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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。
「週刊アンポ」で読む1969−70年シリーズの9回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969−70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、前回に引き続き都立立川高校闘争の記事を掲載する。「週刊アンポ」第8号に掲載された記事である。

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【高校生のひろば 週刊アンポNo8  1970.2.23発行】
―あなたがたが処分闘争を貫徹されることを希みます。自分はなにもしないくせにと思うでしょう?私もそう思います。理解してくれとはいいません。ただ許してほしい。(往復書簡より)―

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 都立立川高校の生徒たちにとって1970年の夜明けは、悪夢とともに始まった。12月31日、4名の退学処分(大晦日の深夜、処分通告の呼び出し電話!)。24名無期停学恫喝―確約書」処分。
 右に引用したのは“ノンポリ”生徒から、退学処分を受けた一人、古川杏子さんへ宛てた手紙の一節だ。次ページに、その全文と、古川さんから彼女へ宛てた返事を掲載した。
 昨年の10・21から11・25までの立川高校闘争の経過は「週刊アンポ」第3号“高校生のひろば”を読んでいただきたい。その後まず生徒会長が辞職した。(どの高校でも、生徒有志が質問状なり要求なりを出した時、学校側は「非合法団体だから」という理由で取り合わない。そのホンネは、立川高校では生徒会での大衆的な支持があったにもかかわらず。「執行部は一部の生徒の代弁者になっている」という理由でつき離された)さらに中央委員会は議長をリコール、自ら解体を決議した。そして収拾策としての会長選挙は大衆的な阻止行動で1日延期され、結局全校生徒の4分の1そこそこの投票率で強行された。
 学校当局は最後の切り札として処分を持ち出したのだ。しかし、冬休み明け1月8日から再び闘いは始まった。連日の校門前ビラまき、それを阻止しようとする教師たち。私服刑事たち。(腕をねじる、地面や壁にたたきつけるーヘルメットは必需品―なぐる、ける、服を破る)ことはもとより、門の内側にはテレビカメラがすえられ、校長室、教頭室、職員室に受像機があるという。(しかも「朝日新聞」の記者が取材に来ると、その日に限って妨害はなかった。下の写真は1月19日、校門前。中央が古川さん。手、顔をつかんでいるのは、立川高校の教師たち。

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<第一の手紙  真実の無意味さ>
 古川さん、お元気ですかーこんな空々しいことは書きたくないけれど、悲しいかな私にはこの際、他に適切な言葉が思い浮かばないのです。それに実際お元気かどうか心配なのです。
今週の月曜日から一度もあなたの姿をみないし、他の人たちも門前でみかけないようだから。
 あんずちゃんーあなたはこう呼ばれてだれからも親しまれていた。今だって、あなたのことを話すとき白々しくも古川さんという人は滅多にいません。私は貴女と直接、あまりおつきあいしたことがありませんが、でも1、2年同じクラスで時々お話しをしましたね。私にとってあなたはしっかりしていて、その考え方には、とてもついていけないような気がしていました。仲よくお話しもした代わりにずい分貧弱で(私がですよ)力量の不均衡な論争もしました。私はそのたびに、自分の不勉強を自覚させられましたが。
 10月21日の反戦デーには私は参加しませんでした。理由は、反戦の何たるかを考えず、安易に戦争反対を叫んで、しかも反戦と授業放棄との関係や、反戦デーをきっかけにして展開されるべき運動についての何らの見解ももちあわさない人が大半だったからです。(私がそう思った人の多くは後の民青の主力にさえなりました)また、21日以降のバリケードストライキにも反対でした。主旨がよくわからなかったし「解放バリ」という閉鎖状態の矛盾を感じたからです。でも、24日にバリの中からやってきたあなたと一寸お話しをして、私は少なくとも貴女方の主張のごく皮相な面を理解できたと思いました。そして、それまでもっていた自分の中の矛盾、今までの秩序を肯定すべきだという義務感と、全ての抑圧を排撃すべきだという権利意識の萌芽を整理し、家族や教師や目上の組織全てに対する義務を廃する方向にすすむという決心をすることができました。あのころから私は、今までの教師に対する「(できない)模範生」のからをつきやぶり、親に対する「家の子らしいいい子」のわくを脱しようと試みはじめましたので、双方に急に反抗的になったとみられたらしく、教師からは生まれてはじめていやらしい皮肉を浴びせられ、家でも父にやんわりと、社会主義のおそろしさについて説教されました。でも、自分で考えて自分で決意した生き方だと思うと、そんな大人のイヤミなどは平気でした。大杉栄にひかれ社会主義をもっと勉強する必要があると痛感したのも、そのころです。
 でも、私は結局そこまででした。私は何も行動することができなかった。それどころか目前にせまる受験におののき、授業再開の現実の必要性と、真実の無意味さのジレンマに悩むばかりで、厳然たる現実の前に私の決心も怪しくなるのでした。そんな私にも警察官導入とロックアウトはショックでした。家でいくらはなしてみても「警察はあなた方を守ってくれるのよ(共に闘い、共に進むべき友からわれわれを守ってくれるとは、有難い保護だ)」
というごく常識的且つ、消極的な誤解の中で話は終始してしまうし、一人で考えても、友人と話しても何の解決も得られないばかりか、授業再開必至という冷たい壁がすでに私を思考から隔絶してしまっている。今さらどうしようもない、という気持ちで私は結局、上辺はもとの「模範生」「いい子」にもどり、内職しながらも授業に顔を出したり、父と大学の相談をしたりすることを余儀なくされてしまったのです。
 私があの闘争の中でたとえ何らかの行動を起こしたとしても、それが余程のことでない限り、処分の対象にはなり得なかったでしょう。私の経歴がきれいすぎるからです。それにしてもあの処分!
 私はお正月の7日間を暗い、憤った気持ちですごしました。元日に新聞で処分を知った気持ちはなんともいえません。処分そのものへの怒りと不安とが、私にお正月気分も感じさせず、勉強に手をつけさせませんでした。
 そして8日の門前の闘争と教師の冷たい眼差し。私はそこにはじめて、教師の本当の姿、仮面をはいだ赤裸な姿をみたような気がしました。それなのにあなた方の闘争に対して、なんの態度も示さず、単に教師から顔をそむけてとおることが精一杯の抗議であることの辛さ。私は今まで、信じたい信じたいと念じてきた教師とあなた方のあの闘争に何度、口惜しさ、情けなさの涙を流したかしれません。
 毎日を、受験勉強に淡々としている今、私は完全なる敗北者以外の何物でもありません。大学に入っても闘争は私から縁どおいものであるでしょう。自分のいくじのなさが今からおしはかれるのです。
 でも、私のように自分ではなにもできないおくびょうものでありながら、あなた方の闘争を自分たちの闘争にしてゆきたくて声なき声援を送っているものも多いのです。私はあなた方が処分闘争を貫徹されることを希みます。自分はなんにもしないくせに、と思うでしょう?私もそう思います。理解してくれとはいいません!ただ許してほしい。この体制が私のような人間を多く育成していることを考えて。
 友人のMさん二人がこんなことをいいました。「何らの前提もなく、相手の人格や思想に対する認識もなしにお元気で、などというのは無責任で、おかしい」「敵に対してその健康を祈るのはおかしい。教師がバリの中の人の“健康を慮って”説得するというのは欺瞞である」。この人たちと同じ立場から私は貴女に心から言います。 
「健康に気をつけて」と。「健康に気をつけて、決して敗北者とならず、挫折せずに闘ってゆかれることを祈っています」と。
1月31日
立川高校の一盟友より

<第二の手紙  明日はない>
 手紙、ほんとうにありがとう。夜寝れないことを除いて、たいそう元気でいます。
 10月にはあんなにきらきら明るい微笑みと躍動する肢体と諂いの意志が重なりあって「生活」をつくり、進歩と増殖と蓄積の巨大な貧しさでぬり固められた日常性の蔓延る、そのシルクスクリーンを、べったり闇に塗りつぶすんだ!と駆けだしたのに、あなたの手紙を、読んだら、まるで権力を睨めつけつつも、踏みにじる側と踏みにじられる側との、相互了解性があるようで、あたしたち、90日たっても、やるせないほど脆弱いのだと思った。
 70年に入って、少年係から公安へ、私服2名から16名へ、制服20名から60名へという官憲による立川警備体制の強化の中で、更に高揚する緊張関係の創出において(それも「生徒会」などという、居直りの安住地帯を破壊した地平でーそれはまた、一切の何々主義者の大衆操作の場をも奪いとる、自立の拠点でもある)どこまでやれるか、という信じられないような賭けとして、処分闘争は始まったのでした。そして、立高襲撃闘争は、根源的な混乱状況の創造を、最も厳しい弾圧化で実現する、極めて、ラディカルな性質を、あなたにもみせつけたにちがいない。魂の痙攣で闘争があるのでない限り、この賭けは、「絶対処分させない」ところから複び永久律動の輪を広げてゆくでしょうし、あたしたちみんな極左冒険主義者で挑発者で犯罪者で、最後まで憎まれ役でありたい。とはいっても市民社会秩序での遠近法で区切られた時間間隔の渦中では、「革命的前衛」が「展望」を語る時さえ、それらの威厳に溢れた言葉の端にぶるさがってしまう市民社会への幻想は、どうしたってあるのだ。
 1月31日の大量処分、立高アウシュビッツ粉砕の街頭デモで、2人の仲間を官憲の手にわたしてしまって、あとの集会で多くの人たちが「彼らへの真の連帯は、われわれの闘争そのものだ」といっていたけれど、あたしってば、やっぱりそうしてみんな立川署取り囲み、奪還闘争を組織しようとしないのかと思ったんだ。でも、それだって思うだけ。そうして「蜂起の日まで」という発想の杣(そま)に住む魔物は、一方では「今はその時でない」と<今日>賭けに全額をはたくことにおびえ、一方では、「耐えてゆく」思想性と綱領の獲得に溺れてゆく。こうして現在を明日に売りわたす時、全生活の中で失われる、とりかえしのつかないものは何か。類型は。権力の側の終身刑の鉄則だ。生かさず殺さずうまくやってきた奴ら、「明日という字は明るい日と書くのね」という残酷このうえない歌に「俺たちに明日はない」と叩きつける、そんなこと第3世界でしかできないとうのも実はデマなので、結局何に敗けるったって、こんなに凄まじく暖かい化物やられるほどみじめなことはない。あたしはといえば、スターリニストふぜいに首切られて、殴られ蹴られ、体育科教師どもからは「お前なんか女じゃない」と罵倒され(あいつらは女を知らない。女というのは、もっと強いものだ)それでも極左の方針だし続けられるだけの生活感覚と技術と肉体をもっているわけではなかった。切断された首が視た世界の視野は気の遠くなるほどでかくて、自己否定なんて言うと、自分でうそいってるんじゃないかハラハラ涙が止まらなかった。でも、云々の覚悟がなければ闘えない、とか、云々の立場でなければ闘えない筈だ、とか、「語る言葉がない(ある)」の一切合財、いつだって抑圧者の側の「闘わせない」論理でしかなかったじゃないか。あたしたち、市民社会の甘い汁を吸っているどの瞬間からだってニタッと笑って、ひっそり立ちあがってゆく。
 凍てついた路上で、軍手をはめた番犬たちと、あたしたちと、鉄格子の陰に潜んだ私服との乱れた境界に、「通りがかりの者ですけれど」とかウソついて侵入してきて、したり顔で「先生の言うことを聞きなさい」「静かに勉強しなさい」「なんです、その乱暴な言葉は」とか、ヘドのでるような御託ざっくざっく並べたて、あたしたちの引き裂かれた衣服は視ないことにしていた母親たちーあなか方が間違っている。あたしたちの一人が「平和なんて欺瞞だ」と叫んだ時、ズラッと並んで一斉に、ウキウキと狂信的なまでに笑った母親たちのあわさった歯と歯の間で噛み殺されてゆく叛逆の嬰児は、「母」の大古墳をつくるだけの量になるだろう。ともかく、「生活」の陰に隠れようとしたって誰も隠れられる生活なんて持ってやしないのに、持ったことにしている自己操作で街は一杯だ。
 あたしたち、敵とか味方とか、状況においての一回性ぬきで規定するのやめよう。語っている肉体が忘れ去られれば、言葉は現実感覚でのワン・クッションになり下がる。沈黙がじっと危機的様相をおびて立ちすくんでいるのなら、あたしたち、再び街で出会うことによって、これらの言葉は、かき消されなければならない。あなたの、そしてあたしの肉体のつき刺さった「闘えない」部分の咎科の痛みは、じゅくじゅくとあたしたちを苦しめるだろうけれど、いまのところ痛みを全身にひろげていく以外、まともに他人の顔みて生きてゆく方法はないように思えます。
 あとになりましたが、まったく無断で、あなたの手紙を公開してしまってごめんなさい。どうしても、誰があなたの手紙を受けとったか知らせたくて、この雑誌にお願いして載せてもらいました。あなたの顔をあたしが知らないのは、あたしの恥です。では、お元気で。
2月5日
あんず

以上、「週刊アンポ」第8号に掲載された都立立川高校闘争の記事である。
この古川杏子さんのその後が、「高校紛争 1969-1970」(中公新書2012年 小林哲夫著)に載っているので引用する。

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【「高校紛争 1969-1970」 舞踏家 古川あんず】(引用)
 横山淳が都立立川高校を退学処分となったのは、同校の封鎖に関わったからである。1969年11月のことだ。このとき、4人が退学処分を受けたが、この中に古川杏子(きょうこ)がいた。のちに、古川あんずという名で世界的に知られる舞踏家となる。
 67年、高校1年の古川はブントの「社学同高校生委員会」結成大会に最年少で参加しており、感性豊かな早熟少女として、高校生活動家のあいだでは有名だった。
 1969年10月。立川高校(立校)の文化祭で演劇部、社研部、サッカー部、剣道部の有志が唐十郎の戯曲『由比正雪』を演じていた。客席には唐が主宰する状況劇場の麿赤兒、四谷シモン、李礼仙の姿があった。社研部の古川あんずが状況劇場に電話をかけて『由比正雪』を演じる許可を求めたことから、所属の看板役者が観に来てくれたのである。
 69年の文化祭から1週間後の10月22日、古川たち生徒十数名が校舎の一部を封鎖した。シャッターの内側にはロッカーを並べ鉄線で縛った。スローガンは「反戦、反安保、教育秩序に総叛乱を」だった。26日に封鎖を解除する。
 11月15日、生徒有志が成績評価、処分制度、生徒心得などの撤廃を訴え大衆団交を要求、再び封鎖する。翌日、学校は警察官を導入し封鎖生徒を排除した。
 12月31日、学校は中心メンバーの古川、秋山たち4人を退学処分にした。古川たちは、年が明けて処分撤回闘争を行い、学校内に突入しようとした。古川は教師数人に両手両足を抱えられた状態で、腕をねじられ、顔をつかまれて、排除される。
 70年9月、封鎖、退学になった生徒が中心となって『立高新聞』を作る。2〜4面は古川の論文が掲載されている。大量処分が理不尽であることを次のように喝破する。
 「思想を処分するのではなく行動を処分したのだとやつらが『社会的責任』という市民社会のよりよき番犬の標語をうたいあげる時、思想はマスターペイションとしての過去の『学問』のしかばねに転落せしめられ、その『学問の自律』論が『処分』する側の主体の自己切開をもはぐらかす役わりを果たしてきた」
 退学処分を受けた原田武久は古川をこう振り返る。
「−妥協を許さない厳しさを持っていましたが、凜々しくきれいな女性であり、だれからも好かれていました。とくに女子に人気がありました。彼女が書いた文章は絢爛たる筆致で今なお輝きを失っていません。」
 その後、古川は定時制高校に編入して、桐朋学園大学音楽学部作曲科に入学する。舞踏集団の大駱駝艦に入ったのは20歳のころだ。
 2001年10月、古川はドイツ、ベルリンで亡くなった。舌癌だった。享年49歳。
 翌11月にお別れ会が行われた。何度も共演したジャズの山下洋輔、舞台女優として活躍した大駱駝艦の恩師である麿赤兒が並ぶ。麿はあんずの遺影にこう語りかけた。「天使の羽は腕力があまりに強すぎて、あまりに遠くへ飛翔してしまった」(「朝日新聞」2001年11月19日)。「あんず」は天使のフランス語(“Ange”発音はアンジュ)にちなんで名付けられた。

(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は8月4日(金)に更新予定です。

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「週刊アンポ」で読む1969−70年シリーズの8回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969−70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第3号に掲載された都立立川高校闘争である。この号では教師から見た闘争が書かれているが、第8号にも処分された生徒の手紙が掲載されている。今回と次回の2回にわたり、都立立川高校闘争の記事を掲載する。

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【一教師のみたバリケード闘争 週刊アンポNo3  1969.12.15発行】
都立立川高校 浅野虎彦
10・21は本校でも集会が玄関前の広場で朝から持たれ、熱心な生徒諸君が討論をかわしていた。しかし、いわゆる受験体制中のノンポリが多いため、参加者は少なかった。論理で立ち向かえない教師たちはそれを利用して、全生徒から彼らを浮き上がらすような宣伝をした。
 過去何年かにわたる学校側の非教育的な環境は、生徒諸君が安保・沖縄問題などを真剣に考えることを妨げてきていたが、そうした環境のために集会に参加しようとしない生徒の関心を喚起する目的で、一部の熱心な生徒のグループはついに同日夜中、教師警備の虚をついて教員室1、教室8を封鎖してたてこもった。
ただちに緊急職員会議が開かれた。すると、真っ先に一部の教師集団が(右翼でない)発言し、生徒諸君を暴力学生ときめつけ、犯罪者であるという前提で審議することを提案した。これに対し、右翼系の教師たちも異議なくこれに同調した。またその他の教師連中も身の安全を計るために完全に沈黙し、職員会議は両者の思うように動かされていった。
時日が経過した10月25日、私はこれ以上封鎖を続けることは不利であると判断した。そこで私は連絡をとってバリケードの中の生徒の代表者と会った。私はこの自分の判断を中の人に伝え、彼らがそれについて充分討論し、もし同様な結論に達したならば戦術を転換しなさい、と話した。彼らは結局私の意見と一致したようで、翌26日未明、彼らはバリケードをといた。
これにはバリ中の生徒の父兄までが、教師の暴力的妨害を排除して彼らの封鎖解除を手伝った。彼らは整然として校外へ立ち去ったのである。
そのバリケード封鎖の跡は完全に元の形にもどされており、いやむしろ前よりもきれいに掃除され、もちろん器物の破壊などは一点もなかった。
解除後、教師たちは中に入って破壊の跡の証拠写真を撮ろうと、カメラを持って血眼に走りまわったが、その目的はまったく果たすことができなかった。このことはさらにこれらの教師をいらだたせ、自ら無謀な行動に走り、新聞紙上で笑われるようにまでなった(後述)。
彼らは、このような解除はおとなの指導がその裏にあるに違いなく、非常に長期間に亘って計画されたものであると、さかんに力説した。翌日、会議の席である印刷物が職員に配布された。おそらく連日、宿泊警戒していた教師の中の特定集団が書いたものであることは、以下の文章をお読みになればわかって下さると思う。
『事態の性質について
 69年10月から11月にかけての情勢の中での一連の動きの一環としての政治問題であって単なる学内問題、教育問題ではない。その動きは民主的な組織及び個人に対して分裂と混乱をもたらし、退廃とあきらめにもちこみ、ファシズム的な体制への移行の条件をつくりだすものである。これ故に極左をよそおいながら容易に右翼的諸団体やアナーキズム、ニヒリズムとも、あるいは単なる精神の荒廃(非行的な)とも結びつきうるものであることは、今われわれが目前にしているところである。
 こうした動きはすでに大学では展開されてきたが、大学立法等によって大学を拠点とできなくなった現時点では、高校にまでおりてきて、生徒の歪みや弱さを拡大しながら利用して全国的に高校教育と高校生を荒廃させようとしている。
 従って全高校が狙われているのであるが、とりわけ立高は日比谷、青山、都立大附属等とともに現在の立高の廃校にまで至りうる徹底的な攻撃の目標高の一つである可能性は充分にある。この攻撃に対する闘いは心情だけではない展望をもった統一と団結以外にはない。(中略)われわれはこの情勢の中では教師と生徒の、生徒間の、教師間の団結を強め、はげまし合いながらも、われわれの分裂をきたすようなまた、バリストグループを援助するような部分についてはきびしい批判をもってのぞむのは当然であり、生徒、父母であってもあいまいな部分に対してはきびしい警戒をゆるめるわけにはいかない。』
 以上のような文章が高校教師の間でなんの異議もなく承認され、教師間の共通意志として確認されたというような、そんな職員会議がほかにあっただろうか。

<学校教師の背信行為>
 バリがとかれてから、これらの教師グループは、生徒の中の民青系グループを使って。彼らの方針にそったいわゆる学校民主化案を次々と代弁させ、しかも時々その代弁者を交代させてその陰謀を隠すというような工作も忘れなかった。その結果、ついに彼らの策動は成功し、授業再開へのホームルームが始められるようになった。
 しかし、バリストの諸君は教育の前提となる処分制度、単位、成績表、検閲制度、出席率の撤廃を要求する公開質問状を、百余名の生徒の署名をそえて学校側に示し、その回答をせまった。だが、学校は「君たちとは住んでいる世界が違うから話し合えない」という暴言まではき回答を待つ生徒を残し、夜中12時過ぎ学校を出て行った。
 翌16日も午前中は同様な対立が続いた。午後になると校内にいた教師は、生徒の「話し合おう」という叫びをきかずに帰っていった。ところが、そのあとどこかわからない所で何かを決めた教師たちは、夕刻になって再び隊列を組んで校門に入り、「不退去罪になるぞ」とおどしつつ生徒の引き抜きにかかった。
 事態の重大さを感じたある生徒が、電話で私に急を告げてきた。私がかけつけた時には、何ら険悪な空気はなかったものの、対立はまだ続いていた。私は両者の意見を聞いたうえで、生徒から出されている校長への質問書を学校側が受け取り、生徒集会でそれに回答するよう要求したが、校長は頑としてそれを拒否し、あまつさえ早く帰らないと警官を導入すると恫喝し始めた。私は繰り返し事態の重大さを校長に説き、質問書の受理をせまったのだが、ついに11時校長は「警察の方、私は立川高校の校長です。入ってください」と要請した。こうして警官隊の実力行使が行われ、生徒諸君は校外に押し出されたのである。

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 このことについて言えば、学校は前々から警官は入れないと誓言していたのだし、また組合の校内委員の教師たちも組合は絶対に警官導入に反対するという印刷物を生徒に配っていたのである。だから、この警官導入は絶対に許せない学校教師の生徒諸君に対する背信行為である。

<生徒を車輪にかけて>
 このことで再び事態は悪化した。それにろうばいした教師たちは、警官を入れたのは止むを得なかったという、生徒を対象にした説明会を11月20日、雨の降る中で所もあろうに多摩川畔の空地で開催した。そこで彼らは一方的に学校の意見を押しつけ、生徒の中の質問のあるものには紙片に要旨を書かせて内容を制限し、時間も一人2分に限るという強い姿勢で臨んだ。午後4時となるや、約束の時間がきたと称して教師たちは用意されたマイクロバスに乗り、もっと話そうとバスのまわりをとり囲む生徒を、まさに車輪にかけるようにグイグイ車を動かさせ、居合わせた母親たちの、危ないからやめて下さいと叫ぶ声も聞こえぬふりをして去って行ったのであった。
 このことはさすがに各新聞社も重視した。今まで消極的であった社をふくめて、各紙の都下版はこの事件を大きく取り上げ、学校の卑劣さを市民に初めて明らかにしたのである。あわてた学校は、この記事は事実をまげて報道しているという印刷物をつくり、全父母に速達で郵送したが、これこそ恥のうわぬりをする以外の何物でもなかった。
 以上のように立川高校では、都立の各校に起こっているバリストの中でも全く並はずれて異常な紛争状態を、教師自らが作り出しているのであり、その対策も非常識なやり方を続けて、事態はますます困難になっているのである。
 きょう(11・25)も組合では本部委員会を開いたが、学校管理職が父母たちに配布した印刷物の写しまでが、日頃「赤旗」の購読を勧めて歩く本部委員によって、臆面もなく委員会の席上で配られた。
 このような矛盾を平気でやる教師から授業を受けている生徒が、変革をせまるのは当然のことだろう。このような教師が生徒を説得し、学校を正常化しますから御協力を、と呼びかけるそのごまかしに、世の中の父母はぜひとも気がついてほしい、と私は訴えたいのである。

※ 次回も「週刊アンポ」第8号の「高校生のひろば」に掲載された都立立川高校の記事を掲載します。

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次回は7月21日(金)に更新予定です。

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2009年5月に連載を始めた明大全共闘クロニクル(年代記)も、8年間連載を続けてきたが、今回が最終章である。
1970年6月14日と15日が過ぎ、70年安保闘争の最終日、6月23日を控えて、大学当局は突如として6月18日から23日までの全学ロックアウトを行った。
全学ロックアウトとなったため、私は6月20日から22日まで法政大学にいた。高校時代の友人が法政大学にいたため、高校時代の仲間のグループとともに、そこで23日に向けた準備など行っていた。
明大新聞に全学ロックアウトになった6月18日の記事が掲載されているので見てみよう。この日は、私は新聞の告知でロックアウトを知ったが、大学へは行っていない。

【抜き打ちロック・アウト 内ゲバ理由に18日から6日間 明治大学新聞 1970.6.18】
『18日、大学当局は「6月18日(木)より23日(火)まで全学休校とし、各校舎出入口は閉鎖します。詳細はテレホンサービスで承知願います」の新聞広告と掲示によってまったく突然にロック・アウトを行った。
それと知らず登校した学生はその告示板と「最近、学内外で他大学生を含む一部分の学生の暴力行為、業務妨害等が頻発している状況にかんがみ・・・」という告示によって、締め出された。
こうした大学当局のロック・アウトに対し、本校、和泉、生田各地区においてつめかけた学生の抗議集会が開かれた。和泉地区では1,000人近くの学生が集まり、ベ平連、反帝学評、MLなどを中心として弾劾集会を開き、11時30分頃正門の鉄扉を実力で解除した。しかし、かけつけた機動隊に排除され、5名が公務執行妨害で逮捕、1名が救急車で運ばれた。

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一方、生田校舎では、正門はロックアウトしたものの、生田寮側から学生が続々と登校し、9時頃約200人の学生が、高木工学部長を囲み追求集会を行い、12時頃集会を終えた。
 また本校では5時頃から抗議集会やデモ行進が行われた。

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(解説)
このような事態について大学当局はロックアウトの理由を「学生諸君へ」の文章で「最近『安保』の自動延長をめぐり、学内において一部学生の過激な行動と、学生各セクト間の主導権争いによる暴力行為が頻発」ということをあげている。しかしながら、それが決して「『安保』の自動延長をめぐった」問題ではなかったことは明らかといえる。その点において18日から23日までのロックアウトはいかに考えようとも不可解という声が強い。また、15日の生田における「寮闘委」の学生による生田学生課長などに対する「団交」要求を迫ったこともあげているが、これにしても、これは寮闘争の一環であり、そうしたところからは、そのような期間は出てこない。さらには18日における「寮闘委」の学部長会議への抗議行動にしてみても、それはすでに学部長会議で決定ずみであったといううわさもあり、またそれが事実でないにしろロックアウトの理由として掲げられることは基本的におかしいとみられる。
 このようにみてくると、大学当局の「ロックアウト」それも18日から23日までという期間はなんら納得のいかぬものであるばかりか、明らかに「6月安保」を機に盛りあがる「反安保」運動への弾圧であり、圧殺であるといわれてもしかたがない。大学当局が常にいう「力の論理」を認めぬという態度が、はしなくも今度の「ロックアウト」措置によって、自ら「力の論理」をもってしか臨んでいないことを露呈したとみるむきが多い。そして学生間に強い不信感を残したことは事実である。』

【薄れた大学側の警察アレルギー  6・17和泉の混乱から  明治大学新聞 1970.6.25】
<“オレ達の大学だ” 排除される学生に当局不信>
〇本学連合教授会は大学の自治と教育・研究の自由を守る観点から、新次官通達に対してつぎのような疑念と憤満とを表明するものである・・・(略)・・しかるに、当局の単なる治安対策的な大学紛争処理の在り方は、真の解決にすこしも役立たないばかりか、大学問題の自主的解決を阻害するものである。大学に対する教育上の配慮と判断とを無視した警察当局の、一方的な判断を優先させることによって学内に警察権のほしいままな行使を許すような事態になれば、もはや大学はその本来の機能を主体的に果たしえなくなる・・・(略)・・(昭和43年4月25日「連合教授会声明」)
〇われわれは今日の大学問題が単なる治安面の学生対策によって解決されとは考えない。治安当局の大学介入はかえって学内をいっそう混乱におとし入れ、激動する大学内の秩序をさらに収拾できないものにすることを強く憂うものである・・・。(同日「学長声明」)
 『約1年前、大学側は別掲のような見解を表明、警察権力の大学介入に反対の意向を強調してきた。ところが、昨秋の機動隊導入、ロックアウト以来、うって変わってコトあるごとに機動隊要請が行われ、今では警察と大学との癒着を疑われるほど、憂慮すべき事態であることは否定できない。学内秩序の維持を理由にした予備検査的な警察権力の要請・介入は、一面で学生自治への挑戦と化している・・。
 6月18日の全学ロックアウト突入の際の和泉での混乱を見るなかから、学生の間につのってきた大学当局への不信感をさぐってみよう。
 
 6月23日の安保条約の固定期限切れの迫った18日、本学は突如、6日間に及ぶ全学ロックアウトという事態に突入した。これは警察側から、都内の主な大学に対して発した、ロックアウト要請があったことからして、あらかじめ予想されていたとはいえ、6月安保決戦の第一のヤマ場であった14日、15日を大学当局は看過してきただけに、余りにも突然で不意を突かれたとの声が強かった。当日は、本校、生田が比較的平穏だったものの、和泉地区はロックアウト糾弾の声でうずまった。
 この日は早朝から、ロック・アウトの新聞広告を知ってか知らずか登校した学生が京王線・明大前駅周辺や固く閉ざされた和泉校舎の正門前に集まった。その数、数百名。
 「最近、学内外で他大学を含む一部学生の暴力行為・業務妨害が頻発している状況にかんがみ」
 −と叫ぶスピーカーからの声。これをロック・アウトの理由だとすると当局側には、説得力は感じられなかった。というより論理以前の問題として、あまりにもその言葉は冷たく聞こえた。「声の姿は見えず、機械的に同じことを繰り返すその言葉に、当局と学生との間の目に見えない断層があった」とある学生が言った。
 また、そのロック・アウトの論理にしても、本校地区で12日に起きた学生解放戦線のノンセクト学生を含めた反帝学評系学生に対する襲撃事件にからんだ予防措置としているが、これにも批判が多い。田代新寮闘争委員長は「生田の場合、その事件とは関係ない」としており、和泉においても「本校で内ゲバなり、寮生が押しかけたからといって、それを理由に和泉もロック・アウトにするのはおかしい」という声が強かった。
 また、安保固定期限切れの23日に向けて法学部2年14組が11日からスト入りしたのをはじめ、相次いでクラス単位の運動が盛り上がりを見せ、本校でも二政経1年8組、二政経3年7組など個別的にクラス・ストを行ってきたところが多かった。学生会中執の力量不足など全学的なマトメ役に欠けていただけに、その価値は大きいものがあった。「われわれのクラス運動の圧殺でしかな」(法2年)とブチまけていたのが印象的であった。
 11時半。正門をこじあけたとたん、ドッとあたりにいた学生が校舎内に乱入した。ヘルメットの学生はそれほど多くはなかった。“喜び”と唐突さのために、興奮気味でデモ行進する学生。いわゆる“一般学生”といわれる部分もかなりを占めている。それをただ冷たく見守る教職員。そこには対話はなかった。

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 ただちに機動隊が要請された。正門横に座り込んだ学生数十名と、それを取り巻く学生。いかめしい乱闘服にジュラルミンの楯で警告もそこそこに排除に乗りだした。座り込みの指導者は、間髪をいれず逮捕され、無抵抗の学生は楯で押しやられた。正門から10メートルくらいのところまで有無を言わさず学生を蹴散らした機動隊。このところ頻繁になった機動隊要請だが、この日の排除は強硬で、一般学生を遠く押しやることでヘルメット学生と分断し、機動隊はヘルメット学生を取り囲み楯で押しまくった。「ここは俺達の大学だ」と誰かが叫んだ。

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 −「学生のゲバルトを政治ゲバルトで押さえようとする大学弾圧立法が成立した」(本紙44年8月14日付号・木下理事の話)
 −「機動隊など外部の力の導入などに関しては、今のところ白紙である。そういうことをできるだけしたくはないしまた避けたい。警官隊を入れてまで抗議をしたいとは思わない。それは真の解決にはならないからだ。それは学生と大学とのミゾをますます深めるもとであり、一番好ましくない姿である。「(本紙44年10月11日付号・中川学長の話)
 −かたくなに警察権力の介入に批判的だった大学当局。各大学に機動隊導入の相次ぐなか、徐々に警察アレルギーは薄れていった。
 完全に機動隊に制圧された和泉校舎一帯。正門前には、機動隊放水車がドッカと腰をすえ、その周りで隊員が冷厳に蹴散らされた学生と対峙していた。
 高姿勢な機動隊の警備に、一人の学生が声を震わせながら叫んだ。
 「皆んな見たか。これが大学の姿なんだー」
 学生の排除されるのを目のあたりに見ながら、校舎内にいた教職員が、ただ正門の黒いトビラをしめるだけだった。』
6月23日、70年安保闘争最終日、この日のデモは日比谷公園まで3時間以上かかった。途中の衝突の影響で催涙ガスがデモコースの各所に充満し、眼が痛かった。
6月23日の記事が明大新聞に掲載されてるので見てみよう。

【6月反安保闘争の終焉6・23  明治大学新聞 1970.6.25】
『―全国全共闘のセクト野合を越え 全共闘運動の原点へ たとえ権力の壁は厚くともー
<闘いはやまず>
 23日、その前日「日米安全保障条約」はその固定期限が切れた。そしてこの日から<国民>の意志さえまったく無視した形で、302議席という数にのみ依拠した佐藤内閣によって自動延長された。
 この日、全国全共闘、全国反戦共催による「6・23労学市民大統一集会」が明治公園で開かれた。3時頃からつめかけた学生、旗の波は次第に広がり、反戦労働者がつめかける頃、公園の中は身動きできないほど埋めつくされた。その中で、権力との直接対峙をよそに、戦旗対叛旗、ML対フロントなどの内ゲバがありながらも、7時頃、約5万人の参加者を結集し、統一集会は成田空港三里塚反対同盟青行隊長の「反安保体制、階級闘争」へむけたアピールから開始された。

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 68.69年にわたって全国的に展開された学園闘争は、70年に至って強権的な大学当局によってあらゆる闘争は締め出され、大学当局のいう<一般学生>さえもが行き場を失った。この日も多くのノンヘル、ノンセクトの学生もつめかけたのだが、全国全共闘のアピールはこれまでの各大学代表のアピールという慣例を破って各セクトのアピールに終わった。これは全国全共闘がセクトの野合でしかなかったことを、計らずも露呈してしまった。このことは大きく問題にされねばならない。
 今野反戦青年委員会世話人の決意表明採択を最後に集会を終えたデモ隊は、街頭へ繰り出した。先の14日、鉄パイプで武装登場したMLはこの日、鉄パイプにかわって竹竿の武装で参加していたのだが、青山絵画館前付近で機動隊と対峙する頃には、片手に鉄パイプ、もう一方の手には火炎ビンで武装されていた。その数200人ほどだろうか。阻止戦を張る機動隊に一斉に火炎ビン攻勢。退却する機動隊、退却から攻撃。鉄パイプで応戦するデモ隊。攻撃から退却。水平撃ちのガス銃が連続火花のように火を吹き、鈍い音が続く。
 まもなく、わずかに衝突の跡をとどめるだけの場所を何事もなかったように後から後から機動隊を睨みつけるようにデモ隊がジグザグデモを繰りかえしていった。いつもは五列の隊列を余儀なくされるデモ隊は機動隊の壁を押し押し隊列の幅を広げる。デモコースはいつになく長かった。どこまでいっても裏通り、裏通りを抜けて待ち構えるのは機動隊、あらゆるところで小ぜりあいが続き、そして衝突の跡は生々しく残されていった。その中でけがをした学生の手当をする、白ダスキに黒く「6・23救援会」と染め抜いた30,40才くらいの“オバサン達”の姿が脳裏にやきついた。
 デモ隊が国会の南通用門をさしかかる頃、装甲車は幾重にも並べられ、ビデオ車から伸びたカメラがその中から顔をのぞかせ、サーチライトがまぶしくデモ隊の姿を浮かびあがらせる。遠くに国会議事堂が無表情に見えるだけ。「安保粉砕・闘争勝利」のシュプレヒコールが一層高く、デモ隊の装甲車を蹴る鈍い音だけが響きわたった。

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<唯一の安保スト>
 その頃、1日以来「連日デモ」を敢行してきたベ平連は、この日も清水谷公園に結集した。その数1万5千人(主催者発表)にのぼり、デモが出発した後、さらに1万人の追加発表がなされるという、まさに前代未聞の“異常”事態となった。
 一方、6月安保ゼネストを掲げた総評は2月頃に至り、当初のゼネストを放棄し、5月1日のメーデ−にいたっては、同盟の右翼的分裂策動におびえ「統一集会」というなんら内実なきものを守るため「反安保」のスローガンさえ下した。そうした既成労組を乗り越えて、この日の早朝、動力車労組の労働者によって“安保スト”が革マル派の学生の支援による「労学共闘」によって勝取られていた。
 だがそうしたことをよそに、代々木公園では社共の「1日共闘」などというまことに形ばかり「中央大集会」が22万人(主催者発表)を集めて、アコーディオンの調べにのって行われたのである。

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<衝突・討論>
 全国全共闘と全国反戦のデモの解散地点日比谷公園の入口では、デモが到着するごとにデモ隊と機動隊の激しい衝突が繰り返されていた。入口付近は催涙ガスが充満し、一見モヤでもかかっているかのよう。しばらくはデモ隊と機動隊の一進一退が続く。だが機動隊が攻撃に出る度に次第に公園の中へと入り込んでくる。デモ隊は退却する機動隊員1人を捕まえた。「ヤレ、ヤレ」と叫ぶ者。「ヤメロ。ヤメロ」と叫ぶ者。いつも抑圧され、弾圧され屈辱を強いられているのだが・・・。「ヤメロ」と言った学生なのだろうか、気を失った機動隊を大楯に乗せて機動隊の待機することろまで運んで行った。それから間もなく、機動隊は公園内までガス銃を撃ち、乱入してきた。公園内までもが機動隊の解放区と化してしまった。
 催涙ガスの炸裂する中で、近くにガス銃の連続音と機動隊のウナリ声を聞きながら、まだ集会を続行する黒ヘルの部隊があった。まわりには散り散りになった仲間を探す姿がチラホホラ見えるだけ。「自由連合」と書かれた黒旗を囲む黒ヘルの部隊は終電近くまで、一人、一人の発言を求めながら総括集会を続けていた。
 日比谷公園にデモ隊の姿がなくなった頃、べ平連のデモ隊は、全国全共闘、全国反戦デモ隊と交差して分断されたため、最後尾はまだデモを続けていたのであった。そのデモが終着点に着く頃には、すでに終電車はなくなり、はからずも徹夜デモンストレーションとなった。
 6・23だろうと、「安保」だろうと、変わることなく輝き続ける銀座のネオン街に、異変が生じたのであった。“金と権威”の銀座は、金もなく名もない若者の夜の街となったのであった。
<70年代闘争へ>
 こうして6月23日は終わった。そして70年の6月は終わろうとしている。この日を最後に6月には大きな街頭闘争はもうないだろう。だが、まだベ平連の「連日デモ」は続く。いつまで続くのか。ベ平連の運動自体にはそれなりの問題点なり、限界性はあるのだが、しかし、ユニークな運動は否定しがたく、とどまるところを知らない。
 70年6月が終わっても「安保体制」は依然として変わりなく存在し、ますます重くのしかかってくるであろう。街頭へ、街頭へと出てきた学生も、労働者も、学園へ、職場へ戻っていく。学園ではこれまで学園闘争で提起された問題はなんら解決されることなく存在し、それ以上に、ロックアウト体制なるものをもって、闘争を圧殺せんとしている。職場においても合理化攻勢はとどまることはないであろう。権力の壁は厚くあまりにも強大ではあるが、それだからこそ一層、今、それぞれの学園で、職場で、地域で根底的な闘いを、個人の“主体性”と“自発性”の中から創出していかねばならない。
 全国全共闘がセクトの野合でしかなかったことを露呈してしまった現在、日大、東大闘争によって創出された「全共闘運動」そのものを再度見つめ直す中でしか、70年6月を70年代闘争の出発点とすることはできないのではないか。
 この日はこれまで叫ばれてきた「労学共闘」が実質的に動力車労組において実現された。こうした「労学共闘」、そして三里塚における「労濃学共闘」もすでに実現されている。こうした闘いの環をさらに推し進めることによって、70年代闘争の展望は開けてくるのではないか。』

70年安保闘争は終わった。
この6月23日以降、明大和泉校舎は旗もなく笛の音も聞こえない状況がしばらく続いた。学内デモをしても2桁は集まらず、旗もちとデモ指揮を除くと、隊列が2名で3列という時もあった。このような停滞した局面は、70年12月まで続いた。
全共闘に結集した学生は、最盛期には2,000名(中心的な学生は約500名)もいたが、70年安保闘争の終焉の機に活動から遠ざかって行った学生も多く、活動を続ける学生は減った。だが、数は減っても、生協の総代選挙、自治会の選挙、学生大会と合法的な機関を再び学生の手に握る活動が開始された。
また、学生会館は自主管理で開いてはいたが、ロックアウト体制ということで、館内に電気やスチーム暖房が入っておらず。冬が近づくにつれてサークルの学生たちの不満が募っていった。
そこで学生会館運営委員会では「学館に電気を入れろ!」という集会とデモをやったところ、100名近くのサークル員が集まった。それに驚いたのか、学校当局はすぐに電気を入れた。
そんなことを繰り返しながら、徐々に学内での体制を立て直して行っていった。
明大全共闘は消滅したが、全共闘運動の遺産を引き継いで、新たな闘いは続いていく。
「明大全共闘クロニクル」は今回で終了となるが、今後、ポスト全共闘の時代、1971年から72年までの駿河台地区での学内ロックアウト体制粉砕の闘いや、MUP(マップ)共闘を中心とした闘いなどを「黒ヘル風雲録」(仮題)という形で掲載できればと考えている。
(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は7月7日(金)に更新予定です。

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明大全共闘クロニクル(年代記)1970年6月の続きである。今回は70年安保闘争の月、1970年6月14日、15日である。
1969年6月の明大全共闘結成当初は代表者会議などが開催され、それなりに「全学共闘会議」という形をとっていたが、同年7月のブント内の内ゲバ(関東派と赤軍派)以降、明大全共闘の主流派であったブント内部の分裂、70年安保闘争をめぐるML派、反帝学生評議会など党派間の対立、内ゲバなどがあり、1970年に入る頃には、明大全共闘は事実上崩壊していた。党派主導の全共闘の宿命である。
そのような状況もあり、私は、69年後半から学外のデモや集会には、高校の仲間を中心としたグループで参加するようになった。6月のデモもそのグループでの参加だった。
6月14日のデモは途中から雨が降り出しズブ濡れになった記憶がある。

1970年6月14日と15日の記事が明治大学新聞に載っているので見てみよう。
【70年代闘争の第一歩踏み出す “新左翼”最大の動員 雨にぬれ、壮大なデモを展開  明治大学新聞 1970.6.18】
『6月安保闘争の前半のヤマ場、6・14、15は雨に濡れた。代々木公園は14日、新左翼の労働者、学生、市民が大結集し、これまでの最高の動員を記録した。見渡す限りのヘルメット、人の波。各セクトの旗。さまざまな市民団体のプラカードが公園を埋め尽くした。NON−「壮大なNON!」の雄たけびが日比谷公園まで雨を衝いて、響き渡った。
 翌日の15日には、3ケ所で樺美智子さんの追悼集会が催された他、池袋で反帝学評、フロント系学生がゲリラ行動を起こした。群衆を巻き込んだ闘いは、渋谷ハチ公前のビル、商店街で夜遅くまで「安保粉砕・闘争勝利」のシュプレヒコールが絶えなかった。

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<6・14>
 全国全共闘、全国県反戦、六月行動委など新左翼陣は「インドシナ反戦、反安保・沖縄闘争のための6・14大共同行動」を渋谷・代々木公園で開いた。
 この集会に先がけ午後1時半ごろ、武闘を叫んでいたML派は新宿から国電原宿駅に向かい、火炎ビン、鉄パイプで武装、駅近くで機動隊と衝突した。火炎ビンと投石で対抗したが、100人以上が逮捕された。
 代々木公園では、昨年の6・15統一集会を上回る7万2千人、新左翼としては最大の動員をみせた。また、革マル派も参加した。「共同行動」としては、まとまりがなく、あちこちで内ゲバが発生したが、さまざまな市民団体、プラカードも目につき、6月闘争前半の壮大な広がりをつくりあげた。
 集会は午後3時前に開始され、6月行動委員会、全国全共闘、全国反戦が、実力闘争の展開と個別闘争の結合を強力におし進めようと訴え、決意表明を行った。さらに樺美智子さんの母、光子さん、小西元自衛隊員などが挨拶、最後に長崎県反戦の反戦宣言を拍手で採択、インターの大合唱で終了した。
 統一集会の後、午後4時前デモ行進に移り、青山通りー赤坂見附―霞が関―日比谷公園のコースを激しい雨に打たれ、ずぶぬれになりながら、ダイナミックなデモンストレーションを展開した。
 デモの途中でも、ML派は火炎ビン、鉄パイプで機動隊と対抗した。国会前の霞が関ランプでは、装甲車が議事堂への道をシャットアウト。この装甲車に反帝学評の学生が“挑戦”。車の屋根によじのぼったりタイヤの空気を抜いたりして気勢をあげた。
 また、社共系団体も全国で17ケ所、1万7百人が集会を開いた。

<6・15>
 60年安保闘争において、国会に突入した学生と機動隊が衝突した事件で、樺美智子さんが殺されてから10年目の命日にあたる15日、全国各地で追悼集会やデモが行われた。東京では6・15実行委が日比谷野音で「6・15樺美智子追悼労学市民統一集会」を開いたのをはじめ、反日共系各派、市民団体ら合わせて30近くの集会やデモが行われた。
 一方、一部のセクトが、渋谷駅周辺で街頭武装闘争を展開したため、同駅周辺は夜半まで混乱が続き、200名以上が公務執行妨害などで逮捕された。
 日比谷野音の統一集会は、中核系学生、反戦青年委などを中心として午後7時から開かれ、樺さんに1分間の黙祷をささげた後、200名ほどが国会南通用門まで追悼献花デモを行った。
 また、この中核派のカンパニア闘争と対比をなして、反帝学評、フロントらのセクトは渋谷駅周辺でゲリラ的に道玄坂上交番を襲撃、火炎ビンや石を長手機動隊と衝突した。まもなく、渋谷・宮下公園で集会を開いていた全共闘系学生ら数百人がこの知らせを聞きつけてかけつけ、群衆と一緒になって、追いつ追われつの“ゲリラ闘争”を繰り返したため、降りしきる雨の中、夜遅くまで混乱が続き催涙ガス弾が発射された。
 また8時頃、渋谷区役所前、山手通り、東大教養部裏門前などのはバリケードが築かれたことから交通は一時ストップされ、機動隊との攻防戦が行われたが、まもなく排除された』。

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【渦巻く反安保の叫び  明治大学新聞 1970.6.18】
<全てが反安保に向け 6・14ルポ>
『70年6月、この間、反安保戦線は、分裂に分裂を重ねるとともに、「反安保」から「反体制」へと、その闘争の質を深化させてきた。しかし、一方において「安保」は昨秋の佐藤訪米の際の「日米共同声明」によって、改訂期の6月を待たずして、すでに、自動延長の道は敷かれていたのである。
 6月14日、そんな遺恨を一心に秘めた「6・14労学市民総決起集会」が、六月行動委員会、全国全共闘、全国県反戦を中心として挙行された。
 4時頃、大会を終えた各セクトは、思い思いに、公園内でデモ行進を繰り広げた。色とりどりの旗が林立し、白・赤・青・黒のヘルメットの隊列がところ狭しと行きかった。
 原宿駅で機動隊とすでに一戦をまじえたML派の200名ほどは手ぬぐいの覆面姿で、片手に1メートル余りの鉄パイプを持ち武装態勢。“ゲバ抜き”を確認したという集会とはウラハラにここには緊張感が漂う。
 突然、あたりを取りまく人並がくずれ、石が飛びかった。
 「内ゲバだ!」と誰かが叫んだ。唐突なだけに皆、無我夢中で逃げまどう。中核とプロ学同との衝突をはじめ、この日は、ブント内部の戦旗派と叛旗派が分派闘争をめぐり、つばぜりあいを行うなど、随所で内ゲバが絶えなかった。
 「やめろ!やめろ!」「ナンセンス」と周りからしきりにヤジが飛びかった。そして、上京組のノンセクトらしい一人がつぶやいた。「内ゲバかア、頭にくるなア」。権力に向けるはずの鉄ツイが“身内”を傷つけ、果ては自分をも傷つけるー内ゲバ。無情なことがあってよいものか。
こうしている間にも、代々木公園を出発したデモ隊は、原宿駅前を通って青山通りに向かった。小降りだった雨もしだいと強まり雨雲が低くたれさがった。道路いっぱいに色あざやかなほど旗とヘルメットが目を打った。

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途中、原宿二丁目付近で、ML派学生100名ほどが突如、隊列を離れ、狭い路地に向かった。10数メートル入りくんだことろで、あらかじめ用意していたと思われる駐車中の車の中から鉄パイプとダンボール箱に入った火炎ビンを持ち出した。付近にいた学生と労働者の中から「ヨシ、ガンバレ!」と気合がかかり、拍手が鳴った。青山通りに抜ける交差点にさしかかろうとしていた矢先、あらかじめ待機していた機動隊が、黒山のように一斉に規制にのり出した。
近くの路地を逃げまどう学生、交差点からわずかのところにある善光寺の境内では、ML派のものと思われる鉄パイプ20本余りが私服と機動隊に発見された。

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6時頃、デモ隊の中の反帝学評の学生が赤坂見附にさしかかった際、赤坂東急ホテル前の外堀通りで機動隊のスキを突いて、隊列の向きを変え旗ザオをかざし戦闘態勢に入った。判帝学評とMLの一部が向きを変え終わるやいななや竹竿と盾がはげしくわたり合った。片側車線に車がジュズつなぎに立ち往生したため、制圧に手間取り、一時的な解放状態になった、石が飛んだ。必死になって竹竿を機動隊に向かって投げるが力及ばずしてとどかない。またそれを拾って投げる学生。何度か衝突したがいずれも歯がたたなかった。私服に追われて逃げる学生に、歩道の群衆の中に交じっていた私服数人がその学生に飛びかかった。まわりの群衆がそれを取り囲み、非難の声を浴びせた。「ヤメロ!なんで逮捕するんだ」「そうだ。ヤメロ」−風向きが悪いとみた私服は逮捕を断念。その学生を強く蹴り上げて退散した。
この後デモ隊は、高速環状線の下を通って国会方面に向かった。
この辺りから警備は輪をかけて厳重さを増した。デモコースから首相官邸になどにつながる道路には、かまぼこ型の機動隊装甲車が、寸分の隙間もなく並べられ厚いバリケードが築かれていた。小高い所から機動隊がデモ隊を見下ろしている。周辺は全面的に交通が遮断され、見守る群衆も数少なく、ただ閑散たる中を「安保フンサイ」「決戦ショウリ」のシュプレヒコールだけが無残にそれこそ無残に鳴り響いた。
国会議事堂がうす暗くなった闇の彼方から冷たいその姿を現した。一向に降り止まない雨をついて、たんたんとデモの波は動いた。今からちょうど10年前、この辺りは「安保反対」をさけぶ何万という学生・労働者でうめつくされた。
そして今、当時と同じような非情な雨が冷たく身をたたいた。物いわぬ国会南通用門には、やはり数台の機動隊装甲車、放水車が立ち並び、アリのはい入るスキもないほどに強固に固められていた。
デモ隊が通ってゆく。そのたびに「ドンドン」と鈍い音が聞こえた。
怨念。学生が装甲車をたたく音だ。反帝学評の一団がうず巻きデモを繰り広げた。一人の学生が旗竿を放水車の放水搭から顔を出している、機動隊をめがけて投げつけた。装備は頑丈でビクともしない。何度も繰り返す。そのうち、肩車によって一人の学生が放水ホースにしがみつこうとした。が、たちまちにして振り切られてしまう。執拗に何度も繰り返す学生。また、一人の学生がホースをつかんだ。必死に登ろうとするが出来ない。そのホースから放水が始まった。白い水が吹き出す。全身水を浴びながらももつかんだホースを離そうとはしない。「ガンバレ!」とまわりから声がかかった。車の下からも放水が始まった。なおも向かっていく学生。装甲車に何度も体当たりする学生。ステッカーをはる学生。と、突然、国家権力の象徴、国会議事堂から「・・公務執行妨害になり・・」と聞こえたと思うや「ダーン」「ダーン」と催涙ガス弾が不気味にサク裂した。デモ隊と見守る群衆へめがけて飛んだ。逃げる人、人。なおもサク裂するガス弾。この時、議事堂は叫んだのだった。
国家権力の厚いカベの前、たとえ装甲車によじ登ることが、体当たりすることが無意味であろうとも、必死になって何度もよじ登ろうとする学生の姿は、そんなことすら感じさせない何かがあった。
デモ隊は、代々木公園→青山通り→赤坂見附→外堀通り→国会南通用門を経て降りしきる雨の中に続々とデモコースの終着点、日比谷公園に到着していった。
6月14日、この日、内ゲバがあった。路線転換もあった。機動隊との衝突もあった。しかし、その全ての日が“反安保体制“に向けて交錯したものだったが、分裂低迷、そして飛躍。反安保戦線の足並みは決して一致していない。おそらく自動延長される「日米安保条約」は今後、両国一方の破棄通告で1年後、消えるものとなるし、”安保の行方“と”反安保勢力の行方“は今後いかに展開されなければならないか。
午後から降り始めた雨は、夜になっても降り続いた。日比谷公園で手短に総括集会を終え帰路につく学生、労働者。彼らにとって、いや日本人全体にとって、今日の日はいかに映ったのだろうか。
公園の草木が6月の雨にしっとりと洗い流されていた。』

<湧き上がる“情念”6・15ルポ>
 『60年6月15日、十数万のデモ隊が「安保反対・国会解散・民主主義擁護」の旗印を掲げ国会を取り巻き、突入した。右翼と官憲の襲撃と弾圧の中、そしてその時、樺美智子さんが権力の手によって虐殺された。
 十年後のこの日、十年前と同じく朝から雨が降りしきり、東京都内では樺美智子さんをしのぶ追悼集会が3ケ所で行われた。家族、友人などの「美智子さんをしのぶ6月の会」。全国全共闘、全国反戦、6月救援員会などで行われた「墓前祭」。日比谷野外音楽堂で開かれた「6・15樺美智子追悼労、学、市民統一集会」。権力に抗議したがために、人間一個の生命が権力の手によって、一匹の蚊をひねりつぶす程にも、なんの悼みもなく虐殺された“生きるために闘った生命”は十年を経た今日、その権力と闘う者にとって、60年安保を知らずとも、その悼み、いや、怨念はつきず、重い。安保体制がのしかかってくると同様に。
 この日もまた、東京は厳戒態勢の中、そして渋谷もまたその例にもれなかった。渋谷はこの日フロントが4時渋谷結集をうちだしていたのである。駅校内は私服の群れと、機動隊によって城塞のようにかためられていた。勤め帰りの多くのサラリーマン、OLはその異様な雰囲気に、わずかに自らの日常性に「安保」を感じたかのように、足早に「マイホーム」への帰途についていた。茶の間では「安保」が数分電波に乗って顔を出すだけだろう。彼らにも同様にのしかかっている「安保体制」を意識するのは、映像の裏にかくされたものを知るのはいつのことだろうか。
 6時頃、ゆったりとしていた機動隊の隊列が急にあわただしくなった。目黒方面からの山手線から緑ヘル(フロント)の50人ぐらいの一団が降りた途端、機動隊にビッシリと囲まれてそのヘルメットの姿は見えない。壁に押しつけられ、かぶっていたヘルメットが飛ぶ、前から、後ろから、横から、構内からでた頃には、服は破れ、体は傷つき、それでも隊列を崩さず進むデモ隊はなんら武装していなかった。フロント、反帝学評が集会を開いていた宮下公園にやっとの思いでたどりついた。

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 それと時を同じくして、東大駒場で「労学総決起集会」を終えたフロントの部隊が、井の頭線の神泉駅から、道玄坂交番にナダレこみ、鉄パイプ、角材、火炎ビンで襲撃していた。
同時に、渋谷を埋めていた市民、労働者、学生が湧きあがるように、「安保粉砕・闘争勝利」の叫び声をあげた。ほとんどそれは一斉だった。そしてそれはまったく自然だった。歩道の人びとは車道にあふれ、<期せずして>渋谷は“反安保”の渦巻きにおおわれた。
 機動隊が規制に出ると素早く歩道にあがり通行人と化す。横断歩道を渡りながらも「安保粉砕・闘争勝利」を叫ぶ。機動隊が引くとまた車道に人並があふれる。私服の向けるカメラを傘でさえぎり、突進してくる機動隊をその傘で突く。傘は彼らにとって最大のタテとなり、武器となった。
 機動隊の規制は歩道を通る人間も無差別的に攻撃しはじめた。逃げまどう学生、女性、アベックさえも容赦なく大楯で押し、足に打ちおろし、水平に構えた楯を所選ばず打ちつける。念りに満ちた顔、恐怖にひきつった顔、もはや、機動隊の暴走をトドめるモノはいない。権力の姿をまざまざと見せつけられる思いがする。
 渋谷駅構内につくられた機動隊“解放区”は徐々、徐々に広げられていった。自らの身を挺する闘いは悲愴でさえある。しかしそれにしても彼らの顔の何と明るいことか。この日の、この闘いは、11月のあの闘いの再現であり、縮小でしかなかった。だが、だが解放された街のなんと生き生きしたことか。狭い道を肩をふれあってしか歩めない道路は解放され、いまや凶器であるばかりか、鉛さえもまき散らし、人間をジワジワとムシバみだしている車は締め出された。彼らの明るさはその喜びなのだろうか。いつか彼らの世界が来ることを信じてだろうか。

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 かけまわる機動隊。歩道の側までかけてきた機動隊員がものの見事に転んだ。その瞬間、2メートルと離れていない所から転んだ位置で、人であふれた歩道に水平うち。幸いにケガ人はなかったようだ。ケガ人がなかったのが不思議なくらい。
 9時頃になると、渋谷の街は完全に機動隊に規制されてしまった。雨に濡れ、ドロだらけになった学生、労働者が闘い疲れたようにアチラ、コチラ。解放された街は数時間にして消えた。渋谷は、新宿、蒲田のように自警団こそ出現しなかったが、木刀を持った愛国党が4.5人出現した。その他も××協力会の腕章をつけたヤクザ風の若い男が数人、街角に立っていた。右翼に対する警察の寛大なさは国士館の学生などが公然と朝鮮高校生を襲い、警察はそれを警戒するどころか、逆に「朝鮮人高校生が襲撃する」という宣伝をすることによって最近とみにあからさまにしてきている。またどこかの「商店主」なのだろうか、ネクタイをしめた<紳士>が「コイツダ」と進言することによってなんの証拠もなしに逮捕し、「あのアベックが怪しいですよ」という一言でもって飛びかかる。カバンを開けさせ、身体検査をし、なにもないとわかっても、突き飛ばすありさま。権力に味方する者のみが唯一正しき世界。
 だが、こうしたことをよそに、催涙ガスにむせぶ学生にレモンを与える一人のオジサンがいた。いつも住民に敵対される学生にとって、それは思いがけないことであった。彼らはとまどっていた。そのオジサンは1台の車が壊されているのを、デモ隊がやったと思い写真を撮りまくる記者に、その車は事故でそうなったと抗議していた。抗議された記者はきまり悪そうにメモ帳を取りだし訂正していた。
 報道陣はこの日、デモ隊から徹底した反感を受けていた。いまやマスコミによる映像は警察によって利用され、自らが機動隊に暴行されることによってエゴイスティックにしか抗議しない報道、私服と一緒になってカメラを向ける報道。まさにマスコミに対するデモ隊の鋭い告発があった。権力によって守られる黄色い統一腕章。それは明らかに彼らのいう「報道の自由」とは、権力によって認められる「報道の自由」でしかないことを自ら認めたのであったから・・。
 街にただよう催涙ガスも、折れた傘も、ポツネンと転がっている靴も、あのサラリーマン、OLが翌朝通るころには片付けられ、雨が流してくれるだろう。しかし、人間の情念、怨念まで流し去ることはできない。
(八重樫記者)』
6月14日と15日が終わり、70年安保闘争も最終日、6月23日を迎える。
(次回に続く)

【お知らせ その1】
10・8山博昭プロジェクト
ベトナムツアー参加者募集中!!
10・8山博昭プロジェクトでは、8月20日から2ケ月間、ベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館で「ベトナム反戦闘争とその時代」展を開催します。
これは、当プロジェクトと戦争証跡博物館の共催です。
当プロジェクトでは、展示会のオープニングセレモニーに合わせてベトナムツアーを企画しました。
ツアーには、当プロジェクトの発起人である山本義隆氏なども参加します。
発起人とゆっくりと話ができる機会でもありますので、この機会にツアーに参加してみませんか?
参加希望の方は以下のアドレスを参照の上、お申込み下さい。

「ベトナム・ホーチミン市戦争証跡博物館」展示会ツアーのご案内
http://yamazakiproject.com/from_secretariat/2017/06/02/3484
「ベトナム展示会ツアー」の申し込み方
http://yamazakiproject.com/from_secretariat/2017/06/02/3482

よろしくお願いします。

【お知らせ その2】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は6月23日(金)に更新予定です。

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2009年5月に連載を始めた明大全共闘クロニクル(年代記)も、いよいよ終わりに近づいてきた(No327の続きです)。前回の掲載からしばらく時間が空いたが、今回は1970年6月、70年安保闘争の月である。
明治大学新聞に70年6月15日に向けた各党派の方針が載っているので見てみよう。

【「安保の6月」スタート 方針まちまちの学生戦線 明治大学新聞1970.6.4】
『1970年の6月がスタートした。60年から、めぐりめぐって10年。「日韓」があった。そして67年第一次羽田闘争があった。佐世保、三里塚、王子、10・21新宿―諸々の闘い。東大闘争、日大闘争、大学立法粉砕に決起した全国学園闘争。だが、その後、相次ぐ機動隊導入、ロック・アウト。拠点を奪われた中での“11月決戦”。打撃。“勝利”と“敗北”の総括。そのいずれをも“冬”がおおった。立ち直りのきざしをみせた4・28ではあったが・・・。そして今、6月を十たび迎えた。

<武闘かカンパニアか>
実質的な“安保決戦”といわれた昨年の11月「佐藤訪米阻止闘争」。その打撃からまだ完全な立ち上がりをみせない反日共系各派は、足並みが揃っていない。
 昨年の「6・15統一集会」は六者共闘(革共同・共産同・社労党・第四インター・ML・解放)が実現。ゲバ抜き大衆闘争を展開し、三万人以上の大結集をみたが、今年の6月は“武闘組”と“カンパニア組”真っ二つに割れている。それぞれ両者の極を行くML派と中核派の中傷合戦が展開されている。5月中に行われた集会でも、たびたび内ゲバを演じてみせてきたのもこのゆえんによる。6月14日代々木公園での「労学市民大集会」が今年の唯一の統一集会である。中核派はこの集会を「社共を上回る多数派に転化する場」として設定。“ハネ上がり”は弾圧する方針だ。これに対しMLは「カンパニアの中核は十年前のブント以下だ」として真っ向から衝突する。その上、MLはこの日、政府中枢に向けて“出撃”を決めているため、内ゲバの懸念は拭い切れない。
 この14日の直前に各セクトはそれぞれ政治集会を開催し、意志一致を図る。そして、一つのヤマ場15日の行動は各派まちまち。中核が日比谷公園で「6・15記念集会」。ブントが「反帝戦線大集会」。反帝学評がこの日国会・首相官邸に向かう。
 もう一つの頂点は、自然承認日の23日午前零時。各派は政治ストを予定しているだけ。頂点というよりも、70年6月安保闘争の最終日という感が強い。
 各派の行動をその機関誌でみてみると、これまで街頭ゲバルト闘争の先頭に立ってきた中核派は“穏健な”見出しで「6月安保決戦の爆発的高揚を」(「前進」6月1日付)と掲げてある。それ以上に「6・12革共同大集会」が目立つ。その理由は「(6月安保決戦の)勝敗のカギは、6・12革共同大集会の圧倒的成功のいかんにかっている」からである。「6・15十周年記念」には日比谷野外音楽堂で大集会を持つが、呼びかけ文句は「音楽堂をうめ尽くせ」のみである。過激な行動を戒めて6月はカンパニア闘争で迎える方針である。6・15のほか行動スケジュールは、6・11に「二週間のゼネストに突入」する。14日には全国反戦、全国全共闘主催の「労学市民総決起集会」が代々木公園で開かれる予定。そして当日から23日まで、波状闘争を組む中で、21日から3日間、安保粉砕総力戦を展開する。
 「6月決戦へ人民の総武装を」(「赤光」6月2日付)、「機動隊殲滅―首都制圧」(同6月6日付)など、激しい口調はML派。6月決戦における最過激行動を起こすと思われるのは同派であり、「6・14から10日間の死闘」と命名している。14日には代々木公園で大集会を持つが、この集会を「武装出撃拠点に」として位置づけ、大きなスペースをさいて代々木公園周辺の地図まで掲載している。その決意を「14日をカンパニアで流すことは、6月決戦を敗北に導くことにつながる」としており、昨年の11月決戦時と同じく「機動隊殲滅」を「具体的な任務」だと叫んでいる。この「機動隊殲滅」の字句が見られるのは、ML派だけであり、機動隊との衝突がかなりの規模で起こることは間違いないだろう。
(後略)』

当時の各党派機関誌があるので、いくつか写真を掲載する。

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(赤光)

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(前進)

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(先駆)

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(解放)

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(戦旗)

70年4月以降、明大全共闘は、全共闘の主導権をめぐるML派とブント、反帝学評との争いにより、実質的に解体状態であった。
そのような状況の中、6月12日の夜に14日の大統一行動を控え、ML派が反帝学評にゲバルトをかけ、10数名の重軽傷者を出した。13日の和泉校舎では反帝学評とブントがピケを張りML派を阻止した。正門前には機動隊が配置され、12時からついにロックアウトになった。
この12日夜のML派による襲撃事件の詳細が明治大学新聞に掲載されている。

【真の学苑会とは ML・反帝学評襲撃 セクト発想を排し大衆的に 明治大学新聞1970.7.2】
『事件の経過を追ってみると、学苑会学生大会の前日の10日、ML派執行部は、①今年度の予算は二部文自治会、および二部政経自治会へは分配しない(約70万円の借金のためという理由)②反帝学評系を中執委員に加えない、旨を二部文学部自治会へ申し渡した。これがその発端である、
これに対し、反帝学評系は学苑会大会当日の午後5時半、問題の「対案議案書」を中執に提出した。大会が始まる直前の午後6時54分、ML派は「人事案」がもられていない旨を発したが、その場で両派折衝した結果、大会途中に提出してよい事を確認した。
大会が開始され、議事に入ろうとした時、議長の桜田健君(Ⅱ文四年)が「大会開始前に“対案議案書”が提出されているはずであるから、まずその事案を報告してもらいたい」旨を発言した。その後は次のとおりである。
資格審査委員長が対案に関する経過報告、および「人事案が出されていないので受理しない」と発言。
会場から「人事案については大会途中に提出してよいと言ったではないか」の声。
15分休憩。
桜田議長降壇。
本間中執副委員長「人事案が欠けているので、対案として認められない」ことを表明。
議事進行。経過報告。総括。
一代議員が対案書に対するその後の取り扱いについて質問。
中島資格審査委員長が答弁。
「審査委員6名中、受理3名、受理しない3名のため、委員会で断は下せない」
9時半、二度目の休憩。
再開、9時50分。採決に決まり、議場を閉場。
採決の結果は受理64名、受理しない14名で、対案書を取り上げることに決定。
以上が大会のあらましの経緯である。
そして翌12日、ML派の襲撃模様は次の通り。
午後6時ごろ、Ⅱ文自、Ⅱ文闘、Ⅱ部文芸1年、Ⅱ部仏文1年およびⅡ法闘の約20人の学生が、五号館地下二階の学生控室で、当日の継続大会に向け参加態度を協議していた。そこへ、ヘルメット、竹ザオ、角材、チェーン、コーラビンで武装した他大学生を含む約30人のML派学生がなぐり込んだ。その場に居合わせた学生の話によると、Ⅱ文自治会執行部、対案書を提出した者は、特にネラわれたふしがあるという。その結果、内臓破裂のおそれがある者を含む重軽傷者十数人を出し救急車で近くの病院に運び込まれた。

イメージ 6


6月12日の反帝学評に対する「ML派襲撃事件」はショッキングだった。最近、本学で発生した内ゲバの中でも特筆すべきものである。学費闘争時の昭和41年12月、ML派は民青系から学苑会中執をとって代わった。以来、反日共系と民青系との攻防はいくたびかくり返されてきたが、この事件は、はじめて学苑会中執をめぐる反日共系同士の抗争である。
ML派が握る学苑会といっても、実はML派が学苑会中執の委員をすべて独占している訳ではない。「反民青」で一致しているML派、反帝学評(Ⅱ文自)、反帝戦線(Ⅱ政経自)が統一し、それぞれポストを分け合ってきた“仲間”である。ただ、中執委員長はその中でも“力”のあるML派から輩出してきた。
今回の事態は、反帝学評が提出した“対案書”の問題がML派にとって不利な展望をみせたからであると、一般的には推測されている。反帝学評がなぜ、対案書を提出したのか。それは別述の通り、予算配分問題と中執人事が原因であろう。しかし、なぜ、ML派が突然中執委員を独占しようとしたのか。その真意は定かではない。中執委員独占とはもちろん学苑会完全支配を意味する。
襲撃事件の余波は、今のところML派にとって、“悪しき状況”が続いている。五号館で暴行を受けた中にはノンセクトの学生もいたことから、反帝学評を中心に「反ML」で固まっている。
ML派が襲撃事件に関する見解を出しているので、みてみよう。
「ML派に対する疑問に答える」−学生大会流会の原因と批判的克服のためにーというビラである。
まず最初に「大会開催不能に至らしめたことを素直におわびします」と謝罪している。「対案書」については次のようにいっている。「“対案”なるものは執行部の提起してきた運動を全面的に否定したときに初めて出されるものである。だから彼ら(反帝学評)が対案書を提出したことは、彼ら自身も参加している中執、自らも展開してきた運動をも否定している。また、全二部共闘に対する全面的敵対行為として、このこと(対案書提出)をとらえたが故に、翌12日われわれのゲバルト行使があったのである。」と、対案書提出敵対論をとっている。また、対案書の内容についても「たとえるならば民青の運動の現実的展開が全面的反革命として登場した時、討論以前に暴力的敵対が不可避とされたように、学苑会中執および二部共闘の一切の運動に対する全面対決としてあった」としている。
対案書が本来執行部に対する全面的敵対行為としてあるものであるというが、例えばML派の出してきた予算、中執の独占問題は、反帝学評にしてみれば、同じように全面的敵対行為としてうつったことだろう。対案書はすべて敵対行為であると判断し、切り捨てようとする行為は、二部全学生を代表しその運動を領導すべき学苑会執行としては早計すぎた感がある。
ML派が中執人事をうむをいわせず独占しようとしたこと、その故の全面敵対と全面敵対―おそろしくセクト主義的発想であるとみられても仕方がない。そしてつまるところ止揚していくための党派闘争ではなく、主導権を握るための派閥抗争である。しかし、そこには学生大衆の黙殺がある。学苑会とは学生を土台にしてはじめて成立つものであって、決してセクトの主導権争いの場ではないはずである。
一方、反帝学評は翌12日、ただちに全学連(石橋興一委員長)の「緊急声明」「大衆運動の敵対者MLを放逐せよ!」を発した。
「ML派に対し、階級闘争の道義性に基づいて自己批判を要求する。応じない場合は断固たる措置をとると同時に、全国全共闘からそして階級闘争の全戦線から放逐するであろう」と激しく自己批判を迫り、さらに「党派としての明確な自己批判と治療費その他全額支払いがなされない限り、共闘することはありえない」とし、「ML同盟と学生解放戦線に対しての自己批判要求を緊急に声明しその活動を開始する」と結んでいる。
このことは今度の襲撃事件が明大学苑会内部だけに留まらず、全国的な反帝学評対MLの抗争に発展していく可能性を秘めている。
これらの問題は、表面的には当然学苑会の主導権をめぐる争い、現在の状況を踏まえればつまり反帝学評が学苑会をトレるか、トレないかに絞られてくると思うが、それに向けて、再びゲバルト行使の危険もある。問題はそれだけに終始してよい性質の問題ではないのではないか。いかにして、それを運動発展のバネにするのか。昨年6月、バリストに突入してから、本学の本質的な問題は果たして好転したか?否である。学苑会とは全学生を領導するものである。故に、本学の問題と取り組み、個別学園闘争を徹底的に闘う中から運動を創り上げるものが真の学苑会というものであろう。』

この内ゲバの翌日、13日には日大全共闘を中心とした集会が開かれた。この集会の記事が朝日新聞に掲載されている。

【日大集会に千五百人 朝日新聞 1970.6.14】
『日大全共闘などノンセクトの学生を中心とした「安保フンサイ、アウシュビッツ解体連帯集会」が13日午後、東京・文京区後楽園の礫川公園で開かれた。同大はじめ法大、東大、明大などの学生約千五百人(警視庁調べ)が参加。はじめに大学ごとに集会を開き、日大の集会では秋田明大日大全共闘議長が「日大における古田体制による弾圧のようなアウシュビッツ化は全国の学園でも見られる。一人一人が自立した闘いを展開しよう」と呼びかけた。その後、全体集会が開かれ、各大学の代表があいさつした。
午後6時半からデモにうつり、淡路公園まで約2キロを行進した。途中、デモ隊から噴霧式殺虫剤のカンが10個近く投げられたが、大きな混乱はなく、同8時すぎに解散した。この間、機動隊との小ぜり合いで3人が公務執行妨害現行犯で逮捕された。』

この集会には私は参加していないが、明大新聞のY記者が参加し、記事を書いている。参加者の視点からの記事である。

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【ノンセクト独自に集会 日大全共闘ら二千人 明治大学新聞1970.6.18】
『「反安保6・14新左翼共同行動」を前にした13日、「日大アウシュビッツ体制粉砕・反安保」集会が礫川公園で4時頃から行われた。この日の集会は日大全共闘を始めとする、ノンセクト独自の集会としてもたれた。若干のセクトのヘルは見えながらも、完全なノンセクトのみの集会であり、こうしたノンセクト独自の集会ははじめてであった。
各大学代表のアジテーションは「これまでのセクトの囲い込みによる全共闘運動、そして個別闘争をおろそかにし、政治闘争至上主義的に闘いを進めるセクトの闘争」を批判し、「ノンセクトによる、独自の自立した運動を、個別闘争を徹底的に闘う中から、「安保体制」権力総体に向けた闘争を展開しよう」という発言に貫かれていた。結集した約三千人の学生は。いつものようなヤジもなく聞きいっていた。
集会を終えたデモ隊は、道路いっぱいにジグザグデモを繰り返し、後楽園を過ぎる頃、先頭を行く日大全共闘は大隊列を組み、一歩一歩大地を踏みつけるように進んだ。めずらしくも機動隊の規制もなく進んだデモ隊に、中央線水道橋駅の架橋を抜ける頃、機動隊がおどりかかり、隊列を縮めようとする。しかしガッチリと組まれた隊列は容易に崩れない。それでも日大経済学部校舎前を通る頃、機動隊の必死の攻撃に隊列は崩された。押し付ける機動隊、ガードレールから転がり出るデモ隊、それでも隊列を組み直し、最先頭が機動隊の大楯にヘルメットをつけると、歩道を埋めた学生がいっきに歩道から飛び出し、デモの隊列を横から押す。今までに見られなかった、歩道の援護部隊とデモ隊の一体となった戦闘的なデモが展開された。また途中、どこから投げつけたのだろうか、バクチクの音とともに煙がたち、バルサンの臭いが漂い、解散地点の淡路公園まで数発が機動隊に投げこまれた。
最近の集会にみられるノンセクトの“量”の拡大には目をみはるものがある。しかし、現在的にはまだ多くが単なるノンセクトの位置にしかとどまりえず、独自に、主体的に運動を展開することは少なかった。そうした時、はじめてノンセクト独自の集会をもったことは、ノンセクト運動として主体的な自立した運動を展開していくであろうことを予感させた。』

6月も前半が終り、いよいよ後半6月14日、15日へと突入していく。

(次回へ続く)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は6月9日(金)に更新予定です。

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