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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。
今年の1月3日、前・情況出版代表大下敦史氏が逝去された。享年71歳。
大下氏を偲んで、6月17日(日)東京・神田の「学士会館」で「大下敦史ゆかりの集い、追悼!記念講演会」が開催された。

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前回のブログで、「集い」での山本義隆氏の記念講演の概要を掲載したが、今回は、もう一つの白井聡氏の記念講演の概要を開催する。

【「大下敦史ゆかりの集い」記念講演 2018.6.17 於:学士会館
―前「情況」誌代表 大下敦史氏の思い出を語るー 白井 聡 】


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福井紳一(司会)(60年代研究会)
「記念の講演に入っていきたいと思います。まず、京都精華大学の白井聡さんです。白井さんは、大下さんの元での『情況』でデビューして、今度出された『国体論』においても、大下さんに捧げるという思いで最後に書かれておりますけれど、その『国体論』は国体概念を基軸に、日本近代史をもう一度総括していくという画期的な試みの本で、今、売れて読まれています。
では、よろしくお願いします。」

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白井聡(政治学者:京都精華大学人文学部専任講師)
「皆さんこんにちは。白井聡と申します。今、ご紹介がありましたように、京都精華大学というところで教員をやっておりますけれども、専門は政治学とか社会思想というようなことを専門にして日々教育をしております。
 私と大下さんとの関係を最初に申しますと、一言で言いますと、私にとって大下敦史さんという人は、本当に恩人であります。といいますのは、最初にお会いしたのは、2004年だったと思いますが、私が当時、一橋大学の大学院博士課程に在籍をしているころでありました。私は、当時、どんな研究をしていたかというと、ロシア革命のレーニンの研究をしておりました。その主題はどういうものかというと、すごく簡単に言ってしまえば、レーニンというのはやっぱり偉いんだということですね。懸命に論証をしようと、そういう研究をしておりまして、それで2003年に修士論文を書いて博士課程に進んでいたわけです。しかしながら、当時、今もそれほど根本状況は変わっていないんですけれども、レーニンは素晴らしいというようなことをいう研究が、学会向けといいましょうか、業界向けをするかというと、全然受けないわけです。むしろ学会のトレンドに全く逆行している、そういうものであります。
私は修士論文を書く過程で、大学院のゼミで発表などをするわけですが、その時に私の師匠の政治学者の加藤哲郎先生は『白井の発表はなかなか面白いけどなあ。こういうのをやっていると就職はないぜ』と言われたものです。私も若かったものですから、血気盛んなものですから、先生はこんなこと言ってるけれども自信はある、今に見ておれと思っていたわけですけれども、博士課程に進みますと、だんだん先生の言っていることの意味がよくわかってきました。なるほど、これほどまでに学会のいわゆる流行といいましょうか、傾向に合致しないことをやっていると、これほどまでに無視をされるというか、放っておかれるものなのか、そういうことを博士課程に進学して、博士課程に進学するということは、同時につぶしが全くきかなくなってくるということを意味するわけで、何とかその世界で生きていかなければいけないわけでありますが、しかしながら、一体どうしたものかと、そういう状況に、今から思えばあったんだと思います。

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そういう中で、当時、Sさんが一橋大学の読書会に参加していたということがあって、そこからのつながりで河出書房新社のAさんとも知り合いになって、その紹介で、『情況』に書いてみないかという誘いを受けました。当時私が『情況』という雑誌に、どれだけの知識が、どんな認識があったのかというと、それほど大した認識はありませんで、一応、新左翼系だということは理解をしていたと同時に、大学時代にある先輩がカバンの中から『情況』を取り出して『こんなの持っているとね、公安に目を付けられちゃうの』と、ある女の先輩が言ったことを覚えていたりしますけれども、何だかとにかくとってもやばい雑誌らしい、というくらいの、いってみれば最左派だというくらいの漠然たる認識でありました。きっと、あなたのやっていることだったら喜んでもらえるんじゃないか、というような誘いを受けましたので、そういうことだったら有難いと思って、修士論文の一部を1本の論文に仕立てて情況編集部に送りました。すぐに掲載してもらえるということになりまして、当時言われたのは、『情況』の校正は著者自らやった方がいいと聞かされておりまして、というのは一応学術論文ですから、注とかが付いていたりして、その注は外国語が入っていたりして大変ややっこしいわけですけれども、いろいろそこで問題が発生して、頭から湯気を出している先生などがいるらしいという話も聞いておりましたので、なるほどと、自ら編集部を訪れてやった方がよさそうだということで、当時、新宿の河田町にあった編集部を訪ねました。
行く前には、私としては若干身構えるといいましょうか、とにかく一番左だといわれている『情況』だ、そのボスであるところの大下さんはどういう人なのか、話は断片的に聞いていたんですけれども、ともかく『情況』で頭を張っているんだから、相当の左翼の大物であろうということで、かなりおっかない人なんじゃないかというイメージを勝手に持って行ったんですけれども、もちろん、会った瞬間にイメージというものは吹き飛んだといいましょうか、今でも覚えておりますけれども、河田町のビルの重い鉄の扉を開けますと、そこに情況編集部があったわけですけれども、なんとなく生活感が漂っているんですね。当時、朝子ちゃんがまだ小さかったと思うんですけれども、朝子ちゃんのおもちゃとか絵本とかソファーの上にあったりして、左翼のアジトというのはこういうものかと、そこで面喰ったわけです、私は、左翼の大物である大下編集長から鋭いコメントがあるんじゃないかということを、期待半ば、また、不安半ばという形で対面したわけですけれども、そういった固い話というのは全く無く、とにかく不思議な感じがしました。初めて会ったのに、何か懐かしい感じのする人ということですね。その初めての対面が、その後の十数年間に及ぶ付き合いをさせていただいたわけですけれども、その運命を変えたんじゃないかと思っています。

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その時に僕がすごく勇気づけられた気持ちもしました。というのは、論文の内容についての込み入った話など大下さんは一切せずに、とにかく言ってくれたのは『うん、これはいいよ』ということでした。それは実際掲載されまして、編集後記にも、大下さんのとても僕のことを買ってくれているコメントが載りまして、それに僕はすごく勇気づけられました。何といっても、物を書いて生きていかなくちゃいけない、いわゆるアカデミックな論文スタイルに、学者である以上、それなりに適応しなければならないわけですが、一方で、いわゆるアカデミックなスタイルというものに対して僕は強い違和感があって、もっとある種魅力のあるものを書きたいと、常々そう思ってやったきたわけで、今もそうですけれども、まさにその姿勢というものを貫けたのは、まさに大下さんが『君の書くものは、これはいいものなんだ』と、そういう風に言ってくれたということですね。そのことが根本的に僕をこれまで支えてくれたと思います。
具体的には、最初の1本、40枚程度だったと思いますが、これは修士論文の一部なんですよと言ったところ、『じゃあほかの部分も出しなさい』という話になりまして、レーニンの『国家と革命』に関して書いた修士論文だったんですが、そのメインの部分を次々号に載せてもらいました。これは150から180枚にのぼるものでして、普通、雑誌の論文というものは、長くて50枚、平均して30枚とか40枚しか掲載してもらえないものですけれど、150枚を超えるものを一挙掲載をしてもらったわけです。どうも、この長さそのものが、他の出版業界の人に聞いてみると、非常にインパクトがあったそうです。こんなとんでもない長いものが載っている、これは何だということで、それ自体にインパクトがあったという話も聞きました。そして、『別冊情況レーニン再見』というものを、法政大学の長原豊さんが、こういうものがあるからやらないかと提案があって、とにかく大下さんはレーニンといたら目がない方でありますから、絶対にそれはやるべきだと、それで一緒にやりましょうということになって、これをやった。その時には中沢新一先生にインタビューさせてもらったりとか、本当に私にとっては楽しい思い出であります。
それ自体も楽しかったし、結局、こういったことというのは、最初の僕のメジャーなところでのデビューにつながっていきました。具体的にいいますと講談社の編集者が、何かレーニンレーニンとか言って、いろいろ書いている若いやつがいるらしいということで注目をしてくれて、講談社選書編集部から手紙が来まして、うちで出さないかということで、私はそこでオファーを受けまして、『未完のレーニン』という本を出すことになったわけです。その原稿のほとんどが『情況』に掲載したものをベースにしています。

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今も思い出すんですけれども、講談社から手紙をもらって、大下さんにすぐに電話をしました。大下さんが非常に弾んだ声で『本当によかった。きっと大きな会社から、そういった話がきっと来るだろうと思っていたけど、なかなか時間がかかったから、これはどこからも来なかければ、「情況」で本にしたらどうかと思っていたんだ』と言ってくれました。本当に何と言いましょうか、大下さんはとにかく僕の書いたものを高く評価してくれて、そうであるが故に、これはもっと大きな会社から広く読まれる形で世の中に問われるべきなんだという風に、本当に心の底から思ってくれていたと思います。本当に私心なく僕のことを応援してくれた、そのことには、僕は本当にいくら感謝してもしきれないと思っています。
こうやって話していると、どうしても悲しさも募ってくるんですけれども、大下さんの朗らかさということを振り返りたいと思います。10何年かの付き合いの中で、今から思い出してもつい笑ってしまうし、僕も今、家族がいますけれども、妻も何度か大下さんと会ったことがあって、あんなことがあったねと夫婦の間で話をして、ひとしきり笑うことができる、そんなたくさんの想い出があります。
中でも思い出されるのは、ある時、翻訳本を『情況』で出そうということで、月1回くらい神保町のデニーズに集まって、そこで翻訳の検討をするということで、各自が持ってきたものを、ああでもないこうでもないと言ってやるということをやっていたんですね。もちろん、翻訳は情況出版から出す。それをやる時、毎回、大下さんが臨席していたんですけれども、ある時、いつまで経っても大下さんが来ない。おかしいなあ、この時間を指定したのは大下さんなのに、例によって1時間くらい遅れるのはいつものことですけれども、1時間過ぎて2時間経っても来ない。さすがに大下さんに電話をしてみたら『大変なことが起こっているんだ』と言うんです。何が大変なことが起こっているんだろうと思ったら、甲子園です。斉藤佑樹ですね。延長戦で決着が付かず、決勝戦の再試合を俺はかぶりつきで見ているからとてもじゃないけど家から出れない、と言うんですね(2006年早実と駒大苫小牧の決勝戦再試合)。大下さんも早稲田ですから愛校心にとんでいまして、私も大学は早稲田だったものですから、斉藤佑樹の早稲田実業を大変に応援していたんですけれども、再試合を僕だって観たかったんですよ、仕事をさぼって観たかったんですけれども、仕事だからしょうがないと思って我慢してやってきたわけですけれども、社長はそういうことは全く無視をしていた、そんなことがありました。
それから、すごい話というのが、今は東大の名誉教授になっておりますけれども、当時は東大法学部の現役の教授だった方がいらして、その方が『情況』の大下さんが依頼をして、インタビューだか原稿だかをいただいたんですね。大下さんのすごい編集方針というのがあって、それは驚くべきは編集後記というのを、全部の原稿を読んでから書いていた。普通、雑誌の編集者はそれをしないと思うんですけれども、もちろんそれで割を食うのは印刷製本屋さんですが、全部を読んでから大下さんは編集後記の原稿を書いていたんですね。だから、本当にきっちりきっちり毎号全ての原稿を読んでいた。そこで生じることは何かというと、大下さんの批評精神がそこで発動する場合がある。その批評精神とは何かというと、最後になって原稿の入れ替えが起こる。つまり、最終版になって入れるはずではなかった原稿が届く、この内容がいいとなると、大下さんはスパッと決断をするわけです。ある時、それが起こったわけです。『これはいい』と。それで東大の先生の原稿が落とされるということが起こったわけです。原稿料も払っていないわけですから、普通、そういうことはしないと思うんですが、大下さんは普通の物差しは通じない。それで、ここで不思議なことといいましょうか、これこそブントということなんだと思いますけれども、普通、そういうことが起こると、落とされた側は、もう二度と許さないという雰囲気になるのが普通だと思うんですが、そうならない。結局、2、3ケ月後の『情況』に、その原稿が改めて載った。更に面白い話があって、掲載号が教授の家に送られてきた。その教授の奥様が掲載号を見て『あなた、ついに「情況」に載せてもらえたのね。本当によかったわね』と言った。この方は大変有名な方で、いろんな有名な雑誌に書いておられますし、しょっちゅうTVやラジオ等でも活躍しておられる方ですけれども、その先生の奥様というのはかなり変わった方なんではないかと思うんですけれども、ある意味面白い、筋の通った方ではないかと思いますけれども、その奥様の側から見ると、NHKだとか岩波『世界』だとかこういったものよりも『情況』の方が格が高いみたいなんですね。これも大下さんから聞いたきわめて興味深いエピソードの一つでありました。

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こんな具合に面白い話が多数あるわけですが、大下さんの『どうもどうも』という挨拶とか、何ともいえない屈託のない話し方、これでもって、普通、角がたつというところをなぜか丸く収めてしまうという不思議な力というのは、実はタフネゴシエーター(手ごわい交渉相手)の力でもあったというエピソードを一つご紹介したいと思います。
大下さんの同年代の仲間の方で、どうも商売や健康などいろんな困難を抱えて、にっちもさっちもいかなくなった方がいらして、これはしょうがない、生活保護を受けることにしようということに決まったんですが、なかなか生活保護を受けるのは厳しいわけで、簡単に受給できない。そこで大下さんは某区役所について行った。そこで交渉が始まったわけです。『これこれの受給をしたいんですが・・・』と。まず最初にお役人さんは何を言うかというと、NOということです。かくかくしかじかで受給資格が足りないんでどうのこうのというこで、一生懸命なぜ受給できないのかという理由をていねいに説明するわけです。その説明が終わったところで、大下さんはどうしたかというと、『これでお願いします』と最初と全く同じことを言うわけなんです。それで窓口で困ってしまって、もう1回同じ説明をする。そうすると、大下さんはまた同じ言葉で返す。実は。これはものすごくタフな交渉術なんだと思います。こういうことを繰り返している間に、ついに相手方は疲れ果ててしまって、もうしょうがないということで許可しようということになった。実際にこの申請に成功を収めるわけです。本当に、こんな力もあるという意味で、本当に不思議な人でした。

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ところで、先年、塩見さんがお亡くなりになりましたけれども、塩見さんが亡くなった時に、あれだけ有名な方でしたから、ある種、何者だったのかみたいないろんなことがマスメディア上でも語られましたけれども、私が接した中である意味一番感動的だったのは、雨宮処凛さんが書いた追悼文でありまして、その中で言っているのは、塩見さんとの付き合い、もちろん彼女の場合、出所してからお付き合いがあったということなんですが、なかなか付き合うのが大変な人でしたと。なぜかというと、二言目には『世界同時革命だ』というので、とにかく大変であると。それから、ある時期、ケンカをして絶交寸前までいった。それはなぜかというと、ある時、塩見さんが怒り出して『お前は左翼だとか自称しているけれども、ろくにマルクスも読んでいないんじゃないか。そんなやつは左翼とは呼べん』と言い出して、雨宮さんとしては『あんな分厚いものをたくさん読まなければ左翼と言えないなんて、そんな面倒くさい話だったら、私は左翼でなくて結構だ』と言ってケンカになって大変だったという話を書いていらっしゃるわけですけれども、その中で彼女が書いていたのは、実は亡くなる数年前の塩見さんの周辺には、ある種、雨宮さんをはじめとした、ずっと若い世代の塩見さんを囲むサークルのようなものができていた。じゃあ何でその若者たちは塩見さんに惹かれていたのか。結局、いろいろ大変だけど、塩見さんの近くにいると癒されたんだということなんですね。何で癒されたのかというと、とにかく塩見さんは二言目には『世界同時革命』だと言う。もう一つは『それは資本主義のせいだ』と言うわけなんですね。この自己責任が強調される時代において、いわゆる『生きづらさ』を抱えた若者たちが、『生きづらさ』を感じているのは結局自分のせいだと思い詰めていたところに、塩見さんに会うと、『それは君のせいじゃないよ。資本主義のせいなんだ』と、こういう風に言ってくれるところに、ある種の解放感といいましょうか、救いというのがあったと書いてらして、僕はとてもいい文章だなと思ったんですが、僕もよくよく考えてみると、大下さんからもらったものの本質というのは、そこだったんじゃないかという気がしています。
要するに、君はここにいていいんだよ、あるいは僕のそばにいていいんだよと言ってくれると、そんなことは言わないわけですけれども、雰囲気がそう問わず語りに言っているわけなんです。それによって僕は、ある種の安心感というのを覚えることができたし、そして今、いろんなことを書いておりますけれども、レーニンについて論じて、そして今、天皇について論じるということをやっているわけですけれども、僕は常に思い切って書くといいましょうか、いわゆる既存のイデオロギーの流れ、あるいは固着化してしまったもの、そういったものに絶対に囚われずに書きたい、そういう思いをもってやってきました。ある意味、それは冒険であるのかもしれません。そして好きなようにやるということでもあります。自分の本当に書きたいことを書くという自由ですね、もちろんそれは自由であり、自由にはリスクが伴う、ある意味の冒険なんです。誰からも相手にされないというリスクもある。でも、そんな冒険をすることが今までできました。なぜ冒険できたのかというと、やっぱりそれは、誰かが無茶をやっても救ってくれる人がこの世にはいるはずだ、しかも元々赤の他人だった人が救ってくれるということが、この世の中にはあるんだという確信が、まさに大下さんによって与えられ、そして支えられきたからだと思っております。

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まさにそれを大下さんは、全く無償で、ただ僕のことを気に入ったからという、ただそれだけのことでそれをしてくれました。ですから、今、つくづく思うのは、大下さんが亡くなってしまったということは、僕にとっては本当に何と言いましょうか、支えてくれる背骨、柱を失ってしまったということでもあるわけなんです。だけど、それは同時に、いつかは必ず来る日だったわけですし、それは本来自分で一本立ちしなければならないんだと、大下さんから言われているのかなとも思います。そして、その一本立ちするということは、きっと大下さんが人に対して何かを与えてくれていたことを、今度は僕がほかの人に何かを与えるということをやっていかなくてはいけない、そういう年齢に自分自身がなったんじゃないかなと、そういうことを今、ひしひしと感じております。
その精神でもって、今後も、大下さんが可能にしてくれた冒険を続けながら、そして来るべき新しい冒険者を見つけて、これを支えていきたい、これを大下さんが亡くなったことを契機としての僕の改めての決意として、ここで表明して私の話を終わらせていただきたいと思います。(拍手)

【大下敦史氏追悼画像】

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(2010年10月23日「映像とシンポで日米安保体制と沖縄の自決権を考える」集会であいさつをする大下敦史氏)

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は8月3日(金)に更新予定です。

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今年の1月3日、前・情況出版代表大下敦史氏が逝去された。享年71歳。
大下氏を偲んで、6月17日(日)東京・神田の「学士会館」で「大下敦史ゆかりの集い、追悼!記念講演会」が開催された。

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前回のブログでその集いの概要を掲載したが、今回は集いでの山本義隆氏の記念講演の概要を掲載する。山本氏の講演は「50年前のこと」ということであったが、「1968年という時代と東大闘争を語る」というタイトルを付けさせていただいた。

【「大下敦史ゆかりの集い」記念講演 2018.6.17 於:学士会館
―1968年という時代と東大闘争を語るー   山本義隆】

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福井紳一(司会)(60年代研究会)
「元東大全共闘の代表である山本義隆先生からお話をいただきたいと思います。山本先生は、10・8山博昭プロジェクトにずっと関わっていただき、そして、その中心でずっと動いていただいたんですけれども、ここにいらっしゃる辻さんと佐々木さんがベトナムに行った時に、ベトナムの戦争証跡博物館で展示をやるという話がありまして、それは大変な話だ、できるのかということで、プロジェクトのシンポジウムの時に山本先生に横に呼び出されまして、『そんな大きなことを引き受けちゃったけれど、彼らにそんなことできるわけない。やるのは俺になる。腹を決めた。手伝ってくれ』というお誘いがありまして、それで『60年代研究会』みたいな名前を付けながらも、山本先生は、ベトナム反戦戦争のさまざまな資料蒐集、関係者の聞き取りをずっとなさってきて、あの膨大な展示も、実はもう気付かないうちにパネルもほとんど山本先生が手作りで作っれた。ものすごく器用な方で、それで2016年に根津でまず(展示を)やる、それから京都精華大学、去年、(ベトナムで)『日本のベトナム反戦闘争とその時代展』をやりました。そして大下さんと一緒にベトナムを訪問しました。
では山本先生お願いいたします。」

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山本義隆(科学史家・元東大全共闘代表)
「今、紹介していただいた山本です。大下さんとは、今の話にありましたように、ベトナムに一緒に行っていただいて、その時、大下さんが相当病気が進んでいると聞いていたので、ベトナムのツアーの時にしまったなと思って、ツアーのメンバーに一人医者を連れていくべきだったと、これは大失敗だと思ったんですが、無事、何事もなく帰ってこられて、正直ほっとしました。。
今、大下さんのいろいろなエピソードが出ましたが、一つだけ言いますと、最後の日の夕方に、チェックアウトしてロビーに集まって、そこからバスで空港まで行くということになっていて、夕方に僕はもちろんチェックアウトしてロビ−に降りて行ったら大下さんがいて、話をしていたらどうも話がおかしいので、もしかしてと思って『大下さん、今日帰るの知ってる?』と言ったら、『え!?今日か?明日と違うのか?』と言うので『冗談じゃない、すぐ部屋に帰って荷物をまとめてチェックアウトしろよ』と言った。そういう堂々たるところがあった。もう一つは、ツアーの準備をバタバタしていたので、細かなところまで行き届かなかったので、機械的に部屋を割り振ったら、大下さんの部屋が禁煙ルームになってしまって、彼はものすごい喫煙家で、夜中の12時過ぎにロビーに降りていったら、ホテルの前でタバコを吸っている。それくらいタバコが好きで、もうちょっと気を使っておけばよかったと思ったんですが。大下さんは、本当によく体を押してベトナムまで来てくださったと思う。それだけで本当に感謝しています。

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今日、大谷さんから10分くらいしゃべれと言われて、テーマと言われて、苦し紛れに『じゃあ、50年前のことにしてくれ』と言って、本当は、この1週間ほど、きちっとそれなりにまとまった話をしようと思って準備しようと思っていたんですけど、体の具合が悪くてできなくて、だからほとんどぶっつけなんでけれども、50年前に何があったかというと、今日の会の関係でいうと、『情況』という雑誌が創刊された。それで、その当時の雑誌は『朝日ジャーナル』とか『現代の眼』とか『構造』とかいくつかありましたけれども、全部なくなって、『情況』だけが残っている。はっきりいったら絶滅危惧種みたいなものですよ。それが50年残ったというのはすごいことだと思うんです。そこは大下さんの力はすごかったなとつくづく思います。よく絶滅危惧種を保護して下さったという感じです。

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(写真:情況創刊号)
それで、『情況』の創刊が6月頃だったと思うんですけども、『情況』が成功した理由は何なのかというと、はじめ『情況』ができた時には、清水多吉とか、いくつか論壇の物書きさんが書いていたわけですよ。編集者の古賀君には、ちょうど6月から東大闘争がはじまっているわけですけれど、安田(講堂)に来て、『おい。山本、何か書け』と言って、それで僕が8月27日に病院の赤レンガ館封鎖闘争というのがあって、直後で、『バリケード封鎖の思想』とかいう題だったと思いますが、11月に(『情況』に)出たんです。それがはじめての東大闘争についての現場からの報告だったと思うんですけれども、要するに言いたいのは、『情況』が成功したのは、そういう既存の物書きさんに依存するのではなくて、現場の、僕もそういう雑誌に書いたのははじめてですよ、もちろん僕の名前は誰も知らんですけど、雑誌買ってもこれ誰だという話になるわけですけれども、そういう既存の物書きさんではなくて、現場で運動している人間に書かせたということが『情況』の少なくとも成功の大きな理由だったと思います。ということは、もちろんそういう現場があったということなわけです。なければ、そんなことは書けっこないわけで。

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(写真:1968.6.17 東大)
どういう現場があったかというと、ご存知だと思いまけど、50年前の今日、何があったかというと、今日は東大に1,200名の機動隊が入った日なんですよ。もうちょっと話を広げて6月初めくらいから言いますと、6月2日、九州大学の建設中の建物に米軍のジェット機が激突したという前代未聞のことが起こっているわけです。

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(写真:九大)
それで6月11日に日大で1万人の集会があって、そこに武装した右翼が襲撃しているんですね。日本刀も持っていました。屋上から砲丸とかスチールの机を投げ落とすんですから。そこに機動隊が来て、大衆は拍手したんですよ、右翼を取り締まってくれると。ところが取り締まられたのは全共闘の方だったので、初めて正体がわかった。それがきっかけになって、法学部のバリケード封鎖をやったのが11日です。その次の12日、日大経済学部をバリケード封鎖した。そこから事実上、立て続けに全学バリケード封鎖に入っていくわけです。

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(写真:「反逆のバリケード」より)
それで6月10日に、東大の医学部全学闘、ブントの諸君ですが、律儀なことに東大当局に対して、本部封鎖も辞さず闘う決意があるということを文書で渡しているんです。そんなこと、わざわざ大学当局に言っとんたんかと、僕はあとで知ったんですけれど。それで6月15日に、東大医学部全学闘と医科歯科大、まあ医学連のブントの諸君ですが、安田講堂を占拠した。それで6月16日に、教養学部の自治会選挙でフロントが勝ったんです。これは他の党派の諸君があんまり評価しない、言わないですが、僕はあの時にフロントが勝ったということは、正直ものすごく大きかったと思います。もし教養の正副委員長が民青だったら、ものすごくやりにくかったと思います。それで、15日に6・15の統一行動があって、僕は大学院でベトナム反戦会議代表なんですけれども、そのいろんな大学院の組織を糾合して、大学院の200人くらいで6・15の統一行動に行っているんですね。それで医学部の諸君が安田講堂占拠に入ってすぐ戻ってきて、17日に大学院中心にして全学闘争連合ができて、これは東大の中で大衆的な全学組織ができたのは初めてなんです、それが一番早かったのが大学院なんです。各学部とか教養学部とかじゃなくて。それ以降、全闘連と青医連が、実際、東大全共闘の中心部隊になっていきました。

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それで26日に文学部が革マル派の主導でストライキに入りました。これも実際、ものすごく大きかったと思います。やっぱり、文学部が鉄壁のストライキをやったということはすごく大きかったと思います、本郷では初めてです。それで27日に経済と大学院が無期限ストに入っている。だから大学院がかなり重要な役割をしていたんです。
それで、今でも覚えていますけれども、6月28日に総長の会見というのがあって、総長は30分と言って、体の調子が悪いから一時引っ込みますとか言ってそのまま帰ってこなくて、僕らは一時引っ込んだんだから待っていようという話で、戻ってこないのはわかっていましたけれども、待っているという口実で、そのまま占拠していたんです。それで、すぐに安田講堂を再封鎖しようといって、その時に、民青の諸君は機動隊導入の挑発行動をやるなと言っていたけれど、大衆的にはあまり入らなかったです。なぜかというと、民青は全学組織である中央委員会、医学部と文学部以外は民青がとっとったわけです。持っていたくせに、1月から医学部の処分反対闘争を何もやらなかったじゃないかと、お前らが孤立化させたんじゃないか、という論理が大衆の中にものすごく入っていたですね。それは、実はその前の年から始まっていたんです。
なんでフロントが自治会選挙に勝利したかというと、10・8闘争からなんですよ。さっきの大下さんの話にありましたけれども、10・8闘争があって、次の11・12闘争をどうやるかというのを、三派全学連の偉いさんがいろいろ相談した、僕は全然知らないですが。ちょうど11月12日に駒場で駒場祭をやっとったんですね。そこに全部部隊を入れる。東大の教養学部というのは、井の頭線の駅の改札口まで大学の構内なんです。ということは、大学の構内からそのまま電車に乗れるわけです。ということは機動隊がそこに入れなかったんです。それに目を付けたんだと思うんですね、どの党派のどの偉いさんか知らんけれども。だから11月12日の第二次羽田闘争は、前の晩から、駒場祭をやっている最中に三派全学連の部隊が全部入って、軍事訓練をやって、次の日の朝、井の頭線の駒場東大前駅から出て行ったんですね。その時、駒場祭の委員会を主導していたのがフロントだったわけです。当然民青は相変わらず誹謗しているわけですけれども。その時に、10・8闘争でお前ら何もやらなかったじゃないか、という民青の諸君に対する非難というのは当然出てきているわけです。それは大衆的にものすごくあったけれど、三派全学連まではやれんという感じのフロントは支持していたんですよ。だから漁夫の利をしめたといわれているんですけれども、そういう雰囲気がやっぱりあったと思います。

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それで、僕らは6月28日の時に安田講堂を再封鎖しろといって、この話しをするのは初めてなんですが、内幕を言うのは、だいたい全闘連、青医連はもちろんやる、それから解放派の諸君もやる、ブントは第一次闘争でほとんど消耗していなかった、革マルは7月5日の代議員大会が終わってから封鎖、僕らは絶対に代議員大会の前にやらなければいけない、フロントは7月ではなく9月からやる、それで延々10時間くらい議論したです。その時に、その議論をリードしたのは解放派のF君という、これはものすごい迫力でした。何が何でも俺がやると、俺一人でもやるみたいな雰囲気で、それで革マル派も含めてみんなを全部説き伏せて、あれは見事なものだったです。それで『じゃあしょうがないやろう』ということで、朝まで議論やって、その晩、封鎖実行員会を作って、7月2日に封鎖したわけです。
その時に僕らはFに言ったんですよ、『封鎖した後、どうするんだ』。何もイメージないですよ。要するに本部を封鎖するという打撃しか考えていない。そうじゃないだろう、僕らはむしろ占拠だ、だから本部封鎖、講堂解放という、それでいかなければ絶対ダメだ、講堂を大衆に解放しろと。それで、実際、その次の日から何があったかというと、本部の事務職員というのは文部省直轄です。だから上の偉いさんから職員に対して安田講堂に行かせるわけです。昼になって職員が押しかけてくるわけです、自分の荷物取りたいとかなんとか言って、それを結局、粘りに粘って撃退していたのは、大学院と青医連なんです。党派の諸君は何もやらなかった。僕らは本当に自発的に集まってきたんです。それで玄関前でやりとりして、『じゃあ私たちが荷物を取ってきますから』なんのかんの言って、毎日2時間3時間それで粘られて、それを10日くらい繰り返して、結局、向こうはあきらめたんですけれどね。封鎖というより占拠闘争、オキュペーションです。それはその当時、本郷、専門課程のあるところですけれども、それ全体を中心になるところがどこにもなかったから、あれを解放したというのは、ものすごくよかった。
何でもかんでも入れる、来た人は全部入れていくようにしてという、その時に理論というのは、ベトナム反戦闘争と同じなんで、50年代の反戦闘争というのは、日本が巻き込まれると、朝鮮戦争に巻き込まれるというのだけれども、60年代末のベトナム反戦闘争というのは、日本がアメリカのベトナム侵略を支えている、経済的にも軍事的にもですよ、はっきりいえば、基地を提供しているんだから、それを露骨に示したのが九州大学の事件であり、加担しているんだと、それをどうするのかという論理が大衆的にものすごく入っていった。ということは、そういう論理を受け入れる大衆的な健全さがあったように思うんです。それと同じで、安田講堂再封鎖、もちろん民青はものすごく誹謗するんだけれども、じゃあ一体、何で医学部の諸君が1月からあれだけ苦労してきたんだと、俺たちはそれを知らんぷりしてきたんじゃないかと、そういう議論でやっていって、医学部の教授会というのは、今の安倍政権と全く同じです。明らかに間違っている、ウソをついている、みんなわかっているけど認めない、全くあれと同じですね。処分者のアリバイから、実際に大学の医学部の講師までが現場に行ってアリバイを認めている、だけれどもそれを認めようとしない。それは今の安倍政権と同じなんですけれど、そういうことを認めてきた他の教授会は何なのかというのが、各学部で議論になっていったわけです。法学部の偉い先生が人権だ何だと偉そうなことを言っているけど、あんた何を考えているんだと、こんなことが大学の中で許されていいのか、そういう風に各学部単位でいろいろやって、それで雰囲気がものすごく変わっていったと思います。
僕らは初めは、8月の10日もしたら機動隊が入ると思って余裕がなかったですけど、今から考えると、もっと余裕をもってやっておけば、安田の中を徹底的に探して、いろんなものがあったんだから、それを全部外に持ち出してどこかに隠しておけばよかったと思うんだけど、そんな余裕はとてもなくて、明日機動隊が入るかもしれない、そんな具合だったですから、おしいことしたと思っていますが。
8月の5日過ぎてから、東大全学共闘会議を結成して、『東大闘争勝利のために』というパンフレットを作った。8・10告示の批判も含めて、青医連のM君と法学部の解放派のF君と僕の3人で作ったんですけれど、それを全学生に配ろう、どうしたらいいか?いろんなことを考えたんですけれども、結局、印刷する金を集めるしかないということで、金を集めて全学生に配ったです。そこにS君が書いた『はじめに』に、僕は今でもちょっと覚えていますけど、『資本制百年の汚辱にまみれた東京大学の歴史』とあって、その時はじめて、そうだ1968年というのは明治維新百年なんだと、その時まで気が付かなかったんです。

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そんなんで、9月過ぎたらやっぱり雰囲気が変わってきて、その間、いろんな学生が入ってきて、我々と議論して、それで各学部で教授とやりあって、10月11月頃になると、僕らの意識では処分問題はもちろんあるけれども、大学の制度をとやかく維持ということは問題でなくなってきてたような感じがするんです。そもそも東京大学って何なんだと、何をやってきたんだというのが僕なんかにしても大きかったですね。それで産学協同という、解放派の諸君が産学協同とよく言っていたので内容を聞いてみたら、教育レベルでのとか言っているんだけど、そうじゃないだろうと、本当は研究室レベルなんです。産学協同というのは、特に工学部、農学部、薬学部、医学部、理学部の一部もそうです。もう露骨に産学協同なんです。要するに国策大学なんです。それが問題なんだというのが、僕らが一番意識しました。だから、11月頃にMLの諸君が『東京帝国主義大学解体』というスローガンを初めて言って、これはMLの諸君が言い出したんですね。それで僕は何か腑に落ちるところがあったんです。こんな風に、各党派、いっぺんくらいいい事やっているんです。革マルも安田講堂から逃げたとかいわれていて、やっぱり文学部のストライキを、ほとんど鉄壁のストライキですよ、維持したのが大きかったです。けしからんのは内ゲバを始めたこと、解放派を襲撃したことです。これは本当に、今考えてもはらわた煮えくりかえるくらい不愉快です。お前ら何考えてるんか、バカという感じですね。そんなんで、僕らにとっては民主化がどうとかこうとかというレベルではなくなって、構造化された大学の問題なんだ、ということが少しずつ意識されるようになってきた。

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プライベートな話をしますが、僕はドクターの3年で、ドクター論文を書くことになっていたので、8月の状況が落ち着いてから安田講堂で計算しとったんですよ。それで、僕の研究室から5人、僕の研究室の素粒子研というのは大研究室なんですよ、5人が安田講堂の出入りしとったわけです。それで僕は研究室に全然戻っていなかったから、途中で気が付いて、一人ひとり各個撃破で教授に呼び出されておった。僕は2人目に気づいて、これはまずいと思って、すぐに研究室に戻って、何をするかというと、教授が呼び出してくるのを待っとったんですね。僕の本当の教授というのは、たまたま外国に行っとって、代わりのボスに呼び出されて、向こうは震えとるんです。手が震えてタバコ出して『吸うか?』というので『いいです』。『君、今何している?』と言うから、物理の教授と大学院生の間で『何してる?』といえば、こういう研究をしていますという話になるわけです。だから、黒板に計算したんです。3行くらい書いたら『もういい』と言うので、失礼な奴だと思って、ようやく向こうも『君は安田講堂に出入りしているだろう』『ああ、しています』『そういう大学院生は研究者として認めない』と言う。あっけにとられて、研究者というのは教授に認められてなるもんやと思っていなかったから、『研究者として認めないというのはどういう意味ですか?』と聞いたら、『共同論文は書かない』。僕はそれまで教授と共同論文を書いたことないですよ。いくつか論文書いていますけれど、全部単名で書いています。教授とやったことはない。もう一つは『外国の大学に推薦状を書かない』。言外に『俺が推薦状を書いたら一流の大学に行けるぞ。お前の本来の指導教官だったら三流だからできない』と言っているんだなと。『わかりました、本気で言っているんですね。じゃあみんなの前で言ってください。全部集めて下さい』、大学院生は30人くらいいます、僕は30人くらい集めました。『先生はさっきこう言いいましたね。こう言いましたね、共同論文書かないと言いましたね、研究者として認めないと言いましたね、外国への推薦状を書かないと言いましたね』。大学院生はみんな怒り狂って、いくら何でもそれはないでしょうというので、結局、僕の研究室ほとんど全部安田講堂支持になっちゃったんですけどね。その直前までドクター論文書いとったですが、研究室にはもう戻らんと思ったです。

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そういうことがいっぱいあって、封鎖闘争というのも戦術的なものじゃなくて、そういう学生なり大学院生の気持ちなり、今までの考え方を変えていく解放空間だったと思うんですよね。さっき『情況』に初めて書いた論文が8月27日の病院の赤レンガ館封鎖と言いましたけれど、赤レンバ封鎖は誰がやったかというと、基礎病院連合実行委員会という、お医者さんと研究者が中心となった封鎖闘争なんです。その後、赤レンガの封鎖は実は20年以上続いたと思います。そこで、精神神経科の開放治療を続けていたんです。だから、そういう風ないろんな内容を持ていたと思うんです。だから、言いたいのは、10・8闘争から始まったけれど、あの学園闘争は、それまでの党派に集約されたような論理に納まらない内容を、さっき、重信さんのメッセージの中に68年ブントが持っていた豊かな総合性みたいな言葉がありましたけれども、そういう内容を持っていたんじゃないかと思うんですね。だから、それまでの左翼というのは、近代化して生産力が向上したら、資本主義では矛盾が起こるけれども、社会主義ならばいいみたいな、非常にシンプルで、何というか、そのためには共産党なり前衛党は権力を取らなければいけない、逆に言うと、そういうところが権力を取ったら何でもかんでも解決するみたいなところが、50年代はそういうところがあったんですよ、60年代を通してそういうことでは解決できないんじゃないか、そんなことじゃないんだ、それはソ連の様相を見ても中国の様相を見てもわかってきたし、唯一絶対正しい前衛党があって、それが勝つことがまず第一で、そのためには少々のことは我慢しなさいみたいな、でもそういう話はないんじゃないか、やっぱり東大の問題にしても地域開発の問題にしても、全てのことに正しい前衛党なんてあるわけないじゃないか、これは60年直後はまだそういう幻想はあったですね。60年安保闘争の総括というのは、本当の前衛党を作らなければいけないみたいなものがあって、僕なんか半信半疑で斜めに見とったからあれですけれど、そういう意識がずっとあって、68年の闘争というのは、本当のところをいうと、そういう風な、もっと広がりのある運動、たとえば共産党なんかでも、我々にあれだけ敵対したのは、彼らは70年代中期に民主連合政府ができると信じとったわけです。そうなると一番じゃまになるのは左の部分であるというのがあったと思うんですよ。ものすごい危機感を持っていたと思います。そういう意味で、住民運動であれ何であれ、一番大事なのは、そういう指導的な前衛党が力を伸ばすことなんだという論理みたいなものが、それでは解決せんと、そういう問題の立て方をしてはあかんのちゃうか、というのが、僕らがあの時に感じ取ったもので、結局、68年革命というのは、そういう風な広がりを持って、それが挫折したと言わざるを得ないけれども、そういう風に思っています。だから内ゲバの問題なんかでも、詰まるところ、そういう前衛党の幻想みたいなものがあったんじゃないかと思います。そうじゃなければ、あんなことできっこないですよ。僕なんかとてもついていけないですよ。何でかというと、絶対的に正しいなんて思えない。そんなことあるわけないと思っているから。その場その場で、実際に運動に関わっている人間が、その問題の前衛党なんだ、前衛なんだと考えるべきなんだと、僕はずっと思っているんです。

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この間、10・8山博昭プロジェクトで、たまたま山博昭君が僕の高校の後輩だったこともあって、それから水戸喜世子さんに言われて、水戸さんに関しては、水戸巌さんがまだ核研におられた頃から知り合いで、米軍資金闘争をやった時からの知り合いで、本当に水戸さんという人はすごい人だと思っていますけれど、初めて米軍資金闘争をやる時に、教養学部の会議室に集まった時に、水戸さんが来られて初めて会って、それで本郷に帰ってきて助手にその話をしたら、『そうか、水戸が来とったか。ほんならこの闘争は本物になるな』と言ったのを今でも覚えています。すごい人だったです。それで10・8羽田闘争の直後に、僕は水戸さんのお家まで行って救援の手伝いを始めたんですけど、もう少し話を広げますと、あの68年のいわゆる新左翼が生んだものの一つとして救援運動があるわけです。それまでは、共産党の救援運動というのがあったわけですけれども、あれは党派の方針を支持する者しか救援しないという。それを水戸さんは、そういう政治信条を離して、権力に弾圧されてきた人は全部救援しなければいけないと、それを貫いた人なんです。それで、その救援運動が実に50年続いてきた。これは新左翼の最大の遺産の一つだと思います。あの頃はゴクイリイミオオイとみんな覚えたけれど、それが今でもまだ残っている。救援運動を続けている、本当に政治信条を越えて権力からの弾圧は救援するという思想を貫いてきた。僕はこれはものすごいことだと思います。
この間、10・8山博昭プロジェクトの中で議論していたんですけれども、10・8闘争の救援から始まった水戸さんの始められた救援運動は、ちゃんとその意義とその歴史を語り継ぐべきではないかと、つくづく思っております。だから、ここのところ、そのことをやりたい、やるべきかなと思っています。
『情況』が50年、絶滅危惧種が生き残ったということですが、救援運動は絶滅危惧種になっては困るので、我々が誇っていいあれで、それやってきた水戸さん、山中幸男さん、本当に頭下がります。立派だなと思っています。
そんなことで僕の話、まとまらないで申し訳ないですが終わります。
(拍手)

※ 当日のもう一つの白井聡氏の講演内容は、別途、ブログに掲載する予定です。

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は7月20日(金)に更新予定です。

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今年の1月3日、前・情況出版代表大下敦史氏が逝去された。享年71歳。
大下氏を偲んで、6月17日(日)東京・神田の「学士会館」で「大下敦史ゆかりの集い、追悼!記念講演会」が開催された。今回のブログはその集いの概要を掲載する。

【当日の呼びかけ文】
大下敦史ゆかりの集い、追悼!記念講演会/懇親会(2018年6月17日)
前・情況出版代表の大下敦史が逝ってから6か月が経ちました。
彼は「情況」誌を引き継いでから約20年、厳しい活字離れ、出版業界の中で、また、論壇の急速な右傾化の中で、いわば孤高を保って「情況」を守り出版を続けてきました。
新自由主義が跋扈し,思潮においても、現実の運動においても、「情況」が出発した“68年”当時と様変わりし、“体制変革”志向の衰退するなかで,松明を掲げ、知識人、運動家の輪をつないできました。
そして、リーマンショックと2011年以降の世界同時の新たな運動の波の中で、「情況」を通してそれを解析し、また運動の輪を広げるチャレンジをしてきました。その途上の死でした。残念であっただろうと思います。
そのような大下敦史を偲び、生前ゆかりのあった山本義隆氏、白井聡氏の協力を得て両氏の講演を交えた追悼会/懇親会を2018年6月17日に開催いたします。ハワイ留学中の愛娘、朝子さんが帰国しているこの時に開催することをご理解頂き、ご多忙かと思いますが皆様方のご参加をお願いします。
(呼び掛け人代表  新開純也)
共同発起人  大谷行雄(義弟) 大下朝子(長女)
呼び掛け人  山本義隆 白井 聡 新開純也 米田隆介 表 三郎 末井幸作 山中幸男

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【式次第】
第一部 講演会 
 司会挨拶  辻 惠/福井伸一
発起人 開会挨拶と謝辞  大谷行雄
呼び掛け人 挨拶  米田隆介
重信房子メッセージ代読  山中幸男
追悼メッセージの紹介  福井伸一
記念講演    白井 聡
記念講演    山本義隆
呼び掛け人 挨拶  新開純也
発起人の閉会挨拶と謝辞  大下朝子

第一部

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辻 恵(司会)(弁護士:10・8山博昭プロジェクト)
「大下さんは昨年8月の10・8山博昭プロジェクトのベトナム・ツアーに参加されました。そういう縁もあり、今日司会をさせていただくことになりました。最後の頃、新しい政党を作らなければいけない、政党、政党と、どういうイメージで仰っているのかと思って、もう一歩深い話ができないままにお別れになってしまいました。大下さんが『情況』誌を拠点に、日本の50年代60年代以降の様々な闘いを、しっかりと次につなげるための孤塁を守ってきていただいたということを、私たちはきちんと胸に刻んで、(今日の集いが)これからも頑張っていくという誓いの場でもあればいいと思います。
最初に、発起人を代表して大谷行雄から皆さま方にご挨拶させていただきます。」

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大谷行雄(発起人)
「大下の義理の弟の大谷行雄でございます。よろしくお願いします。
本日はご多忙な中、亡き大下敦史の追悼記念講演会にお越しいただきまして心より感謝いたします。先月末に大下の長女、朝子が出生地に出向き、菩提寺に無事納骨を済ませました。
会の呼びかけ人、世話人、その他協力をいただいた方々に深くお礼を申し上げます。中でも特にお礼を申し上げたいのは、山本義隆さんです。いうまでもなく、山本さんは全共闘のリーダーとして、そして大下はブントの指導部の一人として、同じ時代を闘ってきたわけですけれど、聞くところによれば、あまり2人の接点はなかったということです。ただし、昨年の山本さんがリーダーとなって推し進めてきた10・8山博昭プロジェクトのベトナムの展示会に、大下が参加したことによって、同志的きずなというか、大下の意気に感じていただいたのか、山本義隆さんがお話をしていただくことになり、大下も非常に喜んでいるのではないかと思います。
この会に向けて、大下とゆかりのあるいろいろな人に声をかけました。鳩山由紀夫元首相が呼びかけ人の参加に賛意を示してくれました。『海外にいるためにここに参加することはできない、残念である』というメッセージをいただいています。また、60年安保闘争を代表する蔵田計成さん、篠原浩一郎さんもここに来ていただいています。それと、私を含めて、元高校生活動家であった諸君にも来ていただいています。また、大下の高校の同級生も3名来ると伺っています。これが大下の人徳であって、人脈の広さでもあると、私なりに確信しています。
ご臨席の皆様、本日は感謝いたします。どうもありがとうございました。
最後に、今回の純益は、残された一人娘、二十歳の大下朝子のカンパに当てたいと思いますので、皆様のご理解と異議なしの言葉をいただきたいと思います。」
(会場から「異議なし!」の声と拍手)

<ビデオ上映「10・8山博昭プロジェクト・ベトナムツアー」の記録映像を編集したもの>
【大下さんの発言】

〇ベトナムツアーについて
「歩ける状態じゃなかった。あと4ケ月で何だかんだといわれていたから。4ケ月間寝てたんだけど、4、5、6、7月まで目いっぱい寝てたんだけど、7月の途中からね、8月のこれ予定していたから、俺絶対来るって言ってたから、7月の中頃から歩く練習を始めたんだよ。今まではスーパー行ったり駅に行ったりという程度だったんだけど、そんな短い10分程度の距離じゃなくて、何しろ1日数時間歩くというので、足腰鍛えたんだよ。今回、普通に動いても何とか足引っ張ってないでしょ。一応、これだけは人生の区切りだと思って僕は来ているからね。
ベトナムというのは1975年から45年以上経っているでしょ。それが今どんな現状なのかって見たかったのよ。これが大きいよね。一番驚いたのはオーバートバイの数。あれ暇な連中でしょ、はっきり言って。オートバイに乗っている連中は。あれが今後どう変わっていくのかね。本当はハノイに行きたかった。
ここに来てベトナムの人の意見聞いてみて、あっ、そんなにすごかったんだと初めて知るようなことの方が多かったね、今回は。それは驚きでしたよ。我々、日本でアメリカのベトナムのはよくないと、その前、フランスのことは俺なんか世代的に知らないんだよ。50年代の初期でしょ。17世紀くらいからもう反フランス闘争ずっとやってて、穴掘って潜ったところ何だったっけ、あれを17世紀くらいからずっとやってたと思うんだよね。だからベトナム人というのは、ほとんど反植民地闘争を伝統的にやってきた集団だから、これはすごいと思ったね。ベトナムみたいなちっちゃい国で、アメリカなんかに勝てるなんてなかなか思ってもいなかったからさ、我々はね。」

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〇これが記録に残った大下さんの最後の言葉となった(インタビュー)
「1968年の闘争について
10・8で68年革命が起きたんだよ。日本的な意味のね、大衆運動が起きた。それまでは党派による、60年安保だったら共産党と安保ブント、党派が大衆運動を作る、社会党も含めてね。ところが10・8の三派全学連がやりだして、学生たちが党派と関係なく動き出したんだよ。反戦青年委員会みたいなものも登場したしね。党派があるんだけど、党派主導だと人数なんか少ないじゃないですか。それが膨大に広がったというのは全学連運動の成果だよね、あれは。
Q 10・8が大衆運動の出発点だった?
左翼勢力というのが、まだ60年代は強い時代だった。同時に三派全学連みたいな形の大衆運動が起きて、そのあと、内ゲバなんかでよくいわれないけれども、でも、あの大衆運動は純粋にうまくいったんだよ。そうすると、今度はそれを中心にした新しい学生の人たちの動きが膨大に全国的に広がって、これは全国全共闘になっていったわけ。山本さんなんかがヘゲモニーを持ってやっていって・・・
Q なぜそのタイミングだったのか?
これがね、俺なんか当事者として集団の中にいたけれども、あれよあれよという間に周りが変わっていくんだよ。自分たちがやったという思いもあるんだけど、それを越えてね、自分たちの意志と関係なく大衆運動が広がっちゃった。ベ平連とか市民運動、佐世保闘争なんかすごい全国運動だったからね。68年の1月。10・8は67年の10月8日でしょ。だから数ケ月後。だから山君だってまだ1年生だからね、あの当時。中核派だなんだかんだって関係ないからそういうことは。全学連のメンバーが亡くなったということで皆一斉に動いたわけだから。現地闘争で体を張ってぶつかってやったという、これが大きかったね。しかも全学連運動だから、あまり党派運動色がないんですよ。学生たちがその闘いをやっていると。だから60年安保みたいなところがちょっとあるんだよね。だからあれが党派だけでやっていたら、あの影響は生まれなかったと思うよ。」
<ビデオ上映終了>

辻 恵(司会)
「昨年の8月20日(ベトナム・ホーチミン市戦争証跡博物館での展示会の)開会のセレモニーがありました。19日に関東から25名、関西から25名、それぞれ訪越団を組んで、現地で50人、現地に直接集まられた方を含めて60名で8月20日のセレモニーに参加して、2ケ月の予定で山プロジェクトと、ホーチミン市の戦争証跡博物館の共催で、『日本のベトナム反戦闘争とその時代展』というのを開催しました。年間70万人の参観者がいるということですけれども、2ケ月間の予定が1ケ月延長になって、11月15日まで延長して欲しいと博物館からいわれて、結局、3ケ月弱の間に23万人が、この日本のベトナム反戦闘争の展示会をご覧いただいた。そのうちの20万人は海外からの、主に欧米からの参観者であったといわれています。この展示会は、日本でも一昨年、東京の根津と、京都の京都精華大学で展示会をやりましたけれども、今年の8月、同じくベトナムのメコンデルタ地域最大の都市カントーというところで展示会をやろうという話が進んでいます。それから、今年、(10・8羽田闘争の)51年目の集会を10月7日(日)に四谷の主婦会館で開きますけれども、アメリカ・カリフォルニア大学の准教授であるウイリアム・マロッティーさんが、『アメリカから見た日本のベトナム反戦闘争』というテーマで講演をしていただいて、来年にはぜひカリフォルニア大学で展示会をやらないかというお誘いを受けています。アメリカ帝国主義の本場に乗り込んでいって、当時のベトナム反戦闘争の展示会を開催したいと思っているところです。
そういう流れの中で、大下さんが最後にベトナムを訪れ、50年前の闘いの場をその目でご覧いただいたということは、我々もうれしい限りだと思っています。
それでは次に、呼びかけ人を代表して米田隆介さんの方からご挨拶をちょうだいします。」

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米田隆介(呼びかけ人)
「米田隆介と申します。ビデオにありました67年の10・8闘争、私は大下君と一緒に闘っていました。ですので、大下君との付き合いは、もう50年以上になります。
大下という男をいろいろ考えているんですが、まず、時間は守りません、約束は忘れます。そういう意味では日常生活上は、極めていいかげんな男でした。それに引きかえ、私は約束は必ず守る、時間も必ず守る。こういう私と大下君が50年以上にわたって友人でいられたのは何なのか、ということを今考えています。確かに私を引き付ける何かが大下君にあったんですよね。
一つエピソードをお話します。今から20年前、大下君が『情況』誌を引き受けるにあたって、『ブントの大将の島さんに挨拶をしたい。協力をお願いしたい』ということで『何とか沖縄に行きたい』ということを言い出しました。そこで、大下君、及川さん、生まれたばかりの朝子さん、それと私と私の連れあいの5人で沖縄の自宅にお伺いました。そこで豚足と泡盛の接待を受けまして、2時間ほどお話をしたんですが、島さんは大下君の希望を快諾していただきました。そういうことがあったので、今、思いますと、まず大下君は、こうだと思ったら、周りのことなど全然斟酌せずに突き進むという、身勝手なバイタリティーがありましたね。それともう一つ。こうと決めたら、自分の思っていることをストレートに相手にぶつけて、説得し、納得させてしまうという、何というか、タラシ的な情熱がありました。この二つがあったので、私は常識人なので、逆に大下君に心をワシづかみにされてしまったのではないかと思っています。
亡くなって半年近くになりますが、今の私の気持ちとしては、肩の荷が下りた、ほっとしたという気持ちと、何か心の中に大きな穴が開いてしまったという喪失感を今でも持っております。簡単ですが、私の挨拶としたいと思います。」

辻 恵(司会)
「米田さん、ありがとうございます。今日、皆さんにお配りしております式次第の中に、呼びかけ人ということで、7名の方々のお名前を掲載しております。本当は、それぞれお話を頂戴したいところですが、時間の関係上、懇親会の場で語っていただければと思います。
お配りした資料にありますが、多くの方々から追悼のメッセージが届いています。
まず重信房子さんからのメッセージを、救援連絡センター事務局長の山中幸男さんから代読していただきます。」

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山中幸男(救援連絡センター事務局長)
「山中です。代読とプログラムには書いてありますが、私の声は不適切ではないかと自ら思っておりましたので、山本万里子さんを紹介したいと思います。昨年(のベトナムツアーの時には)日暮里で大下さんと待ち合わせて、成田まで一緒連れて行って、現地に行きました。そもそも、僕が大下さんとどこで知り合ったのか定かでないんですね。ただ、大谷行雄さんの弁護士のお姉さんの関係です。重信さんの、極めて格調高いメッセージを、このあと、山本万里子さんに代読してもらいます。それから資料にありますが、「よど号事件」で北朝鮮にいる小西隆裕、最近、米朝協議もあったりして、非常ににぎわっているんですが、このままいくと、安倍晋三がまた登場してきて、「よど号」が忘れられるんじゃないかということで、小西隆裕さんのメッセージを急いて取り寄せて掲載させていただきました。あとで読んでいただければと思います。
大下さんは、一度、北朝鮮に行く手配をして行ったのですが、小西さんもメッセージに書いていますが、もう一度来ないかという話を伝えていたのですが、正直、あんまり行きたがらなかったんですが、昨今の情勢を見ると、彼が元気だったら『俺行くわ』と言い出す気がしたけれども、残念ながら実現できないこととなってしまいました。
それでは重信さんのメッセージは山本万里子さんにお願いしたいと思います。」

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山本万里子(重信房子さんを支える会)
「私は重信さんの救援の方を手伝っております。皆さまとはあまり親しみがないと思いますが、重信さんの追悼の言葉を読ませていただきます。
<重信房子さん追悼メッセージ>
大下敦史さんありがとう
明るく朗らかな便りで大下さんが胃癌の末期にあると伝えて下さったのは、去年の春だったでしょうか。驚き、癌患者の先輩として語るうちに、大下さんはそれからベトナム行きを敢行し、旅行記の原稿を送って下さり、思いきり生きている様子に励まされて、私もブント総括の方法を提案した矢先に突然の電報で訃報を知らされました。
正月の静かな病房で「大下さんありがとう」と心を鎮めながら、永別の挨拶を送りました。
同世代の社学同仲間でありながら、60年代当時、私は大下さんを知りませんでした。早稲田の村田さんは私の社学同加盟の推薦人の一人だったし、荒さんは明大や中大によく出入りしていたし、斉藤さんやあべさんら女性たちとも顔を合わせ、活動を共にすることもあったのに、大下さんとは、そんな機会がありませんでした。昨年の11月頃の便りで、私の文から小学校・中学校時代には、世田谷の隣の学区域らしいと知らせて下さいました。どうも御近所だったのですが、交流の機会には恵まれませんでした。
私が2000年の帰国時に逮捕された後、情況誌に「冒頭意見陳述書」を掲載して下さったり、かつてのブント・社学同の縁で交流の機会が生まれました。そして、パレスチナからライラ・ハリドさんが訪日された際も、共同してして下さいました。
多忙の中、短い10分程の面会にも足を運んで下さいました。最高裁の刑確定直前に、小学6年生の朝子ちゃんと共に最後の面会に来て下さって、「あと十数年なんてすぐだから」と励まして下さったのを思い出します。
マーガレットの花を思わせる楚々として美しい少女、朝子ちゃんは、お父さんが大好きで、一緒に出かけるのが嬉しそうでした。「でもね、お父さんね、時々お鍋を焦がすのよ」と教えてくれました。お父さんは「何を言うんだ!ハハハハ」と嬉しそうに照れ笑いしていました。「観念的」で「極楽とんぼ的」なところが見受けられると思っていた大下さんの印象は、朝子ちゃんの登場でなんてすばらしい親子なんだろうと、がらりと変わりました。愚痴は言わないけど、すべて苦労を寛容に引き受けている大下さん、これが大下さんの姿だと実感しました。暖かい人です。
受刑処遇の中、私が抗癌剤治療と、手術を繰り返していたころ、2015年2月、米国から旧友の城さんが強制送還され、そのまま逮捕拘留されたころのことです。
大下さんから情況誌に中東情勢の分析など原稿を書いてほしいと依頼されました。獄外には中東情勢などを書ける専門家もいるし、私の友人たちも書けるでしょう。それに獄では、資料入手も不十分だし、検閲で時間もかかるし、受刑処遇では無理と返事を一度は返しました。彼から再び依頼があったころ、私は、3月警視庁と検察庁の任意取り調べがあり、拒否しました。
それから1週間程して、突如、病房に「ガサ入れ」が入りました。4人の公安刑事が、狭い独房を1時間以上にわたって捜索を行いました。何という嫌がらせでしょう。憤りと共に、「まてよ・・・彼ら公安は私を『現役扱い』している。それなのに私は、受刑処遇に甘んじて受動的になっているのではないか?せっかく現役扱いされるのなら、それにふさわしい仕事をしなくちゃ!」と目覚めさせられました。
こうして、大下さんの誘いを受けて、情況誌に2015年から中東情勢について書き始めることになりました。大下さんの寛大な原稿受け入れに気を良くして書きだすと、書きたいことが溢れ、書くことがとても楽しくなりました。大下さんありがとう。機会を与えて下さってと、お礼を伝えました。
情況誌は1968年のブントが主導した8月の国際反戦集会(米・仏・独からラジカルな代表が参加した画期的な集会)にむけて、春から出版を準備し、変革のための総合誌として企画されたものです。当時私は、明大の文学研究部で「駿台派(すんだいは)」という雑誌の編集長をしていたことを知っていた松本礼二さんと、専修の前沢さんから、この新雑誌の編集スタッフに入ってほしいと誘われたことがあります。ちょうど卒論で多忙で、また、社会批評や革命論は私の任ではないと辞退しました。当初は、詩や文学論なども考えていたので、私を誘ったそうです。そんな50年前になる因縁を思い返しながら、大下編集長の下、情況誌に楽しく書かせて頂きました。
68年に、ブントが描き、持っていたあのような変革の総合性は、いつのまにか政治主義に狭められ、更に権力問題から、軍事へと短絡していきました。ブントの多様な連合性を否定し、マル戦派排除にはじまる「純化」過程は、「7・6事件」の過ちから「連合赤軍事件」へと自己対象化しえぬまま進み、敗北していきました。
大下さんは、ブントを愛した人々の思いを、情況誌の中に受けとめ続けていました。大下さんは、良くも悪くもブントを代表する一人だったと、しみじみ思い至ります。
共にブント総括を語り尽くせなかったけれど、遅れて彼岸に向かう私は、大下さんが誘って下さったことで再発見した“書く中東”の楽しみを、これからも命尽きるまで行使していこうと思っています。
大下敦史さんありがとう。彼岸での再会まで!

獄窓の落暉(らっき)を赤旗代わりとし 歌いて葬送(おく)らんインターナショナル
リッダ闘争を思いつつ  五月三十日         重信房子

PS:今受け取った白井聡さんの新著の巻末に「本書を、大下敦史の想い出に捧げる」とあり、嬉しくなりました。
以上です。

山中幸男(救援連絡センター事務局長)
「山本さん、どうもありがとうございました。重信さんは昭島市の東日本成人矯正医療センターにいますが、このままいけば、オリンピック明けの2022年に出所予定ですので、皆さんよろしくお願いします。」

辻 恵(司会)
「いろいろな方からのメッセージをいただいていますが、福井紳一さんの方からご紹介いただきます。」

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福井紳一(司会)(60年代研究会)
「思いのこもったメッセージをたくさんいただいたのですけれども、今、全文読むことはできませんので、あとで読んでいただきたいと思います。
重信さんに続き、『大下さんを偲ぶ』?秀実さんからのメッセージ、そして椎野礼仁さん、そしてまた『大下敦史さんを追悼して』ピョンヤンかりの会小西隆裕さん、そしてまた『故大下敦史君のご逝去を悼み心からお悔やみ申し上げます』高校同級生林哲さん、それから『大下さんへ』榎原均さん、それから『大下君を偲んで』高原浩之さん、それから『大下敦史の「遺言」』村田能則さん、皆さまからいただいておりますので、集会が終わったあと、ゆっくりとお読みいただければと思います。」

【追悼メッセージ】
当日の資料に掲載されたメッセージのうち、3人の方のメッセージを掲載する。
●「大下敦史さんを追悼して」  ピョンヤンかりの会小西隆裕
大下さん・、こういう文章を書かねぱならなくなり、本当に残念です。
貴方とはもう一度お会いしたかった。会って、これからの日本のこと、闘いのこと、いろいろ話し合いたかった。
私白身、貴方とお会いしたのは、二度きりとなりました。一度目は、東大安田講堂の付近で。そして二度目は、22年前のピョンヤン。貴方は、われわれの宿所に松平さんと二人で訪ねてきてくれましたね。田宮さんを亡くし傷心のわれわれに対する貴方の思いやりが身と心にしみました。
今、情況は動いています。朝鮮半島をめぐり北東アジアが動き、その新時代の波動が日本に押し寄せてきています。貴方が人生の最後をかけようとしたアジアと日本の問題が、今こそ、いつにも増して切実にわれわれの前に提起されてきているように思います。      
日本が朝鮮に、そしてアジアに、アジアの外からでな<中からどう向き合いどう対すべきか、今問われてきている問題の大きさは、50年前、いや150年前にも匹敵し、それを超えるものになるのではないかと思われます。
貴方の無念を思いながら、ご冥福、一層深くお祈り申し上げます。

●「大下君を偲んで」    2018.6.17 高原浩之(元ブンド・元赤軍派)
昨年2月に胃癌が判明し今年1月に亡くなるまでの約1年間、医師に病状の説明を受けるのにも同席したし、折に触れて、『情況』のことや朝子ちゃんのこと、さらには塩見のお別れ会のことなど、いろいろな話をしました。亡くなった当日も直前まで話していました。
『情況』の人民闘争と結合した発展を願う
大下君の生涯では『情況』が何と言っても大きいと思います。新左翼とブンドが党派的組織的に解体した困難な時期に、人民の大衆闘争と結びつける面で『情況』と大下君は大きな役割を果たしてきました。この会が、大下君の業績を引き継ぎ発展させる出発点となるよう願っています。
新左翼とブンドは、ベトナム反戦・70年安保闘争において、社共・総評ブロックより少数ではあったが、先頭に立って人民闘争を主導した。しかし、闘争に敗北し、党派的組織的にも解体した。その原因は、依拠する社会的階級的基盤が基本的に学生に限られ(一部の青年労働者と結合したが)、この狭い基盤の上で情勢も見誤って日本帝国主義と決戦しようとしたこと、このように言えるでしょう。少なくともブンドはそうであった。赤軍派の革命戦争路線はその誤りの典型であり、その破綻が連合赤軍事件でした。
今日、グローバリズムと金融資本主義で日本資本主義の矛盾が深まる中、2015年反安保法闘争など、人民闘争が発展する情勢である。この人民闘争には数多くの具体的な課題があるが、その一つ一つに、新左翼・ブンド系の党派あるいは活動家による、「偉大な」と言うべき努力が存在していると思う。大きくは民族・女性・部落など差別の問題や労働者階級「下層」の問題で、人民大衆と結合する、プロレタリア階級の階級闘争に依拠する、こういう努力が継続した。これこそが、今日、人民闘争が発展する情勢をもたらしていると思う。
大下君の『情況』はこの新左翼・ブンド系の党派および活動家と人民の大衆闘争との結合で大きな役割を果たした。新しい『情況』がこれを継承し発展させるよう切に願います。
70年闘争世代でケジメをつけておきたい
70年闘争を闘った、新左翼とブンドの活動家の間の人間関係は、党派的組織的に解体する過程で大きく破壊された。原因は「内ゲバ」と「リンチ」、これを党内闘争と党派闘争に持ち込み、それで組織を統制し維持しようとする、革命運動を長く蝕んできた体質、と言えるでしょう。少なくともブンドはそうであった。第7回大会、7・6事件、連合赤軍事件、ブンドを崩壊させ、最後は人民闘争と革命運動に壊滅的な結果をもたらした。
大下君の『情況』は、新左翼とブンド系の党派と活動家、言わば70年闘争世代がそれぞれに連絡を持ち、その中心に位置して交流を維持してきた。しかし、人間関係の問題は当事者がケジメをつけることがやはり必要であると考えます。
今日の人民闘争が発展する情勢で、革命と革命党の問題に必ず直面するでしょう。ソ連が崩壊し中国が変質した現状からして、ロシア革命や中国革命を総括し、マルクス・レーニン主義そのものも総括し、社会主義・共産主義論を新しく構築する問題に必ず直面するでしょう。新左翼とブンドの崩壊を総括し、新しく革命党を建設する問題に必ず直面するでしょう。それは基本的には現在と将来の世代の任務でしょうが、70年闘争世代も自分たちの経験を踏まえた総括を、言わば遺言として残しておくことは有意義であろう。
しかし、「内ゲバ」と「リンチ」の問題だけは、それが二度とくり返されないよう、70年闘争世代の当事者が過ちを反省する態度を表明しておく義務があると思う。それがケジメだと思う。私は、連合赤軍事件については「塩見お別れ会」の場を借りたが、第2次ブンドから赤軍派結成に至る過程の7回大会と7・6事件の「内ゲバ」と「リンチ」についてはこの「大下ゆかりの集いの会」の場を借りて、ここに謝罪と反省を表明します。
最後に、朝子ちゃんへ、大下君の生涯に学び、しっかり自分の人生を歩んで下さい。

●『大下散史の「遺言」』    村田能則
 早稲田ブントの最初の同窓会が開かれたのは、「7.6」の分裂から、40年以上経った2010年頃。長い空白は、過酷な党派関係のせいである。党派闘争は、ブントの大きな汚点だが、早稲田はそのド゙真ん中にいたのである。各メンバーは、分裂した党派の中心になる場合が多く、同窓会など難しかったのである。
 転換のきっかけは、72年の連合赤軍の同志殺しである。左翼を震撼させたこの出来事で、運動と組織は衰退の、長い坂を転がってゆく。同時にそれは、ブント系の各組織にとって、内ゲバ否定の長い、長い道のりの始まりでもあった。一方、革共同両派、革労協系の内ゲバは、逆に連赤以降に激化し、犠牲者も急増。構改系や第4インターを除いて、新左翼系の党派は殆どが内ゲバを肯定し、実践してきた。現在はあまりに大きな犠牲と、組織の分裂・衰退のせいで、暴力行使はひと休みのようだが、内ゲバ肯定の立場は変わっていないのではないか。ブントを名乗る組織や、グループでは、現在、内ゲバを肯定、実践しているものはいないようだ。連赤排出の事実は重いが、これは評価しても良いのではないか。
 早稲田ブントの同窓会が始まると、大下や松平が連絡や運営を引き受けてくれた。大下と会って議論する機会も増えた。末期がんと闘った最後の一年間は、私が同じ病気で生き残った“先輩”ということもあり、連絡が急増した。
 大下が最後まで気にしていたのが、やはり“内ゲバ”だった。我々はよく話し合った。残念ながら「内ゲバ止揚の論理」などは、見つからない。問題の核心はそんな魔法ではなく、「実際の運動」「現実的な判断」の方にあるのではないか。「内ゲバ」は、実際の運動に、深刻なダメージをもたらす。仲間同士を出口のない争いに引きこみ、解体してしまう。一般の運動参加者は嫌悪と恐怖で、離れて行く。これは理屈ではなく、現実なのだ。
 内ゲバの頂点は、連合赤軍の同志殺しだが、それはどこから来たのか、出発点は何だったのか、語られることは少い。連赤という怪物が、自分だちとは無関係に、ある日突然天から降ってきたのか。責任逃れのためか、そう主張する輩もいるが、そうではあるまい。
 私と大下は、1968年のマル戦派との組織分裂に、重要な鍵があるのではという議論に向かっていた。組織分裂が、学生運動の高揚期に当たっていたせいで、運動や組織に与えるマイナスが、当時はあまり意殲されなかった。否、それ以上に、我々の間では、肯定的に評価されてきたように思われる。運動の退潮期であれば確実に、組織と運動は大きなダメージを受け、長期の分裂の泥沼にはまってしまったことだろう。実際には、この分裂の後、組織と路線はスッキリし、動員力も戦闘力も増強されたように感じたのである。全共闘運動が日本全国を席捲していた頃は、マル戦派との分裂を思い出すことは殆どなかった。
国際反戦闘争や、全共闘運動の高揚は、圧倒的だった。この“成功体験”こそが、党派闘争に関する間違った考え方を温存し、発展させたのではないか。「正しい党派闘争は、組織と運動を飛躍的に発展させる」という確信。これはブント全体の共通認織になっていたと考える。後に致命傷となるような棘が、そこに潜んでいるとは誰も考えなかった、これが大下の意見だった。「方針さえ正しければ、組織分裂はマイナスではなく、組織と運動を発展させる」。「正しい方針、正しい党派闘争の中では、暴力の行使も認められる」など。一言でいえば、「正しい方針(戦略戦術)」が絶対的で、この目的のためには何でも許される、こんな「教訓」を身に付けてしまったのではないか。この成功体験と傲慢さが、我々を蝕んでいったと考える。「我々は正しい方針をもっている」という確信は、間違った路線を主張する人々を、排除する権利を持つと考えられた。その後の様々な内ゲバは、この認識を変えることはなく、別の成功体験によって、更に補強された可能性さえある。その行きつく先には、凄惨な場面が待っているとは、誰も想像出来ない。誤りを止め、修正する手段を、内ゲバの成功体験の中に置いてきてしまったように思われる。
 マル戦派との分裂後、「スッキリした」我々が揚げた“正しい方針”は、「プロレタリア国際主義」と「組織された暴力」であり、それを更に深化させた(と主張する)赤軍派の「過渡期世界論・国際根拠地論」「前段階武装蜂起」によって、組織分裂が行われた。私は「63年革共同の分裂」を別にして、新左翼の間で発生した内ゲバは、全て不必要だったと考えている。特にブント系で起こぅた内ゲバは、全面的に間違っていたと考えている。マルレ戦派、赤軍派、・ぞの他大小の全ての内ゲバが、意味がなく、してはならない分裂だった。このレヴェルで分裂を繰り返しでいれば、大衆的信頼を背景とする、強力な革命党など、出来るわけがない。成熟した議論と、知恵によづて、組織の統一を継続すぺきであった。大下もこの考えに同意してくれた。とりわけ、最初のマル戦派との組織分裂の「成功体験」が残した、大きな負の遺産に注目し、点検総括そして、謝罪までやり遂げなければならないという考えで一致した。
 因みに「10.8羽田闘争」のブントの戦術方針は、マル戦派の成島忠夫氏の仕業であった。当時は、優れた経済学、組織運営の能力、献身的戦闘性など、マル戦派の長所など誰も認めようとはしなかった。塩見さんの死去とお別れ会を前後して、過去の内ゲパに対する謝罪の実例がいくつか伝わっている。しかし、マル戦派のことは誰も言い出さない。大それた革命的遺産など望むべくもないが、後世の革命家たちに“やってはならないこと”を、“やるとこうなる”という経験的資料に残すことくらいは、必要ではないかと考える。大下はこれにも賛成してくれた。文章として、はっきり残っているわけではないが、私はこれを大下の遺言と考えたい。

<このあと、白井聡氏が大下氏との思い出を語り、山本義隆氏が50年前の東大闘争について発言した。この講演内容は、別途ブログで公開予定なので、今回は内容の掲載を省略し、写真だけ掲載する。>

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辻 恵(司会)
「新開さんから、今日の呼びかけ人代表としてシメのお言葉をよろしくお願いします。」

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新開純也(呼びかけ人)
「今日は、大下の偲ぶ会に大勢の方に集まっていただきまして、本当にありがとうございました。また、山本さんの熱い思い、そして白井さんの大下に対する愛情のこもったお話をいただきまして、本当にありがとうございました。公式の私の大下に対するメッセージは、今日の冒頭の呼びかけ文に書いておきましたので、それを読んでいただくことにして、大下との付き合いについて、若干喋らせていただきたいと思います。
僕は京都におりますし、歳もそこそこ離れていますので、大下君の名前はよく聞いておりましたけれども、直接的な付き合いが始まったのは、この10数年なんですね。僕は一時ブルジョアをやってましたから、それを整理をつけてブントに復帰したときに、古賀と大下が、ある関西の集会のあと訪ねてきて、『お前は会社を辞めたのだからやることないだろう。だから「情況」を手伝え』ということで、それからの大下君との付き合いでありました。その後、僕が東京に来ますと、しばしば大下邸に泊めてもらっておりましたし、大下君が関西に来ますと、我が家に来て、安酒を飲んで、タバコをもうもうと吸いながら、延々と話をしました。その中で彼が常に言っていましたのは、一言でいえばブントの再建であります。
これはいろんな解釈があると思います。大下が言う言葉というのは、まっとうに、字ずらどおり解釈するのは間違いなわけで、彼の思いみたいなことをどうつかまえるかという、少なくとも、僕はそういう付き合いをしておりました。だから、彼のブントの再建というのは、文字通り狭義な意味でブント系の再建という風に使われたこともありますし、もう少し広げて、三派ないしは新左翼、そういう範疇での大同団結として使われたこともありますし、また、時には、山本さんが言われたような、小運動を含めた、そういう運動の発展という風に使われたこともあったように、僕は思います。だから、多くの方が大下の『ブントを再建しようや』という言葉にオルグされた、あるいは悩まされたか知りませんが、そういうことだったと思います。僕は彼の言わんとするところをできるだけ理解に努めようとしてきたわけであります。
60年安保の時は、今日来られている篠原さんとか、そういう言葉でいうと失礼ですが、大風呂敷を広げる人は結構いたかと思います。でも、僕の年下で、そういう大風呂敷を広げる人は、僕が付き合った中で2人いました。一人は大下君、もう一人は塩見です。冒頭、米田君が言いましたけれど、僕は極めてある種の原則主義者であり、ある種の常識人ですから、塩見だとか大下だとか、そういう大風呂敷を広げる人とは全く異質な人間なんですけれども、2人とも僕にとってはよき後輩で、2人ともそういう言葉で言えば愛していました。先方の大下君や塩見から見ると、僕は非常に好都合な人物だったと思うんですね。つまり、自分の広げた風呂敷が。世の常識ある人にとってどう映るか、対話したいと思ってくれていたのだと思います。そういう意味で、大下君とは10数年、彼の言うところのブント再建をめぐって、いろんな議論をしました。
断っておきますが、僕は、いわゆるブント再建なんていうことは、今はさらさら考えていません。それは歳だということもありますけれど、そいうことではなくて、例えば最近、米朝会談があったからということではありませんが、文政権を生み出した韓国の運動の構造みたいなことに非常に関心があって、いろいろ考えることがあるんですけれども、一つは文政権を生み出した『共に民主党』、それを支えているのは、ご承知のとおり、進歩連帯だとかそういう運動、そしてまた、その中に広い意味でマルクス主義を含んだグループがある、という三重構造になっていると思うんです。我々に最も必要なのは、そういう運動の構造を、現実の運動から出発して作りあげるということが必要なのではないかと僕は思っている。だからブントの再建とか、それは狭義な意味での昔のブントを含めて、新しい、共産党に代わる政党という意味での政党、そういう意味でのブントの再建というのは、考えませんけれども、そういう小運動の構造を作るためには、何らかのまとまった一定の政治勢力が必要であるということについては、僕は今でも揺るがない信念を持っているわけです。それが、いろんな小運動を糾合する構造を持たなければならないと考えています。僕は、そのことが、大下がいうところのブント再建の意味であると私流に解釈しているわけであります。その限りにおいて、私どもは大下の遺志を継いで、これからがんばっていかなければならないと思っております。私は今年で77歳になりますから、到底、そういうことを中心になってやることはできませんので、ここにおられる方が、いろいろな小運動を通じて、少しでも、そういう新しい意味での政治勢力、新しい意味でのブントをつくられるよう、私も一兵卒としてそれにやっていきたいと思いますけれども、お願いしたい、そのことが大下の思いではないかと思います。
それから、もう一つは、大下は「情況」の人なんですね。古賀のあとを受けて20年やってまいりました。世の中が右傾化して、論壇も右翼的な雑誌ばかりになっている中で、いわば孤高を保って「情況」をずっと20年やってこれた。僕は横で見ていましたからよくわかりますけれども、これは非常に大変なことなんです。ああいう人格ですから、金の苦労から、いろんな事の苦労があって、でも結局は「情況」は大下が20年を捧げたんです。そういう意味で、我々は「情況」をこれからどうやっていくのかということも考えていかなければならない。「情況」は大下の遺志を継いで、必ず守り育てていくということを最後にお願いします。そして、私も及ばずながらお手伝いするということをここにお約束して、今日のお礼の言葉にさせていただきたいと思います。
今日は大勢の方に集まっていただきまして、本当にありがとうございました。」

辻 恵(司会)
「今、新開さんが仰られたように、新たに『情況』をしっかり灯を消さないでつないでいこうという風に、皆さん意思を新たにがんばるとされているので、是非とも今日お集まりの皆さん、『情況』を支えて中軸を担っていっていただければ、本当に大下さんの思いが、今日このような場を設けたことの意味が、本当に具体的な形に現れると思います。ぜひともよろしくお願いしたいと思います。
去る6月10日に、日大全共闘の50周年の集会があって、200名以上の、元ではなくて日大全共闘の皆さんがお集まりになった。1968年ということで、いろんな本が出たり、いろんな情報が出たり、いろんなイベントなり集まりがあります。やっぱり、この50周年の中で、今、新開さんが仰ったように、昔の非常に単線的な党統一戦線とか党共同戦線とかいうのではなくて、本当に重層的な、ありとあらゆる運動を、重層的な展開をする、その中で知恵を働かせていって、本当に目にもの見せて、もう1回世の中を引っくり返すというような、そういう方向で、大下さんと一緒に、大下さんの遺志をついで、我々もがんばれればいいなと思っています。
それでは、最後に発起人の大下朝子さん、お礼のあいさつをお願いします。」

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大下朝子(発起人)
「本日は父のためにお集まりいただきありがとうございました。エピソードを用意しておいてといわれたんですけれども、日常的すぎて、特別なエピソードが思いつかなくて、むしろ逆にエピソードを教えていただきたいくらいですし、話さなくても父のことをよくわかっていると思ので、ごめんなさい。」

辻 恵(司会)
「生前、大下さんが、将来ハワイに娘と一緒に住みたい、暮らしたいとくり返し言っていたわけで、朝子さん、ハワイでがんばってやってください。
今日はお忙しいところ、100名を超えるたくさんの皆さんにお集まりいただいて、前情況代表『大下敦史ゆかりの集い』を開催できました。大下さんが20年かかって孤塁を守ってきた『情況』を絶対に絶やさないで再興していこうということを、もう一度皆さんの拍手で確認していただいて、今日の場の結論としていきたいと思います。ご確認よろしくお願いいたします。(拍手)どうも今日はありがとうございました。」

このあと、御茶ノ水の明治大学の裏にある、お好み焼き・もんじゃ焼きの店「祭」で懇親会があった。この店は、「明大土曜会」が偶数月の第一土曜の午後2時から開催している定例会の会場として利用している店である。
この「明大土曜会」は、明大に限らず、いろいろな方が自由に参加している「情報交換の場」である。最近では、元一水会の鈴木邦男氏や東京新聞の田原牧氏などを呼んでお話を伺っている。興味のある方はぜひ参加をお願いしたい。
私は体調不良で懇親会に参加しなかったが、発起人の大谷行雄氏のフェイスブックに懇親会の様子が掲載されているので、転載させていただいた。

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※ 白井聡氏と山本義隆氏の講演内容は、別途、ブログに掲載する予定です。

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は7月6日(金)に更新予定です。

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 国家権力による不当な弾圧に対して救援活動を行っている「救援連絡センター」が、来年で設立から50年目を迎える。センターは、1969年3月に故水戸巌氏が事務局長となって設立されたが、同年9月に逮捕者の救援活動のためのポケット版「救援ノート」を発行している。この「救援ノート」には、救援活動の注意事項や体験談、逮捕された時の心得などが書かれており、現在も発行されている。
私が持っているのは1969年11月22日発行の第3版だが、いつ買ったのか覚えていない。当時の定価は100円。ラーメンが70円の時代だったから、今の価格だと千円くらいだろうか。
この「救援ノート」はデモや集会に行くときはヘルメットやタオルとともに必ず持って行った。救援連絡センターの電話番号が591−1301だったことから、ゴクイリハイミオオイ(獄入りは意味多い)と覚えておくように言われていた。

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救援ノートの目次を見ると
第1部 救援活動
 第1章 差し入れ(留置場の場合)
 第2章 接見(拘置所の場合)
 第3章 裁判の傍聴
 第4章 現場での救援活動
第2部 家族の心得
 第1章 家宅捜索
 第2章 任意出頭
 第3章 家族はどうすれば一番よいか
第3部 逮捕されたとき
 第1章 デモや集会に行くときの注意
 第2章 弾圧
 第3章 黙秘権
 第4章 警察署で
 第5章 未成年者の場合
この「救援ノート」を読んでみると、単なる「心得」に留まらず、当時の状況を反映した資料であることに改めて気づかされる。そこで、この「救援ノート」の内容を何回かに分けて紹介することにした。今回は1回目として、第一部の「差入れ」の部分を掲載する。

【救援ノート 安保を闘う婦人連絡会編集・救援連絡センター発行 1969.11.22】
はじめに
反戦・反安保のたたかいは、学生・労働者・農民・市民によって、さまざまな形で、急速に、はげしく、くりひろげられています。とくに、1967年の羽田闘争以来、国家権力は、これらのたたかいに対して、催涙性毒ガスの使用、ガス弾の水平狙撃、逮捕後のリンチ、大量の不当逮捕、8ケ月にもおよぶ長期勾留、分離裁判の強行などおどろくべき弾圧を日々強化しております。また、きわめて市民的なデモに対しても、ジュラルミンの楯をもって規制し、逮捕するという横暴が日常化しています。
 私たちは、救援連絡センターの掲げる
1.国家権力による、ただ一人の人民に対する基本的人権の侵害をも、全人民に対する弾圧であるとみなす。
2.国家権力による弾圧に対しては、犠牲者の思想的信条・政治的見解のいかんを問わず、これを救援する。
という救援の基本的立場に立って、救援活動をもっともっと充実させいくために、より多くの人々に参加していただくためにその手がかりとなり、心得となるものをまとめてみました。
 この小さなノートによって、「私にもできる」自信が生まれ、「私にできる」ことからはじめていくことができればと期待します。
1969年9月

第一部 救援活動
 10.21新宿デモ、1月東大闘争以来、東京各地区に地域救援組織が自発的に生まれています。学園闘争の全国的拡大とともに、北海道、名古屋、京都、大阪、横浜にも相次いで地域の救援センターが生まれています。
 これらの組織は、逮捕され、各地区の警察署に留置された人々への差入れ、長期勾留者への接見を基調に、さらに、弾圧実態の暴露、各闘争の意味の理解などのための活動を行っています。これらの活動に参加している人々の年令、職業経歴は、全く色とりどり、高校生もいれば、主婦もおり、戦前の弾圧を経験している老闘士もいます。しかし、何といっても婦人の活動の比重が大きいのは事実です。
 この人々に共通のものは。政治的要求をもち、それを直接に、自分の存在をかけて、つきつけようとする若者たちに対して、警察力によって弾圧することしかしない国家権力に対する激しい怒りであり、また、その弾圧を、自分たちの肉体の一部に加えられたものとして感じる痛覚なのです。
 私たちの出発点は、だれにも強制されない一人一人の自発性であり、自立性です。私たちは、たとえ一人であっても自分の及ぶかぎりで、自らの一部に加えられた国家権力の圧政への抵抗として、救援活動を行うでしょう。同時に私たちは、権力の側の組織性に対して、私たち自らを組織して立ち向かう必要を知っており、地域救援会をつくり、さらに地域救援会相互間の連絡組織、救援連絡センターを作ってきました。
 ここで、のべられる救援活動は、もちろん孤立した一人の人間でも行ないえる活動です。しかし、読者の皆さんが、各地域救援組織に属し、あるいは連絡センヤーとの連絡のもとに、その活動を行うならば、その効果を十倍、百倍に高めることができるでしょう。この第一部は、そのような立場から執筆されていることを念頭において下さい。

第一章 差入れ
 ここでは、大学単位やセクト単位の救援活動ではなくて、一般市民が地域で、自分のできる範囲で、救援活動をするときの手引きとして、例をあげて説明します。
1.救援組織との連絡
 大量逮捕のあったときは、東京ならば23区にかぎらず、三多摩や隣県にまで及ぶ警察署に、何人かずつ留置されます。救援者は、センター(救援連絡センター、電話591−1301・1302)に電話して、自分の住んでいる地域の救援責任者を知り、その責任者と連絡をとります。自分にとって行きやすい警察署を確認しておきます。
 <盗聴について>
救援連絡センターに電話をかける場合、その電話は恐らく盗聴されていますから、逮捕者について問い合わせる場合に、逮捕された者の氏名、所属などわかってしまうことのないよう注意しなければなりません。事件直後には特にこのことが必要です。ですからまだ警察署にいて、黙秘している可能性の大きい逮捕者についての用件は、電話ではごく簡単にして直接センターに行って、詳しい事情を話したり聞いたりしなければなりません。救援連絡センター以外の場合でも、大きな事務所、たとえばベ平連の電話なども盗聴されている可能性が多いので、同様の注意が必要です。
 責任者はセンターと打ち合わせて、その警察署に留置された人数と留置番号を聞きます。この番号は、逮捕後すぐにはわからないことが多い。というのは、逮捕者が数百人となると、弁護士が接見にまわりきれないからです。(弁護士が接見しないうちは、人数も番号も分かりません)
 逮捕者は原則として、みな黙秘しているから救援者は、たとえ名がわかっていたとしても、差入れのときは、留置番号を使うこと。

2.差入れの用意
 人数と留置番号がわかったら、次の段どりで差入れ品を用意します。(日曜・祝日も原則としては受け取るべきなのですが、実際には、全然受け付けません。一般の差入れは5時までというのが普通ですが、日曜日にがんばって係に受け取らせた例もあります。)
(1)最初に入れるもの
〇タオル・・・1本を半分に切ります。おしぼりでもよい。タオルまたは日本てぬぐい1本の長さは、首をしめることができるという理由で許されません。
〇ハミガキ・・・かならず半ねり。チューブは、その角で血管を切ったりするおそれがあるとして許されません。
〇ハブラシ・・・何でもよい。ただし、新品。
〇石けん・・・浴用石けん。石けん箱もつければなおよいが、人数が多いときは費用がかさむので、倹約します。
〇チリ紙・・・適当。
〇小遣・・・500円ずつでも入れられたら入れたいが、財政上無理かもしれません。しかし、現金があると留置人は、くすり、ちり紙、店屋もの、タバコなどを係の刑事か、留置場の看守に頼んで買ってもらうことができます。
〇下着・・・少なくとも、パンツとアンダーシャツ、女子には生理用品、ズボン下およびくつ下、くつ下は長いのは許されません。留置場は地下室や半地下室にあり、板の間で夏でも冷えます(洗たくして、アイロンでよく湿気をとってあれば古着でもよい)。枚数は別に制限ありません。
〇上着類・・・太った人の古着、つまりL判だからという遠慮は無用。むしろ小型のものよりよい。ズボンのベルトは許されないから、後ろのベルト通しに20ゼンチ長さのひもを2本つける。昔式のズボン下の要領でウエストまわりを加減できるように。
 留置人は、少なくとも1週間に1度は下着を自分で洗たくできるから(洗たく石けんは、とくに差入れなくてもよいようです)何枚も差入れる必要はないようだが、重ね着ができるから、梅雨時には3組くらいほしい。
(2)食物
 センターを中心とする統一救対としては、週2回(火・金)を差入日と決めています。少なくとも、その曜日だけは全員に同じもの(同じ署でのこと)が入るようにしています。しかし、一署に20名ちかく入っていると、1日に全員一人ひとりを留置場から出して(監房の中で特別なものを食べることはできません)食事をさせる時間がないという理由で、係の刑事が受け取らないことがあります。刑訴法第八十一条「接見交通の制限」の最後に「・・・但し、糧食の授受を禁じ、又はこれを差し押さえることはできない」とあるのに、実際には、いろいろいじわるをして、これを妨げようとします。
〇食物の種類
 何でもよいはずだが、次のことは守りましょう。
 くさりやすいもの、かむのに時間がのかかるもの、不消化なもの、あまり刺激の強いもの、酒・アルコール類(チョコの中のでもダメ)、は不可。
 食物はなるべく手料理で、ぜいたくでなく、実質的に誠意のこもったもの。男子はモーレツに腹がへるというから、米の飯のように、お腹にこたえるものがよいが、さりとてタンパク質が不足すると、かえって栄養が不足して満足感がなくなります。
(一例)
〇おにぎり2個・・・外はのりで巻くなり、ゴマでまぶす。中味は、うめぼし、タラ子、細かくきざんだミソズケ、おかかなど、よくご飯をさましてから、ラップかアルミ箔でつつむ。
〇肉だんご、または小型のハンバーク、カツレツ、フライ、野菜の煮つけ、肉としらたきのすきやき風、魚肉のミソズケ、照焼など(アルミ箔でつつむ)
〇生野菜(アルミ箔でつつむ)
以上を(よくさましてから)たとえば、プラスチックのいちごの箱などに入れて、必ずハシをそえましょう。
〇サンドイッチ(ハム・チーズ、野菜)・・・すべてお弁当の要領。
〇果物類・・・サクランボとか、いちご、スモモのように皮ごと食べるものは不可。
〇菓子類・・・署によって、いろいろ制限する(チョコはいけないとか)。あらかじめ電話で聞くのもよい。常識的に考えてピーナッツはよくありません。時間もかかるし、不消化のおそれもあります。ガムは不可。
〇ミソ汁・・・人数分を大きなポリバケツで差入れた例があります(いいアイデイア)。
以上、用意したものを、なるべく清潔で色のきれいな包装紙などにつつみ、大きく留置番号を書いてゴムワでまとめます。決して新聞紙や、あまりうすぎたない袋を使わないこと。また、外部から書き入れをしないこと。通信の疑いで不許可になることがあります。

3.警察署での応対
 朝9時前に看守に電話しておくのもよい(この際、救援組織の名前を名のればよい)。午後は3〜4時まで、人数が少なくても午前中がよい。
 まず、受付に差入れに来たことを告げます。直接捜査係に行けといわれるところもあります。捜査係から公安係へ電話してくれる。廊下のベンチで30分くらい待たされることもある。
(1)留置番号だけで
 公安係が来たら、何号と何号に差入れに来たと告げます。相手は、わざと、「それは逮捕番号か、留置番号か」などと大声でおどかすことがあるが、どぎまぎしないで「留置番号です」と答えます。「番号ではダメだ。名前は?」とか、「親じゃないといけない」とか、「今日は忙しいから」「もう外の人が来たからダメ」とかいうが、そんなことは皆デタラメのおどかしです。番号で入らないはずはありませんし、9時前にだれか来たのなら、差入簿を見せてくれといえばよい。
(2)本人との関係は「救援会」
 つぎに「身分証明書を見せろ」ということがあります。「毒でも入っていたら、だれが責任をとるのだ!」などともいいます。主婦だと身分証明書はないというと、住所・氏名・電話番号を聞かれます。住所・氏名を公表できない人は、救援組織の名で差入れます(この場合、氏名、住所、電話などについて、あらかじめ組織と連絡をとっておきます)。まちがいないかどうか係が電話で問い合わせます。実在の人物だとわかると、やっと「どんな物を持ってきたか」と相手は、中味を全部あらためます。差入簿を出して「これに書け」といいます。警察署によっては、用紙が一枚一枚別になっているかもしれませんが、たいていは、昔風のとじた帳面で、一頁に上下2名分書き入れられるようになっています。本人との関係という欄には「救援会」でよい。もし、差入れが許されないときは、その場から救援連絡センターまたは弁護士に電話しましょう。
(3)差入簿の見方
 次に行った時、差入簿の前の頁をめくってみて、本人に品物が渡っているかを見る。渡っていれば、黒い色で拇印が押してあります。ついでに、誰が差入れたかも見ます(例えば親、兄弟、友人)。刑事によっては「いかん」と言うが、そんな理由はありません。そして差入れの少ない人は誰か(何号か)を記憶します(人数が多い時には、実際にはなかなかできません)。

4.その他の注意
(1)差入れの期間

 三泊四日経つと、それで釈放される人と、さらに十日延長される人が分かりますから、その日のうちに、このことをセンターに連絡しておきます。さらに十日後にも同様のことがおこります。
 二十三日後に起訴が決まります。起訴されてすぐ拘置所へ移管されるとは限りませんから、そのまま差入れを続けます。だいたいその後1週間で移管されますが、何号がどこの拘置所へ移管されたか、確かめてセンターへ知らせましょう。
(2)けが人がいるとき
 逮捕時、重症でなければそのまま留置場にほうりこまれ、赤チンかアルコールをつけられ、ろくな手当も受けない人がいます。
 これは、弁護士からセンターへ資料が渡っているはずですから、救援者はこのことを頭に入れておき、差入れのときに「ケガ人の様子はどうですか。何号のキズは治りましたか。病人は出ていませんか」と聞く。「いや、皆元気です」と刑事の答はだいたい決まっていますが、「何か変なことがあったら、すぐ知らせて下さい」と頼んでおきましょう。
 法律上のことは、すべて弁護士の方へ通知されますが、その他の身のまわりのことは、救援者の家へ警察が電話で頼んでくることがあります。「上衣も下着も靴もない子がいるから一通り持ってきてくれ」と電話がきて、急いで取りそろえて持っていったら、刑事が礼をいって受取った。一応、差入簿に書かせたが、なぜか理由をきかせてくれなかった。こんなこともセンターに連絡しておきましょう。
(3)家族が地方にいるとき
 被疑者の家族が地方の人である場合、逮捕後警察から呼び出しをうけて驚いて上京します。
 しかし、東京に1ケ月近く滞在することは不可能ですから、差入れの点で在京の人との差がついてきます。こんなときは「家族からの差入れのない人は何号ですか」と聞いて、火、金、以外の日にも差入れをしてあげたいと思います。
 しかし、こんなことも一応センターに連絡し、学生の属している学校なりセクトなりと打ち合わせた上、やるようにしましょう。
(4)差別をしない
 被疑者の中には早くから(特にその親が)特定の弁護人に頼む人がいます。つまり統一弁護団に弁護を依頼しないということは、分離裁判を希望している(本人が希望していなくても)ことになります。そのことは差入れのときにも刑事の口からわかることがありますが、救援の面で差別してはいけません。

5.日常の準備と地域の救援組織
(1)日常の準備

〇古着類・・・下着、くつ下(短)、チョッキ、上衣、セーター、カーディガン、ズボン(男女)、ドテラ、オーバー、腹巻、ジャンパー、ズボン下―以上は警察署用―
〇タオル、湯上りタオル、シーツ、毛布、浴衣(ネマキ用)、サラシ、ホータイ等、いずれも古物でよいーこれらは多量の放水のある(毒液を含む現場、例えば三里塚、佐世保)で、すぐハダカにして着がえさせたり、体を洗ったりするときや、病院にかつぎ込まれたケガ人のために必要―ケガ人のケガをかくすための風呂敷、マフラー、スカーフもー
 古着類は、事件のあるなしにかかわらず、近所の人、知人等に頼んでおいて、くずやに出さぬように約束しておきましょう。
〇箱や紙袋・・・果物店でイチゴなどを入れて売っているプラスチックの箱(弁当入れに)、梅干しなどを入れてあるフタ付きの箱(おかず入れに)をためておく。デパートなどでもらう手のついた大きな紙袋は留置番号を書き、公安係に渡しておく。身のまわり品などをまとめて入れておくのに便利です。
(2)地域の救援組織をつくる
 差入れ活動は一人でもできます。しかし、集団で行った方が能率もよいし、差入れの回数や迅速さも増して、逮捕された人たちのためにより大きく役立つことができるでしょう。それにこのような活動は、決して単に個人的な活動ではなくて、大衆運動全体の中の、一つの部分を受け持つという意味を持っています。ですから差入れをするときは、救援センターその他関係する救援組織と連絡をとりながらやらなければなりません。その地域に救援会のあるときは、そこに加盟して、いっしょに活動しましょう。まだ救援会のできていないときは同志を集めて、救援会をつくることを考えてみましょう。その方が資金集めのためにも、衣料などを集めるにしても、また差入れに行く人手の点でも有利です。
 そして、このような救援のための組織は、やがてより広い活動をする市民運動のための母体としての意味も持っています。
 この場合、参加の仕方の深い浅いは問わないことにしましょう。自分のできる範囲でやることが、長続きの要領でもあると思われます。
 最後に、いろいろな救援組織の関係を簡単に述べておきます。
 学生運動の各党派、大学の全共闘、地域の反戦青年委員会などは、自分たちの運動に対する弾圧に対処するため、それぞれ救援対策部(救対)を持っています。しかし、最近の大量逮捕の現実では、各組織の救対の独立した活動だけでは手におえなくなっています。それで諸組織が合同で闘争をする場合に、大量の弾圧が予想されるようなときは、各組織の救対が協力して、統一救対をつくります。また、それぞれの地域に市民的な救援組織が次々と生まれています。救援連絡センターは、やはり市民組織ですが、いろいろな救援組織と連絡をとり、逮捕者についての情報を集め、弁護士の接見を依頼するなど、救援活動をスムーズにするという特別な役目を果たします。大きな大衆行動のある場合には、先に述べた統一救対は代表を救援連絡センターに派遣して連絡に当たります。そのほかの場合でも、救援センターは常に逮捕者についての情報をつかんで、弁護士の接見、差入れの依頼などを行います(いわゆる反日共系の学生・労働者に対する弾圧を弁護してくれる弁護士は、現在非常に数が少ないので、手いっぱいで、すぐ接見に行ってもらえないことがしばしばあります。しかし、面会に行って長く弁護士が来ていないことがわかった場合には、連絡もれでないかどうか救援センターに確かめてみましょう)。センターと各地域救援会とは独立した組織で、上下関係はありません。しかし、日頃から連絡を密にとっておくと、いざという場合に便利です。差入れはセンターから依頼された場合でも、そうでない場合でも、十分連絡をとっておくと、重複したり、差入れもれが生じたりすることなしにすみます。また、連絡センターは決して電子計算機のように働く情報機関ではなくて、不備なところがたくさんあります。地域救援会はこのことをよく承知して、連絡センターの活動を批判し、より充実させていくように注意すべきでしょう。

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<体験記>(「救援センター」より)
“おばあさん”の差しれ
竹中ゆき
 4・28闘争の逮捕者に差入れを頼まれた時、私は断った。理由は家庭の事情で、とはいってみたものの、実は勇気がなかったのです。警察に顔を見せにいくようなものだと思ったりして。しかし、その後、何回かの集まりに出て、救援を自分のこととして、何の抵抗もなく差入れをしておられる数多くの人たちの話を聞いて、はずかしく思っておりました矢先の6月2日、救援連絡センターより再度の差入れの依頼があり、今度は引き受けてしまいました。
 駒込署12名、今日4時頃までに届けるようにとのこと。あと2時間しかない。そこで私は駒込署差入れ係に電話した。
 「はじめて差入れに伺います。何時ごろまでに伺ったらよろしいでしょうか。おばあさんですから、どうかお手やわらかに」と。
 洗面用具一式を求めるため、いつも出入りしているスーパーマーケットに飛び込んで、店員さんに相談した。
 「5月31日、機動隊に不当逮捕された学生さんに差入れするんです。コレコレのものを各12個ずつ買いますから協力してください。」
 下着はデパートの地下である。私は走った。また前と同じ協力を求めた。親切である。
 「ありがとう、またね。」
 挨拶もそこそこに、国電に乗る。国電の座席で、タオル1枚ずつを広げて、2枚に切る。隣にかけていた婦人が、立って手伝って下さる。2枚に切るわけと、差入れの品々であること、学生運動の正当性等を説明する。
 そして、駒込駅前でタクシーに乗る。もうすぐ警察だ。落ち着きなさい、留置場の若者たちが待っているんだと、自分にいいきかせるけれど、だめ。そこで私は「インター」をうたい始めた。「ああインターナショナル我らがもの!効果はテキメン、気持ちは落ち着いてきました。
 差入れ室ではおまわりさん3人、どうやら初顔の私を待機の様子。
「初めまして、先ほどの電話の者です。どうぞよろしく」名前、どこからと聞かれて記入される。
「おばさん、学生ってどうしてあんなにきついのかね」
「それは逮捕する方と逮捕される方ではきつくもなりますよ」
「こっちから渡したものも、領収証に名前どころか番号も書かないんだよ、それが女の子なんだからね」
「女の人は男の人とちがって、体の調子のことがありますから、そんな時はお産の時と同じで、人によってはノイローゼになったり、万引きしたり、自殺する人も、そういう時が多いんですよ」
「そういえば昨日買わされたんだよ」
「そうでしょう、だから女の人、早く出して下さい」
「差入れは女の人がいいよ、おばさんずっとくるの」
「ええ、最後まで私来ます。では子供たちよろしくお願いします」
インターの力を借りなければおさまらなかった先ほどのブルブルはどこへやら。今後の差入れが、今日のように調子よくいくようにも思われませんが、私の救対活動も少しずつ私自身のこととしてやっていけるようになりたいと思っております。

※ 救援連絡センターの機関紙「救援」第68号(1974.12.10)を「新左翼党派機関紙」にアップしました。
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html
(つづく)

【お知らせ】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)
午後1時 御茶ノ水「錦華公園」集合
(明治大学裏)
午後2時から5時
アジア青少年センター
千代田区猿楽町2−5−5
参加費4千円

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【お知らせ2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は6月22日(金)に更新予定です。

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今年は激動年1968年から50年目となる。50年の節目ということで、さまざまなイベントや出版が企画されているが、もう一つ、三里塚(成田空港)管制塔占拠闘争から40年目の年でもある。
3月25日、御茶ノ水の連合会館で三里塚芝山連合空港反対同盟(柳川秀夫代表世話人) と元管制塔被告団主催にとる「三里塚管制塔占拠闘争40年 新たな世直しを!3・25集会」が開催されたので行ってきた。
今回はこの集会の概要を掲載する。

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(パンフ写真)
<プログラム>
1)第1部  映画「三里塚のイカロス」上映
 終了後発言 代島監督
2)第2部  集会  
 主催者あいさつ  三里塚反対同盟 柳川秀夫さん 
    、     管制塔被告団 平田誠剛さん
発言 清井礼司 弁護士
発言 平野嫡識さん
メッセージ 加瀬勉さん(ビデオ)
映像 2017木の根幻野祭
発言 大森武徳さん(ビデオ)
石井紀子さんメッセージ(代読)
現地報告(資料説明)山崎宏さん
発言 鎌田慧さん
発言 反空連 渡濃充春さん
   福島 中路さん
      羽田
出席被告紹介 和多田、前田、平田、中路、中川、高倉、太田、児島、藤田、石山、山下、若林、佐藤さん              `
3)懇親会 

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<チラシ掲載のメッセージ>
【空港突入40年の集いにむけて】
三里塚芝山連合空港反対同盟代表世話人 柳川秀夫

世直しの旗が翻ったのは駒井野の強制代執行であった。まさに戦争状態でむかえた代執行。世直しの闘いを宣言することで百姓も誇りを持って闘うことができた。
百姓は畑に種をまくと、訪れる豊かな稔りを迎えるために手入れを惜しまず汗を流す。山の木の手入れ等、何十年も次の世代の為続ける。
闘いも途中で決してあきらめず根気よく闘い続けてきた。作物を育てるのと似たようなものだ。
新しい年を迎える度、又今年も頑張れば来年は勝てると年寄りが話し会っていたのを今も覚えている。作物も今年だめでも来年があるように。
しかし、百姓では出来ないこともあった。今日ではボランティアとかになってしまったが、多くの人達の助けが求められた強行開港阻止という難題。それは果断に生命、人生を代価に3月26日に行われた。
重くて背負いきれない程の快挙であり、大義の春であった,
40年目に何を思えば良いのか,三里塚では世直しはいくさと密接でもあったが。時が移り世の中の在り方を見直すことへと重みが増している。
今あの日に帰って夢は色褪せてないか。さらに輝いているか確かめるのも大切なのかも。世直しの新たな旗が翻るために。 (2017.11.7)

「3・26」の闘いを継承し、新たな世直しへ
元管制塔被告団 中川憲一

1978年3月、時の福田赳夫自民党政権は成田開港を国家の威信をかけた最重要課題と位置づけ、力ずくで3・30開港を図ってきました。1966年閣議決定から、機動隊の暴力を前面に出した国家の土地取り上げと闘ってきた三里塚の農民と支援は、この非道に真っ向から立ち向かいました。
1年を超えた開港阻止決戦の正念場となった3月26日。「空港包囲・突入・占拠」を掲げて菱田小跡に結集した三里塚闘争に連帯する会、労調委などの仲間は、横堀要塞の闘いと連動して空港へ突入。
前日25日夜から下水溝に進入していた私たち管制塔部隊は、26日午後1時、9ゲート・8ゲートからの空港突入に呼応して、マンホールから飛び出して管制塔に駆け上がり、管制室を占拠しました。
時の政権の道理を無視した3・30開港を人民のパワーが阻止したのです。この闘いは、60年代の反戦・全共闘の闘いから70年代連赤・内ゲバという後退とは違う闘いのあり方を示しました。管制塔の闘いは海外の運動にもインパクトを与えたと聞いています。
その後も2005年には皆さんの協力による一億円カンパ運動によって、管制塔被告は政府による賠償強制執行をはね返すことができました。
いま法も道理も無視した安倍政治が憲法改悪を目指し、沖縄では基地建設反対の闘いが続いています。成田空港でも住民を無視した夜間発着時間拡大、第三滑走路の計画が出されています。
このような中で迎える管制塔占拠闘争40年。40年集会を開催したいと思います。
「3・26」40年にあたり、民衆の闘いの歴史を貶め消そうとする体制に対抗して「3・26」を語り継ぐととともに、40年前の闘いをもう一度見直し、その原点を再発見・再定立していきたい。この集会が旧交を温めると共に、78年を知らない人々と共に、その今日的意味を考えるきっかけになれば幸いです。
全国の皆さんの集会への参加と賛同を呼びかけます。

【日本人民の希望と未来の赤旗】
三里塚大地共有委員会代表 加瀬勉

開港阻止決戦・空港包囲・突入・占拠。三里塚空港にディエンビエンフーの戦いを。空港を包囲し突入し、亀井・三井警備局長率いる警視庁精鋭部隊を粉砕し、管制塔に突入占拠し赤旗を翻した。開港を阻止し、ディエンビエンフーの戦いを三里塚闘争で実現させたのである。三里塚で「警視庁敗れたり」と秦野警視総監に言わしめたのである。
管制塔戦士たちが打ち振る赤旗の血潮の燃え滾る鮮やかさは我々の前途を指し示すものであったが、また権力の容赦ない弾圧でもあった。新山君が原君が犠牲になって斃れていった。囚われた管制塔戦士達は冷たい鉄格子、獄中の深い闇、家族の苦難の生活。10年余の歳月。三里塚闘争のさらなる前進と勝利を、日本の夜明けを信じて戦い抜いた。俺たちは万難を排して獄中にいる管制塔戦士に連帯したのか。したと言い切れるのか。問い続ける40年であった。
その問いに一人一人が答える時代が到来してきた。戦争政策遂行、改憲内閣、ファシストの安倍内閣の4度の成立、「三里塚空港機能拡大・夜間飛行制限緩和・空港用地700ha拡大・新滑走路の建設・50万回増便」の10年計画の新たなる攻撃がかかってきた。戦いの思想を魂を管制塔戦士の行動を規範に共に競いあい磨きあってゆこうではないか。団結して前へ。

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3月25日の集会には約250名の参加があり、会場は満席(私は立ち見)であった。
集会では多くの方から発言があったが、そのうち5名の方の発言概要を掲載する。

第一部
映画「三里塚のイカロス」上映
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代島監督 挨拶
「いろんな方々、それからここに参加していらっしゃる皆さんのご協力を得て完成させたような作品です。この前に『三里塚に生きる』という作品を作っているんですけれども、それは闘争の当事者、農民が主人公の映画でした。でも、支援の人たちが三里塚にどう関わったのかということは、とても描きずらいテーマでしたし、『三里塚に生きる』を一緒に撮った大津幸四郎にも『支援にだけは触らない方がいい』と言われていたんですが、僕自身が皆さんより10歳くらい年下の1958年生まれなんですけれども、皆さんの世代の、あの時代の闘争の姿を思春期に見て、憧れていたんですね。だから、ずっとあの問題って何だろうという思いがありました。あと、あの時代が何で挫折してしまったんだろうという思いも一緒に持つようになりました。

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三里塚であの時代を生き、理想に燃えて支援に入った皆さんの映画を作りたいと思ってこの映画を作ったんですけれども、ただ、三里塚もそうですし、例えば、今、沖縄や反原発もそうですが、組織で動いているということがとてもいろんな要素が含まれていて、ここにいらっしゃる方が一人ひとり、ご自分が三里塚でどういう風にしてきたかということを自分に問うた時に、やっぱり、一人ひとりの中にそれぞれの答が生まれてくると思うんです。とてもいろんな要素が含まれた闘争だったと思うんです。ただ、この『三里塚のイカロス』に関していうと、最後にもう一度羽田闘争の写真が出てくるんですけれども、もう一度皆さんに、あの時代を生きた自分を思い出し、問うてもらいたい。これからどう生きていくかを含めて、何か考える材料になればいい。それから、今の10代20代の若い人たちはあの時代を全く知らないんですが、三里塚について理解をしていって欲しい、自分たちがどう生きるかということを大事にして欲しいと思って、この映画を公開しています。
この映画を昨年の9月に公開して、平田さんがフェスブックに『三里塚のイカルスを熱く語る会』というスレッドを開いて友人たちが投稿しています。それとともに、平田さんが『開港阻止決戦って何だったのよドキュメント』をフェイスブックで連載したんですが、それはそれで面白いエピソードが満載なんですが、このドキュメントをどう締めくくるのかと思っていたら、家族、お母さんから獄中に届いた手紙の一節を書いていました。それがすごく僕の心を打ったので、ちょっとご紹介して終わりたいと思います。
『池の柳が芽吹いた。今年は寒かったのに春はまたやってきた。
その足にもの言わせて走れと言って聞かせたのに、逃げる気のないおまえのこと。
かくなるうえは、立ったり、しゃがんだり、足踏みしたりして来たる日に備えよ。』
平田さんは福島の支援をしていますが、もしかしたら来る日に備えて皆さんも、立ったり、しゃがんだり、足踏みしたり、いろんな人生を送ってきたと思うんです。
この40周年の集会は、来る日に備え、考え、どう行動するかというきっかけになるといいなと思っています。
本日はありがとうございました。(拍手)」

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第二部
主催者挨拶

三里塚反対同盟 柳川秀夫
「今日の40周年集会は、反対闘争に関わる戦争のための集会ではない。今日は警察関係はいないと思いますが。40年前もとてもいい日でした。ここにお集まりの皆さんも、3・26の当日に力を合わせておられた方が大半ではないかと思います。
大勢の中で話すことがめったになくて、何を話していいのかわからないんだけれども、今、三里塚の現状から言いますと、新聞などでご存知かもしれませんが、第三滑走路をもう1本造るということで、相変わらず空港を巨大化しようとやっております。昔から住んでいるところがズタズタにされる。反対闘争が始まってから52年になります。当時は村で総決起して反対運動を闘い始めたんですが、今の状況というのはなかなかそうはならない。
皆で集まって力を合わせてというのは、今は出来ないような社会構造になっているわけです。その辺が昔と違うところです。だから、反対の決起集会も全然行われない。私の部落は滑走路に直接かかるところですが、昔は反対運動を部落ぐるみでやってきたところでもあるわけですけれども、誰一人反対という声が上がらない。それは、私の住んでいる部落にも関わることですが、日本全国の農村は昔の共同体というものはもう存在しないということです。個人で生きていくのに不自由しない。こういう社会状況の中で、成田の滑走路が巨大化するという時に、自分を含めた営々と住んできた地域も、すでに一番大事なものではなくて、それをステップにして次の人生を考えようという感じになっている。
三里塚闘争というのは『腹八分目の社会』『世直し』ということを代執行の中で必死になってたどり着くわけですけれども、それは『持続できる社会』ということ、それがやっぱり三里塚の大きな課題だと思っています。

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反対同盟と名乗ってはいますけれども、実際のところ大半の人は去ってしまって、私と数人がいるだけの関係です。三里塚の課題というのは、魂の問題だと思っています、いろんな人が何十年もかかって、いろんな人の思いが結集して、その中で出された結論だと思っています。持続できる社会にするためには、皆が腹いっぱい食べるのではなくて、腹八分目の考え方というのが備わっていかないとだめだと思います。それが今の大きな課題で、滑走路問題があるんだけれども、もう一度そういうものはだめなんだというには、もう1回、ズタズタにされた社会の中の考え方というものを作り直さないと、そういう反対だという考えも出てこない。残念ながらそんな状況になっています。三里塚に限ったことではなくて社会全体の状況ではないかとか思っています。
なかなか物事は進まないですけれど、私も70歳になりましたが、ここにお集まりの皆さんもそれなりのご年配で、最後の頑張りとして、自分が悔いのない生き方をしていく、例えば40年前の今日、明日の日に思った考えや、その生き方というのはいろいろ培われて養われて、皆さんここにお集まりだと私は思っています。そういう意味で、今日は感謝しています。どうもありがとうございました。」

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管制塔被告団 平田誠剛
「管制塔の占拠メンバーの一人だった平田です。管制塔元被告団を代表してご挨拶をするということらしいんですが、本当にいいかげんで、いつの間にか私がここで挨拶をすることにさせられてしまった。管制塔グループらしいです。
今朝起きて、見事に晴れ上がった青い空を見ました。40年前の3・26の暗がりから私たちが青い空に向かって飛び出すところから、私たちの空港の中での闘いが始まりました。
いろんなことを思い出しながら、面白かったことや辛かったことや、あまり管制塔被告団というのは、白い帽子を被って目を吊り上げる人たちとちょっと違って、世の中に悲劇はないと思ているやつばっかりで、全部お笑いだぜ、という世界になってしまっていっちゃたんですね。確かにあの時の闘いで、9ゲートのN君は命を失うことになりましたし、管制塔に一緒に行ったH君も、4年後に拘禁症で、それが保釈中に激化する形で自ら命を絶つという辛い経験もしました。それでもやぱり俺たちは、面白がって生きようぜという風に思って生きてきたんだと思います。
私たちの頃は、鉄パイプを持って行くぞ、と決意して行く。これよりは、今の時代、よく考えたら『そだね〜』と言いながらやっていた方が平和でいいと思う。確かに私たちの頃、40年前には決意をしてやらなければいけない闘争のやり方だっただろうし、私もそれが正しいと思うんです。1ミリもそのことについて譲るつもりはない。じゃあ、今、それを同じことをやるのか?そうはいかないと思います。映画の中にも出てきましたけれども、先人のいろんな苦労を受け取りながら、どうやってそれを今に生かし、今の中で未来にそれをつなげていくか、ということを、やっぱり考えなければいけないんだろうなと思います。

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(映画で駒井野の団結小屋を作る時に)吉田義朗が、花嫁を歌いながらあの道を帰ってきたみたいなこと言ってましたよね。あの道は私たちが空港に忍び行った排水口の一部です。つまり、反対同盟の人たちというのは、外側から管制塔に至るあの排水口の存在は、ある意味常識です。直前になって、それを使おうという計画を作らなければ、たぶん、空港の中の地下構としてあっただけだと思います。
管制塔のカンパ1億円を皆さんにご協力いただきました。ありがとうございました。(拍手)
感謝するだけでは平田の芸風ではないです。金があるなら福島で動いているんだから出せよ、と言ってもなかなか出てきません。でも、私が福島の避難者のところで活動する時に、その拠点になっているのは、1978年3月26日に一緒にいた人たちが、平田が言うんだったらしょうがねえか、と場所を提供してくれたり、いろいろなものを持ってきてくれたりして支えてくれています。それから、私が通っている仮設住宅のおばちゃんたちが、熊本に行きたい、熊本で地震で被災した人たちの仮設住宅を訪ねたい、仮設住宅でどうやって暮らしていくのか、お話を聞きながら話をしてこようじゃないか、という話になりました。お金を集めるときに、なんだかんだと言ってもドンとお金を出してくれる。熊本では、3・26を一緒に闘った人たちが、向こうの受け入れ態勢を作ってくれて、きちんとやってくれました。警察官や役人になる公務員を育てるような専門学校に行って、頑張れよ、いい公務員になれよ、いったん事が起こった時に、どれほど公務員の仕事が辛くて、だけど大事なのかという話をしました。それから被災者の人たちは、体験した自分たちの話を、あなたたちちゃんとやってね、とその困難さと大変さとやるべき仕事の大事さについて語ってきました。それから、仮設住宅に行けば、熊本の人たちがこんなに笑ったり泣いたりできたと言いました。自分の心をきちんと話せない、でも、福島から来た仮設住宅に住んでいる人には自分のことを全部言ってもいいんだ、と思ったんですね。感動的な場面でした。それを俺たちができるか?活動家や支援者にそれができるか?できません。でも、それが出来たのは普通の人たちです。普通の人たちが、そういう辛いところに行って、きちんと相手と心を通じることができる。たぶん、私たちは、そういうところをサポートすること、後ろから黙ってサポートすることが、たぶん私たちに一番求められていることなんだろうなと思って帰ってきました。普通の人たちが、こんなにすごい働きをするような、そういう風に思うようになるんだ、それは熊本の人たちだけじゃなくて、福島から行った人たちがそうなるということについて感動して帰ってきました。とてもい経験でした。
さっき代島さんが言ってくれましたけれど、今、私たちは何もできる力がないと思っているかもしれない。だけど我慢が必要です。我慢して我慢して、目の前にあることに、人々を信じて進むということが、この先、とても大事だろうと私は思っています。
私にとっては、ここがフィールドです。福島のいわきの仮設住宅がフィールドです。皆さん方にも、今、つながらないかもしれないけれど、私たちをつなぐフィールドが、きっとあると思います。我慢しながらそこを進みましょう。心はつながっています。あそこの大熊町仮設住宅の一番しんどいところを支えている人は、実は、あの吉田義朗が(トンネル掘りの)落盤事故で生き埋めになった時に、その後ろですぐに助けていた人です。つまり、お仲間というのは、見えていないけれども、きちんといます。
私も少しずつ、足踏みをする状態になるかもしれないけれど、進みたいと思います。皆さん、一緒に確実に我慢しながら前に行きましょう。」

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現地報告  山崎宏
「こんにちは。山崎です。私は支援として約30年、横堀に住んでいます。いわゆる団体の三里塚現闘という形で存在しているわけです。現地と、全国の三里塚に関心を持たれる、心を寄せられている人たちとのいろんなつなぎ役としてやっています。
現地報告ということですが、主要な問題点については、プログラムに掲載していますので、あとで読んでください。(注参照):
私が毎回、集会で言うことは、三里塚闘争は決して過去にあった闘いではない、現在進行形の闘いであるということなんです。三里塚の問題というのは、キーワードとして挙げるならば『国策である』ということです。反原発建設の闘い、辺野古の新基地建設に対する沖縄の人たちの闘い、これは明らかに国策に対する闘いであり、であるが故に国家権力は全体重をかけて、この闘争をつぶし、自分たちのやりたいことをやってくる、そういう関係性にあると思います。国策であるが故に、現在まで続いている闘いが永続的に続くものであるだろうと思います。例えば、原発建設についても、国家権力機動隊を使った直接的な暴力、そして膨大な金を地元にばらまいてこれをやっていく。これはまさに沖縄の辺野古でも見られるし、現在の三里塚においても進められていることです。

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第三滑走路については、4年くらい前に国土交通省の方から計画が出されまして、第三滑走路を2030年までに建設する、東京オリンピック・パラリンンピックに向けて旅客の増大が予想されるので、そのために飛行時間を延長するという計画が出されてきました。これに対して、地元の住民たち、とりわけ騒音直下の住民の人たちは大変反発しまして、例えば成田市の川上地区においては、そんなことは絶対に認められないという住民の強い意志が表明されました。そして、横芝光町という空港圏の町がありますが、ここは第三滑走路が建設されると、今でさえ第二滑走路によって騒音被害を受けていますが、その騒音が更に拡大する。横芝光町は、第三滑走路が出来れば、第二滑走路、第三滑走路の騒音地帯に置かれてしまい、町の約4割がその騒音被害を受けるようになる。横芝の自治体町長も、地元住民の力に押されて、合意することをずっと否定し続けてきました。しかしながら、この3月中旬、いよいよ他の市町村の早く作れという圧力に抗することができなくて、住民の騒音被害による反対を切り捨てて、ついに合意してしまいました。それによって、周辺市町が全て第三滑走路計画に賛成しているという事態に今なっています。
朝日新聞の記事の社説の中で、『強まる同調圧力に抵抗できない』と的確に問題点を指摘しているわけですけれども、全体の周辺市町が合意しない限りこの計画は前に進められない、だから横芝に対しても無言の圧力をかけて屈服させて、関係市町村全体が第三滑走路建設に合意していくという構造ができあがってしまいました。これは年度がわりに間に合わせるために、住民の騒音に対する危機意識を切り捨てても、横芝光町の町長が同意せざるを得ないというところに追い込まれていった結果であります。苦渋の選択ということで、本当に住民の受ける被害については切り捨てても、膨大な地域振興策と大量の金をばらまいてやっていくことを認めてしまっているわけです。
この第三滑走路問題については、まだまだ私たちの力が足りないし、地域の行動そのものが、現地の皆さんが話されているように、社会的構造が変化していく中で、なかなか反対の運動を作り上げていくことができないという厳しい状況に入っています。これについても、私たちは更なる闘いを支援する、推進していく義務があると思います。私たちは『三里塚空港に反対する連絡会』という首都圏を中心にして仲間たちが、毎年2回、東峰現地行動というものを行っています。このように、今、私たちの仲間は、ごく少数で細々とした運動を取り組んでいるわけです。逆に少数であっても、そういった意思を表明し続けること自体が非常に大事なことだと思っています。

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それから、皆さんに知っていただきたいことは、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて飛行時間の延長を打ち出しているわけですけれども、2002年サッカーのワールドカップが行われた時も、それを口実に平行滑走路を造るということで、東峰地区の農地を分断し、そして住宅を分断して、部落を用地内に組み込んで、平行滑走路を開業しました。このように常にスポーツイベントが、自分たちの野望を遂げるための大きな要因として扱われてきたということがあると思います。
最後に、映画の中でもパレスチナとの連帯ということがいわれていましたが、やはり現在も、三里塚空港反対の闘いは、パレスチナ連帯という言葉に象徴されるような、反帝国主義、国際連帯の代名詞でもあると思います。私たちもこれから、この国際連帯ということでも、三里塚闘争を闘っていきたいと思っています。」

(注:プログラム)
<成田第3滑走路建設一飛行時間延長反対の闘いを!>

 国土交通省一成田国際空港会社は資本の利潤の追及のために空港機能の拡大をはかろうとしている。2030年度までの第3滑走路の建設、2020年東京五輪・パラリンピックでの旅客の増大をロ実にした夜間飛行制限時間の緩和(現行午後11時から午前6時までの7時間を午前1時から5時までの4時間)を決め、さらに平行(B)滑走路の北側延伸計画まで提示した。
 国・千葉県・関係9自治体・空港会社からなる四者協議会はこの計画を推進するために住民説明会を各地区で行ってきた。移転対象となる佳民、新たに騒音地域となる住民、騒音がさらに増大する騒音地域住民からは厳しい批判の声が上がり、断固反対が次々と表明された。この結果、空港会社は飛行制限を現行より1時間短縮するという見直し案を提示し住民に説明した。しかし、住民はこれにも納得せず、なし崩し的にさらに短縮するのではないかと不信感を募らせている。
 しかし、関係自治体は住民の反対を無視し、交付金の増額・地域振興策と引き換えに空港会社の見直し案を受け入れ「早急に地域振興策を」と、前のめりになっている。住民の生活を破懐してでも一部の利害関係者の利益を目指す利権追及の構図そのものである
<裁判所を使った強権的土地取り上げ>
 空港会社(当時空港公団)は「成田シンポジウムー円卓会議」の結果、「強制的な手段によらず話し合いによる解決をはかる」と確約し、事業認定を取り下げ、強制代執行による土地の取り上げは不可能となった。
 しかし空港会社はそれ以降、民事裁判に提訴して裁判所の強制力で農民、地権者から土地を取り上げるという手段を取ってきた。それによって用地内の1坪共有地を強奪し、農民の耕作地を取り上げようとしている。
 横堀地区にある反対同盟現闘本部も裁判で土地の所有権を奪ったうえで、建物の撤去、土地の明け渡しを求める訴訟を起こした。一審千葉地裁は反対同盟側の証人調べの申請を却下し、たった4回の書面審理のみで空港会社の主張を全面的に認める判決を下した。控訴審の東京地裁は第1回の公判で突然結審を言い渡し、控訴棄却の決定を行った。
 上告した最高裁は昨年7月上告棄却の決定を下し、判決が確定した。それを受けて空港会社は千葉地裁八日市場支部に撤去の申請を行い、5月31日深夜午前0時から裁判所による強制撤去が行われた。このような裁判所を使った土地の取り上げは強制代執行と何ら変わらない公権力の行使による土地強奪である。
<強権と金の力で空港は建設されてきた>
 成田空港は最初から地元住民の意志を無視して作られてきた。政府と財界、千葉県の一方的な思惑によって三里塚の地に決定され、住民にとっては全く寝耳に水の出来事だった。政府・空港公団は農民の生活の糧である農地を奪い、追い出そうとあらゆる手段を尽くして三里塚農民に襲い掛かった。国家権力−機動隊の暴力を使って体を張って抵抗する農民を弾圧し、また札束を積んで農民を懐柔、分断し空港を建設していった。現在の政府一空港会社のやり方は形こそ違っても本質的には何も変わっていない。あたかも住民の意見を聞くというポーズを取りながら、政府が決めたことは何が何でも進めていくという姿勢だ。
<空港反対の闘いは今も続く>
 現在、空港建設予定地内には成田市の束峰、天神峰、木の根地区に農民・住民が生活し、生産活動を行っている。また芝山町の横堀地区にも反対派の土地があり、政府・空港会社の横暴と闘っている。住民が闘い続ける限り、そして三里塚に心を寄せる労働者・市民が連帯して闘う限り政府・空港会社の思い通りには行かない。
<成田空港の軍事使用を許さない>
 新滑走路の建設は単に経済的な利潤追求という要因に留まらない。空港こそまさに兵粘基地、出撃拠点として戦争遂行のための不可欠の軍事的インフラフである。安倍政権の進める戦争国家体制を阻止する闘いと共に第3滑走路建設に反対していかなければならない。

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発言  鎌田 慧
「今、映画を初めて拝見したんですけれど、中川さんがお連れ合いに手紙を書いたくだりとか、ホロリとさせられました。管制塔占拠がどうして成功したのかということが一つありまして、それとどうこれからの運動をつなげていくのかというのが、これからのテーマだと思います。映画の最後の方で小川直克さんの屋根スレスレに飛行機が飛んでいるシーンがありまして、これも胸打たれる光景でして、あそこの2階に泊めてもらって、飛行機が来るとどれだけの騒音になるか体験したことがあるんですけれども、相変わらず今のああいう形で騒音直下にさらされて暮らしている人がいるという、この空港の残酷さというのが改めて感じられました。そして、最近行っていないなという犯罪的な意識になったりしました。そういう意味で、みなさんもいろんな思いで映画をご覧になったと思います。
私は『廃港要求宣言の会』という団体で、『連帯をする会』と一緒に全国的に宣伝をしていくという形で、反対同盟の新聞を作ったり、全国集会をやったり、パンフレットを作ったりしていましたが、やはり三里塚闘争というのは戸村一作さんのことをやっぱり思い出すわけです。
この映画で触れられていなかったのは、労農合宿所のことが出てこなかったんですが、今日、ここに集まっている人たちは、現闘にいた人たち、あるいはその周辺で頑張っていた人たち、あるいは全国的にいろんな地域で頑張って三里塚に結集してきた人たち、そういう人たちが同じ思いで集まっていると思います。『連帯する会』は上坂さんというう人が、本当に歯をくいしばって頑張っていまして、彼は大阪に住んでいたけれど、ずっと東京で暮らして運動の全国化に頑張っていて、やっぱち忘れられていない人だったと思います。『廃港宣言の会』は前田俊彦さんが労農合宿所のそばに家を作りまして、住んでいました。九州に帰って亡くなられましたが、そういう人の死がありますね。
それから闘争では三ノ宮さんが自殺し、新山さんとか原さんとか、そういう方々の死がありまして、東山薫の虐殺というのもあったと思います。闘争があったときに催涙弾が飛んできているわけですけれども、プラスチック製の万年筆よりもう少し大きい銃弾ですね、硬質のプラスチックの弾が飛んで落ちていたのを見ています。それに当たって怪我した人は聞いていませんけれど、そういう形で大弾圧だったし、それに対する闘争でもあったというのは、やはり歴史的にキチンとしておきたいと思います。
そして強調したいのは、管制塔占拠というのは突出した闘争のように思われていますけれど、そうじゃなくて、やっぱりそれを管制塔の戦士たちに実行させた広い運動があったということです。それは岩山鉄塔の前からずっと準備されており、岩山鉄塔戦があり、横堀要塞があって、そして大鉄塔があって、そして管制塔という闘争の積み重ねという、これは農民たちが実際に要塞に入って、彼らが逮捕されて投獄されていったんですね。ごく普通の農民が逮捕されて刑務所に入っていたという、そういう風なことがあったわけで、これは歴史的な闘争で、それは秩父困民党の闘争でもあったし、足尾銅山の谷中村からの数度にわたる『押し出し』で、東京に向けた人民の『押し出し』が弾圧されて逮捕されるという、そういうこともあったわけだし、近くは砂川闘争もありました。そのようないろんな闘争の思いが、ぞれぞれの人の胸に刻まれて、ああいう風な大闘争が成功した。しかし、私は『第二第三の管制塔を』という言い方はあまりしない。無理なんです、それは。管制塔を占拠するというのは、あの当時の闘争で、盛り上がった形で決起し、成功できたわけで、それをいつも幻のように追い詰めて、あれができないから駄目だと言っているのでは運動にならないわけで、管制塔占拠しなくても勝てるような運動をどのようにして作っていくのか、そういう風な作り方が今問われていると思います。
それは、例えば沖縄の辺野古闘争もカヌーでピケを張ったり、ピケで車を止めたり、運搬するトラックやブルドーザーを止めるという形でやっているわけですけれど、それは素手で闘う非暴力闘争ですけれども、管制塔は非暴力闘争の一つの頂点を実行した、実践した。しかし、それに続く闘争という形ではなくて、それを更に上回る闘争、あれだけの知恵と組織と準備と熱意と勇気とを、他の現場でどういう風にして私たちが日常的に作っていけるのか、そういうことが問われていると思います。

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空港建設は国家的事業ですけれども、何とこの国家はひどい国家でしょうか。安倍首相の昭恵夫人が名誉会長になっていた、たかだか学校の建設にために国有地を8億円も安くするという、安倍と安倍の妻のやったことじゃないですか。それを官僚に責任を取らせて逃げようとしている。安倍が首相でなければ、安倍昭恵は8億円を安くする学校の名誉会長に納まるわけがないので、彼女が名誉会長だから8億円を引いたというのは歴然としているわけで、こういう腐敗した堕落した国家のために、私たちはどうして死ななければいけないのかという根本的な問題と、今、三里塚の人たちの思いを、今、私たちはどう胸に刻んで、原発反対闘争とか沖縄の闘争とか、さまざまな問題、年金も悪くなり、非正規労働者が希望もなく働いて、倒れて死ぬまで働かなければいけないような社会にしている社会に対して、私たちはどのように抵抗し攻撃していくのか、それは三里塚でいろんな運動を広げて、そこからいろんな知恵を出したように、いろんな人たちが話し合って運動を広げていく、そういうことが今問われている、それが今日の集会だと思います。
三里塚闘争は66年の空港計画から始まって、戸村一作さんは闘って闘い抜いて亡くなった、反対同盟の委員長の頭を警棒でかち割るような野蛮な警察、今、沖縄の山城さん、運動の代表をみせしめ逮捕して5ケ月も拘置する。こういう野蛮なことが許されていて、それに対する全国的な抗議がなかなかできない。そういう中心人物を頂上作戦でやっつける。これは戸村一作さんの時はやられているわけです。そいう風にとても狂暴な国家で、ますます腐敗して堕落してきている。なおかつ私たちは何もできていない。非常に残念に思っています。
三里塚闘争の意義というのは、非暴力闘争で成功したことだけではなく、やっぱり持続可能な社会を闘争の中で生み出してきたということです。三里塚の農民、百姓といっていますが、百姓が闘いを宣言した百姓宣言、百姓のプライドというのを打ち出したわけだし、それから有機農業というのもいち早く始めた。それは大地とか自然とか有機とか農業とか、そういうキーワードをいち早く出していた闘争だったということも強調しておきたいと思います。

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あの3・26の日に、菱田小学校に結集した時の、あの決意がみなぎった集会に参加された方がいらっしゃると思いますが、会場に集まって、そこから出発していった日に、私も立ち会うことができて、とてもうれしく思っています。そういう意味で、三里塚闘争あるいは管制塔占拠を単なる追憶で終わらせてはいけない。私たちは三里塚闘争で死んだ人たちの魂を引き受けて、それを追憶するのではなくて、今、まだこういう生活をしていて頑張り足りていない、頑張りきっていないという自省を鏡として、心の中を映す鏡として頑張っていかなければいけないと思っています。
あれから40年経ったわけですけれども、とにかく管制塔占拠を心の中で想起しながら、次の運動をどういう風に作っていくのか、そのバネにしていく、知恵と源泉にしていく、闘争の源にしていくという気持ちを広げていくという、単に思い出に浸らない、今の安倍政権、公文書偽造ということが出てもまだ内閣が倒れないという、こういう瞬間に立ち会って、非常に残念、悔しく思っています。私たちはとにかく三里塚闘争を精一杯掲げて闘ってきましたけれども、まだまだ頑張るべきだったことがあります。今、青行隊から出てくる人は柳川さん一人しかいないという状況になっていますし、それは40年経っても天神峰とかいろんなところにいた人たちの苦しい生活があるし、それは原発の避難者、自主避難といわれますが勝手に逃げたわけじゃない、放射能に追われて故郷を去らざるを得なかった人たち、そういう人たちと、三里塚から追い出された人たちは、やっぱりつながっていると思うんです。そういうことを含めて、私たちは今日の集会を胸に落として、そして追憶ではなくて、更に新しい運動をきちんと受け止めていく、僕はもう寿命が短くて数年しかないわけですけれども、もう少しだけはやれるかなと思っています。皆さん、もう少し頑張っていきましょう。」

※ 管制塔占拠闘争を報じた第四インター機関紙「世界革命」517号(1978.4.3)を「新左翼党派機関紙」にアップしました。
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html

(終)

【お知らせ1】
●10・8山博昭プロジェクト東京集会
シンポジウムと徹底討論「死者への追悼と社会変革」

2018年6月2日(土)
午後2時〜5時
全水道会館(JR水道橋駅徒歩5分)
参加費 1,500円

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【お知らせ2】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)
午後1時 御茶ノ水「錦華公園」集合
(明治大学裏)
午後2時から5時
アジア青少年センター
千代田区猿楽町2−5−5
参加費4千円

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【お知らせ3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は6月8日(金)に更新予定です。
 

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