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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。
このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「ガザに地下鉄が走る日」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「ガザに地下鉄が走る日」(みすず書房)】
岡真理著「ガザに地下鉄が走る日」を読みました。
この本はイスラエルにとって武装作戦で攻撃されるより脅威に違いない、と思いつつ読みました。パレスチナの西岸地区やガザでイスラエル軍によってパレスチナ人が銃弾や空爆で殺されるニュースは日本でも時々伝えられます。でも日本に住む人々にとっては同情を寄せても遠い存在でしかありません。この「時々伝えられる」パレスチナとは、どんな現実なのか?人々はどう暮らしているのか?実は「時々」ではなく、日常生活のすべてイスラエルの欺瞞的で野蛮な介入と弾圧の中にあること、その数々の姿……。それらを一人の研究者として思索しつつ、旺盛な好奇心を持つパレスチナ人の伴走者としてすごした日々の行動の記録が凝縮されているのがこの本です。
著者から読者に提供される経験と思索の数々は、共感を与えずにはおかない筆致で描かれています。どの章も20代だった著者が新しい社会・現実に直面しながら思索し、問題意識を組み立て、更にパレスチナ問題を解明していく40年近い思索の過程がパレスチナの現場の人々との対話と協力を通して生まれる姿が浮かびます。人々に語りかけ鋭く学ぶ姿勢に私は感動すると同時に、自分をふりかえります。私は解放運動の闘いの側、解放組織の側からしか見えなかったことを読み取ることが出来るからです。著者がアラブ・パレスチナの人々と出会い共感し連帯しながら研究提示している記録を私は追体験的に想像しつつ当時を思い、その地名、サブラ・シャティーラ難民キャンプ、ラシーディーエ難民キャンプ、タッル・エルザァタル難民キャンプ、そしてパレスチナ人がよく語る「ワタン」「ヘルウ・フィラスティーン!(すばらしいパレスチナ!)」や言葉に感情移入して胸に郷愁のように熱く迫り、情景が広がります。
第一章から第十四章のうちどの章もいいものです。第二章のガッサン・カナファーニの「太陽の男たち」。第三章「ノーマンの骨」と題されたイスラエルによるナクバ(大破局)虐殺の真実。第四章「存在の耐えられない軽さ」に記された、イスラエルの10年以上の完全封鎖の下「生きながらの死」におかれたガザの人々の告発。第五章「ゲルニカ」が語るサブラ・シャティーラの82年の虐殺、それらは過去ではなく、著者の筆で今につながる日常性として活写されます。また祖国パレスチナに帰ることの出来ないレバノンのパレスチナ人が、著者がパレスチナ、エルサレムにも最近行ったことを知り、思わず声を揃えて「ヘルウ・フィラスティーン?」と聴く第九章の情景。第十二章では「人間性の臨界」と題して、2008年から9年にかけてイスラエルがガザでいかにパレスチナ人を虐殺したのか、この空爆と虐殺に抗して雨の中日本でも扇町公園から約500人の抗議とデモのあったこと、きりなく記したいエピソードにあふれています。どの章も心に響きますが、第一章、第二章そして最終章についてふれておきます。
 第一章「砂漠の辺獄」の中で著者は自らの経験から思索を開始します。著者が22才の夏トルコ・シリア国境を通過した時、陸続きの国境の間にはどちらの国民国家にも属さない「ノーマンズランド(緩衝地帯)」があることをはじめて知ります。この経験は2003年の米軍イラク侵略の戦禍を逃れるためにヨルダンへと向かったパレスチナ人が、他の国籍のある人々と違って、ヨルダン入国を拒否されてノーマンズランドに留め置かれ、難民と化していた衝撃の事実と向き合うことになります。また、イラクからシリアに逃れ同様の境遇に遭うパレスチナ人。更にはシリア内戦の中、レバノン、ヨルダン、トルコの国境地帯ノーマンズランドに滞るしかない人々、欧州へと難民化をもとめ海の藻屑(もくず)となる人々……。人間としての扱いを拒まれた「ノーマン」……。主権を基礎とする「国民国家」の空隙に落ち込んだ人々を著者は凝視する。「彼らは人権とも、彼らを守る法とも無縁だ。『法』も『人権』も、それは『人間(マン)』、すなわち『国民』の特権なのだということ。国民でないものは『人間』ではない、それが、普遍的人権を謳うこの世界が遂行的に表明している紛うことなき事実であり、その事実が──彼らが『国民』でないために『人間』でないという事実、それゆえに人権や人間を護るべき法の埒外の存在であるという事実が──露わになるのが、ここノーマンズランドだ。」もっとも必要とする人々に人権が与えられず、自らの力では越えられない国と国との間に棄ておかれた砂漠の辺獄。「人間と市民の同一性、生まれと国籍の同一性を破断する」難民という人々の住む穿たれた穴の暗黙の虚構の上にこの世界があると著者は見据える。そこから著者は「パレスチナを思考することは、ノーマンとともにこの砂漠の辺獄から世界を思考するということに他ならない。」という視座を得て、国民国家の狭間で生きることを強いられた「ノーマン」の現実をパレスチナの重層的姿としてその視座のもとに最終章の第十四章「ガザに地下鉄が走る日」まで記録しています。
 第二章「太陽の男たち」では、ガッサン・カナファーニーの小説「太陽の男たち」が「国境と難民」について思考するうえで、二十一世紀の今日的問題を既に半世紀以上も前に記したものとして、改めて読まれるべき作品として紹介しています。世界に問題が溢れるとうの昔に、パレスチナの現実がそこに始まっていたことを示しています。この小説を簡単にスケッチすると、イスラエルの民族浄化作戦によって48年パレスチナを追放された3人の男たちの10年目の物語。働き口も無く、パスポートもビザもない3人がクウェートへと職を求めて密入国を試み果たせずに、死を迎えノーマンズランドにうち棄てられていく物語です。クウェート密入国の手段は灼熱の50度にもなるイラクのバスラからクウェートへの空(から)の給水タンクの内に潜んで、国境を通過することです。この運搬を金稼ぎに諒解する運転手もまたパレスチナ人です。イラク国境は越えたのですが、クウェートの検問所でひまつぶしの係員たちのくだらない話の相手をさせられながら、運転手はジリジリしながら入国手続を終えるや、大急ぎで車をノーマンズランドに移動して停車し、タンクの蓋を開けたが、すでに3人は事切れていました。灼熱の7分の辛抱のはずが20分以上を過ぎてしまったのです。運転手は「なぜおまえたちはタンクの壁を叩かなかったんだ。なぜ叫び声をあげなかったんだ。なぜだ。なぜだ。なぜだ。」と繰り返すのです。この悲鳴で物語は終わります。ここに、作者ガッサンの思いが込められています。
その後、エジプト人のタウフィーク・サーレフ監督によって「欺かれし者たち」のタイトルで、この小説が映画になりました。映画の方は、灼熱地獄のタンクの中で、3人は必死にタンクを叩くのです。でも声は届かず、結局絶命し、原作と同じく、骸はノーマンズランドに棄てられます。今回この著書を読みつつ私は、昔のある光景を思い返しました。あれは、71年の12月の終わりか正月72年の冬、私は26歳のころのことです。当時の私は、ボランティアでPFLPの情報センターを手伝っていました。私のボスがPFLPの週刊誌「アル・ハダフ」の編集長で作家のガッサン・カナファーニです。彼から、自分の小説「太陽の男たち」の映画が出来たので試写会をやるから来いよ、と誘われました。どこかの文化センターの一室で、十数人の身内だけの試写会で、丁度日本から遊びに来ていた女友達を連れてきてもいい、というので出掛けました。ほんの内輪の訳は、PFLPハバシュ議長らイスラエルに命を狙われている人々を護る保安上の配慮だとわかりました。ハバシュ議長夫妻と、ガッサンの妻アニーらがいました。映画は、後半小説のストーリーと違って、タンクの内から必死にタンクを叩く画面になったとたん、暗闇の中でガッサンが身じろぎし、制作した監督の方を見ました。監督は緊張している風で、みんなを見回しました。映画が終わると、ガッサンが何かまくしたてて、監督も負けずに捲し立てていました。ハバシュがニコニコして「いい映画だった」と言って席を立ったので、みなハバシュ夫妻を送りつつ、会はお開きになりました。
翌日、ガッサンに事情を聴くと、ガッサンは、原作通りであってほしかったと話していました。タンクを叩いたのに、世界は耳を傾けず、やっぱり死ぬのは希望がないじゃないか、というようなことを語りつつ、アラビック・コーヒーを啜っていた情景が浮かびます。居合わせたイラク人の映画監督は、サーレフは絵になる最後にしたかったんだろう、闘いを示したかったんだろう、と言っていました。その後PFLPの72年5月30日のテルアビブ空港襲撃作戦に対する報復で、72年7月、生き残ったオカモトの軍事裁判直前に、ガッサン・カナファーニは殺されます。今回この本を読んで、この映画が73年制作と記されているのを見て、ガッサンが生きている間に、もしかしてこの映画にゴーサインを出さなかったのかもしれない、と思いました。ただ、ガッサンの同意を得ていて遅れただけかもしれませんが。
アルハダフの大きな机で、大好きなアラブコーヒーを啜るガッサンを思い返しつつ、この第二章を何度も第十四章と共に読み返しました。最終章が本のタイトルともなっている「ガザに地下鉄が走る日」。2018年のナクバから70年目の「帰還の大行進」が語られています。1948年、民族浄化の犠牲者の難民たちが、ガザに19万人を超えてやってきます。当時のガザの人口は8万人強。70年後の現在、ガザの総人口は200万人。そのうち7割の130万人が、ナクバで難民になった人たちとその子孫です。ガザの200万人の「ノーマン」たちが、人間の諸権利と切り離され、「難民キャンプ」というより「強制収容所」と呼ぶ方がふさわしい「ノーマンズランド」の中で、なお帰還を求める大行進の闘いが続いています。殺されても殺されても。パレスチナを占領し、パレスチナ人の帰還を許さないイスラエルは、逆に諸外国のユダヤ系国民を「帰還法」によって、いつも帰還を促し、「国民」の特権を行使させています。このシオニズム批判も著者は鋭い。
そしてまた、2014年3月、封鎖7年目のガザのフランス文化センターを訪れた著者が見たカラフルな絵について、最後に語っています。それはガザの地下鉄の路線図。本物の路線図のように精巧で、著者を釘付けにしました。それが、ガザのアーティスト、ムハンマド・アブ・サルの制作した「ガザの地下鉄」という題の、想像上の地下鉄路線図だったのです。ガザから西岸のエルサレムへ行って、アルアクサー・モスクに祈ることもできるし、西岸の人々は、ガザに来て海水浴することもできる。ガザに地下鉄が走る日、西岸の分離壁もレイシズムもない、かつての入植者や難民たちが、断食明けの食事を共に囲む……。ガザの地下鉄は、まだ訪れない美しい希望を「絶望の山」から「希望の石」を切り出す鑿だと、著者は記します。ガザの帰還を求める叫びに対して、著者は「私たちが、この世界を私たち自身のいかなるワタン(祖国・郷土)として想像し、それを全霊で希求するのか、ということと限りなく同義である」と、本を結んでいます。そして、「あとがき」がまたいい。ガザに示されるパレスチナの真っ暗の闇の中で、もし「私」のために灯が灯されていると知ったら、その灯に向かって人は歩み続けることが出来る、と著者は書いています。「真っ暗の山中の遠く浮かぶ灯に、私たちもまた、なることが出来るのではないか。いや、そうならねばならないだろう。パレスチナに希望があるとしたら、それは私たち自身のことだ」と。そうあり続けたい。何度も眼元を濡らしつつ読み終えた本です。
              (2月21日記)

「ガザに地下鉄が走る日」みすず書房 3,200円(税別)」
(「みすず書房」サイトより)
イスラエル建国とパレスチナ人の難民化から70年。高い分離壁に囲まれたパレスチナ・ガザ地区は「現代の強制収容所」と言われる。そこで生きるとは、いかなることだろうか。
ガザが完全封鎖されてから10年以上が経つ。移動の自由はなく、物資は制限され、ミサイルが日常的に撃ち込まれ、数年おきに大規模な破壊と集団殺戮が繰り返される。そこで行なわれていることは、難民から、人間性をも剥奪しようとする暴力だ。
占領と戦うとは、この人間性の破壊、生きながらの死と戦うことだ。人間らしく生きる可能性をことごとく圧殺する暴力のなかで人間らしく生きること、それがパレスチナ人の根源的な抵抗となる。
それを教えてくれたのが、パレスチナの人びとだった。著者がパレスチナと関わりつづけて40年、絶望的な状況でなお人間的に生きる人びととの出会いを伝える。ガザに地下鉄が走る日まで、その日が少しでも早く訪れるように、私たちがすることは何だろうかと。
目次
第1章 砂漠の辺獄
第2章 太陽の男たち
第3章 ノーマンの骨
第4章 存在の耐えられない軽さ
第5章 ゲルニカ
第6章 蠅の日の記憶
第7章 闇の奥
第8章 パレスチナ人であるということ
第9章 ヘルウ・フィラスティーン?
第10章 パレスチナ人を生きる
第11章 魂の破壊に抗して
第12章 人間性の臨界
第13章 悲しい苺の実る土地
第14章 ガザに地下鉄が走る日
あとがき

著訳者略歴
岡真理  おか・まり
1960年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専門は現代アラブ文学、パレスチナ問題、第三世界フェミニズム思想。 著書に『記憶/物語』(岩波書店)、『彼女の「正しい」名前とは何か』、『棗椰子の木陰で』(以上、青土社)、『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房)ほか。訳書にエドワード・サイード『イスラム報道 増補版』(共訳、みすず書房)、サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』(共訳、青土社)、ターハル・ベン=ジェルーン『火によって』(以文社)、アーディラ・ライディ『シャヒード、100の命』(インパクト出版会)、サイード・アブデルワーヒド『ガザ通信』(青土社)ほか。2009年から平和を目指す朗読集団「国境なき朗読者たち」を主宰し、ガザをテーマとする朗読劇の上演活動を続ける。

【重要なお知らせ!】
ヤフーのジオシティズの閉鎖に伴い、「明大全共闘・学館闘争・文連」のホームページを「さくら」レンタルサーバーに引っ越しました。
リンクを張られている方や「お気に入り」に登録されている方は、以下のアドレスへの変更をお願いします。
HP「明大全共闘・学館闘争・文連」
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新左翼党派機関紙・冊子
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【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は7月5日(金)に更新予定です。

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今回のブログは、久しぶりに全国学園闘争の記録として関西学院大学闘争を取り上げる。
関西学院大学のホームページによると、歴史は古く、1889年に神戸に神学部と普通学部を持つ「関西学院」として創設され、1932年に「関西学院大学」として設立されたキリスト教系の大学である。「かんせいがくいん」と読む。昨年の日大アメフト部問題で関西学院大学の名前もマスコミに頻繁に登場したのでご存知の方も多いと思う。

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手元に「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局発行)という冊子がある。この冊子と当時の新聞記事を中心に、何回かに分けて関西学院大学闘争の経過とその内容について掲載していきたい。
まず、この冊子に掲載された「闘争日誌」を見てみよう。

【闘争日誌】(関学闘争の記録より)
67・9・8  小泉財務部長、関学新聞と会見し「学費値上げはすでに内定している」と言明。
10・31   「学費値上げ阻止」全学共闘会議結成さる。
 11・22    学院当局、抜き打ち的に臨時常務会を開き、同夜全共闘に対し現行学費(67年度当時)の5割アップと43、44年度連続学費値上げを一方的に通告。
12・7  緊急理事会が早朝に開かれ、11・22の常務会案通り5割アップが決定さる。
12・16 各学部闘争委、スト権確立投票を行い、法学部の拠点ストを皮切りに、社、文、商の3学部も無期限ストに突入。経は民青系執行部のためスト権確立せず、戦線脱落。                   
68・ 1・17 右翼、体育会系学生の組織動員により、商、学生大会で「バリケード撤去」決議され、続いて文、一法もバリケード解除。社は、後日に持ち越す。
1・22 社教授会、社・自治会に対し「自治能力なし」と決めつけ、解散命令で弾圧。
1・27 社・学生大会で「後期試験ボイコット、闘争の継続」を決議。
2・26 社・学生大会、「バリケード解除」を決議し、実質的に闘争は終焉。                   
3・23 法、社、商、文の教授会、26名にもおよぷ大量不当処分(退学11名、無期停学8名、停学7名)を発表。
3・28 卒業式当日、棍棒とヘルメットに身を固めた全共闘武装部隊70人、学院本部に突入。昼休み中の院長、学長に処分撤回を迫るが、教授達が右翼体育会系学生150を扇動し、攻撃を仕かけ、投石戦続く。学長、「生命に危険がある」とし、5時すぎ、兵庫県警に機動隊導入を要請。
4・9  兵庫県警、証拠物件押収のため、再び学内に乱入。中田全共闘議長ら9名の学友を、下宿先などで不当逮捕。長期勾留。
5・22 法、処分解除。以後、文の一部、商も処分解除。
6・26 全学総会開かれ、「教授会決定の処分は認めない。応援団の解散要求」決議さる。
9・26 3・28・闘争の第1回公判開かる。法廷内に公安刑事2名が潜入していることが判明し、学友100人はこれを実力で排除、「不当起訴弾該、官憲の不当弾圧粉砕」をシュプレヒコール。
10・21 国際反戦デー。法、文で1日スト。社では4日間のバリケードスト。
11・29 全学執行委員会、学院当局に対して「公開質問状」を出す。これは、学費値上げ、機動隊導入理由など8項目に対する当局の見解を問うたもので、6項目要求の土台となるもの。
12.12 全共闘準備会30人、理事会の行なわれている新阪急ホテルになだれ込み大衆会見を要求するが、古武学長「大学に団交の場はない」と突っぱねる。
12.19 法、文、社で6項目要求(①43 ・44連続学費値上げ白紙撤回 ②不当処分白紙撤回 ③機動隊導入、捜査協力自己批判 ④文学部学科制改編白紙撤回 ⑤学生会館の管理運営権を学生の手に ⑥以上を大衆団交の場で文書でもって確約し、責任者は引責辞職せよ)の1日スト。
文で教授会会見。東山学部長、対教授会団交を開くとの確認書と、10・ 21反戦闘争を弾圧した自己批判書に署名、捺印。
12.23 文教授会、東山学部長の確認書と自己批判書を反古にしたため、文闘委1日封鎖行なう。
全共闘会議が、夜開かれ、学院本部封鎖が提起されたが、意志一致できず流れる。
69.1.6 全共闘会議で、第5別館封鎖派(社闘、フロント、社学同、人民先鋒隊)と反対派(反帝学評、学生解放戦線)に分かれる。
1.7 第5別館実力封鎖。全共闘(社闘、フロント、杜学同、人民先鋒隊)30人、6項目要求貫徹、全学スト体制の構築めざす。この日から右翼の攻撃に備え、ゲバルト訓練始まる。反帝学評、学生解放戦線派は 「ショック戦術だ」と封鎖に批判、クラス、サークル末端からの組織化めざす。
1.10 学長、退去命令発す。「封鎖は大学の自治を根底から破壊する行為だ。ただちにこの不法行為をやめよ。いまからでもおそくない。すぐ退去して第5別館を正常な状態にもどすことを命じる」
全学執行委員会(反帝学評系)、学院当局に6項目要求に関する対理事会団交を要求。
1.11 法でスト権確立投票始まる。
1.17 学院本部実力封鎖。全共闘(社闘、社学同、フロント、人民先鉾隊)60人、未明に机、イスでバリケード築く。
学院当局、「第5別館、本部の建物の封鎖が続く限り、大衆団交に応じることができない」と回答。
1.18 l法、無期限ストに突入。この頃サークル闘争委結成され、以後講演会活動やすわり込み運動を展開。
1.21 文闘委、教授会に大衆団交求め、昨年12月東山学部長が署名、捺印した10 ・21反戦闘争弾圧の自己批判書と大衆団交開催するとの確認を反古にした理由を追求するが、教授会「何も答える必要ない」と突っぱねる。
1.24 全学集会開かる。これは学院当局提唱による、第1回目の収拾策動で あったが、全共闘ヘルメット部隊150入が介入、大衆団交に切り変える。しかし、院長、学長は一切の釈明をしないばかりか、その場から逃亡を図り、一般学生6、000人の怒りを買った。
その後、2、000人の学内大デモを展開。右翼学生職員なぐりかかり、20数名重軽傷。
この頃から全学1連協、体育会有志連合、キリスト者反戦連合が、活発に動き出す。
1.25 商、スト権確立投票開始。   --
1.26 社闘実力部隊30人、未明に、社会学部校舎を、実力封鎖。
1.27 神、無期限ストライキに突入。経済学部集会開かる。
 右翼学生に守られた教授、大衆団交に切り変るや逃亡。新川執行部、これと同時に「闘争の責任負うことできない」と解散声明。以後、経執行部不在。
1.28 全共闘(社闘、フロント、社学同、人民先鉾隊)200、深夜に文学部校舎にバリケード築く。
1.29 文に引き続き、未明、経も実力封鎖。これで理を除く全学部で封鎖体制を確立し、当日から始まる予定であった後期試験すべてが無期延期となった。
1.30 商学部でスト反対派の右翼学生ら執行部の解散求めるリコール運動始める。
1.31 対理事会、常務会団交に向けての予備折衝ははじめるが、団交開催の 条件をめぐって決裂。
2.4 全共闘「入試実力粉砕」の方針打出し、泊り込み強化。これに対し武田教務部長、「全共闘側の武装阻止にも素手で立向う」と言明し入試会場は体育館と中等部、高等部校舎を使用することに決定さる。
2.6  全共闘武装部隊80人、学院当局に雇われた右翼学生200が看守する体育館を未明に火炎ピンと投石で攻撃し、右翼学生を完全に粉砕。院長は、5時10分に機動隊導入を要請。早朝から「入試粉砕、闘争勝利」のシュプレヒコールで学内を武装デモ。午後1時、機動隊500、正門前に待機し、その場で、松田政男氏の講演を聞いていたサークル闘、全学1連協、キリスト者反戦連合の学友300人と対峙。午後2時機動隊、試験場防衛のため、体育館、中等部、高等部に配置さる。学生会館前で、2、000人の学友、機動隊導入に反発し、徹夜ですわり込む。
2.7 経済学部入試始まる。午前8時20分、棍棒とヘルメットで身を固めた全共闘80人、機動隊に突入。
7名が不当逮捕さる。引き続き、入試終了直後、再び機動隊と激突。すわり込み部隊500人に減る。入試実現派300グランドでデモ。
2.8 商学部入試。全共闘、第5別館と法学部のバリケードを強化し、機動隊の強制解除に備える。
2.9 第5別館を除く全校舎バリケード、機動隊2、500によって強制解除さる。 早暁、兵庫県警は大阪府警の助けも借り、第5別館と法学部校舎にたてこもる学友48人を、ガス銃と放水で攻撃。法学部は、午前9時半に解除されるが、第5別館死守部隊35人は、徹夜でこれに応戦し、そこにかけつけたデモ隊2、000人と熱い蓮帯を交わす。法、全員逮捕さる。
2.10 30時間にわたって闘い抜いた、第5別館死守部隊35人、午前11時50分、ガス銃、ヘリコプター、消防車などの権力側の武器に屈す。警棒で乱打され、催涙ガス液を浴び、屋上から階下へひきずりおろされたりしたため、全員が、火傷、打撲傷を負い重傷。
2.12 「全関西労学関学奪還総決起集会」に3、000人。午後3時すぎ、正門近くの上ケ原派出所を投石で襲撃。3人が不当逮捕さる。
2.14 機動隊常駐解かる。入試全学部とも終了。
2.15 全共闘、「機動隊導入による強権的闘争圧殺」に抗議して、法、文、商、社、経、神の学部校舎を再封鎖。サークル闘も、学館を占拠し泊り込む。学院側、「ロックアウト」を宣告。
2.17 県警、被逮捕者の自宅、下宿など22か所を強制捜査。
2.18 学院本部再封鎖。
2.19 同窓会館を封鎖。
2.21 第1教授研究館、同別館、第2教授研究館の3建物をバリケード封鎖。キリスト者反戦連合も、宗教センターとランバスチャペルの自主管理に入る。
 学院側、26、27日に「全学集会」を開催する旨を、全学生に文書で配布。
2.26 全学集会粉砕総決起集会に500人。前日深夜、会場にあてられていた新グランドに当局が張りめぐらした柵を、全共闘武装部隊100人で破壊し、当日は早朝から武装デモ。小宮院長、正午すぎに姿を現わし追求集会に切り変える。院長は、「機動隊の暴力は、法の名によって認める。入試は、社会的責任上実施した」と強硬に言い張る。その後、場を中央講堂に移し、再び追求するが堂々めぐり。
2.27 前日に引き続き追求集会。院長、教授と右翼学生を動員して居直る。5日に対理事会大衆団交を開催することを確約し、解散。
3.1 全共闘50人、京大入試粉砕闘争に出撃。
3.3 小宮院長と26評議員全員が辞任。辞任理由は「健康上重責に耐えることができない。」とされていたが、実質には確認書を反古にするための闘争分断工作。
全共闘30人、神大入試粉砕闘争へ。
3.5 全共闘500人、「大衆団交破棄に対する学院当局弾劾集会」を開いた後、図書館、産業研究所、正門守衛室を封鎖し、卒業、後期試験などによる一切の収拾策動粉砕を決議。
3.7 法、教授会大衆団交開かる。教授会、「昨年の処分を白紙撤回し、今後一切の処分権を放棄する」という自己批判書に署名、捺印。
3.10 理学部実力封鎖。理闘委、教授会に対して「学院の入試強行に協力した」など6項目の自己批判を求める大衆団交を要求してきたが、教授会が、これを拒否したため。これで7学部全部を封鎖し、中央講堂、体育館だけを残すことになった。
3.11 教職員組合は職員集会を開き「関西学院の非常事態に際し全教職員に訴える」との大学への要望を採択。
3.13 社、卒業試験に、全共闘50人「試験ボイコット」のデモ。機動隊50待機。(神戸YMCA)
革新評議会学生ら、大阪駅前で「全関学人は紛争解決のため、立ち上がれ」と訴え、48時間のハンストに入る。
3.14 経、卒業試験。(大阪予備校)
この頃から、革新評議会、民主化行動委員会、法学部有志連合など右翼諸団体の組織化進む。
3.17 革新評議会による「事態収拾」集会開かる。全共闘60人、介入し、右翼学生250を追い散らす。
経教授会、全共闘を支持する松下昇講師に、4月からの契約更新をしない ことを一方的に決定。松下講師、これに対して「関学闘争で大学側が機動隊を学内に導入したことについて大学側は自己批判すべきなのに、それをせず、大学側の態度を批判してきた私をやめさせるのは教育者としても絶対許せない。私はどんなことがあってもやめない。一人でたたかう。」(3・18朝日新聞)と語る。
大学評議会、28日の卒業式中止を決定。
3.19 学長代行に小寺武四郎教授決定。「早急に新執行部を決めて正常化のために努力する」と抱負を語り、「廃校か否か」のアンケートを全学生に配布。「学内正常化のため」の商学部集会、200を集めて大阪プールで開かる。
3.22 学長代理代行に城崎進教授就任し新執行部出そろう。
3.23 「学院正常化、全関学人総決起集会」開かれ、学内右翼諸団体、体育会系学生、教授、職員、父兄、OBなど1、200が結集。体育会系学生ら、プラカードを持って、集会を防衛。全共闘150人「右翼粉砕、封鎖貫徹」をシュプレヒコールし、これと対峙。午後3時になると、右翼学生200が、正門バリケード解除にとりかかったため、全共闘武装部隊、これらを完全に粉砕。機動隊200が出動。以後、右翼学生の組織化進まず。
3.28 「卒業ボイコット、6項目要求貫徹、中政審答申粉砕全学総決起集会」開かる。
3.29 小寺学長代行、退去命令出す。   
3.31 小寺学長代行、再び退去命令出す。
4.1 休校処置(ロックアウト)解かれる。
4.5 「入学式粉砕、6項目要求貫徹、中教審答申粉砕」集会開かる。機動隊300、正門前周辺で待機。
学院当局、「新しい大学の創造にむかって」の第2回目のアンケートを全学院生に配布。
4.12 新入生歓迎総決起集会。約100名参加。
4.13 松下講師講演。第5別館屋上で文闘委の情況劇。
4.15 理、学外試験中止。レポート形成に切り変わる。他の学部もレポート形式による後期試験実施さる。
4.18 経済学部新入生オリエンテーション。大阪府警機動隊100、大阪城周辺で警戒。全共闘30人が、阻止行動。
4.26 「安保粉砕、沖縄闘争勝利」の国際反戦闘争。京都、神戸、東京で闘わる。全共闘100人これに参加。
4.27 社、学外試験が、機動隊100、と右翼学生に守られ、三田市の湊川女子短大で行わる。全共闘50人、試験場に押しかけるが、阻止できず。
4.28 「首都制圧」沖縄闘争。東京、大阪など20万人が決起し、機動隊と激突。銀座、渋谷に「解放区」。関学全共闘からも東京派遣20人。

以上が闘争経過である。

今回は、「関学闘争の記録」の中から、1969年1月24日の「全学集会」までの部分を掲載する。
【「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局)】
闘う戦列のなかにも
われわれが粉砕せねばならないものがしのびこんでいることを
まず知ることが闘いの出発点だ!

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<アノトキ オマエハ
コトバトイウ コトバヲ
ウシナッタニモカカワラズ
イマサラ ナニヲ
カタラントスルノカ………〉
言葉という言葉のコミュニケーションが
かぎりなくディスコミュニケーションに
風化するこの砂礫地方の帯の中
存在の立脚する机と椅子で
なによりもまずバリケードを演じ
対他化され 先取りされた イマジネールの僕自身の存在そのものを
スクリーンに カンバスに 原稿に誕生する創造作業でもって
政治現実に向って語り始めた
十年前 夜鷹の参の星 死と突然輝き
さらなる夜への歩みの予言者の予言は
呪縛のように拠点への照準を現在に定めよ
砂礫の中 足音は 今の重い拒絶〈否〉 単調の連なり 峻絶なる黒い行為の渇きから
内なる情念のオアシスヘ羞恥で泉を掘る存在と運動の引き裂かれた<被害者〉
独身者の蒼ざめた清純なるヘンズリの定期日常と完全に訣別せよ
喫茶店で珈琲に砂糖二杯の恋人をゲバれ
泣くなよい子だねんねしなのかあちゃんをゲバれ
外なる近代 内なる封建 中和されたアカディミズム教師をゲバれ
彼と我の全体への〈否〉で 日常を切る
この「やさしさ」の中 峻然と今蘇生せよ
永続の学生への門を自らの手で押し開け
〈被害〉と<加害〉が内なる青いまっさおなオアシスの中<羞恥〉を仲人して 結婚する
国家の幻の外 おおくの自由を体現する投企者の この不安と喜びそのものは
世界との恋愛関係そのものではないか!
演ぜられたバリケードは 今 硬さ 確かさ 実感そのものの現実のバリケード それは僕だ
僕はバリケードだ      
とぶな とび立つな 飛翔するな
立脚にまず立て ここにまず立て 永続に向けてまず立て その限りに
どこへでも いつでも飛び立てる
さらなる夜への自立した生の参の星は
 今 ここに輝いている 言葉だ 

<'69 1・7 第5別館実力封鎖!>
 10・8羽田を起点とした日本の状況が“新しい政治の季節の到来”を告げ知らせたのと同様、われわれもまた虚飾の“自由”と“平和”に色彩られた関学の地に“内なる羽田”を打ちたてねばならなかった。
 牧歌的風土の中に埋没し、資本の餌となってきた関学の全歴史に対するわれわれの闘いは、1月7日の第5別館実力封鎖でついにロ火を切ったのだ。だが、そこまでに至る過程の中で、われわれは、数かぎりない裏切りや苦汁をなめなければならなかった。われわれの闘いの前史は、41年秋の「薬学部新設、父兄会費値上げ案」反対闘争に始まる。マスプロ教育の御多聞にもれず、関学もその例外ではなく「水増し入学、教室不足」か甚しく、年度の初めには「立ちんぼ授業」が続出し、悪らつな勉学条伴のもとに放置されていた学生の不満が、「既存学部充実せよ」のスローガンのもとに一挙に爆発する。だが、学院当局は「薬学部新設、父兄会費値上げ案」をあっけなく白紙撤回し、決定的な政策転換を成し遂げた。
 あにはからんや、その次の年度には、われわれの闘いを逆手に先取りした形で学院当局は「既存学部充実のため」と銘を打って43、44年度連続学費大幅値上げを打ち出す。彼らの意図は設備拡大→マスプロ教育による安価で大量の労働力商品の育成にあったのではなくて、設備充実→ミニプロ教育のもとに「心に日の丸、手には技術をもった」資本にとってはより優秀な排外主義的労働力商品の育成を手がけはじめたのだ。これに対するわれわれの闘いは、学費大幅5割アップと非民主的決定という学院当局の暴挙に対する怒りに支えられ、水ぶくれ状態のうちに進行し、法、社、文、商の四学部で続々とストライキ突入をかちとるのである。だかしかし、われわれの打倒すべき主要な対象は決して学院当局の政策でも、反動的教授でもなく、まさに“平和”と“自由”に訓化されてきた自己自身であるという教訓を闘いのなかで知ったのは、後期試験を直前に続々とバリケードが解除されていった時のことであった。右翼の個人テロが横行し、学院当局は居なおりを開始し、ストライキを支持していた学生か脱落していったように、まさに闘いの極限状況の中で、人はそれぞれの本性をむき出すものである。
………長い沈黙の後、第5別館実力封鎖は、これら総体に対する“ノン”を軸に展開されていく……。

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<1・24全学集会>

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マスプロの拠点である第5別館封鎖に始まる6項目要求闘争は、1月24日、沈黙を守り続けた学院当局と後期試験に流れる大衆を登場させた。当局は、全共闘の追求に何も釈明できず、収拾策動の場が大衆団交の場となり、あわてふためいた当局はその場を逃亡。2,000名にふくれあがったデモ隊列は、「6項目要求貫徹、封鎖貫徹」のシュプレヒコールで道路を埋め尽くした。その後全学封鎖体制、入試阻止へと闘争はエスカレートするなかで、水を吸い込んだ部隊の動向に関学闘争のカギがあり、体質がある。

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(つづく)

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前回のブログでも紹介したが、「明大土曜会沖縄ネットワーク」では、4月16日から4月19日まで、沖縄・辺野古現地統一行動に参加した。今回のブログは、この現地闘争報告である。

【辺野古現地闘争に参加して (standing on the Henoko beach in Okinawa)】
 
土曜会沖縄ネットワークは4月16日から4月21日まで、13名参加の現地闘争を展開しました  <報告: 明大土曜会H  2019.5.6>

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1) まずは団結式でしょう !!
芝工大全学闘、明大土曜会を参集の出発点にした、その土曜会沖縄ネットワークが生まれたのは今年の1月中旬でした。その目的は、①沖縄連帯の運動や集会に参加する、②我々自身で沖縄を語れる場をつくり横に広めていく、③辺野古現地闘争に参加する、④沖縄の人々との関係を構築することでした。
かくして3ケ月後の4月16日、那覇空港で3グループ(明大G・芝工G・気仙沼G)13名がドッキングして一路、辺野古経由で名護市に向かいました。かつてはキャンプシュワブの海兵隊でにぎわった「辺野古歓楽街」は昔の面影を残している店がチラホラなので、団結式は名護ビーチ近くの沖縄料理屋に陣を取った。
まずは自己紹介なのだ。大学別では東工大1、東洋大1、横浜国大2、明治4、芝工4に沖縄に移住し、首里城修復の従事経験を持つ芝工建築科のNさんが合流した。

2) 辺野古新基地と<キャンプシュワブ>
「1966年、ベトナム戦争の真っ最中に米国の海兵隊と海軍はキャンプシュワブに接する辺野古の海を埋め立てて、V字滑走路とヘリパッドを持つ飛行場と大浦湾側に巨大な軍港建設を構想した。
戦争による米国の財政悪化は新基地の建設を許容するものではなく長らくお蔵入りしていたものだ。
1996年、県内移設の条件付きで普天間基地返還が発表されて以来六年。結局は政府が考えていたとおりの、基本的には、アメリカに占領されていた時代の辺野古埋立―巨大な新基地を日本政府が財政負担して建設する計画に落ち着いた」
(七つ森書館 由井晶子『沖縄 アリは像に挑む』より 以上要約)

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 写真は米軍作成のイメージ図であり、国道329キャンプシュワゲート前の辺野古テント村に掲示されている。
<キャンプシュワブ>は辺野古に隣接しており、国道329号の西側内陸部のシュワブ訓練地区と東海岸のキャンプ地区に分かれ、キャンプ地区には活断層が走っているといわれる辺野古弾薬庫がある。
1950年代は砂川闘争を頂点とする本土の基地闘争が激化していた。本土の反米反基地反核感情を懸念した米政府は山梨県、静岡県、岐阜県の海兵隊を沖縄に移駐させた。キャンプシュワブは沖縄地上戦で戦死した海兵隊員の名前をとって1956年11月から運用が開始されている。先のイメージ図にある通りキャンプシュワブは核が常在する海兵隊基地でもあった。在日米空軍の横田基地弾薬庫には今も核運用部隊が常駐しているのだから辺野古弾薬庫も同様であると思われる。

3) 沖縄に来たら安和桟橋の土砂搬入阻止でしょう !!
4月17日は水曜日、毎週水曜は名護の琉球セメント前の安和桟橋からの埋立土砂搬入搬出阻止集中闘争日であり、朝7時半からダンプ1台でも1分でも遅らせる抗議行動が展開されています。

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まず合法スレスレの順法闘争は、①国道に数珠つなぎになって一台づつ右折して入ってくるダンプを遅らせるため横断歩道をゆっくりと青信号から赤に変わる直前までの「牛歩」戦術、②桟橋入り口でのスタンディングと何回も何回も回る「ぐるぐるデモ」戦術、③桟橋前の国道をゆっくりと走る「エコドライブ」戦術、④出港時のカヌー隊がぎりぎり船まで近づいて海保との「いたちごっこ」戦術として展開されているのです。
 陣頭指揮の山城博治さんがシュプレコールを連発する「土砂搬入を阻止するぞ」、それに答えて「ワッショイ」「ワッショイ」、抗議は約150人、カヌーは15艘が出た。大幅に出港が遅れた積み出し船は午後4時に出ていくが、カヌー隊と岸の部隊が呼応しエールを交換、加藤登紀子の「美しき五月のパリ」のメロディに乗せて、{辺野古を返せ}が歌われる。<<座り込めここへ 今こそ立ち上がろう>>
続いて、沖縄返還闘争で歌われ今も反基地闘争のシンボルになっている{沖縄を返せ} だ。
<<沖縄を返せ かたき土を破りて 民族のいかりにもゆる島 沖縄よ 我らと我らの祖先が 血と汗をもって 守りそだてた沖縄よ 我らは叫ぶ 沖縄よ 我らのものだ>>
我々も沖縄の人々の抗議活動の輪の中に入って、こぶしを空に突き上げて必死に抵抗する、力を合わせて巨大なものを押し返えさなければならない。現場に立てば学生時代のエートス(心性)が蘇ってくるのです。
抗議活動が無ければ通常10トンダンプ300台×3回が入り、3艘の積み出し船が出る。この日の戦果アギヤーはダンプ10トン換算で170台搬入に止め、満載できないままの2艘が大幅遅れで出航した。
 沖縄県の独自の辺野古新基地建設の工期試算は辺野古・大浦湾の二本の活断層と軟弱マヨーネズ地盤が発見される前でも10年であったし、今、建設工事を止める沖縄県の権限と辺野古反対の7割のウチナンチュの民意が加わっている。
一日中マイクを握って阻止行動を指揮している山城博治さんは「逮捕者は1名も出さないと戦いと」言う。沖縄の変革主体である市民を中心に、10年以上は続くであろう辺野古新基地建設反対運動の本質なのではないのだろうか。
 横田基地の爆音訴訟原告の方とお会いした。16日は高裁那覇支部で「普天間爆音訴訟」原告約3千4百人のへの判決言い渡しがあったとのこと。

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安和桟橋での集会のあいさつでは、「普天間爆音訴訟」の島田団長がマイクを握り腹の底から判決への強い怒りを表明した。「判決は一審から後退したものであり司法に希望を持てない。地位協定で日本は米軍基地の管理権を持っていない。立派な当事者行為なのに砂川事件以来の第三者行為論を持ち出してきた。こういう裁判を受けるのはみっともないことだ」
ちなみに、基地爆音訴訟は普天間基地、嘉手納基地、岩国基地、厚木、横須賀基地、横田基地の周辺住民原告合計約2万人によって争われています。
いつも我々に「沖縄現地報告」を送ってくれている、沖韓民衆連帯平和ガイドのOさんから土曜会の紹介があり、「辺野古に基地はいらない」の土曜会沖縄ネットワークの旗二本とともに明大のY氏が連帯の挨拶をしました。「今回は13名でしたが昔の学生運動仲間に呼びかけ沖縄連帯を進めます」、拍手拍手をいただきました。
僭越なのですが、福島でもそうであったが、沖縄アクションを通した本土全共闘世代の
もう一度の社会復帰を願ってやまないものであります。

4) 沖縄に来たらキャンプシュワブ前の座り込みでしょう !!
18日朝、シュワブ前テント村まで徒歩10分。オール沖縄が支援している「民宿クション」に旅装を解いた。まるでバックパッカースタイルの宿なのである。夕食は400円、朝食付き宿泊は2000円というありがたさだ。
毎朝8時から抗議行動が行われている、シュワブ前の工事車両出入り口に行く。搬入ダンプは午前9時、午後1時、午後3時にまとまってやって来て数珠つなぎになる。
「機動隊は座り込みの邪魔をするな」「機動隊は市民を守る任務につけ」、「ワッショイ」の声が聞こえてくる。この日9時前には約150人の座り込みの隊列が出来ていました。

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「現場の力で搬入を阻止しよう」「ワッショイ」「ワッショイ」。ふと思い出したが、前日のカヌー隊からの挨拶と本日のマイク指揮をしているのは1960年沖縄生まれの芥川賞作家の目取真俊さんではないだろうか。
ここで{辺野古の海を返せ}の歌を、次に{沖縄を返せ}、鬼太郎の替え歌{ゲゲゲのゲート}、リンダの{こまっちゃうな機動隊}が歌われていく。{辺野古を返せ}は沖縄返還の時のシンボル歌だが、今も反基地闘争のシンボルとして歌い継がれている。
座り込み隊列の前に青服の機動隊が立ちふさがる、「機動隊、排除警告はまだ5分早いぞ」「そうだそうだ」、だが排除開始の号令でごぼう抜きが次々と始まる。
ダンプ搬入のちょっとした合間を見て、また隊列が組まれ座り込みが再開される。だから一日5回から6回は強制排除されるのである。

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今、そして振り返れば沖縄戦の後の歴史性からも平和な政治にしようとしているのは、「生活や生命を守る」という根源的なかつ生活者感覚から発せられる民意ではないだろうか。辺野古は、権力という大きな力が小さな力をねじ伏せ押し殺し戦争に傾いていくその歪んだ現場ではないだろうか。
シュワブ前のテント村は人間の居場所である。
隣に座った日本山妙法寺のお坊さんと砂川闘争のことで会話を交わした。沙門のKさんは辺野古に道場を持っており、砂川の妙法寺宝塔を出発起点とする3月のビキニデーと8月の広島平和行進に参加しているので砂川平和ひろばには行きましたと言っておられました。
辺野古アクションを介して、このような市民的不服従のいろいろなつながりと再会が生まれているのだろう。テント村では芝工のYさんが、「辺野古に来れば沖縄の人がなぜ戦っているのか肌身で感じます」と連帯の挨拶をしました。
そういう縁であろう、同日夕刻。明大グループと芝工のS氏はかつて明大生協の職員で辺野古テントに5年前から常駐するH氏と、米兵相手だったかつての辺野古酒場で酒を飲みかわし旧交を温め、辺野古現地情勢についていろいろ教えていただきました。

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5) 土曜会沖縄ネットワークの行動
我々の辺野古前統一行動日は17日、18日であった。明大グループは17日のデモが終わった後に、72年沖縄大学自治会委員長、反戦地主でありチビリガマの平和活動を続けている読谷村の知花晶一さんの民宿に宿泊しました。ここで「沖縄現地報告」を提供しているOさんと再合流しました。翌朝はシュワブ前に合流しました。
芝工・気仙沼グループは20日の毎週土曜に行われている「辺野古デー」まで戦い抜いた。
 明大のSとHは昔の伝を頼って19日夕刻、那覇で「沖縄タイムス元論説委員のNさん」「沖縄平和市民連絡会のOさん」と台湾料理居酒屋で合流した。昔談議にひと花咲かせた後、Nさんから全共闘世代の在沖の活動家はいろいろ紹介する、土曜会沖縄ネットワークの沖縄現地展開については協力するとの言葉をいただきました。
本現地闘争報告の最後として、沖縄タイムスNさんの玉城デニー知事評価といたします。
①3区補選に出ている「屋良」は、僕の後輩記者で基地問題には熱心な男だ、ああいう男が国政に加わるのはいいことだ。だからデニー知事も押したんだろう。
②デニーは彼が選挙に出た最初から着目していた。既存の政治の枠の中に身を置き、その序列に甘んじることはいさぎよしとせず壊してきた。
③平和だのみの革新スタイルには違和感をずっと感じて来た人だ。
④デニー知事はアィデンティティーからも差別を受けたであろう。そういうことを知っている人だ。
⑤官邸筋は、デニーは政治経験も薄くあいつはバカだと言っているが、評論家の森本が官邸にご注進したように、「ああいう男がこれからの沖縄を変えていく」のではないかと実は内心危機感を持っている。だから翁長さんはそのことを良く見抜いて後継者の一人に押したのだろう。

【Nさん】:1950年那覇に生まれる。東京外大OB、都庁勤務を経て74年沖縄タイムス
入社。医療、福祉、環境担当、78年基地問題担当を経て学芸部長、編集局長、取締役論説委員などを歴任。現在、客員論説委員。
追伸:Nさんの、沖縄の変革誌「越境広場 5号(2018.11)」での仲里効さんらとの座談会「復帰後の沖縄を巡って」での発言や「戦後沖縄の転換点―自立をめぐる攻防の行方」での論調については後日紹介いたします。
 
(終)

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今回のブログは、4月6日に開催された「明大土曜会」での沖縄・辺野古報告である。「明大土曜会」は明大出身者に限らず、芝工大や日大などを含めた幅広い人たちが集まる場であり、毎回、ゲストを呼んで話を聞いたり、情報交換を行っている。
4月6日は、沖縄問題に取り組んでいる明大二部出身のN氏から最近の沖縄・辺野古の状況について報告があったので、その内容を掲載する。

「私は毎月、救援連絡センターのニュースに『辺野古レポート』を書いています。最新の辺野古、高江、沖縄をめぐる情勢をできるだけ事実に即して報告し、あまり主張とか押し出さないスタイルでやっています。
 皆さんも沖縄に関心のある方が多いので、大体はご存知だと思いますが、近々の動きで言うと、例の辺野古への土砂投入の段階ですけれども、3月25日に第二工区に新たな土砂投入を開始しました。前回からやっているものとあわせると、面積でいうと4分の1くらいということです。

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辺野古崎をはさんで浜のあたりを土砂投入を始めているわけですが、比較的浅い海域なので工事がやりやすいというか、本来の工事日程からすると、実は大浦湾の方からやることになっていたんですけれそも、それ自体が工法変更なので、本来なら変更申請しなければいけない部分ですが、それを無視して浅瀬の方から今始まっているところです。
2月24日の県民投票で、投票者総数の72%ではっきり出された『辺野古基地反対』ということを全く無視をするというか聞く耳を持たない形で進めてきています。それは現在もなお連日続いているという状況です。
土砂の積出港については、名護市安和の琉球セメントという民間会社の桟橋から、土砂を台船に載せて、ここまで持ってきて土砂投入する、K−9護岸にいったん下ろして、そこからトラックでまた運んできて、どんどん投入するという状況が毎日毎日続いています。積出港の安和は沖縄の中でもかなり辺鄙なところで、そんなに簡単に行ける場所ではないんですけれども、地元の島ぐるみ会議の人たちが中心となって抗議行動をやっています。毎日毎日動員はできなくて、毎週水曜日が集中行動日ということで、その日は100数十名くらい集まって抗議行動をやっているということです。抗議行動も、辺野古のキャンプシュワブのように座り込みできるようなスペースがなくて非常に危ない。琉球セメントの敷地ぎりぎりに道路が走っているので、座り込んでいるような場所じゃないので、順法闘争ということで隊列を組んでワッショイワッショイしながら、トラックが100数十台くらい来るんですが、県道からゲートに入るには右折しなくてはいけなくて、どうしても青信号を1回見てから右折しなくてはいけなくて、せいぜい1台くらいしか入れないらしい。それを3台くらい入れたいらしいんだが、阻止しようということで、歩道をゆっくり歩きながら妨害するという順法闘争をしながら、ダンプの搬入をできるだけ減らすということで、かなりいろんな知恵を絞ってやっているそうです。毎日毎日は大変だけど、水曜日はそれくらい集まるので、相当止められているそうです。それでかなり工事を遅らせているという成果を、それとして挙げていると聞いています。とにかく人が少ないという現状です。
キャンプシュワブの方では、新たな護岸工事が始まっています。辺野古崎のN4護岸を作って、そこからK8護岸まで伸ばしている。土砂の搬入はK9護岸しかないので、新たに護岸を作って、そこを搬入する拠点にしようと狙っているのではないかといわれている。そこに山石など投入して護岸を作っている。ここにもサンゴが残っていて、最近のニュースだと貴重なサンゴが辺野古崎に何点かあるんだけれども、それを移植しないままやろうとしている。防衛省の方は移植する対象ではないと相変わらず開き直っているんですけれども、実は移植すべき貴重なサンゴがここにあるという指摘もされています。そういう工事が今、着々と進んでいる。
一方で。工事は進めていますけれども、全体的な構想でいいますと、この間言われていますが、大浦湾側の方がマヨネーズ並みという軟弱地盤が広がっているということが分かってきて、数年前から指摘されていたんですが、防衛省はなかなか認めなかったけれど、今年になってついに認めざるを得なかった。いろいろと調べてみると、大浦湾側の予定地域のほぼ6割から7割くらいに広がっているのではないかといわれている。最大深度で水面下90メートル、70メートルくらいのところも相当広くある。それを地盤改良しないと出来ないので、最近の話だと砂杭(鋼管を打ち込んで内部に砂を流し込み、杭状に固めて鋼管を引き上げる)を打ち込んで、それを地盤にして、その上に作るという、それが計算上では陸上部も含めて7万7千本、大変な量なんです。試算では650万立方メートルという砂が必要だと。これは沖縄で3年から5年分の採取する量なんです。沖縄県の工事を全て止めてここに投入できるかという話で、それだけの砂をどこから持ってくるのかという見通しも見込みも全く立っていない、というような実態があるんですね。一方、90メートルになるところもあって、実績でいうと、90メートルに及ぶ砂杭を打てる船とか設備はないということです。70メートルしかないし、国内に数台しかない。ほとんど実績もないし設備も整っていない。なおかつ90メートルの地盤改良には足らないわけで、どうするんだと言うと、70メートル下は固い地盤ですということを言っているんだけれども、聞いてみると、実際のその場で測ったんじゃなくて、近くを測ったものを流用して、そういうことが想定されるという全くいいかげんなことを言っているみたいで、そこまでのデタラメなやり方なり説明をして進めているということです。いわば言葉でごまかし答弁をして、それで多少は世論をごまかせるかもしれないけと、土地は地盤はごまかせませんから、それが破綻するのは目に見えている。しかしながらとにかくやるんだということです。しかし、ここまで大きな変更になると、さすがに変更申請しなくてはならなくて、変更申請の対象は県知事なんだけど、県知事は絶対に認めないと言っているので、変更申請しても認められる見通しはないんだけれども、場合によってはそれも裁判で訴えて強引にやるかも分からない、という話もあります。
それともう一つは、この前からいわれている活断層。楚久断層と辺野古断層が交差するあたりに、相当の活断層が存在していることが前からいわれていて、先日、地質の研究者などが改めてその周辺を調査したらしいんですね。音波探査などやって、明らかに活断層があるということを報告しています。防衛省も実は知っているはずなんだけど、そういうことはありません、と開き直っていて、調査状態も発表していないので、調査の公表を求めているそうです。ただ、活断層もかなり新しい年代だという説もあって、もし仮に活断層が実際にあるとなれば、米軍は絶対に認めませんので、そういう欠陥空港を仮に作ったとしても、果たして米軍は、ありがとうと、使わせてもらいますと言うかどうかも疑わしいという全く展望のない状況があります。それが最近の動きです。
今後の見通しについては、私の方でとやかく言えるわけではないんですけれども、土砂投入については来年の夏くらいまでかけてずっとやろうということのようです。現地の方からの要請としてはとにかく人が少ない。闘争の現場がキャンプシュワブだけだったのが、4月から元々積出港にしていた本部の塩川港が、台風被害の補修工事が終わったので、それもまた始める。そうすると、キャンプシュワブと塩川と安和と3箇所が現場になっているので、こちらも人が足りない。とにかく1人でも多く現地に来て欲しいというのが現地の声なので、僕らもできるだけ辺野古に行こうよということで、4月5月からキャンペーンを始めて、派遣カンパだとか人の募集などやっていこうとしています。それが現地からの切実な声ということです。

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3年前の高江でのヘリパット建設強行に対しての反対運動を封じ込めるため、全国の都道府県から機動隊が派遣されたんですけれど、その中で特に警視庁の機動隊が派遣されたことは違法だということで、訴訟を始めたんです。私も原告の一人ですが、東京都は警視庁に都民の税金を不当に使ったので、都知事が警視庁に返還を求めるという請求なんです。被告は小池知事。東京都の方は門前払い、争点にならない、通常の給料を払っているので特別ではないということを言っているんですけれども、裁判長がかなり関心を示してくれていて、実質審理が始まって証人尋問が始まったんですね。ついこの間も3月20日に証人尋問がありまして、3回目が4月24日、是非よろしかったら来て下さい。画期的な裁判になったし、第一回目が重久という警察長の中でも高級エリートで、この高江の機動隊派遣のためだけに、警察庁(警察庁警備局外事情報部国際テロリズム対策課理事官)から出向して、その期間だけ沖縄県警の警備部長に就任したんですね。終わったらまた帰ってきて、今、警視庁警備1課長をしている。その人の証人尋問をしました。それと昆虫研究家とか映像作家とか弁護士の証人尋問がありまして、今度は、高江で実際にヘリパットに反対する住民の人2名と土木技術者と原告の1人の証人尋問をするというこになります。
以上です。」

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明大土曜会の沖縄ネットワークでは、この「明大土曜会」の後、4月16日から4月19日まで、沖縄・辺野古現地統一行動に参加した。詳細報告は次回のブログに掲載予定であるが、統一行動の写真を何枚か掲載する。

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(土砂搬入抗議)

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(土砂搬入抗議)

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(辺野古ゲート前)

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(本部・塩川港)

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(強制排除)

(終)

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No 516  重信房子 「1960年代と私」第二部第3回(1967年)の後半です。
文章が長いので2つに分けました。
前半では、「7.全学連の活動ー砂川闘争」を掲載しています。  

「1960年代と私」第二部
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第一章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)

8.67年の学園闘争の中で
 67年街頭行動の中で、一番鮮明に忘れることができないのが、10・8羽田闘争です。あの経験は私に、学生運動ばかりかその後社会に出ても教師として働きながら重視しようと考える生き方に導いたといえます。67年は、私はまだ学苑会の財政を担当していたと記憶しています。66年の対案によって、日共系から学苑会執行部を、いわゆる三派系の学苑会に転換して以降、たしか5月の定例学生大会だったと思いますが(もしかして、それ以前にあった「2・2協定」に関する3月の臨時学生大会だったかもしれない)私は財政担当として、会計報告の中で、民青の時代の不正を糾弾しました。この時の大会は、66年12月1日の一票差で勝利した大会と違って、大きな差で三派系が勝利しています。私は、民青から引き継いだ会計帳簿を一つ一つチェックし、日共系の暁出版印刷所の領収証が実際より多いと感じたので、私は印刷所に行って、原簿をチェクしてもらい、実際に支払われた額を書き出したうえで、領収証の総計額の書類を再発行してもらいました。2回の印刷代数万円が水増しされているのがわかりました。それを示しながら、民青時代の帳簿の不正を学生大会で報告しました。印刷所の方も、私たちが三派系とか理解していなかったのか、妨害することもなかったので、正確な数値が得られたのです。民青は「清廉潔白」をこれまでも主張していたので、ダメージでしたし、日共内の中国派のパージと重なり、急速に学苑会奪還や「民主化」の中央奪還の活動は退潮していき、商学部、法学部自治会死守体制をとり、文学部民主化委員会など、学部活動にシフトしていきました。そのころか、その後のことですが、ブントの現思研活動に対して脅威を感じていたのか、今度は、ML派に属していた会計監査委員が、私の会計処理の領収証に不正がある、デパートの食品や衣料の領収証があったとして告発をはじめました。私に直接問い合わせや審査を行わず、ML派に報告し、ML派からブントの指導部に話を持ち込んだことがありました。それによって、私に自己批判を迫り、私を辞めさせようとしたのか、他の交換条件があったのかわかりません。私は、こうしたやり方で自治会のことを党派問題にしたことに、ML派に大いに憤慨しました。まず、「私の会計処理は正当だ」とブントの人に言いました。「ML派こそ自己批判する必要がある」と伝えました。ブントの人は驚いていました。これは実際に「不正領収証」だったのです。理由は、学苑会委員長であり、全二部共闘会議議長のML派の酒田さんの授業料の一時穴埋めだからです。66年12月の学生大会対案人事で酒田さんに委員長になるよう説得した時には、授業料が払えず除籍になりそうというので、私が会社を辞めて貯めていた虎の子貯金を貸しました。それも返せず、3月再び授業料支払いが求められる季節となり、「2・2協定」後の処分含めた大学側との闘いにおいて、委員長を除籍させるわけにはいかないと、中執内部で会議をして決めたことなのです。酒田さんが返却するまで一時的に中執財政で立て替えること、その会計処理は私にお願いされた訳です。ML派も、立て替える考えもないし、私含めて、他人の授業料をもう払えなかったからです。私は「ML派の会計監査委員が、問題を党派的に歪曲したのは許せない。学生大会で、すべて経過報告する」といきまいて怒りました。しかし、ML派が謝ったので、そうはしませんでした。そのかわり、私は大会の新人事で私の財務部長の他、副財務部長にML派の人間を置くよう要求しました。ML派に監視と責任を分担し、公明正大を証明してみせようと思ったからです。この人事は、たしか67年5月の大会だったと思います。ところが、この財務副部長のK君は、数か月の夏休み明けから大学に来なくなり、一時金として常時支払いのため彼が管理していた金を使い込んだと謝りに来て、そのまま辞めたいと言い出す始末でした。「使い込んだ金は働いて返す、ML派には言わないで」と言い、その後連絡不通になりました。もちろん中執会議で報告しました。ML派とは、以来、冷ややかな関係となりました。また、卒論もあり、10・8闘争後の67年秋の大会で、財政部長は現思研の宮下さんに後継してもらい、学苑会活動は、一切、引き受けないようにしました。現思研が拠り所であり、また、卒論や、アルバトも多忙だったためです。
 また、この66年から67年は、日共系の学生たちとの主導権争いがとても激しかった時代です。66年にはじめて日共・民青系の人たちの激しい暴力を目撃したことがあります。これが初めてで、衝撃的でした。三派系(都学連系)は、ラジカルでも、民青のソフト路線では考えられない光景だったのです。明大本館で、全国寮大会が開かれました。当時は、今の武道館の建つ前から、そこには近衛兵の駐屯宿舎がありました。戦後、そこは苦学生たちの寮となっていて、「東京学生会館」(東学館)と呼ばれていました。そこにはまた、活動家の拠点として、ML派などが活動の場にしていました。「東学館闘争」の立て籠もりなど、退去と建物の破壊に抗議した闘争を経て、66年11月、学生たちはこの東学館から追放されました。それ以前のことだったと思いますが、この全寮連の大会において、執行部の奪い合いで激しい対立となったのです。当時の全寮連の執行部を牛耳っていたのは日共・民青系で、御茶の水女子大など、いわゆる反日共系の寮の代表に対して資格がないから大会への入場を認めないと対立が続いていました。結局、どちらが次期執行部を形成するのかの争いであり、また路線的には米帝に従属した日本政府の文部行政を批判し、「諸要求貫徹」を主張する日共系に対する反日共系の闘いでもありました。日共系は、鍬の柄のような棒を持った防衛隊を組織し、入場に押しかける反日共系を入場させないと、暴力的に渡り合っていました。2階から突き落とされ、頭から血を流し、よく死なずに済んだというような流血が続き、双方多数の怪我人が出ました。
 学生会館にいた私たちは、緊急救援を頼まれて、怪我して本館中庭に倒れている学生を、青医連の友人たちに治療してもらうために走り回りました。本館の現場に駆けつけてみると、代々木病院からの救急車が正門脇にすでに停まっていました。代々木病院の救急車隊は、倒れている人に「大学は?え?こいつはトロッキストの方だ」などと言いながら負傷した学生を選別して放り出したりしているのを目撃しました。「ひどじゃないか!」と私たちは泣きそうなほどの衝撃を受けながら、倒れている者たち、選別排除の目にあった者たちを立て看を担架代わりにして、次々と学館に運び入れました。「民青が・・・」話す程に、どくどくと流血します。糸は木綿糸まで消毒して縫っていたけれど、大丈夫なのか・・・と怖くなりました。一方、民青は、会場封鎖をして寮大会を続け、「トロッキストの妨害にもめげず、新方針、新執行部を選出した」と後の日共機関紙「赤旗」にも載っていました。
 私は、反日共系の側にいるわけですが、民青の偽善的振る舞いにはうんざりするのですが、本音では、どうして反日共系は先に手を出してしまうのかが不満でした。いつも民青系は、やられてからやり返すと思っていたのですが、この寮大会の時は、まったく違っていました。民青の人たちは譲れない時には、暴力を「正当防衛」として先に手を出すものだと知ったのはこの時です。
 67年か68年に、明大二部の民青が本格的に暴力を仕掛けてきたことがありました。きっかけは何だったのか・・・。とにかく明大二部の民青の勢力がずいぶん削がれてしまったことが一つ大きな危機感だったと思います。また、三派系が民青のビラ撒きなどにも暴力をふるったりしたことが原因だったかもしれません。日共系に対し、三派系は横暴でした。学苑会執行部ばかりか、生協二部の学生理事選挙でも、日共系は敗れて、議席を失っていました。残っている商学部と法学部自治会を拠点に、「政経学部民主化委員会」や「文学部民主化員会」などを立ち上げて、巻き返しを図っていました。クラスに討論やビラ撒きに入ると、日共系と反日共系が教室でぶつかって論争もしていました。時には、三派系の活動家たちは、民青系の学生を無理やり三派系の自治会室に連れ込んできて、「自己批判要求」なども暴力的に行っていて、民青、日共の神田地区委員会で、我慢の限度にきていたのだろうと思います。
 ある日のこと、夜9時を回っていて、最後の授業が始まり、みな現思研の仲間も教室に向かい、私は一人4階の現思研にいました。
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(学館4階平面図・現思研は学生新聞委員会室)
「うオー」というようなとどろき、「あぶないー!」「民青の襲撃だ!」遠くで怒鳴り声がしました。「日共の暁部隊はすごい」「中大では民青の方が暴力的だ」など、ブントの人たちから話は聞いていたので、民青が攻撃を仕掛けてくることを、私たちも話題にしていました。来た!私は現思研の部屋(マロニエ通りに面した4階)からすぐ走っていって、反対側にあるエレベーターが3階にあったので、それを4階に上げて非常ボタンを押して停止させました。エレベーターを日共系に支配させないためです。そして、そのすぐ脇の階段用の鉄扉を閉めようと急いで手をかけ、民青が来るのを遮断するべきだと思いました。襲撃隊は、すでに3階の学苑会に到着したのか、ガラスの割れる音や怒鳴り合い、ドアを突く豪快な音がしています。覗こうとしたら、その一瞬に3階から4階へと黄色や白のヘルメットをかぶった集団が駆け上ってきました。「いたぞ!重信がいるぞ!」と先頭で2段跳びに駆け上がってきたのは商学部の民青のリーダーの和田さん。ぎょろ目でいつもキャンパスで反日共系に立ち向かい論争している闘志満々の人です。私はあわてて鉄扉を引き、閉めてカチャリとロックしました。間一髪で遮断しました。カンカンカンカンと鉄扉を叩き、しばらく怒鳴りながら鉄扉を壊そうとしていましたが、しばらくするとあきらめたらしく静かになりました。3階や隣の学生会館旧館の方に走っていったようでした。
 旧館には、各学部自治会室があります。こちらの新館の4階には現思研のいる新聞会室以外、和室、会議室がありますが、調べてみると、4階にいたのは、夜9時から10時近いため、私以外誰もいませんでした。それも知らず民青は隣の旧館の窓からガラス張りの新館4階に板を渡して渡るつもりか、うかがっていました。私は会議室すべての電気を付けました。民青の行動が、ちょうど授業を終える学生たちによく見えるようにするためです。そして、現思研の新聞会室に戻り、ドアをロックして、ベランダからマロニエ通りの学生たちに呼びかけました。「学友のみなさん!民青が地区民青や日共の人を引き連れて、ただ今、学館を襲撃中です。この暴力を監視してください!」と叫びました。ロープや板を渡って新館に乗り込んでも、民青が私の部屋に入るには、もう一つドアを壊さなくてはなりません。私もハンドマイクはないので、大声で訴えました。最後の授業を終えて夜間部の学生たちがぞろぞろと出てくる時でした。私の方からは、何人の民青襲撃隊が加わっているのかは見えず、分かりません。ただ、「日共の暁部隊には半殺しにされる」と中大の友人からも聞いていたので、現思研でも時々話題になっていたのですが、それが現実になりました。
 当時の千代田区など第一区の選挙区の日共の衆議院議員候補は、紺野与次郎さんで、私の中学時代の仲良しの友人の民子さんの父親でした。「大丈夫よ、もし日共に拉致されたら民子さんのお父さんに訴えればいいから!」などと軽口をたたいていたのですが、本当になってしまい、驚きつつ、下には学生仲間がいるので、闘争心の方が湧いてきました。続々と学館の下に集まった友人や野次馬が「日共は暴力を止めろ!」「ナンセーンス」と大合唱しています。そのうち、雄弁会の友人で地理学科のMさんが、「警察が来たぞ!」と大声をあげました。すると、あっという間に日共・民青は撤収を始めて、さっと消えてしまいました。撤退時は隊列を組みつつ全力疾走です。警察は来ませんでしたが、Mさんの機転だったのです。
 民青は「暴力はふるわない」ことを原則としており、こんな暴力を白日にさらしたくなかったので、逃げ足は速かったのです。
 もう1回の次の攻撃は、その後のことです。67年末か68年初めのことか、学館を道をへだてた大学院裏の校舎の1階で、民青と反日共系が長い旗竿で小競り合いを始めました。解放派やML派ら文学部の自治会と民青の対立のあった時です。
 この時の私は、やはり4階にいて、マロニエ通りを見下ろしました。そこに大学院の裏の方からマロニエ通りを通ってデモ隊が整然とピッピッピッと笛に合わせて駆け足でかけつけてくるところでした。水色のヘルメット部隊の助勢です。4階のみんなは援軍に手をたたき、下の野次馬や学生たちも拍手していたところ、突然、反民青の部隊を襲撃し始めたのにはあっけにとられました。社青同解放派の党派性は水色のヘルメットなので、てっきり救援隊が仲間と思ったのですが、これが民青部隊だったのです。「あっ、そういえば民青全学連のシンボルカラーは青だ!」と誰かが叫びました。全学連防衛隊というのができ、トロッキストを粉砕するために駆けつけたということなのです。この時も、背後から100人ほどが襲いかかり、反日共系は防戦に追い込まれ、コーナーに押されていた日共系の学生の血路を開くと、あっという間に撤収するという見事な動きを示していました。
 よく訓練された組織された暴力に、現思研の仲間たちと感心してしまいました。しかし、大学祭などは、右派も民青の人々とも対立するばかりではありませんでした。
 私自身の当時の関心や活動についても、ここで触れておきたいと思います。研連での合宿や行事、ことに秋の駿台祭の文化祭にはみんな協力し合います。駿台祭には昼間部も夜間部も、駿河台校舎を使う者たちが、共同して駿台祭実行委員会を結成します。66年にはそこで共同した応援団長のSさんらの協力のもとで、その後の学費闘争の時にはいろいろ助けられました。
 体育会の危険な自治会破壊攻撃に、応援団は「中立宣言」して、体育会の動きに歯止めをかけてくれたし、本館で使用していた貸布団が体育会の占拠で妨害されて運び出せないのを、応援団員を動員して片づけを手伝ってくれました。貸布団屋に代金を支払う私には、当時、布団を失うことは深刻な問題でした。
 文化祭プログラムは、民青など含め、研連と昼間部の文連(文化部連合会)、応援団と協力し、学園祭はサークル中心の展示・発表・講演の催しをやります。実行委員会で大きな講演や、広場での打ち上げパーティーも企画しました。
 67年には、右翼体育会の拉致や暴力が2月は猛威をふるいましたが、入試も終わり、新入生を迎えると、彼等は野球部の島岡監督の指揮で神田から引き上げ、生田など合宿所に戻っていきました。応援団は神田にいるので、引き続き交流していました。
 67年の文化祭では、私も企画を担当しました。そのころ、「少年サンデー」「少年マガジン」「ガロ」などマンガが大学生の読み物となっていると、社会的に話題になっていました。なぜマンガが流行するのかといった「マンガ世代の氾濫」を問う企画をつくりました。また、当時、吉本隆明が学生に読まれており、そのことにも注目しました。そこで、「ガロ」に執筆していた上野昂志、マンガ評論の石子順三、最後の講演を吉本隆明として企画し、駿台祭に招請しました。その前年、66年には、私たちは羽仁五郎を「都市の論理」の著者として招請しました。「交通費しか払えないが、講演をお願いしたい」と私は交渉しましたが、「講演料はきちんと払ってもらいたい」と言われましたが、講演後、始めからそのつもりだったのでしょう。交通費分も含めて、すべてカンパしてくれました。
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(「都市の論理」広告)
 65年は、小田実も記念館でベ平連運動について話をしてもらいました。ML派の人らがベ平連批判と質問をすると、「ベトナム反戦に関して、君たちは君たちのやりたいようにやったらいいでしょう。同じように、他の人がやりたいようにやるものまた、自由に認めるのが民主主義だ。ベ平連は各々自分のやりたい方法で、やれる方法でやる。私もそうだ。文句をいわれる筋合いはない」と返答していたのを覚えています。67年の学園祭の吉本隆明の講演は、ちょうど10・8闘争後の遅くない日となったので、10・8闘争について吉本の考えを知りたいと、学生会館5階ホールには入りきらないほどの学生が集まりました。ちょうど、10・8闘争に関して知識人、文化人と呼ばれる人々が「暴徒キャンペーン」を張る政府マスコミに対抗して、警察の過剰警備による弾圧を批判し、学生たちの闘いを孤立させまいと奮闘している最中だったのです。吉本は、10・8闘争に関してそれまで発言していなかったので、学生たちへの「支持」をみな期待し聞きたかったのです。ところが、おもむろに口を開いた吉本は、評価する、しないと表明すること自体がナンセンスなのだと述べて、みんなをしらけさせました。知識人の主体性とは何かを語り、自分のやり方で表現していると述べたのです。学生たちが吉本に期待したほど、吉本の眼中にには学生たちの闘いが評価されていないことが、よくわかったのです。私自身は、67年10・8闘争までは詩作をしていたので、吉本の「詩」や「抒情の論理」などの本を読んだことはありましたが、思想的影響も受けていなかったのですが、友人の中にはがっかりする者もいました。
駿台祭のこうした講演のほか、日共系の社研(社会主義科学研究部)や民科(民主主義科学研究部?)のサークル展示には支援し、当時のベトナム反戦など研連でも共同したりしました。私の所属していた文学研究部は、部室を開放して、「駿台派」という同人誌を販売している程度だったと思います。67年は、その「駿台派」の編集長として、私も短編から詩、エッセイを編集していました。この67年には、自分の情念の広がりや突出を詩の中で格闘していた感じです。世界・社会を変えることができるという思いと、自分の意思を政治的な言語でなく、何とか表出したいと考えて、現代詩に熱中していたように思います。政治的言葉、ことに学生活動家たちの自己陶酔的なアジテーションのパターンの政治用語から排されている心情を表現したいという思いにかられていたのです。「駿台派」では、小説や評論で、詩の発表の場が不十分と感じて、文研の詩人仲間に呼びかけて、67年には詩集「一揆緑の号」を発行しました。9月に編集を終え、印刷中にちょうど吉田茂の死があり、はさみこみのしおりで「臣茂」が死んでも「臣人々」は生き続ける憂国的心情を記しました。この詩集は、10・8闘争のあと発行されましたが、10・8闘争を契機に、私自身は詩作を一旦やめて、政治的声を拒否せず聴こうと思ったのです。
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(詩集「一揆緑の号」)
「やりたいことをやり、なりたい自分になる」「自分の欲望・意志に忠実に生きる、生きることができる!」そんな思いにあふれていました。社会を変えられると信じていました。高校を卒業して就職し、新卒新入社員として社会に出た64年から65年に大学に通える道を見つけ、夢中で「学生」をやっていたといえるかもしれません。
大学生活、学習も詩作もアルバイトも、学生運動も、すべてが楽しくて充実感を味わっていました。自分一人の人間の能力は限られているけれど、思いっきり自分の可能性を開いて生きようとしていました。寝る間を惜しんで、常に好奇心を持って前向きなエネルギーにあふれていた自分を今、振り返りつつ、その情熱を認めることができます。しかし、当時、私に欠けていたことを、今ははっきりわかります。自分のことに精一杯だったのです。友人たちの悩みや困難に一緒に悩み、耳を傾け、解決に尽力していたつもりでしたが、今から捉え返すと、自分の関心角度からしか結び合っていなかったのだろうと思います。それを若さというものかとも今は思います。そうしたあり方は友人にも、家族、特に父や母に対しての配慮を欠いていました。大学を受験し、自分の意思通りに生きる私を、家族はみんな応援してくれました。そして学生運動にも理解を示してくれました。私も何でもすべて家族に、特に父親に語りました。
でも、私が両親や兄弟たちに支えられていたほどには、私は家族をかえりみる余裕がなかったのだと、今ではとらえ返すことができます。若さは身勝手で思い切りよく、時には傷つけていることを自覚できないものなのでしょう。
このころ、替歌もたくさんバリケードの中で歌われました。学費闘争のころには校歌や明大の戯れ歌(ここはお江戸か神田の町か 神田の町なら大学は明治・・・)なども歌っていましたが、ブントの歌もありました。67年にはブントの先輩たちが歌う「ブント物語」の歌(「東京流れ者」の曲で歌う)を知りました。この歌をコンパなどでインターナショナルやワルシャワ労働歌で締める前に、みな楽しんで歌っていました。「ブント系の軽さ」といえますが、なかなか当を得た戯れ歌です。

 ブント物語
1.ガリ切ってビラまいて一年生
  アジッてオルグって二年生
  肩書並べて三年生
  デモでパクられ四年生
  ああわびしき活動家
  ブント物語
2.勉強する気で入ったが
  行ったところが自治会で
  マルクス レーニン アジられて
  デモに行ったが運のつき
  ああ悲しき一年生
  ブント物語
3.いやいやながらの執行部
  デモの先頭に立たされて
  ポリ公になぐられけとばされ
  いまじゃ立派な活動家
  ああ悲しき二年生 
4.デモで会う娘に片想い
  今日も来るかと出かけたら
  今日のあの娘は二人連れ
  やけでなったが委員長 
  ああ悲しき三年生
  ブント物語
5.卒業真近で日和ろうと
  心の底では思えども
  最後のデモでパクられて
  卒論書けずにもう1年
  ああ悲しき四年生
  ブント物語
6.先生、先生とおだてられ
  今じゃ全学連の大幹部
  奥さんもらって落ちついて
  今更就職何になる
  ああ侘しき活動家
  ブント物語

※ 管理人注
この替歌は、「戯歌番外地 替歌にみる学生運動」野次馬旅団編(1970.6.15三一書房発行)には「悲しき活動家」という歌として載っています。
本に掲載されている歌詞と一部違うところがありますが、替歌なので、いろいろなところでアレンジされて歌われていたと思うので、何が正しいということはないと思います。
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(戯歌番外地)

(つづく)

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