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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。
「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチャラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
今回、第二部の原稿が届いたので、1年半ぶりに第二部の公開を開始することにした。
第二部の目次を付けたが、文字量が多いので、8回程度に分けて公開していきたい。今回は、第二部第一章(1−3)である。

<目 次>
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第二部第一章
社学同参加と現代思想研究会(67年)
1.私の触れた学生運動の時代      (今回掲載)
2.全学連再建と明大「2・2協定」   (今回掲載)
3.明大学費闘争から再生へ(大学内の闘い) (今回掲載)
4.社学同加盟と現代思想研究会
5.67年現思研としての活動
6.67年春福島県議選のこと
7.全学連の活動ー砂川闘争
8.67年学園闘争の中で
9.10・8羽田闘争へ
10.10・8羽田闘争の衝撃
第二部第二章
国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連
2. 三里塚闘争への参加
3.68年高揚の中の現思研
4.御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ
5.三派全学連分裂ー反帝全学連へ
6.ブントの国際連帯集会
7.全国全共闘の波
8.現思研の仲間遠山美枝子さんのこと
9.現思研・社学同とML派の対立
10.69年東大闘争
11.教育実習と4・28闘争

「1960年代と私」第二部
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第一章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)
1.私の触れた学生運動の時代

 60年代の学生運動を語るとすれば、戦後の学生運動の流れから、日本最大の大衆運動となった60年の日米安保条約反対闘争のことを記す必要があるかもしれません。
 しかし、私や私たち世代の闘いのエピソートをふり返るにあたっては、やはり体感した60年代中期以降の活動と、その様相から書き始めたいと思います。
 日本共産党から分裂して、独自に主体的に60年日米安保反対闘争を闘った共産主義者同盟(ブント)は、安保闘争後、闘いを終えてその使命を終えたかのように行き詰まり、安保闘争の総括をめぐって混迷したまま分解していきました。同じ頃、日本共産党の学生組織も再建され、また、別個に成長した反スターリン主義・永続革命を唱えるトロッキー主義潮流を含めて、ハンガリー動乱や「中ソ論争」をめぐってソ連の批判や論争が続き、学生運動も革命運動も再編されていく時代にあったといえます。
 60年代前半期のそうした味方内部の論争を経て、大学では「大管法」をめぐる闘い、政治的には日韓条約をめぐる闘いが始まります。
 日本は60年安保後の高度成長策を軌道にのせて、経済成長が本格化していきます。米国の反共戦略のイニシアチブのもとで、それが日韓条約へと結びつき、日本はアジアとの新しい関係を構築する途上にありました。
 反政府運動では、米国のアジア侵略に反対し、また日本政府の米アジア戦略加担と、日韓条約反対闘争の中で、活発に歩み始めました。国会では、社会党、日本共産党(日共)などの野党勢力は、自民党の政策に反対し、その行動は国会外の大衆運動と連動して、日韓条約反対闘争も活発化していました。この大衆運動の中で、共闘しつつも独自の潮流として60年安保を闘ったブントを継承した学生たちの運動も足並みを揃え始めました。この潮流は、ブントの日共批判を思想的路線的に継承し、日共の「議会主義」「一国主義」「官僚主義」を批判する新しい左翼の流れに位置していました。その中には「反スターリン主義」「永続革命派」が多くを占めていましたが、トロッキストの影響を受けつつも、必ずしもトロッキストのみを意味したわけではありません。
 この新しい左翼は、日共の「議会主義」「反米民族民主主義革命」には、「暴力革命」「日帝打倒社会主義革命」を掲げ、「インターナショナリズム」を旗印としていました。そして、これまでのソ連に統合されている国際共産主義運動を「一国革命の総和」と批判し、世界革命を求めます。こうした潮流はニューレフト(「新左翼」)と呼ばれ、日本だけの現象ではなく、資本主義国中心に、既存の共産党のあり方を批判する新しい左翼勢力として成長していきます。
 日本の新左翼運動は、64年6月に東京都学生連合(都学連)再建準備大会を実現することで、60年ブントの流れを継承する学生運動として、統一の兆しが示されてきました。関西では、60年安保闘争を闘った勢力は、一部トロッキー主義へと流れつつも、関西ブントとして以降も闘いを継続していました。63年にはトロッキスト潮流の「革命的共産主義者同盟」(革共同)の中から、60年安保ブントを継承した本多、北小路さんらが、暴力的対立の中から、「革共同中核派」として分裂し、新しい革命党として出発しています。一方で、ブントの流れを組む「東京社学同」が再建されるなど、これらの勢力の動きが下地となって、都学連再建準備大会を進めていました。この都学連勢力は、64年9月には「米・原潜寄港阻止横須賀集会」に2千人が参加し、組織的再建と共に、街頭闘争も活性化していきます。10月・11月と米原潜寄港阻止・日韓会議反対闘争を闘い、12月には「原潜阻止・日韓会議反対全国学生共闘会議」を結成しています。

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(1964.11.7横須賀)
 この頃には、日共の指導下にあった平和と民主主義のための学生連合「平民学連」は、「全学連」として再建され、新左翼系の活動を「トロッキスト」とか「暴力主義者」と否定し、別個に敵対的な潮流として学生運動を形成しています。
 65年に入ると、学生運動、ことに新左翼運動はラジカルな活動スタイルで新しい生命力をみなぎらせて混迷の時代に終止符を打ち、統一の流れに向かいます。これらの新左翼潮流の特徴は、かっての60年安保ブントがそうであったように、大衆行動、現地闘争をひるまず誠実に闘い抜くところにありました。つまり、権力の弾圧に抗して闘う以上、先鋭化は避けられない道を歩み続けるのです。
 65年2月、椎名外相は日韓条約協議のため韓国訪問が決まり、この椎名外相訪韓阻止羽田現地闘争から、秋の日韓条約を巡る国会での大詰めを迎えて、激動の日韓条約反対闘争が続きます。

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(1965.2.16椎名外相訪韓阻止闘争)
 このころのブントの再建過程を見てみると、60年安保闘争を闘った関西ブントは、京都府学連を中心にして、ブントとしての活動を継続していました。64年9月には、関西ブントとしてブント中央委員会を開き、地域の組織拡大を掲げ、65年4月には新しい学運動論を提出しています。「政治闘争・社会政治闘争―第三期学生運動論」というもので、京都府学連書記長の一向健(塩見孝也さんのペンネーム)によって提出されています。
 65年6月には、ブントは東京や関西地方含めて共産主義者同盟(統一委員会)結成大会を開きました。関西・東京のブント社学同を中心にして、ブントを全国組織化し、「第二次ブント」を結成したわけです。この再建されたブントの議長に松本礼二さんが就きました。(その後、66年5月第2回ブント大会において「共産主義者同盟の全国的確立・大ブント構想の一環」としてマルクス主義戦線派(マル戦)との統一を決定しています。)そして65年7月31日に、社学同再建大会を開き、社学同も再建しています。社学同は、全国委員会の委員長に高橋茂夫さん、副委員長に塩見孝也さんと高原浩之さん、書記長に斉藤克彦さんを選び、第二次ブントとして闘いつつ、全学連再建にむけて活動を重視していきます。この時期には、ベ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)も結成され、ベトナム戦争反対闘争と、日韓条約反対闘争が勢いよく盛り上がっていた時です。65年7月、ブント社学同の再建のころ、労働組合の最大組織の「総評」青年部、社会党の青年部の「社青同」、ベ平連の小田実さんらの呼びかけで「ベトナム戦争反対・日韓条約批准阻止のための反戦青年委員会」(略称「反戦青年委員会」)が結成されます。それは、労働組合などの42団体、ブントら10の左翼団体を含む、非日共系の統一戦線的な団体として、社会党と総評の枠内から生まれたものです。こうした時代の転換期の65年4月に私は明治大学に入学したわけです。

2.全学連再建と明大「2・2協定」
 65年の日韓条約反対闘争を経て高揚した学生運動は、66年に入っても拡がり続けました。同じころ、学費値上げ問題が深刻化していきました。これは、全国私学共通の問題としてあったためです。慶應大学同様、早稲田大学でも学費値上げ反対闘争は150日間にわたるバリケードストライキで闘いぬきました。しかし66年、文学部バリケードが撤去されてストライキ闘争は幕を閉じさせられました。だからといって、闘いは死んだわけではなく、学生たちも、また、党派的な活動も、良くも悪くも強固にきたえられたのです。そして闘いは各地に広がりました。66年には横浜国立大学では、教員養成制度の改悪阻止全学ストライキ、慶應では専門科目削減反対闘争、立教大では学館の管理運営や生協の闘い、東大では五月祭警官パトロール抗議闘争、青山学院大では処分反対闘争、京大では自衛官入学反対・フォード財団委託研究反対闘争など拡大していったのが66年です。明大でも66年から学費値上げ反対闘争が本格化します。
 65年日韓条約反対闘争を都学連として大衆運動の一翼で闘いぬいた成果をふまえて、66年3月、都学連指導部を中心にして、12月には全学連を再建するという方針を決定しました。そして、すでに「はたちの時代」(「1960年代と私」第一部)で述べたように、66年12月、全国35大学、71自治会、1,800人の結集参加によって、全学連が再建されています。民青系全学連、革マル系全学連に続いて「三派全学連」がここに結成されたわけです。

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(1966.12全学連再建大会)
 この66年12月の三派全学連の再建は、当初から激しい怒号や論争という、後の分裂を思わせる出発をなしています。それはまず、大会前からこれまでの全学連の継承のあり方をめぐってもめています。
 中核派は「第20回大会」を主張し、社学同は「第17回大会」とすべきだといい、社青同解放派は「第1回大会」を主張して折り合えないのです。その結果、結局「全学連再建大会」とのみ呼称することになっています。論争しては妥協点をみつけながら、全学連再建大会は、基本スローガンと3大基本路線を決議しました。基本スローガンは、「侵略と抑圧に抗し、学生の生活と権利を守れ」を採択しています。
そして、3大基本路線は
1.我々の闘いは政府・支配者階級の攻撃に対決し、学生人民の生活と権利を守る闘いである。
2.この闘いは、弾圧と非難と孤立に耐えぬく実力闘争以外に貫徹しえない。
3.その為の闘争組織を作り、闘いの砦・自治会に結集して闘う。
というものです。そして以上の方針を執行する中央執行委員会メンバーを選出しました。(中執メンバーの構成は、三派各9名、書記局構成は「社学同」「中核派」各5名、「解放派」3名、「ML派」と「第四インター」は執行部人事に加わらなかった。)全学連委員長は「明大社学同」の斎藤克彦都学連委員長が選ばれています。
 明大記念館で行われたのは、2日にわたる全学連大会の最初の日だったと思います。ちょうど、12月1日に、二部学生大会で民青系執行部の学苑会(二部夜間部学生の中央執行機関)から、対案によって60年安保以来、学苑会執行部を奪回して活動をはじめたばかりの私たちも、この明大バリケードストライキの中で行われた大会を見に行ったものです。革マル系全学連による妨害の動きと、機動隊による包囲の校門外の態勢、構内は明大当局の監視もありました。激しい野次と熱気、しまいには、壇上にかけあがっての小競り合いと、何を決めているのかよく理解できない大会でした。中断して議長団が話合ったり、わけのわからないうちに大会は終了しましたが、明大記念館を轟かすような大勢によるインターナショナルの歌は素晴らしかったと心に残りました。この再建全学連大会は、全学連委員長斉藤克彦(明大)、副委員長蒲池裕治(同志社)と高橋幸吉(早稲田・解放派)書記長秋山勝行(横国大・中核派)を選出しました。
 全学連が結成されたことは、当時は、全面的に学生の利益となる闘いの強化だと思っていました。でも、それにはプラス効果とマイナス効果があったと、後知恵的ですが、とらえ返すことができます。プラス面は、全国の大学が「学問の自由」「大学の自治」を土台に共通の問題を個別大学の枠を越えて考える基盤が生まれたことです。共通に直面している問題を理解しあい、相互に支援し合って共同して解決する条件が生まれたことです。日本政府に対する政治闘争においても、野党社会党や共産党、労働組合、総評、産別や「反戦青年委員会」などと、「全学連」として共闘し、統一行動もとれるようになります。また、各大学も全学連と結びつくことで、共通の政治課題にすみやかに行動しうる有利な条件が生まれました。また、明大もそうだったように、日共系による大学を越えた地区党らを含む組織的な競合、対立に対して、私たちも組織的拠り所を持ったことは有効だと思っていました。
 しかし、否定面もありました。それは第一に、以降深まる党派の争いの影響です。すでに「都学連」として、日韓条約反対闘争を闘ってきた街頭行動にも現れていましたが、全学連の主導権をめぐって、中核派、ブント、社青同解放派、ML派などの争いが絶えずくり返されたことです。世界各地の解放・革命組織と共同したり、交流してきた私自身の経験に照らしてとらえ返すと、党派闘争によって殺人に至る持続的な「内ゲバ」暴力は、日本の左翼運動にとりわけ特徴的な傾向であったと思います。
 これは第三インターナショナルの「加盟条件」に示され、スターリン時代に厳格に適用された「一国一党」の原則の無自覚な教条化なのかもしれません。自己の党の「無謬性」によって、「唯一性」を主張し、他を認めないあり方です。他党派を批判することで自党の「無謬性」を理論的に証明し、それを立脚点として自己正当化していきます。スターリンやスターリン主義を批判しつつ、「唯一性」と「無謬性」の拘泥は、同じ陥穽にあると思わざるをえません。結局、理論、政策、路線の競合のみならず、物理的に相手を解体しようとする「内ゲバ」に至り、自分たちの側からしか物事が見えず、対象化しえない分、共に闘うべき人々を離反させる結果に至っていきました。
 第二の否定面は、やはり第一の党派のあり方の影響でもありますが、大学の自治会が党派の「下部組織」のような位置に陥ったことです。学生運動や、自治会活動は、革命を目指す党派からみれば、重要な一翼ではあっても、そこに党を代行させることはできません。全学連は「大衆闘争機関」であり、学生運動を革命党派の「下部組織」のように位置づけるあり方は、ますます全学連執行部や自治会人事を権力闘争の場にしていったのだと思います。逆にいえば、党派は大衆運動機関の質にとどまっていたともいえると思います。
66年12月、全学連(三派)は再建され、明大社学同の斎藤克彦さんが委員長となりました。このことは明大学費値上げ反対闘争に作用したといえます。すでに「はたちの時代」(「1969年代と私」第一部)の明大学費値上げ反対闘争で書いたように、再建大会から2ケ月もしないうちに、いわゆる「2・2協定」が調印されています。
明大の学費値上げを、学生代表らとの合意を破り、理事会が一方的に学生へのダイレクトメールで通知するという事件が66年12月に発覚した後の闘いです。学費値上げの必要性を問い、学問の充実や「自治」をめぐる問題とあわせて、1月から話合いが続いていました。学費値上げ以外の方法を学生側は問い、理事会に誠意を求め続けました。理事会側は66年12月15日の正式表明まで、のらりくらりと「値上げをする」という確答を避けていました。しかし理事会側もそれまでは一時期値上げすることを迷っていたし、また、進歩派といわれた学長小出康二さんは「値上げ撤回を考えてはどうか」と、宮崎学生部長(当時)に相談したりしていました。66年には「値上げ凍結」で話合う機会もあったかもしれません。しかし67年1月には、すでに値上げが示された上で話合いが続いていました。そして1月30日、機動隊が導入され、理事会はこれまでの妥協をも撤回しています。全学連委員長を引き受けたばかりの、明大社学同のリーダーたちは、学長名による1月30日付学費値上げ反対の昼間部と夜間部の闘争機関の「解散命令」後にも、何とか収拾しようとあせったのでしょう。

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(1967.1.30明大機動隊導入)
全学連の中で、ブントとしての勝利的成果をつくりたかったのかもしれません。2月になれば、入学試験が強行され、大学自治は再び警察権力の介入で壊されてしまい、処分者を出さざるをえない現実も予測されていました。当時、体育会右翼の激しい攻撃で、学生大会を開くことも、収拾案を民主的に決議採択することも、難しかったかもしれません。しかし、他の方法はとれなかったのでしょうか?2月1日の明大社学同会議では「理事会との手打ちに反対」して「継続討議」を決定して散会したのですが、リーダーたちは、その足でホテルに向かい、理事会と協定に調印しました。これは社学同仲間にも、学生たちにも裏切り行為でした。「2・2協定」の覚書よりも、ほんの少しましな「明大改革案」を理事会側が提出し、「叩き台」として話し合っていたのは、1月29日から30日の明け方のことです。学費値上げの白紙撤回には程遠くとも、力関係の結果がそこに一定の改革として示されていました。その「叩き台」をふまえて、昼間に明治大学構内で調印と記者会見を公明正大に行ったなら、もっと違った展開になったでしょう。大学での調印はできたはずで、「暁の妥結」といった「煽情的」なニュースとして社会に伝えられることはなかったでしょう。調印責任者の大内学生会委員長は、「2・2協定」合意後に、まず学内に戻り学生に説明するつもりだったようですが、順序が逆だったのです。まず中執会議を行い、学生大会に臨み、全学生の決議機関の採決を経て当局と交渉に入るという順序の逆、理事会側とスケジュールを決めて調印し、その後、それを既成事実として社学同仲間から合意を取り付けるつもりだったのでしょう。しかし、この「2・2協定調印」は他党派ばかりか、まだ統一再建して間もない社学同の他の大学の仲間たちからも怒りを買いました。中核派は、明大昼間部学生会室に殴り込みをかけて、直接当事者ではなく、むしろ批判者であった人たちに「お前は社学同だ、自己批判しろ!」とリンチしては「自己批判書を書け」と迫っていきました。こうした暴力沙汰の危機と、「2・2協定」白紙撤回求める声明が、あちこちの明大の学部執行委員会から表明されました。当の合意した当事者たちは大学に近づけなくなってしまったせいか、行方が知れません。

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(2・2協定)
 和泉校舎は、やはり社学同系が執行部でしたが、2月1日の社学同会議では「妥結」に反対していた人たちです。彼らは学生集会をただちに開き、「ボス交の2・2協定は無効だ」と宣言しました。全学闘争委員長であり、学生会中央執行委員長である大内さんは、工学部生田校舎の方にいるらしいのです。大内さんは、明大新聞に次のように述べました。「これは(「2・2協定」のこと)現実の力関係の上での休戦であり、次のステップのための妥協である」と。しかし、和泉校舎にも神田駿河台校舎にも公然と戻って説明できる条件は失われています。ブント自身も再建されて間のない寄せ集め的で、一枚岩でもありません。ブント内の元「社学同統一派」が全学連委員長斉藤克彦さんらが属していたグループだったので、ブント内からも斉藤一派追及が続いていました。この件で、ブントは再建全学連斉藤委員長追放と、中核派の秋山勝行委員長代行という事態を認めざるを得なくなりました。その分、中核派もブントも「非妥協主義」が以降、前面に主張されていくようになったと思います。また、この件で「自己批判」を迫られたブントも「ボス交斎藤一派路線」を否定し、中核派と競うように、政治的「妥結」や、大学当局との「合意」を否定し、「革命における改良闘争」をとらえる観点を棄てたように思います。これまでの大学当局との改良・改善の話合いではなく、「白紙撤回」を断固求める道へと進むことになりました。それは後に「革命的敗北主義」として路線化されていきます。

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(2・2協定反対のビラ)
 今からふり返ると、明大学費闘争は2つの点で「学生運動の岐路」に立っていたように思います。一つは、個別大学自治会の活動における改良闘争を否定する方向に一歩も二歩も踏みだしたことです。もちろん、全学生を結集し白紙撤回を求める闘いの勝利もありえます。66年の明大の学費闘争での可能性や、68年2月、中央大学の学費値上げ反対闘争は白紙撤回を実現しています。それは、現場の指導部が主体性をもって、よその介入をはねのける力関係や、当局側の考えも作用しています。学内自治を守り、あくまでも警察機動隊権力の介入を許さない大学当局もありました。勝利かゼロか(実際にはゼロ以下)という闘い方の他に、改良闘争も条件闘争として位置づけて闘う余地は、まだ当時はあったと思います。それらを否定する方向に導いたのは、党派の介入の否定的な動きです。「ボス交」の2・2協定にみられた「決定の独占」にも、また、以降の「白紙撤回」一辺倒の闘いのあり方にも、党派的な利害に自治会の活動が制約されていったといえると思います。
 もう一つの点は、「ポツダム自治会」の否定という名の「非民主」の常態化についてです。明大学生運動は、ずっと、クラス代議員による決定に基づいて学生大会を学生の最高意思決定機関として、自治会は運営されてきました。私たちが夜間部学苑会を民青系から奪取したのもまた、学生大会の多数派形成をもって行われてきました。多数派形成は、学生の要求と向き合わなければならず、常に足かせのように執行部の党派的飛躍や、それら一辺倒の志向を問う作用がありました。「ポツダム自治会は形がい化した民主主義だ」と批判されながらも、クラス討論を行うための「総学生の意志」を無視しえない規律がありました。明大においても、早大や慶大同様に、自治会組織とは別個に闘争機関を結成して闘ったのですが、学生大会ルールを大切にしていたと思います。学生大会は、直接民主主義ではないけれど、全学生に向けて開かれた論争があり、民青系と激しく論じつつ、その中で多数派形成し、方針が決着していきました。全学連再建時の基本路線にも示されたように、自治会を基盤に、自治会と別個に「闘争機関」を作って闘うことを奨励していました。この思惑は、二重性を持つことで、自治会をつぶそうとする権力の攻撃に対して「闘争組織」が責任を負う構造をつくる防衛的意味と、自治会の制約をとっぱらって、または自治会権力を掌握できなくとも、より先鋭化して闘う攻撃的意味が含まれていたと思います。早大闘争の時にも明大闘争でも、「ポツダム自治会批判」とともに「闘争機関」を結成して闘う方式が広がっていきました。それは後の「全共闘運動」へと時代を拓き、学生運動の広がりと全国化をつくり出していく方法となりました。
 そこには、闘う意思のある者が直接民主主義形態で闘う良さがありました。同時に否定面としては、全学を代表する自治会の学生大会決議などが軽視されるようになっていったのではないかととらえ返します。そして、逆に党派の意志が深く運動を支配する構造になったのではないかと思います。量的な学生の同意がなければ、政治的突出が許されないと、当時の日共のようなことをいっているわけではなく、党派と学生指導部の側に、その「制約」の自覚と方法が欠けていたことこそ問題としてとらえています。明大についていえば、私の知るこの67年から69年の闘いにおいては、大学の自治会・学生大会を第一義とする闘い方をゆるがせにはしなかったと思います。しかし、明大闘争後「2・2協定」後は、「非妥協」が闘いの「モラル」となり、以降も引くべき時に引けない新左翼学生運動の、良くも悪くもラジカルな闘い方を拡大していくことになったと思います。私自身がそうであったように、闘いの渦中にあっては「妥協」が不純で「裏切り」に見えてしまうのです。
 67年明大学費闘争のあとには、国際基督教大、法政大、佐賀大、東洋大など、全学連再建とともに闘いは多くの大学へと波及していました。そして、バリケードストライキに対して機動隊導入、全面衝突が続き、渾身を賭した学生たちの砦は、次から次へと破壊されていました。明大闘争で闘い切れなかった個別闘争の「改良と革命」や、党派のあり方は問われないまま、街頭政治闘争、運動戦の拡大は、「非妥協」を最良の闘いとして突き進んでいきます。2・2協定を経て中核派は「右翼体育会・ガードマンから、はては国家権力を使って暴力的に身構えた学校当局の最後的拠り所をつき崩す闘いは、唯一、学生の大衆的な実力闘争の展開であり(中略)闘いそのものをより目的化し、自覚化され、目的意識と自覚によって武装された闘いが明大闘争にもちこまれること」を求め、ブントは「大衆自らの闘争ヘゲモニーによる実力抵抗部隊こそ、来るべき階級決戦をプロレタリア革命に転化する主要部隊に発展するであろう」と述べています。実力による「徹底抗戦路線」は、明大学費闘争の「教訓」として67年の流れを中核派のイニシアチブ中心に形成されようとしていました。

3.明大学費闘争から再生へ(大学内の闘い)
 明大学費闘争は、すでに述べたように、理事会と昼間部学生会の「合意」に近づいた67年1月29日、徹夜団交中の1月30日早朝の機動隊導入、バリケード解除と「ロックアウト」となり、昼間部全学闘争委員会と、全二部共闘会議の「解散命令」が学長名で発令されてしまいました。昼間部社学同側は、29日、合意ぎりぎりまでこぎつけたのに、ML派と中核派による「白紙撤回要求」と「徹底抗戦」の他大学の動員に、大学院の団交会場が包囲され、「機動隊導入」という事態に至ったという思いが強かったようです。昼間部中執としては、責任ある形で決着させたいと主観的には思ったのでしょう。それが、入試実行と引き換えに奪われた堡塁をとりもどす突破口として、理事会側とのかけひきから「2・2協定」という過ちへと至ったのでしょう。
 その結果、大学当局と一体化した体育会の暴力パトロールは強化され、大学はロックアウトされ、学館にも一時近づきにくい状態に陥りました。ML派らは法政に、また、社学同系は中大学館を拠点に対策を練っていました。ちょうど、「2・2協定」後の2月11日は初めての「建国記念日」となる日で、雪が降り続いていました。「神話を建国の日とするのは、再び戦前への復活だ」と、当時、建国記念日制定に反対していたのですが、2・2協定で私たちはそれどころではなくなっていました。降りしきる雪の中、黒い学生服の一団が日の丸を掲げた行進をしてきたので、私たちの友人もデモを組み、雪つぶてを日の丸の一団に向かって投げたりしていました。
 「2・2協定」に反対を表明していた和泉校舎の執行部と、全二部共闘会議は、「入試阻止闘争」を宣言しました。ロックアウトで体育会系の「防衛団」のうろつく神田駿河台校舎周辺で、ゲリラ的にビラまきを繰り返しました。全学連もそれを支援しています。そして、2月20日、明大入学試験当日、全学連の入試阻止闘争の呼びかけで、御茶ノ水駅一帯は騒然となりました。300人以上が御茶ノ水駅に結集し、明大前通り側の西口改札口前ホールでスクラムを組み、横5列くらいの隊列を組んで渦巻デモを繰り返して座り込みました。駅のホ−ムでは乗客があふれ、ホームから落ちたり大混乱となって国電は電車の運行を停止しました。改札口ホール前では、「2・2協定」を批判した社学同の全学連副委員長成島忠夫さんや、全二部共闘会議のリーダーたちがアジテーションを繰り返して、入試阻止を訴え続けます。国電側は機動隊出動による実力排除を要請し、成島さんらリーダーの何人も逮捕され、駅の構外へと押し出されてしまいました。
 そのため、東京医科歯科大学構内に再結集し、工事用の丸太を持った学生を先頭にして、明大駿河台通りのデモ行進を続けました。御茶ノ水駅前などで機動隊とはげしく衝突しましたが、この日、2月20日、結局入学試験は強行されました。そして、この日の入試阻止闘争のデモをピークに、学費値上げ反対闘争は封じ込められていきます。一方、「2・2協定」の当事者であった明大理事会と学生会中執は、3月28日と31日に駿河台本校の第二会議室で、「2・2協定」に基づく話合いが行われました。明大新聞によると、「28日午前10時から法人側からは長野理事長、武田総長、小出学長ら常勤理事が出席、学生会側も大内委員長ら10名が出席した」。この日、学生会中執から3月25日付で法人理事会へ提出された意見書の趣旨説明が行われたという。31日には、中執に対する理事会の見解が述べられて、4月13日に理事会と中執の共同声明を発表することを相互に確認したということです。大内委員長は、「意見書は団交の継続として行ったものである。この中で問題点を惹起し、その基本が認められれば、細部については今後団交によって話を進めたい」と明大新聞に述べています。
 当時、二部の学苑会は臨時学苑会学生大会を3月24日に駿河台本校の91番教室で開催し、「学費値上げ反対・白紙撤回」を求める大会決議をめざしました。
 法学部と商学部の学部自治会を握っている民青系の執行部は、昨年、学苑会中執を追われたこともあって、この臨時大会をボイコットによって流会させようと企てました。そのため、代議員の出席過半数入場が遅れ、6時開始はようやく7時半を過ぎて大会を成立させて、「2・2協定破棄」を正式に決定しました。その結果、昼間部の学生会中執は「2・2協定」に基づいた改善要求闘争に入り、夜間部学苑会中執は、「学費値上げ白紙撤回」というこれまで通りの路線を進むことになりました。
 法人理事会と学生会は、4月14日、確認文章「基本方針決定」がとりかわされました。4月28日、大内委員長は記者会見でそれを明らかにしました。明大理事会は、一段落したとして「人心一新」名で理事会を総辞職し、学生を十数人処分することを表明したのです。
 その流れに呼応するように、5月初めになると大内委員長は「経済的理由」をもって「休学届」を提出してしまいました。何とか形をつけるまでと踏ん張っていたのでしょう。本人の気持ちはどうあれ、無責任なあり方を露呈し、大学側に利用されて終わりという状態でした。学苑会は「2・2協定破棄・不当処分反対闘争」を決定し、4月23日に理事会に対して団体交渉を要求することを決定しました。そして、酒田委員長は記者会見を開き、6月末に無期限授業放棄、9月末には再度ストライキ態勢をとると発表し、長野理事長の「人心一新」理由の辞任や、学生処分も許さないと表明しました。「2・2協定」に反対する一部二部合同討論会を開き、5月23日には理事会との団交を要求することを確認し、大学側に学生組織の解散命令を出したことに抗議文を出すと同時に、大内委員長に自己批判を求める要求書を送ることを決めています。「この闘争は長引くと思うが、1年続こうが2年続こうが、あくまでも白紙撤回運動を推進していく」と表明しつつ、学生側には厳しい前途が予想されていました。長野理事長は「学生処分後に辞任したい」と述べたことがわかりまた、教授会も動き出しました。
 このように「2・2協定」以降、明大学生運動は、不統一な方針のままでした。大内委員長は、大学当局側にだけ「責任を果たすつもり」で、学生を放り出したまま、突如「休学届」に及んだのです。大内中執執行委員長に対する批判は当然であり、学生会は立て直しが急務となっていました。中核派やML派から批判されてきた「2・2協定」以降の明大社学同は、自己批判しつつ、沈滞・消耗の中からも、とにかく学生に対する責任として、再び学費値上げ反対を闘う態勢に立とうとしている状態でした。これらの人々は、中核派のリンチを受けながらも、黙々と立看を書き、カッティング、スッティングという鉄筆によるガリ版のビラを作りながら、新入生歓迎集会を準備していました。こうした社学同再建をめざす人々に同情して、私も社学同に参加していくことになるのは、この2月から3月頃であったと思います。
 そして、これまで明大二部になかった社学同の拠点を作り出していくことになります。その場として、現代思想研究会(現思研)という同好会サークルを始めることにしました。それは後に述べます。昼間部では、新入生歓迎準備を担ってきた者たちが、大内委員長の休学届によって矢面に立たされ、批判をうけつつ、大内批判をしながら中執体勢維持が問われました。駿河台、和泉、生田という三つの校舎の定員24名の中執メンバーによる新体制づくりに対し、大内委員長の出身学部である生田校舎は出席しなかったため、流会となるなど学生会中執内で対立が生まれていました。「2・2協定」まで、全学的に掌握してきた明大ブント・社学同の内部で、「2・2協定」はやむを得なかったと肯定する立場と、大衆的民主的な学生大会などの正式な手続きを経ていないので否定されるべきだという立場の違いがあったのです。生田校舎のボイコットによって、中執は流会をくり返しましたが、新入生も入学し、学内が正常化されつつあり、また、全学連による砂川現地闘争などの運動も問われていました。明大学生会は全学連の重要な動員の一翼を占めてきたし、新しい政治闘争に参加していくためには、学生会自身が態勢を整える必要がありました。

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(1967.5.16砂川総決起集会)
 全学連は、67年5月16日、中大学生会館に350人以上が集まり「砂川基地拡張実力阻止闘争全学連総決起集会」を開いています。中核派の秋山全学連委員長、社学同の成島副委員長らのアピールに応えて、明大からも多くが参加しました。また、すでに長野理事長辞任による「人心一新発言」によって、学費闘争を闘ったリーダーたちを処分することと抱き合わせに行われることが迫っており、学生会中執は早急の体制づくりが情勢的にも問われていました。明大短大学生会も5月25日、「2・2協定破棄」「不当処分反対」を採択しています。また、5月31日、学苑会も定例学生大会を約300人を集めて開催し、「2・2協定破棄」ストライキをめぐる全学投票を決定しました。
 6月3日、やっと昼間部学生会中執会議が開かれました。これは小森副委員長が中執開催を再度呼びかけ、大内委員長が小森さんを委員長代行とする旨の委任状を提出して、やっと学生会としての決定機能を回復したためです。「『2・2協定』の是非は、今後討論で決定する」と棚上げし、「自治会として学館運営問題、砂川基地拡張反対闘争、不当処分反対を闘い、再度明大を全国学生運動の再拠点としていく」と確認しました。

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(1967.6.23学費闘争処分発表)
 しかし、すぐの6月23日、小出学長名で、退学11名を含む21名の大量処分が発表されてしまいました。明大新聞によると次の通りです。「この処分は、さる昭和41年(1966年)11月、和泉学園封鎖で端を発し、約70日間紛糾した昭和42年度学費値上げをめぐる反対闘争の責任を問われたもので、今回の措置は、昭和37年維持費闘争以来、初の学生処分である。これに対し、学生側は、発表と同時に行われる大学側の記者会見場になだれ込み、小出学長との会見を申し入れた。このため、記者会見は中止された。今後学生側は『処分撤回闘争を組み、ハンストや授業ボイコットに入る態勢を組む』と発表。一方、理事会は、かねての公約通り、7月初旬までには総辞職するものとみられている」と載っています。厳しい退学処分は、小森委員長代行ら、昼間部の闘いの再建をめざしている学生たちに向けられました。また、二部からの退学処分は、酒田全二部共闘会議委員長も含まれていました。「一連の暴挙が、全学闘争委員会ならびに全二部共闘会議の指導によるとの判断から、すでにこの2組織に対して解散を命じたが、今回各学部教授会の会議に基づき、上述の違法行為に組織上の責任を有すると認められた学生に、学則第57条により懲戒処分に付する」と6月23日付明大小出学長名で処分が発表されたのです。
 6月17日からは、処分と同じ頃、2月20日の入試阻止抗議行動「御茶ノ水駅事件」で起訴された成島全学連副委員長らの初公判が東京地裁で始まっています。
 明大学生会も学苑会も、「処分撤回、学長団交要求」を掲げて激しく抗議行動を始めました。二部では「学費闘争処分撤回」「学長団交」の要求を掲げて大学院前に午前9時から夜10時まで無期限座り込みを6月30日から始めました。

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(1967.7.7学長宅デモ)
 一方、和泉校舎でも「処分撤回・対学長団交」を要求して、退学処分を受けた学生らが、7月3日からハンガーストライキに入りました。そして7月7日、和泉校舎では「処分撤回団交要求」を訴えて、百余名がバスで駿河台へと集まり、学長団交を要求しデモをかけました。その夕方には、また、小出学長宅を包囲すべく、シュプレヒコールで学長宅に向かい、機動隊ともみあい、4人が逮捕されてしまいました。機動隊が待機して学生らを蹴散らしたのです。夜間部も7月に入って、学苑会中執も抗議に授業ボイコットを呼びかけ、全学投票を行うと決定しました。このように、学費値上げに反対した学生指導部に対する大量処分は、ついに学生たちが再び闘う意志を固める状況を作り出していきます。夏休みによって闘争が終息することを狙った大学側の処分であったのですが、共に闘った者たちは、自分は処分されず、共に闘ったリーダーたちが処分されたことで怒りが収まらず、夏休み中も次々と結集し、9月新学期に向けて闘う方針を固めていきました。退学処分を受けた者たちも、引き続き仲間と共に明大自治会活動の中で、その一員として、闘いを続けていきました。昼間部では、退学処分を受けた小森学生会委員長代行に代わり、10・8闘争後、中央執行委員会によって米田新委員長を選出しました。学生会は、ようやく「2・2協定」から転換し、明大社学同、明大学生運動の傷をいやしながら、闘いの体制をつくりあげる方向に向かいました。米田委員長は「とにかく官僚主義といわれる中執は、平和と民主主義の運動のバネにはならない。だからクラス討論の徹底によって、大衆からの反発と乖離を避けていきたい」と、自治会執行部再建の決意を述べています。
 このように「2・2協定」にもとづいて、昼間部学生会は「自治」や「大学の民主化」など、話合いの道に踏み出したにもかかわらず、その当事者だった学生は処分され、改革を約束した理事会も総辞職してしまったのです。その結果、大学改革、学館管理運営など、明大当局との今後の交渉の土台と方向はうやむやになり、新学生会執行部も「2・2協定」については新たな方向を求めつつ、すでに、67年のベトナム反戦闘争の盛り上がりからのちの10・8闘争を経つつ、明大当局批判を強めていきました。当局側が、大学改革を示さず、学館管理運営は学生自治のもとに、自主管理は強化されていました。また、学苑会においては学費闘争ストライキをめぐる「全学投票」を行いながら、学苑会中執メンバーが、投票箱を事前にのぞいていたことが、研究部連合会執行部によって、偶然、夜間に目撃され、その有効性を損なったことを学苑会中執が自己批判を表明するという事件も発生しました。次々と新しく生まれる事態への対応、ことに夏休み明けからベトナム反戦運動の全学的な参加、10・8闘争、その後の高揚で「2・2協定」と「不当処分撤回」を掲げながら、有効な闘いを組み得ませんでした。当局側は「処分撤回」を拒否し、退学・停学を受けた者たちの人生を支える力も十分ない分、当事者たち自身に委ねられていくようになっていきました。結局、全学の自治と決定をもって闘いつつ、その敗北の責任は各自に負わされる結果に至ったのです。個別大学の「ポツダム自治会」と呼ばれる与えられた自治の代議制民主主義の数によって決定された闘いの限界を痛感した者も多かったのです。
 こうした闘いの挫折を経て、「ポツダム自治会」の民主的多数派形成の闘いと同時に、少数派であっても、直接民主主義によってヘゲモニーをとろうとする全共闘的な闘いの萌芽や、個別大学の闘いから普遍的な政治闘争を党派へと求める方向へ進む者もいました。
 そうした時代、三派全学連のけん引するベトナム反戦闘争を中心とする街頭戦へ!という闘いの方向へとエネルギーを注ぎながら、活発な学生運動へと、67年から68年高揚していくことになります。
(つづく)

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ブログは隔週で更新しています。
次回は1月25日(金)に更新予定です。

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2025年「大阪万博」開催が決まった。テレビなどでは1970年の「大阪万博」を回想する報道が流されるようになったが、「人類の進歩と調和」という当時の万博のテーマに沿った報道で、万博で展示された技術が今の時代にどう生かされているか、というような視点がほとんどである。当時、万博は70年安保闘争から目をそらさせるものだとか、万博の意味を問ういろいろな批判的意見があった。また、ベ平連が中心となって「反戦のための万国博」(反博)が大阪で開催されるなどの動きもあったが、そういうものは報道されていない。

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(写真:反博)
そのような報道を見ていると、やはりもう1度この人たちの記事をブログに掲載すべきではないかと思った。それは「万博破壊共闘派」である。ブログのNo93(2009年7月)で「1969年万博破壊共闘派」というタイトルで記事を掲載したが、その続きの記事を掲載することにした。
「万博破壊共闘派」は、1969年、日本で最も過激な儀式集団といわれている「ゼロ次元」の加藤好弘氏が中心となって結成され、文化管理体制に向かいつつある万博に、破壊を持って闘うという方針で全国的に反万博の行動(万博破壊のティーチインや儀式大会)を展開した。
1960年代後半の前衛芸術運動、アートパワーの炸裂のすさまじさを見てみよう。
まずは、朝日ジャーナルの「文化ジャーナル」欄に掲載された記事である。

【アート・パワーの台頭―文化管理体制と万博破壊共闘派―】朝日ジャーナル1969.7.13
「あと八ケ月にせまった日本万博を目標にして、ハーマン・カーンなら、“全面戦争”と呼びそうな文化管理体制があり、70年にいたる文化・芸術の管理の里程標として、美術に限っていえば、毎日現代美術展、箱根の森美術館がおかれているといったらいいすぎだろうか。たとえば、微弱ながら毎日現代美術展に対して、若い作家、批評家の側からの“造反”の芽生えがみられたという事実。芸術が自由を求める場であったかぎり、だれもが意識するとしないとにかかわらず、こうした“万博気流”の息苦しさを感じていることは否定できないだろう。
 その息苦しさを太平洋戦争中の大政翼賛美術にたとえたのは、建築ジャーナリストの宮内高久だが、かれや針生一郎、久木浩二らによって編まれた「われわれにとって万国博とは何か」はたしかに時機にかなった発言であった。
<反制度・反管理>
 しかし、問題はこの発言者である針生一郎がほかならぬ毎日現代美術展の審査員の一人であったということ。また、現代美術展のあと行われた“ティーチイン”ではこの展覧会の“公開審査”要求の首謀者であったはずの批評家の石子順造、作曲家の刀根康尚は、こうした状況の複雑さにおそれをなした形にみえ、同じ審査員であった東野芳明や針生に軽くいなされたうえ、いっそ会場占拠に踏み切ったらどうだったのだと、逆にアジられろ始末だった。
 公募―審査―受賞といった外在的な管理機構の中で犯されずに存在するとされた芸術の内在的な自由、その独自の価値基準に対し、全面的な文化管理を想定してもなお安心していられるのか、というところにしぼられるはずである。さきに開かれたエレクトロマジカ展などをめぐって流行している“芸術のテクノロジー”論も、テクノロジーというのがじつはこうした管理機構をもふくんで、ほとんど全文明的な観点を持ってわれわれを取りかこんでいるものであることを考えにいれたうえで展開されるのが本筋であるはずだ。
 このティーチインで、いささか明確さを欠いたとはいえ戦闘的な姿勢でこうした視点をとったのは“0次元”の加藤好弘やアングラ映画の金坂健二であったろう。ビート時代から始まってヒッピーアートにいたったアメリカの地下芸術運動に一貫しているのがこの反制度・反管理の姿勢であったはずであり、日本のアングラが、体質の弱さを示したのは、そのへんの意識の不徹底もあったのではなかろうか。
<万博破壊の勢力>
 現在、加藤好弘によってひきいられる、いわゆる“儀式派”たちを中心として異常な盛り上がりを見せはじめた第二次アングラ勢力“万博破壊”をスローガンとする行動はそれを強化しようというものである。
 10年の“儀式歴”を持つ0次元を始め、末永蒼生らの“告陰”、“ビタミン・アート”秋山祐徳太子、そして関西にはランニング・アートの岩田信一、九州派の桜井孝身など多数のメンバーがおり、かっての“狂気見本市”から現在では“万博破壊ブラック・フェスティバル”と銘打って日本中を巡回し続けているし、パンフレット、地下新聞による活動もめざましい。儀式という形式にうかがわれる一種の精神主義など、もちろん問題を内側にはらんではいるが。

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<反博共闘派と大学共闘派>
 さる6月10日、これら万博共闘派は、はじめて京都大学教養部のバリケード内に潜入、学生ノンセクト・ラジカルが主体となった、いわゆる“バリサイ”に参加した。現在日本のニューレフト勢力を構成する知識人たちの論理をも“体制”であるとし、ゲバ棒に文化面で共闘しうるのは肉体による“狂気”のデモンストレーションだけであるとする彼らの主張のほうが、圧倒的に学生たちとのコミニュケーションを成立させた模様である。
 同じ10日の午後、京大の教養部本館の屋上で、かれらおとくいの全裸片手上げ整列儀式が敢行され、はじめて閉鎖中の学園紛争の場で“アート・パワー”が発揮されたよしだが、“関西プレイグループ”の水上旬が屋上から綱渡りの途中で地上に墜落、負傷するというおまけがついた。“狂気”を標榜してエスカレートする以上、この種の不祥事は、むしろつきものであって当然ということになるが、暴力の季節には芸術も暴力化しろということか。これ以外に芸術が時代に積極的に対峙する力を回復する道は残っていないのか、芸術家、知識人全般のノド元に刃のように突きつけられた問題提起としてこれを見る必要があろう。」

この「万博破壊共闘派」の一員として、京大の儀式にも参加した秋山祐徳太子が、「通俗的芸術論 ポップ・アートのたたかい」(1985年土曜美術社刊)という本の中で「万博破壊共闘派」について書いているので、それを見てみよう。

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【ゼロ次元商会反万博ににりだす】「通俗的芸術論」秋山祐徳太子著(引用)
『ゼロ次元に出会ったのは、もう20年も前に岐阜アンデパンダンに出没した頃である。名古屋に本拠があって、連日、儀式と称するものをやっていた。中でも面白かったのは、人の芝居を観に行って、そのまま自分たちも袋に入って舞台に出てしまい、芝居がどちらのものだか分からなくなってしまったというようなことだ。ある時は椅子をもち出して一日中椅子に座って移動してみたり、とにかく裸でくり広げる儀式がショッキングなものだというのは前から伝わっていた。
名古屋では岩田信市さんと加藤好弘さんが中心にやっていて、為夫・ド・コバンスキなるロシア人(いや日本人だった)もいたりしたが、加藤好弘さんが東京に進出してきた。
加藤さんは日常生活では明星電機というごく当たり前の事業を始めていた。むしろぼくはこの当たり前の日常の方に魅力を感じた。社員も出社時間から退社時間までは普通のサラリーマンである。言ってみれは一小市民の姿である。その人たちが、勤務時間の後に、ゼロ次元商会の一員に転身する。
ぼくはゼロ次元のいろいろな儀式を観たし、最後には共に行動した。なにしろ連日やっているので、自分たちでも回数は分からないという。その代表的なものをいくつか紹介すれば、ほくの家の近くを走っていた、今は無いが、⑤番の都電、目黒―永代橋を一日借り切って「市電車内寝体儀式」というのをやる。車内で男女が寝ころがってロープに縛られたりしている。そして奇声を発したりする。

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(写真:市電車内肉体儀式:「通俗的芸術論」より転載)
変な乗客が載っていると街行く人は理解に苦しむ。都電は正規の運転手が運転したまま都心へと走る、花電車にしては変だと思って中をのぞきこむ人もいるが、その好奇な顔がコッケイだ。いわば都営の電車が「狂気」を乗せて都心を走るという。そして大衆は次から次へと動くチンチン電車を観てしまう。ゼロ次元の素晴らしさは、日常を手玉にとって行為を展開するというところにある。
なんといっても見事だったのは、新宿全裸行進だろう。新宿紀伊国屋の通路を防毒面をかぶった全裸の一団が右手をあげて行進していく。通行人は目を白黒させて息をのむ。はるか一般人の常識を超える次元に大衆は白日夢を見るように放心してしまう。気がつくともう居ない。
また建国記念日には、おかしなお面をかぶって日の丸を手に手に万歳をする。政治次元を突きぬけていく何かを現出していく。

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(写真:ゼロ次元紀元節儀式:「通俗的芸術論」より転載)
あるときはモーニング姿で、渋谷ハチ公の前に正座をし、おもむろに右手を上げ、超音波バスまで行進する。風呂に行くイントロの部分があり、超音波にそのモーニングのまま飛び込んで、軍艦マーチ勇ましく儀式する。ゼロ次元は統一儀式が2,3あって、「ホーイ、ホーイ」という足上げ儀式というのはなかなか楽しい。外から見ると力んでいるように見えても中に入ると楽な気持ちになる。
なにしろこんなわけで毎度、週刊誌やテレビ、映画などにも紹介され、これに目をつけたキャバレーから出演交渉があり、出演することになった。ゼロ次元が出ると満員になって大盛況、大変結構なことと思いきや、あんまり面白いので、ホステスも客共々オマンの底から笑いころげてしまい、ビールの売り上げがのびず、キャバレー側も出演を断念しなくてはならなかったというエピソードがある。
またあるときは葬儀屋と間違えて電話がかかってきたりするという、もっともゼロ次元方式の葬儀ならさぞ仏さんも喜ぶと思うのだが・・・。
考えてみればゼロ次元も生活は明星電機、ぼくも東芝の社員と、いわばフツーのところに居たわけだが、いつの間にか「新宿少年団」という団体を作ってしまった。団体といってもぼく一人である。少年団なのになぜ一人なのかという疑問もあるだろうが、少年団にオジサン一人というのが面白いのである。
こんなことでいろいろと共にやっていくうちに、狂気見本市協会なるものができあがった。万博も開催が近づき、文化管理体制に向かいつつある万博に、破壊をもって闘うというウルトラな方針が出てきた。それとともに保安処分なるものもちらつき、狂気準備集合罪にもなりかねない法律も動き始めていた。ぼくは理論上のことはさておき、文化管理体制に対して、およそ芸術的でないものをぶつけるということに大変意義があるように思えたので、積極的にこの運動に参加することとした。とは言ってもぼくもサラリーマン。時間に制約があるのだが、その間隙をついて出動していくのである。さて全共闘は大学占拠によって全面的に旧体系を暴露していく。その直接行動は不可能に挑戦する純粋芸術のような行為である。我々はゲバ棒の代わりにいろいろな行為をやればいい。
そして万博を観る側から観られる側に移行するには、全世界のチャンネルをこちらに向けさせることが必要だろう。加藤好弘さんは「万博破壊共闘派とは旧文化体系破壊を象徴化する儀式屋の芸術蜂起である!」と力説する。実に的を射ている文句だと思う。(中略)』

同じ本の中で、朝日ジャーナルの記事にあった京大「バリ祭」への参加の様子も書かれている。

【京大にエロスの蜂起】「通俗的芸術論」秋山祐徳太子著(引用)
『銀座のビルに「EXPOまで、あと〇日」と記される電光掲示板がかかり万博開催が足早に近づいている。誰かがあのEXPOをANPOに変えてしまったらどうだろうかと発案し、なるほど場合によってはやる必要もあるかもしれないと思ったりした。
我々は3月に名古屋、京都、大阪、5月に九州と各地を転戦してきた。そして再び京都は京大バリ祭、大阪は万博会場へと出動する。
そしてその前日、池袋のシアターにおいて華々しくブラック・フェスティバルが開催された。ここでは女子も含めて一斉に全裸になり、一列にお尻を突き出したところに、ぼくが能で舞いながら「ドスン」と長い如意棒でお尻を突き、それぞれ向こう側に倒れていく、いわば文化管理体制の終焉を告げるべき儀式である。
ティーチ・インが始まるころ、私服の一団が観客にまぎれて入ってきた。明らかに一般観客とは違う、古くさい背広姿に一目瞭然にそれと分かるものを身につけていた。
京都への出発の日、ぼくたちは加藤宅へ早朝集合した。マイクロ・バスに「万博粉砕・万博破壊共闘派」タレ幕をつけ走り出すと、所轄署か警視庁さしまわしの車がピタリと我々の乗り込むバスをつけてきた。そのまま高速道路に入るまでつけられ、それ以降はたぶん各県警に連絡がまわったのだろう。
初夏の風がさわやかで、日本の象徴富士山にさしかかる。あらゆるところで富士山にお目にかかるが、こうして近くで見ると絵や写真ほどポップには見えない。なんとなく生きている感じで、少しずつ形が変わっていってるのではあるまいか。
浜名湖のインター・チェンジに入ると、むしょうにうなぎ丼が食べたくなる。浜名湖のうなぎは名物である。名物はすべてポップであるとぼくは説をたてている。うなぎで精力がついて、さらに「夜のお菓子うなぎパイ」などをみやげに買い、ドライブインの広場で予行練習を始める。居ならぶ旅行者や観光バスからは何が始まるのかと好奇な目を向けられる。
好奇な目をそのままにしておいて京都に向かう。途中、小休止していると京都の舞妓さんが金持ち風のダンナと車を降りているので、みんなで「マイコハーン」と言うと、ターザンと間違えたのか、さっさと逃げていってしまった。そのときぼくは、(う〜ん、なるほど、富士と舞妓は合うな)と当たり前のポップ風景を思い出していた。
バスが時代劇風な景色の中を進んでいくと、京の都が近づいてきた。今でこそ我々はバスで来られるが、昔ならば徒歩か駕籠にのってこなければならない。牛車というのが一番京に似合う気もする。昔でも文化管理体制にモノ申す人もいただろう。御上にタテつく不届き者ということなのだろうかね。
その不届き者たちが今、京の都に入ろうとしている。めざすは、京都大学である。バスは一気にスピードをあげて都大路を突っ走る。京都府警のパトカーはついてこない。そのまま教養学部正門に横づけするや統一儀式で全員横たわる。バスの上には名古屋のフォークグループが反政府的な文句を歌いあげる。正門には黒山の人だかりができてしまい、今度はまた全員片手あげ儀式で学内に入る。

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(写真:京大バリケードに入る万博破壊共闘派:「通俗的芸術論」より転載)
教養学部は封鎖中であって、大きな柱には「造反有理」「帝大解体」と記され、その窓は「4・28中枢霞が関占拠へ、社学同」など、今流のアクション・ペインティングよりはるかに見事に描かれている。
東に東大砦があるならば、こちらは西の砦ということになる。ふとぼくはこれが純粋芸術の場ではないかと思ったりする。このバリ祭(バリケード祭)こそが全ての管理体制から解放された自由の場であるのなら、我々はこの場でさらに自由の翼の一撃を世に示さねばなるまい。我々はそのまま、バリ祭委員に迎えられて地下解放区に入る。地下室はサイケデリック・アートと、ポップなものをまぜ合わせたような新芸術を展開していた。ニューヨークの地下鉄なんかもこんな感じなんだろう。
ここで作戦会議に入る。夜はここでティーチ・インを行うにしても、何かやらなければならないという気持ちが激してくる。そして遂にこの教養学部本館のベランダに全員、全裸で立つことを決定する。
階段を小躍りするように上がっていくと、初夏の陽光がさしこむベランダに到着した。これから数分後に狂気の世界が現出する。ベランダの内部で全裸になると、一勢に飛び出すタイミングを計った。これといった緊張感はない。羽根のついたヘルメットをかぶり直す。そして一勢にベランダに飛び出していった。フワーと宇宙空間に飛び出た感じで、重力がなくなっていくような気がする。前方には京大の象徴である時計塔がわれわれの狂気と向かい合う。ときどき恥ずかしそうに針がこきざみに震えているようである。ベランダ越に見た京大周辺の全景は美しかった。茶色の建物と緑の樹々が広々としている。京大の歴史の中でこんなことはかってなかっただろう。まさに我々のエロスによる芸術蜂起である。

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(写真:京大教養学部ベランダにおける反博全裸儀式:「通俗的芸術論」より転載)
下界が急に騒がしくなる。「何や何やあれは!」「チンポ出し集団か」と怒鳴っているのが聞こえる。水上旬氏が我々の前に出て、下にロープを渡している。どうやら降りるらしい。下には奥さんが赤いドレスを着て円形の白い布のそばに座っている。水上氏はロープにぶらさがって降りていく。三分の一も行かないとき、彼は地上に落下した。そのまま動かない。我々は不意なハプニングに現実に引き戻され、冷汗が伝ってきた。そのことでこの儀式を中止するわけにはいかぬが、人の生死の問題でもあり、下の状況を見て儀式を終了した。水上氏は奇跡的に命をとりとめたものの、重症であった。
それにしても<知>の象徴である教養学部本館における我々の<狂>は教育体系を打ち破る一矢であったことはあきらかである。』

この京都大学のバリ祭での教養学部本館のベランダの上で行った反博全裸儀式の様子が「アサヒグラフ」に見開きカラーで掲載されたことから、これを契機に猥褻物陳列罪で8名が逮捕されてしまった。そのようなことがあり、「万博破壊共闘派」が万博会場で儀式を行うことはできなかったが、それに代わって万博会場を全裸で走ったアーティストがいた。
これも本の中に書かれているので見てみよう。

【「反博」金メダリスト】「通俗的芸術論」秋山祐徳太子著(引用)
『仙台に糸井貫二さんという芸術家がいらっしゃる。通称を「ダダカン」という。ダダイズムのダダに自分のカンの字をつけたものと思われるが、たいがいの前衛的な芸術家なら彼の怪奇なる手紙を何度か受け取った経験をお持ちだろう。まあ。現世ではとても理解できぬ宇宙エロス的な内容で、必ず中には赤いペニスをかたどった紙が入っている。
たとえば我々が日本のどこかで儀式をやっていると、必ずといっていいほどあの赤い型紙がどこかにソッとおいてある。姿を見せずに現れては消えていくのだろうか?不思議である。
彼は仙台市外の太子堂という所に住んでいる。別段、太子といってもぼくには関係ないのだが、その生活ぶりも人間ばなれしている。
米はあまり食べないらしいが、何でもタンポポの花を食べたり、野に咲く植物で生活しているらしい。ゼロ次元の上条順次郎さんはこの方を神と尊敬しているので、ときどき食物を奉納するそうである。当時で六十歳を過ぎていたので、現在では大変な年だろう。消息は知らぬが元気でいることと思われる。
以前、東京に出てきたときのいでたちがすごかった。赤フンドシで、上着にはベタベタとお札が貼られていて、黒い大きなサングラスをかけていると、おもしろさよりも迫力が先に立つ。
万博破壊行動で我々が逮捕され身動きが難しくなったとき、このダダカンさんが一人万博に挑戦していったのである。
万博会場では、太陽の塔の目玉のところに赤ヘルの男がよじ登って、頑張っているときである。その下をダダカンが全裸で突っ走ったのである。
始めは何事ぞと思った大観衆も、しばらくすると大拍手を鳴り響かせたという。そして警備員が見せてはなるまいと3、40人、彼をとり囲むように5、60メートルも走ってきたそうだ。話を聞いただけでもその光景が目に浮かぶ。悠然と走るダダカンにすがりつくように陰部をかくそうとずる警備員の慌てぶりがコッケイだっただろう。
塔には目玉男が入り込み、地上には全裸男がと、まさに狂気に満ちた現場を現出したそうだ。
警備本部に連れていかれたダダカンは逮捕されると思いきや、精神病扱いにされあっさり片付けられてしまった。あまりのことなので超法規手段をとらざるを得ない当局側においても、国際的になってはという恐れもあるのか、このことは新聞の一行にもならなかったそうである。
幻の行為ということで過去に葬ろうとしたわけだが、ただ現実には歴然とその事実があったわけで、それにしても歴史的な日本国家の大行事にいともアッサリと、老骨ひっさげた男に走られるとは、ただただ我々頭が下がる思いであった。
再び迎える筑波万博において科学を越えたエロスが、再び突っ走るかどうかはがだれにも分からない。ダダカンとは忘れたころにやってくる聖なる人なのである。
それにしてもオリンピックではないが、まさに万博に輝く「金」(キン〇〇)で勝負した偉大な功績はゴールド・メダリストにふさわしいだろう。ただダダカンならば、そんなものよりタンポポの花でもいただいた方がよろしい、とおっしゃるだろう。お見事でした。』

以上、1969年の「万博破壊共闘派」の活動を見てきたが、この「万博破壊共闘派」の中心となった「ゼロ次元」の儀式の様子を今、観ることができる。
先日、国立近代美術館で開催されている「アジアにめざめたら アートが変わる、世界が変わる 1960−1990年代」(10月10日から12月24日)という展覧会を観てきた。この展覧会は、日本、韓国、台湾、中国、香港、インドネシア、シンガポール、タイ、フィリピン、マレーシア、インドなど、アジア各国で1960年代から1990年代に発生した近代美術から現代美術への転換期に焦点を当てたものである。

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この展覧会の中で、「ゼロ次元」の「いなばの白うさぎ」が上映されている。約20分ほどの短縮版であるが、新宿紀伊国屋書店の地下通路での全裸防毒面儀式も映っている。国立の美術館でこんな映像を流してもいいのだろうかなどと思ってしまったが、現代美術の「作品」としての扱いなのだろう。さすがに通しで観ているのは私くらいだった。
「ゼロ次元」の儀式が美術館の「作品」となったことについては50年という時代の流れを感じるが、「ゼロ次元」は美術館ではなく街頭や日常風景の中に現れてこそ、そのアート・パワーが発揮できると思うのだが・・・

この「万博破壊共闘派」の反万博の行動や、京大での「儀式」の様子は、写真集「ゼロ次元 加藤好弘と60年代」(平田実・2006年河出書房新社)で見ることができる。

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重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の144号(2018年11月25日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さんら3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、重信房子さんの「ブントの国際反戦集会」のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、重信さんの了承を得てあります。)

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【ブントの国際反戦集会 − 1968年8月3日】
 当時の私に「新しい変革の時代」を知覚させたのは、67年の「10・8闘争」であり、生涯を教育の場で社会活動を続けていくことを考えさせました。そして、また、そうした考えに、より明確に世界、国際的な闘いの必然性を自覚させたのは、68年の8月3日に行われた「国際反戦集会」です。
 世界各地で闘っている仲間が集い、語り合い、世界の一翼として私たちの闘いがあるのだと、海外参加者らと共にインターナショナルを歌いながら強く刻まれ、感動したのです。この「8・3国際反戦集会」は、三派全学連の分裂を早くから予測していたであろうブント指導部によって、情勢を切り拓く大切な節目だったに違いありません。

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 68年の春ころ、専修大学の前沢さんから「今度、我々ブントの力で、時代のオピニオンリーダーたる一般誌を出すので、協力してくれないか」と、突然誘われました。「フランスのカルチェラタンの闘いに示されるように、学生・労働者は政治闘争ばかりではなく、いまでは、文化・芸術含め、変革のための総合誌が問われている。8月の国際反戦集会の前には、その創刊号を出すつもりで準備している。君は、文芸サークルで『駿台派』編集長もやっていたし、詩集『一揆』も見たので、よっちゃん(松本礼二ブント前議長)と話して、君に加わってもらいたいと思ってさ。考えといてくれないか」と言われました。確か、学館の現思研の部屋に訪ねてきたのです。その本のタイトルが、すでに『情況』と決まっていたのかどうかは思い出せません。「無理です。ちょうど卒論執筆を計画しているところだし、文学雑誌と、ブントのイニシアチブの本では、まるっきり違うし、関わりたくても無理です」と即答しました。それでも松本さんとも会い、何度か誘われましたが、左翼雑誌の編集には興味が湧きませんでした。そのころ京大のブントの小俣さん中心に、明大でもすでに8・3集会のための様々な準備が始まっていました。
68年、「8・3国際反戦集会」は、中央大学の講堂で行われました。この国際会議は、「国際反戦会議日本実行委員会」として6団体(共産主義者同盟、社会主義労働者同盟、社会主義労働者同盟ML派、社会主義青年同盟解放派、社会主義青年同盟国際主義派、第四インター日本支部)このうちのML派や解放派は、7月に小競り合いの末、ブントの反帝全学連が結成されていたので、その後のいきさつを詳しくはわかりませんが、共同していました。日本実行委員会は機能し、東京の「8・3集会」ばかりか、他のいくつかの都市でも行っています。
 8月4日には、国際反戦関西集会も共産同関西地方委員会、日本共産党解放戦線(上田等さんら)、社青同国際主義派、第四インター、解放派、ML派、毛沢東思想学院など、広い共同行動の中で大阪厚生年金会館に約1,000名を集めて開催されています。また、海外からの参加者らは、ヒロシマ8・6の原水禁集会や、ベ平連の京都ティーチイン集会にも参加しています。

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(写真:アメリカ・コンビア大学)

 来日したのは、まずSWP(米国の社会主義労働者党)委員長のブレッド・ハルテットさん。彼は7月28日羽田空港に到着した折、日本の通関当局より「原水禁、べ平連への参加はかまわないが、8月国際反戦集会への参加は認められない。参加の場合には、強制退去を命ずる」と、入国時にその条件付の書類に署名させられました。この事実は、8・3国際反戦集会の中大講堂の席上、ハルデットさん自身が暴露し、抗議しました。それほど、三派系のラジカルな闘いと、米国のラジカルな運動の接触に、公安関係者は神経質になって、妨害を企てたのです。他の参加団体は、米国からはSNCC(米国・学生非暴力調整委員会)、前委員長のカーマイケルは、当時日本でもよく知られていました。ブラック・パンサー党、当時黒人の間に絶大な人気があり、黒人の権利を闘いによってかちとっていた団体です。OLAS(ラテン米人民連帯機構)、この組織は、67年7月にキューバを中心に創設され、チェ・ゲバラが当初名誉総裁で、ハバナに本部があります。SDS(米国・民主社会学生同盟)、SNCCが黒人中心の組織なのに対し、SDSは白人組織で、反戦反徴兵、ベトナム反戦闘争を中心に学生パワーを発揮し、カリフォルニア・バークレー校が拠点で、本部は、シカゴのイリノイ大学といわれていました。以上は米国からの参加団体です。仏からはJCR(仏・革命的共産主義青年同盟)、1966年4月に創設されています。JCRは50年代のアルジェリア解放闘争支援、キューバ革命支援を行い、65年大統領選時に、仏共産党の共産主義学生同盟を除名されたメンバーの他、トロッキストのメンバーを含む組織で、5月パリ革命の先頭で闘った組織です。その結果、ドゴール政権によって非合法化されたため、ブリュッセルに本部を置き、地下活動を続けていると、この会場で代表の女性が発言していました。
 ドイツからはSDS(西独・社会主義学生同盟)、西ドイツの社会民主党の学生組織ですが、ドイツ社民の大連立に反対し、中央に従わず、ベルリンで1万5千人のベトナム反戦集会を開いたといいます。北大西洋条約機構(NATO)の粉砕を訴えています。理論的には、マルクーゼ、ローザルクセンブルグ、ルカーチの影響が強いといわれていて、委員長のドチュケは銃撃被害に遭っています。
 以上のような海外からの参加団体を加え、実行委団体や学生、市民参加のもと、8月3日、東京集会が開催されました。この東京集会は、中央大学講堂で2時10分に開会宣言され、日本実行委員会委員長松本礼二さんが開会の挨拶と経過報告を行いました。その後、海外からの参加団体の紹介があり、この時、SWPの代表のハルテットさんから、すでに述べた国外追放の制約を受けながら参加したことが語られると、拍手は講堂を揺るがすほどでした。集会には、日本の闘う団体も招かれていて、戸村一作三里塚反対同盟委員長が、連帯をこめて演説したのを覚えています。

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(写真:フランス・五月革命)

その後、仏代表の女性が、パリ5月革命がいかに闘われてきたか、今も非合法化でいかに闘っているか、5月に労働者の一千万人ゼネストがいかに行われたか語ったのが、私には強い印象として目に焼き付いています。同世代のふっくらとした体型の女性が、舌鋒鋭く、ゼスチャーも交えて語る時、通訳がもどかしいくらい共感しつつ、他の誰よりも印象深かったです。その後、ML派の畠山さん、解放派の大口さん、ブント議長の佐伯さん(佐野茂樹)ら、6団体トップの人々が、それぞれ自分たちの政策を表明していました。
その後、SNCC、SDS、SWP、JCRなどが参加し、「NATO・日米安保粉砕共同闘争」を呼びかけ、全国各地で反戦集会を行っています。そして、国際連帯の絆を、新しいインターナショナルの形成として呼びかけました。
この時のブントの呼びかけた「8・3集会論文」は、プロレタリア国際主義を掲げブントの新しい旗印となりました。「8・3論文」と呼ばれるもので、「世界プロレタリア統一戦線・世界赤軍・世界党建設の第一歩をー8・3国際反帝反戦集会への我々の主張」というタイトルの論文です。第一章は「現代過渡期世界と世界革命の展望」というもので、これを塩見孝也さん、のちの赤軍派議長が執筆しました。第二章は「70年安保・NATO粉砕の戦略的意義」で、のちにブント議長となる仏(さらぎ)徳二さんが執筆し、第三章は「8月国際反戦集会と世界党建設への道」で、旭凡太郎(のちの共産同神奈川左派)によって執筆されました。これは、8月5日の機関紙「戦旗」に発表され、この8・3論文を、2つのスローガンにまとめました。
「帝国主義の侵略・反革命と対決し、国際階級危機を世界革命へ!」「プロレタリア国際主義のもと、全世界人民の実力武装闘争で70年安保・NATOを粉砕せよ」と。
8・3国際反戦集会に結集した組織と共に、新しいインターナショナルの潮流形成をブントは目指していました。そして、第一に69年には、NATO・70年安保粉砕を共に闘う。第二に、日米安保・沖縄・ベトナムを環太平洋諸国の武装闘争・ストライキ・デモで闘う。第三に佐藤訪米を、羽田・ワシントンで共同して阻止する。第四に、来る10・8、また10・21を国際共同行動で闘う。第五に、国際共産主義インターナショナルへ向けて、協議機関設立の準備、国際学連の再建を目指す、とする方針を主張しました。
国際社会に触れ、国際的に各地で闘う主体と直接に出会い、この出会いに国際主義のロマンを抱いたのは、私ばかりではなかったでしょう。ブントの指導部から一般メンバーまで、ブントのプロレタリア国際主義が、世界の闘争主体とスクラムを組んで闘っていくという、誇りの実感を強くしたのです。
最後に各国語で一つの歌,インターナショナルを歌いながら、感激屋の私は、涙がこみあげてしまいました。この8・3集会のために、現思研の仲間たちもいろいろな実務を手伝ってきました。英文タイピストのSさんは、集会まで徹夜の作業を続けたりしまた。
現思研の仲間たちが、私も含めて、ブント・社学同に対して、自覚や愛着を持ったのは、この集会の影響が強かったと思います。
国際反戦集会は、分裂して生まれたばかりの反帝全学連にとっても有利に作用していました。国際的な各国闘争主体との出会いは、日本を代表して、ブントらが実践的に国際主義を実体化する条件をつくりました。この国際反戦会議の決定として、新しいインターナショナル創設の協議機関設立や、来年69年8月の再会を約し、闘いの連帯の継続の方法も語り合いました。
しかし、ブント自身は激動の68年の中で、69年内部論争を先鋭化させ、この晴れやかな国際反戦集会を境にして、矛盾と分岐を拡大させてしまうのです。1年後の69年に米国からのSNCC.ブラックパンサーの訪日に彼らの受け入れの矛盾は哀しい現実となるのですが、それは、「7・6事件」の後だったからです。
(終)

※ この国際反戦集会の記事を掲載した「戦旗」143号(1968.8.25)を「新左翼党派・機関紙」で見ることができます。。
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html

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このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「かつて10・8羽田闘争があった 記録資料篇」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「かつて10・8羽田闘争があったー10・8山博昭追悼50周年記念記録資料篇」(合同フォレスト発行)】
この本は、昨年10・8五十周年に刊行された「かつて10・8羽田闘争があったー寄稿篇」についで当時の生の記録を中心に編んだものです。2004年、兄建夫さんの慰霊碑を建てたいという意を受けて始まった「10・8山博昭プロジェクト」の工夫と創意、友情と連帯が、日々育ち広がり、ベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館において、「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」開催と、国境を越えた活動にまで発展しました。この本の目的は、当時の記録を掲示することで、歴史に屹立して闘いの一つの節目をなした山博昭さんの死と10・8羽田闘争を現在50年後に再確認・再認識する意義があります。圧倒的な質と量の当時の記録は、私自身の20代を蘇らせ、当時視野になかった様々な記録を読むことが出来、未熟な自らを問いつつ読み、描くことが出来る書です。
 主な内容は、第一に「現認&裁判記録」として、死体検案書の掲示、当時の小長井良浩弁護士の「山博昭君の死因について・警察当局の世論操作を糾弾する」や、ドキュメンタリー「現認報告書―羽田闘争の記録」(小川プロダクション)のほとんど無傷の山さんの死顔の写真などや証言、起訴状、国会議事録、都議会議事録がそのまま示され、山さんの死の原因究明が真向から官憲側と対立している姿が鮮やかに蘇ります。
 今、半世紀を経て冷静に読み返してみても、いかに権力側が嘘と強弁で事実を捏造していたかがわかります。第二に当時の「一般紙、機関紙、大学新聞」の記録です。大手のどの新聞も、公安側の情報をたれながし、「学生が学生を轢き殺した」という論調を世間に広め、暴力、暴徒キャンペーンは、かくもすさまじかったか、と今更に驚かされます。当時は「ブル新はどうせ信じない」と、気にとめなかったのでしょう。
 同じ10月8日.日本共産党は、佐藤訪ベト阻止に力を入れず、、当日「赤旗まつり」の最中でしたが、「暴力主義」批判によって、学生、トロツキストを糾弾することで結果的に権力を助ける狭量さを晒しています。第三には、「週刊誌、雑誌」です。ここに涙を拭いつつ読んだ一文があります。「女性自身」68年2月5日号に掲載されている「羽田事件2人の母」というタイトルの、被害者(故山博昭君の母)と、容疑者(車の運転していたとされるN少年の母)の往復書簡として、兄山建夫さんが橋渡しをしている文です。母、山春子さんが、車の運転していたとデッチ上げ逮捕され拘留中のN少年の母親にあてた手紙の毅然とした姿と優しさに胸をうたれます。お母さんは、警察発表の「轢死」に非常な疑いをもっており、弁護士に死因調査を依頼していると述べた上で、「たとえ最悪の場合を考えても、ああいう混乱の中で、博昭が運転免許証を持っていたら、まったく反対の事態が起こったかも知れません。ですから本当に博昭を死なせた原因は、あのようにまで激しい抗議をしなければならなかった、佐藤首相のベトナム訪問にあるのだと考えるようになっております。どうかあなたさまも、お子さま信じてあげてください。(略)どうか、世間のおもわくなど気になさらず、がんばてください」と記しています。その手紙を受け取ったN少年の母は「子供が逮捕されてから、世間へも出られない思いで、主人と考えこんでばかりおりましてまったく死んだような私どもの家に、一点の灯をつけてくださったのは、あなたさまのお手紙でございました」と、手紙を読んで泣きながら受け取り記したことを建夫さんは記しています。こうした文は、当時知りませんでした。「女性自身」編集部は、光文社闘争前で進歩的人々も多かったのでしょう。こうした真心こそ新聞は載せるべきなのに。第四には「チラシ」。第五には10・8羽田闘争の山さんの死を扱った「詩、短歌、評論、エッセイ、小説」などからの抜粋です。当時、読んだものはほとんどありませんでしたが、大江健三郎さんが、大新聞の記事「仲間による轢死」を信じて自分の文章に触れたとのこと。その後、ドキュメンタリーの「羽田闘争の記録」を観て、暴力は学生側でなく、官憲側だと告発して、のちに自らの一文を批判していて、大江さんらしい誠実さを読みました。第六に、当時の「追悼文」「識者の声明文」が再録され、第七に「羽田10・8救援活動の記録」、これは水戸巌さん、喜世子さん御夫妻が10・8闘争直後から、どの学生にも分け隔てなく権力から守り、病院への支払いにカンパにと奔走した献身的な姿がわかります。この活動によって救援連絡センター設立につながり、現在に至っているわけです。
 最後の章で「50年を経て」として、ベトナム・ホーチミン市戦争証跡博物館での顛末などが記されています。ベトナムでの展示は、8月から10月だったものが、11月まで延長されて、8月20日から11月15日まで開催され、281,951人の(ベトナム人49,748人、外国人232,203人。この戦争証跡博物館は、ベトナムで最大のの博物館で、毎年70万人の入場があり、70%が外国人とのこと)世界の人々が見学されたと佐々木幹郎さんの報告に記されています。報告によると、日本からの60名の訪ベト団に対して、「虎の檻」に24歳から42歳まで囚われ死刑判決を受け、3回脱走を試みて失敗し、戦争終結で奇跡的に生き残った82歳の男性が、淡々と当時の闘いを語ってくれたとのことです。佐々木さんは「最後に彼は『あなたたちの運動のおかげで、一日でも早く戦争が終わったことに感謝します』と結びました。その時、聴いていた私たちによろめくような感動が襲ったことを忘れることができません」と記しています。思わず胸が熱くなりました。山本義隆さんは、このベトナムの博物館展示開催の挨拶の中で「この時代は、日本の無名の民衆が世界史の動きに直接関わりを持った、日本の歴史において稀有な時代だったのです」と述べています。稀有な時代・・・。私が不在の日本を、改めて知る思いです。資本の海外進出からグローバル化への時代の変化の中で、逆に「世界」を日本で消費し、世界史の動きが変革と結びつかない時間が長かったのだろうと思います。
 ベトナムの博物館の館長は、こうした活動があったことを、現在のベトナムの若者たちに伝えたいと言われ、このプロジェクトに関わってこられた人々もまた、記録・資料を準備する中で、もともと若者たち(ベトナムや日本の)へと発信することが「10・8山博昭プロジェクト」の役割と発見させられ、文化運動・表現運動としての磁場になっていることを発見したと、後書きで述べています。特に日本では、権力側の発表をうのみにするメディアによって、当時の事実がゆがめられてきました。その過去があいまい化されて今へと引き継がれてはならないと強く思います。未来に、「過去」となった現在が公文書改ざんで歪まないことと同じように。
 本書に収録されたの多様な豊かな表現は、複眼的視座から当時の歴史が、どんな時代で、山さんの死がどんなに権力側に脅威となり、事実を隠蔽しようとしたのか、マスコミ操作総動員の「学生が学生を轢き殺した」というフレームアップと暴徒キャンペーンの中で、どれだけ多くの良心が真実を追求し求めたのか、この本の中身はその氷山の一角にあたるといえるでしょう。佐藤首相のベトナム訪問こそ糾弾されるべき平和と反戦の敵対行為であったこと、それを権力側からの物語に埋没させまいと、学生運動・反戦闘争の当時の正当性を山さんの無念の死と共に歴史に刻んでいる本です。
 50年前の10・8闘争とその時代を生のまま伝える手段として、この資料篇は歴史書として広く読まれるべきだと思いました。
10月21日記
注:本は10月17に落手しました、感謝と共。  重信房子

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【本の紹介】
「かつて10・8羽田闘争があったー10・8山博昭追悼50周年記念記録資料篇」
待望の「記録資料編」!
記録が語る、資料が語る!
10・8羽田闘争と山崎博昭君の死をめぐる関連資料全170余点を収録!
半世紀前の激動が、いま、甦る。
政府・警察・マスコミのけたたましい暴力学生キャンペーン、それに対する透徹した冷静な論説、ベトナムからの連帯表明、欧米の反響など、1960年代後半の日本社会の風景が浮かび上がる。
四六判640頁+巻頭写真16頁 定価=本体3900円+税 発行-合同フォレスト 発売-合同出版
……………………………………………………………………………………………
[主な執筆者]
大江健三郎  高橋 和巳  松下  昇  鈴木 道彦  立松 和平  
岩田  宏      黒田 喜夫  長田  弘  三枝 昂之  福島 泰樹  
北井 一夫(写真撮影)         小長井良浩  水戸  巌  水戸喜世子  
山崎 建夫  山本 義隆  三田 誠広      辻  惠     佐々木幹郎
[収録内容]
●巻頭:記録写真集(全16ページ)
●序文
●概説・10・8羽田闘争とその時代
●現認&裁判記録
●一般紙、機関紙、大学新聞
●週刊誌、雑誌
●チラシ
●詩、短歌、評論・エッセイ、小説
●追悼文
●声明
●羽田10・8救援活動
●50年を経て
●後書

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重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」143号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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<独居より  2018年5月9日〜2018年8月7日>
5月9日 今日は雨のせいか肌寒いです。
連休が明けて、資料などが夕方にたくさん届きました。
今日はコーラスもあり、忙しいうちに診察も入りました。主治医から、5月17日に大腸内視鏡検査を行うことを伝えられ、書類に署名押印しました。
(中略)
5月15日 70年目のナクバのパレスチナの日。新聞の一面に米大使館エルサレム移転に抗議し、14日デモ隊にイスラエル軍が銃撃して子ども6人含む41人が死亡。3000人超が負傷したと報じられています。これは14日午後4時50分現在の数字。西岸地区でもガザ地区でも非暴力デモ。イスラエル軍には非暴力抗議すら通用しないことを世界に明かしています。今日ナクバの日も続いているでしょう。5月14日のエルサレムへの米大使館移転歓迎式典はイスラエルの招待した86ヵ国のうち20余ヵ国のみの参加です。参加した国々は自国への米の経済援助のための国々がほとんど。
パレスチナの人々が怒っているのは、93年「オスロ合意」でエルサレムの帰属は最終的地位を両者で決定するとしていたものを、「イスラエルの首都」と米政府が認めたことで既成事実化し、交渉の議題から無くすことを狙っているからです。とは言っても、すでに「オスロ合意」はイスラエルが放擲(ほうてき)しています。93年「オスロ合意」から減らすべき入植地は93年当時の2倍の250ヵ所あり、政府の認めていないものが更にあります。人口は3倍の60万人に増え(西岸40万人と倍増、東エルサレム21万人超)、とくに今は旧市街地の「ユダヤ化」のためにキリスト教徒を含めパレスチナ人への弾圧、様々な口実の追放を企んでいます。
米の大使館移転にネタニヤフが「勇敢な決断に感謝する」と持ち上げているのに対し、PLOのハナン・アシュラウィは、「重大な歴史的不正義が今日も続いている」と強く非難しています。
去年4月6日ロシア外務省は中東和平に関する声明で「東エルサレムを将来のパレスチナ国家の首都、西エルサレムをイスラエルの首都として認める」と述べて、これまでのテルアビブからイスラエルの首都認定を変えていましたが、東エルサレムはパレスチナの首都と認定しています。
また、アッバース大統領は去年11月11日のアラファト死去13周年のガザのビデオ演説の中で「ガザだけの国家も、ガザなしのパレスチナ国家もない」と表明し、中東和平交渉で二国家解決構想がダメになった場合、パレスチナ人がイスラエル人と平等の権利を持つ一国解決を目指すと述べたようです。これは一国解決を恐れるシオニストに対する表明ですが、本気で平等の権利を実現する一国解決に向けて、血も汗も流す覚悟とは思えません。去年からパレスチナ自治区の統一政府討議が続きながら、結局ハマースを武装解除しようとする米・イスラエルの後押しで、パレスチナ自治政府(PA)が行政・治安権限を全掌握目指しつつ、今もハマースは軍事部門を手離していません。
トランプのエルサレム首都宣言で、反米政治活動を共同しつつ、両者は統一政府に対しては解決になりえないままです。9年ぶりに開かれたPNCでは、ハマース・PFLPらボイコットのままアッバースをPLO議長に再選して終わりました。PNCは、トランプのエルサレム宣言問題を非難し、「パレスチナ国家の永遠の首都」としてエルサレムを首都とするパレスチナ国家樹立を目指すと5月4日PNC最終宣言を採択しています。しかし、70年目のナクバ、本気で難民問題の解決を、国際社会を動かして問うような戦略的方向は出されていません。
(中略)
5月18日 Mさんの便りで、「パレスチナ連帯!ガザと共に!15日間行動」の様子を知らせて下さいました。「5/14はイスラエル国旗を掲げた3人の女性が『行動の妨害』に来ました。しかし、むしろ行動参加者や通りがかりの人から、イスラエルの暴力的な行為について指摘されていました。15日最終日の大阪梅田には40〜50人の方々が行動参加下さいました。」とあります。70年目のナクバに連帯は果敢に日本でも声を挙げ続けていたのを知りうれしいです。でもイスラエル国旗で妨害に来る人がいるなんて、日本の今の安倍政治の反映ですね。イスラエル市民の連帯なら歓迎なのに……。大丸東京でもBDS運動のキャンペーンで「大丸東京店のイスラエル入植地ワイン販売」は「取り扱わないことになりました」と返答を得ていますとのこと。「パレスチナ現地はもとより日本政府・安倍内閣によるイスラエル協力関係強化も含めて、とても厳しい状況が続いています。微力ですが粘り強く皆さんと共に歩みたいと思います。」とMさんの声は辺境に居る私に大きな力です。もうすぐ5・30も近づきました。
(中略)
5月29日 今日は、丸岡さんの命日です。あの 3・11 の年ですから、もう 7 年も経ったのですね。この昭島医療センターの環境なら、丸さんももう少し何とかなったでしょうが……。新緑の森を見つめつつ、朝、丸さんに挨拶しました。
5月30日  再び 5 月 30 日を迎えています。正確には闘争は、日本時間では、5 月 31 日の明け方でしょうか。現地時間では、予定より飛行機が遅れて、夜 10 時過ぎていて、タラップを降りる時、空を見上げたら星が煌いていたと、岡本さんが後に語っていました。すでに 46 年目を迎えています。きっと友人たちが「葬式ではなく祭りを」という、リッダ戦士たちの残した言葉に応えて集い、小さな宴を催していることでしょう。またベイルートでは、 PFLP や岡本さんらが、バーシム奥平、サラーハ安田、ユセフ檜森、ニザール丸岡の共同の墓石の前で、彼らを労い敬礼していることでしょう。闘いを記憶し、連帯してくれる友がいるおかげで、バーシムたちの闘いとその実存は、46 年経った今でも生きています。
70 年代、非同盟運動や社会主義諸国が存在し、アラブでは「アラブ民族主義」が反植民地主義・反シオニズムを掲げ、パレスチナの全土解放闘争を支援していました。しかし、どの国も各々の経済的困難や矛盾を抱えていました。「アラブは一つ」と訴えつつも、アラブ民族主義が植民地支配の国境線を取り除けず、また、アラブ地域に偏在する石油などの富を「アラブの財産」として人々のものとせず、王制国家は資本主義国・石油メジャーらと国境の内側で利権をむさぼり合っていました。この克服できなかった格差は、今、どの国もアラブの大義の要であったパレスチナ解放の当事者性を失ったままにあることは、ガザの厳しい現実が、解決されずにあることに示されています。
「帰還の権利」が国際社会のアジェンダから外されてきたことが、ガザの封鎖された 70 年目のナクバの闘いで訴えられています。ベイルートのシャティーラ、サイダのアイネヘルワ難民キャンプが、パレスチナ解放闘争の基地だった豊かなリッダ闘争の時代を思い浮かべる時、この「ナクバの 70 年」ほど、パレスチナの存亡の危機を示しているものはありません。闘いの指導部の過ち(オスロ合意)は、かくも民族の危機を引きずるものだと、改めて憤りをもってイスラエル・米の仕打ちを直視しています。「今世紀は負けたかもしれないが、来世紀は勝つ!」と言っていた楽天的なパレスチナの友を思い出しつつ、「ナファス・タウイールだよ」を想いつつ。(「持久戦」・「息長く」の意「ナファス・クウイール!」と言われる度、当初意味を知らず、私はマレシと同じか「まあ、なんとかなるさ」という意味と思っていたのです。)
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5月31日 白井聡著の「国体論 菊と星条旗」はとても説得力のある日本論です。「国体とは何か?」という切り口から、2016年8月の天皇の「お言葉」を解題しつつ、天皇の危機意識の根源を追います。そして戦前と戦後の国体の形成・発展・崩壊を比較検証しつつ、戦後の国体を鮮やかに浮かびあがらせます。戦後はかつての天皇の位置にマッカーサーが在り、占領軍に主権が握られた状態にあったこと、しかしそれは過去形ではなく昭和天皇も奨励し、サンフランシスコ講和と同時に日米安保条約を結ぶことでその関係を継続して、今も変更がないこと。「米が望むだけの軍隊を望む場所と望む期間だけ駐留させる権利」(ダレス米大統領特使)を許したのです。
戦前も戦後も制限主権状態にあり、「国体」が国民の政治的主体化を阻害してきたこと、そして冷戦期「手段」であった対米従属は冷戦後逆に「目的化」され、安倍政権の現状で露呈しているのは天皇ではなく米国への忠誠であり、その分米国の作り上げた天皇制民主主義・「国民の統合」としての天皇の役割も危機に陥っている現状をあきらかにしています。「対米従属とは戦後の国体なのだ」と天皇の戦前と戦後の位置を明らかに示すことで、米が主権の要を握っている以上、戦後の国体もまた崩壊の危機にあることを訴えています。「お言葉」に衝撃を受けた著者が「戦後の国体」という切り口から不可視化された対米従属の構造を日本の特殊性として根底的に問う視座は深刻な安倍政治と対峙する論理を形成しているところが注目です。
私も憲法を骨抜きにした「統治行為論」を廃しない限り、今後の改憲論議は歯止めもなくなると危惧しつつ読みました。(伊達判決を葬った「統治行為論」の詭弁です。)でも、安保条約は望むなら破棄できます(第10条)その気があれば!です。
6月4日 日大の体質はまったく50年前と変わっていないのは、自民党に多くの責任があります。日大の理事らと利権を分かち合い、批判する勢力を官憲と一体に弾圧してきたからです。
68年9月30日両国講堂には3万5000人の日大生が集まり、5月に結成されたばかりの日大全共闘が日大経営陣の使途不明金の不正に団交で立ち向かいました。この日の団交で学生側が勝利し、全理事の退陣など12項目について理事会側に合意させました。ところがこの日の学生たちの勝利に危機感を持ったのは自民党政府・官僚です。68年ベトナム反戦闘争が世界中で戦われ、日本のベトナム戦争加担に対し抗議し、また自民党の文部政策を批判し全共闘運動が勢いを増していた時です。
この年の10.21闘争では1500人を超える人々が一日で逮捕されています。時の佐藤内閣は個別一大学の不正をただす行為に対して、10月2日「日大の大衆団交は認められない。政治問題として対策を講じる」と宣言し、日大当局と共謀します。翌10月3日には日大当局は「9・30確約(全理事退陣など12項目)」の破棄を宣言しました。そして10月5日警視庁は大学側の告発を理由に日大全共闘議長以下8名の逮捕状を発動し、権力と一体に運動を潰していきます。
東大闘争でも、69年1月の安田講堂攻防翌日の20日に東大は入試を断念し、同時に東大全共闘議長への逮捕状が発動されます。常に権力と一体に「合法性」を独占し、異議申し立ては「非合法」に追いやる手口。これが自民党のやり方で、「籠池逮捕」もその口です。市民の監視と発言の拡大で対峙を作り出すことは、スポーツ・社会問題・政治全分野で問われます。

6月13日 今日の午前中に受け取った6月12日の夕刊と6月13日の朝刊には、米朝首脳初会談が大きく報じられています。米が北への敵視政策をやめて、戦争終結・平和条約へと考えるなら、これまでと違って前向きに進みそうです。この問題の解決はトップダウンしかないし、それが始まったからです。金労働党委員長は戦略的であり、柔軟な戦術を多用して非核化もよし、と構えているようです。「主体思想」の国ですから、中国・ロシア・韓国を巻き込んで、戦略を実行しようとするでしょう。そして中国式の手法で経済強化を目指したいところでしょう。
文大統領が反共・陰謀の人でないことが前進を作り出しそうですが、問題は日本政府。過去の植民地支配と向き合い、謝罪と賠償を自ら求めてこそ、拉致問題の全面的解決になるはずです。ブレーキ役はもうなりたたないはずです。米朝首脳のような未知への決断力のある日本の首相が必要です。第二次大戦の「戦後秩序」は、植民地支配の矛盾を、東に38度線の朝鮮半島、西にイスラエル建国によるパレスチナ問題を抱えて出発し、その矛盾の解決は未だなされていません。
トランプ政権は東でのディールに気をよくし、益々イラン問題、エルサレム問題の混迷を、西でなりふり構わず続けそうです。イスラエルの、レバノン・シリア・イランへの戦争挑発にゴーサインを出し続けることでしょう。
(中略)
6月21日 今日は運動に出る人が多かったせいか、いつものベランダ(とっても狭いのは前に書いた通り)から、一階上の7階の屋上部分の自然芝のところで初めて運動へ。プラスチック柱から南に広がる緑地や街並みが少し見えます。昭島は、立川基地跡のところに医療センターがあるせいか、空き地が目立ちます。でも、みな隅に座ってそれぞれ固まって30分の交談を楽しんでいて、歩いたり走ったりしているのは約一名の私です。
今日は夏至。快晴ではないけれど、風が身体を包み、空がこれまでより広く見えるので、開放感があります。少しうれしい運動時間でした。
(中略)
7月3日 午後整髪、ショートカットにしました。暑くなるので整髪の順番が回ってきてホッとしています。
新聞の地域版に前川喜平さんの講演で「星野君の二塁打」の話をしていたと出ていて、へえ、まだ「星野君の二塁打」は小学校の教科書で扱っているのですね。あれは小学何年生で教えるのでしょう。昔、私はこの監督の考え、チームワークの重視に反対意見を述べたのを思い出します。星野君も自分のためでなく、チームの勝利を考えていたはずで、それを一方的に否定するのは星野君の決断を抑えつけるようではないか?と。小学校の先生は「でもね、監督に従うことが求められている」とあれこれ説明し、教室で「監督に賛成の人」と手を挙げさせました。大多数でしたが、挙げない人も何人も居ました。納得いかず家に帰って父に話したことを思い出します。「房子は房子の考えを大切にすればいい」と笑っていました。そんな事を思い出しました。
(中略)
7月5日 八王子時代から続いている行事ですが、七夕の笹飾りに希望者は短冊を交付されて希望などを笹に飾り付けることができます。私も子ども時代の習慣を思い出しつつ楽しんでいます。健康(みんなの)やパレスチナの平和を!など。
今日は一か月ぶりの診察。耳鼻科とも主治医は話してくれ、また私も補聴器の高値だったことを伝え、結論的に最もシンプルな解決──大声で話してもらうことと何度も聴き返すこと──で当面解決することにしました。

7月6日 九州・西日本・東海では大雨被害甚大とのこと。ここ昭島でも雨です。
今日は7・6事件の日。ブンドの中から、党の軍隊の形成と蜂起的闘いを求める部分が、党の革命をめざして赤軍フラクを形成し、中央の統制に反発して、明大和泉校舎にいた仏議長らをリンチしました。そして、機動隊の包囲下、リンチ重傷を負った仏議長を、結局破防法の逮捕状が出ていたのですが、逮捕させてしまった日です。加えて、東京医科歯科大に、その後襲撃に来た中大グループに、今度は塩見議長以下が拉致され、赤軍派の暴挙によってブンドが崩壊し始めた日です。でも時制的には、赤軍派の行動より早く、朝から中大グループは望月さんが上京して医科歯科大に入る以前に見つけ、拉致しています。
赤軍派形成、7・6事件は、自己批判してきた事件ですが、もっと言えば、それまでの私たちブンドの在り方、党内・党派闘争の在り方思考方法に問題があったと言えます。「新左翼主義」と言ってもいいのですが、常に対象批判・責任追及・自己正当化の三段論法で、「分裂の党観」に立っていた分、「批判精神」をもって真面目に真剣に問う分、分裂を作り出し、その思考が「違い」を追及して分裂の道を開いていきました。ブンドは連合的な大衆闘争機関として、その党的な指導を果たしているうちは、情勢もあって影響力を発揮しましたが、違いを理由にマル戦派に暴力をふるった時から(目撃した人によると、それを始めたのは学対の塩見さんで、その指揮下、早大社学同が明大学館五階ホールで、マル戦派で全学連副委員長だった成島さんに対するリンチを始めた)分裂の党派・党内闘争が始まった、といえます。党の統一の要諦は「違い」を受け入れることであり、共同の要諦は「違い」を認めリスペクトすることにある、と私は自分たちの活動反省を込めて実感してきました。それができないのなら統一も共同もしないのが肝要です。
かつて70年代から80年代、私たちはアラブで日本の共産主義運動・新左翼運動を「理論委員会」を設置して学習総括したことがあります。その時の教訓は「大地に耳をつければ日本の音がする」(亜紀書房刊)にまとめましたが、結論として党とは何か?と「党の役割」を一致してまず、それを基準に「自己批判―党の革命」の立脚点をもって進むことだ、ととらえました。「党の役割は、社会革命・変革の実現にむけて諸勢力を統一しつつ、革命に勝利すること」統一し得るようなあり方とは……など、当時母体を失って国内に力を持たない自分たちを「国際部の役割」と規定しつつ、国内の変革主体の形成の一翼たらんと総括していたのを思い出します。「7・6事件」は「内ゲバ」など、日本の闘いの在り方を問う契機でしたが、武装闘争の方向へと流れることで、ブンドも崩壊し「連赤」へと至って行ったと思います。自らの反省と共に心に刻む日です。
(中略)
7月12日 今日午後、転房になりました。南の少し緑の見えた房から、向かいの北向きの何も見えない房! プラスチック塀から光が入るので、昼と夕方などは判るのですが、やっぱり閉塞感が……。
(中略)
7月18日 今日も猛暑のようです。昭島の予想気温は36℃〜26℃。
昨日はコーラスで私にとっては新しい歌「ビリーブ」を習い、「夏の思い出」「花は咲く」「七夕」などを歌いました。
今日は東では城さんの控訴審開始。西では山田編集長に対する地裁判決の日です。今の司法はまったく期待がもてません。希有に憲法に沿った大飯地裁判決をたちまち高裁で覆してしまうからです。
ひまわり2本鉄砲百合4本(蕾各2つ)の豪華な花が届きました。夏を感じることが出来ます。これから緑色の百合の蕾は白百合に日毎変っていくのが楽しみです。
猛暑続き、去年は八王子で蚊やダニそれに暑さの中にいました。65才以上は夜冷し枕を毎晩、日中も貸与してくれました。運動場で麦わら帽子をかぶってクラクラする程の強い日差しの中走ったものです。でも昭島ではエアコンで暑さの心配はなく、ときどき寒い位。でも体調は緊張感を欠いたせいか、どこかここか痛んだりしています。腰痛、胃の鈍痛、倦怠感など体力が落ちています。
(中略)
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7月22日 米澤鐡志著「原爆の世紀を生きて──爆心地(グランドゼロ)からの出発」を読みました。この本は1945年8月6日朝、広島市内の爆心地近くの電車の中で母と共に原子爆弾を浴びた10才の少年が恐ろしい破滅と人間の生き死を見せつけられながら被爆の死の淵を彷徨い、9月1日母を失い、母乳を乳んだ一才の妹を10月に失いながら奇跡的に助かり、それからどんな人生を歩んできたかを伝える記録です。この「運命の子」米澤鐡志の生涯を貫く思想「核と人類は共存出来ない」が、どのように生まれてきたかを語り尽くしています。この運命の契機は苛酷で残虐であったけれど、それに立ち向かい自らの生き方として反戦平和の先頭に立って来、83才の今も闘い続けている米澤さんの感動的人生が綴られています。遠くない日本がどんな時代だったのか是非若い人々に読んでほしいと思います。歴史も判り易く読むことが出来ます。巻末には由井りょう子さんの文による「ぼくは満員電車で原爆を浴びた」の前著も紹介されています。京都時代の日共との対立や、その後の「社会主義革命運動」(社革)などの当時のことなど短くまとめられています。もっと知りたい点(書きたい点)もあったでしょうが、全体のバランスの中で良くまとめられていて良いと思います。本全体の装丁、デザイン、コラムなどの配置もとっても読みやすく良い本に仕上がっています。

7月23日 この間、7月19日以来、体調を崩し今日は39.1度。血圧も高くしんどかったのですが(週末は免業日で処方以外の薬はよほどでないともらえない。それで月曜日まで我慢していたら、今日は悪寒で冬物衣類を着て震えていました。)3時半に主治医診察でインフルエンザも念の為チェック。陰性です。熱さましの薬を飲んだら熱くなってすっかり熱が下がったらこの間のしんどさは嘘のように元気です。でもまだ食欲はわいてきません。ここも熱中症対策で戸外運動は19日以降中止。でも19日夜体調を崩したので熱中症も関係あったかもしれません。
(中略)
7月27日 朝、まだ頭が熱いお豆腐のように感じます。今日はN和尚がお盆法要に来て下さるのに。10時半過ぎ診察。いつもの主治医でない他の医師。状況を説明し、医師から7月24日の血液検査の結果、感染症の数値、CRPなども高いので、CT検査、測った心拍114なので心電図もとることになりました、病室に戻り、昼食前面会の呼び出しです。薬が効いて、シャキっとなっていたので、車椅子を使わずに面会室へ。お盆法要にN和尚とメイの友人のMちゃんが来てくれました。ちょっと体調を崩したことを先にお断りし、それも含めて読経でお盆法要して下さった。私とMちゃんは黙読しつつ合掌。その後、7月6日にN和尚の寺、福島住職の法昌寺で、高原夫妻がみえて、遠山さんの法要を執り行ったり、7月22日には、遠山さんのお母様の名で、お経を納められたそうで、ずっと祈っていた和尚の存在を、もっと早く遠山さんご遺族に知ってもらったら良かった……と思いつつ、嬉しいことでした。法要共々ありがとうございます。
(中略)
7月31日 今日はもう普通の体調に戻りました。ちょっと疲れやすい程度です。こんな歌が零れます。“七月尽総身にエネルギー取り戻し灼熱好きの私にかえる”
(中略) 
8月3日 この頃ジャーナリストの安田純一さんの映像がネットで出回ったというニュースがありますが、この拉致事件は金銭を要求しているもので、日本政府が国民に果たす義務として真剣に要求に向き合えば解決するものです。もし政府の身内のものだったら、もっと真剣に対処していることでしょう。一般の、殊に政府に批判的国民にはまったく冷たい安倍政権です。「裏交渉」はしていると思いますが、犯人を特定しようとか、全額を支払わないで済まそうとか、人命第一で対応していないのでしょう。安田さんの発言したという「韓国人オマル」というのは、裏交渉の符丁でしょうか。そのうち結果が出そうです……。
救援の山中さん救援紙100号までの縮刷版送って下さってありがとうございます。丁度69年から71年頃までの当時の攻防について調べたかったので大変助かりました。77年まであるので76〜77年の泉水さんの獄中決起も読めました。泉水さんの決起のお陰で八王子医療刑に移された友人の囚人は泉水さんの公判の証言に立って感謝を述べています。しかし獄中決起に官は制裁のごとく3月29日懲役2年6カ月の有罪を科しています。その後数カ月でダッカ闘争があったのですね。この救援縮刷版は調べ物をするのに大助かりですが、そればかりか時間があれば当時を思い返しつつじっくり読むと色々記憶も喚起されるし、懐かしい旧友らの名(逮捕とか獄中アピール、公判レポートなど)がたくさん!ああ、闘っていた時代がそのまま零れる良書。ありがとうございます。
(中略)
8月7日 7月イスラエル国会で「イスラエルはユダヤ国家」と宣言した「国民国家法」が可決されて以来、自治区や占領地ばかりか、イスラエル国内で反対が広がっています。4日にはテルアビブで数万人が参加し「民主主義に反する法を撤回しろ」と抗議集会が開かれています。アラビア語とヘブライ語がイスラエルの公用語だったのに、この法によって公用語はヘブライ語のみとなり、入植地建設も「国民的価値」として「その建設と強化を奨励および推進する」と謳い、エルサレムは「統一不可分のイスラエルの首都」と宣言しているものです。
トランプ政権に勢いづいた右翼連合政権は、これからこの基本法に沿って法整備に着手するとのこと。明確なことは、トランプ・ネタニヤフコンビが中東危機の元凶だということです。「二国解決」を求めるシオニストユダヤ人の労働党系や、今回はパレスチナアラブ系イスラエル人の中でもドルーズ派が公然と反対を訴えているのは当然ともいえます。アラブ系でも兵役に就きユダヤ系と「平等」と囲い込まれながら、この法で母国語は公用語から格下げされ、平等が目にみえて損なわれるからです。国内に14万人のアラブ・ドルーズがいます。「全市民平等」はこの新法で法的にも殺され、ユダヤ人の優位性を定義した以上「民主主義国家」のまやかしの看板ももう剥げています。益々、シオニズムの本性である「選民思想」を問う闘いへと発展することを願っています。
今日立秋、今度は台風接近!猛暑豪雨台風の夏乗り切って共に。
1968年から50年目の夏を思い返し、あれこれ反省も含めて思わず笑いがこみ上げます。
(終)

【お知らせ その1】
10・8山博昭プロジェクト関西集会
「世界が見た10・8羽田闘争」
●日時:11月17日(土) 開場:13:30 14時〜17時
●会場:エル・おおさか 5F 視聴覚室
アクセス:http://www.l-osaka.or.jp/pages/access.html
(最寄駅/天満橋駅から徒歩)
●資料代:1000円
講演1 アメリカから見た10・8羽田闘争、及び日本のベトナム反戦闘争
講師:幸田直子(近畿大学国際学部国際学科講師)
講演2 在日コリアンから見た10・8羽田闘争と韓国民主化運動
講師:金光男(キム・クァンナム)(在日韓国研究所代表)
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【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は11月23日(金)に更新予定です。

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