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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。

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今年は激動年1968年から50年目となる。50年の節目ということで、さまざまなイベントや出版が企画されているが、もう一つ、三里塚(成田空港)管制塔占拠闘争から40年目の年でもある。
3月25日、御茶ノ水の連合会館で三里塚芝山連合空港反対同盟(柳川秀夫代表世話人) と元管制塔被告団主催にとる「三里塚管制塔占拠闘争40年 新たな世直しを!3・25集会」が開催されたので行ってきた。
今回はこの集会の概要を掲載する。

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(パンフ写真)
<プログラム>
1)第1部  映画「三里塚のイカロス」上映
 終了後発言 代島監督
2)第2部  集会  
 主催者あいさつ  三里塚反対同盟 柳川秀夫さん 
    、     管制塔被告団 平田誠剛さん
発言 清井礼司 弁護士
発言 平野嫡識さん
メッセージ 加瀬勉さん(ビデオ)
映像 2017木の根幻野祭
発言 大森武徳さん(ビデオ)
石井紀子さんメッセージ(代読)
現地報告(資料説明)山崎宏さん
発言 鎌田慧さん
発言 反空連 渡濃充春さん
   福島 中路さん
      羽田
出席被告紹介 和多田、前田、平田、中路、中川、高倉、太田、児島、藤田、石山、山下、若林、佐藤さん              `
3)懇親会 

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<チラシ掲載のメッセージ>
【空港突入40年の集いにむけて】
三里塚芝山連合空港反対同盟代表世話人 柳川秀夫

世直しの旗が翻ったのは駒井野の強制代執行であった。まさに戦争状態でむかえた代執行。世直しの闘いを宣言することで百姓も誇りを持って闘うことができた。
百姓は畑に種をまくと、訪れる豊かな稔りを迎えるために手入れを惜しまず汗を流す。山の木の手入れ等、何十年も次の世代の為続ける。
闘いも途中で決してあきらめず根気よく闘い続けてきた。作物を育てるのと似たようなものだ。
新しい年を迎える度、又今年も頑張れば来年は勝てると年寄りが話し会っていたのを今も覚えている。作物も今年だめでも来年があるように。
しかし、百姓では出来ないこともあった。今日ではボランティアとかになってしまったが、多くの人達の助けが求められた強行開港阻止という難題。それは果断に生命、人生を代価に3月26日に行われた。
重くて背負いきれない程の快挙であり、大義の春であった,
40年目に何を思えば良いのか,三里塚では世直しはいくさと密接でもあったが。時が移り世の中の在り方を見直すことへと重みが増している。
今あの日に帰って夢は色褪せてないか。さらに輝いているか確かめるのも大切なのかも。世直しの新たな旗が翻るために。 (2017.11.7)

「3・26」の闘いを継承し、新たな世直しへ
元管制塔被告団 中川憲一

1978年3月、時の福田赳夫自民党政権は成田開港を国家の威信をかけた最重要課題と位置づけ、力ずくで3・30開港を図ってきました。1966年閣議決定から、機動隊の暴力を前面に出した国家の土地取り上げと闘ってきた三里塚の農民と支援は、この非道に真っ向から立ち向かいました。
1年を超えた開港阻止決戦の正念場となった3月26日。「空港包囲・突入・占拠」を掲げて菱田小跡に結集した三里塚闘争に連帯する会、労調委などの仲間は、横堀要塞の闘いと連動して空港へ突入。
前日25日夜から下水溝に進入していた私たち管制塔部隊は、26日午後1時、9ゲート・8ゲートからの空港突入に呼応して、マンホールから飛び出して管制塔に駆け上がり、管制室を占拠しました。
時の政権の道理を無視した3・30開港を人民のパワーが阻止したのです。この闘いは、60年代の反戦・全共闘の闘いから70年代連赤・内ゲバという後退とは違う闘いのあり方を示しました。管制塔の闘いは海外の運動にもインパクトを与えたと聞いています。
その後も2005年には皆さんの協力による一億円カンパ運動によって、管制塔被告は政府による賠償強制執行をはね返すことができました。
いま法も道理も無視した安倍政治が憲法改悪を目指し、沖縄では基地建設反対の闘いが続いています。成田空港でも住民を無視した夜間発着時間拡大、第三滑走路の計画が出されています。
このような中で迎える管制塔占拠闘争40年。40年集会を開催したいと思います。
「3・26」40年にあたり、民衆の闘いの歴史を貶め消そうとする体制に対抗して「3・26」を語り継ぐととともに、40年前の闘いをもう一度見直し、その原点を再発見・再定立していきたい。この集会が旧交を温めると共に、78年を知らない人々と共に、その今日的意味を考えるきっかけになれば幸いです。
全国の皆さんの集会への参加と賛同を呼びかけます。

【日本人民の希望と未来の赤旗】
三里塚大地共有委員会代表 加瀬勉

開港阻止決戦・空港包囲・突入・占拠。三里塚空港にディエンビエンフーの戦いを。空港を包囲し突入し、亀井・三井警備局長率いる警視庁精鋭部隊を粉砕し、管制塔に突入占拠し赤旗を翻した。開港を阻止し、ディエンビエンフーの戦いを三里塚闘争で実現させたのである。三里塚で「警視庁敗れたり」と秦野警視総監に言わしめたのである。
管制塔戦士たちが打ち振る赤旗の血潮の燃え滾る鮮やかさは我々の前途を指し示すものであったが、また権力の容赦ない弾圧でもあった。新山君が原君が犠牲になって斃れていった。囚われた管制塔戦士達は冷たい鉄格子、獄中の深い闇、家族の苦難の生活。10年余の歳月。三里塚闘争のさらなる前進と勝利を、日本の夜明けを信じて戦い抜いた。俺たちは万難を排して獄中にいる管制塔戦士に連帯したのか。したと言い切れるのか。問い続ける40年であった。
その問いに一人一人が答える時代が到来してきた。戦争政策遂行、改憲内閣、ファシストの安倍内閣の4度の成立、「三里塚空港機能拡大・夜間飛行制限緩和・空港用地700ha拡大・新滑走路の建設・50万回増便」の10年計画の新たなる攻撃がかかってきた。戦いの思想を魂を管制塔戦士の行動を規範に共に競いあい磨きあってゆこうではないか。団結して前へ。

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3月25日の集会には約250名の参加があり、会場は満席(私は立ち見)であった。
集会では多くの方から発言があったが、そのうち5名の方の発言概要を掲載する。

第一部
映画「三里塚のイカロス」上映
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代島監督 挨拶
「いろんな方々、それからここに参加していらっしゃる皆さんのご協力を得て完成させたような作品です。この前に『三里塚に生きる』という作品を作っているんですけれども、それは闘争の当事者、農民が主人公の映画でした。でも、支援の人たちが三里塚にどう関わったのかということは、とても描きずらいテーマでしたし、『三里塚に生きる』を一緒に撮った大津幸四郎にも『支援にだけは触らない方がいい』と言われていたんですが、僕自身が皆さんより10歳くらい年下の1958年生まれなんですけれども、皆さんの世代の、あの時代の闘争の姿を思春期に見て、憧れていたんですね。だから、ずっとあの問題って何だろうという思いがありました。あと、あの時代が何で挫折してしまったんだろうという思いも一緒に持つようになりました。

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三里塚であの時代を生き、理想に燃えて支援に入った皆さんの映画を作りたいと思ってこの映画を作ったんですけれども、ただ、三里塚もそうですし、例えば、今、沖縄や反原発もそうですが、組織で動いているということがとてもいろんな要素が含まれていて、ここにいらっしゃる方が一人ひとり、ご自分が三里塚でどういう風にしてきたかということを自分に問うた時に、やっぱり、一人ひとりの中にそれぞれの答が生まれてくると思うんです。とてもいろんな要素が含まれた闘争だったと思うんです。ただ、この『三里塚のイカロス』に関していうと、最後にもう一度羽田闘争の写真が出てくるんですけれども、もう一度皆さんに、あの時代を生きた自分を思い出し、問うてもらいたい。これからどう生きていくかを含めて、何か考える材料になればいい。それから、今の10代20代の若い人たちはあの時代を全く知らないんですが、三里塚について理解をしていって欲しい、自分たちがどう生きるかということを大事にして欲しいと思って、この映画を公開しています。
この映画を昨年の9月に公開して、平田さんがフェスブックに『三里塚のイカルスを熱く語る会』というスレッドを開いて友人たちが投稿しています。それとともに、平田さんが『開港阻止決戦って何だったのよドキュメント』をフェイスブックで連載したんですが、それはそれで面白いエピソードが満載なんですが、このドキュメントをどう締めくくるのかと思っていたら、家族、お母さんから獄中に届いた手紙の一節を書いていました。それがすごく僕の心を打ったので、ちょっとご紹介して終わりたいと思います。
『池の柳が芽吹いた。今年は寒かったのに春はまたやってきた。
その足にもの言わせて走れと言って聞かせたのに、逃げる気のないおまえのこと。
かくなるうえは、立ったり、しゃがんだり、足踏みしたりして来たる日に備えよ。』
平田さんは福島の支援をしていますが、もしかしたら来る日に備えて皆さんも、立ったり、しゃがんだり、足踏みしたり、いろんな人生を送ってきたと思うんです。
この40周年の集会は、来る日に備え、考え、どう行動するかというきっかけになるといいなと思っています。
本日はありがとうございました。(拍手)」

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第二部
主催者挨拶

三里塚反対同盟 柳川秀夫
「今日の40周年集会は、反対闘争に関わる戦争のための集会ではない。今日は警察関係はいないと思いますが。40年前もとてもいい日でした。ここにお集まりの皆さんも、3・26の当日に力を合わせておられた方が大半ではないかと思います。
大勢の中で話すことがめったになくて、何を話していいのかわからないんだけれども、今、三里塚の現状から言いますと、新聞などでご存知かもしれませんが、第三滑走路をもう1本造るということで、相変わらず空港を巨大化しようとやっております。昔から住んでいるところがズタズタにされる。反対闘争が始まってから52年になります。当時は村で総決起して反対運動を闘い始めたんですが、今の状況というのはなかなかそうはならない。
皆で集まって力を合わせてというのは、今は出来ないような社会構造になっているわけです。その辺が昔と違うところです。だから、反対の決起集会も全然行われない。私の部落は滑走路に直接かかるところですが、昔は反対運動を部落ぐるみでやってきたところでもあるわけですけれども、誰一人反対という声が上がらない。それは、私の住んでいる部落にも関わることですが、日本全国の農村は昔の共同体というものはもう存在しないということです。個人で生きていくのに不自由しない。こういう社会状況の中で、成田の滑走路が巨大化するという時に、自分を含めた営々と住んできた地域も、すでに一番大事なものではなくて、それをステップにして次の人生を考えようという感じになっている。
三里塚闘争というのは『腹八分目の社会』『世直し』ということを代執行の中で必死になってたどり着くわけですけれども、それは『持続できる社会』ということ、それがやっぱり三里塚の大きな課題だと思っています。

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反対同盟と名乗ってはいますけれども、実際のところ大半の人は去ってしまって、私と数人がいるだけの関係です。三里塚の課題というのは、魂の問題だと思っています、いろんな人が何十年もかかって、いろんな人の思いが結集して、その中で出された結論だと思っています。持続できる社会にするためには、皆が腹いっぱい食べるのではなくて、腹八分目の考え方というのが備わっていかないとだめだと思います。それが今の大きな課題で、滑走路問題があるんだけれども、もう一度そういうものはだめなんだというには、もう1回、ズタズタにされた社会の中の考え方というものを作り直さないと、そういう反対だという考えも出てこない。残念ながらそんな状況になっています。三里塚に限ったことではなくて社会全体の状況ではないかとか思っています。
なかなか物事は進まないですけれど、私も70歳になりましたが、ここにお集まりの皆さんもそれなりのご年配で、最後の頑張りとして、自分が悔いのない生き方をしていく、例えば40年前の今日、明日の日に思った考えや、その生き方というのはいろいろ培われて養われて、皆さんここにお集まりだと私は思っています。そういう意味で、今日は感謝しています。どうもありがとうございました。」

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管制塔被告団 平田誠剛
「管制塔の占拠メンバーの一人だった平田です。管制塔元被告団を代表してご挨拶をするということらしいんですが、本当にいいかげんで、いつの間にか私がここで挨拶をすることにさせられてしまった。管制塔グループらしいです。
今朝起きて、見事に晴れ上がった青い空を見ました。40年前の3・26の暗がりから私たちが青い空に向かって飛び出すところから、私たちの空港の中での闘いが始まりました。
いろんなことを思い出しながら、面白かったことや辛かったことや、あまり管制塔被告団というのは、白い帽子を被って目を吊り上げる人たちとちょっと違って、世の中に悲劇はないと思ているやつばっかりで、全部お笑いだぜ、という世界になってしまっていっちゃたんですね。確かにあの時の闘いで、9ゲートのN君は命を失うことになりましたし、管制塔に一緒に行ったH君も、4年後に拘禁症で、それが保釈中に激化する形で自ら命を絶つという辛い経験もしました。それでもやぱり俺たちは、面白がって生きようぜという風に思って生きてきたんだと思います。
私たちの頃は、鉄パイプを持って行くぞ、と決意して行く。これよりは、今の時代、よく考えたら『そだね〜』と言いながらやっていた方が平和でいいと思う。確かに私たちの頃、40年前には決意をしてやらなければいけない闘争のやり方だっただろうし、私もそれが正しいと思うんです。1ミリもそのことについて譲るつもりはない。じゃあ、今、それを同じことをやるのか?そうはいかないと思います。映画の中にも出てきましたけれども、先人のいろんな苦労を受け取りながら、どうやってそれを今に生かし、今の中で未来にそれをつなげていくか、ということを、やっぱり考えなければいけないんだろうなと思います。

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(映画で駒井野の団結小屋を作る時に)吉田義朗が、花嫁を歌いながらあの道を帰ってきたみたいなこと言ってましたよね。あの道は私たちが空港に忍び行った排水口の一部です。つまり、反対同盟の人たちというのは、外側から管制塔に至るあの排水口の存在は、ある意味常識です。直前になって、それを使おうという計画を作らなければ、たぶん、空港の中の地下構としてあっただけだと思います。
管制塔のカンパ1億円を皆さんにご協力いただきました。ありがとうございました。(拍手)
感謝するだけでは平田の芸風ではないです。金があるなら福島で動いているんだから出せよ、と言ってもなかなか出てきません。でも、私が福島の避難者のところで活動する時に、その拠点になっているのは、1978年3月26日に一緒にいた人たちが、平田が言うんだったらしょうがねえか、と場所を提供してくれたり、いろいろなものを持ってきてくれたりして支えてくれています。それから、私が通っている仮設住宅のおばちゃんたちが、熊本に行きたい、熊本で地震で被災した人たちの仮設住宅を訪ねたい、仮設住宅でどうやって暮らしていくのか、お話を聞きながら話をしてこようじゃないか、という話になりました。お金を集めるときに、なんだかんだと言ってもドンとお金を出してくれる。熊本では、3・26を一緒に闘った人たちが、向こうの受け入れ態勢を作ってくれて、きちんとやってくれました。警察官や役人になる公務員を育てるような専門学校に行って、頑張れよ、いい公務員になれよ、いったん事が起こった時に、どれほど公務員の仕事が辛くて、だけど大事なのかという話をしました。それから被災者の人たちは、体験した自分たちの話を、あなたたちちゃんとやってね、とその困難さと大変さとやるべき仕事の大事さについて語ってきました。それから、仮設住宅に行けば、熊本の人たちがこんなに笑ったり泣いたりできたと言いました。自分の心をきちんと話せない、でも、福島から来た仮設住宅に住んでいる人には自分のことを全部言ってもいいんだ、と思ったんですね。感動的な場面でした。それを俺たちができるか?活動家や支援者にそれができるか?できません。でも、それが出来たのは普通の人たちです。普通の人たちが、そういう辛いところに行って、きちんと相手と心を通じることができる。たぶん、私たちは、そういうところをサポートすること、後ろから黙ってサポートすることが、たぶん私たちに一番求められていることなんだろうなと思って帰ってきました。普通の人たちが、こんなにすごい働きをするような、そういう風に思うようになるんだ、それは熊本の人たちだけじゃなくて、福島から行った人たちがそうなるということについて感動して帰ってきました。とてもい経験でした。
さっき代島さんが言ってくれましたけれど、今、私たちは何もできる力がないと思っているかもしれない。だけど我慢が必要です。我慢して我慢して、目の前にあることに、人々を信じて進むということが、この先、とても大事だろうと私は思っています。
私にとっては、ここがフィールドです。福島のいわきの仮設住宅がフィールドです。皆さん方にも、今、つながらないかもしれないけれど、私たちをつなぐフィールドが、きっとあると思います。我慢しながらそこを進みましょう。心はつながっています。あそこの大熊町仮設住宅の一番しんどいところを支えている人は、実は、あの吉田義朗が(トンネル掘りの)落盤事故で生き埋めになった時に、その後ろですぐに助けていた人です。つまり、お仲間というのは、見えていないけれども、きちんといます。
私も少しずつ、足踏みをする状態になるかもしれないけれど、進みたいと思います。皆さん、一緒に確実に我慢しながら前に行きましょう。」

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現地報告  山崎宏
「こんにちは。山崎です。私は支援として約30年、横堀に住んでいます。いわゆる団体の三里塚現闘という形で存在しているわけです。現地と、全国の三里塚に関心を持たれる、心を寄せられている人たちとのいろんなつなぎ役としてやっています。
現地報告ということですが、主要な問題点については、プログラムに掲載していますので、あとで読んでください。(注参照):
私が毎回、集会で言うことは、三里塚闘争は決して過去にあった闘いではない、現在進行形の闘いであるということなんです。三里塚の問題というのは、キーワードとして挙げるならば『国策である』ということです。反原発建設の闘い、辺野古の新基地建設に対する沖縄の人たちの闘い、これは明らかに国策に対する闘いであり、であるが故に国家権力は全体重をかけて、この闘争をつぶし、自分たちのやりたいことをやってくる、そういう関係性にあると思います。国策であるが故に、現在まで続いている闘いが永続的に続くものであるだろうと思います。例えば、原発建設についても、国家権力機動隊を使った直接的な暴力、そして膨大な金を地元にばらまいてこれをやっていく。これはまさに沖縄の辺野古でも見られるし、現在の三里塚においても進められていることです。

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第三滑走路については、4年くらい前に国土交通省の方から計画が出されまして、第三滑走路を2030年までに建設する、東京オリンピック・パラリンンピックに向けて旅客の増大が予想されるので、そのために飛行時間を延長するという計画が出されてきました。これに対して、地元の住民たち、とりわけ騒音直下の住民の人たちは大変反発しまして、例えば成田市の川上地区においては、そんなことは絶対に認められないという住民の強い意志が表明されました。そして、横芝光町という空港圏の町がありますが、ここは第三滑走路が建設されると、今でさえ第二滑走路によって騒音被害を受けていますが、その騒音が更に拡大する。横芝光町は、第三滑走路が出来れば、第二滑走路、第三滑走路の騒音地帯に置かれてしまい、町の約4割がその騒音被害を受けるようになる。横芝の自治体町長も、地元住民の力に押されて、合意することをずっと否定し続けてきました。しかしながら、この3月中旬、いよいよ他の市町村の早く作れという圧力に抗することができなくて、住民の騒音被害による反対を切り捨てて、ついに合意してしまいました。それによって、周辺市町が全て第三滑走路計画に賛成しているという事態に今なっています。
朝日新聞の記事の社説の中で、『強まる同調圧力に抵抗できない』と的確に問題点を指摘しているわけですけれども、全体の周辺市町が合意しない限りこの計画は前に進められない、だから横芝に対しても無言の圧力をかけて屈服させて、関係市町村全体が第三滑走路建設に合意していくという構造ができあがってしまいました。これは年度がわりに間に合わせるために、住民の騒音に対する危機意識を切り捨てても、横芝光町の町長が同意せざるを得ないというところに追い込まれていった結果であります。苦渋の選択ということで、本当に住民の受ける被害については切り捨てても、膨大な地域振興策と大量の金をばらまいてやっていくことを認めてしまっているわけです。
この第三滑走路問題については、まだまだ私たちの力が足りないし、地域の行動そのものが、現地の皆さんが話されているように、社会的構造が変化していく中で、なかなか反対の運動を作り上げていくことができないという厳しい状況に入っています。これについても、私たちは更なる闘いを支援する、推進していく義務があると思います。私たちは『三里塚空港に反対する連絡会』という首都圏を中心にして仲間たちが、毎年2回、東峰現地行動というものを行っています。このように、今、私たちの仲間は、ごく少数で細々とした運動を取り組んでいるわけです。逆に少数であっても、そういった意思を表明し続けること自体が非常に大事なことだと思っています。

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それから、皆さんに知っていただきたいことは、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて飛行時間の延長を打ち出しているわけですけれども、2002年サッカーのワールドカップが行われた時も、それを口実に平行滑走路を造るということで、東峰地区の農地を分断し、そして住宅を分断して、部落を用地内に組み込んで、平行滑走路を開業しました。このように常にスポーツイベントが、自分たちの野望を遂げるための大きな要因として扱われてきたということがあると思います。
最後に、映画の中でもパレスチナとの連帯ということがいわれていましたが、やはり現在も、三里塚空港反対の闘いは、パレスチナ連帯という言葉に象徴されるような、反帝国主義、国際連帯の代名詞でもあると思います。私たちもこれから、この国際連帯ということでも、三里塚闘争を闘っていきたいと思っています。」

(注:プログラム)
<成田第3滑走路建設一飛行時間延長反対の闘いを!>

 国土交通省一成田国際空港会社は資本の利潤の追及のために空港機能の拡大をはかろうとしている。2030年度までの第3滑走路の建設、2020年東京五輪・パラリンピックでの旅客の増大をロ実にした夜間飛行制限時間の緩和(現行午後11時から午前6時までの7時間を午前1時から5時までの4時間)を決め、さらに平行(B)滑走路の北側延伸計画まで提示した。
 国・千葉県・関係9自治体・空港会社からなる四者協議会はこの計画を推進するために住民説明会を各地区で行ってきた。移転対象となる佳民、新たに騒音地域となる住民、騒音がさらに増大する騒音地域住民からは厳しい批判の声が上がり、断固反対が次々と表明された。この結果、空港会社は飛行制限を現行より1時間短縮するという見直し案を提示し住民に説明した。しかし、住民はこれにも納得せず、なし崩し的にさらに短縮するのではないかと不信感を募らせている。
 しかし、関係自治体は住民の反対を無視し、交付金の増額・地域振興策と引き換えに空港会社の見直し案を受け入れ「早急に地域振興策を」と、前のめりになっている。住民の生活を破懐してでも一部の利害関係者の利益を目指す利権追及の構図そのものである
<裁判所を使った強権的土地取り上げ>
 空港会社(当時空港公団)は「成田シンポジウムー円卓会議」の結果、「強制的な手段によらず話し合いによる解決をはかる」と確約し、事業認定を取り下げ、強制代執行による土地の取り上げは不可能となった。
 しかし空港会社はそれ以降、民事裁判に提訴して裁判所の強制力で農民、地権者から土地を取り上げるという手段を取ってきた。それによって用地内の1坪共有地を強奪し、農民の耕作地を取り上げようとしている。
 横堀地区にある反対同盟現闘本部も裁判で土地の所有権を奪ったうえで、建物の撤去、土地の明け渡しを求める訴訟を起こした。一審千葉地裁は反対同盟側の証人調べの申請を却下し、たった4回の書面審理のみで空港会社の主張を全面的に認める判決を下した。控訴審の東京地裁は第1回の公判で突然結審を言い渡し、控訴棄却の決定を行った。
 上告した最高裁は昨年7月上告棄却の決定を下し、判決が確定した。それを受けて空港会社は千葉地裁八日市場支部に撤去の申請を行い、5月31日深夜午前0時から裁判所による強制撤去が行われた。このような裁判所を使った土地の取り上げは強制代執行と何ら変わらない公権力の行使による土地強奪である。
<強権と金の力で空港は建設されてきた>
 成田空港は最初から地元住民の意志を無視して作られてきた。政府と財界、千葉県の一方的な思惑によって三里塚の地に決定され、住民にとっては全く寝耳に水の出来事だった。政府・空港公団は農民の生活の糧である農地を奪い、追い出そうとあらゆる手段を尽くして三里塚農民に襲い掛かった。国家権力−機動隊の暴力を使って体を張って抵抗する農民を弾圧し、また札束を積んで農民を懐柔、分断し空港を建設していった。現在の政府一空港会社のやり方は形こそ違っても本質的には何も変わっていない。あたかも住民の意見を聞くというポーズを取りながら、政府が決めたことは何が何でも進めていくという姿勢だ。
<空港反対の闘いは今も続く>
 現在、空港建設予定地内には成田市の束峰、天神峰、木の根地区に農民・住民が生活し、生産活動を行っている。また芝山町の横堀地区にも反対派の土地があり、政府・空港会社の横暴と闘っている。住民が闘い続ける限り、そして三里塚に心を寄せる労働者・市民が連帯して闘う限り政府・空港会社の思い通りには行かない。
<成田空港の軍事使用を許さない>
 新滑走路の建設は単に経済的な利潤追求という要因に留まらない。空港こそまさに兵粘基地、出撃拠点として戦争遂行のための不可欠の軍事的インフラフである。安倍政権の進める戦争国家体制を阻止する闘いと共に第3滑走路建設に反対していかなければならない。

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発言  鎌田 慧
「今、映画を初めて拝見したんですけれど、中川さんがお連れ合いに手紙を書いたくだりとか、ホロリとさせられました。管制塔占拠がどうして成功したのかということが一つありまして、それとどうこれからの運動をつなげていくのかというのが、これからのテーマだと思います。映画の最後の方で小川直克さんの屋根スレスレに飛行機が飛んでいるシーンがありまして、これも胸打たれる光景でして、あそこの2階に泊めてもらって、飛行機が来るとどれだけの騒音になるか体験したことがあるんですけれども、相変わらず今のああいう形で騒音直下にさらされて暮らしている人がいるという、この空港の残酷さというのが改めて感じられました。そして、最近行っていないなという犯罪的な意識になったりしました。そういう意味で、みなさんもいろんな思いで映画をご覧になったと思います。
私は『廃港要求宣言の会』という団体で、『連帯をする会』と一緒に全国的に宣伝をしていくという形で、反対同盟の新聞を作ったり、全国集会をやったり、パンフレットを作ったりしていましたが、やはり三里塚闘争というのは戸村一作さんのことをやっぱり思い出すわけです。
この映画で触れられていなかったのは、労農合宿所のことが出てこなかったんですが、今日、ここに集まっている人たちは、現闘にいた人たち、あるいはその周辺で頑張っていた人たち、あるいは全国的にいろんな地域で頑張って三里塚に結集してきた人たち、そういう人たちが同じ思いで集まっていると思います。『連帯する会』は上坂さんというう人が、本当に歯をくいしばって頑張っていまして、彼は大阪に住んでいたけれど、ずっと東京で暮らして運動の全国化に頑張っていて、やっぱち忘れられていない人だったと思います。『廃港宣言の会』は前田俊彦さんが労農合宿所のそばに家を作りまして、住んでいました。九州に帰って亡くなられましたが、そういう人の死がありますね。
それから闘争では三ノ宮さんが自殺し、新山さんとか原さんとか、そういう方々の死がありまして、東山薫の虐殺というのもあったと思います。闘争があったときに催涙弾が飛んできているわけですけれども、プラスチック製の万年筆よりもう少し大きい銃弾ですね、硬質のプラスチックの弾が飛んで落ちていたのを見ています。それに当たって怪我した人は聞いていませんけれど、そういう形で大弾圧だったし、それに対する闘争でもあったというのは、やはり歴史的にキチンとしておきたいと思います。
そして強調したいのは、管制塔占拠というのは突出した闘争のように思われていますけれど、そうじゃなくて、やっぱりそれを管制塔の戦士たちに実行させた広い運動があったということです。それは岩山鉄塔の前からずっと準備されており、岩山鉄塔戦があり、横堀要塞があって、そして大鉄塔があって、そして管制塔という闘争の積み重ねという、これは農民たちが実際に要塞に入って、彼らが逮捕されて投獄されていったんですね。ごく普通の農民が逮捕されて刑務所に入っていたという、そういう風なことがあったわけで、これは歴史的な闘争で、それは秩父困民党の闘争でもあったし、足尾銅山の谷中村からの数度にわたる『押し出し』で、東京に向けた人民の『押し出し』が弾圧されて逮捕されるという、そういうこともあったわけだし、近くは砂川闘争もありました。そのようないろんな闘争の思いが、ぞれぞれの人の胸に刻まれて、ああいう風な大闘争が成功した。しかし、私は『第二第三の管制塔を』という言い方はあまりしない。無理なんです、それは。管制塔を占拠するというのは、あの当時の闘争で、盛り上がった形で決起し、成功できたわけで、それをいつも幻のように追い詰めて、あれができないから駄目だと言っているのでは運動にならないわけで、管制塔占拠しなくても勝てるような運動をどのようにして作っていくのか、そういう風な作り方が今問われていると思います。
それは、例えば沖縄の辺野古闘争もカヌーでピケを張ったり、ピケで車を止めたり、運搬するトラックやブルドーザーを止めるという形でやっているわけですけれど、それは素手で闘う非暴力闘争ですけれども、管制塔は非暴力闘争の一つの頂点を実行した、実践した。しかし、それに続く闘争という形ではなくて、それを更に上回る闘争、あれだけの知恵と組織と準備と熱意と勇気とを、他の現場でどういう風にして私たちが日常的に作っていけるのか、そういうことが問われていると思います。

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空港建設は国家的事業ですけれども、何とこの国家はひどい国家でしょうか。安倍首相の昭恵夫人が名誉会長になっていた、たかだか学校の建設にために国有地を8億円も安くするという、安倍と安倍の妻のやったことじゃないですか。それを官僚に責任を取らせて逃げようとしている。安倍が首相でなければ、安倍昭恵は8億円を安くする学校の名誉会長に納まるわけがないので、彼女が名誉会長だから8億円を引いたというのは歴然としているわけで、こういう腐敗した堕落した国家のために、私たちはどうして死ななければいけないのかという根本的な問題と、今、三里塚の人たちの思いを、今、私たちはどう胸に刻んで、原発反対闘争とか沖縄の闘争とか、さまざまな問題、年金も悪くなり、非正規労働者が希望もなく働いて、倒れて死ぬまで働かなければいけないような社会にしている社会に対して、私たちはどのように抵抗し攻撃していくのか、それは三里塚でいろんな運動を広げて、そこからいろんな知恵を出したように、いろんな人たちが話し合って運動を広げていく、そういうことが今問われている、それが今日の集会だと思います。
三里塚闘争は66年の空港計画から始まって、戸村一作さんは闘って闘い抜いて亡くなった、反対同盟の委員長の頭を警棒でかち割るような野蛮な警察、今、沖縄の山城さん、運動の代表をみせしめ逮捕して5ケ月も拘置する。こういう野蛮なことが許されていて、それに対する全国的な抗議がなかなかできない。そういう中心人物を頂上作戦でやっつける。これは戸村一作さんの時はやられているわけです。そいう風にとても狂暴な国家で、ますます腐敗して堕落してきている。なおかつ私たちは何もできていない。非常に残念に思っています。
三里塚闘争の意義というのは、非暴力闘争で成功したことだけではなく、やっぱり持続可能な社会を闘争の中で生み出してきたということです。三里塚の農民、百姓といっていますが、百姓が闘いを宣言した百姓宣言、百姓のプライドというのを打ち出したわけだし、それから有機農業というのもいち早く始めた。それは大地とか自然とか有機とか農業とか、そういうキーワードをいち早く出していた闘争だったということも強調しておきたいと思います。

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あの3・26の日に、菱田小学校に結集した時の、あの決意がみなぎった集会に参加された方がいらっしゃると思いますが、会場に集まって、そこから出発していった日に、私も立ち会うことができて、とてもうれしく思っています。そういう意味で、三里塚闘争あるいは管制塔占拠を単なる追憶で終わらせてはいけない。私たちは三里塚闘争で死んだ人たちの魂を引き受けて、それを追憶するのではなくて、今、まだこういう生活をしていて頑張り足りていない、頑張りきっていないという自省を鏡として、心の中を映す鏡として頑張っていかなければいけないと思っています。
あれから40年経ったわけですけれども、とにかく管制塔占拠を心の中で想起しながら、次の運動をどういう風に作っていくのか、そのバネにしていく、知恵と源泉にしていく、闘争の源にしていくという気持ちを広げていくという、単に思い出に浸らない、今の安倍政権、公文書偽造ということが出てもまだ内閣が倒れないという、こういう瞬間に立ち会って、非常に残念、悔しく思っています。私たちはとにかく三里塚闘争を精一杯掲げて闘ってきましたけれども、まだまだ頑張るべきだったことがあります。今、青行隊から出てくる人は柳川さん一人しかいないという状況になっていますし、それは40年経っても天神峰とかいろんなところにいた人たちの苦しい生活があるし、それは原発の避難者、自主避難といわれますが勝手に逃げたわけじゃない、放射能に追われて故郷を去らざるを得なかった人たち、そういう人たちと、三里塚から追い出された人たちは、やっぱりつながっていると思うんです。そういうことを含めて、私たちは今日の集会を胸に落として、そして追憶ではなくて、更に新しい運動をきちんと受け止めていく、僕はもう寿命が短くて数年しかないわけですけれども、もう少しだけはやれるかなと思っています。皆さん、もう少し頑張っていきましょう。」

※ 管制塔占拠闘争を報じた第四インター機関紙「世界革命」517号(1978.4.3)を「新左翼党派機関紙」にアップしました。
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html

(終)

【お知らせ1】
●10・8山博昭プロジェクト東京集会
シンポジウムと徹底討論「死者への追悼と社会変革」

2018年6月2日(土)
午後2時〜5時
全水道会館(JR水道橋駅徒歩5分)
参加費 1,500円

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【お知らせ2】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)
午後1時 御茶ノ水「錦華公園」集合
(明治大学裏)
午後2時から5時
アジア青少年センター
千代田区猿楽町2−5−5
参加費4千円

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【お知らせ3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は6月8日(金)に更新予定です。
 

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