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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。
重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、水谷保孝さんの佐世保闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ−ブの樹」編集室及び水谷さんの了承を得てあります。)

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【1968年は佐世保エンプラ闘争で始まった】
水谷保孝(元佐世保エンプラ闘争被告)

●日本のベトナム反戦の広さを示す
 世界史的な「1968年革命」から50周年となる本年2018年、私にはあの高揚した佐世保エンプラ闘争の記憶が大きな感動とともに蘇える。
当時、アメリカのベトナム侵略戦争は南ベトナム解放民族戦線の驚異的な戦闘によって苦戦に陥り、それゆえ北爆、枯葉剤、ナパーム弾の大量投下を強め、ベトナム人民に残酷な犠牲を強いていた。そのなかで、「動く核基地」原子力空母エンタープライズ佐世保入港は、日本を出撃基地としてベトナム戦争を一層激化させるものだった。よりによって広島県とともに原爆の惨禍に苦しんできた長崎県に核空母を寄港させることは、日本のベトナム参戦と核武装化を決定的に進めるものだった。
1966年12月に再建された全学連(三派と称されるが、社学同、社青同解放派、マル学同中核派、ML派、第四インターの五派)は、幾多の闘いを経て、内部での対立と亀裂を抱えつつ、1967年12月、エンプラ寄港実力阻止方針を決定した。ベトナム侵略戦争への加担を許さない、けっして加害者にはなるまい、70年安保闘争と日本帝国主義打倒の展望をつかむぞ、という強い決意がそこにはあった。
明けて1月の15日、警察・機動隊は、法政大学から出発した中核派系学生のうち131人を問答無用で大量逮捕した。16日に博多駅事件という同じ予防検束に出てきた。14日には、前年の10・8羽田弁天橋の闘いで京大生・山博昭君を警棒乱打で虐殺しておきながら、中核派2学生を「奪取した装甲車で轢き殺した」とでっち上げ逮捕した。かつ破防法適用恫喝が加えられた。
16日、全学連は、九州大学教養部に入構することができ、学生会館で総決起集会をもち、闘いの意味と獲得目標をめぐって激論を交わした。
以後、17日の平瀬橋の闘い、18日の佐世保橋と米軍住宅地の闘い、19日の佐世保橋の闘い、20日の佐世保市街地での一斉カンパ行動、21日の佐世保橋の闘い、22日のカンパ行動、23日のエンプラ追い出し闘争と続いた。それは、間断なく発射される催涙弾、佐世保川の水(佐世保湾から入り込む海水なのだ)をくみ上げ催涙剤を混ぜた大量の放水、特殊警棒の乱打、背後からの襲撃、倒れた者への集中的な攻撃、報道陣や市民への無差別の警棒乱打、市民病院や民家への見境のない乱入という常軌を逸した警察暴力との闘いだった。
全学連は、警棒で殴打され、催涙弾で撃たれ、催涙液で眼を傷め、体中が火傷する状態になりながらも、血を流し、炎症の痛みをこらえ、涙を流しながら前進をくり返した。めざすは佐世保基地突入、基地内集会だった。17日以降の激突、凄まじい過剰警備の様子が報道されるや、西日本、東日本から学生が自治会ごと、グループ、個人で続々と佐世保に駆けつけた。
地元九州の労働者、労働組合が大挙結集し、18日佐世保市民球場から5万人デモ、21日松浦公園から2万人デモを繰り広げた。反戦青年委員会がその牽引車となった。何よりも、佐世保市民が数千・数万の規模で過剰警備を弾劾し、機動隊に立ち向かった。

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●三派の共闘と対立
断片的だが象徴的な若干の事実を記しておきたい(以下、敬称略)。
17日、九州大学を出発した中核派は、別途用意した角材を入手する作戦に失敗した。窮した秋山勝行(全学連委員長)はブントの成島忠夫(同副委員長)に相談したところ、成島は自分たちが確保する予定の角材の一部を中核派に譲ることを快諾した。博多駅からやがて鳥栖駅に着くと、ホームで待機していたブントの別動隊が角材を車内に持ち込んだ。成島がホームを走って中核派の車両に乗り込み、角材を梱包した束を二つか三つ示して、「これを使え」と叫んだ。吉羽忠(同国際部長)が「有難い」と感激の声をあげ、成島と抱き合った。「中核派、頑張れよ」と成島が応じた。私もブントの別動隊と固く握手し、健闘を誓いあった。聞くと、佐賀県(あるいは熊本県)出身のブント同志の実家が山を所有しており、そこから新しく角材を切り出したとのことだった。
 ブントから譲られた角材をもって、中核派は最初の平瀬橋の激闘を闘うことになったのだ。 
 全学連各派は、対権力の闘いで競い合い、大学内や全学連集会の場で何かにつけて殴り合っていた。エンプラ闘争でも、九州大学の学生会館での決起集会で何がきっかけかは忘れたが、演壇上で激しく衝突し、殴り合いを演じた。だが、前記のような闘う者同士の友情も忘れてはいなかった。

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●装甲車を奪取した佐世保橋上の党派闘争
 21日は、社会党・共産党、総評が松浦公園で集会、その後に佐世保橋を通過し基地の横を行くデモが予定されていた。全学連は、松浦公園の集会に参加し、デモの先頭に進み出て、佐世保橋に向けてデモした。かなりの角材を確保していた。
 佐世保橋で、全学連は繰り返し突進した。機動隊が攻めてくると退き、それを数万人の市民が包み、守った。機動隊はそれ以上前に進むことができず退くと、また全学連は佐世保橋に進み、機動隊の前面に激突した。やがて、佐世保橋と川の東側一帯は解放区となった。その間、労組のデモが佐世保橋東詰めに到達した。
学生と市民と労働者のものすごい圧力を受けた機動隊は後ろに退いた。全学連は猛然と突進し、機動隊に肉薄し、投石し、角材と旗竿を振るい、これをついに橋の西詰まで後退させた。彼らは装甲車2台を部隊と一緒に下げる余裕がなく、乗り捨てていった。全学連は装甲車上に登り、旗を大きくうち振った。装甲車を奪ったのだ。
 なおも全学連は機動隊との激突を続けた。その状態がしばらく続いた時、奇妙なことが起こった。デモの先頭で肩を並べて角材を振るっていた解放派の顔見知りの指揮者が、「社会党の闘争本部が、労働組合のデモを佐世保橋に進め、前に出るから、学生はプラカードを捨て、投石をやめ、装甲車から降り、後ろに退けと通知してきた。われわれはそれに従う。中核派も従ってくれ」と申し入れてきた。私は即座に拒否した。「市民と労働者と学生が一体となって佐世保橋を占拠しているではないか、基地突入へともに闘っているではないか、そのときに学生に闘いをやめろというのか、解放派は親(社会党)からやめろといわれたら従うのか、それが解放派の正体か」と怒鳴った。たちまち殴り合いになった。周辺にいたそれぞれの活動家たちが角材で殴り合った。
私は、装甲車の上に上がり、中核派の隊列に向って、「解放派が進路を妨害している、解放派を粉砕して前進するぞ」と二度三度、呼びかけた。そして装甲車の上から下にいる解放派のヘルメットに向って「解放派はどけ」と叫びながら、旗竿で何度も突いた。その顛末はよく憶えていないが、解放派の方から橋の東詰めに退いたのではなかっただろうか。
敵機動隊の面前で党派間ゲバを演ずるとは思ってもみなかったことだった。

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●中核旗、基地内走る
そのさなか、下から「水谷、早く降りてこい」という声が聞こえた。車の上から降りると、彼は声をひそめて、「本多さんの伝言だ。佐世保川を見ろ。そういえばわかる、とのことだ」といった。私はハッとなり、そっと佐世保川の川面を見た。すると、干潮時となり、川の水位がぐっと下がっていた。夕闇が降りつつあった。
私は赤松英一(京都大)とK(横浜国大)を探した。赤松はすぐ近くにいたが、Kの所在がわからない。だが時間がない。私と赤松は、中核派集団のうち後方にいる約100人に5列縦隊のスクラムを組ませた。そして、「わっしょい」の掛け声で先頭の向きを逆にぐるっと回して、橋の東詰めに向けてデモし、袂から右に向きを変え、川下方向に150メートルほどデモした。ここなら歩いて渡れる。川幅は約50メートルだ。デモを止め、肩車に乗って演説した。
「見ろ。佐世保川の水位が干潮で下がった。今から川を渡ろう。鉄条網を越えたら米軍基地だ。念願の佐世保基地突入を今、やるぞ」と。全員が歓呼の声を挙げた。数人が岸から飛び降りるのを見て、私は中核旗を担いで、川を渡った。ばしゃばしゃと水しぶきがあがった。向こう岸に着いた。有刺鉄線が身体を突き刺す痛みを感じながら、一気に高さ2メートルの鉄条網の上に乗り、旗を大きく打ち振った。見ると、デモ隊の大半が元の岸に残っている。三〇人ほどが川を渡ったが、鉄条網を越えた者は数人しかいない。私は「早く来い、基地に入れ」と手を振り、叫んだ。
先に基地内に入っていた赤松が角材を振り回しながら、「早くしろ。機動隊が駆けつけてくるぞ」と叫んだ。私はすぐに鉄条網の上から飛び降り、旗を掲げて走った。はるか右前方に十数人の刑事と機動隊員が駆け寄ってくる姿が見えた。左前方の小高い丘に教会があった。その前には、カービン銃をもった米兵が二人、猟犬を従えていた。私と赤松は「よし、あっちだ」と米兵に向って走った。「カービン銃で撃つなら撃ってみろ」と心の中で叫んだ。
驚いた様子で立ち尽くす米兵に近づいた地点で、刑事らが襲いかかり、乱闘となった。われわれは組み伏せられ、逮捕された。刑事たちは手錠を持っていなかった。よほど慌てていたのだろう。基地内に侵入したのは結局、二人だった。
佐世保橋上では、その間も全学連、労働者、市民と機動隊との激突がくり返された。

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●政治局が現場に立っていた
 佐世保闘争では、各派の活動家は誰もが勇敢だった。ブントは、折りしも一気に燃え上がった中央大学の学費闘争に力を注ぎ、そのため佐世保現地には西日本勢以外には参加は少なかった。それでもブントは、角材調達で一日の長があり、しっかり武装して果敢に機動隊に立ち向かった。解放派は、三池闘争の地でもある九州は自分たちの本拠地という意識が他派に比べて強く、身体をはって闘う決意に満ちていた。
とくに感嘆したのは、19日である。この日、解放派は前夜、佐賀大に入り、いち早く佐世保に登場した。中核派が九大から佐世保橋に到着したときには、すでに解放派が機動隊との激闘を重ねていた。高橋孝吉(全学連書記長)を先頭に、丸太を抱えて猛然と機動隊に激突していた。それを何度も繰り返した。機動隊の壁がどっと崩れ、解放派の隊列が機動隊の海に突っ込んでいった。
私は「ああっ、この手があったか。解放派にやられたな」と思った。この日、中核派は立ち遅れていた。
とはいえ、「佐世保の1週間」でスポットを浴びたのは中核派だった。私はその理由は、各党派の最高指導部の構えの差だと思う。中核派の上部組織・革共同の政治局は、本多延嘉書記長を先頭に佐世保に乗り込み、常に現場に張り付いていた。しばしば伝令をとおしてデモ指揮者に指令を出した。
また事前には、政治局の指導のもと、佐世保現地調査が行われた。その一つとして、佐世保川の最下流は佐世保湾の海水で浸されており、潮の満干によって川の水位が大きくちがうという、佐世保市民なら誰でも知っている事実を現地で教えてもらっていた。干潮時には川を歩いて向こう岸、つまり基地フェンス前に行けることがわかっていた。数十人の中核派指揮者団は、最後の手段として、夕刻時の佐世保川渡河の秘策を発動するならば必ず基地に突入できるという確信をもっていた。指揮者の強い確信はデモ隊全員に受けとめられ、伝播するものだ。
この小さな戦術を含め、政治局が現場に立ち、組織の命運をかけていることを感得した数十人の指揮者団と全参加者がベトナム反戦の正義に揺るぎない確信をもったことが、機動隊に惨めにうちのめされ、催涙液でひどい痛みと苦しみを味わってもまったくへこたれなかった一つの要因だったのではないかと思う。

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●エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民
 50年後に佐世保エンプラ闘争を検証すると、その歴史的意味が当時のとらえ方とはやや異なって発見される。
 当時、「佐世保現象」ということばが生み出された。連日、何千何万という市民が学生を包んで、機動隊と対峙した。市民が機動隊の暴力行使に身体を張って抗議し、機動隊の囲みから学生を救い出し、また自ら石を投げ、棒を振るう人たちもいた。全学連が街頭カンパに出ると、カンパ箱代わりのヘルメットに次々と多額のカンパが投ぜられた。
 佐世保市民は全学連の単なる応援団ではなかった。戦前・戦時下の軍港佐世保の歴史、被爆県長崎の経験、その後の「米軍基地の町」の体験から、核戦争への強い不安と怒りを共有していた。当時の新聞報道にもそれを示す市民の動き、怒りの声がいたるところに記録されている。
 そのなかから福岡ベ平連(石崎昭哲事務局長)などが誕生した。何よりも2月19日、佐世保ペンクラブ代表の矢動丸廣氏の呼びかけで「19日佐世保市民の会」が生まれた。市民の会は毎月19日、市内デモを続け、50年後の今も持続している。半世紀を越えて営々と反戦の意志を反復表明する、このような市民運動はどこにもない。静かな、しかし驚異的なほど強靭な反戦、非戦の運動である。
 矢動丸氏は、全学連のエンプラ裁判では特別弁護人を務め、長年にわたって私たち被告学生を激励し続けた。矢動丸氏は、戦前・戦中は佐世保女子高校教員を務め、その後、戦後早くに井上光晴らと郷土雑誌『虹』を創刊するなど、地元の文学者として敬意を払われていた。
同裁判の地元の弁護人・小西武夫弁護士は、戦時中、海軍法務大佐として軍法会議の法務官であった。辛い判決を下さざるをえなかった戦争体験から、戦後、非戦を誓ってクリスチャンとなり、エンプラ闘争以後、全学連の闘いに公然と支援を寄せた。
ところで、エンプラは1月22日、佐世保を出港した。ベトナム侵略戦争が激化するなか次の寄港が日程に上るのは明らかだった。それについて、佐藤栄作首相の側近中の側近、木村俊夫官房長官は「今回の寄港にともなう教訓と国内での反響、とくに佐世保市民が警備陣に対してある程度の批判的な動きを示した点を重視したい」と、慎重な姿勢を示したのだった(毎日新聞、1968.1.22)。
実際、その後15年にわたって、エンプラはついに佐世保に入港することはなかった。1983年に再度来たときは、すでにベトナム戦争はアメリカの歴史的敗北をもって終結していた。
半世紀という長い眼でみたとき、佐世保エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民だった。政府権力からみると、全学連の闘い以上に、佐世保市民の存在こそ脅威だったのだ。

●ラディカル左翼の総括の一視点
 私は当時からずっと、中核派セクト主義の急先鋒だった。その私の苦い反省も含めて、1960年代〜70年代のラディカル左翼を総括するとき、三派全学連や反戦青年委員会における党派関係、とりわけ中核派と解放派の党派闘争の問題を厳しく、かつ率直に自己検証することは不可欠の作業であろう。われわれは対権力の闘いでの戦友関係であった。だが、党派の創立あるいは本質において水と油のような関係でもあった。だからこそ、そこをのりこえて共闘関係を形成するにはどうすればよかったのだろうか。別のところでも書いたが、われわれが抱いていた党概念のコペルニクス的転換が求められている。
 半世紀という長い歴史のスパンで総括することで、階級闘争の全体像とそこで世界革命・アジア革命・日本革命をめざしたわれわれの存在意義と大きな誤りもみえてくるのではないだろうか。
 最後になりましたが、この度、執筆の機会を与えてくれた重信房子さんと『オリーブの樹』編集部に心から感謝申し上げます。(2018年8月10日)

【お知らせ その1】
10・8山博昭プロジェクト2018年秋の東京集会
「異なった視点からの10・8羽田闘争」

●日 時 2018年10月7日(日)17;30〜20:30(開場17:00)
●会 場 主婦会館プラザエフ9階「スズラン」(JR四谷駅下車)
●参加費 1,500円
第一部 講演
「政治のターニングポイントとしての10・8羽田」
ウイリアム・マロッティ(UCLAカリフォルニア大学ロスアンゼルス校准教授)
「60年代をどう歴史化できるのかー外からの視点」
嶋田美子(アーティスト)
第二部 ベトナムからの挨拶
フィン・ゴック・ヴァン(アオザイ博物館館長)
チャン・スアン・タオ(ホーチミン市戦争証跡博物館館長)

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【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は9月28日(金)に更新予定です。 

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沖縄の辺野古をめぐる情勢が緊迫する中、明大土曜会のメンバーが7月13日から15日まで沖縄を訪問した。沖縄では、現地で活動を続けているO氏に案内と説明をしていただいた。
8月4日に開催された明大土曜会で、その報告があった。以下、明大土曜会メンバーの沖縄現地訪問レポートである。
なお、訪問後、翁長知事の逝去や辺野古の土砂搬入延期など、情勢が変化しているが、このレポートは8月4日時点のものであることを念頭に置いて読んでいただきたい。(写真はO氏の沖縄報告から転載させていただきました。)

【沖縄現地訪問レポート 2018.7.13〜15】
この7.13から7.15 、Oさんと沖縄でお会いし、いろいろ案内していただきました。Oさんは、1970年に沖縄現闘として一橋大学から沖縄に渡り、48年の在沖縄です。
 Oさんと一緒に読谷村の反戦地主、Cさん経営の民宿に泊まりました。Cさんは沖縄海邦国体で、日の丸を焼き捨てました。
 このあとすぐに右翼のCさんへの脅迫電話、Cさん自身や経営するスーパーへの襲撃、村役場への爆弾脅迫電話、読谷村集団自決のチビリガマ平和像の破壊とヘイトとレイシズム攻撃を受けています。
 この時は読谷村の村が一緒になってCさんを守ったそうです。
日の丸を焼き捨てた男がやっている民宿というブログが韓国で流れているそうです。私たちが泊まった14日は韓国から三名の人が泊まりに来ていました。
 1996年には読谷村の「像のオリ」にある土地の返還を求め米軍用地特別措置法を違憲として最高裁まで戦いました。その前は、沖縄大学自治会委員長として72年の復帰闘争を戦っていました。五年前から東本願寺派僧侶、反ヘイトの「のりこえネット」の共同代表もつとめています。
辺野古の抗議活動封じー7.14深夜シュワブ前に新たな柵設置
 7.14深夜、キャンプシュワブ前のテント村がテントごと撤去されました。
そして抗議行動の座り込みスペースに「柵」が設置されそのスペース空間をゼロにしようとしています、
同日普天間基地のフェンスの横断幕やステッカー等の撤去勧告が出されました。
辺野古ー普天間への同時弾圧です。辺野古土砂投入予定の前日の8.16には大きな県民大会が開催されます。
「沖縄防衛局発表、8月17日からの辺野古護岸土砂投入体制に入る
(7.15沖縄タイムス記事)
7.14深夜シュワブ前の工事用ダンプ搬入ゲート前に新たな柵を設置、座り込み抗議行動のスペースをなくすることが目的。歩行者用通路は残すが、柵は国道側に大きく張り出す形になった。」

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(キャンプシュワブ前写真)
13日午後には14日土曜のダンプ搬入はないので、座り込みは3連休で中止の連絡がSNS等で流れていた。14日夜11時半、抗議市民の不意を打つかたちでの柵設置となった。
 14日午前中、Oさんの案内で辺野古現地へ。シュワブ前のテント村には約5名の常駐者のみ。警察はおらず、国道事務所の職員が数名だけだった。
(シュワブ前で旧明大生協職員、経産省前テント村に常駐し、2015年から辺野古に来ているHさんとお会いする)
 海上抗議の拠点になっている辺野古のテント村前で、辺野古新基地建設の全体図を手元にして、在沖縄48年のOさんから工事の進行や問題点についていろいろお聞きする。
同日、普天間基地のフェンスに貼り付けていた横断幕やステッカー等も次から撤去との警察の警告があったそうだ。辺野古と連動した弾圧が強化される。
15日午後、県庁前で辺野古弾圧抗議の緊急座り込みが行われた。市民側はこの7.15から5日間の県庁前座り込み抗議活動に入る。
土砂投入は8.17予定。8.11か8.16に土砂投入反対の大きな県民大会(オール沖縄)が開かれる。

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(全体図写真)

【報告書】
1.辺野古新基地建設の全体図と工事の進捗度合いと問題点
1)辺野古米軍新基地建設事業は、仲井真前沖縄県知事が2013年12月末に埋立を承認して以来、すでに四年半以上が経過した。2014年夏から沖縄防衛局は本格的な護岸工事を開始した。2017年秋からシュワブ沿岸には大型クレーンが立ち並び、フロートで大きく囲われた海では、護岸作業が行われている。
2)新基地総面積205ha、内埋立160ha(内、辺野古漁港周辺5haは作業ヤード)。海上埋立5年、滑走路・陸上施設5年の計10年とされる。護岸総延長は7257m、現在は浅瀬のK4(傾斜)護岸が中心で長さにして全長の約6%の進捗。護岸工事は外海と埋立地区を切り離すために行われている。
3)8月17日土砂投入予定の沖縄防衛局発表は、K4護岸の約100m弱の部分である。簡単に工事に着手できる浅瀬の辺野古K4(全長1029m)護岸造成はほぼ完成したが、これは埋立の実績を早く作り、県民の諦めを誘うため。
4)埋立予定の大浦湾には辺野古ダムから流れる美謝川が流れ込んでいる。せき止めて埋立外に流さなくては、埋め立て工事は出来ない。現状では美謝川の流れ切り替えのメドは立っていない。
5)沖縄県では特定外来生物の侵入防止のための条例が2015年から施行されている。県外からの埋立土砂にも大きな壁がある。 
6)今後は次第に深場のケーソン護岸(長さ52m、高さ24m、幅22mのコンクリート函で総数38ケを本土から曳航する、その下には膨大な捨て石が必要、船の係留のため)や中仕切り鋼管護岸(直径1.4m、長さ約30mの矢板で約2700本)の難工事なる。
7)辺野古弾薬庫の下を通って海に入る辺野古活断層と大浦湾の楚久活断層に囲まれた海底区域は、マヨネーズ状の軟弱地盤と活断層による空洞とその下のねじれが多いと指摘告発されている。政府はボーリング調査や海底音波検査のデーターは非公開としている。
(北上田毅さん:沖縄平和市民連絡会、元公共土木技師、辺野古抗議船団船長)
直下地震や津波が発生すれば想像を絶するものになるであろう、辺野古新基地の立地条件が根本から問われている。
8)8月中旬の土砂投入前の翁長県知事権限の「埋め立て承認撤回」表明がなさられるのかと土砂投入反対の沖縄県内外の大きな声と抗議行動が当面の山場になる。土砂が投入されると原状回復の見込みがまったくといっていいほど無くなる。

2.7月23日辺野古移設の賛否を問う沖縄県民投票成立(7.7万票で必要数の3倍超え)−11月知事選以降(12〜1月?)実施
1) 行政に対する法的拘束力はないが、住民の意思そのものが示される。以下は過去の例。
・少女暴行事件の後の96年県民投票は「基地の整理縮小と地位協定見直し」賛成が89%。
97年の名護市住民投票、普天間の移設先しての同市辺野古案に対して反対が54%。
市長は辺野古への移設受入れを表明して辞職。本土や沖縄の今後の世論形成には影響を与える。
2)署名請求代表者にはオール沖縄を離れた県内でスーパーと建設業を展開する金秀グループの呉屋会長がいる。
会長は沖縄の二紙に「県民投票が辺野古問題の唯一の解決策。反対・容認であれ、県民の総意として受入れ、分断を乗り越え新しいスタート切ろう」と主張。
3)県民の会代表は一橋大学院生のM君(26歳)。
今年4月から一年休学して、若者グループをつくり、勉強会や賛同者を募る活動をした。20年前の県民投票を知らない若い世代が登場した。前の県民投票は大田知事・革新共闘が周到に準備し用意した。今回はオール沖縄や翁長県政与党や辺野古座り込み部隊等への事前根回しはなかった。移設反対の民意が示された場合、オール沖縄や座り込み部隊等の新基地建設反対との距離感は不明であるが、若い世代が新しい政治の流れをつくれるかに注目する必要がある。
もう一つは、相互の棲み分けが可能な新しい社会性を持った「島ぐるみ」理論が必要になっているのかも知れない。
(主な島ぐるみ:土地を守る4原則、軍用地20年一括払い反対・プライス勧告反対、祖国復帰、日の丸・君が代・乱開発反対、少女暴行事件、米軍基地の整理縮小、オール沖縄)

3.7月27日翁長知事 辺野古土砂投入迫り「埋立承認撤回」を表明
1)前回の翁長知事「理立承認取り消し」は、前仲井真知事の「承認に瑕疵があったことを理由」として行われた。(2015年10月から法廷闘争、2016年12月最高裁で敗訴その間工事は中断された。)
今回の取り消し(撤回は)、その後の工事で生じた事態を理由としている。沖縄防衛局は辺野古の海に8月17日以降から土砂を入れる予定で、県はこれを阻止する手続きに入る。官邸サイドは「大型台風が来たと思って工事が遅れたと思えばいい」と言い、国は執行停止を裁判所に巾し立てる予定。
2)県は8月早々にも沖縄防衛局を聴聞(2週間かかる)→反論内容を精査して8月中旬に撤回に踏み切る。工事は即座に停止となる。仮に聴聞に応じなくても工事は知事権限で停止できる→政府は撤回の効力を一時的に失わせる執行停止を裁判所に申し立てる→認められれば申し出から数週間から数か月後に工事が再開する可能性がある。また、県から国に対して撤回を求める訴訟が起こされるだろう。工事再開‐土砂投入は11月18日の知事選の前か、後か??(投入強行や県民世論反発か諦めか)が大きなポイントになる。
3)翁長知事は撤回の理由として①理立予定海域の地盤が軟弱で護岸が倒壊する危険性があること(「マヨネーズくらい」柔らかな土壌=N値ゼロが深さ40mにわたって重なっている。政府が届けている設計や工法では建設が不可能だ)②理立要件として義務付けられている「全体の実施設計や環境対策についての事前協議」がなされていない③ジュゴンの海草藻類やウミガメの産卵砂場の保全をしなかった④サンゴ類を移植せず着工したことなどを上げている。
(他の具体的な理由として、ジュゴンの消失との消失、米軍の飛行場設置の高さ制限(約55m)に反する建物が71棟(小中学校や工業専門学校も含む)存在する、そもそも護岸工事用石材の陸上輸送は「県公有水面埋立法違反」、大浦湾の二本の断層は活断層の疑いがある)
4)官邸では、知事候補の佐喜真宜野湾市長が辞任するタイミングによっては、普天間基地がある宜野湾市長選と知事選(11月18日投票)のダブル選挙が目論まれているようだ。(今年に入っての名護市長選や沖縄市長選などで与党系候補が連勝。その勢いを生かす)
沖縄の政治日程:8月17日土砂投入通告日、9月9日沖縄「地方統一選」、9月20日?自民党総裁選、10月31日那覇市長選(翁長系保守中道現市長が勝つかが知事選前のヤマ場)、11月18日知事選投票日、12月以降県民投票実施か?
いずれにしても、保守中道層をも取り込めるのは翁長氏以外に見当たらない。
今回の辺野古の海土砂投入反対は、県民の総意を背景に現場の大衆抗議行動と県の行政が一体となって中央政府に立ち向かうという闘争構造を維持し、その力関係を変えることが大切なのではないか。
5)普天間基地の面積は沖縄米軍基地全体の2%です。辺野古に移転しても1%の減少でしかありません。
沖縄の米軍基地1%を減少させるために、あらゆるものを犠牲にして新基地をつくり一兆円の建設費(税金)が投入されます。普天間は移設ではなく撤去でなければならなかったはずです。「辺野古移転は普天間の危険性の除去のためとか沖縄の基地負担軽減の唯一解決の道」などという、コケ脅しはもう聞きたくもありません。
辺野古新基地は「沖縄の声が届かない」国の土地になり、米軍に差し出されます。(普天間基地:480ha、辺野古新基地予定:205ha、嘉手納基地:約2、000ha 本島全体:18、609ha)
米軍は辺野古ダム周辺に兵舎などを建設し、辺野古弾薬庫やキャンプ・シュワブと一体となって運営します。(辺野古弾薬庫:121ha、シュワブ:2、062ha、オスプレイの訓練に使われている北部訓練場(高江ヘリパット含めて):3、500haと伊江島演習場:800ha)
辺野古新基地は滑走路を2本にした飛行場に加えて、強襲揚陸艦ボノム・リシャール(全長257mのヘリ空母)が接岸できる岸壁もヘリやオスプレイに弾薬を積む「弾薬搭載エリア」、タンカーの接岸と燃料の貯蔵施設が造られます。
普天間にはない出撃機能が隠されています。
米軍の飛行場の高さ制限(滑走路から約2、300m範囲は45.7m以下、辺野古の標高9mを足した約55m)を超える建物が71棟あります。(幼稚園小中学校、約800人の全寮制の工業高専がある)
小野寺防衛相は「米軍と調整により高さ制限とはならない」と国会で答弁し、送電線の撤去で済まそうとしています。住民は「東京だったら許されないはず」。
沖縄でのオスプレイ墜落地点は辺野古の約6km先であった。

4.名護市長選の構造(2018年2月オール沖縄稲嶺進市長3選敗北)
翁長知事前知事の「辺野古埋立承認」取り消しの2015年10月から法廷闘争を展開し工事中止にしたが、2016年12月最高裁で敗訴し工事が再開された後での市長選だった。
辺野古問題は辺野古がある名護市長選の最大の争点になるはずだったのだが。
1)安倍政権の原発・基地問題地方選の勝利の方程式
・「自公セット」(名護市人口6万人に公明延べ2000人動員、自民はウラでステレス型の徹底的な保守・基地容認層支持基盤固め)
・「官邸主導」(名護市を通さず辺野古などに補助金バラマキと官房機密費投入と、選挙前に工事を加速して、もう工事中止は難しいという諦めムードをつくる)
・「争点隠しの抱きつき選挙」(基地問題を争点から外し稲嶺の政策=実績をパクリ、アメ=すべての医療費・保育費、給食費の無料化。
(中学卒業までの医療費を無料にしているのは沖縄全体で稲嶺名護施設だけだった)
・「組織ぐるみの期日前投票」(投票率77%、内期日前投票率44%の異常値)
2)渡具知(自民市長候補で市議辞任)・公明陣営の手口
・公明の戸別訪問(各戸毎ごとに情報把握、訪問してそれに合った話をし、医療・給食の署名を集め、集票リストを作る)
・公明党沖縄本部は辺野古反対。前回市長選では公明票の半分くらいが稲嶺に入ったが、今回は自民・渡具知と協定を結んで基地問題を外して、集票マシーンになった。
・子育て世代、「基地には反対だけど、生活につながる負担を軽くしてくれるのなら無料化の市長を選びたい」。
・2010年稲嶺初当選から基地交付金は切られたが、「稲嶺が貰わないので市の経済と財政は苦しくなった、市民の生活を圧迫している」キャンーンを張る。
特に。18才初選挙の若者層にネット、LINEで流す。
・道路、港湾、病院、校舎整備などの補助金は分野ごとに各省庁が個別に予算を計上するが、沖繩だけは内閣府沖縄担当部局が一括して予算を計上する。総理官邸の菅は沖縄担当で予算、人事、政策をコントロールしている。
(2010年の稲嶺初当選前、北部振興策800億のうち400億が名護に流れた。国保の滞納者増え、生活保護世帯が増え、建設業者30社が倒産した。振興策は市民の生活を豊かにしないという認識が生まれ、稲嶺に流れが変わった。2014年の市長選挙では自民党の石破幹事長が名護に500億とぷちあげたが一晩で破産した)
・相手陣営と同じような市民組織をでっち上げ、8回あった公開討論会には徹底して出ない。若い人の間に「稲嶺さんは基地問題とか大変だから重荷を降ろしてあげようね」、「お父さんを応援してね」わーっと拡散される。情に訴える、フェイクニュースを安易に信じる若い人が多い。
小泉進次郎の街頭演説とかバラ色の未来イメージチラシにもどんどん飛びつく。
・選挙中の小泉進次郎の街頭演説。内容は稲嶺の応援演説みたいにして途中と最後に、だから渡具知にしましょうとする。集まった人をショベルカーのように期日前投票にごそっと運ぶ。
・企業の組織ぐるみ期日前投票はあたりまえだが、だんだん手の込んだ手口になる。
従業員だけではなく、例えばウコンの工場では地域の生産者を巻き込む。
・渡具知市長、当選一週間後に官邸詣で。「名護にお金をください、優秀な官僚を回してください」。(菅に会えたのかは定かではないが)
(沖縄市民のオピニオン雑誌「けーし風」2018年4月より)
*「官邸人事‥・2018.7.31 朝日新聞2面」
沖縄県の抵抗で辺野古の工事が遅れていた。2016年1月官邸は工事を加速させるために国交省の港湾局の埋立のプロ2名を防衛省に出向させた。

(補足)
稲嶺派が何故負けたのか?

1)相手の候補者は市会議員。市会議員と2期やった市長では格が違う。横綱相撲で行けるという「おごり」があった。
2)全国から稲嶺陣営の応援に来た。応援部隊はレンタカーに乗って「辺野古反対」を訴えるが、住民を問い詰めるようなことも言う。それに対して住民が反発した。
3)稲嶺選対も政党ごとに選挙事務所があって、統一性がない。公示直前に翁長知事が喫寒を持ってカツを入れたが、すでに遅かった。
(終)

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は9月14日(金)に更新予定です。

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2018年6月2日、東京・文京区の全水道会館で、10・8山博昭プロジェクト主催によるシンポジウムが開催された。タイトルは「死者への追悼と社会変革」。当日、シンポジストとして、三橋俊明さんと真鍋祐子さんが参加したが、今回のブログでは、そのうち三橋俊明さんの発言を掲載する。
(当日のレジメを文末に掲載しましたので、併せてご覧ください。)
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【「死者への追悼と社会変革」10・8山博昭プロジェクト東京集会 2018.6.2】
佐々木幹郎(司会:詩人)
「今日のメインイベントです。シンポジウム『死者への追悼と社会変革』というタイトルで、今日は三橋俊明さん、日大全共闘です、それと真鍋祐子さん、このお二人に来ていただきましてお話を伺いたいと思います。
ちょうど絶好のタイミングとなりまして、日大アメフト部問題、50年前と全く変わっていない現在で、三橋さんはそのことも含めて、いろいろとこの間、マスコミやいろんなインタビューなどで大変ご活躍されております。本も、私は昔出た河出ブックスで『路上の全共闘1968』を読ませていただいて、面白い本だなと思いました。そして、今日2冊、まだ本屋に出ておりません。彩流社から『日大闘争と全共闘運動』それからもう1冊『全共闘、1968年の愉快な叛乱』、今日出たばかりですので、是非ご覧ください。

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もう一つ、真鍋祐子さんの博士論文を基にしてまとめられた『烈士の誕生―韓国の民主運動における「恨」の力学』、冒頭からとっても面白い問題意識で書かれたものだと思いました。
韓国の問題も、今日、トランプが6月12日にシンガポールで(北朝鮮と)会談をやることを決定したという報告がありましたけれども、南北朝鮮の問題が、これから世界史的に大きく展開していくというこの時期に、真鍋さんに韓国における民主化運動はどういう歴史をもっているのか、その構造は何であったのかをお聞きするのは絶好のタイミングだと思います。『恨』という力学の視点から見た場合、我々は韓国人のその考え方を、我々はどんな風に誤解しているのかというのが、この本の中ではよく描かれています。
私は司会をさせていただきますが、今日は三橋さんに最初20分ほど、そして真鍋さんにも20分ほど報告を受けて、その後、お二人の対話という形で一部を終わります。それから休憩をはさんで、皆さんからの質問を受け付けたいと思います。
では三橋さん、よろしくお願いします。」

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三橋俊明
「三橋です。どうもとんだ時期にお引き受けしまして、レジメを作るというお話だったんですが、その最中に今報道されている日大アメフトの「悪質タックル」が起こったものですから、急にレジメに付け加えさせていただきました。ただ、今日のシンポジウムは「死者への追悼と社会変革」がテーマです。私も寄稿しておりますが、『かつて10・8羽田闘争があった−山博昭追悼50周年記念(寄稿編)』が主役ですから「悪質タックル」についてお話するつもりはないのですが、三点だけ今も日大全共闘として活動している僕から指摘しておきたいと思います。
 その一つは、事件の経緯は皆さん報道でご存知だと思いますが、日大の体質が1968年当時と全く変わっていないことがアメフト部の「危険タックル」問題を通して見えたという点です。それは日大全共闘に引き付けていうなら、50年前の日大闘争は民主化要求闘争だとマスコミの皆さんは仰っていましたが、その目的が達成できずに、日大を民主的な大学に変えることができなくて今の日大に引き継がれてしまったという忸怩たる思いも含めて、その現実が透けて見えたというのが一点目です。
 その今の日大の体質を作ってきたのは田中英寿理事長なんですが、彼は1968年に日大闘争がたたかわれていた当時、相撲部に所属していました。日本大学の本部体育会相撲部で大活躍していたわけです。その体育会がどういう役割を日大闘争の中で果たしていたかというと、象徴的な出来事としては1968年の11月8日、関東軍を名乗る連中が江古田にある芸術学部のバリケードを襲うという事件が起こりました。そのときは日大全共闘が各地のバリケードから駆けつけて撃退し、何人もの関東軍を捕まえました。襲った連中が誰なのか確認したところ、他大学や暴力団もいましたが日大の体育会運動部もたくさん襲撃に参加していたんです。中には、日大の付属高校時代に私と机を並べていたN君という剣道四段でインターハイや国体に出ていた選手もおりました。一生懸命に剣道の道を歩んでいたヤツでしたが、そのNが角材で一般人を殴る行為を自ら望んでおこなうでしょうか。そんなはずはないと思いますが、でもそれを引き受けざるを得なかった。たぶん運動部の中で『やってこい』と言われて行かざるを得なかったんでしょう。それは正に、田中理事長体制下でアメフト部の内田前監督が命令に従わせようとしてきた体質と同じだったのでしょう。アメリカンフットボール部には上から言われたことは「悪質タックル」であろうともしなければならない上意下達の命令が生きていましたが、その体質は1968年に全共闘を襲った体育会の相撲部だった田中英寿によって築かれてきたわけです。それが2点目です。
 もう1点は、しかし、変わったものが一つありました。今お話しした剣道部の友人は、たぶん罪悪感を抱きながら芸術学部のバリケードを襲ったんだと思いますが、その行為をきっと誰に話すこともなく、また懺悔することなく日大を卒業して今を生きているんでしょう。しかし今回は、その運動部の中から「私が何をしたのか」を記者会見を開いて告白する運動部員が出てきたわけです。1968年の話として言うなら「関東軍として全共闘のバリケードを襲って悪うございました」と謝って記者会見をするようなことを、一人のアメフト選手がしたわけです。日大全共闘としては、その勇気ある決断に、もしかしたら日大が変われるかもしれない希望を見たいと思っています。これから果たして日大はどうなるのでしょうか。とりあえずアメフト部員たちは集まって声明を出しましたけれども、次に声をあげるのは日大で学んでいる学生たちだと思います。学生たちがどういう形で行動に起ち上がるのか。もし起ち上がることになったら、我々は日大全共闘OBとして喜んで学生たちとともにあらためて日大闘争を闘いたいと思います。以上が、日大の「悪質タックル」問題についてです。

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 本題に入りたいと思いますが、僕の『かつて10・8羽田闘争があった−山博昭追悼50周年記念(寄稿編)』(以下「寄稿編」)へのかかわりについてまずお話しすると、当初は「10・8 山博昭プロジェクト」賛同人の一人として名前を連ねておりました。ただ、賛同人として名前を連ねているだけでなく、何らかのお手伝いができればと考えていたんです。これまで仕事として原稿の執筆や編集や本の制作にかかわってきたので、お手伝いできることがあるかなと思っていました。どんなお手伝いを考えていたかというと、実は日大全共闘の仲間たちと2011年から『日大闘争の記録−忘れざる日々』という冊子を1年に1冊くらいのペースで刊行してきました。

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1968年当時、日大全共闘は大衆団交のときに3万人とも3万5千人ともいわれる日大生を集めたんです。そんなに大きな集団だったこともあって、今も定期読者の名簿が600名から700名くらいは確保できています。その皆さんに日大闘争の「記憶を記録に」とうったえて冊子をお送りする活動を続けてきました。その名簿が私たちのところにあるので、その皆さんに今回の「寄稿編」の出版をお知らせして、書籍販売のお手伝いのようなご協力ならできるかなと思っていました。そこで事務局にご連絡を差し上げたんですが、佐々木幹郎さんからご連絡をいただき校閲作業をやってくれないかとの依頼が来たんです。出版に携わっている方ならご存じだと思いますが、校閲作業というのはとても専門的な分野ですから、経験のない人間が安易に引き受けるような仕事ではないんです。でも佐々木さんから『当時の出来事について知っている、あの時代を経験している三橋さんに、できる範囲で協力をお願いしたい』という丁寧なご依頼だったものですから、お引き受けすることにいたしました。したがって、皆さんが「寄稿編」を読まれる前に、僕は校閲作業の中で原稿を読ませていただくという立場になったわけです。
 当初「寄稿編」への投稿は、原稿用紙10枚でという規定でスタートしていたと記憶しています。校閲担当の僕はご寄稿いただき文字校正の済んだ原稿を読ませていただいたんですが、正直にいってあまりの原稿枚数の多さに、言ってしまえば原稿執筆枚数のいいかげんさに驚かされたんです。たくさん書かれている方がけっこういらっしゃいました。僕はたまたま書くことを仕事としてきましたから、10枚でと言われれば素直に10枚で書きあげてしまうんです。読んでいただければ分かる通りです。ですから、当初僕はこの「寄稿編」がどういう形で着地するのか心配していました。当然のことですが、10枚の規定をこえて20枚も30枚も書いているような原稿は削るなり減らしてもらうのではないか、またそうなるであろうと思いながら校閲作業のお手伝いに入ったわけです。ところが、佐々木さんの編集方針をお聞きするとまったく躊躇することなく『全文を載せます』という。えっと驚きましたけれども、正直にいってその揺るぎない姿勢に心をうたれたんですね。それは、読んでいただければ分かると思いますが、「寄稿編」に掲載されている文章は、まさに書かずにはいられない人たちが書きたいと思っていた内容を率直に記した原稿なんです。これらの原稿は、他人の誰かが枚数を減らせとか、短くまとめろとか、もう一度書き直せとかいって修正することが可能な種類の文章ではなかったんです。あえて感覚的に言わせていただくなら、人には止めることのできない「ほとばしり」や書かずにはいられない「心情」があって、その思いが原稿用紙の枚数を10枚では済まずに20枚にも30枚にも膨らませていったんだろうと思えたんです。その細部にわたってまで語りつくそうとしている「ほとばしり」や「心情」をひとかけらも削ることなく載せようというのが、佐々木さんの編集方針だったんだろうと思います。もちろん僕はその方針に賛同して佐々木さんの依頼にそって校閲作業をいたしました。とても厚い本になるだろうなと予想したとおり、見事に厚い本になりました。一気に読んでいただくのはちょっと大変かもしれませんが、この「寄稿編」は現在の10・8への皆さんの思いの結晶なんだなと感じながらしっかり作業をさせていただきました。

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 僕が書かせていただいた「全共闘は10・8から生まれたのか?」という文章についてですが、当初原稿を書くつもりはなかったんです。なぜかというと、直接10・8にかかわっていなかったからです。少し踏み込んで言うと、僕が10・8のことを当時ほとんど知らずに毎日ぶらぶら遊んで暮らしているような大学生だったことがありました。1968年の4月から日大闘争に参加することになりましたが、それまではまったくのノンポリで政治や社会問題にとくに関心はなかったんですね。日大にはそんな全共闘たちがたくさんいるんですが、まあ、その典型といえるのかもしれません。そのように1967年の10月8日を過ごしていたこともあって、寄稿する立場にはないかなと考えていました。でもその一方で、もう一つの別な思いもあったんです。それは『日大闘争の記録−忘れざる日々』という冊子の編集人をしながら日大闘争にかかわった皆さんの経験をまとめていくなかで感じてきた思いと重なっていました。たとえば、直接には日大闘争にかかわらなかった多くの支援者たちの声をどのように集めればいいのか。街角で一万円札をカンパしてくれたご婦人や路上で一緒に石を投げてくれたサラリーマンの話は、どうすれば聞けるのか。また日大闘争のことをよく知らない人に経験を伝えていくにはどうしたらいいのか。そうした課題について考えてきたことと重なっていたんです。「寄稿編」に、10・8や山博昭さんにかかわりのあった人たちだけでなく、何もしなかったり出来なかったり知らなかった人たちが、どうして、どのように向き合うことになったのかを伝えていく文章があってもいいのではないか。というより、もしそうした文章が加わることになったら、山さんや10・8をめぐる経験に質のちがう幅や奥行がでてくるのではないかと思ったんです。今、ここにいらっしゃる皆さんは10・8と身近にかかわってきた方々でしょう。たとえニュースとしてしか知らなかったとしても、同じ時代を共に生ききたわけです。しかし当たり前のことですが、この寄稿編がこれから何年にもわたって読まれていくとしたら、10・8という出来事に触れてみよう、山博昭さんについて知ろうと思った人たちは1960年代の経験を共有していない世代の方たちになっていくわけです。別の時代に暮らしている人たちが、10・8や山博昭さんについて理解しようとこの「寄稿編」を読むわけです。その時に、同時代を生きながらも10・8を知らないで全共闘運動に参加し、でも10・8の経験を受け継ぎ山博昭さんと向き合うことになった。そんな人たちが当時いたんだという時代と経験の広がりを伝えていく役割ならできるかなと思って「全共闘は10・8から生まれたのか?」を書かせていただきました。
 僕としては山博昭さんと10・8への思いを、率直に「共感」として語りたいと考えて書かせていただきました。それは、たとえば共に感情を共有するといった次元を超えた、出来事の由来や真相を知ることで自分の体験と過去の歴史とが重なり、経験を分かちあえたと思えるような「共感」について書こうと思ったんです。そうした次元の「共感」をつかむためには、出来事の「由来」や「真相」、いつ、どうして、誰が、どこで、なぜ、何をしようとしていたのかを知らなければなりませんでした。知ることが多ければ多いほど歴史的な出来事に接近できるし、自らの体験との重なりが見えてくるからです。知れば知るほど、経験を分かちあえる分量が増えていくように思えたんです。ですから、大切なのは「どのような出来事が、なぜ、何をめぐって起こったのか」という「由来」や「真相」をまずは知ることではないでしょうか。『かつて10・8羽田闘争があった−山博昭追悼50周年記念(寄稿編)』は、そのことに応えようとしている記録になっているのではないでしょうか。すくなくとも僕は、そのようにこの「寄稿編」を読ませていただき山博昭さんへの「共感」を僕なりに深めていくことができたと思っています。
 「寄稿編」は、山博昭さんの思いや10・8の経験を、あの場にはいなかった人たちと分かち合っていくための素材を提供しているんだと思います。僕は「寄稿編」を読ませていただくことで、これまでより密度の濃くなった、魂にふれる「共感」を受け取れたように思えました。あの場にいなかった僕が山博昭さんの思いや経験をこれまで以上に感じられるようになったのは、少なくとも羽田闘争が10・8になぜ実力闘争として闘われ、山さんがどのような反戦への意志をもって参加し、なぜ亡くなったのかを「寄稿編」をとおして多角的に複雑に知ることができたからだと思います。当時、何も知らなかった僕には近づけなかったんです。10・8という出来事を知らなかった僕には、「共感」するための土台がありませんでした。日大闘争に参加し、政治や社会について考え機動隊の暴力と向き合っていく中から、1960年代に起こった社会運動への「共感」の芽が少しずつ育っていったんだと思います。
 日大闘争も同じですが、他人と経験を共有しようとするなら出来事の由来や真相が何だったのかをしっかり語り伝えていくことがまずは大切なのではないでしょうか。一人ひとりの細かな記憶を拾い集めたり語ってもらって記録していくこと。どんなに細やかな記録や資料であっても、その一つが残っていなければ共有していくことが難しくなる経験が、そういう何かがあるのではないでしょうか。「記録」は、魂にふれる「共感」が生まれていく原点の一つなんだと思います。
 『かつて10・8羽田闘争があった−山博昭追悼50周年記念(寄稿編)』は、そしてこれから刊行を予定している「資料編」は、10・8の羽田闘争と山博昭さんの経験を未来にわたって誰かと共有していくための記録になると思います。最後になりますが、僕は二冊の記録本をもとにあの日の出来事をもう一度見つめ直し、直接には知り合いでなかった山博昭さんとあらためて向き合ってみようと思っています。

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 本日、もう一つお話しておきたいことがあります。山博昭さんともつながっているんですが、日大全共闘は日大闘争の中で一人の同志を亡くしています。皆さんには『中村克己の略歴と事件経過』というタイトルでレジメに書かせていただいたので、それをお読みいただくと大体の出来事と、中村克己くんがどういう人物なのかお分かりいただけると思います。
 日大闘争は1968年6月11日からバリケード闘争に突入しますが69年2月頃から各学部のバリケードが機動隊によって撤去されていきます。その前後から70年にかけて疎開授業が始まって、1年間の単位をおよそ1週間から2週間で取得できるという馬鹿げた授業が始まります。日大全共闘は各学部で疎開授業阻止の抗議行動に取り組みました。その最中、最寄り駅でビラ配りをしていた日大全共闘にたいして右翼からの襲撃があり、踏切の付近に追い詰められた中村克己くんが致命傷を負って亡くなったんです。この右翼による襲撃事件は裁判闘争としても争われましたが、急行電車との接触事故として処理されてしまいました。もちろん事件の真相は明らかになっていませんし、万が一急行電車に接触していたとしても右翼から襲われない限り踏切に追い詰められ事故になることはなかったわけです。ところが、右翼の襲撃についても事故の原因を作った行為として認められませんでした。中村克己くんは電車との接触による事故死として処理され亡くなってしまいました。亡くなった後、日大全共闘葬が日比谷公会堂でおこなわれ、墓参会もそののち続けられていて僕も参加しています。

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(写真:中村克己さんが当日被っていたヘルメット)
 僕が当時の出来事を語ろうとして少々しどろもどろになるのは、1969年9月30日に「9・30大衆団交1周年法経奪還闘争」という御茶ノ水にある明大学生会館の前庭で開催した闘争で逮捕され起訴されてから10ケ月間、1970年の7月10日まで府中刑務所の独房に拘束されていたために、事件の全体像が分からないからなんです。70年6月の安保闘争が終わるまで下獄できなかったため、中村克己くんが襲撃された70年の2月25日にまだ僕は府中刑務所にいたんです。襲撃事件のことは、独房にとどけられた一通の電報によって知りました。夜半に救対から発信された『右翼に襲われ中村克己くん危篤』という電報を監守から受けとりました。辛かったです。ですから、事件の経緯を直接には知らないんですね。僕はさまざまな機会に、山博昭さんと同じように日大闘争の中で右翼からの襲撃によって亡くなった仲間がいて、彼がどういう経歴をたどり、どんな思いで日大闘争に参加し、どうして亡くなったのかを出来る限り皆さんにお知らせしようと思ってきました。中村克己くんが日大闘争を通して実現しようと願っていたことを皆さんと共有していただければと思って機会があるごとにお話しています。
 以上、日大アメフトの現状、寄稿編へのかかわり、そして中村克己くんと日大闘争をめぐってということでお話させていただきました。

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 いま写っている写真が70年に日比谷公会堂で開催していただいた「中村君虐殺糾弾日大全共闘葬」の様子です。この時は皆さんにご協力いただいたと思います。まだ水戸巌さんがお元気だったころで、呼びかけ人として名前を連ねていただいております。今日は水戸喜世子さんがいらっしゃっていますが、あの時は大変お世話になりまして、ありがとうございました。
 中村克己くんのお墓は1971年に作られ、毎年、墓参会をしてきました。ただ、墓参委員会による協議の結果、2020年の中村克己くんが亡くなってから50年目に墓石を壊してすべて土にかえすことにしました。とても不思議なことだと思うんですが、一方では山博昭さんのモニュメントがつくられ、その一方で僕たちはあと何年も生きられないしお墓を放置できないので、墓石を無くすことを選択したわけです。中村克己くんの墓に刻まれた言葉を拓本に取って、去年、日大闘争の資料が国立歴史民俗博物館に収蔵されることになったので、そこに記録として残すことにしました。当初は「墓石をモニュメントとして残してください」とお願いをしたんですが、歴博からは「いくら何でも墓石は資料として残せません」とお断りの連絡がありました。

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(会場から)墓石の文字は何と彫ってあるんですか?
 この文章は中村くんが書き残したメモからの言葉なんですが、『現在における激烈な階級闘争は自己の内的世界をも破壊する闘いとしてある』と彫られています。当初は、お父さんお母さんのお墓の横に建ててあったんですが、後にお父さんお母さんの遺骨を中村克己くんの妹さんが引き取ってそちらの家族のお墓に収めたんですね。その妹さんが中村くんの遺骨も一緒に収めて下さることになりました。今の墓石がなくなったあと中村くんの遺骨は妹さん家族のお墓に合葬されるので、我々も命が続く限りそちらの墓への墓参会を続けようと墓参委員会では決めております。2月の命日ちかくの日曜日におこなわれてきた墓参会には毎年30〜40人くらい集まります。
以上です。

【レジメ】
死者への追悼と社会変革『かつて10・8羽田闘争があった(寄稿篇)』をめぐって
『日天闘争の記録一忘れざる日々』編集人 三橋 俊明
はじめに一日大闘争と日大の今
① アメフト傷害事件への日大の対応と日大体質
・日大の体育会は「保健体育審議会に所属する競技部」と今は名前を変えて呼ばれているが、大学本部直属の日大エリート・コースに変わりはない。本部が予算や人事などのすべてを掌握し、競技部は本部の指示にしたがう。
・1968年の古田重二良会頭は柔道部出身。ボクシング部の柴田勝治氏も。12代理事長として2008年田中英寿が就任。相撲部出身。次期理事長候補がアメフト出身の内田正人前監督。
・田中理事長はアマ横綱としで活躍し1983年に日大相撲部監督に就任。指導者として舞の海や野球賭博で追放された琴光喜などを育て、今は“アマ相撲界のドン”として君臨し、日本オリンピック委員会(JOC)の副会長など歴任。一方で山口組組長の司忍や住吉会福田会長との写真が流出。
・また田中英寿理事長は、かつて日大本部から指示され、学生弾圧で暴力行為をはたらいた右翼体育会メンバーの一人と目されている。
② 日本大学・宮川泰介選手が拓いた希望
・変わらない日大体質と変わった体育会学生
③ 6月10日「日大全共闘結成50周年の集い」
・田中英寿を日大から永久追放する「声明」を「日大全共闘結成50周年の集い」参加者一同で採択する予定。

1『かつて10・8羽田闘争があった一山崎博昭音匝50周年記念[寄稿編]』をめぐって
① 記念誌へのかかわり
・賛同人一原稿の執筆−お手伝いへ
・校閲作業をとおして
② 「全共闘は「10・8」から生まれたのか」をめぐって
・日大闘争とはどのような出来事だったのか一五大スローガンを掲げた「民主化闘争」
・日大全共闘のノンセクト組にとって「10・8」とはーその現実の率直な記録
・「10・8」によって切り拓かれた実力闘争の地平と日大闘争
「日大闘争に参加した日大生のなかで、!967年の「10・8」に参加しなかった、できなかった、知らなかった日大全共闘たちにとって、「10・8」とは何だったのか。
そして「10・8」の何と、どうかかわることになったのか。
③「sympathy ・同情」を超えた「empathy ・共感」へ
・相手と同じ感情を共有する「同情」の次元を超えて、出来事の「由来」を知り相手の感情を自らの体験に重ねて経験を分かちあう「共感」へ

2 日大全共闘商学部闘争委員会・中村克己さんの略歴と事件経過
① 中村克己さんの略歴
1947年10月21日、東京都世田谷区に生まれる。
第二岩淵小学校、赤羽中学校をへて62年4月、都立北高等学校入学。
高校二年生のころはバレー・ボールに熱中する。三年生の春、家庭の事情により西巣鴨のアパートに下宿。高校卒業後一年間、代々木ゼミナールに通って受験勉強。
1967年4月、日本大学商学部経営学科に入学。『平凡パンチ』やマンガ雑誌を読み、ジャズを聴き、ときには妹のギターを借りて弾くような学生生活をおくる。
1968年3月王子野戦病院闘争中べ平連の行動に参加するようになり、「世田谷べ平連」を商学部内に作る。5月、日大闘争がはじまる。 69年4・28闘争を機に「学生解放戦線」に参加。70年「ML同盟|加盟。
1970年2月25日、日大文理学部闘争委員会のメンバーとともに、京王線武蔵野台駅前でのビラ配布中、体育会系学生の襲撃の最中に頭部に重傷を受けて入院。
3月2目死去。享年22歳。
(『明日への葬列−60年代反権力闘争に斃れた10人の意志』高橋和巳編・中嶋誠着より)
② 事件経過
1970年、日大文理学部では京王線武蔵野台駅南方にプレハブ校舎を建て、一年間の授業を一週間から10日ほどで終了させて進級させる疎開授業を実施していた。
日大全共闘文理学部闘争委員会では、こうした疎開授業に通う学生たちに、日大闘争への支援や討論会への参加を呼びかけるビラなどを、2月14日、21日に配布していた。
1970年2月25日、京王線武蔵野台駅前で商学部の中村克己さんは文理学部闘争委員会の仲間たち30人ほどと一緒に、「2・25討論集会に結集せよ」という内容のビラを配布していた。その最中、突然つめ襟の学生乱闘服などを着たおよそ20名の右翼・体育会系学生からの襲撃をうけた。襲撃した右翼・体育会系の学生たちは、鉄筋の棒や角材などの武器をあらかじめ準備し計画したうえで襲ってきた。
ビラまきをしていた全共闘の学生たちは、一部は駅のホーム方面に、一部は狭い踏切のほうへと逃げたが徐々に追い詰められ、激しく攻撃を受け続けた。そのとき、踏切付近にいた中村克己さんも攻撃され、左側頭部に致命的な傷を負ってしまった。倒れた中村克己さんに二人の女子学生かかけよって助けようとしたが、襲った右翼・体育会系の学生は中村ざんにむかって「鼻血を出しだくらいで倒れやがって」といって蹴ったため、その場で抗議をしたという。
その後、踏切を通過した特急電車が停車して車掌と運転士指導の助役がかけつけ、文理学部の小型トラックが来てヘルメットなどを回収し、それから救急車がやって来た。警察のパトカーは、車掌が来る前に現場に来ていたという。
襲撃された中村克己さんは、救急車で府中市の奥島病院へと運ばれた。
そして3月2日に死去、享年22歳。
1970年3月11日、日比谷公会堂において「日大全共闘葬」がおこなわれた。
ビラまきをしていた文理学部闘争委員会のメンバー29人は、襲撃されたあと府中警察に連行され、逮捕された。襲撃した右翼体育会系の学生たちは、事情聴取のあと何事もなく釈放となった。その後、この事件で文理学部闘争委員会の高橋成一さんが起訴され裁判闘争が続いた。
中村克己さんの死因は「電車接触」によるものと断定され、「右翼体育会系学生による襲撃との因果関係はなし」と結論された。
③ 「中村克己君墓碑委員会」による墓参’
中村克己さんのお墓は、一周忌となった1971年に千葉県八千代台にある八千代霊園に造られた。墓参は中村克己君虐殺糾弾委員会から墓碑委員会へと受け継がれ、毎年2月25日に近い休日に墓参会が続けられてきた。
「中村克己君墓碑委員会」では、これまで休むことなく継続してきた八千代霊園への墓参を、虐殺事件から50周年となる2020年に終了することを決定した。また八千代霊園に建立しだ墓石のモニュメントは、どこにも残さないこととなった。
墓碑に記された名前と言葉などは拓本をとって「国立歴史民俗博物館」に資料として寄贈された。遺骨は、南大沢にある妹さんの管理する墓に、克己さんの父母とともに合葬されることとなった。
今後中村克己君墓碑委員会では、南大沢への墓参会をこれまでと同じように継続する。
中村克己さんについでは『70・2・25中村君虐殺糾弾』(中村君虐殺糾弾委員会1971年1月30日発行)、『明日への葬列−60年代反権力闘争に斃れた10人の意志』(高橋和巳編1970年7月27日発行)、『日大闘争の記録一忘れざる日々』第四号「特集 中村克己同志との思い出」(2013年9月10日発行)がある。
レジュメとして配布させていただいた「独房の全共闘1969−中村克己の拳と「エコー」と」は特集に収録されている文章です。

【本の紹介】
『全共闘、1968年の愉快な叛乱』 三橋俊明 著  彩流社発行
定価2,200円+税
1968年、全国各地の青年によって多様に多彩に取り組まれた全共闘運動が楽しき日々であったことは、ほとんど語られることなく注目されてこなかった。本書では「愉快な叛乱」として著者自身の体験が語られる。政治や社会に無関心だったノンポリ青年たちが、マルクス主義や革命を掲げる政治党派とは無縁な学生運動集団として日大全共闘に「成」り、ノンセクトであることを誇りとして闘った愉快な叛乱の記録。

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『日大闘争と全共闘運動 −日大闘争公開座談会の記録』三橋俊明 編著  彩流社発行
定価1,800円+税
1968年5月に、日本大学で日大闘争が沸騰してから50年。20億円にも及ぶ使途不明金問題に端を発した日大闘争は、同じ頃に東京大学や各地の大学でも結成された全共闘と大学の不正や教育体制に抗議し社会に対しても異議を申し立てました。本書は、昨年国立歴史民俗博物館で開催された「『1968』無数の問いの噴出の時代」展に1万5千点余の日大闘争関係資料を寄贈した「日大闘争を記録する会」が、日大全共闘議長・秋田明大氏をはじめとする闘争参加者と対話し全共闘運動の経験を語り合った貴重な記録です。

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【お知らせ】
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次回は8月31日(金)に更新予定です。

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重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」142号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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<独居より  2018年2月16日〜2018年5月8日>
2月16日 (中略)Hさんの資料には、へえー!とびっくり。
アブダビにオープンした仏のルーブル美術館分館の子供博物館に展示されているアラビア湾の地図からカタールが削除されていたことが発覚。オマーンの一部もUAEに書き換えられていたとのことで、仏のメディアは、ルーブル美術館に責任の所在を明らかにせよと迫ったとか。この犯人はアブダビのムハンマド皇太子でしょう。この人は、ムスリム同胞団を目の敵として、サウジの独裁者共々「二人の独裁者ムハンマド」と呼ばれる中東のシリア・イエメン内戦介入の元凶の人々。
今届いた「選択2月号」にも「中東の不安定要因。圧政や戦争犯罪が国際問題に『アブダビ皇太子』」とあります。トランプ、ダブルムハンマド、ネタニヤフの連携は、反イランを柱に、中東再編を今年は狙っていますね。(中略)
                 
2月20日 (中略)夜、点呼後、うれしいお便り。Mさんから。「2月16日第一回公判の後、山田編集長の保釈が決まり、その日の夕方人民新聞の仲間に迎えられて出てこられたそうです」と知らせてくれました。よかった! 当然の措置。不当逮捕でしたから。Mさんのレポートにうるうるさせられましたよ。「山田さんは、公判では罪状認否を求められた際、『この公判は(逮捕・起訴の事)私の岡本公三さんへの支援をやめさせようと狙うものだ』『私は人倫に悖るようなことは何もしていないし、今も、これからも岡本さんへの支援は続ける』とはっきり宣言されていました。(おもわず傍聴席より拍手)」と知らせてくれました。本当によかった。誰もが怪しげな逮捕や拘留に抗議し、大阪でも東京でも抗議集会が開かれる予定でしたので、集会に山田編集長が参加して、事実を伝え抗議をさらに強めることを期待しています。みんなに連帯! また、Mさんは1月の沖縄辺野古のゲート座り込みの様子を送ってくれました。ありがとう! 体調を崩したとのこと。もう大丈夫? 丈夫元気でいてください!
“人倫に悖る何事もしておらぬ冒頭陳述凛凛と響く”思わず零れた一首です。
(中略)

2月25日 曇り続きの昭島の週末、午後から陽が射しています。
丁度Kさんから送って頂いた「近代日本150年─科学技術総力戦体制の破綻」(山本義隆著)を読み終えたところです。幕末から現在まで「黒船から福島まで」の日本の上からの資本主義化が科学技術に国民を総動員しつつ、軍需として運営されてきたことがよくわかります。「脱亜入欧」の思想を伴い、侵略国となっていく物質的根拠とその担い手たちの、アジアに対する蔑視と西欧科学技術の盲信が戦前も戦後も生き続け、公害から福島までの破綻の道に至り、今もその道をまっしぐらなのが実情だということが当事者たちの文献や発言含めて掲示され分析されています。とくに満州国で「国家総力戦体制」の絵を描いた岸信介が戦後日本に占領軍と組んで再登場し、1950年代にはいわゆる「潜在的核武装」路線を唱えて「原子力開発のアクセルを踏む」(著者のことば)歴史から、今も安倍政権が核輸出に熱心なのもうなずけるものです。破綻を破綻と考えない近視眼の政治によって、日本はゆっくりと未来を失っているのを実感しつつ読みました。
同時に送って頂いた「科学者の軍事研究」(池内了著)でも安倍政権による「安全保障技術研究推進制度」は「発足後のわずか3年で100億円規模にまで増えた予算を背景に、大学での軍事研究制度がいよいよ本格化しつつある」と急速に軍学共同が進む実態をあきらかにしています。「平和」の様相で培った技術は軍事へと転用され、大学が国家の戦争・武器・宇宙競争に位置付けられています。国家安全保障戦略として科学技術総力戦体系を「デュアルユース技術」として進める中で、科学者のあり方を問う本です。これから読み進めたいところです。

3月2日 Iさんの送ってくださった資料は、とても早く今日付きました。資料の中に「ホンダ」がパレスチナ西岸地区ヨルダン渓谷のパレスチナ人を追放したパレスチナ人立ち入り禁止地域で、ロードレースをやる予定が「BDS運動」の日本の団体の助言と警告を受けて中止し、イスラエル内でやることになった、という資料があります。「パレスチナの平和を考える会」などの呼びかけで、功を奏しました。この呼びかけ声明では、ホンダと組むパートナー企業「メイヤーズ・カーアンドトラック」は、入植地ビジネスの企業であり、ヨルダン渓谷地域は入植地や軍事施設をつくり、恣意的「軍事閉鎖地区」として、半世紀以上もイスラエルが占領してきたこと、日本外務省H.Pも「東エルサレムを含む西岸の入植活動は国際法違反とされ、人権侵害とされる可能性」を掲示していることも、ホンダ社長宛に声明で送っています。
そして「第一に2月23日、24日のイヴェントの中止、第二に入植地ビジネスのメイヤーグループとの連携の中止、第三に加担回避のために私たちとの話し合いの場を」と提案したのです。ホンダが会場を変更しBSD運動が勝利したのち「BSD運動の要請に従い、ホンダが違法イスラエル入植地で予定していたロードレースの会場を変更したことを歓迎します」と、声明を発しています。啓蒙運動ともなり、実際の効果も得て、とてもいい闘い方です。
(中略)

3月7日 塩見さんのお別れ会のこと、友人が伝えてくれる手紙が届きました。感謝。120名位という人と、130名位。いろいろな方々が塩見さんとのかかわりを語ったそうです。高原さんは、なぜここに遠山や山田、森らの遺影がないのかに始まり、塩見美化はやめてくれ、赤軍派の路線的誤りが「連赤」に結果したのであり、塩見と行動した指導部として謝罪する、といったとのこと。私のメッセージは「批判的エピソードを含めて、パンタさんが情感込めて読んでいました」とのこと。パンタさん、ありがとう。Yさんの添付のパンタさんの写真も。お元気そうに読み上げてくださっている写真です。Tさんも行かれたのですね。「パンタさんが重信さんの追悼文を代読しました。とってもよかったです。パンタさんの読み方が心のこもったもので、重信さんの思いを十二分に伝えていました」と。
(中略)

3月12日 見事な快晴になりました。午前中昼食近くN和尚とMちゃんが面会に来てくださいました。Mちゃんは僧侶の「付人」のように法要に参加して下さっています。元気そう感謝! 和尚は髭を生やして益々貫禄のある落ち着いた住職のようです。顔を合わせることができるのが、まず嬉しいです。法華経の読経に入りました。お二人は数珠を持って、私も黙読しつつ心の中で唱和しつつ、彼岸法要です。遠山さんの遺体が3月13日に発見されたとのことで、ご遺族はこの日を命日とされておられると聞き、遠山さんのことも祈りました。心が浄化されるように読経を聴きました。N和尚の師へのお礼と、「あと5分です」とたちまち30分が迫ってしまいました。あわてて話をし、つぎはお盆の法要に来て下さるとのこと、確認してガラス越しにハイタッチして別れました。いつも房に戻ってじっと読経や対話を反芻しています。感謝!
(中略)

3月15日 母の命日。スターチスの紫と葉の緑の花瓶の水を替えました。写真を取り出して挨拶の朝です。
(中略)Mさんの送ってくださった「治安フォーラム2月号」には、ベイルートで97年2月15日逮捕の際の日本の警察担当の写真と、「東ベカーの赤軍潜伏先アパート」と銘打った写真。私たちは、政府も御存知、別に潜伏していたのでもないし、その写真は、まったく私たちが住んでいたわけでもないです。「3月号」は、相変わらず「日本赤軍は解散しても要注意」との、治安2017年報告です。あきれつつ読みました。送って下さってありがとう。

3月16日 今日はコーラスの日。「エーデルワイス」を歌い、ハンドベルで童謡を奏でました。2本のハンドベルを左右の手に1本ずつ持って、いっぱい出てくるドレやミソを順次入れかわりに担当。速いテンポは、あゝ…! 反射神経の退化…! うまく乗れず、がっかり。退化に挑戦するように、繰り返しやってみましたが……。 
でも今日はいいこと一つ。ベランダの狭い芝生スペースに紛れ込んで、花が咲いているのを発見! 「からすのえんどう」です! うすい藤色と濃いピンクのえんどう豆と同じで、そのミニチュアの小ぶりの花が4つも! つぼみもあり、葉や茎も、えんどう豆のようにつる状で、這いながら花を咲かせています。花が終わると、さやえんどうのような実をつけます。それと、ナズナの、ほんとに小ぶりな数センチの株も数ミリの花を咲かせています。嬉しい!
(中略)

3月21日 横なぐりの雪が激しく降っているのが、窓の外に巡らした回廊の斜めの透明プラスチック柱からちらちらと見えます。
「下谷風煙録」(福島泰樹著)の歌集を雪を仰ぎつつ読んでいるところです。2016〜17年の三百十余首をこの歌集に収めています。ずっと代を継いで住んできた東京下谷に生まれ、生きてきた歌人の人と人との風景を刻んだ歌の数々です。「風煙とは自身の亡骸を焼く煙の謂である」と記されていて、思わず背筋を伸ばしつつ読んでいるところです。戦争や関東大震災のことを抉るような歌から情念の吐露のような歌を含めて自在に時代を甦らせています。“煙跡に草は茂りて鉄カブト雨水に煙る青き世の涯”“女らのいとけなきかな奔放に生きしは井戸に投げ棄てられき”“橘宗一いまだ六歳憲兵隊本部の庭に絶えし蜩”“母さんと手をつないで眺めてた真白く揺れる池に浮く花”“佇んでうつむき消えてゆきにしか女郎花てう花は愛さず”など共感しつつ読んでいます。刺激を私の歌に詠みたいと……。

3月22日 雪は雨にかわり午後には快晴の昭島です。
今日はシーツ交換日。羽布団のような700gのポリエステルの掛布団は2枚ですが、それをすっぽり布団袋のように幅150㎝長さ230㎝の白い袋に収めます。敷マットレスの上に薄い布の敷マットがあり、それに弾力性のあるシーツを四隅にひっかけながらのばします。70㎝×40㎝の大きな白い袋(枕カバー)をはがし、新しい3点を週一回交換します。掛布団、毛布、布敷マットは月に一度洗います。八王子でも週一回シーツ交換でしたが、何㎏もの重い布団に小さな同サイズの敷布団のみで、掛蒲団は衿カバー、枕も小さいカバー月一回の布団干しでした。新舎の方が清潔な普通の病院システムです。(中略)

3月27日 午後は指名医のデンティストに診察治療して頂きました。一年前に義歯の下の根の残った歯が抜けたままにしていたため、空洞で不具合でしたが、高額もあって保険がきかないので躊躇していたのですが、前歯の歯周病で上の歯も不具合もあり治療してもらうことにしました。とても適切に義歯を修繕し、前歯は麻酔をかけて切開して治療してくれました。年と共に歯は悪化して、特に歯周病は進行してしまいます。手鏡を借りて持たせて説明してくれるのですが、手鏡に写ったしわだらけの素顔(普段は見えない。壁に小さな鏡があるのですが、しわまで見えない)に思わず口の中より注目し、うなってしまいました。

3月30日 今日、狭いベランダ運動に出ると、芝のあちこちにどこから飛んできたのか、桜の花片です。10余人で拾っては、手をいっぱいに上にあげて散らし、お花見! と小さな花吹雪を作って遊びました。ここは横田米軍基地、かつての砂川闘争の一角になり、そこに昭和天皇陵の公園にも使用されているので、そちらから吹雪いてくる花が、風に乗ってこの6階に届いたのかしら…などと話していました。
花片を拾いながら、今日はパレスチナの「土地の日」。この日に自決した檜森さんの命日でもあります。檜森さんが自決した年も、今年のように桜が満開の3・30でした。パレスチナでは苦境の中で、「3・30土地の日」からナクバの70年目の5月15日まで、抗議行動を強化し、パレスチナ人の「帰還の権利」を訴える闘いを宣言しています。(中略)

4月4日 昨日は、1月に申し込んだ整髪の順番がやっと回ってきて、髪を切りました。これまでは懲役の「素人さん」の仕事でしたが、ここでは「PFI手法」で民・官共同らしく、そのせいか、プロの理髪師さんらしい男の方が短い髪形にカットしてくれました。
今日はコーラスの日。「エーデルワイス」「気球に乗る」と「花」を歌い、今回もハンドベルに挑戦。今回は両手でなく、片手だけの担当で、みな概ねOKでした。でも「ずいずいずっころばし?♪」などハンドベルでチームワーク良くメロディにするのは、やっぱり皆つまづきつつです。
(中略)

4月11日 今日は花祭りの法要がありました。花御堂の小さな屋根には花一杯に生花が挿してあり、八重山吹と赤い椿を何十年ぶりに見てうれしかったです。甘茶をかけ「天上天下唯我独尊」姿のお釈迦様を濡らします。そういう行事と読経の後、2時半から3時まで法話でしたが、二階席で音が拡散するせいか、ちっとも聴き取れませんでした。私の聴力も悪化しているせいかもしれません。
(中略)

4月16日 シリア侵略爆撃をめぐって、安保理緊急会議では、米・英・仏は行為を正当化しています。私が注目したのは、今日の読売新聞に「アサド政権軍は、ロシア提供の最新の地対空ミサイルを使用しなかった」という一行の記事です。これはロシアの判断か、ロシア・シリア共同の判断でしょうが、ミサイル反撃で、戦略・陣型・能力が検視されるのを見越して、使用しなかったかもしれない点です。ということは、イスラエルとのシリア・レバノンの戦争の危険に備えているのでは? と思うからです。
イスラエルは、レバノンのヒズブッラーを叩くことによって、反イラン中東情勢をつくりあげたいと考えて来、これがレバノン侵略として、いつ始まるか? と見られているからです。サウジのムハンマド皇太子も、反イランでイスラエルと結び、近頃はあれほど敵対しているアサドについて、「アサド大統領はイランの影響力を排除するために、自らの体制を強化すべきだ」と、4月6日、米タイム誌とのインタビューで語たり、反イランを米・イスラエル・サウジで強めています。その結果、トルコとカタール支援をめぐって、サウジは敵対状態です。根っこはスンニ派のムスリム同胞団系のカタール・トルコに、(イランとも協力し合う関係)サウジが大反発して、カタールを村八分にして以来、トルコとも関係悪化。アサドが排除できないなら、アサドを強化して、イランを排除したいというムハンマド皇太子。
こうした緊張を利用して、イスラエルが挑発をレバノンに向けそうな気配です。3月にEUなどが「レバノン支援ローマ会議」を開きましたが、「レバノン国軍のみが武力をもち、国の防衛にあたる」ために2020年までに、5千万ユーロを拠出支援する考えです。つまり国軍より軍事力を持つヒズブッラーを解体させようとの考えです。これは米欧にとって「イスラエルのレバノン侵略を防ぐ戦略的思考」というわけです。
しかし、レバノンの宗派政治は「国家権力が弱い」ということで成立しているものです。レバノン軍強化は、宗派政治破壊の上でしか成り立たず、この計画はヒズブッラーを解体しえないでしょう。そのことを見越し、イスラエルがトランプ政権の時期にレバノン戦争を仕掛ける危険は深まっているように思います。

4月19日 今日部屋替えがあり、一月こちらに着いたときに初めて入った、南向きの明るい病房になりました。こちらは、プラスチックの柱の斜めの隙間から、東方に公園なのか、横田基地なのか、緑地が見えます。ちょうど桜が終わってしまいましたが、若葉の森のように緑が少し見えるのがうれしいです。Kさんの便りでは、オドリコ草、紫ケマン草も咲いていて、春らしい花いっぱいが目に浮かびます。ほんの少し隙間に緑が見えるだけで、空間が広がって爽やかに感じられます。これで不眠症が眠れれば、もう今のところ何も言うことなし! です。
米日の首脳会談。またもや「恭順戦略」で、トランプの決断を誉めまくり、圧力の結果と自賛し、安倍政策も追随。その割に、トランプの「米第一主義」は変わらず、鉄鋼、アルミニゥムなどの日本の関税除外対象は受け入れられず、という主体性のない対米外交です。
金正恩朝鮮労働党委員長は、もともと戦略的に米朝対話から、戦争状態を終わらせる平和条約実現による非核化を目指していました。そのために、父親や祖父の外交総括から、米本土に届く核戦略のレベルに到達すること抜きに、対話は成立しないと判断し、その実現の上で平昌オリンピックで軍事から外交へ一挙に転じることを計画していたようです。
ソ連の人々も、民主党より米国内の反共の共和党と合意する方が、合意が確実になると昔から言っていましたが、金委員長は、トランプの状況を中間選挙もとらえて、首脳会談を要求したのでしょう。「圧力の結果」などと能天気な一面で考えていられません。「平和条約・非核化」「南北連邦制」など、トータルな問題が進む最後の核廃棄がまだ見えませんが、「対話以外に解決はない」のは、はっきりしています。国交を樹立し、通商を開き交流が始まってこそ、現在の金指導体制の真価が問われることになります。
南北分断に責任があるのは日本の植民地支配です。日本がどの国よりも朝鮮統一に支援するのは、歴史的責務です。この大枠の中に拉致問題解決が導かれるはずです。
(中略)

4月27日 4月30日から始まるパレスチナ国会にあたるPNCは、どんな決定を行うでしょうか。ラマッラーで開催されるため、アッバース大統領反対派は、イスラエルの拘束を恐れ、または、カッドゥーミ政治局長のように「オスロ合意」に反対し抗議して、イスラエル監視承認の帰還を一貫して拒み、参加できない人もいて、ファタハ、アッバースらの意向のとおりの決定が行われるでしょう。ハマースは不参加のようです。新しい戦略、民族一丸の帰還の権利の解決こそ問われているのですが……。PFLPも不参加でしょう。

4月28日 素晴らしい連休の天候。窓の外の東側に見える森には、木々を白い花が覆うように咲いているのが見えます。「なんじゃもんじゃ」か「カマボウシ」、それとも楠の少し白黄緑の花か。5月6月は、新緑の中に白い花の咲く季節です。
今日の新聞は、南北首脳会談でもちきりです。1950年代の朝鮮戦争休戦状態から、今年こそ戦争終了、平和条約へと目途が立つことを願っています。日本政府は、しぶしぶ対話路線の当面の米政策に従わざるを得ずの状態です。主体的に植民地時代の謝罪と清算を進めてこそ、拉致問題の真当な解決が生まれるはずです。拉致被害者の切実な願いを、安倍政権は政局にすり替え、過去の日本の犯罪を忘れたように、「拉致」ばかり「被害者」として国を前面に出しています。これでは、朝鮮・韓国、在日ばかりか、過去の日本の耐え難い被害にあった国々が、日本を尊敬しえません。戦争対立状態に戻ることは、いつでもできるけれど、稀なチャンスを生かして、文大統領・金委員長のイニシアチィブが成果を上げることを注視しています。
金委員長は、平和条約から中国式の「開発独裁」的な経済発展を目指すでしょう。非核化でもいいし、核保有国でもいい、と構えているように思えます。このアジアへのトランプ政権のコミットは、「イスラエルの側に立つ宣言」をした中東では、成果を期待できない分、米朝会談の成果で、中間選挙に臨みたいようです。
中東では、イスラエルロビーやキリスト教福音派の原理主義の票田のために、イスラエルを全面的にバックアップです。イスラエル建国70周年を華々しく共同し、サウジでは、武器輸出と経済再編の利権の大半を占めて儲け、この二つの国を結ぶ敵として、イラン敵視の戦略で進むつもりです。この戦略をゆるがせにしない範囲で、エジプト・ヨルダンを財政・軍事援助で抑え込み、パレスチナには降参を求めるやり方です。
イスラエルは、実弾によって平和デモに「土地の日」の3月30日から40人以上を殺し、5千人以上を負傷させ、「シリアのイラン施設」だと主張し、空爆をシリアに繰り返し、西岸地区は入植活動を拡大し続けています。こんな時に、サウジのムハマド皇太子は、4月の米誌インタビューで「イスラエルの人々は、自国の土地で平和に暮らす権利がある」と、わざわざ表明しています。そんなことは、既に「オスロ合意」で認めてきたことで、今、この時に発言することは「エルサレム問題」ガザ虐殺に対するイスラエルの対応を承認するようなものです。
安倍首相も中東旅行へ。イスラエルと、軍事先端技術共同をもっと推し進めたい思惑で「準戦略同盟」と表現してきたし、それが本音で、それをマイルドにするために、政治的配慮として、パレスチナへの財政支援や、中東和平へのコミットを、歴代政権に倣ってやっているのが、本当のところでしょう。5月1日、アッバス・安倍の会談ももたれます。PNCの方も、もう結論は出ている頃でしょう。

4月30日 四月尽。すでに、この昭島の医療センターに移って3か月半になります。これまでのところ、大変よい環境に置かれています。PET検査はできないようですが、病院器材も更新され、きっとシステムが、この4月の新年度から更に正式の稼働しているのでしょう。八王子と、患者チェックシステム(朝の便座回数チェック、投薬、週一回の検温、必要時の血圧測定、病気にしたがって主治医判断による診察や検査―CT、レントゲン、血液検査、尿検査など)は、変わりません。患者数が何倍かに増えているので、医師スタッフはきっと大変でしょうが、患者は高環境になりました。(自然と隔離された悪環境を除いて)房内は、空調20℃の温度管理の下(空気乾燥している感じ)700gの羽布団まがいのアクリル80%綿20%の掛布団2枚や、病院並みのシーツ真白の、一週間ごとの洗濯。食事は、5週サイクルのメニューで、35日ごとに元に戻るので、だいたい把握できます。プロが作るので、それなりにおいしく、食器類もすべて蓋付のしっかりしたものです。清潔な環境です。
問題は私です。年々劣化する身体機能・癌の再発防止チェックです。
(中略)

5月7日 連休が明けました。ベランダ運動では早速祝日に出たお菓子の品評会です。私もまだぎっくり腰がぶり返していて走れず付き合いました。4/9歌舞伎せんべい袋入り、5/3アスパラガスチョコビスケット25g、5/4ポテトチップ、5/5柏餅1ケでした。皆こんな時に塩っぽいものなんかより、甘いものが食べたかった。がっかりの声。柏餅1ケはよかったと。お菓子はみな期待しています。
Tさんがよく眠れる方法を書いて来てくれました。テレビで知り、やってみたらすぐ眠れたとのこと。知りたい人がいるかも!「ベッドに背筋を伸ばして座り、まず胸を張って両腕を曲げてしっかり体幹につけ、膝を伸ばして両足をあげゆっくり10秒程数えるだけです。これで脳の中枢が刺激されるとのことで、眠りに入ります」とあります。ちょっとぎっくり腰に痛そうな姿勢ですがやってみます!感謝!
(中略)

5月8日 レバノンの9年ぶりの総選挙でヒズブッラー連携勢力が過半数を持ったようです。7日イスラエル閣僚は「レバノンとヒズブッラーは同じになった」と発言。イスラエルの戦争挑発が危険です。トランプの在任中に。
(終)

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今年の1月3日、前・情況出版代表大下敦史氏が逝去された。享年71歳。
大下氏を偲んで、6月17日(日)東京・神田の「学士会館」で「大下敦史ゆかりの集い、追悼!記念講演会」が開催された。

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前回のブログで、「集い」での山本義隆氏の記念講演の概要を掲載したが、今回は、もう一つの白井聡氏の記念講演の概要を開催する。

【「大下敦史ゆかりの集い」記念講演 2018.6.17 於:学士会館
―前「情況」誌代表 大下敦史氏の思い出を語るー 白井 聡 】


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福井紳一(司会)(60年代研究会)
「記念の講演に入っていきたいと思います。まず、京都精華大学の白井聡さんです。白井さんは、大下さんの元での『情況』でデビューして、今度出された『国体論』においても、大下さんに捧げるという思いで最後に書かれておりますけれど、その『国体論』は国体概念を基軸に、日本近代史をもう一度総括していくという画期的な試みの本で、今、売れて読まれています。
では、よろしくお願いします。」

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白井聡(政治学者:京都精華大学人文学部専任講師)
「皆さんこんにちは。白井聡と申します。今、ご紹介がありましたように、京都精華大学というところで教員をやっておりますけれども、専門は政治学とか社会思想というようなことを専門にして日々教育をしております。
 私と大下さんとの関係を最初に申しますと、一言で言いますと、私にとって大下敦史さんという人は、本当に恩人であります。といいますのは、最初にお会いしたのは、2004年だったと思いますが、私が当時、一橋大学の大学院博士課程に在籍をしているころでありました。私は、当時、どんな研究をしていたかというと、ロシア革命のレーニンの研究をしておりました。その主題はどういうものかというと、すごく簡単に言ってしまえば、レーニンというのはやっぱり偉いんだということですね。懸命に論証をしようと、そういう研究をしておりまして、それで2003年に修士論文を書いて博士課程に進んでいたわけです。しかしながら、当時、今もそれほど根本状況は変わっていないんですけれども、レーニンは素晴らしいというようなことをいう研究が、学会向けといいましょうか、業界向けをするかというと、全然受けないわけです。むしろ学会のトレンドに全く逆行している、そういうものであります。
私は修士論文を書く過程で、大学院のゼミで発表などをするわけですが、その時に私の師匠の政治学者の加藤哲郎先生は『白井の発表はなかなか面白いけどなあ。こういうのをやっていると就職はないぜ』と言われたものです。私も若かったものですから、血気盛んなものですから、先生はこんなこと言ってるけれども自信はある、今に見ておれと思っていたわけですけれども、博士課程に進みますと、だんだん先生の言っていることの意味がよくわかってきました。なるほど、これほどまでに学会のいわゆる流行といいましょうか、傾向に合致しないことをやっていると、これほどまでに無視をされるというか、放っておかれるものなのか、そういうことを博士課程に進学して、博士課程に進学するということは、同時につぶしが全くきかなくなってくるということを意味するわけで、何とかその世界で生きていかなければいけないわけでありますが、しかしながら、一体どうしたものかと、そういう状況に、今から思えばあったんだと思います。

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そういう中で、当時、Sさんが一橋大学の読書会に参加していたということがあって、そこからのつながりで河出書房新社のAさんとも知り合いになって、その紹介で、『情況』に書いてみないかという誘いを受けました。当時私が『情況』という雑誌に、どれだけの知識が、どんな認識があったのかというと、それほど大した認識はありませんで、一応、新左翼系だということは理解をしていたと同時に、大学時代にある先輩がカバンの中から『情況』を取り出して『こんなの持っているとね、公安に目を付けられちゃうの』と、ある女の先輩が言ったことを覚えていたりしますけれども、何だかとにかくとってもやばい雑誌らしい、というくらいの、いってみれば最左派だというくらいの漠然たる認識でありました。きっと、あなたのやっていることだったら喜んでもらえるんじゃないか、というような誘いを受けましたので、そういうことだったら有難いと思って、修士論文の一部を1本の論文に仕立てて情況編集部に送りました。すぐに掲載してもらえるということになりまして、当時言われたのは、『情況』の校正は著者自らやった方がいいと聞かされておりまして、というのは一応学術論文ですから、注とかが付いていたりして、その注は外国語が入っていたりして大変ややっこしいわけですけれども、いろいろそこで問題が発生して、頭から湯気を出している先生などがいるらしいという話も聞いておりましたので、なるほどと、自ら編集部を訪れてやった方がよさそうだということで、当時、新宿の河田町にあった編集部を訪ねました。
行く前には、私としては若干身構えるといいましょうか、とにかく一番左だといわれている『情況』だ、そのボスであるところの大下さんはどういう人なのか、話は断片的に聞いていたんですけれども、ともかく『情況』で頭を張っているんだから、相当の左翼の大物であろうということで、かなりおっかない人なんじゃないかというイメージを勝手に持って行ったんですけれども、もちろん、会った瞬間にイメージというものは吹き飛んだといいましょうか、今でも覚えておりますけれども、河田町のビルの重い鉄の扉を開けますと、そこに情況編集部があったわけですけれども、なんとなく生活感が漂っているんですね。当時、朝子ちゃんがまだ小さかったと思うんですけれども、朝子ちゃんのおもちゃとか絵本とかソファーの上にあったりして、左翼のアジトというのはこういうものかと、そこで面喰ったわけです、私は、左翼の大物である大下編集長から鋭いコメントがあるんじゃないかということを、期待半ば、また、不安半ばという形で対面したわけですけれども、そういった固い話というのは全く無く、とにかく不思議な感じがしました。初めて会ったのに、何か懐かしい感じのする人ということですね。その初めての対面が、その後の十数年間に及ぶ付き合いをさせていただいたわけですけれども、その運命を変えたんじゃないかと思っています。

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その時に僕がすごく勇気づけられた気持ちもしました。というのは、論文の内容についての込み入った話など大下さんは一切せずに、とにかく言ってくれたのは『うん、これはいいよ』ということでした。それは実際掲載されまして、編集後記にも、大下さんのとても僕のことを買ってくれているコメントが載りまして、それに僕はすごく勇気づけられました。何といっても、物を書いて生きていかなくちゃいけない、いわゆるアカデミックな論文スタイルに、学者である以上、それなりに適応しなければならないわけですが、一方で、いわゆるアカデミックなスタイルというものに対して僕は強い違和感があって、もっとある種魅力のあるものを書きたいと、常々そう思ってやったきたわけで、今もそうですけれども、まさにその姿勢というものを貫けたのは、まさに大下さんが『君の書くものは、これはいいものなんだ』と、そういう風に言ってくれたということですね。そのことが根本的に僕をこれまで支えてくれたと思います。
具体的には、最初の1本、40枚程度だったと思いますが、これは修士論文の一部なんですよと言ったところ、『じゃあほかの部分も出しなさい』という話になりまして、レーニンの『国家と革命』に関して書いた修士論文だったんですが、そのメインの部分を次々号に載せてもらいました。これは150から180枚にのぼるものでして、普通、雑誌の論文というものは、長くて50枚、平均して30枚とか40枚しか掲載してもらえないものですけれど、150枚を超えるものを一挙掲載をしてもらったわけです。どうも、この長さそのものが、他の出版業界の人に聞いてみると、非常にインパクトがあったそうです。こんなとんでもない長いものが載っている、これは何だということで、それ自体にインパクトがあったという話も聞きました。そして、『別冊情況レーニン再見』というものを、法政大学の長原豊さんが、こういうものがあるからやらないかと提案があって、とにかく大下さんはレーニンといたら目がない方でありますから、絶対にそれはやるべきだと、それで一緒にやりましょうということになって、これをやった。その時には中沢新一先生にインタビューさせてもらったりとか、本当に私にとっては楽しい思い出であります。
それ自体も楽しかったし、結局、こういったことというのは、最初の僕のメジャーなところでのデビューにつながっていきました。具体的にいいますと講談社の編集者が、何かレーニンレーニンとか言って、いろいろ書いている若いやつがいるらしいということで注目をしてくれて、講談社選書編集部から手紙が来まして、うちで出さないかということで、私はそこでオファーを受けまして、『未完のレーニン』という本を出すことになったわけです。その原稿のほとんどが『情況』に掲載したものをベースにしています。

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今も思い出すんですけれども、講談社から手紙をもらって、大下さんにすぐに電話をしました。大下さんが非常に弾んだ声で『本当によかった。きっと大きな会社から、そういった話がきっと来るだろうと思っていたけど、なかなか時間がかかったから、これはどこからも来なかければ、「情況」で本にしたらどうかと思っていたんだ』と言ってくれました。本当に何と言いましょうか、大下さんはとにかく僕の書いたものを高く評価してくれて、そうであるが故に、これはもっと大きな会社から広く読まれる形で世の中に問われるべきなんだという風に、本当に心の底から思ってくれていたと思います。本当に私心なく僕のことを応援してくれた、そのことには、僕は本当にいくら感謝してもしきれないと思っています。
こうやって話していると、どうしても悲しさも募ってくるんですけれども、大下さんの朗らかさということを振り返りたいと思います。10何年かの付き合いの中で、今から思い出してもつい笑ってしまうし、僕も今、家族がいますけれども、妻も何度か大下さんと会ったことがあって、あんなことがあったねと夫婦の間で話をして、ひとしきり笑うことができる、そんなたくさんの想い出があります。
中でも思い出されるのは、ある時、翻訳本を『情況』で出そうということで、月1回くらい神保町のデニーズに集まって、そこで翻訳の検討をするということで、各自が持ってきたものを、ああでもないこうでもないと言ってやるということをやっていたんですね。もちろん、翻訳は情況出版から出す。それをやる時、毎回、大下さんが臨席していたんですけれども、ある時、いつまで経っても大下さんが来ない。おかしいなあ、この時間を指定したのは大下さんなのに、例によって1時間くらい遅れるのはいつものことですけれども、1時間過ぎて2時間経っても来ない。さすがに大下さんに電話をしてみたら『大変なことが起こっているんだ』と言うんです。何が大変なことが起こっているんだろうと思ったら、甲子園です。斉藤佑樹ですね。延長戦で決着が付かず、決勝戦の再試合を俺はかぶりつきで見ているからとてもじゃないけど家から出れない、と言うんですね(2006年早実と駒大苫小牧の決勝戦再試合)。大下さんも早稲田ですから愛校心にとんでいまして、私も大学は早稲田だったものですから、斉藤佑樹の早稲田実業を大変に応援していたんですけれども、再試合を僕だって観たかったんですよ、仕事をさぼって観たかったんですけれども、仕事だからしょうがないと思って我慢してやってきたわけですけれども、社長はそういうことは全く無視をしていた、そんなことがありました。
それから、すごい話というのが、今は東大の名誉教授になっておりますけれども、当時は東大法学部の現役の教授だった方がいらして、その方が『情況』の大下さんが依頼をして、インタビューだか原稿だかをいただいたんですね。大下さんのすごい編集方針というのがあって、それは驚くべきは編集後記というのを、全部の原稿を読んでから書いていた。普通、雑誌の編集者はそれをしないと思うんですけれども、もちろんそれで割を食うのは印刷製本屋さんですが、全部を読んでから大下さんは編集後記の原稿を書いていたんですね。だから、本当にきっちりきっちり毎号全ての原稿を読んでいた。そこで生じることは何かというと、大下さんの批評精神がそこで発動する場合がある。その批評精神とは何かというと、最後になって原稿の入れ替えが起こる。つまり、最終版になって入れるはずではなかった原稿が届く、この内容がいいとなると、大下さんはスパッと決断をするわけです。ある時、それが起こったわけです。『これはいい』と。それで東大の先生の原稿が落とされるということが起こったわけです。原稿料も払っていないわけですから、普通、そういうことはしないと思うんですが、大下さんは普通の物差しは通じない。それで、ここで不思議なことといいましょうか、これこそブントということなんだと思いますけれども、普通、そういうことが起こると、落とされた側は、もう二度と許さないという雰囲気になるのが普通だと思うんですが、そうならない。結局、2、3ケ月後の『情況』に、その原稿が改めて載った。更に面白い話があって、掲載号が教授の家に送られてきた。その教授の奥様が掲載号を見て『あなた、ついに「情況」に載せてもらえたのね。本当によかったわね』と言った。この方は大変有名な方で、いろんな有名な雑誌に書いておられますし、しょっちゅうTVやラジオ等でも活躍しておられる方ですけれども、その先生の奥様というのはかなり変わった方なんではないかと思うんですけれども、ある意味面白い、筋の通った方ではないかと思いますけれども、その奥様の側から見ると、NHKだとか岩波『世界』だとかこういったものよりも『情況』の方が格が高いみたいなんですね。これも大下さんから聞いたきわめて興味深いエピソードの一つでありました。

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こんな具合に面白い話が多数あるわけですが、大下さんの『どうもどうも』という挨拶とか、何ともいえない屈託のない話し方、これでもって、普通、角がたつというところをなぜか丸く収めてしまうという不思議な力というのは、実はタフネゴシエーター(手ごわい交渉相手)の力でもあったというエピソードを一つご紹介したいと思います。
大下さんの同年代の仲間の方で、どうも商売や健康などいろんな困難を抱えて、にっちもさっちもいかなくなった方がいらして、これはしょうがない、生活保護を受けることにしようということに決まったんですが、なかなか生活保護を受けるのは厳しいわけで、簡単に受給できない。そこで大下さんは某区役所について行った。そこで交渉が始まったわけです。『これこれの受給をしたいんですが・・・』と。まず最初にお役人さんは何を言うかというと、NOということです。かくかくしかじかで受給資格が足りないんでどうのこうのというこで、一生懸命なぜ受給できないのかという理由をていねいに説明するわけです。その説明が終わったところで、大下さんはどうしたかというと、『これでお願いします』と最初と全く同じことを言うわけなんです。それで窓口で困ってしまって、もう1回同じ説明をする。そうすると、大下さんはまた同じ言葉で返す。実は。これはものすごくタフな交渉術なんだと思います。こういうことを繰り返している間に、ついに相手方は疲れ果ててしまって、もうしょうがないということで許可しようということになった。実際にこの申請に成功を収めるわけです。本当に、こんな力もあるという意味で、本当に不思議な人でした。

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ところで、先年、塩見さんがお亡くなりになりましたけれども、塩見さんが亡くなった時に、あれだけ有名な方でしたから、ある種、何者だったのかみたいないろんなことがマスメディア上でも語られましたけれども、私が接した中である意味一番感動的だったのは、雨宮処凛さんが書いた追悼文でありまして、その中で言っているのは、塩見さんとの付き合い、もちろん彼女の場合、出所してからお付き合いがあったということなんですが、なかなか付き合うのが大変な人でしたと。なぜかというと、二言目には『世界同時革命だ』というので、とにかく大変であると。それから、ある時期、ケンカをして絶交寸前までいった。それはなぜかというと、ある時、塩見さんが怒り出して『お前は左翼だとか自称しているけれども、ろくにマルクスも読んでいないんじゃないか。そんなやつは左翼とは呼べん』と言い出して、雨宮さんとしては『あんな分厚いものをたくさん読まなければ左翼と言えないなんて、そんな面倒くさい話だったら、私は左翼でなくて結構だ』と言ってケンカになって大変だったという話を書いていらっしゃるわけですけれども、その中で彼女が書いていたのは、実は亡くなる数年前の塩見さんの周辺には、ある種、雨宮さんをはじめとした、ずっと若い世代の塩見さんを囲むサークルのようなものができていた。じゃあ何でその若者たちは塩見さんに惹かれていたのか。結局、いろいろ大変だけど、塩見さんの近くにいると癒されたんだということなんですね。何で癒されたのかというと、とにかく塩見さんは二言目には『世界同時革命』だと言う。もう一つは『それは資本主義のせいだ』と言うわけなんですね。この自己責任が強調される時代において、いわゆる『生きづらさ』を抱えた若者たちが、『生きづらさ』を感じているのは結局自分のせいだと思い詰めていたところに、塩見さんに会うと、『それは君のせいじゃないよ。資本主義のせいなんだ』と、こういう風に言ってくれるところに、ある種の解放感といいましょうか、救いというのがあったと書いてらして、僕はとてもいい文章だなと思ったんですが、僕もよくよく考えてみると、大下さんからもらったものの本質というのは、そこだったんじゃないかという気がしています。
要するに、君はここにいていいんだよ、あるいは僕のそばにいていいんだよと言ってくれると、そんなことは言わないわけですけれども、雰囲気がそう問わず語りに言っているわけなんです。それによって僕は、ある種の安心感というのを覚えることができたし、そして今、いろんなことを書いておりますけれども、レーニンについて論じて、そして今、天皇について論じるということをやっているわけですけれども、僕は常に思い切って書くといいましょうか、いわゆる既存のイデオロギーの流れ、あるいは固着化してしまったもの、そういったものに絶対に囚われずに書きたい、そういう思いをもってやってきました。ある意味、それは冒険であるのかもしれません。そして好きなようにやるということでもあります。自分の本当に書きたいことを書くという自由ですね、もちろんそれは自由であり、自由にはリスクが伴う、ある意味の冒険なんです。誰からも相手にされないというリスクもある。でも、そんな冒険をすることが今までできました。なぜ冒険できたのかというと、やっぱりそれは、誰かが無茶をやっても救ってくれる人がこの世にはいるはずだ、しかも元々赤の他人だった人が救ってくれるということが、この世の中にはあるんだという確信が、まさに大下さんによって与えられ、そして支えられきたからだと思っております。

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まさにそれを大下さんは、全く無償で、ただ僕のことを気に入ったからという、ただそれだけのことでそれをしてくれました。ですから、今、つくづく思うのは、大下さんが亡くなってしまったということは、僕にとっては本当に何と言いましょうか、支えてくれる背骨、柱を失ってしまったということでもあるわけなんです。だけど、それは同時に、いつかは必ず来る日だったわけですし、それは本来自分で一本立ちしなければならないんだと、大下さんから言われているのかなとも思います。そして、その一本立ちするということは、きっと大下さんが人に対して何かを与えてくれていたことを、今度は僕がほかの人に何かを与えるということをやっていかなくてはいけない、そういう年齢に自分自身がなったんじゃないかなと、そういうことを今、ひしひしと感じております。
その精神でもって、今後も、大下さんが可能にしてくれた冒険を続けながら、そして来るべき新しい冒険者を見つけて、これを支えていきたい、これを大下さんが亡くなったことを契機としての僕の改めての決意として、ここで表明して私の話を終わらせていただきたいと思います。(拍手)

【大下敦史氏追悼画像】

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(2010年10月23日「映像とシンポで日米安保体制と沖縄の自決権を考える」集会であいさつをする大下敦史氏)

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