして重要かと言うと、我々は総括要求の中で死を突き付けているという明確な意識があったということです。組織の中で、どうしてそういったことが可能なのか、そこが一番問題だとずっと考えてきました。
先ほど、ブントが日本共産党を批判する形で出てきた。それはアンチテーゼとして出てきたわけであって、批判する観点はたくさん持っていたけれども、それを克服するような組織形態をついに獲得できずにあのようになってしまった。至る所で革命が全て潰えていく、それは何に原因があるのか。共産党の組織構造に問題があるのか、あるいは人間の集団の中での構造に問題があるのか、あるいはそれを乗り越えられない人間の倫理観に問題があるのか、とか様々な問題があると思います。私はどうしてもゲバラが最後に残した言葉にこだわざるを得ない。
一つの小さなイデオロギーと称するものを突き付けて、お前、これに命を懸けろ。これに命を懸けられないのだったらお前を殺すぞ、という組織がいたるところにあると思う。我々もそうだったと思う。そういものがどこから生まれてくるかということが、一番大事な話だと思います。まだ結論が出ません。」

司会:椎野礼仁
「植垣さんと青砥さんは、現場に最後までいた。前澤さんと岩田さんは途中で山を脱走した。その辺の違いがあると思いますが、前澤さん、どうですか。」

前澤虎義(当事者・革命左派。建設会社現場チーフ)

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「最後に残った2人と僕の違いは、森の出した総括の目的・方向というものが、初めから俺は信じられなくて付いていけなかった。総括について最初から付いていけなかった。そこが違いじゃないかと思う。」

司会:椎野礼仁
「岩田さんは。」

岩田平治(革命左派)
「私は、森の言動というが理解できたというか、こういう風にやっていかなければけないと思っていたんですけれども、結局、最終的に私が離脱する前に、名古屋に出された時に、私の当時の彼女と、山の中で知り合った小島さんの高校生の妹の2人を山に連れて行く、そういうことだったんです。ただ、歴戦の人たちが革命戦士になれなくて死んでいる。私たちが殺した。にもかかわらず、私の彼女は革命をやろうと思っていたわけで何でもないし、高校生の小島さんの妹は山には来ていたんですけれども、まだ16歳です。そういう人たちを連れてくるということの意義ですよね。そういうことを考えた時に、もしかして私たちの目指していた革命は正しいかもしれないけれども、もう、これには付いていけない、自分の嫌だという気持ちを前面に出さなければいけないということで、山に帰っていった時に離脱を決意して逃げた。その後、更に引き続き6人も7人も仲間を殺害するとは思っていませんでした。もう私が(山から)下りた時点で終わりだと思っていた。ですから、私が逃げた後、指導部はどう考えていたのか。『岩田の野郎、公安に捕まる前に俺たちが捕まえなければいけない。そのためには何が何でも岩田を捕まえなければいけない。』ということで動くと思っていたんです。妹や家族を人質に取って、『お前出てこい』、と言われると思った。」

総合司会:金 廣志
「それはある意味で死を受容していたということですよね。」

岩田平治(革命左派)
「そうです。自分は参加した時点で、仲間を殺すということは別として、組織にいた以上は、自分自身は警察官と渡り合って死ななければいけない、と覚悟していました。」

植垣康博(赤軍派)
「岩田さんが逃げたという報告があって、逆に、山順君が追及されるはめになった。逆の展開になった。岩田さんのことは、その後、話題にもならなかった。それよりも、もし捕まったら喋るだろうから、ベースの移動を早めるとか、むしろ岩田さんの問題よりも、岩田さんが逃げたことによる反作用があった。」

総合司会:金 廣志
「岩田さんは、森恒夫さんに最も高く評価されていた。最も信頼されていた岩田さんが離脱した。そして、植垣さんの話ですと、岩田さんが離脱した後に、そのことを話題にもしたくなかったということなんでしょうね。森さんに対する評価というのはどうなんでしょう。」

司会:椎野礼仁
「少し前提を説明します。総括が何故起こったかというと、森恒夫という当時のリーダーが、自己の共産主義化を極めろ、という前提があって、自己の共産主義化を総括できない人から総括しにいくという状況があって、その森恒夫というのは赤軍派、つまり、植垣さんと青砥さんの派の人で、森は後から連合赤軍になってリーダーになった人という前提があります。」

岩田平治(革命左派)

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「私が森さんに初めて会ったのは、新倉で銃の訓練があった時で、その前の過程の中で、革命左派の指導者、坂口さんや永田さんに飽き飽きしていた。非常に場当たり的な方針しか出さない。なおかつ私が集会の時に派遣されていったにもかかわらず、その集会を壊すようなアッピールを持て来るようなことがあって、意見書を書いたりしていた。革命左派の指導部に飽き飽きしていた中で、森さんの説明とか論理付けは素直に私の中に入ってきたということです。そういう意味で評価した。それと、過去に逃げたということは知らなかったし、堂々とした指導者に見えたし、植垣さんとか坂東さんとか山田さんというしっかりしたスタッフを抱えて、指導者としての素質も力量もあった人だと思っている。やったことが良かったか悪かったかといえば当然悪かったと思うし、その責任は非常にあると思いますが、そういう意味での指導的な力量というか論理的な意味づけをしっかりできた人だったと思います。」

総合司会:金 廣志
「反対の評価になると思いますが、前澤さんどうでしょうか。」

前澤虎義(革命左派)
「森さんの評価は、あまり知らなかったのでよく分からない。僕の場合は学生運動を全くやっていなくて、高校を卒業して労働者になって、そこで活動を始めたので、いわゆる新左翼の論理の立て方はなかなか分からなくて、運動に共感は持っても参加できなかった。何言ってるのだか分からない。どちらの方向に行くのか分からない。ただ、街頭デモとか、権力に対して闘っているという点では共感を持っていて、組織に参加しないで野次馬でデモに行ったりとか、しばらくやっていた。そういう意味で、僕から見ると森さんも学生運動なんだよね。革左の部分は学生運動っぽくなかった。その辺から入っているから、森さんの評価は、一緒にいた時間がすごく短いので、評価が定まらなかったという感じです。」

司会:椎野礼仁
「ゲストの方から聞いてみたい、確認したいということはありますか。」

鈴木邦男(一水会名誉顧問)
「山から逃げた人は、今から考えると正しい。でも、逃げたということに対する贖罪感はあったのか?」

岩田平治(革命左派)
「当時は贖罪感というのはあったけれど、今はそういうことがあるわけではない。紙一重の選択の差で十何年と五年の懲役の差になった、逃げたことの贖罪感が、残っている人に対してあるかというと、今はそれはない。」

鈴木邦男(一水会名誉顧問)
「植垣さんは、逃げている人を見て逃がしたということを言っていましたね。その時は追いかけて捕まえようと思わなかったんですか。」

植垣康博(赤軍派)
「思わなかった。逃げたい人はどんどん逃げた方がいいのではないか。僕にしても青砥さんにしても、始めから森さんの総括要求に全面的に同意していた訳ではない。常に懐疑的な思いを持ちながら総括要求に参加していた。早く終わって欲しい、それまで耐え忍ぶしかないというところですね。」

鈴木邦男(一水会名誉顧問)
「二つの組織が合体して、その対立みたいなもので総括や殺人が起きたような気がしますが、だったら、最初から赤軍だけでやっていればよかったのではないですか。」

植垣康博(赤軍派)
「たぶんね。ただ、それをきっかけにして、ああいう展開になったことによって、日本の左翼運動の抱えている問題、そこから更にロシア革命以来の共産主義運動の革命の歴史が同時に虐殺の歴史である、そういう問題に僕ら自身、自らの行動でもってそれにぶつかったのではないのか、と思っている。あの事件はない方がいい、絶対によくない。でも、あったことによって初めてぶつかった問題でもあった。」

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白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)
「偽らざる当時の心境としては、早く終わってくれないかなということだったと思うんですけれども、訳が分からないんです。訳が分からないというのは、森恒夫氏の言ったところの共産主義的人間にならなければいけない、というのもよく分からないし、一体、どういう人間なんだということだし、それから、武装闘争をやるということで訓練をしている段階にすぎなくて、これから本当の戦争をやるんだという段階のはずなのに、当事者としては早く終わってくれないか、と心の中で思っている。
正直なところ、客観的に本当に革命とかやっているように見えない。だから、浅間山荘の時でも、警察が持ち出してきた論理は『何を言っているんですか。目を覚ましなさい。』ということになってしまった。この訳の分からなさは何だったんでしょうね、ということです。そこが未だに解けない謎です。」

植垣康博(赤軍派)
「総括要求があって、最後は機動隊と衝突するわけですが、遭遇した時の解放感といったらなかったですね。これでやっと闘えると。」

白井聡(京都精華大学専任講師 日本思想史、政治史)
「僕は若松監督の映画を観ていて、山から下りて軽井沢に出て来た時の解放感といったらなかったですね。やっと出て来てくれたという感じがあった。」

植垣康博(赤軍派)
「若松監督の映画ではうなだれて歩いている。ところが僕らは全然うなだれていない。やったるで、という気持ちでやっていたから。」

青木理(ジャーナリスト)
「連合赤軍の人たちにインタビューして、文献もほとんど読んで、僕なりに思っているのは、一つは政治運動というのは過激だったり先鋭的だったりする方が、ある種注目される、かっこいい、評価されるというのが一つ。それから、正義というもの、自分は間違っていない、正義なんだと思った時に暴走しやすい、ということが一つ。それから、連合赤軍に関して言うと、赤軍派にしても革命左派にしても、ある種、弱者連合なんです。警察に追われて、山の中で武装闘争の訓練をすると言えば聞こえはいいけれど、ある種、山に逃げ込んだという側面があって、追い詰められている、あるいは追われている者の焦燥感というのものが、おそらくすごく影響したんだろう、と思った。それと、外の情報が入ってこない閉鎖空間であることが一つ。それと、組織とか集団の論理に抗わない、埋もれる、評価は違うかもしれないがリーダーが未熟であったということです。
こうやって考えると、連合赤軍に限らずどこでも起きうるだろう。そういった状況に陥った時に、果たして僕は逃げ出せただろうか、ということを考える。それは全員が考えなくてはいけないと思います。今あげた要素というのは、最近の日本はそういう状況になっているのではないかという気がします。」

(一部終了)

※ ブログ掲載記事は発言の概要です。聞き取れない部分などは省略しています。また、話し言葉なので、分かりやすくするために書き言葉に書き直している部分もあります。正確な内容は、「連動赤軍の全体像を残す会」が発行予定の「証言」12号をご覧ください。次回は第二部の発言概要を掲載予定です。

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は8月18日(金)に更新予定です。

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「週刊アンポ」で読む1969−70年シリーズの9回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969−70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、前回に引き続き都立立川高校闘争の記事を掲載する。「週刊アンポ」第8号に掲載された記事である。

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【高校生のひろば 週刊アンポNo8  1970.2.23発行】
―あなたがたが処分闘争を貫徹されることを希みます。自分はなにもしないくせにと思うでしょう?私もそう思います。理解してくれとはいいません。ただ許してほしい。(往復書簡より)―

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 都立立川高校の生徒たちにとって1970年の夜明けは、悪夢とともに始まった。12月31日、4名の退学処分(大晦日の深夜、処分通告の呼び出し電話!)。24名無期停学恫喝―確約書」処分。
 右に引用したのは“ノンポリ”生徒から、退学処分を受けた一人、古川杏子さんへ宛てた手紙の一節だ。次ページに、その全文と、古川さんから彼女へ宛てた返事を掲載した。
 昨年の10・21から11・25までの立川高校闘争の経過は「週刊アンポ」第3号“高校生のひろば”を読んでいただきたい。その後まず生徒会長が辞職した。(どの高校でも、生徒有志が質問状なり要求なりを出した時、学校側は「非合法団体だから」という理由で取り合わない。そのホンネは、立川高校では生徒会での大衆的な支持があったにもかかわらず。「執行部は一部の生徒の代弁者になっている」という理由でつき離された)さらに中央委員会は議長をリコール、自ら解体を決議した。そして収拾策としての会長選挙は大衆的な阻止行動で1日延期され、結局全校生徒の4分の1そこそこの投票率で強行された。
 学校当局は最後の切り札として処分を持ち出したのだ。しかし、冬休み明け1月8日から再び闘いは始まった。連日の校門前ビラまき、それを阻止しようとする教師たち。私服刑事たち。(腕をねじる、地面や壁にたたきつけるーヘルメットは必需品―なぐる、ける、服を破る)ことはもとより、門の内側にはテレビカメラがすえられ、校長室、教頭室、職員室に受像機があるという。(しかも「朝日新聞」の記者が取材に来ると、その日に限って妨害はなかった。下の写真は1月19日、校門前。中央が古川さん。手、顔をつかんでいるのは、立川高校の教師たち。

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<第一の手紙  真実の無意味さ>
 古川さん、お元気ですかーこんな空々しいことは書きたくないけれど、悲しいかな私にはこの際、他に適切な言葉が思い浮かばないのです。それに実際お元気かどうか心配なのです。
今週の月曜日から一度もあなたの姿をみないし、他の人たちも門前でみかけないようだから。
 あんずちゃんーあなたはこう呼ばれてだれからも親しまれていた。今だって、あなたのことを話すとき白々しくも古川さんという人は滅多にいません。私は貴女と直接、あまりおつきあいしたことがありませんが、でも1、2年同じクラスで時々お話しをしましたね。私にとってあなたはしっかりしていて、その考え方には、とてもついていけないような気がしていました。仲よくお話しもした代わりにずい分貧弱で(私がですよ)力量の不均衡な論争もしました。私はそのたびに、自分の不勉強を自覚させられましたが。
 10月21日の反戦デーには私は参加しませんでした。理由は、反戦の何たるかを考えず、安易に戦争反対を叫んで、しかも反戦と授業放棄との関係や、反戦デーをきっかけにして展開されるべき運動についての何らの見解ももちあわさない人が大半だったからです。(私がそう思った人の多くは後の民青の主力にさえなりました)また、21日以降のバリケードストライキにも反対でした。主旨がよくわからなかったし「解放バリ」という閉鎖状態の矛盾を感じたからです。でも、24日にバリの中からやってきたあなたと一寸お話しをして、私は少なくとも貴女方の主張のごく皮相な面を理解できたと思いました。そして、それまでもっていた自分の中の矛盾、今までの秩序を肯定すべきだという義務感と、全ての抑圧を排撃すべきだという権利意識の萌芽を整理し、家族や教師や目上の組織全てに対する義務を廃する方向にすすむという決心をすることができました。あのころから私は、今までの教師に対する「(できない)模範生」のからをつきやぶり、親に対する「家の子らしいいい子」のわくを脱しようと試みはじめましたので、双方に急に反抗的になったとみられたらしく、教師からは生まれてはじめていやらしい皮肉を浴びせられ、家でも父にやんわりと、社会主義のおそろしさについて説教されました。でも、自分で考えて自分で決意した生き方だと思うと、そんな大人のイヤミなどは平気でした。大杉栄にひかれ社会主義をもっと勉強する必要があると痛感したのも、そのころです。
 でも、私は結局そこまででした。私は何も行動することができなかった。それどころか目前にせまる受験におののき、授業再開の現実の必要性と、真実の無意味さのジレンマに悩むばかりで、厳然たる現実の前に私の決心も怪しくなるのでした。そんな私にも警察官導入とロックアウトはショックでした。家でいくらはなしてみても「警察はあなた方を守ってくれるのよ(共に闘い、共に進むべき友からわれわれを守ってくれるとは、有難い保護だ)」
というごく常識的且つ、消極的な誤解の中で話は終始してしまうし、一人で考えても、友人と話しても何の解決も得られないばかりか、授業再開必至という冷たい壁がすでに私を思考から隔絶してしまっている。今さらどうしようもない、という気持ちで私は結局、上辺はもとの「模範生」「いい子」にもどり、内職しながらも授業に顔を出したり、父と大学の相談をしたりすることを余儀なくされてしまったのです。
 私があの闘争の中でたとえ何らかの行動を起こしたとしても、それが余程のことでない限り、処分の対象にはなり得なかったでしょう。私の経歴がきれいすぎるからです。それにしてもあの処分!
 私はお正月の7日間を暗い、憤った気持ちですごしました。元日に新聞で処分を知った気持ちはなんともいえません。処分そのものへの怒りと不安とが、私にお正月気分も感じさせず、勉強に手をつけさせませんでした。
 そして8日の門前の闘争と教師の冷たい眼差し。私はそこにはじめて、教師の本当の姿、仮面をはいだ赤裸な姿をみたような気がしました。それなのにあなた方の闘争に対して、なんの態度も示さず、単に教師から顔をそむけてとおることが精一杯の抗議であることの辛さ。私は今まで、信じたい信じたいと念じてきた教師とあなた方のあの闘争に何度、口惜しさ、情けなさの涙を流したかしれません。
 毎日を、受験勉強に淡々としている今、私は完全なる敗北者以外の何物でもありません。大学に入っても闘争は私から縁どおいものであるでしょう。自分のいくじのなさが今からおしはかれるのです。
 でも、私のように自分ではなにもできないおくびょうものでありながら、あなた方の闘争を自分たちの闘争にしてゆきたくて声なき声援を送っているものも多いのです。私はあなた方が処分闘争を貫徹されることを希みます。自分はなんにもしないくせに、と思うでしょう?私もそう思います。理解してくれとはいいません!ただ許してほしい。この体制が私のような人間を多く育成していることを考えて。
 友人のMさん二人がこんなことをいいました。「何らの前提もなく、相手の人格や思想に対する認識もなしにお元気で、などというのは無責任で、おかしい」「敵に対してその健康を祈るのはおかしい。教師がバリの中の人の“健康を慮って”説得するというのは欺瞞である」。この人たちと同じ立場から私は貴女に心から言います。 
「健康に気をつけて」と。「健康に気をつけて、決して敗北者とならず、挫折せずに闘ってゆかれることを祈っています」と。
1月31日
立川高校の一盟友より

<第二の手紙  明日はない>
 手紙、ほんとうにありがとう。夜寝れないことを除いて、たいそう元気でいます。
 10月にはあんなにきらきら明るい微笑みと躍動する肢体と諂いの意志が重なりあって「生活」をつくり、進歩と増殖と蓄積の巨大な貧しさでぬり固められた日常性の蔓延る、そのシルクスクリーンを、べったり闇に塗りつぶすんだ!と駆けだしたのに、あなたの手紙を、読んだら、まるで権力を睨めつけつつも、踏みにじる側と踏みにじられる側との、相互了解性があるようで、あたしたち、90日たっても、やるせないほど脆弱いのだと思った。
 70年に入って、少年係から公安へ、私服2名から16名へ、制服20名から60名へという官憲による立川警備体制の強化の中で、更に高揚する緊張関係の創出において(それも「生徒会」などという、居直りの安住地帯を破壊した地平でーそれはまた、一切の何々主義者の大衆操作の場をも奪いとる、自立の拠点でもある)どこまでやれるか、という信じられないような賭けとして、処分闘争は始まったのでした。そして、立高襲撃闘争は、根源的な混乱状況の創造を、最も厳しい弾圧化で実現する、極めて、ラディカルな性質を、あなたにもみせつけたにちがいない。魂の痙攣で闘争があるのでない限り、この賭けは、「絶対処分させない」ところから複び永久律動の輪を広げてゆくでしょうし、あたしたちみんな極左冒険主義者で挑発者で犯罪者で、最後まで憎まれ役でありたい。とはいっても市民社会秩序での遠近法で区切られた時間間隔の渦中では、「革命的前衛」が「展望」を語る時さえ、それらの威厳に溢れた言葉の端にぶるさがってしまう市民社会への幻想は、どうしたってあるのだ。
 1月31日の大量処分、立高アウシュビッツ粉砕の街頭デモで、2人の仲間を官憲の手にわたしてしまって、あとの集会で多くの人たちが「彼らへの真の連帯は、われわれの闘争そのものだ」といっていたけれど、あたしってば、やっぱりそうしてみんな立川署取り囲み、奪還闘争を組織しようとしないのかと思ったんだ。でも、それだって思うだけ。そうして「蜂起の日まで」という発想の杣(そま)に住む魔物は、一方では「今はその時でない」と<今日>賭けに全額をはたくことにおびえ、一方では、「耐えてゆく」思想性と綱領の獲得に溺れてゆく。こうして現在を明日に売りわたす時、全生活の中で失われる、とりかえしのつかないものは何か。類型は。権力の側の終身刑の鉄則だ。生かさず殺さずうまくやってきた奴ら、「明日という字は明るい日と書くのね」という残酷このうえない歌に「俺たちに明日はない」と叩きつける、そんなこと第3世界でしかできないとうのも実はデマなので、結局何に敗けるったって、こんなに凄まじく暖かい化物やられるほどみじめなことはない。あたしはといえば、スターリニストふぜいに首切られて、殴られ蹴られ、体育科教師どもからは「お前なんか女じゃない」と罵倒され(あいつらは女を知らない。女というのは、もっと強いものだ)それでも極左の方針だし続けられるだけの生活感覚と技術と肉体をもっているわけではなかった。切断された首が視た世界の視野は気の遠くなるほどでかくて、自己否定なんて言うと、自分でうそいってるんじゃないかハラハラ涙が止まらなかった。でも、云々の覚悟がなければ闘えない、とか、云々の立場でなければ闘えない筈だ、とか、「語る言葉がない(ある)」の一切合財、いつだって抑圧者の側の「闘わせない」論理でしかなかったじゃないか。あたしたち、市民社会の甘い汁を吸っているどの瞬間からだってニタッと笑って、ひっそり立ちあがってゆく。
 凍てついた路上で、軍手をはめた番犬たちと、あたしたちと、鉄格子の陰に潜んだ私服との乱れた境界に、「通りがかりの者ですけれど」とかウソついて侵入してきて、したり顔で「先生の言うことを聞きなさい」「静かに勉強しなさい」「なんです、その乱暴な言葉は」とか、ヘドのでるような御託ざっくざっく並べたて、あたしたちの引き裂かれた衣服は視ないことにしていた母親たちーあなか方が間違っている。あたしたちの一人が「平和なんて欺瞞だ」と叫んだ時、ズラッと並んで一斉に、ウキウキと狂信的なまでに笑った母親たちのあわさった歯と歯の間で噛み殺されてゆく叛逆の嬰児は、「母」の大古墳をつくるだけの量になるだろう。ともかく、「生活」の陰に隠れようとしたって誰も隠れられる生活なんて持ってやしないのに、持ったことにしている自己操作で街は一杯だ。
 あたしたち、敵とか味方とか、状況においての一回性ぬきで規定するのやめよう。語っている肉体が忘れ去られれば、言葉は現実感覚でのワン・クッションになり下がる。沈黙がじっと危機的様相をおびて立ちすくんでいるのなら、あたしたち、再び街で出会うことによって、これらの言葉は、かき消されなければならない。あなたの、そしてあたしの肉体のつき刺さった「闘えない」部分の咎科の痛みは、じゅくじゅくとあたしたちを苦しめるだろうけれど、いまのところ痛みを全身にひろげていく以外、まともに他人の顔みて生きてゆく方法はないように思えます。
 あとになりましたが、まったく無断で、あなたの手紙を公開してしまってごめんなさい。どうしても、誰があなたの手紙を受けとったか知らせたくて、この雑誌にお願いして載せてもらいました。あなたの顔をあたしが知らないのは、あたしの恥です。では、お元気で。
2月5日
あんず

以上、「週刊アンポ」第8号に掲載された都立立川高校闘争の記事である。
この古川杏子さんのその後が、「高校紛争 1969-1970」(中公新書2012年 小林哲夫著)に載っているので引用する。

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【「高校紛争 1969-1970」 舞踏家 古川あんず】(引用)
 横山淳が都立立川高校を退学処分となったのは、同校の封鎖に関わったからである。1969年11月のことだ。このとき、4人が退学処分を受けたが、この中に古川杏子(きょうこ)がいた。のちに、古川あんずという名で世界的に知られる舞踏家となる。
 67年、高校1年の古川はブントの「社学同高校生委員会」結成大会に最年少で参加しており、感性豊かな早熟少女として、高校生活動家のあいだでは有名だった。
 1969年10月。立川高校(立校)の文化祭で演劇部、社研部、サッカー部、剣道部の有志が唐十郎の戯曲『由比正雪』を演じていた。客席には唐が主宰する状況劇場の麿赤兒、四谷シモン、李礼仙の姿があった。社研部の古川あんずが状況劇場に電話をかけて『由比正雪』を演じる許可を求めたことから、所属の看板役者が観に来てくれたのである。
 69年の文化祭から1週間後の10月22日、古川たち生徒十数名が校舎の一部を封鎖した。シャッターの内側にはロッカーを並べ鉄線で縛った。スローガンは「反戦、反安保、教育秩序に総叛乱を」だった。26日に封鎖を解除する。
 11月15日、生徒有志が成績評価、処分制度、生徒心得などの撤廃を訴え大衆団交を要求、再び封鎖する。翌日、学校は警察官を導入し封鎖生徒を排除した。
 12月31日、学校は中心メンバーの古川、秋山たち4人を退学処分にした。古川たちは、年が明けて処分撤回闘争を行い、学校内に突入しようとした。古川は教師数人に両手両足を抱えられた状態で、腕をねじられ、顔をつかまれて、排除される。
 70年9月、封鎖、退学になった生徒が中心となって『立高新聞』を作る。2〜4面は古川の論文が掲載されている。大量処分が理不尽であることを次のように喝破する。
 「思想を処分するのではなく行動を処分したのだとやつらが『社会的責任』という市民社会のよりよき番犬の標語をうたいあげる時、思想はマスターペイションとしての過去の『学問』のしかばねに転落せしめられ、その『学問の自律』論が『処分』する側の主体の自己切開をもはぐらかす役わりを果たしてきた」
 退学処分を受けた原田武久は古川をこう振り返る。
「−妥協を許さない厳しさを持っていましたが、凜々しくきれいな女性であり、だれからも好かれていました。とくに女子に人気がありました。彼女が書いた文章は絢爛たる筆致で今なお輝きを失っていません。」
 その後、古川は定時制高校に編入して、桐朋学園大学音楽学部作曲科に入学する。舞踏集団の大駱駝艦に入ったのは20歳のころだ。
 2001年10月、古川はドイツ、ベルリンで亡くなった。舌癌だった。享年49歳。
 翌11月にお別れ会が行われた。何度も共演したジャズの山下洋輔、舞台女優として活躍した大駱駝艦の恩師である麿赤兒が並ぶ。麿はあんずの遺影にこう語りかけた。「天使の羽は腕力があまりに強すぎて、あまりに遠くへ飛翔してしまった」(「朝日新聞」2001年11月19日)。「あんず」は天使のフランス語(“Ange”発音はアンジュ)にちなんで名付けられた。

(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は8月4日(金)に更新予定です。

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「週刊アンポ」で読む1969−70年シリーズの8回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969−70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第3号に掲載された都立立川高校闘争である。この号では教師から見た闘争が書かれているが、第8号にも処分された生徒の手紙が掲載されている。今回と次回の2回にわたり、都立立川高校闘争の記事を掲載する。

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【一教師のみたバリケード闘争 週刊アンポNo3  1969.12.15発行】
都立立川高校 浅野虎彦
10・21は本校でも集会が玄関前の広場で朝から持たれ、熱心な生徒諸君が討論をかわしていた。しかし、いわゆる受験体制中のノンポリが多いため、参加者は少なかった。論理で立ち向かえない教師たちはそれを利用して、全生徒から彼らを浮き上がらすような宣伝をした。
 過去何年かにわたる学校側の非教育的な環境は、生徒諸君が安保・沖縄問題などを真剣に考えることを妨げてきていたが、そうした環境のために集会に参加しようとしない生徒の関心を喚起する目的で、一部の熱心な生徒のグループはついに同日夜中、教師警備の虚をついて教員室1、教室8を封鎖してたてこもった。
ただちに緊急職員会議が開かれた。すると、真っ先に一部の教師集団が(右翼でない)発言し、生徒諸君を暴力学生ときめつけ、犯罪者であるという前提で審議することを提案した。これに対し、右翼系の教師たちも異議なくこれに同調した。またその他の教師連中も身の安全を計るために完全に沈黙し、職員会議は両者の思うように動かされていった。
時日が経過した10月25日、私はこれ以上封鎖を続けることは不利であると判断した。そこで私は連絡をとってバリケードの中の生徒の代表者と会った。私はこの自分の判断を中の人に伝え、彼らがそれについて充分討論し、もし同様な結論に達したならば戦術を転換しなさい、と話した。彼らは結局私の意見と一致したようで、翌26日未明、彼らはバリケードをといた。
これにはバリ中の生徒の父兄までが、教師の暴力的妨害を排除して彼らの封鎖解除を手伝った。彼らは整然として校外へ立ち去ったのである。
そのバリケード封鎖の跡は完全に元の形にもどされており、いやむしろ前よりもきれいに掃除され、もちろん器物の破壊などは一点もなかった。
解除後、教師たちは中に入って破壊の跡の証拠写真を撮ろうと、カメラを持って血眼に走りまわったが、その目的はまったく果たすことができなかった。このことはさらにこれらの教師をいらだたせ、自ら無謀な行動に走り、新聞紙上で笑われるようにまでなった(後述)。
彼らは、このような解除はおとなの指導がその裏にあるに違いなく、非常に長期間に亘って計画されたものであると、さかんに力説した。翌日、会議の席である印刷物が職員に配布された。おそらく連日、宿泊警戒していた教師の中の特定集団が書いたものであることは、以下の文章をお読みになればわかって下さると思う。
『事態の性質について
 69年10月から11月にかけての情勢の中での一連の動きの一環としての政治問題であって単なる学内問題、教育問題ではない。その動きは民主的な組織及び個人に対して分裂と混乱をもたらし、退廃とあきらめにもちこみ、ファシズム的な体制への移行の条件をつくりだすものである。これ故に極左をよそおいながら容易に右翼的諸団体やアナーキズム、ニヒリズムとも、あるいは単なる精神の荒廃(非行的な)とも結びつきうるものであることは、今われわれが目前にしているところである。
 こうした動きはすでに大学では展開されてきたが、大学立法等によって大学を拠点とできなくなった現時点では、高校にまでおりてきて、生徒の歪みや弱さを拡大しながら利用して全国的に高校教育と高校生を荒廃させようとしている。
 従って全高校が狙われているのであるが、とりわけ立高は日比谷、青山、都立大附属等とともに現在の立高の廃校にまで至りうる徹底的な攻撃の目標高の一つである可能性は充分にある。この攻撃に対する闘いは心情だけではない展望をもった統一と団結以外にはない。(中略)われわれはこの情勢の中では教師と生徒の、生徒間の、教師間の団結を強め、はげまし合いながらも、われわれの分裂をきたすようなまた、バリストグループを援助するような部分についてはきびしい批判をもってのぞむのは当然であり、生徒、父母であってもあいまいな部分に対してはきびしい警戒をゆるめるわけにはいかない。』
 以上のような文章が高校教師の間でなんの異議もなく承認され、教師間の共通意志として確認されたというような、そんな職員会議がほかにあっただろうか。

<学校教師の背信行為>
 バリがとかれてから、これらの教師グループは、生徒の中の民青系グループを使って。彼らの方針にそったいわゆる学校民主化案を次々と代弁させ、しかも時々その代弁者を交代させてその陰謀を隠すというような工作も忘れなかった。その結果、ついに彼らの策動は成功し、授業再開へのホームルームが始められるようになった。
 しかし、バリストの諸君は教育の前提となる処分制度、単位、成績表、検閲制度、出席率の撤廃を要求する公開質問状を、百余名の生徒の署名をそえて学校側に示し、その回答をせまった。だが、学校は「君たちとは住んでいる世界が違うから話し合えない」という暴言まではき回答を待つ生徒を残し、夜中12時過ぎ学校を出て行った。
 翌16日も午前中は同様な対立が続いた。午後になると校内にいた教師は、生徒の「話し合おう」という叫びをきかずに帰っていった。ところが、そのあとどこかわからない所で何かを決めた教師たちは、夕刻になって再び隊列を組んで校門に入り、「不退去罪になるぞ」とおどしつつ生徒の引き抜きにかかった。
 事態の重大さを感じたある生徒が、電話で私に急を告げてきた。私がかけつけた時には、何ら険悪な空気はなかったものの、対立はまだ続いていた。私は両者の意見を聞いたうえで、生徒から出されている校長への質問書を学校側が受け取り、生徒集会でそれに回答するよう要求したが、校長は頑としてそれを拒否し、あまつさえ早く帰らないと警官を導入すると恫喝し始めた。私は繰り返し事態の重大さを校長に説き、質問書の受理をせまったのだが、ついに11時校長は「警察の方、私は立川高校の校長です。入ってください」と要請した。こうして警官隊の実力行使が行われ、生徒諸君は校外に押し出されたのである。

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 このことについて言えば、学校は前々から警官は入れないと誓言していたのだし、また組合の校内委員の教師たちも組合は絶対に警官導入に反対するという印刷物を生徒に配っていたのである。だから、この警官導入は絶対に許せない学校教師の生徒諸君に対する背信行為である。

<生徒を車輪にかけて>
 このことで再び事態は悪化した。それにろうばいした教師たちは、警官を入れたのは止むを得なかったという、生徒を対象にした説明会を11月20日、雨の降る中で所もあろうに多摩川畔の空地で開催した。そこで彼らは一方的に学校の意見を押しつけ、生徒の中の質問のあるものには紙片に要旨を書かせて内容を制限し、時間も一人2分に限るという強い姿勢で臨んだ。午後4時となるや、約束の時間がきたと称して教師たちは用意されたマイクロバスに乗り、もっと話そうとバスのまわりをとり囲む生徒を、まさに車輪にかけるようにグイグイ車を動かさせ、居合わせた母親たちの、危ないからやめて下さいと叫ぶ声も聞こえぬふりをして去って行ったのであった。
 このことはさすがに各新聞社も重視した。今まで消極的であった社をふくめて、各紙の都下版はこの事件を大きく取り上げ、学校の卑劣さを市民に初めて明らかにしたのである。あわてた学校は、この記事は事実をまげて報道しているという印刷物をつくり、全父母に速達で郵送したが、これこそ恥のうわぬりをする以外の何物でもなかった。
 以上のように立川高校では、都立の各校に起こっているバリストの中でも全く並はずれて異常な紛争状態を、教師自らが作り出しているのであり、その対策も非常識なやり方を続けて、事態はますます困難になっているのである。
 きょう(11・25)も組合では本部委員会を開いたが、学校管理職が父母たちに配布した印刷物の写しまでが、日頃「赤旗」の購読を勧めて歩く本部委員によって、臆面もなく委員会の席上で配られた。
 このような矛盾を平気でやる教師から授業を受けている生徒が、変革をせまるのは当然のことだろう。このような教師が生徒を説得し、学校を正常化しますから御協力を、と呼びかけるそのごまかしに、世の中の父母はぜひとも気がついてほしい、と私は訴えたいのである。

※ 次回も「週刊アンポ」第8号の「高校生のひろば」に掲載された都立立川高校の記事を掲載します。

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次回は7月21日(金)に更新予定です。

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2009年5月に連載を始めた明大全共闘クロニクル(年代記)も、8年間連載を続けてきたが、今回が最終章である。
1970年6月14日と15日が過ぎ、70年安保闘争の最終日、6月23日を控えて、大学当局は突如として6月18日から23日までの全学ロックアウトを行った。
全学ロックアウトとなったため、私は6月20日から22日まで法政大学にいた。高校時代の友人が法政大学にいたため、高校時代の仲間のグループとともに、そこで23日に向けた準備など行っていた。
明大新聞に全学ロックアウトになった6月18日の記事が掲載されているので見てみよう。この日は、私は新聞の告知でロックアウトを知ったが、大学へは行っていない。

【抜き打ちロック・アウト 内ゲバ理由に18日から6日間 明治大学新聞 1970.6.18】
『18日、大学当局は「6月18日(木)より23日(火)まで全学休校とし、各校舎出入口は閉鎖します。詳細はテレホンサービスで承知願います」の新聞広告と掲示によってまったく突然にロック・アウトを行った。
それと知らず登校した学生はその告示板と「最近、学内外で他大学生を含む一部分の学生の暴力行為、業務妨害等が頻発している状況にかんがみ・・・」という告示によって、締め出された。
こうした大学当局のロック・アウトに対し、本校、和泉、生田各地区においてつめかけた学生の抗議集会が開かれた。和泉地区では1,000人近くの学生が集まり、ベ平連、反帝学評、MLなどを中心として弾劾集会を開き、11時30分頃正門の鉄扉を実力で解除した。しかし、かけつけた機動隊に排除され、5名が公務執行妨害で逮捕、1名が救急車で運ばれた。

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一方、生田校舎では、正門はロックアウトしたものの、生田寮側から学生が続々と登校し、9時頃約200人の学生が、高木工学部長を囲み追求集会を行い、12時頃集会を終えた。
 また本校では5時頃から抗議集会やデモ行進が行われた。

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(解説)
このような事態について大学当局はロックアウトの理由を「学生諸君へ」の文章で「最近『安保』の自動延長をめぐり、学内において一部学生の過激な行動と、学生各セクト間の主導権争いによる暴力行為が頻発」ということをあげている。しかしながら、それが決して「『安保』の自動延長をめぐった」問題ではなかったことは明らかといえる。その点において18日から23日までのロックアウトはいかに考えようとも不可解という声が強い。また、15日の生田における「寮闘委」の学生による生田学生課長などに対する「団交」要求を迫ったこともあげているが、これにしても、これは寮闘争の一環であり、そうしたところからは、そのような期間は出てこない。さらには18日における「寮闘委」の学部長会議への抗議行動にしてみても、それはすでに学部長会議で決定ずみであったといううわさもあり、またそれが事実でないにしろロックアウトの理由として掲げられることは基本的におかしいとみられる。
 このようにみてくると、大学当局の「ロックアウト」それも18日から23日までという期間はなんら納得のいかぬものであるばかりか、明らかに「6月安保」を機に盛りあがる「反安保」運動への弾圧であり、圧殺であるといわれてもしかたがない。大学当局が常にいう「力の論理」を認めぬという態度が、はしなくも今度の「ロックアウト」措置によって、自ら「力の論理」をもってしか臨んでいないことを露呈したとみるむきが多い。そして学生間に強い不信感を残したことは事実である。』

【薄れた大学側の警察アレルギー  6・17和泉の混乱から  明治大学新聞 1970.6.25】
<“オレ達の大学だ” 排除される学生に当局不信>
〇本学連合教授会は大学の自治と教育・研究の自由を守る観点から、新次官通達に対してつぎのような疑念と憤満とを表明するものである・・・(略)・・しかるに、当局の単なる治安対策的な大学紛争処理の在り方は、真の解決にすこしも役立たないばかりか、大学問題の自主的解決を阻害するものである。大学に対する教育上の配慮と判断とを無視した警察当局の、一方的な判断を優先させることによって学内に警察権のほしいままな行使を許すような事態になれば、もはや大学はその本来の機能を主体的に果たしえなくなる・・・(略)・・(昭和43年4月25日「連合教授会声明」)
〇われわれは今日の大学問題が単なる治安面の学生対策によって解決されとは考えない。治安当局の大学介入はかえって学内をいっそう混乱におとし入れ、激動する大学内の秩序をさらに収拾できないものにすることを強く憂うものである・・・。(同日「学長声明」)
 『約1年前、大学側は別掲のような見解を表明、警察権力の大学介入に反対の意向を強調してきた。ところが、昨秋の機動隊導入、ロックアウト以来、うって変わってコトあるごとに機動隊要請が行われ、今では警察と大学との癒着を疑われるほど、憂慮すべき事態であることは否定できない。学内秩序の維持を理由にした予備検査的な警察権力の要請・介入は、一面で学生自治への挑戦と化している・・。
 6月18日の全学ロックアウト突入の際の和泉での混乱を見るなかから、学生の間につのってきた大学当局への不信感をさぐってみよう。
 
 6月23日の安保条約の固定期限切れの迫った18日、本学は突如、6日間に及ぶ全学ロックアウトという事態に突入した。これは警察側から、都内の主な大学に対して発した、ロックアウト要請があったことからして、あらかじめ予想されていたとはいえ、6月安保決戦の第一のヤマ場であった14日、15日を大学当局は看過してきただけに、余りにも突然で不意を突かれたとの声が強かった。当日は、本校、生田が比較的平穏だったものの、和泉地区はロックアウト糾弾の声でうずまった。
 この日は早朝から、ロック・アウトの新聞広告を知ってか知らずか登校した学生が京王線・明大前駅周辺や固く閉ざされた和泉校舎の正門前に集まった。その数、数百名。
 「最近、学内外で他大学を含む一部学生の暴力行為・業務妨害が頻発している状況にかんがみ」
 −と叫ぶスピーカーからの声。これをロック・アウトの理由だとすると当局側には、説得力は感じられなかった。というより論理以前の問題として、あまりにもその言葉は冷たく聞こえた。「声の姿は見えず、機械的に同じことを繰り返すその言葉に、当局と学生との間の目に見えない断層があった」とある学生が言った。
 また、そのロック・アウトの論理にしても、本校地区で12日に起きた学生解放戦線のノンセクト学生を含めた反帝学評系学生に対する襲撃事件にからんだ予防措置としているが、これにも批判が多い。田代新寮闘争委員長は「生田の場合、その事件とは関係ない」としており、和泉においても「本校で内ゲバなり、寮生が押しかけたからといって、それを理由に和泉もロック・アウトにするのはおかしい」という声が強かった。
 また、安保固定期限切れの23日に向けて法学部2年14組が11日からスト入りしたのをはじめ、相次いでクラス単位の運動が盛り上がりを見せ、本校でも二政経1年8組、二政経3年7組など個別的にクラス・ストを行ってきたところが多かった。学生会中執の力量不足など全学的なマトメ役に欠けていただけに、その価値は大きいものがあった。「われわれのクラス運動の圧殺でしかな」(法2年)とブチまけていたのが印象的であった。
 11時半。正門をこじあけたとたん、ドッとあたりにいた学生が校舎内に乱入した。ヘルメットの学生はそれほど多くはなかった。“喜び”と唐突さのために、興奮気味でデモ行進する学生。いわゆる“一般学生”といわれる部分もかなりを占めている。それをただ冷たく見守る教職員。そこには対話はなかった。

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 ただちに機動隊が要請された。正門横に座り込んだ学生数十名と、それを取り巻く学生。いかめしい乱闘服にジュラルミンの楯で警告もそこそこに排除に乗りだした。座り込みの指導者は、間髪をいれず逮捕され、無抵抗の学生は楯で押しやられた。正門から10メートルくらいのところまで有無を言わさず学生を蹴散らした機動隊。このところ頻繁になった機動隊要請だが、この日の排除は強硬で、一般学生を遠く押しやることでヘルメット学生と分断し、機動隊はヘルメット学生を取り囲み楯で押しまくった。「ここは俺達の大学だ」と誰かが叫んだ。

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 −「学生のゲバルトを政治ゲバルトで押さえようとする大学弾圧立法が成立した」(本紙44年8月14日付号・木下理事の話)
 −「機動隊など外部の力の導入などに関しては、今のところ白紙である。そういうことをできるだけしたくはないしまた避けたい。警官隊を入れてまで抗議をしたいとは思わない。それは真の解決にはならないからだ。それは学生と大学とのミゾをますます深めるもとであり、一番好ましくない姿である。「(本紙44年10月11日付号・中川学長の話)
 −かたくなに警察権力の介入に批判的だった大学当局。各大学に機動隊導入の相次ぐなか、徐々に警察アレルギーは薄れていった。
 完全に機動隊に制圧された和泉校舎一帯。正門前には、機動隊放水車がドッカと腰をすえ、その周りで隊員が冷厳に蹴散らされた学生と対峙していた。
 高姿勢な機動隊の警備に、一人の学生が声を震わせながら叫んだ。
 「皆んな見たか。これが大学の姿なんだー」
 学生の排除されるのを目のあたりに見ながら、校舎内にいた教職員が、ただ正門の黒いトビラをしめるだけだった。』
6月23日、70年安保闘争最終日、この日のデモは日比谷公園まで3時間以上かかった。途中の衝突の影響で催涙ガスがデモコースの各所に充満し、眼が痛かった。
6月23日の記事が明大新聞に掲載されてるので見てみよう。

【6月反安保闘争の終焉6・23  明治大学新聞 1970.6.25】
『―全国全共闘のセクト野合を越え 全共闘運動の原点へ たとえ権力の壁は厚くともー
<闘いはやまず>
 23日、その前日「日米安全保障条約」はその固定期限が切れた。そしてこの日から<国民>の意志さえまったく無視した形で、302議席という数にのみ依拠した佐藤内閣によって自動延長された。
 この日、全国全共闘、全国反戦共催による「6・23労学市民大統一集会」が明治公園で開かれた。3時頃からつめかけた学生、旗の波は次第に広がり、反戦労働者がつめかける頃、公園の中は身動きできないほど埋めつくされた。その中で、権力との直接対峙をよそに、戦旗対叛旗、ML対フロントなどの内ゲバがありながらも、7時頃、約5万人の参加者を結集し、統一集会は成田空港三里塚反対同盟青行隊長の「反安保体制、階級闘争」へむけたアピールから開始された。

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 68.69年にわたって全国的に展開された学園闘争は、70年に至って強権的な大学当局によってあらゆる闘争は締め出され、大学当局のいう<一般学生>さえもが行き場を失った。この日も多くのノンヘル、ノンセクトの学生もつめかけたのだが、全国全共闘のアピールはこれまでの各大学代表のアピールという慣例を破って各セクトのアピールに終わった。これは全国全共闘がセクトの野合でしかなかったことを、計らずも露呈してしまった。このことは大きく問題にされねばならない。
 今野反戦青年委員会世話人の決意表明採択を最後に集会を終えたデモ隊は、街頭へ繰り出した。先の14日、鉄パイプで武装登場したMLはこの日、鉄パイプにかわって竹竿の武装で参加していたのだが、青山絵画館前付近で機動隊と対峙する頃には、片手に鉄パイプ、もう一方の手には火炎ビンで武装されていた。その数200人ほどだろうか。阻止戦を張る機動隊に一斉に火炎ビン攻勢。退却する機動隊、退却から攻撃。鉄パイプで応戦するデモ隊。攻撃から退却。水平撃ちのガス銃が連続火花のように火を吹き、鈍い音が続く。
 まもなく、わずかに衝突の跡をとどめるだけの場所を何事もなかったように後から後から機動隊を睨みつけるようにデモ隊がジグザグデモを繰りかえしていった。いつもは五列の隊列を余儀なくされるデモ隊は機動隊の壁を押し押し隊列の幅を広げる。デモコースはいつになく長かった。どこまでいっても裏通り、裏通りを抜けて待ち構えるのは機動隊、あらゆるところで小ぜりあいが続き、そして衝突の跡は生々しく残されていった。その中でけがをした学生の手当をする、白ダスキに黒く「6・23救援会」と染め抜いた30,40才くらいの“オバサン達”の姿が脳裏にやきついた。
 デモ隊が国会の南通用門をさしかかる頃、装甲車は幾重にも並べられ、ビデオ車から伸びたカメラがその中から顔をのぞかせ、サーチライトがまぶしくデモ隊の姿を浮かびあがらせる。遠くに国会議事堂が無表情に見えるだけ。「安保粉砕・闘争勝利」のシュプレヒコールが一層高く、デモ隊の装甲車を蹴る鈍い音だけが響きわたった。

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<唯一の安保スト>
 その頃、1日以来「連日デモ」を敢行してきたベ平連は、この日も清水谷公園に結集した。その数1万5千人(主催者発表)にのぼり、デモが出発した後、さらに1万人の追加発表がなされるという、まさに前代未聞の“異常”事態となった。
 一方、6月安保ゼネストを掲げた総評は2月頃に至り、当初のゼネストを放棄し、5月1日のメーデ−にいたっては、同盟の右翼的分裂策動におびえ「統一集会」というなんら内実なきものを守るため「反安保」のスローガンさえ下した。そうした既成労組を乗り越えて、この日の早朝、動力車労組の労働者によって“安保スト”が革マル派の学生の支援による「労学共闘」によって勝取られていた。
 だがそうしたことをよそに、代々木公園では社共の「1日共闘」などというまことに形ばかり「中央大集会」が22万人(主催者発表)を集めて、アコーディオンの調べにのって行われたのである。

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<衝突・討論>
 全国全共闘と全国反戦のデモの解散地点日比谷公園の入口では、デモが到着するごとにデモ隊と機動隊の激しい衝突が繰り返されていた。入口付近は催涙ガスが充満し、一見モヤでもかかっているかのよう。しばらくはデモ隊と機動隊の一進一退が続く。だが機動隊が攻撃に出る度に次第に公園の中へと入り込んでくる。デモ隊は退却する機動隊員1人を捕まえた。「ヤレ、ヤレ」と叫ぶ者。「ヤメロ。ヤメロ」と叫ぶ者。いつも抑圧され、弾圧され屈辱を強いられているのだが・・・。「ヤメロ」と言った学生なのだろうか、気を失った機動隊を大楯に乗せて機動隊の待機することろまで運んで行った。それから間もなく、機動隊は公園内までガス銃を撃ち、乱入してきた。公園内までもが機動隊の解放区と化してしまった。
 催涙ガスの炸裂する中で、近くにガス銃の連続音と機動隊のウナリ声を聞きながら、まだ集会を続行する黒ヘルの部隊があった。まわりには散り散りになった仲間を探す姿がチラホホラ見えるだけ。「自由連合」と書かれた黒旗を囲む黒ヘルの部隊は終電近くまで、一人、一人の発言を求めながら総括集会を続けていた。
 日比谷公園にデモ隊の姿がなくなった頃、べ平連のデモ隊は、全国全共闘、全国反戦デモ隊と交差して分断されたため、最後尾はまだデモを続けていたのであった。そのデモが終着点に着く頃には、すでに終電車はなくなり、はからずも徹夜デモンストレーションとなった。
 6・23だろうと、「安保」だろうと、変わることなく輝き続ける銀座のネオン街に、異変が生じたのであった。“金と権威”の銀座は、金もなく名もない若者の夜の街となったのであった。
<70年代闘争へ>
 こうして6月23日は終わった。そして70年の6月は終わろうとしている。この日を最後に6月には大きな街頭闘争はもうないだろう。だが、まだベ平連の「連日デモ」は続く。いつまで続くのか。ベ平連の運動自体にはそれなりの問題点なり、限界性はあるのだが、しかし、ユニークな運動は否定しがたく、とどまるところを知らない。
 70年6月が終わっても「安保体制」は依然として変わりなく存在し、ますます重くのしかかってくるであろう。街頭へ、街頭へと出てきた学生も、労働者も、学園へ、職場へ戻っていく。学園ではこれまで学園闘争で提起された問題はなんら解決されることなく存在し、それ以上に、ロックアウト体制なるものをもって、闘争を圧殺せんとしている。職場においても合理化攻勢はとどまることはないであろう。権力の壁は厚くあまりにも強大ではあるが、それだからこそ一層、今、それぞれの学園で、職場で、地域で根底的な闘いを、個人の“主体性”と“自発性”の中から創出していかねばならない。
 全国全共闘がセクトの野合でしかなかったことを露呈してしまった現在、日大、東大闘争によって創出された「全共闘運動」そのものを再度見つめ直す中でしか、70年6月を70年代闘争の出発点とすることはできないのではないか。
 この日はこれまで叫ばれてきた「労学共闘」が実質的に動力車労組において実現された。こうした「労学共闘」、そして三里塚における「労濃学共闘」もすでに実現されている。こうした闘いの環をさらに推し進めることによって、70年代闘争の展望は開けてくるのではないか。』

70年安保闘争は終わった。
この6月23日以降、明大和泉校舎は旗もなく笛の音も聞こえない状況がしばらく続いた。学内デモをしても2桁は集まらず、旗もちとデモ指揮を除くと、隊列が2名で3列という時もあった。このような停滞した局面は、70年12月まで続いた。
全共闘に結集した学生は、最盛期には2,000名(中心的な学生は約500名)もいたが、70年安保闘争の終焉の機に活動から遠ざかって行った学生も多く、活動を続ける学生は減った。だが、数は減っても、生協の総代選挙、自治会の選挙、学生大会と合法的な機関を再び学生の手に握る活動が開始された。
また、学生会館は自主管理で開いてはいたが、ロックアウト体制ということで、館内に電気やスチーム暖房が入っておらず。冬が近づくにつれてサークルの学生たちの不満が募っていった。
そこで学生会館運営委員会では「学館に電気を入れろ!」という集会とデモをやったところ、100名近くのサークル員が集まった。それに驚いたのか、学校当局はすぐに電気を入れた。
そんなことを繰り返しながら、徐々に学内での体制を立て直して行っていった。
明大全共闘は消滅したが、全共闘運動の遺産を引き継いで、新たな闘いは続いていく。
「明大全共闘クロニクル」は今回で終了となるが、今後、ポスト全共闘の時代、1971年から72年までの駿河台地区での学内ロックアウト体制粉砕の闘いや、MUP(マップ)共闘を中心とした闘いなどを「黒ヘル風雲録」(仮題)という形で掲載できればと考えている。
(終)

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次回は7月7日(金)に更新予定です。

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