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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。
重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの八王子医療刑務所内での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」137号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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独居より 11月15日 〜 1月31日
11月15日 今日のコーラスは「里の秋」。ソプラノの先生は昭和20年のこの歌の背景、戦争に負けて外国から引き揚げてくる父を待つ歌詞を説明しながら、84才の自分が死んでもみなさん戦争反対だけは忘れず訴えて! と語っておられました。それと「少年時代」と「花は咲く」あっという間の一時間でした。
資料感謝。パレスチナのビルトイン村の記事があります。「壁」建設に抗議する恒例のビルトイン村の金曜行動中、リーダーのアハマド・アブラハマと支援のイスラエル人ミハ・ラハマンが捕まったとのこと。パレスチナ人、イスラエル人、ブラジル人、ベルギー人らのグループが参加して「バルフォア宣言」非難スローガンを掲げています。日本からもオリーブ収穫の援農で行っていたところです。オリーブ収穫中の農民が襲撃されたりしているとのこと。二国家解決を否定し「ユダヤ化」の動きはエルサレムから更に広がっているようです。
トランプ大統領は、カジノ王でネタニヤフのスポンサーで盟友のアデルソンが支援してきました。エルサレムに米大使館を移転するし、BDS運動つぶしを狙ってくるでしょう。銃社会、弱者軽視、人種主義がはびこっている米社会・世界に「自国第一主義」「利己主義」の思想が更に広がりそう。
しかし、またその流れに抗して人民主義に基づく民主主義が広がるはずです。パレスチナからBDS運動を通して、反占領の闘いから国際連帯を牽引する力が育ってほしい。米国の「変化」は人民運動の連帯で「世界同時かくめい変革の時代」に入っています!(中略)
(管理者注:BDS運動とはイスラエルに対する国際的なボイコット運動のこと。Bはボイコット、Dは投資の撤収、Sは経済制裁を意味する。)
               
11月25日 寒い! もう最高10度最低マイナス2度の八王子です。さすがに今日は朝スチームが入りました! 暖かい! でも短い時間ですけれど。外は銀世界。昨日城さんの公判があり、第一審の判決日だったのでラジオに耳を澄ましたのですが、ニュースはありませんでした。……これは良くない判決結果だったのか……とがっかりしていました。新聞が届いて一番に記事を探しました。やっぱり……。検察の論告をそのまま忖度したような判決。12年もの長期の重刑。裁判員の一人は「30年前の事件で、これという決め手がないので、判断する難しさがあった」と述べているように、証拠もあいまいで、結局裁判長らプロの判断が誘導したことが覗えます。プロは検察の論告を公安事件は踏襲しています。厳しい米国の一方的な拘束に続いて、一事不再理の原則も無視されて更に12年の懲役刑……。憤りと共に様々な意味で責任を感じつつ何もできないことが無念です。「オリーブの樹」は発行されたと思いますが届かない……。

11月26日 カストロ死す。90才。革命家から建国を経てキューバ人民を統率し続けた人。革命家が建国を経て変わらず進む困難さを体現した人だった。ラテンアメリカの武装闘争から権力を握った指導者たちにとってお手本でもありました。パレスチナの人々、ことにPFLPは清廉なカストロの決して銅像をつくらせないことからはじまって、アラブのパレスチナのプチブル指導者の欲にはうんざりして比較していたのを思い出します。合掌。
(中略)
 
12月5日 スチームが全く入らない。快晴だけど寒いのに! 15日の内視鏡手術の事を、今日いくつか質問し、少しわかりました。(中略)
人民新聞では、ボブ・ディランがユダヤ防衛同盟(「アラブ人をガス室で殺せ」と主張したメイル・カハネが創設)支持のことや、「ネイバーフッド・ブリー」(「近所の暴れん坊」)の歌が、イスラエルのレバノン侵略1年後に出された、イスラエルをアラブ暴力の被害者という、イスラエルの説話を繰り返したものと告発しています。「そう、近所の暴れん坊と言われるけど、彼はたった一人だ。敵たちは彼が自分たちの土地に乗り込んできたと言うけれど、数は百万対一で敵の方が多い。彼には逃げる場所も行動する場所もない」「彼には語るべき味方が居ない。得た者にはちゃんと金を払わなければならない。慈悲でもらっているのではない。時代遅れの武器を買い、しかもただでよいとは言ってもらえない」♪♫ というような歌詞とのこと。全然正しくないけど。こんな歌ははじめて知ったけど。パレスチナ・アラブではボブ・ディランは「シオニスト」として嫌われていましたね。BDS運動から「イスラエル公演を止めて」という要請も拒否。ノーベル文学賞もふさわしくないけれど、気取った振る舞いが何か卑しい気がする。大隅教授みたいに喜んで、それを基礎研究に!という方が断然良いです。発言から、益川教授のように反戦主義者でしょうし。

12月7日 Iさんからの資料が交付されて、日本のBDS運動の勝利を実感。一歩ですが大きな成果です。
「パレスチナの平和を考える会」の11・30報告では、イスラエル入植地の「ワインセミナー試飲会・於ジェトロ大阪本部」にジェトロとジェトロの管轄官庁である近畿経済産業局に、11・28ファックスで場所提供しないよう要請。ジェトロに対し「国連人権理事会決議」を示してアドバイス。その結果、中止が確認されています。ひとつひとつの闘いの重要性が日本で積み重ねられています。
福島みずほさんの主意書、11・24付「イスラエルとの経済・技術交流と同国とパレスチナ占領政策に関する質問主意書」“政府は年内にもイスラエルと投資協定を締結する方針と報じられ、また、サイバーセキュリティに関する技術協力覚書の年内締結の動きも報じられているが、イスラエルがパレスチナ領で継続している入植地拡大は、中東和平に対する深刻な障害である”という点を述べています。
そのうえで、第一、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区、ガザ地区及びゴラン高原は、投資協定や技術協力覚書の対象となりうるイスラエルの領域に含まれるか? 第二にイスラエル入植地の住民や、同入植地に活動拠点を持つ企業は、投資協定の投資主体となり得るか? 第三に、イスラエル入植地に存する企業や不動産等は、投資協定の投資対象となり得るか? 第四に、国連人権理事会の調査団が、2013年に公表した東エルサレムを含む被占領地の報告で列挙された入植地ビジネス企業は対象か? 第五に、2014年3月に国連人権理事会が採択した決議を、施策に反映させる必要があると考えるか? 第六に、宮城県にある「制御システムセキュリティセンタ―」で、イスラエル製品やソフトの試験を行う計画とあるが、イスラエルのサイバー部隊は、被占領パレスチナ領や、国外の非合法な防諜破壊活動が指摘されている。日本の資本・技術が利用されないよう、どのような対策を取っているのか? を質問しています。まったく鋭いポイントです。その後の国からの説明はどうなるのでしょう。一つずつ追求することが監視と力になります。この主意書はぜひ翻訳してPFLPの機関誌アル・ハダフに送りたい! 日本のBDS運動と共に! アラブの人々に、アラビア語で載せてもらったら、とても勇気づけられると思いますから。

12月8日 快晴のグラウンドに出ました。青空に雲はなく気持ちよくウォーキング。もう桜の木は一本を残して丸裸。楓が燃える赤に色づいていてみごとなものです。房に戻っても汗が引きませんでした。
午後に処遇首席から告知のための面接。で、資料として差し入れてもらった「アラブゲリラと世界赤軍」は矯正処遇上ふさわしくない本として不許可になったとの決定を知らされました。作業上必要で親族にアマゾンで購入してもらったものです。当時850円位が2000円位とか。ところが内容が再び犯罪を犯すと懸念されるという基準の本になってしまったのでした!公判中も読んで「日本赤軍私史」作業にも使っていたのでびっくりしました。その旨告げると未決と既決の処遇など伝えられたので、「革命の季節」などもここで書いたのですが……と伝えたり。不服は所長へ申し立てできるが判断が変わらないだろうし、不服申し立ては矯正管区関東地区長へできること、その結果に不満な場合法務大臣への申し立てなども説明されました。執筆中の資料として差し入れた事情も話し(もちろん首席も承知している)部分的にコピーして再差入れは出来るとのことです。申し立てを正式にしても作業上はいつになるかわからないし……。再考しますと伝えました。いったん宅下げして部分をコピーして入れ直してもらうことにするしかないか……と考えています。
(中略)

12月17日 プーチンと安倍首相の会談。北方四島で共同経済活動を行うための協議で合意。領土交渉は進展なしとのこと。日米安保条約下、従属関係にある日本である以上、領土問題は解決しえないのは当然です。安倍首相は「レガシー」をめざしたのでしょうが。経済界にとっては北方領土での事業で、中国・韓国に先を越されてきたのですから、願ってもないことでしょう。谷内が外務省時代に、原子力廃棄物を北方領土に、ロシアと共同でと推し進めていた構想も、また復活するのでしょうか。ロシアは「原則」通りに行動しましたね。
シリアの内戦もロシアの「原則」が結局、局面を打開しています。今後はシリア全土での停戦を目指すでしょうが、ロシアとトルコの関係や、イランとサウジの関係など様々な要素にトランプ政権も加わって、2017年の中東は大きく動きそう。と言っても、国家エゴの力関係が局面をつくるだけなので、人民勢力の闘いは、それを見据えてより困難の中の闘いです。とくにパレスチナの反占領の闘い、トランプはネタニヤフ政権の要求に応え「入植地凍結」を求めないだろうし、プーチンはアラファト時代のPLOの信義のなさにうんざりして、シリア支持を打ち出したKGB系だし。BDS運動の広がりで、ユダヤ人社会、国際社会(イスラエル内外の)とパレスチナ連帯を育てることが、パレスチナ側のまず重視すべき闘いになりそう。ファタハの7年ぶりの大会で、アッバス再選のファタハは「政府機能」に益々傾いていて、解放闘争の役割をとっくに失っているようです。
(中略)

12月27日 今日が今年中に送る最後の日誌になります。28日の仕事納めの朝に投函物提出です。今年もみんなと交流できてとっても幸せでした。獄中に居るとかえって外のことに一方的に敏感になったりすることも多々あります。獄中の友人たちや公判のこと含めて。みんなの運動活動現場の様子、ことに高江、沖縄やBDSパレスチナ連帯の様子、参加している気分でお便りや資料を読んでいます。また私の作業に資料をしっかり送って下さった友人にも厚く感謝します。今日も年鑑83〜86年版の関連資料を受け取れました。連休前に受け取って年末年始の作業で知りたかったことが丁度入っています。ありがとう!季刊アラブもありがとう!「情況」も「キタコブシ」「支援連ニュース」も受け取れました。いつも楽しく読んでいます。またJSRニュースも届きました。
パレスチナは来年からネタニヤフ大統領、フリードマン駐イスラエル大使、クシュナー特使(イヴァンカ・トランプの夫)加えてトランプ大統領で無茶苦茶しそうです。最後の共和党綱領から例年のパレスチナの「二国家」論が削除されていたのも、このカルテットの差し金でしょう。エルサレムに米大使館を移転し入植地の違法をどんどん奨励し二国家論はなしにして、BDS運動を弾圧し国際和平会議もやらせない。そんな方向に行きそうな2017年です。
かえってアラブが結束する機会になれば良いのですが、エジプトは米国の経済的従属下にあり、サウジは対イランで米・イスラエルと強調したいしと。それぞれの思惑がぶつかりながら、それが益々欧米に跳ね返って不寛容勢力が伸長しそう。
だからこそ逆に連帯も強固に、ラジカルに新しい道を切り拓きそうです。バニー・サンダースの支持者も終わった訳ではなく、始まりと位置付けているでしょう。かえってやりがいのある年になる?!
日本は戦略なき直反応的な安倍国家主義がトランプやプーチン、中国に立ち遅れたまま反中国第一外交を貫くことでトランプ同盟にぶら下がりたいのかもしれません。「慰霊のアジアの旅」から考え直す気はないような日本。どうなるでしょう。
(中略)

12月28日 今日は仕事納めです。晴天でも風の冷たい日。こんな日は世田谷時代のボロ市が思い出されます。いつも寒い風の中、楽しかったものでしたから。
今日は、午後処遇主席に呼ばれました。12月13日に発信した文章原稿は、検閲に引っかかっていて、発信されていませんでした。その理由は、過去の闘争を評価するような記述がある箇所を再考するように指導する、というものです。パレスチナの解放闘争の歴史で、多少出てくるだけなのですが。かつて八王子にいる時に出版し(「革命の季節」)リッダ闘争の記述もあること、また、自分の事件(ハーグ闘争)には触れていない記述である旨伝えたのですが、矯正施設に在って出版となると、立場上も事件を評価する記述を許せば、何をしているのかと税金泥棒のような謗りを受けることなど、また、事件に触れていなくても、違いはあるがとヤクザ組織の話をされて、集団としての行動についての記述の基準からして、ふさわしくないとのことでした。思想信条を制約される思いはありますが、指摘された箇所を再検討することにしました。その上で、自分で書き直し、またはそのままか、判断し再提出(来年になってしまいますが)し、その上で再び指導か削除措置に委ねることにします。私としてもそうしたことは意識して、事実関係を記したつもりなのですが……。処遇主席は、とても丁寧に趣旨を説明して下さったので、休み中再検証します。

1月元旦 起床前からやわらかい日差しが届き、点呼の7:30を過ぎて、7:45頃に初日の出が獄窓から見え始めました。もう昨日からの新年の始まりに祈ったけれど、また祈りつつ今年はもっと勉強し学習したいと、意欲と好奇心と自分の立場を忘れないように、と誓いました。アラブにいた時も、元旦は地平線に向かって、ある時には水平線から昇る初日の出に祈りつつ、気持ちを立たせたものでした。日本の良い習慣の一つだと思います。午前中に賀状たくさんありがとう!
(中略)

1月5日 初の布団干し。午前中は初のグラウンド運動。カーディガンをはおらず、薄着で外に出たら、風が強くて寒い! グラウンドは、まだ霜が解けずにぬかるんでいて、芝の上を走りました。走ると風に飛ばされそう。そうか……今日は小寒でしたね。ぐんと寒くなります。でも走ったらポカポカ。空は真っ青な海の色。
今日も年末に送ってくださった年鑑コピー、ニューズウイーク、出版社の冊子など受け取りました。友人たちの賀状やお便りに、元気そうで安心しました。今年もどうぞ宜しくお願いします。お互い、少しずつどこか故障して、かつてのようにできないことも増えてくる年ですが、違ったいろいろのことが見え、また語れるような新年に! と。
(中略)

1月11日 (中略)
書き忘れましたが、こちら今年はこれまでよりも「お節料理」らしいものでした。三が日の食事は東拘とちがって普通食で朝みかん一個、昼お菓子という三が日。1月5日にお雑煮でした。喉に詰まらせたら困る病院なので、仕事始めの後の人の多い時にお餅2つのお雑煮でした。今日は聴力検査、房の引越し獄もあれこれ多忙の日々です。寒い八王子から。
(中略)

1月18日 今日は最高9度最低−2度。庭のトラックは霜で真白。ベランダの運動は風が冷たい。
午後は今年初のコーラスです。正月だからと「富士は日本一の山♪」を歌ったのですが、若い人は誰もこの歌知らない、とソプラノの先生はびっくりしつつ教えてくれました。次は「雪の降る街を」この歌も誰も知らないとのこと。とても良い歌なのに。
(中略)

1月22日 日曜日。昨日の夕刊と今日の朝刊はトランプ就任式一色です。「再び米国を偉大にする」「米国第一主義」を前面に、TPP離脱やNAFTAは再交渉とのこと。
だけど米国が米国の国益を第一にしなかったことってあったでしょうか? 戦後のマーシャルプランから日米安保含めて米国第一主義の反共戦略の産物でした。米国の国益に反しても我慢して制裁でなくニンジンでやっと合意を求めたりしてきたのは唯一イスラエルに対してだけ。それらはユダヤ資本や政治家エスタブリッシュメントの米国内の権益と結びついているからです。
米国の衰退は米企業が始めたグローバル経済で世界の国々に格差を生み、それが逆流して自国の国民よりも利潤の論理優先した結果であって、他の国々のせいではないのです。無制限な市場主義・グローバル化に対処療法も効かない程中産階級を衰退させた結果、人々の革命と体制変化の要求があったのをサンダースとトランプが掬い取ってきたのです。資本家たちがサンダースを抑え込み、トランプを抑え込めなかったのは、トランプの主張に利権を見出す軍需産業や銃信奉社会やエネルギー産業などがしっかりと後押ししてきたからでしょう。
メディアは「ポピュリズム」と批判するけれど、ポピュリズム一般を否定して人民の運動や要求をも否定する傾向が感じられます。トランプ就任に抗議の波もポピュリズムの一つの姿でしょう。人々はトランプの排外主義・人種差別主義・デマゴーグ・ポストトゥルースを許さない流れです。政治家が国民の要求を掬い、実現しようとする中身としてトランプ政治が問われているところです。
トランプは戦略がない分、目先の「米国にとって利益」に矛盾することを同時にやりそうです。外交では単独行動主義や安全保障よりビジネスに重心がありそう。でも旧来の保守の「オフショア―バランシング戦略」をとるならクリントンら「民主主義マフィア」の介入主義戦争屋たちよりましになるかも。「トランプ演説は内容ない」と言われつつ、国民第一主義を掲げていることで、米国内で求められているリーダー「変革者」です。サンダースとちがって大企業規制も国民への再分配もなし得ず、逆に企業の利潤追求を加速させることで「おこぼれ」の雇用を増やすという戦略になりそうです。でも、この現体制と現世界秩序への挑戦には良い面も悪い面もあり、国民主権の徹底と世界的には反戦と反排外主義の連帯の徹底でトランプ化対決が革命的に問われていくでしょう。エモーショナルな煽動者トランプの演説を読んだ感想です。
(中略)

1月30日 新聞ではトランプの大統領令、中東・アフリカの国民の入国を一時禁止するとした措置が、世界に混乱を広げているという。「世界各地、米国で拘束・搭乗拒否280人」「連邦裁は送還認めぬ仮処分決定」。トランプの持論に沿って、人種差別行動が広がっています。それに賛同するネタニヤフの「壁建設絶賛」の記事も。
これまでのところ、トランプの仕事のうち、ロシア・プーチンとの電話会談で、対立から協力への兆しがあったこと以外、国際社会にとってプラスはないですね。それでも壁をつくったり不法移民取り締まりは日本の方が厳しいので、日本政府にとっては当然と思っているでしょう。勿論生地主義、移民の米国と血統主義の日本とはちがうけれど。
2月上旬にネタニヤフ訪米の折、米大使館のエルサレム移転が表明されるよう、ネタニヤフ側はトランプの家族のユダヤ教徒であるクシュナーやイヴァンカ、イスラエルロビーで圧力をかけているでしょう。「父が大統領になったら100%エルサレムに米大使館を移転する」と、ユダヤ人の集会でも明言してきたイヴァンカ。トランプはむこうみずに決断するか、それとも一呼吸置いてチャンスを待って移転の大統領令を出すか見ものです。どちらにしても、遅かれ早かれ移転するでしょう。こうした振る舞いは独・仏らEUの価値観と溝をつくり、EU諸国のトランプ派らは、良くも悪くも「主権をとりもどす」勢力に有利に作用させていきそうです。その分、人権をめぐる闘い、価値観をめぐって国際社会、米国内で更に変革の波高しですね。
サンダースは「トランプが米国労働者たちの環境を良くするための政策に取り組むならば、自分たちは協力する。しかし、人種差別、性差別、排外主義や反環境政策の方へ突き進むなら断固闘う」と表明していました。トランプに国民主権を求めるのは無理でしょう。
それにしてもネタニヤフの横暴、22日、トランプの就任直後からオバマで抑えられてきた、西岸入植用2,500のイスラエル人住宅建設など、12月の安保理決議の「入植地は違法、即時に停止」を既成事実で黙らせようとしています。そしてトランプがその支持でもりあげているところ。
昨年11月の日本のカジノ法案の突破の強行採決は、カジノ王アデルソンと支援関係にあるカジノ盟友、トランプファミリーへの手土産だったのでは?という分析もあります。これらは人口減のロシアとも繋がり、モスクワー東京、北方領土経由の鉄道に加えて、北方領土は日露でカジノ特別区をやると推理するジャーナリストもいるとか。
何よりも人々が生きる、というシンプルな共存の価値、人権を擁護、軍縮差別、と様々な分野で貫くことが問われる厳しい時代に至っています。

1月31日 早くも一月尽。今日は、忘れていた小学校時代の写真をどれが自分か?と探しながら見ました。幼友達たちが同期の1957年卒業生で、昭和27年(1952年)入学から各一年ごとの集合写真アルバムを作ったのを送ってくれました。戦争中と戦後生まれを含む1945年生まれで、人数は他の学年より少ないのです。世田谷区桜小学校203人の児童同学年アルバムです。幼なじみが住所を捜して送ってくれたものです。当時のみんなの髪型や服装に驚きつつ、とっても懐かしい。先生もずいぶん若かったのだと、改めて見つめています。
 トランプ騒動(七ヵ国入国禁止措置)に、司法当局が憲法違反の疑いを主張し、国際社会も西側諸国が批判的コメント。我らが安倍首相はやっぱり予想通りの「コメントする立場にない」と。自立・自決の日本の機会よりも、さらなる対米忠誠従属へと……。新聞の報道がヒラリーとトランプの当選を見誤ったように、きっと今頃は「トランプ万歳!」の声が何も書かれていないけど、同じくらい、またはそれ以上に「よくやった!」という排外主義として米大陸を席巻していることでしょう。変化をより良い方向へ! と念じています。

(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は4月28日(金)に更新予定です。

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 2011年3月に起きた福島第一原発事故から6年が経った。6年が経っても福島第一原発の事故の収束は見通せず、多くの被災者がいまだ苦しい避難生活を強いられている。
3月20日、東京・代々木公園で「さようなら原発」一千万署名市民の会主催による「いのちを守れ!フクシマを忘れない さようなら原発全国集会」が開かれた。主催者発表で1万1千人が参加。今回のブログはその報告である。

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 3月20日は春分の日。暖かく春らしい天気になった。JR「原宿」駅を降りて、代々木公園の中を抜けて会場に向かった。休日で暖かいということもあり、公園内は家族連れなどでにぎわっていた。

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会場の野外ステージに到着すると、第一部の「さようなら原発ライブ」は終わりに近づいていた。ステージの上では趙博さんの紹介で、最後の出演者であるジンタらムータの演奏が始まっていた。

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第一部が終わり、第二部が始まるまで時間があるので、公園の「けやき並木」で行われていた「脱原発バザール」を見学。
経産省前テント広場のブースもあった。経産省前のテントは撤去されてしまったが、「テントここに在り」という横断幕を張って存在をアピールしていた。

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 第二部では福島現地、福島避難者、被ばく労働者、日印原子力協定国会承認反対キャンペーン、総がかり行動実行委員会、脱原発をめざす首長会議世話人などの方々から発言があった。
 この中から3人の方の発言を掲載する。

司 会
「福島在住者からのお言葉をいただきます。2011年6月20日、福島第一原発の事故以来、放射能の不安と悩みを抱えた子育ての最中の主婦たち6人が集まり、子どもを守りたい思いを話し合い、安全・安心を求めて行動する会を結成しました。3a(スリーエー)郡山代表の野口時子さん、どうぞお願いします。」

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野口時子(3a郡山代表)
「福島県郡山市在住の野口と申します。2011年3月、大震災の原発事故後、1月ほど実家の岩手に避難しておりましたが、息子の小学校入学に合わせて郡山に戻りました。その息子も今週の木曜日に卒業式を迎え、中学生になります。郡山に戻るにあたっては、家族でたくさん話し合いをしました。息子の小学校入学という理由も一つではありましたが、少学6年生の娘が『絶対転校したくない』と言ったことが、郡山に戻ることを決意いたしました。放射能に関して注意深く生活しなければいけないこと、保養に行くこと、高校は県外を受験することなどを約束いたしました。
郡山に戻ってからは、放射能から我が子を守りたいと行動する母親たちと『3a郡山』を起ち上げました。3aとは、安全、安心、アクションの3つのaで『3a郡山』といいます。放射能のことなど何一つ分からない主婦たちは、とにかくじっとしていることはありませんでした。見えない敵、放射能から我が子を守るためにはどうすればいいのか、毎週末のように行われる放射能に関する講演会に参加いたしました。そして、『3a郡山』としても座談会を開催いたしました。平日のお昼過ぎにもかかわらず、子どもを心配するお母さん、孫を心配するおばあちゃん、おじいちゃん、約70名の方が参加してくださいました。そこで集まった心配事を要望書として郡山市政に届けることをいたしました。しかし、みんなの心配事はなかなか解消されませんでした。
あれから6年経ちました。『3a郡山』の活動自体は変わっていません。子どもたちは大きくなりました。とても心配だった放射能は線量こそ下がりましたが、依然、低線量被ばくが心配されるところです。しかし、うちの子だけは大丈夫ということなのでしょうか、放射能の影響は考えられないという国の発表に納得したのでしょうか、2011年から始めた毎週火曜日のお野菜マルシェに訪れる人もだいぶ少なくなりました。このお野菜マルシェとは、放射能の心配なく、安心して口にできる安全な野菜を、西日本の奈良県の農民連様のご協力ご支援をいただきながら仕入れて、販売を毎週火曜日に開催しております。以前は、用意したお野菜も午後にはなくなるというようなことも多かったのですが、最近では売れ残ることもあります。
母親たちが来れなくなった一番の理由は、仕事を始めたということです。それは、子どもを転地療養、保養に出すためです。原発震災地直後は、日本全国から、そして世界各国から『お金なんかいらないからこっちへおいで』と、いくつもの団体がプラニングをして、子どもたちのために保養キャンプが開催されましたが、6年が経ち、それらの団体はどんどんなくなっていきました。資金不足、人員不足や、当時から6年間はやるという期限付きの団体も多かったからです。そんな中、期間は短くとも、たとえ有料でも転地療養、保養キャンプに子供を参加させたいと、母親たちは仕事を始めました。
ふるさと再生、福島復興と、福島では復興が何より大事とされています。そこで働き、そこで生きるしかない状態にされれば、復興に気持ちは動きます。そして、人は毎日恐怖を抱えながら生きられません。汚染があるうちは忘れてしまいたいし、放射能は目に見えません。国や自治体は積極的に忘れてしまえと仕向けてきます。ついには、2020年の東京オリンピックの野球会場に、復興オリンピックのシンボルとして福島県の野球場が選定されてしまいました。福島県内のいくつかの地域では、各国のホストタウンとして名乗りをあげています。福島第一原発からわずか20キロのところにあるJビレッジでは、サッカー競技場の練習場として復活させることが決まりました。
このまま世の中は放射能災害を忘れてしまうのでしょうか。このまま世の中は放射能による健康被害はありませんでした、となってしまうのでしょうか。このまま世の中は放射能から子どもを守りたいと行動する親たちを変人として扱うことになってしまうのでしょうか。
原発事故で拡散された放射性物質は半減期が30年といいます。まだ、たったの6年しか経っていないのです。まだまだ私たちの放射能との闘いは続きます。子どもたちが大人になるまで、そしてその大人になった子どもたちが親となるまで、見えない敵から守り続けます。
どうか皆さん、こんな私たちがいることを忘れないでください。
どうか私たちを応援してください。(拍手)」

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河合弘之(弁護士)
「映画監督の河合です。時々、弁護士もやっております。今日は、甲状腺がんの子ども基金の話を主にするために参りました。今までに、福島とその周辺から何人の子どもの甲状腺がんが出ていると思いますか?185人です。そして手術をした人が145人です。甲状腺がんというのは、もともとは非常にまれな病気で、100万人に一人しか発生しない病気なんです。それがたった38万人の中から185人出ているということは、割り算をすると400倍以上の率で発生していることになります。400倍以上も普通の率より高い率が発生しているのに、政府や県は福島原発事故と、その子供たちの『がん』は因果関係があるとは考えにくいといって、まともな総合的な対策を取ろうとしていません。
だけど皆さん考えて下さい。彼らがいうのはスクリーニング効果といって『今までよく調べなかったのを熱心に調べるようになったから見つかるようになったんだ。だから因果関係が認められないんだ』というんですけれども、スクリーニング効果で2倍とか3倍になるというのはまだ分かりますけれども、400倍ですよ、400倍。誰が考えたって福島原発事故のせいでそういうことになったと考えるのが当たり前じゃないですか。(拍手)では、何故そういうことを認めないんだろうか。認めると、福島原発事故のせいで子供たちがああいう風になった、放射能は怖い。、放射能は怖いということになると原発を止めようということになる。逆に因果関係があるとは考えにくい、即ち因果関係がないということになると、放射能は怖くないということになるんです。放射能を浴びても健康被害を被らないということになるんです。放射能が怖くないということになると、(原発を)再稼働していいということになるんです。その論理を保つために、政府と県は絶対に因果関係を認めようとしない。しかも、あろうことか、なるべく検査を子どもたちが受けないように仕向けているんですよ。第3回目の県民健康調査の時に何と書いてあったか。『このような検診を受けろという通知がいらない人は、その欄にチェックしてください』というんです。こんな通知いらないという人は、そういう自由がありますよ、なるべく検査を受ける人が少ないように、減るように仕向けているんです。何でそんなことをするのか追求したら県の人は答えない。でも、新聞記者が教えてくれた。『検査をきちんとして甲状腺がんの子どもが多く見つかると、福島県は怖いところだ、風評被害がまた広まる。だからなるべく見つけたくないんですよ』というんです。そんな事ってあります?子どもの将来を、健康を守るのが県や国の責任じゃないですか。それをなるべく見つけたくない、なるべく無いものにしたいということが県や国、特に国の政策なんです。
そういうことを許していたらどうなるか。今、185人の子どもたちは完全に分断されています。そして、お互いの名前も顔も知りません。私たちは名前を教えろと県にも国にも言いました。『個人情報だから教えられない』。そして、子どもたちや家族は孤立した状態でいるんです。そして十分な安心した治療が受けられないんです。どうしたらいいか、私たちは本当に考え抜きました。そして『3・11甲状腺がん子ども基金』というものを作ろうということを思い立って、私たちはそれを始めました。子どもたちにせめて安心して暮らせるように、少しでも足しになるように支援金を出そうということで、一人10万円、そしてアイソトープ治療を受けるような人については20万円差上げようということで基金を始めました。あっという間に2,500万円集まりました。そして、募集に応じて、今までに約60人の方が応募してきています。私たちは、その人たちと親密な関係を築きながら給付金を差し上げました。皆さん大変感謝してくれています。そして皆さんが思うことは本当に子どものことが心配なんです。一生甲状腺ホルモンの薬を飲み続けなければいけない、この負担。もしかしたら傷が治らないかもしれない、そういういろいろな心配をしているんです。そこで皆さんにお願いがあります。私たち日本人としてこのような子供たちを見捨てておいていいでしょうか?皆さん、彼らを直接助けるお金です。一人、千円でも五千円でも一万円でも、一千万円でもいいですから、とにかく僕たちに下さい。それを直接、そういう子どもや家族たちに差上げて励まして、そして今の苦しい環境から抜け出すようにします。ですからインターネットで『3・11甲状腺がん子ども基金』を検索して、送金先を確認してお金を振り込んでください。皆さんのお金が直接子どもを助けることになる。これをほっておくのは日本人じゃない。(拍手)皆さん是非お願いします。
それから映画の話になりましたが、私は脱原発のために『日本と原発』という映画を作りました。これは1700回以上も自主上映されて10万人の人たちが観ました。その人たちが異口同音に『脱原発しなければいけないのは分かったけれど、エネルギーはどうしたらいいんだ』というので、自然エネルギーしかないという映画を作りました。この映画はものすごく面白い映画です。世界中、僕は見てきました。世界は自然エネルギーに向かっています。今や世界中の風力発電と太陽光発電を足すと、原発の設備容量の2倍になっているんですよ。もう原発をはるかに超えているんです。世界はどんどん自然エネルギーの世界に向かっています。そして、原発はどんどん衰退しています。私たちの闘いは必ず勝つ。脱原発の闘い、そして自然エネルギーを推進する闘いは必ず勝つ。何故ならば、それは世界の大きな大きな潮流に乗っているからです。必ず勝つんです。10年以内、遅くとも20年以内に必ず自然エネルギーで回って原発がゼロの社会が実現するんです。だから目の前の事に一喜一憂しないで闘わなければいけないんだけれど、ここで安心してはいけない。その時までに原発がもう1回火を噴いたら日本は終わりです。だから自然ネルギーの運動を力強く進めるとともに、原発の再稼働を徹底的に押さえ込んで、絶対に事故を起こさないようにしながら、その美しい社会に持っていく、これが私たちの戦略です。だから明るい気持ちで自信を持って、必ず勝つんだという確信の基に粛々と闘いを進めていきましょう。
ありがとうございました。」

「3・11甲状腺がん子ども基金」のアドレスは以下のとおりです。
http://www.311kikin.org/about

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鎌田 慧(ルポライター)
「原発事故も6年目を過ぎて7年目になりましたけれど、今、原発を巡る状況は全く一変しています。例えば6年前、原発反対派というのはどのくらいいたでしょうか。ほんの少ししかいなかった。マスコミは全部原発賛成だった訳です。6年経って7年目。今どうですか。マスコミで原発賛成というのは読売新聞、産経新聞がありますけれども、他はほとんどない。かって賛成だった人がほとんど反対になっています。これだけ原発がダメだということが浸透した訳です。それに対して、犠牲があまりにも大きかったと思います。今日いろんな方が集まりました。福島から来た人の思いは、この短い時間では絶対言い切れない。一人一人、いろんな不幸、悲惨な事態があったと思います。国に帰りたい、故郷に帰りたい、しかし故郷に帰れない、そういうアンビバレントな生活は精神的にすごいダメージになりまして、夫婦仲が悪くなったり離婚したり自殺したり、様々な被害が発生しています。しかし、皆さん、この前、前橋地裁がようやく原発事故の責任は東電と国あることを明確に判断しました。(拍手)この判断はこれから全国的に広まっていきます。それから、(原発の)再稼働もそれに影響して再稼働ができないような状況も広がっていきます。もうすでに原発は時代遅れです。もう完全に黄昏です。最後の一押しをするのは私たちの運動です。とにかく原発反対運動を高めて、あるいは沖縄の基地建設反対運動を高めて、あるいは共謀罪反対運動を高めて、それらの運動を全部つなげて憲法をつぶす人たちに対してつぶしていく、というような運動を強めて安倍政権を打倒する、そのすべての運動に向けてがんばっていきたいと思います。(拍手)
おそらく皆さんは原発、共謀罪、沖縄、あるいは戦争反対、全部の集会に来られていると思います。しかし、もっともっと幅を広げれば、私たちは一つの運動に参加すれば済むだけです。原発反対運動に特化しても勝って行ける、そのためには、今、原発賛成だけれども反対になりたいような人、あるいは原発反対だけど集会に来たことがないような人、そういう人を是非誘って、ここを10万、20万の大集会にしていきたいと思います。
皆さん、もう一つ確認できることは、原発メーカーは原発をやっているとつぶれるということです。(拍手)東芝を見てください、ウエスチングハウスを見てください。これからアメリカで原発を経営しているところも赤字になる、あるいは事故が起こったら損害賠償を取られる、こういう風な世界的な状況になっています。いまや原発は、例えば石炭、石油、原発ときたコースが完全に行き詰まって、新たな自然エネルギーの人間的なエネルギーに満ちた世界に向かって進んでいます。ですから、苦しくとも、70過ぎても80過ぎても私たちは運動をしなくてはいけない。絶対にがんばり切る。
皆さん見てください。原発メーカーは原発のためにつぶれているし、電力会社はこれから原発のためにつぶれます。軍需産業も原発産業のためにつぶれていく。日本の原発産業は軍需産業です。東芝、日立、三菱、IHI、全て兵器メーカーであるし原発メーカーです。この軍産一体化した企業を平和産業にしていく、そのためには労働組合が経営者と原発から脱却するという企業戦略について討論してください、要求してください。平和産業に行く、人を殺して儲かるような会社はやめよう、人間的に暮らしていこう、そういう風なことを要求を明確に掲げて経営者を洗脳してください。あるいは経営者を変えてください。株主もそうです。株主も原発に特化するような経営者はクビにしてください。株を持っている人はがんばってください。
とにかく、私たちは決して孤立していない、世界的にも連帯している。トランプが何ですか、安倍が何ですか。今日私は新聞記事を書きまして、明日の東京新聞のコラムに載るんですけれども、前門の安倍、後門のトランプ、これを打倒します。(拍手)
とにかく皆さん、原発を許さない自然エネルギーに行きましょう、そして東電から脱却しましょう。東電、九電、今の電力会社から脱却して自然エネルギーの電力に切り替えていきましょう。
勝利は必ず私たちに来ます。その前に原発事故に遭わないように原発を止めましょう、がんばって行きましょう。
ありがとうございました。」

集会終了後、デモ行進に移った。
「明大土曜会」の旗はないが。4大学共闘のメンバーは渋谷コースの2番目の梯団の先頭で渋谷の街を行進し、「原発はいらない!」の声を響かせた。
以下、デモの様子である。

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(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は4月14日(金)に更新予定です。

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一昨年の5月28日、「ベ平連」の元事務局長、吉川勇一氏が逝去された。No390で吉川氏を追悼して、「週刊アンポ」第1号に掲載された「市民運動入門」という吉川氏の記事を掲載したが、この記事は連載記事なので、吉川氏の追悼特集シリーズとして、定期的にブログにで掲載を続けてきた。今回はいよいよ最終回。「週刊アンポ」第12号に掲載された「市民運動入門」最終回を掲載する。
 この連載記事のブログへの掲載を通じて、「ベ平連」の運動を改めて見直す機会となった。一昨年の安保法制反対の国会前抗議行動にシールズが登場して、「今までにない新しい運動形態」と話題になったが、実は、50年近く前の「べ平連」の運動は、シールズをはるかに超えるユニークで革新的な運動だったと思う。その運動の遺産を今の時代にどう伝えていくのか。10・8山博昭プロジェクトが昨年開催した「ベトナム反戦闘争とその時代」展は、その一つの答えだったと思う。
 「市民運動入門」の連載は終わるが、引き続き「週刊アンポ」の様々な記事を掲載していく予定である。
この「週刊アンポ」は、「ベ平連」の小田実氏が編集人となって、1969年11月に発行された。1969年11月17日に第1号発行(1969年6月15日発行の0号というのがあった)。以降、1970年6月上旬の第15号まで発行されている。

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【市民運動入門 最終回 運動の中での資金づくり 吉川勇一】
(週刊アンポNo12 1970.4.20発行)
 こういう形で発行される「週刊アンポ」は今号で終わるので「市民運動入門」も今回で打ち切りとなる。これまで12回にわたってこの欄を書いてきたのだが、私は題が気に入っていない。元来、市民運動に入門も免許皆伝もないので、いつまでたっても毎日々々が入門の連続のはずなのである。おそらく各地に私以上に経験豊かですばらしい運動の知恵をもった人びとが沢山いるにちがいない。各地の反戦グループの機関紙を手にするたびにそこにのせられている報告に関心させられ、教えられる。次号からの「週刊アンポ」にはぜひそうした方がたからの投稿をたくさんお願いしたい。

<苦労の種の資金づくり>
 さて、今回は最終回ということで、お金の話をしてみたい。どこの市民運動グループでも一番悩んでいるのが警察の圧迫とお金の二つだ。ベ平連ではどうしているんですか?よくお金が続きますねという質問も時々受ける。ベ平連はいいですね、小田実みたいな作家がいっぱいいるからお金には困らないんでしょうといわれることもある。とんでもない。作家一般はともかく、ベ平連でつきあってる人たちは、作家でも評論家でも大学教授でも、なにしろ金のない人が多い。そんなことをいう人は税務署の回しものか、原稿料の相場のひどい安さを知らない人である。もちろん、そういう人びともお金は出すが、べ平連に直接差出すというより、ベ平連運動のために個人で使うお金がべらぼうに多い。たとえば毎週火曜日夜ごとにやるベ平連のいわゆる「閣議」はいつも午前2時〜3時までつづく。値上げしたタクシーで帰る。ベ平連関係の仕事のタクシー代だけで月に1人2万円近くになる場合もある。こういう金はもちろん個人負担だ。それ以外のベ平連の費用は「ベ平連ニュース」に決算が出ているが大体1ケ月15万円前後。これらの家賃、電話代、印刷費、文房具代などは、すべてニュース代や自発的に送られてくるカンパでまかなわれている。しかし、それは恒常的な費用なので、臨時の集会やデモなどの行動はすべて独立採算でやる。その苦労はどこのグループとも同じく大変なものである。

<デモ費も全員で支える>
 お金のことでは、まずみんなで自分たちの運動を支えているんだという考えをもつことが第一に大切なのだろう。たとえばデモに行く。いろんなパンフを売っていたり、さまざまなカンパ、たとえば弾圧救援カンパなどが訴えられている。そういう訴えにはお金を出すが、デモ自体にお金を出すということはあまりないのではないだろうか。デモは参加するだけならただみたいな気がしている人が多いように思う。しかしそうではない。東京の例で言えば区役所から公園を借りるのには、一人につき2円のわりで使用料を払わなければならない。デモに加わる宣伝カーの自動車だってただで動くわけはないし、スピーカーの電池だって買わなければならない。デモの届けのため警視庁や警察署にも何度も足を運んでいる。最低1人10円くらいデモ参加カンパをデモのたびごとに訴えることが必要だろう。4月の定例デモは大泉市民の集いや反戦ちょうちんデモの会と共催してベトナム留学生の無条件在留を認めるよう法務省に要求するデモとして行われた。この時は、以上の趣旨を訴えて出発前に会場に徹底的にカンパ袋をまわしたが、16,446円のお金が集まりデモの費用のほか、デモの際にまくための留学生問題のビラ五千枚の印刷費も完全にまかなわれた。デモの参加者がデモの費用も分担するーこれは当然のことなのだけれども、人数が多くなったり、度重なったりすると、次第にデモを準備し、よびかける事務局機能を果たす側と、よびかけにこたえて参加する側とが分離して、運動を全ての面にわたって全員で支えているんだという根本のところが薄らいでゆく傾向があると思う。デモでも集会でもただでは出来ない以上、常にその費用が参加者で分担されるように訴えることが忘れられてはならないだろう。先日、大阪の北摂ベ平連が主催する「アンポ大学」に出席した。司会者がこう訴えていた。「今日の大学の諸費用は5万円かかりました。出席者は約250名ほどですから、1人の分担は大体200円ということになります。お帰りの際ぜひそのていどの参加分担金を入口でお払い下さい」と。
 労働組合のデモでは、動員費というお金が参加者に支払われる場合が多い。交通費とか弁当代という名目だそうだが300円くらいがデモに行く組合員に渡されるのだという。これ自体は悪ではないのだろうが、私たちには考えられないことだ。60年安保の時、デモが連続したため組合の動員費の枠の資金が底をつき、そのためあとになるとデモの回数を減らしたり、あるいは割当動員数(こんなものは労働運動の堕落を示す以外のなにものでもない)を削ったりした組合があったというが、こうなると動員数という制度は粉砕すべき対象となる。(労働運動の中でも反戦青年委員会のデモはもちろんこんな考え方を粉砕するところから出発している。)
 私たちの市民運動は、出発当初からこうした考え方をひとかけらももたずにデモを行ってきた。当然といえば当然だがこれをもう一歩進めたいのだ。集会やデモに行き、しかも費用を分担するのだ。

<カンパの結果の報告を>
 カンパがわれわれの運動の基礎であることはその通りだが、カンパのやり方にも工夫すべき点が多々あるように思う。ベ平連の場合、カンパは何のためのカンパかを必ず具体的に明らかにしてよびかける。「ベトナム留学生支援のため」とか「小西誠氏の反軍裁判の費用のため」とか。「ベ平連にカンパを」というような一般的なものでないほうがいい。そしてその結果は必ず報告することが大切である。街頭募金でも、募金帳に住所氏名を記してもらったならば、あとでそれらの人びとに領収書をかねた決算の報告とその人の出したお金が実際に何のためにどう使われたのかということを知らせるはがきが出されるべきだろう。私たちベ平連がやった「ニューヨーク・タイムズ」や「ワシントン・ポスト」紙などに全ページの反戦広告を出そうという募金運動には、それぞれ250万円、150万円というお金が集まって成功したが、私たちは住所氏名が判かるかぎり、50円以上カンパをよせられた人びと全員に、広告ののったその新聞の実物を送って報告をした。それは大変な数で、宛名書きだけでも容易ではなかったが、一人ひとりの出したお金がどのように有効に使われたかをお金を出した人びとに知らせることは、募金した側の義務であろうし、運動への信頼を強め、ひきつづく運動への参加を求める上でも重要なことである。
 街頭募金の時は、単に画板に袋と募金簿をつけ、ボールペンをもつだけでなく、人々に渡すビラが用意されるべきだろう。少なくともお金を出してくれた人には、募金の趣旨とそのお金の使途が明確に記されたビラ(もちろん連絡先も書いてあるもの)が渡されなければならないだろう。運動は俺たちがやっている、お前たちは金を出せ、などという傲慢な募金の態度は自分たちの運動の腐敗を示すものだろう。お金を出すということ自体が運動への参加である以上、その人びとが運動との結びつきを強めうるような何らかの手段―少なくともビラが考えられるべきだと思う。

<運動と結びついた資金づくり>
 多くのグループが資金を捻出するためにいろいろ苦心している。事務所の入り口に箱を置き、そこに出入りする人が必ず1日に1回は10円以上入れることを決めているところ、団地を月曜ごとにリヤカ−でまわって廃品回収をやって資金づくりをしているベ平連、手製のものや不要品をもちよってバザーを定期的に催しているグループなど、さまざまだが、基本は運動と結びついた募金運動の中での全員による資金づくりなのだろう。
 運動と結びついた資金作りという点からいえば、その「週刊アンポ」の拡げ方にも反省すべき問題点があったと思う。
私たちは、これまでの運動の手が届いていないところでも安保フンサイの人間の渦巻をつくりたいと考え、そのためにも取次店を通じ、本屋さんの店頭で本誌を売ることを計画したのだが、それは一面では「週刊アンポ」が出たら大いに売りまくり、運動を拡げようと待ちかまえていた全国の多くの人びとの期待をはぐらかす結果にもなったと思う。これは私たちの自己批判である。第13号からは、本誌は内容も形もまったく一新し、すべて運動を担っている人びとの手を通じて送りとどけられるようになる。発行部数は一挙に2倍以上、値段は5分の1程度となる。なによりもその形は、どんどん大量に配布されるような、集会やデモや街頭で手渡しうるようなものに変わる。
 定価は未定だが、とにかくそれを売るグループと個人の売上金総額の半額をアンポ社に送金ねがう(あと払いで可)ことになるだろう。あとの半分は人間の渦巻をつくるために、本誌を売ったグループの資金にしてもらう。それで採算がとれるかどうかは判らない。しかし、取次店の驚くべき面倒くさい手続き、前近代的契約・支払い関係にたよるよりは、こうした運動と結びついた配布のやり方の方が、さきにのべたような運動の基本的あり方にずっとかなったものであることは確実だと思う。
 4・28から6・15へ向けて、私たちはこの新しい「週刊アンポ」を安保の渦をつくるための強力な武器にするよう努力するだろう。そして、その運動とともに、財政面においても、運動の発展を保証しうるような基礎をつくってゆきたいとねがっている。
(おわり)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は3月31日(金)に更新予定です。

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映画監督の鈴木清順氏が先週亡くなった。享年93歳。
ご冥福をお祈りする。
鈴木清順氏は私の好きな映画監督の一人である。
最初に観た監督作品は「けんかえれじい」。
1972年7月、当時銀座にあった映画館「並木座」で観た。2本立てで、もう1本は藤田敏八監督の「八月の濡れた砂」だった。
この2本ともとても印象に残る映画だったが、「けんかえれじい」はDVDを買って持っている。

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鈴木清順監督作品は、あと2本観た。「ツィゴイネルワイゼン」と「陽炎座」である。「夢二」とともに浪漫三部作と言われているが、これも3本入りのDVDボックスを持っている。

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この3本の中で特に気に入っているのは、泉鏡花原作の「陽炎座」(1981年)。この泉鏡花の小説は読んだことがあるが、独特の文体とも相まって、泉鏡花の夢幻的な世界が繰り広げられる小説である。鈴木清順監督がこの「陽炎座」を映画化したということで、有楽町の映画館に封切りを観に行った。小説の核心となる芝居小屋の場面をどう映像化しているのか、それを楽しみにして観た。映画の後半の芝居小屋の場面は正に泉鏡花の世界。「清順美学」の映像に背筋がゾクゾクしたことを覚えている。

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(「陽炎座」パンフレットより)

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(「陽炎座」パンフレットより)

今回のブログは、朝日ジャーナル(1971年7月30日号)の「現代歌情」という欄に掲載された鈴木清順監督の文章である。
内容は、歌手の北原ミレイが歌った曲「ざんげの値打もない」について、曲のイメージを基に書かれたもので、歌が上手いとか下手とかの評論的な内容ではない。
鈴木清順監督の映画作品を観るように読んでもらえればと思う。

北原ミレイのデビュー曲「ざんげの値打ちもない」(1970年)
作詞 阿久悠 作曲 村井邦彦 

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(朝日ジャーナル)

【現代歌情「ざんげの値打ちもない」 恐怖が似合う少女幻想 鈴木清順
 朝日ジャーナル 1971.7.30
<青い少女・色のない少女>
少女の印象は青い。桃の実の青さである。明るい太陽の光にすかすと、うっすらと金色に輝く柔らかいうぶ毛にさす青さである。硬い青ともいえるが、また濁りのない赤い血をひそませた静脈の恥じらい多い青にも似ている。少女のうしろは無限に広がる曠野である。曠野にはタンポポが一つ、二つ、三つと咲き、あとは一面の牧草である。これは是非なく濃い緑の牧草でなければならない。あのいがいがした雑草は少女には気の毒であり、牧草の刃のような葉の方が、先鋭的な少女の精神にぴったりする、それとも色をさけた方がいいかもしれない。それは空との釣合いからだ。青い少女は群青の空を独占する。一点のしみも縞目も許さない澄明な青い空である。少女の気位がそうさせるのだ。だとすれば少女の立つ曠野は、ぎんねずの砂漠である。あらゆる自然の感情、恐怖、凶暴、生、死、憧憬、希望、愛を隠蔽した砂漠である。あとは少女の左手か右手に一束の花を持たせればいい。
 少女は鉄道の柵にもたれて遠ざかる汽車をみつめている。陽が落ちてもまだ真っ青な空が残っていた。今日が過ぎ明日が来ても、日が月に変わり新しい年が来ても、汽車の煙が散って行った地平線をみつめたまま、少女はいっこうに動く気配を見せなかった。
 その日少女は、白いセーラー服に真っ赤なネクタイを結んでやって来た。大勢の父兄や僕たちに一礼すると、少女はピアノに向かった。大きな磨きこまれた黒いグランドピアノだった。うしろ向きになった少女の顔がピアノの裏に映っているのが、僕の席からよく見えた。少女は軽く息を吸うと、やがて「乙女の祈り」を弾き出した。
 それっきり少女は学校に来なかった。少女は国境を越えて遠い国に行ってしまった。僕は学校が終わると毎日鉄道の柵のところに行った。あたりを見廻し人のいないのを見澄ますと。それでも大きな声は出せず、小さな声で少女の名を呼んだ。そして少女の声が返って来はないかと、いつまでもいつまでも、レールの上に耳をつけて待っていた。
 白い少女の像である。岸田劉生の「村娘於松之像」や「麗子の像」のふっくらと可愛さをつつみ込んだ、今にも風邪をひきそうなふくら雀の暗く落込んだ雪雲を呼ぶ景色とはまるで違っている。暗い赤や紫や茶を一切よせつけない緊張を持続する細い琴糸のように鋭敏に音を響かせる青い皮膚を持つ像である。小麦色や桃色や緑色の少女も私の前をよぎって行ったが、いずれもぼんやりと不透明で、私の少女はえもいえぬ青だ。少年から青春時代に、そして壮年に、私はこの青い少女に牡蠣みたいにしがみついて来たし、これからもこの青を犯す者があれば、必死に抵抗するだろう。
 本堂の改修にあたって、それに付属していた小さな応接間を鳶職が壊した。むき出しになったコンクリートの土台石を見て、かって私が結婚したいと思った少女がそこにいたのを思い出した。和尚の孫の初節句の日で、私も少女も招かれ人だった。私と少女が顔を合わせたのは、さよならを言う別れの時だった。私は私の親戚の輪の中にいたし。少女は少女の親戚の輪の中で好き勝手なことをしていたからだ。一度少女はすすめられて踊った。恥ずかしがる素振りも、嫌がる気配もみせず。ごく自然に立上がった少女が気に入った。しかしこの少女に色はなかった。踊っている間も、さよならを言う時も言ったあとも、少女には微塵も色のかんじがなかった。直截的な色をかんじさせない少女は悲しいものだ。それ以後私は二度と少女に会っていない。結婚をしたいという思はゆい気持ちだけが、あこがれのようにいつまでも残ったが、ついに少女の顔も姿もあぶり出しの絵のようにはかなく消えた。
 青い少女も色の無ない少女も歌はなかった。私も少女のために歌った覚えはない。ただ一刷けの青い色が、私の顔から胸にかけて斜めに私の体を斬りさいていた。

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<黄色い厭な少女の靴>
地下鉄の車両の箱の向こうの方で、髪を長く垂らし緑の紗に同じ色の花模様をぬいとりしたミニを着た少女が、前にいる同じ年恰好の少女に見えすいた表情をつくりながらさかんに話かけている。少女の目の大部分は車内広告に行ったり、まわりの男たちに行ったり来たりしている。その間ものべつまくなしにしゃべり、申しわけ程度に相手の少女の顔を見る。顔立ちはそう悪くはない。箱のこちら側にいる私には、少女のよく動く口だけが見える。

 「あれは二月の寒い夜
  やっと十四になった頃
 窓にちらちら雪が降り
 部屋はひえびえ暗かった
 愛というのじゃないけれど
 私は抱かれてみたかった」

あれは二月の寒い夜・・・覚えたばかりの歌を少女の口に合わせてみた。
やっと十四になった頃・・・歌はテレビのアフレコのようにぴったり少女の口に合った。
愛というのじゃないけれど・・・少女の両手がそれらしい動き方をした。
私は抱かれてみたかった・・・とうとう少女は含み笑いをしたー私は気持ち悪くなって歌をやめた。同時に突然少女の靴がうつむいた私の首を闇討ちのように襲って来た。地下鉄の少女の靴ではない。見たこともないやっと十四になったばかりの少女の靴である。私は女の靴が大嫌いだ。女の足に似てくずれた形はよこしまで、きたなく、おそろしげである。その先のとがった黄色い厭な少女の靴が、ひえびえとして暗い部屋のたたきに並んでいる。ささくれだち皺のよった皮が淫らである。地下鉄の少女も歌った。そして黄色い靴の少女も歌う。これが新しい時代の少女の像なのか。抱かれてみたいと歌う少女たちは、受け身の恥じらいもおののきもなく、きわめて能動的即物的である。
 「あまり見たさにそと隠れて走(は)して来た 先放さひなう 放してものを云はさいなう そぞろいとうしうて 何とせうぞなふ」
 駆けて来る女の素足の白さ、胸のときめき、息づかい、「何とせうぞなふ」という甘い切なさ、うれしさ。放して、放してといいながら抱かれていたい気分、みやこの騒々しさ、広がる空―室町以来わび、さび、えんといった情緒を美しく引きずって来た日本に、遂に色を必要としない少女がとび出して来た。 
 少女はさらに自分の筋書通りに事をはこぶ。言葉も流れもますます説明的に聞こえてくる。

「あれは、五月の、雨の夜、
  今日で、十五というウ、時に、
 安い、指輪を、贈られて
 花を、一輪、かアざられて、
  アーアイとオ、いうのじゃ、ないイけれど、
  ワータシは、捧げて、みイたアかアった。」

 とうとう来るべきところに来てしまった北原ミレイちゃん。それもミレイちゃんは十五の少女だという。あの小面憎いまんまるの樫山文枝がおはなはんか、おはなはんがあの小面憎いまんまるの樫山文枝か、ミレイちゃんがあの黄色い靴の少女か、あの黄色い靴の少女がミレイちゃんか、ファンはかんたんに黄色い靴の少女の側に立ち得るものである。それは盆踊りのくりかえしの輪の中にだれでもついと参加出来るのと同じ具合に、くりかえし、くりかえしミレイちゃんの歌を歌っているうち、ミレイちゃんもファンも黄色き靴の少女もそれぞれの性格を失い流れてゆくところに、流行歌の新しい性格が決められてゆくのである。

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<白いセーラー服があれば>
 処女喪失という謎めいた悲しい十五歳の経験が、ミレイの体にかんじられない。十四から十五へと余りに早い時の流れである。安い指輪の色、一輪の花の色を不安と希望のうちに歌いこめてこそ、ミレイの喪失の無常がそこはかとなく漂うのだ。詩や曲が説明的であるからといって、ミレイまで説明的であっていいはずはない。色を必要としない少女におぼろな色への憧憬をかんじさせてこそ、歌は歌なのである。アテレコ式に口の合うのは、地下鉄の少女ばかりではない。ごうつくばりの皺くちゃ婆にもミレイの歌はぴったり合ってしまうのだ。皺くちゃ婆が「捧げてみイたアかアった・・・」と歌えば都合が悪いだろう。

 「あれは八月暑い夜
  すねて十九を越えた頃」

 ミレイは女になって捨てられた。そして男を刺し殺した。絢爛たる堕落者ミレイがようよう姿を見せ始めた。ちらちらと降っていた雪やかざられた一輪の花が、急に青い少女と青い少女の悔恨となって思い出されてくるのである。ぎんねず色の砂漠に封じ込められていたさまざまな情念がうねりながら、かって目に見えた印象を感情の大波に変えてしまうのである。降っていない雪が窓に降り、花のない部屋に花があり、とうに捨ててしまった安い指輪が細い指に光り、ミレイは全裸で殺しの時間を待つのである。あるいはもし白いセーラー服があればそれを着たろう。時間はかってない程美しく、悲哀のかげをはげしく落として流れる。平凡なミレイの顔はたちまちのうちに古楽面の、若女(にゃくにょ)に変わる。彫りの深い面である。色も美しい。そして何よりものびのびとしたほほえみの表情の額から小鼻にかけて、鼻から口、顎にかけて走る二つの亀裂が、破滅的ドラマの主人公であるミレイの心情をより凄面たらしめる・・・・・。
 ・・・・・といっても言葉は常に孤独である。同じように流行歌も孤独である。孤独の線を越えてあれこれ詮索するとバカらしくなる。流行歌は心の隙間に吹く風である。
 ミレイが絢爛たる堕落者だろうと、黄色い靴の少女だろうとかまわない。ミレイはミレイだ。また「愛というのじゃないけれど」が愛の反語だといっても始まらない。反語だからミレイが男を殺し、刑務所に入って再び男のもとに帰って来る徒な心を、「話してみたかった」という短い言葉に表現したと語る作詞家もいないだろう。ただ私は十四や十五で男に体を捧げる少女がけがらわしいのだ。それでなくても色を必要としない少女が多過ぎるのだ。

<彩色刷の艶冶な挿画は>
 夢二の「丘の上の少女」は、たとい将来の堕落者であろうと、目も絢に堕ちてゆく女の危険を感じさせぬ甘美な清冽な少女である。少女は女から女へと移ろって行った夢二が犯してはならない最後のあこがれの女だ。
 「まてどくらせどこぬ人を
  宵待草のやるせなさ
  こよひは月もでぬさうな」
 夢二の詩が流行歌になると、早速映画になるのは、昔も今の変わりはないが、夢二はこの詩のポスターを書いている。「芸術家はもう沢山だ」といい切った夢二にしてみれば、当り前なことかもしれないが、流行歌に似合った絵を探すことは容易ではない。
 「潮来出島のま菰の中で、あやめ咲くとはしをらしや
  女郎いたこぶし何をいふてもまだ年若でョ、ぐわんぜないのがわしゃかはい」
 江戸で流行った流行歌の潮来節に似合うのは浮世絵であり、葛飾北斎の彩色刷の艶冶な挿画が残っている。そして江戸の浮世絵師は、しばしば川柳や狂歌とタイアップして絵の素材としている。
 最近もっともぴったり似合ったのは「泣いてくれるなおっ母さん」の東大五月祭のポスターだが、詩の方が流行歌とならなかった。ミレイちゃんの歌を聞きながら、つげ義春や林静一や池上遼一の漫画をみていたが、どれもぴんと来なかった。そのうち「あれだ」と思い当たってその雑誌を探したが見つからなかった。少女劇画である。描いた人の名も覚えていないが、少女受けのする例の目のぱっちりした女の子と祖母の話である。悪漢に追われた二人が焼場のかまの中にかくれる。祖母の方には既に屍体が入っている。それとは知らぬ隠亡が火をつけ、祖部は生きながら焼かれ、悪漢が来たので少女は出るに出られぬ恐怖が続く絵だ。流行歌に余計な詮議だてが不必要なように、この絵とミレイちゃんの歌がぴったりする理由を挙げる必要はあるまい。ぴったりのかんじがする。恐怖の上にミレイちゃんの歌がうまく乗るのである。
 ミレイちゃんは今刑務所でキリストと話をしている。男ののろけだろうと、男への恨みだろうと構わない。ミレイちゃんは神を信じたのだ。歌謡は古来神への賛歌から始まったのだ。私の神が青い少女である。
(すずき せいじゅん 映画監督)

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【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は3月17日(金)に更新予定です。

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以前、重信房子さんを支える会(関西)が発行していた「さわさわ」という冊子があった。この冊子に、重信さんが「はたちの時代」という文章を寄稿し、連載していた。「はたちの時代」は、重信さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章であるが、「さわさわ」の休刊にともない、連載も中断されていた。
この度、「さわさわ」に掲載された部分と、未発表の部分を含めて、「1960年代と私」というタイトルで私のブログで公開することになった。
目次を付けたが、文章量が多いので、第一部の各章ごとに公開していく予定である。
今回は、第一部第六章である。
なお、今回掲載の第六章は未発表のものである。

【1960年代と私*目次 重信房子】
第一部 はたちの時代
第1章 「はたちの時代」の前史として (2015.7.31掲載済)
1 私のうまれてきた時代
2 就職するということ 1964年 18歳
3 新入社員大学をめざす
第2章 1965年大学入学(19歳) (2015.10.23掲載済)
1 1965年という時代
2 大学入学
3 65年 御茶ノ水
第3章 大学時代─65年(19~20歳)(2016.1.22掲載済)
1 大学生活
2 雄弁部
3 婚約
4 デモ
5 はじめての学生大会
第4章 明大学費値上げ反対闘争(2016.5.27掲載済)
1 当時の環境
2 66年 学費値上げの情報
3 66年「7・2協定」
4 学費値上げ反対闘争に向けた準備
第5章 値上げ反対!ストライキへ(2016.9.23掲載済)
1 スト権確立・バリケード──昼間部の闘い──
2 二部(夜間部)秋の闘いへ
3 学生大会に向けて対策準備
4 学費闘争方針をめぐる学生大会
5 日共執行部否決 対案採択
第6章 大学当局との対決へ(今回掲載)
1 バリケードの中の闘い
2 大学当局との闘い
3 学費値上げ正式決定
4 裏工作
5 対立から妥協への模索
6 最後の交渉─機動隊導入
第7章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書 2・2協定
2 覚書をめぐる学生たちの動き
(以降、第2部、第3部執筆予定。)

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(写真 本校記念館前バリケード)

【1960年代と私 第一部第六章】
六 大学当局との対決へ 66年〜67年
1) バリケードの中の闘い
 大学当局は私たちがスト権を確立し、バリケードを築いた頃、どんな動きをしていたのか、宮崎学生部長の本から、追ってみました。11月26目には生田校舎でも又、神田の大学院でも大学評議会の開催が学生側に阻止されて流会となっていました。30日の団交を控えていた頃です。
 先述したように、66年10月から11月の学生側の要求に対して、進歩派と言われた小出学長は学費値上げを再考していました。「どうだろうねえ、こういう状況になっては、学費値上げは、もう取りやめようじやないか」と、宮崎学生部長に切り出したのです。それに対して、宮崎先生は即座に、反対をとなえて、その考えを封殺してしまいました。
 そして、ストライキになって評議会開催が出来ないままの事態に対して、大学側は、「臨時連絡協議会」を設置したそうです。(構成は、常勤理事、一・二部教務部長と学生部長で、「その性格は、法人と大学(教学)の間の連絡・調整機関とされ、学長が中心となって運営し、学長に事故があるときは、教務担当理事が代わることとされた。」)そして、学生の昼間部夜間部のスト権確立とバリケード封鎖に対して、12月1日付で、休講を告示しました。「11月30日、記念館において、理事会と学生会の間で行われ教職員も参加した『学費問題全般』に関する話し合いは、午後9時15分ごろ学生側から、話し合いが打ちきられ引き続き一部学生は、大学を占拠する実力行使を行うに到った。午後、10時25分、学生側は、大学院、小川町校舎を除き、一号館二号館、四号館五号館七号館九号館十号館十一号館および図書館を障害物でもって封鎖して、教職員の出入りを拒否する状態に立ち到った。12月1日、学長は告示を発し大学の正規の授業を力によって妨害しないよう要望したが、学生側がこれを聞き入れないので、やむなく休講の措置をとった。昭和41年12月1日 明治大学」と告示されました。又、バリケードによって、大学構内に入れない分「昇龍館」という神田の大学近くの旅館を学生部臨時本務所兼宿舎としていたようです。ここで、学生側の昼間部全学闘争委員会の大内義男(工学部)副委員長福島英昭(経営学部)小森紀男(政経学部)書記長は菅谷俊彦、夜間部全二部共闘会議議長は酒田征夫(政経)岡田征昭書記長(研連委員長 文学部)と、コンタクトをとっていたとのことです。そして、昼間部が主導権を握っていると思われたと、宮崎先生は記しています。当初は、昼も夜も基本的に共通した学費値上げ白紙撤回を求めていたので、恒常的連絡は昼間部がとっていたのでしょう。
 私たち二部の新しい学苑会執行部は、まず民有の高橋中執との引き継ぎを求めました。当時は新執行部を認めずに、印鑑や会計なども引き継ぎを拒み妨害活動に出てくることも、私たちは想定しましたが、整然と多数決で学生大会が行われたのは衆知の事実だったので、潔く、日共側も引き継ぎに応じることになりました。
 66年に学生が管理運営権を持っていた学生会館には、これまで三階に私たち研連執行部と高橋学苑会が隣り合わせにいました。その新しい学苑会室から、日共民青系の人びとに替わって、私たちが執行する役割につきました。私たちは、民有執行部と誠実に引き継ぎを行いました。歴史的な各議案や決議、備品に学苑会の財産日録、それに会計。私は民青の財政部長から、学苑会の残高確認の上、帳簿も引き継ぎました。彼らは、バリケード封鎖に対して「学苑会民主化委員会」をつくりましたが、後に党内の中国派内部抗争で、力を失っていきました。私の知る限り民青の中心をなしていた社研は、中国との友好を訴える人びとが多かったのです。彼らは、後に活動から身を引いたのか、大学でも見かけなくなりました。
 二部の私たちの砦は、バリケード封鎖した大学の学生会館に隣接した11号館が中心でした。学生会館全体を学生が掌握していたし、その三階に神田地区の昼・夜間の執行部がいました。この執行部と別個に、学費闘争の機関をつくっていました。二部は、学苑会の他に、「全二部共闘会議」として、学費闘争を闘うことにしていました。
 当時、学校当局・学生部や学生課とはパイプもあり、私は、財政として学生課の担当と予算決議にそった預かり金(入学時、学費納入時、大学側が徴収している学生自治会費や助成金)の、受け取りなどで、頻繁にやりとりをしていました。又、大学当局の備品の使用持ち出しや教授の研究室への立ち入りは禁止し、執行部が安全管理するという方式で、昼間部がその責任を負っていました。私は二部共闘会議執行部に加わらず、学苑会の仕事に集中していたので、学館に居ることが多かったのですが、学館前の広場に面した商学部などを中心にして多くの学生が、バリケードの中に泊まり込み態勢をとっていました、夜間学生は、そこから会社に出動する人も多くいました。当時の学生やバリケードの様子を考えると、69年以降、東大闘争を経たやり方とは違っています。66年の私たちは、学生大会の決定に自らを制約されることを大切にしていました。反対派と同じ学内や学生大会で、論争しながら妥協点を見つけていくような闘い方です。学生大会などの決議機関を無視して、力の論理で占拠し闘おうとする党派的な活動体制は、全共闘運動の流れに乗って東大闘争への党派的支援の方式の中から、68年秋以降強化されたと思います。
 明大の66年の私たちのバリケードストライキ闘争は、自らがバリケードの中で、秩序を自主管理としてつくり出さなければならないという考え方に立っていました。当時の明大の政治的環境は、第一に出来たばかりの学館の管理、第二に60年代から日共系職員と党派闘争を繰り返しながらブント系が維持していた生協活動もあります。第三に再建大会途上の全学連の主力をなす明大社学問の役割。そうした社会的条件に規定されていました。
 バリケードの中の日常活動は、自主管理カリキュラムに基づいて講演会や学習会、討論会、又、サークルの発表会などが盛んに行われていました。初仕事は直ぐ貸し布団屋から、確か200程の布団を借りたのを憶えています。これらは、自治会費で支払うのですが、バリケードの中に布団をトラックで運び込んで宿泊に使うためです。その後も私の財政部長時代(66年〜67年)必要に応じて、よく貸りていました。もう、値段もすっかり忘れてしまいましたが、神田にあった貸し布団屋とは、私が一番なじみだったでしょう。学館前の11号館に200の布団を運び込んでも、足りなかったと思います。
 夜間部は、夜、バリケードの入口にドラム缶で焚き火をしながら、監視門衛のローテーションを組んでいました。見回り組、他は学館前広場で大きな立て看を、いつも誰かが書いていました。又、当時は鉄筆とガリ版でビラを作り、それを一枚一枚謄写版で刷り上げる作業も、あちこちで行われていました。大学は休講でもサークル活動やその為の活動の場は、狭い部室のみならず、バリケード中の広い教室の空間で、軽音楽やジャズ研や空手まで、広々と練習出来たし、各研究部の発表会も自主講座に組み込みました。明大二部の演劇部は、GちゃんH君と、ヒッピーの始まりをつくったと称する人びとがいて、彼らも自主管理に参加し、不思議なパフオーマンスをやったり新宿西口や風月堂へと、ヒッピーを広げていくころです。唐十郎とか寺山修司が語られ、キューバのゲバラとカストロのどちらが革命的なのかを論争し、朝鮮文化研究の展示会や、ごった煮のよさがありました。民青も反対しつつ、共同しています。学館二階には、「談話室」と呼ばれるロビーのような空間があり、自動販売機も置かれてコーラとフアンタを売っていました、又、生協の食堂も学生の要求で開いていました。冬の寒い中、ジグザグデモを一日2〜3回はやって、気勢をあげ、お茶の水駅で市民や店主への呼びかけやビラを撒いたりしていました。
 バリケードの中には、いろいろな人が来ていました。講演に呼ばれてその後、気に入ったと、左翼評論家で泊まり込みに加わる人もいました。近所の文化学院の学生や高校生も、バリケードの中で、人生相談に来て、居心地がよいのでずっと加わっていました。サイケ(サイケドリックから採った)と呼ばれた家出してきた高校生の少女は、バリケードの中で、抽象圓を描いては、学生たちの演説アジテーションや討論をじっと間いていました。みんな、お互いに興味を持ち、悩みを聞き合い、又、次々と当局との闘争方針を打ち立てては、交渉し又、闘争し会議する、という日々を12月から年末年始1月中ずっと続いていました。
 寒い冬、学館のプラタナスの木の下には、いつも屋台が留まっていてお金のある人はラーメンを食べることが出来ました。又、直ぐそばにスナックも、ストライキの後に開店していて、3時過ぎまでやっていました。これらは公安当局に関わりのある者たちだという噂でした。当人の一人が「公安に頼まれて情報収集している」と打ち明けたとのことです。それ以来、そうした店は、行かないようにしていました。又、お茶の水の学生会館の側の店に学生たちの主張を伝え、協力をお願いします、と訴えかけていました。おかげで、後にも、学館にガザ入れがある時には荷物を預かってくれる店もありました。
私の生活は、当時アルバイトで、2万円くらいだったのだろうと思います。当時は時代としてまだ、ズボンを履く習慣がなく、学校に泊まるようになって、スラックスを履くことがありましたが、通常はスカートでした。もちろん、ヘルメットも被りません。そんな時代です。、
当時の私は、研連の岡崎さんに替わってMLの酒田さんを推して学苑会中執の委員長に人事案をつくったように、ML派とは親しくやっていました。ところが、当時、バリケード闘争が始まると横浜国立大闘争のMさんが頻繁に明大に訪れて指図をするようになつてきました。私はこのMさんの押し付けがましさに我慢ならず、反論すると「君の意見は社学同の意見だ」と批判されたりしました。はて、社学同?そうか、私の意見って、そうなのか?レッテルを貼られて、社学同の教育政策を読みましたが、どこが同じか分かりませんでした。でも、尊大なこのMさんが嫌いで、ML派と距離を置くようになりました。

2)大学当局との闘い
こうしたバリケードの様子は、常に当局との激しいやりとりと対峙のなかにありました。
12月2日には、宮崎学生部長を先頭に、神田駿河台正門の前で、バリケードを撤去せよと、呼びかけていましたが、その時には直ぐ正門の91番教室では、「学費値上げ阻止総決起集会」が聞かれていて、二部の学苑会もバリケード闘争に入ったことで連帯の挨拶を共同して行なっていました。宮崎学生部長によると、12月2日には、臨時連絡協議会を開いたのですが、小出学長が「このような緊迫した情勢になりましたが、多数の方から意見を出して頂き、皆で円満に会議を進めていって下さい。」と挨拶されたのだそうです。それに対して、宮崎先生は「円満とか言っている湯合ではありません、まさに異常事態なのです、このような場合意見が衝突して当然です。大勢を集めればいいということではありません。秘密にわたることもあり人数をもっとしぼるべきです」と、突き上げたようです。会場はシーンとしたと、宮崎先生の話。ここでは、学費改訂を理事会は早くしたいというのに対して、学生部長は、決定は出来るだけ遅くすべしという意見であったということです。
12月3日には、全学闘争委員会の大内委員長、菅谷書記長と学生部長は大学院の木村研究室で会い、学生に必要な教務事務が行なえるように職員を立ち入らせることを確認し、立て看板を道にはみ出さないとか、机を燃やしたりしないなどを確認しています。もちろん学生自治会側は研究室を占拠したりしない点は、自主管理として徹底していました。一方、12月5日には、「学生との話し合いについて、a理事会は、当面学費改訂案発表まで学生との話し合いを続けていくが、これまでのような形式では、会わない。b理事会の意志を伝える場を持つために、学生部を通じて、理事会の希望条件を付して話し合いの申し入れを行う。その期日は、12月8日とする。 c話し合いの場については、第一案は学外の適当な場所、第二案は記念館講堂とする。d全専任教員を招集するよう措置する。一般学生への通知方法は、掲示およびビラを用いる。」などを秘密厳守で確認したとのことです。もちろん、私たち学生は、そうした動きは知りませんでした。
この12月5日には、中大でも学生大会でスト権が確立されました。私たちは、すぐ側の中大にみんなで見に行ってお互い喜びあったものでした。中大に駆けつけると、偶然中学時代のクラスメートの女性に遇いました。でも、喜んで抱き合ったのもつかの間、「あなた!味岡自治会の方ね!」と睨みつけて行ってしまいましだ。 「味岡自治会って何だろう?」その時には、わかりませんでしたが、反日共系のことを、なじっているのはわかりました。彼女は民青になっていたのでした。
12月6日には、5時から評議会が開かれる予定と聞いて学生200人が大手町の会場を占拠して、流会させました。この8日に、学生と理事会で記念会館で話会うことを決めました。ところがその後、理事会が話し合いの条件としてバリケードを正面は撤去せよ、というのを出してきたため、学生側 は、それは出来ないとこたえました。そのため、当局は朝日や読売新聞に8日話し合い中止の広告を出しました。学生側は、理事会のー方的なやり方に抗議して又、10日に記念会館団交を申し入れました。理事会と学生側は、こうして交渉や応酬を繰り返し、13日、又、大手町の会場で開かれる評議会で学費値上げ決定が緊急動機される恐れありと、再び200名が会場になだれこんで、三たび評議会を流会させました。
12月15日付の明治大学新聞は次のように書いています。
「11月24日から相次いだ和泉・生田・神田の三地区施設(大学院・小川町校舎・和泉教職員研修館を除く)の学園封鎖にともなう学生の自主管理は、その後、平穏に続き、バリケード内では、クラス、ゼミナール、サークルなどの単位による討論会。講演会(講師として福田善之(劇作家)丸山邦男(評論家)石堂淑郎(シナリオライター)津田道夫(政治学者)氏らがよばれた。)が自主的に行なわれている。また、全学闘争委員会(委員長大内義男 工3)や文連・研連なども連日集会やデモを行なっており、また執行部の交代でやや立ち遅れていた二部学生自治機構学苑会(委員長酒田征夫 政4)も、ようやく活発な動きをみせ始めた。今までのところ、学園封鎖をめぐるトラブルはみられない(中略)この間、教職員側も各教授会をもつなど事態収拾に取り組み、二、三の学部では、声明文を発表するなど、問題解決への積極的姿勢をみせている。5日には午前11時から本郷の神田中央ビルで、武田孟総長、小出学長による各紙記者会見が行われ、(1)学費値上げの基本方針は変わりない。白紙撤回は考えていない。(2)学生と主体性もって話し合ってもよい、(3)専任教員の増員と質の向上、奨学制度の拡充、課外活動の助成増加など、学生への還元を考えていると語った。一方学生側も同日5時から、駿河台学生会館の四階和室で、斎藤克彦反日共系全学連再建委員長(商4)などが出席して、各社記者と会見し重ねて、現計画の白紙撤回を要求した。席上、学生側は、記者側の質問に答えて『現在は、各大学など外部からの支援は、すべて断り明大の学生だけで闘っている。しかし、法人側が官憲を含めて、学外協力を介入させたら、われわれも外部からの支援申し入れを断らないだろう』という注目すべき発言があった」と記事で述べています。 。
 この頃、各教授会から、学園封鎖解除と理事会との話し合いを求める声明が続きます。「昭和42年度の、学費改訂は、理事会と学生会との間でとりかわされた7月2日の確約書」を尊重して、値上げ決定以前に学生と十分に話し合うこと」を、各教授会は求めていました。そして、外部介入(警察導入)を行わないように訴えています。又、田口富久治・木下信男・永田正ら進歩的な教授は、私学危機は抜本的な再検討を行うこと、又、一大学内においては解決しえないので、国庫助成運動を行うようにと、呼びかけていました。それに対して、学生側は反対し、日共系学生サークル、学部自治会のみ賛成しています。

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(写真 和泉校舎正門バリケード)

3) 学費値上げ正式決定
そして、理事会は学生側の話し合いに応じないまま、12月15日、束京プリンスホテルで、理事会を行って学費改訂を決定しました。そして夜、記者会見でそれを発表。宮崎学生部長にも、そのことは事前に伝えず、決定後、「昭和42年度以降の入学生に学費等の決定について」という文書を学生側に渡すようにと、昇龍館旅館に届けてきただけだったのです。理事会は、誠意がなく唯、学生を恐れていました。
結局、宮崎学生部長が学生会館に出向いてその決定書を、昼聞部と夜間部の大内、酒田両委員長に、学館前の路傍で渡し、値上げ決定通知を行いました。二人は、その楊でその文書に目を通した後、受領を拒否して、直ぐ文書を返却したと、宮崎学生部長は記しています。その長野国助理事長名の12月15日付の理事会の文書は、「昭和42年度以降の入学生に対する学費等の決定について」という文書です。それは、これまでの経過を自己弁護的に述べて、「やむを得ざる事情を諒らんとされんことを望んでやみません。」として別紙に、学費改訂額表を添付しています。主旨は、入学金授業料の改訂で、二部の学費は改訂しないとしています。入学金3万円を4万円に、授業料は文科系5万円を8万円に、工学部を7万円を11万5000円とするなどが記されています。このように、12月15日、理事会側は、正式に値上げを通告しました。
一方で、12月18日、記念会館で、「全日本学生自治会総連合会再建大会」行われています。「全日本学生自治会総連合会再建大会」明治大学新聞(12月29日付)では、「三派系・全学連が誕生」という書き出しで、当時の再建大会の様子が書かれています。
「今回の全日本学生自治会総連合会再建大会は、東大、早大、中大、同志社、三重大、和歌山大、広島大など35大学、171自治会が参加、『支配体制への攻撃』をテーマに徹底的な討論が展開された」としています、第1日日は17日正午から大田区区民会館、1500名。18日、2日日はバリケードの中の明大記念館。19日、最終日は再び大田区区民会館で、賛成178、反対なし、保留2(代議員182名)で可決しました。そして、21人の中執委員と、その互選によって明大からは斎藤克彦委員長と中沢満正組織部長が選出されています。こうした、全学連再建は、全国の模範として、明大学費闘争の勝利がかかっていました。冬休みを迎えつつ、バリケードは死守され、ローテーションを組んで神田地区だけで数百人の学生が泊まり込んでいました。こうして、66年は越冬闘争として、闘われて、新年を迎えます。

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(写真 生田校舎バリケード)

4)裏工作
明大学費闘争は、12月からストライキ自主管理闘争に入ったことで、丁度、再建された全学連党派の思惑も作用して、個別の大学の闘争の実情はどうあれ、非妥協性へ非妥協性へと運動が流されていく傾向にありました。
後に知ることですが、ブントは党派的利害からも、徹底抗戦で持久的に闘うことを主張し、中核派は一切の妥協を排した闘いを主張してブントの方針を批判していました。又、ML派は横国大のMら外人部隊が、明治の二部のML派を拠点として、党派的活動をしはじめました。バリケードの中の67年正月、私が財政部長をしている学苑会中執の隣の会議室を開けた時のことです。横国大のML派のMら外人部隊が中心となって赤い毛沢束語録をそれぞれが持ってお経のように唱和しているのに遭遇し、仰天してしまいました。ちょうど日本共産党は日共内の中国派との対立から、中国人留学生などの住む「善隣会館」の管理運営を巡って、暴力的対立となっていました。ML派はその「善隣会館」闘争支援から毛沢束思想に染まっていったようでした。以来、私はML派、ことにMを毛嫌いするようになりました。その分、文連や昼聞部学生会の社学同の人々とは、近しくなっていったと思います。
バリケードの自主菅垣の一方で、理事会は学生との話し合いは正門のバリケード撤去がなければ応じないとしつつ、12月15日、一方的に値上げを正式に表明しました。そして、それ以降、呼応して体育会の「学園正常化運動」も、日共民青系の「学園民主化」も、教授会の「理事会当局と学生双方の話し合い封鎖解除」も、激しくなり煮詰まっていました。
こうした中で、革命を求めて徹底的に抗戦せよというような乱暴で無責任な論理を押し付けられるように聞こえて、非党派の私達は悩みました。ノンセクトラジカルや研連、文連など昼間部執行部で話し合いました。全学生への責任を負う立場から言えば卒業したり学生たちの単位はどうするのか。白紙撤回以外の収拾はないのか?よその大学の党派介入は、当局の体育会のみならず、警察の介入をまねくのではないか?と、研連、文連など、いわば「良識派」の人々は危惧する意見提起をしていました。今からとらえると、情勢は民主的に学生大会で、収拾を諮る時が来ているのに、逆に、全学連再建大会を経て、断固非妥協に闘うという党派の競合と介入が、闘争方針をつくっていきました。このまま行けば自治も失う、というわたしたちのそんな考えは党派の者たちからみると、「学園主義」です。こうした妥協主義は日帝の帝国主義的再編に組み込まれるものだと批判されます。しかし、党派の要求通りにすすめば、権力の介入の力で学費値上げと入試は強行されてしまいます。逮捕者・退学者などを大量に出し、自治は奪われてしまうでしょう。
これまで、当局と対峙し、責任を負ってきた明大学生会中執は活路を求めていました。学生たちに責任を負わなければならない。又、一方、明大社学同のトップのものたちは、再建全学連委員長として全国的な闘いの先頭に立ちつつあり、明大の面子ある闘いの砦として、ブントの拠点として維持したかったでしょう。ブント以外の党派のものたちML派や徹底抗戦の中核派は断固主義でバリケード死守、入試粉砕まで闘うことを主張しています。今になって、当時の学生部長の考えや、資料から分かるのですが学園闘争を収拾したい、党派や外部の介入で右派や警察権力に粉砕される前に自治の場を取り戻し、妥協すべき点をみつけるべきだという勢力が、こうした12月の局面で動き出していたのでした。
私も全学意志をもって徹底抗戦することが可能なのか、悩みつついた頃です。「断固闘う」方向を問い「民主的に」学生を動員するために臨時学生大会でもやるべきか…、と考えていましたが、それ以上深い方向も考えていませんでした。私は引き維いだばかりの学苑会中執として体制を整える役割や研連のひきつぎも負っていました。
学費闘争の組織体「全二部共闘会議」には、中執の主要メンバーが中心になって構成し、私は、それに加わらずに学苑会固めの役割分担していたためでもあります。二部共闘会議議長はMLの酒田さん、副議長は研連の岡田さんもいましたが、政経学部の中核派の花田さんは、徹底抗戦派です 。全学連大会後は外部のML、中核派も来て徹底抗戦の主張が強くなっていました。
こうした時期、「裏工作」が始まったのを、2000年以降、逮捕後に当時の宮崎学生部長との話や本で知りました。右翼体育会や学生の正常化圧力の中で当時、他の党派の介入に対して自分たちブ ントの党派利害からか、又は純粋に責任感のためか個別明大の自治を守ろうとする人びとの動きです。
宮崎先生の本から「裏面工作」。が、浮かびあがってきます。宮崎学生部長によると、どのように紛争を解決していくのか先がみえなかったので、従来の学生部長経験者の先生方を昇龍館に招いて、お知恵拝借を、願ったそうです。新羅一郎、永田正、和田英雄先生らです。その中で、名案は見つからなかったのですが、新羅教授の言葉が後の宮崎先生を動かすことになったようです。「『宮崎君。戦争でもそうだけれどね。正面から向き合って対抗していたって埓はあかないんですよ。紛争のときには常に正面作戦と一緒に裏面工作を進めなくちや駄目なんだ。裏面工作やっているの』と、言うのだった。『裏面工作』?どうやって進めたらいいのだろうか?」と考えたそうです。直情径行の宮崎先生の頭にはなかった方針でしょう。その後、新羅先生が道筋をつけてくれたようで、新聞部OBのKから「先生、全学閥の大内君と会う気持ちがおありでしたら手配しますが」と、連絡があり、お茶の水駅から本郷三丁目の方の喫茶店で、始めて大内委員長と会ったとのことです。「二回めからは、千鳥ケ淵のフェアモントホテルの喫茶店。最初は情報交換で、双方ともその主張は公式見解に近いものだった。(中略)しかし、何回も話しているうちに、次第にお互いの苦労や気持ちもわかってきて、何とか打開の途はないものかと思った時、立ちはだかっている固い岩の中にわずかだが解決への可能性の細い割れ目の薄日のようなものが見えてきた。『大学をよくするために学費値上げが必要なのだよ』と言ったのに対し、大内君は『学費を上げても、大学の体質は変わらず大学は良くなりませんよ』とこたえたのだ。(中略)『それでは、学費を上げなければ大学は本当に良くなるのかね』『学費を大学の体質を変え、大学
を良くするために使用することを理事会側に確約させ、それを学生側もできるシステムにすることはできないか』」こんな風に話し合っていたようです。大学も又、迫ってくる卒業で、学校教育法による四年生の必要授業時間不足など、現実的問題が問われていました。バリケード封鎖のために卒業できない一般の学生たちに責任を持てない自治会でよいのか、大内さんも悩んでいたのでしょう。
こうして、双方の話し合いを重ねた上で「神田小川町校合の学生相談室で、予備折衝を行った。全学闘争委員会側からは大内君をはじめ、何人かの代表、学生部からも宮崎学生部長の他、副学生部長が話し合った。白紙撤回に学生は固執しつつ、妥結の方向に向かっていった。話し合いを公式の場に乗せるために1月20日に理事会と学生側が話し合うことになった。」(「雲乱れ飛ぶ」より)と書いています。

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(写真 アジビラ)

5)対立から妥結への模索
学生が学費値上げ白紙撤回を主張し入学試験阻止闘争を検討しているとして、1月に入ると、体育会の「学園封鎖抗議集会」が91番教室で開かれました。以来、理事会の動きと連動するように、学生自治会側に対抗して体育会の暴力リンチが始まりました体育会は1月14日「学園封鎖抗議集会」で宜言文を採択しました。一触即発の緊張が続いていました。理事会側が、値上げを公表してから、黒龍会の幹部と噂される右翼やくざの島岡野球部監督が動き出しました。体育会を動員して、団交でも前方座席を体育会に暴力的に振り分けるなど采配をふるい始めたのです。12月から1月にかけて、この動きが激しくなります。
1月18日に、全学闘争委員会と、学生部長による覚書きがかわされて、1月20日に記念館で、話し合いをもつことが決定されました。学生は教授たちに共闘を呼びかけました。「私たちは、教授会内の学費値上げに反対する良心的先進的教授諸氏に訴えます。腐敗・堕落した教授諸氏を弾劾し、私たちの共通の目的である『白紙撤回』獲得の為に、私だちとの固い連帯のスクラムの中で、最後まで闘って行こうではありませんか。」と。67年3月5日「朝日ジャーナル」によると、「定刻の3時間前に、記念館講堂は満員、まわり500入から1000人入れる4つの教室にはスピーカーで流したが、そこも一杯。お茶の水駅から長蛇の列、消防庁から抗議まできた。団交では、学生が教育のビジョンを要求すれば、理事会は経営の困難さを訴え議論は、かみあわない。この日もむなしく空転」と、記事になっていました。
この日は、恐怖の団交だったのです。島岡監督の指令を受けた体育会、柔遊郭や相撲部や野球部、レスリング部などが、前方座席に座る学生を暴力的に追放して、数百人分の席を占拠しました。そして、壇上で、学生側の発言が始まると「ウルセー・バカヤロー」「だまれ」などと妨害します。敗けずに学生の多数は、拍手して、壇上のみならず座席もゲバルト合戦となっています。そして、学生側も棒で徒党を組んで対抗措置をとりました。
その後、体育会側は、大学に要請文をつきつけ、「20日の記念館での混乱でおわかりになったように我々は、会場警備にあたっておりましたが学生一般及び体育会員の異常な熱気は、現状については、もはや体育会本部にしては制しきれない様になりました。この事に関し、大学側の今後とられるであろう処置についてどうお考えか、明らかにするよう要請します。1月24日 体育会本部」と、暗に警察の介入を求めています。
25日再び団交が行われましたが、600人収容の91番教室には、体育会ゲバルト部隊が集まりました。学生服の腕を白い紐で縛ってこれからのゲバルトに際して仲間同士の印をつけています。樫棒が運び込まれ、島岡監督が激を飛ばして一触即発の対峙状態でした。この時は学生会の全学闘争委員会も学苑会の全二部共闘会議も流血を避けて挑発に乗りませんでした。
再び、1月21日、26日、大内秀員長と学生部長は話し合いを持ち、打開を求めて、学生部長が個人的に「案」を提起して大内委員長も個人として、この筋でまとめていこう、と話し合ったようです。
この「案」をもとに話し合おうとしたことが、後の「2・2協定」妥結につながるものになるわけです。
その内容は、異常事態を解決するために双方努力すること。理事会は、学生の要求と話し合って、学内改善方針を67年3月までに決定すること。学費値上げ分は、別途保管して、3月方針の決定を持ってから予算計上する。それが同意されれば、1月30日から、授業再開が可能となるようにする、という内容です。
そして、「1月30日に学園が正常になった際は、報道機関を通して、大学と学生会との連名でもって、本学の新しい出発を声明するものとする」と、原案は述べています。この妥結実を、宮崎先生は「理事会側も学生側も、大筋において異論が無いようだった。ようやく、妥結への灯がほのかに見えてきたように思われた。しかし、この妥結案の内容を公開の場で確認する必要があった。学生側は、1月28日に和泉校舎で理事会側と学生側との公開の話し合いを行い、その場でこの妥結案を公表して妥結の方向にもっていきたいという意向だった。話し合いを行うことには、理事会側も同意した。朝日ジャーナル記事の中に『このころ、すでに斎藤克彦三派系全学連委員長と武田総長との間に裏交渉が進んでいた』(67年3月5日号)とある。学生部長・大内委員長の線とは、別に武田総長・斎藤委員長にも交渉があったようである。しかし、全学闘争委員会の委員長は、大内義男君であり、学生部長と大内委員長の話し合いが非公式交渉の主流であったと言ってよいだろう」と宮崎先生は書いています。
斎藤全学連にばかり目を奪われていましたが、大内さんは、学園正常化に集中していて、斉藤さんに同調していたというよりもむしろ、反発すら持っていたようです。歴史的にみると、こうして、妥結案をめぐって話し合いが行われました。大内さんの出身、工学部生田校合では、妥結を受け入れました。しかし28日和泉校舎では妥結反対の大衆団交と化していき決着が着きませんでした。決着は再び、29日、神田校舎に持ち越されました。
この宮崎・大内作成の妥結集は、各党派、ブントを含めて明大社学同批判が席捲していきました。値上げを前提としているからです。そうした中で、1月29日生田校舎ではバリケードは撤去されて、和泉では、妥結反対、神田の29日の団交は流会となりました。「学生部報・号外(1月31日付)」では、「1月29日午後4時記念館講堂で行われる予定であった学費値上げ問題についての会合(全闘委側回答をめぐる)が開かれる前に全闘委の学生たちと、体育会を中心とする学生たちとの間に乱闘が生じ、後者に13名の重傷者を含む負傷者46名を出す異常状態が現出されたので、記念館での会合は中止となった。」と述べています。二部共闘会議の学生たちが、二百数十人、棍棒ヘルメットで武装して、乱闘が行われたと、外人部隊を中心とするそれら勢力が、体育会を中心とした団交の前列に占める学生らを襲撃したと、号外は述べています。この号外では、その前段で、体育会が暴力で、座席占拠して、団交から、学生会支持の学生たちを追放した結果起こったことでしたが、それらは触れられていませんでした。
こうした、暴力流血に対し、打開にむけて理事会と学生側で湯所を移して話し合うことを学生部長の仲介で合意しました。そして、午後になって、大学院第一会議室で話し合いが持たれました これから、機動隊導入「2・2協定」に一気にすすんでしまう流れに突き進んでいきました。

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(写真 アジビラ)

6)最後の交渉一機動隊導入
流血の後、29日緊急に場を大学院に移した話し合いは、司会に宮崎学生部長と学生側長尾健。理事側:長野理事長、武田総長、小出学長他7名、全学闘争委員会:大内義男委員長、菅谷書記長他8名、全二部共闘会議:酒田征夫議長、花部利勝副議長他7名の参加です。
ここで、28日理事会提案に対して、全学生側の回答を得る場として当局は設定しました。しかし、学生側は白紙撤回を求めて 座り込み部隊300余名が、会議終結を許しません。十数時間後の30日朝、学校当局側(学部長会議)は、警察の出動を要請して、理事たちを「救出」しました。その直前までは、全学闘としても学園の正常化をしたい。次のことが認められれば、理事会提案を受け入れ授業再開のため、即時バリケードを解くというところまで合意が進みました。(1)理事会が教育・研究財政問題を根本的に解決する姿勢で努力すること、(2)値上げに関しては、実質的に白紙の状態に付しておく様希望する、というところで妥結に近づいていました。結局、「白紙撤回」という字句を認められないとするやりとりや、学生部長からの妥協案などのやりとりが続いていました。95番教室1000入、150番800入、140番1000入、各教室にはこのように、体育会を含む数千人の学生が膨れ上がって、成り行きをスビーカーで報じられつつ待っていました。1月29日夜10時前、妥結点と未解決点を確認して、会議を終えて、140番教室で学生・理事会双方が説明会を行なうことになりました。宮崎教授によると、二部の全学共闘会議と他校外人部隊が移動を阻止して缶詰状態になってしまいました。そして、「大衆団交をひらけ」「理事会は学費値上げを白紙撤回せよ」と、出室を拒否して、バリケードを築き、「つるしあげ」が延々と続きました。「機動隊がきた!」のデマで、浮き足立ったり混乱が深まって、夜が明けました。この頃学部長会議が、警察隊に30日朝7時、理事救出の要請を行なったのです。このことが会議場にも通告されました。昼間部の菅谷書記長は「退場してバリケードを再構築しよう」と、呼びかけました。それに対して二部の側が、継続を要求して対立し、昼間部は会議室から退場しました。しかし、機動隊が来ることがわかると昼間部の大内・菅谷全学闘執行部も会場に戻って、二部の学生だちとスクラムを組んで、インターナショナルを歌いながら機動隊をむかえました。大学当局は、理事救出の要請のみだったので、7時15〜20分、警察機動隊は窓を破って理事を救出し、撤収しました。こうして、結局、警察の介入に結果したわけです。30日、その日すぐ透かさず、理事会の意を受け島岡監督らが中心となって体育会を動員し、バリケード撤去に動きました。そして、その日のうちに神田校舎のバリケードはすべて解除されてしまいました。その上で、『学園は理性の場であり、大学内に棍棒などの凶器を持ち込むことは、大学に対する重大な侵害行為である。ただちにこれらのものを、大学外に持ち出し、所持者および明治大学教職員学生以外の者は、ただちに学外に退去するよう命令する。1月30日 明治大学学長』『本日、明治大学のストは、学生の手によって解除されました 1月30日 明治大学長』『全学闘争委員会、全二部共闘会議の解散を命じる 明治大学長』正門に通告告知がなされました。
 こうして、学生大会によって、決定された学生の闘争機関の解散を当局が命令するという異常事態に至りました。大学当局の暴挙にはげしく対立したのは、和泉と二部の学生指導部とブンドを含む党派の外部勢力でもありました。私のようなレベルの人々も、この機動隊で、逆に闘争の継続を強く主張するようになりました。
(つづく)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は3月3日(金)に更新予定です。

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