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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。

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今回のブログは、4月6日に開催された「明大土曜会」での沖縄・辺野古報告である。「明大土曜会」は明大出身者に限らず、芝工大や日大などを含めた幅広い人たちが集まる場であり、毎回、ゲストを呼んで話を聞いたり、情報交換を行っている。
4月6日は、沖縄問題に取り組んでいる明大二部出身のN氏から最近の沖縄・辺野古の状況について報告があったので、その内容を掲載する。

「私は毎月、救援連絡センターのニュースに『辺野古レポート』を書いています。最新の辺野古、高江、沖縄をめぐる情勢をできるだけ事実に即して報告し、あまり主張とか押し出さないスタイルでやっています。
 皆さんも沖縄に関心のある方が多いので、大体はご存知だと思いますが、近々の動きで言うと、例の辺野古への土砂投入の段階ですけれども、3月25日に第二工区に新たな土砂投入を開始しました。前回からやっているものとあわせると、面積でいうと4分の1くらいということです。

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辺野古崎をはさんで浜のあたりを土砂投入を始めているわけですが、比較的浅い海域なので工事がやりやすいというか、本来の工事日程からすると、実は大浦湾の方からやることになっていたんですけれそも、それ自体が工法変更なので、本来なら変更申請しなければいけない部分ですが、それを無視して浅瀬の方から今始まっているところです。
2月24日の県民投票で、投票者総数の72%ではっきり出された『辺野古基地反対』ということを全く無視をするというか聞く耳を持たない形で進めてきています。それは現在もなお連日続いているという状況です。
土砂の積出港については、名護市安和の琉球セメントという民間会社の桟橋から、土砂を台船に載せて、ここまで持ってきて土砂投入する、K−9護岸にいったん下ろして、そこからトラックでまた運んできて、どんどん投入するという状況が毎日毎日続いています。積出港の安和は沖縄の中でもかなり辺鄙なところで、そんなに簡単に行ける場所ではないんですけれども、地元の島ぐるみ会議の人たちが中心となって抗議行動をやっています。毎日毎日動員はできなくて、毎週水曜日が集中行動日ということで、その日は100数十名くらい集まって抗議行動をやっているということです。抗議行動も、辺野古のキャンプシュワブのように座り込みできるようなスペースがなくて非常に危ない。琉球セメントの敷地ぎりぎりに道路が走っているので、座り込んでいるような場所じゃないので、順法闘争ということで隊列を組んでワッショイワッショイしながら、トラックが100数十台くらい来るんですが、県道からゲートに入るには右折しなくてはいけなくて、どうしても青信号を1回見てから右折しなくてはいけなくて、せいぜい1台くらいしか入れないらしい。それを3台くらい入れたいらしいんだが、阻止しようということで、歩道をゆっくり歩きながら妨害するという順法闘争をしながら、ダンプの搬入をできるだけ減らすということで、かなりいろんな知恵を絞ってやっているそうです。毎日毎日は大変だけど、水曜日はそれくらい集まるので、相当止められているそうです。それでかなり工事を遅らせているという成果を、それとして挙げていると聞いています。とにかく人が少ないという現状です。
キャンプシュワブの方では、新たな護岸工事が始まっています。辺野古崎のN4護岸を作って、そこからK8護岸まで伸ばしている。土砂の搬入はK9護岸しかないので、新たに護岸を作って、そこを搬入する拠点にしようと狙っているのではないかといわれている。そこに山石など投入して護岸を作っている。ここにもサンゴが残っていて、最近のニュースだと貴重なサンゴが辺野古崎に何点かあるんだけれども、それを移植しないままやろうとしている。防衛省の方は移植する対象ではないと相変わらず開き直っているんですけれども、実は移植すべき貴重なサンゴがここにあるという指摘もされています。そういう工事が今、着々と進んでいる。
一方で。工事は進めていますけれども、全体的な構想でいいますと、この間言われていますが、大浦湾側の方がマヨネーズ並みという軟弱地盤が広がっているということが分かってきて、数年前から指摘されていたんですが、防衛省はなかなか認めなかったけれど、今年になってついに認めざるを得なかった。いろいろと調べてみると、大浦湾側の予定地域のほぼ6割から7割くらいに広がっているのではないかといわれている。最大深度で水面下90メートル、70メートルくらいのところも相当広くある。それを地盤改良しないと出来ないので、最近の話だと砂杭(鋼管を打ち込んで内部に砂を流し込み、杭状に固めて鋼管を引き上げる)を打ち込んで、それを地盤にして、その上に作るという、それが計算上では陸上部も含めて7万7千本、大変な量なんです。試算では650万立方メートルという砂が必要だと。これは沖縄で3年から5年分の採取する量なんです。沖縄県の工事を全て止めてここに投入できるかという話で、それだけの砂をどこから持ってくるのかという見通しも見込みも全く立っていない、というような実態があるんですね。一方、90メートルになるところもあって、実績でいうと、90メートルに及ぶ砂杭を打てる船とか設備はないということです。70メートルしかないし、国内に数台しかない。ほとんど実績もないし設備も整っていない。なおかつ90メートルの地盤改良には足らないわけで、どうするんだと言うと、70メートル下は固い地盤ですということを言っているんだけれども、聞いてみると、実際のその場で測ったんじゃなくて、近くを測ったものを流用して、そういうことが想定されるという全くいいかげんなことを言っているみたいで、そこまでのデタラメなやり方なり説明をして進めているということです。いわば言葉でごまかし答弁をして、それで多少は世論をごまかせるかもしれないけと、土地は地盤はごまかせませんから、それが破綻するのは目に見えている。しかしながらとにかくやるんだということです。しかし、ここまで大きな変更になると、さすがに変更申請しなくてはならなくて、変更申請の対象は県知事なんだけど、県知事は絶対に認めないと言っているので、変更申請しても認められる見通しはないんだけれども、場合によってはそれも裁判で訴えて強引にやるかも分からない、という話もあります。
それともう一つは、この前からいわれている活断層。楚久断層と辺野古断層が交差するあたりに、相当の活断層が存在していることが前からいわれていて、先日、地質の研究者などが改めてその周辺を調査したらしいんですね。音波探査などやって、明らかに活断層があるということを報告しています。防衛省も実は知っているはずなんだけど、そういうことはありません、と開き直っていて、調査状態も発表していないので、調査の公表を求めているそうです。ただ、活断層もかなり新しい年代だという説もあって、もし仮に活断層が実際にあるとなれば、米軍は絶対に認めませんので、そういう欠陥空港を仮に作ったとしても、果たして米軍は、ありがとうと、使わせてもらいますと言うかどうかも疑わしいという全く展望のない状況があります。それが最近の動きです。
今後の見通しについては、私の方でとやかく言えるわけではないんですけれども、土砂投入については来年の夏くらいまでかけてずっとやろうということのようです。現地の方からの要請としてはとにかく人が少ない。闘争の現場がキャンプシュワブだけだったのが、4月から元々積出港にしていた本部の塩川港が、台風被害の補修工事が終わったので、それもまた始める。そうすると、キャンプシュワブと塩川と安和と3箇所が現場になっているので、こちらも人が足りない。とにかく1人でも多く現地に来て欲しいというのが現地の声なので、僕らもできるだけ辺野古に行こうよということで、4月5月からキャンペーンを始めて、派遣カンパだとか人の募集などやっていこうとしています。それが現地からの切実な声ということです。

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3年前の高江でのヘリパット建設強行に対しての反対運動を封じ込めるため、全国の都道府県から機動隊が派遣されたんですけれど、その中で特に警視庁の機動隊が派遣されたことは違法だということで、訴訟を始めたんです。私も原告の一人ですが、東京都は警視庁に都民の税金を不当に使ったので、都知事が警視庁に返還を求めるという請求なんです。被告は小池知事。東京都の方は門前払い、争点にならない、通常の給料を払っているので特別ではないということを言っているんですけれども、裁判長がかなり関心を示してくれていて、実質審理が始まって証人尋問が始まったんですね。ついこの間も3月20日に証人尋問がありまして、3回目が4月24日、是非よろしかったら来て下さい。画期的な裁判になったし、第一回目が重久という警察長の中でも高級エリートで、この高江の機動隊派遣のためだけに、警察庁(警察庁警備局外事情報部国際テロリズム対策課理事官)から出向して、その期間だけ沖縄県警の警備部長に就任したんですね。終わったらまた帰ってきて、今、警視庁警備1課長をしている。その人の証人尋問をしました。それと昆虫研究家とか映像作家とか弁護士の証人尋問がありまして、今度は、高江で実際にヘリパットに反対する住民の人2名と土木技術者と原告の1人の証人尋問をするというこになります。
以上です。」

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明大土曜会の沖縄ネットワークでは、この「明大土曜会」の後、4月16日から4月19日まで、沖縄・辺野古現地統一行動に参加した。詳細報告は次回のブログに掲載予定であるが、統一行動の写真を何枚か掲載する。

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(土砂搬入抗議)

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(土砂搬入抗議)

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(辺野古ゲート前)

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(本部・塩川港)

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(強制排除)

(終)

【重要なお知らせ!】

ヤフーのジオシティズの閉鎖に伴い、「明大全共闘・学館闘争・文連」のホームページを「さくら」レンタルサーバーに引っ越しました。
リンクを張られている方や「お気に入り」に登録されている方は、以下のアドレスへの変更をお願いします。
HP「明大全共闘・学館闘争・文連」
 http://meidai1970.sakura.ne.jp
新左翼党派機関紙・冊子
 http://meidai1970.sakura.ne.jp/kikanshi.html

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は5月24日(金)に更新予定です。

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No 516  重信房子 「1960年代と私」第二部第3回(1967年)の後半です。
文章が長いので2つに分けました。
前半では、「7.全学連の活動ー砂川闘争」を掲載しています。  

「1960年代と私」第二部
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第一章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)

8.67年の学園闘争の中で
 67年街頭行動の中で、一番鮮明に忘れることができないのが、10・8羽田闘争です。あの経験は私に、学生運動ばかりかその後社会に出ても教師として働きながら重視しようと考える生き方に導いたといえます。67年は、私はまだ学苑会の財政を担当していたと記憶しています。66年の対案によって、日共系から学苑会執行部を、いわゆる三派系の学苑会に転換して以降、たしか5月の定例学生大会だったと思いますが(もしかして、それ以前にあった「2・2協定」に関する3月の臨時学生大会だったかもしれない)私は財政担当として、会計報告の中で、民青の時代の不正を糾弾しました。この時の大会は、66年12月1日の一票差で勝利した大会と違って、大きな差で三派系が勝利しています。私は、民青から引き継いだ会計帳簿を一つ一つチェックし、日共系の暁出版印刷所の領収証が実際より多いと感じたので、私は印刷所に行って、原簿をチェクしてもらい、実際に支払われた額を書き出したうえで、領収証の総計額の書類を再発行してもらいました。2回の印刷代数万円が水増しされているのがわかりました。それを示しながら、民青時代の帳簿の不正を学生大会で報告しました。印刷所の方も、私たちが三派系とか理解していなかったのか、妨害することもなかったので、正確な数値が得られたのです。民青は「清廉潔白」をこれまでも主張していたので、ダメージでしたし、日共内の中国派のパージと重なり、急速に学苑会奪還や「民主化」の中央奪還の活動は退潮していき、商学部、法学部自治会死守体制をとり、文学部民主化委員会など、学部活動にシフトしていきました。そのころか、その後のことですが、ブントの現思研活動に対して脅威を感じていたのか、今度は、ML派に属していた会計監査委員が、私の会計処理の領収証に不正がある、デパートの食品や衣料の領収証があったとして告発をはじめました。私に直接問い合わせや審査を行わず、ML派に報告し、ML派からブントの指導部に話を持ち込んだことがありました。それによって、私に自己批判を迫り、私を辞めさせようとしたのか、他の交換条件があったのかわかりません。私は、こうしたやり方で自治会のことを党派問題にしたことに、ML派に大いに憤慨しました。まず、「私の会計処理は正当だ」とブントの人に言いました。「ML派こそ自己批判する必要がある」と伝えました。ブントの人は驚いていました。これは実際に「不正領収証」だったのです。理由は、学苑会委員長であり、全二部共闘会議議長のML派の酒田さんの授業料の一時穴埋めだからです。66年12月の学生大会対案人事で酒田さんに委員長になるよう説得した時には、授業料が払えず除籍になりそうというので、私が会社を辞めて貯めていた虎の子貯金を貸しました。それも返せず、3月再び授業料支払いが求められる季節となり、「2・2協定」後の処分含めた大学側との闘いにおいて、委員長を除籍させるわけにはいかないと、中執内部で会議をして決めたことなのです。酒田さんが返却するまで一時的に中執財政で立て替えること、その会計処理は私にお願いされた訳です。ML派も、立て替える考えもないし、私含めて、他人の授業料をもう払えなかったからです。私は「ML派の会計監査委員が、問題を党派的に歪曲したのは許せない。学生大会で、すべて経過報告する」といきまいて怒りました。しかし、ML派が謝ったので、そうはしませんでした。そのかわり、私は大会の新人事で私の財務部長の他、副財務部長にML派の人間を置くよう要求しました。ML派に監視と責任を分担し、公明正大を証明してみせようと思ったからです。この人事は、たしか67年5月の大会だったと思います。ところが、この財務副部長のK君は、数か月の夏休み明けから大学に来なくなり、一時金として常時支払いのため彼が管理していた金を使い込んだと謝りに来て、そのまま辞めたいと言い出す始末でした。「使い込んだ金は働いて返す、ML派には言わないで」と言い、その後連絡不通になりました。もちろん中執会議で報告しました。ML派とは、以来、冷ややかな関係となりました。また、卒論もあり、10・8闘争後の67年秋の大会で、財政部長は現思研の宮下さんに後継してもらい、学苑会活動は、一切、引き受けないようにしました。現思研が拠り所であり、また、卒論や、アルバトも多忙だったためです。
 また、この66年から67年は、日共系の学生たちとの主導権争いがとても激しかった時代です。66年にはじめて日共・民青系の人たちの激しい暴力を目撃したことがあります。これが初めてで、衝撃的でした。三派系(都学連系)は、ラジカルでも、民青のソフト路線では考えられない光景だったのです。明大本館で、全国寮大会が開かれました。当時は、今の武道館の建つ前から、そこには近衛兵の駐屯宿舎がありました。戦後、そこは苦学生たちの寮となっていて、「東京学生会館」(東学館)と呼ばれていました。そこにはまた、活動家の拠点として、ML派などが活動の場にしていました。「東学館闘争」の立て籠もりなど、退去と建物の破壊に抗議した闘争を経て、66年11月、学生たちはこの東学館から追放されました。それ以前のことだったと思いますが、この全寮連の大会において、執行部の奪い合いで激しい対立となったのです。当時の全寮連の執行部を牛耳っていたのは日共・民青系で、御茶の水女子大など、いわゆる反日共系の寮の代表に対して資格がないから大会への入場を認めないと対立が続いていました。結局、どちらが次期執行部を形成するのかの争いであり、また路線的には米帝に従属した日本政府の文部行政を批判し、「諸要求貫徹」を主張する日共系に対する反日共系の闘いでもありました。日共系は、鍬の柄のような棒を持った防衛隊を組織し、入場に押しかける反日共系を入場させないと、暴力的に渡り合っていました。2階から突き落とされ、頭から血を流し、よく死なずに済んだというような流血が続き、双方多数の怪我人が出ました。
 学生会館にいた私たちは、緊急救援を頼まれて、怪我して本館中庭に倒れている学生を、青医連の友人たちに治療してもらうために走り回りました。本館の現場に駆けつけてみると、代々木病院からの救急車が正門脇にすでに停まっていました。代々木病院の救急車隊は、倒れている人に「大学は?え?こいつはトロッキストの方だ」などと言いながら負傷した学生を選別して放り出したりしているのを目撃しました。「ひどじゃないか!」と私たちは泣きそうなほどの衝撃を受けながら、倒れている者たち、選別排除の目にあった者たちを立て看を担架代わりにして、次々と学館に運び入れました。「民青が・・・」話す程に、どくどくと流血します。糸は木綿糸まで消毒して縫っていたけれど、大丈夫なのか・・・と怖くなりました。一方、民青は、会場封鎖をして寮大会を続け、「トロッキストの妨害にもめげず、新方針、新執行部を選出した」と後の日共機関紙「赤旗」にも載っていました。
 私は、反日共系の側にいるわけですが、民青の偽善的振る舞いにはうんざりするのですが、本音では、どうして反日共系は先に手を出してしまうのかが不満でした。いつも民青系は、やられてからやり返すと思っていたのですが、この寮大会の時は、まったく違っていました。民青の人たちは譲れない時には、暴力を「正当防衛」として先に手を出すものだと知ったのはこの時です。
 67年か68年に、明大二部の民青が本格的に暴力を仕掛けてきたことがありました。きっかけは何だったのか・・・。とにかく明大二部の民青の勢力がずいぶん削がれてしまったことが一つ大きな危機感だったと思います。また、三派系が民青のビラ撒きなどにも暴力をふるったりしたことが原因だったかもしれません。日共系に対し、三派系は横暴でした。学苑会執行部ばかりか、生協二部の学生理事選挙でも、日共系は敗れて、議席を失っていました。残っている商学部と法学部自治会を拠点に、「政経学部民主化委員会」や「文学部民主化員会」などを立ち上げて、巻き返しを図っていました。クラスに討論やビラ撒きに入ると、日共系と反日共系が教室でぶつかって論争もしていました。時には、三派系の活動家たちは、民青系の学生を無理やり三派系の自治会室に連れ込んできて、「自己批判要求」なども暴力的に行っていて、民青、日共の神田地区委員会で、我慢の限度にきていたのだろうと思います。
 ある日のこと、夜9時を回っていて、最後の授業が始まり、みな現思研の仲間も教室に向かい、私は一人4階の現思研にいました。
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(学館4階平面図・現思研は学生新聞委員会室)
「うオー」というようなとどろき、「あぶないー!」「民青の襲撃だ!」遠くで怒鳴り声がしました。「日共の暁部隊はすごい」「中大では民青の方が暴力的だ」など、ブントの人たちから話は聞いていたので、民青が攻撃を仕掛けてくることを、私たちも話題にしていました。来た!私は現思研の部屋(マロニエ通りに面した4階)からすぐ走っていって、反対側にあるエレベーターが3階にあったので、それを4階に上げて非常ボタンを押して停止させました。エレベーターを日共系に支配させないためです。そして、そのすぐ脇の階段用の鉄扉を閉めようと急いで手をかけ、民青が来るのを遮断するべきだと思いました。襲撃隊は、すでに3階の学苑会に到着したのか、ガラスの割れる音や怒鳴り合い、ドアを突く豪快な音がしています。覗こうとしたら、その一瞬に3階から4階へと黄色や白のヘルメットをかぶった集団が駆け上ってきました。「いたぞ!重信がいるぞ!」と先頭で2段跳びに駆け上がってきたのは商学部の民青のリーダーの和田さん。ぎょろ目でいつもキャンパスで反日共系に立ち向かい論争している闘志満々の人です。私はあわてて鉄扉を引き、閉めてカチャリとロックしました。間一髪で遮断しました。カンカンカンカンと鉄扉を叩き、しばらく怒鳴りながら鉄扉を壊そうとしていましたが、しばらくするとあきらめたらしく静かになりました。3階や隣の学生会館旧館の方に走っていったようでした。
 旧館には、各学部自治会室があります。こちらの新館の4階には現思研のいる新聞会室以外、和室、会議室がありますが、調べてみると、4階にいたのは、夜9時から10時近いため、私以外誰もいませんでした。それも知らず民青は隣の旧館の窓からガラス張りの新館4階に板を渡して渡るつもりか、うかがっていました。私は会議室すべての電気を付けました。民青の行動が、ちょうど授業を終える学生たちによく見えるようにするためです。そして、現思研の新聞会室に戻り、ドアをロックして、ベランダからマロニエ通りの学生たちに呼びかけました。「学友のみなさん!民青が地区民青や日共の人を引き連れて、ただ今、学館を襲撃中です。この暴力を監視してください!」と叫びました。ロープや板を渡って新館に乗り込んでも、民青が私の部屋に入るには、もう一つドアを壊さなくてはなりません。私もハンドマイクはないので、大声で訴えました。最後の授業を終えて夜間部の学生たちがぞろぞろと出てくる時でした。私の方からは、何人の民青襲撃隊が加わっているのかは見えず、分かりません。ただ、「日共の暁部隊には半殺しにされる」と中大の友人からも聞いていたので、現思研でも時々話題になっていたのですが、それが現実になりました。
 当時の千代田区など第一区の選挙区の日共の衆議院議員候補は、紺野与次郎さんで、私の中学時代の仲良しの友人の民子さんの父親でした。「大丈夫よ、もし日共に拉致されたら民子さんのお父さんに訴えればいいから!」などと軽口をたたいていたのですが、本当になってしまい、驚きつつ、下には学生仲間がいるので、闘争心の方が湧いてきました。続々と学館の下に集まった友人や野次馬が「日共は暴力を止めろ!」「ナンセーンス」と大合唱しています。そのうち、雄弁会の友人で地理学科のMさんが、「警察が来たぞ!」と大声をあげました。すると、あっという間に日共・民青は撤収を始めて、さっと消えてしまいました。撤退時は隊列を組みつつ全力疾走です。警察は来ませんでしたが、Mさんの機転だったのです。
 民青は「暴力はふるわない」ことを原則としており、こんな暴力を白日にさらしたくなかったので、逃げ足は速かったのです。
 もう1回の次の攻撃は、その後のことです。67年末か68年初めのことか、学館を道をへだてた大学院裏の校舎の1階で、民青と反日共系が長い旗竿で小競り合いを始めました。解放派やML派ら文学部の自治会と民青の対立のあった時です。
 この時の私は、やはり4階にいて、マロニエ通りを見下ろしました。そこに大学院の裏の方からマロニエ通りを通ってデモ隊が整然とピッピッピッと笛に合わせて駆け足でかけつけてくるところでした。水色のヘルメット部隊の助勢です。4階のみんなは援軍に手をたたき、下の野次馬や学生たちも拍手していたところ、突然、反民青の部隊を襲撃し始めたのにはあっけにとられました。社青同解放派の党派性は水色のヘルメットなので、てっきり救援隊が仲間と思ったのですが、これが民青部隊だったのです。「あっ、そういえば民青全学連のシンボルカラーは青だ!」と誰かが叫びました。全学連防衛隊というのができ、トロッキストを粉砕するために駆けつけたということなのです。この時も、背後から100人ほどが襲いかかり、反日共系は防戦に追い込まれ、コーナーに押されていた日共系の学生の血路を開くと、あっという間に撤収するという見事な動きを示していました。
 よく訓練された組織された暴力に、現思研の仲間たちと感心してしまいました。しかし、大学祭などは、右派も民青の人々とも対立するばかりではありませんでした。
 私自身の当時の関心や活動についても、ここで触れておきたいと思います。研連での合宿や行事、ことに秋の駿台祭の文化祭にはみんな協力し合います。駿台祭には昼間部も夜間部も、駿河台校舎を使う者たちが、共同して駿台祭実行委員会を結成します。66年にはそこで共同した応援団長のSさんらの協力のもとで、その後の学費闘争の時にはいろいろ助けられました。
 体育会の危険な自治会破壊攻撃に、応援団は「中立宣言」して、体育会の動きに歯止めをかけてくれたし、本館で使用していた貸布団が体育会の占拠で妨害されて運び出せないのを、応援団員を動員して片づけを手伝ってくれました。貸布団屋に代金を支払う私には、当時、布団を失うことは深刻な問題でした。
 文化祭プログラムは、民青など含め、研連と昼間部の文連(文化部連合会)、応援団と協力し、学園祭はサークル中心の展示・発表・講演の催しをやります。実行委員会で大きな講演や、広場での打ち上げパーティーも企画しました。
 67年には、右翼体育会の拉致や暴力が2月は猛威をふるいましたが、入試も終わり、新入生を迎えると、彼等は野球部の島岡監督の指揮で神田から引き上げ、生田など合宿所に戻っていきました。応援団は神田にいるので、引き続き交流していました。
 67年の文化祭では、私も企画を担当しました。そのころ、「少年サンデー」「少年マガジン」「ガロ」などマンガが大学生の読み物となっていると、社会的に話題になっていました。なぜマンガが流行するのかといった「マンガ世代の氾濫」を問う企画をつくりました。また、当時、吉本隆明が学生に読まれており、そのことにも注目しました。そこで、「ガロ」に執筆していた上野昂志、マンガ評論の石子順三、最後の講演を吉本隆明として企画し、駿台祭に招請しました。その前年、66年には、私たちは羽仁五郎を「都市の論理」の著者として招請しました。「交通費しか払えないが、講演をお願いしたい」と私は交渉しましたが、「講演料はきちんと払ってもらいたい」と言われましたが、講演後、始めからそのつもりだったのでしょう。交通費分も含めて、すべてカンパしてくれました。
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(「都市の論理」広告)
 65年は、小田実も記念館でベ平連運動について話をしてもらいました。ML派の人らがベ平連批判と質問をすると、「ベトナム反戦に関して、君たちは君たちのやりたいようにやったらいいでしょう。同じように、他の人がやりたいようにやるものまた、自由に認めるのが民主主義だ。ベ平連は各々自分のやりたい方法で、やれる方法でやる。私もそうだ。文句をいわれる筋合いはない」と返答していたのを覚えています。67年の学園祭の吉本隆明の講演は、ちょうど10・8闘争後の遅くない日となったので、10・8闘争について吉本の考えを知りたいと、学生会館5階ホールには入りきらないほどの学生が集まりました。ちょうど、10・8闘争に関して知識人、文化人と呼ばれる人々が「暴徒キャンペーン」を張る政府マスコミに対抗して、警察の過剰警備による弾圧を批判し、学生たちの闘いを孤立させまいと奮闘している最中だったのです。吉本は、10・8闘争に関してそれまで発言していなかったので、学生たちへの「支持」をみな期待し聞きたかったのです。ところが、おもむろに口を開いた吉本は、評価する、しないと表明すること自体がナンセンスなのだと述べて、みんなをしらけさせました。知識人の主体性とは何かを語り、自分のやり方で表現していると述べたのです。学生たちが吉本に期待したほど、吉本の眼中にには学生たちの闘いが評価されていないことが、よくわかったのです。私自身は、67年10・8闘争までは詩作をしていたので、吉本の「詩」や「抒情の論理」などの本を読んだことはありましたが、思想的影響も受けていなかったのですが、友人の中にはがっかりする者もいました。
駿台祭のこうした講演のほか、日共系の社研(社会主義科学研究部)や民科(民主主義科学研究部?)のサークル展示には支援し、当時のベトナム反戦など研連でも共同したりしました。私の所属していた文学研究部は、部室を開放して、「駿台派」という同人誌を販売している程度だったと思います。67年は、その「駿台派」の編集長として、私も短編から詩、エッセイを編集していました。この67年には、自分の情念の広がりや突出を詩の中で格闘していた感じです。世界・社会を変えることができるという思いと、自分の意思を政治的な言語でなく、何とか表出したいと考えて、現代詩に熱中していたように思います。政治的言葉、ことに学生活動家たちの自己陶酔的なアジテーションのパターンの政治用語から排されている心情を表現したいという思いにかられていたのです。「駿台派」では、小説や評論で、詩の発表の場が不十分と感じて、文研の詩人仲間に呼びかけて、67年には詩集「一揆緑の号」を発行しました。9月に編集を終え、印刷中にちょうど吉田茂の死があり、はさみこみのしおりで「臣茂」が死んでも「臣人々」は生き続ける憂国的心情を記しました。この詩集は、10・8闘争のあと発行されましたが、10・8闘争を契機に、私自身は詩作を一旦やめて、政治的声を拒否せず聴こうと思ったのです。
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(詩集「一揆緑の号」)
「やりたいことをやり、なりたい自分になる」「自分の欲望・意志に忠実に生きる、生きることができる!」そんな思いにあふれていました。社会を変えられると信じていました。高校を卒業して就職し、新卒新入社員として社会に出た64年から65年に大学に通える道を見つけ、夢中で「学生」をやっていたといえるかもしれません。
大学生活、学習も詩作もアルバイトも、学生運動も、すべてが楽しくて充実感を味わっていました。自分一人の人間の能力は限られているけれど、思いっきり自分の可能性を開いて生きようとしていました。寝る間を惜しんで、常に好奇心を持って前向きなエネルギーにあふれていた自分を今、振り返りつつ、その情熱を認めることができます。しかし、当時、私に欠けていたことを、今ははっきりわかります。自分のことに精一杯だったのです。友人たちの悩みや困難に一緒に悩み、耳を傾け、解決に尽力していたつもりでしたが、今から捉え返すと、自分の関心角度からしか結び合っていなかったのだろうと思います。それを若さというものかとも今は思います。そうしたあり方は友人にも、家族、特に父や母に対しての配慮を欠いていました。大学を受験し、自分の意思通りに生きる私を、家族はみんな応援してくれました。そして学生運動にも理解を示してくれました。私も何でもすべて家族に、特に父親に語りました。
でも、私が両親や兄弟たちに支えられていたほどには、私は家族をかえりみる余裕がなかったのだと、今ではとらえ返すことができます。若さは身勝手で思い切りよく、時には傷つけていることを自覚できないものなのでしょう。
このころ、替歌もたくさんバリケードの中で歌われました。学費闘争のころには校歌や明大の戯れ歌(ここはお江戸か神田の町か 神田の町なら大学は明治・・・)なども歌っていましたが、ブントの歌もありました。67年にはブントの先輩たちが歌う「ブント物語」の歌(「東京流れ者」の曲で歌う)を知りました。この歌をコンパなどでインターナショナルやワルシャワ労働歌で締める前に、みな楽しんで歌っていました。「ブント系の軽さ」といえますが、なかなか当を得た戯れ歌です。

 ブント物語
1.ガリ切ってビラまいて一年生
  アジッてオルグって二年生
  肩書並べて三年生
  デモでパクられ四年生
  ああわびしき活動家
  ブント物語
2.勉強する気で入ったが
  行ったところが自治会で
  マルクス レーニン アジられて
  デモに行ったが運のつき
  ああ悲しき一年生
  ブント物語
3.いやいやながらの執行部
  デモの先頭に立たされて
  ポリ公になぐられけとばされ
  いまじゃ立派な活動家
  ああ悲しき二年生 
4.デモで会う娘に片想い
  今日も来るかと出かけたら
  今日のあの娘は二人連れ
  やけでなったが委員長 
  ああ悲しき三年生
  ブント物語
5.卒業真近で日和ろうと
  心の底では思えども
  最後のデモでパクられて
  卒論書けずにもう1年
  ああ悲しき四年生
  ブント物語
6.先生、先生とおだてられ
  今じゃ全学連の大幹部
  奥さんもらって落ちついて
  今更就職何になる
  ああ侘しき活動家
  ブント物語

※ 管理人注
この替歌は、「戯歌番外地 替歌にみる学生運動」野次馬旅団編(1970.6.15三一書房発行)には「悲しき活動家」という歌として載っています。
本に掲載されている歌詞と一部違うところがありますが、替歌なので、いろいろなところでアレンジされて歌われていたと思うので、何が正しいということはないと思います。
イメージ 4


(戯歌番外地)

(つづく)

【重要なお知らせ!】
ヤフーのジオシティズの閉鎖に伴い、「明大全共闘・学館闘争・文連」のホームページを「さくら」レンタルサーバーに引っ越しました。
リンクを張られている方や「お気に入り」に登録されている方は、以下のアドレスへの変更をお願いします。
HP「明大全共闘・学館闘争・文連」
 http://meidai1970.sakura.ne.jp
新左翼党派機関紙・冊子
 http://meidai1970.sakura.ne.jp/kikanshi.html

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
ゴールデンウイーク中はお休みしますので、次回は5月10日(金)に更新予定です。

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「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチャラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
今回、第二部の原稿が届いたので、1年半ぶりに第二部の公開を開始することにした。
第二部の目次を付けたが、文字量が多いので、8回程度に分けて公開していきたい。今回は、第二部第一章(7−8)である。

<目 次>
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第二部第一章
社学同参加と現代思想研究会(67年)
1.私の触れた学生運動の時代      (2019.1.11掲載)
2.全学連再建と明大「2・2協定」   (2019.1.11掲載)
3.明大学費闘争から再生へ(大学内の闘い) (2019.1.11掲載)
4.社学同加盟と現代思想研究会    (2019.2.8掲載)
5.67年現思研としての活動     (2019.2.8掲載)
6.67年春福島県議選のこと     (2019.2.8掲載)
7.全学連の活動ー砂川闘争      (今回掲載)
8.67年学園闘争の中で       (今回掲載)
9.10・8羽田闘争へ
10.10・8羽田闘争の衝撃
第二部第二章
国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連
2. 三里塚闘争への参加
3.68年高揚の中の現思研
4.御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ
5.三派全学連分裂ー反帝全学連へ
6.ブントの国際連帯集会
7.全国全共闘の波
8.現思研の仲間遠山美枝子さんのこと
9.現思研・社学同とML派の対立
10.69年東大闘争
11.教育実習と4・28闘争

「1960年代と私」第二部
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第一章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)
7.全学連の活動 砂川闘争

 米軍による北爆から「ベトナム侵略戦争反対」を訴える国際的な反戦運動が、米欧日で激化し続けていました。朝鮮戦争を上回る兵力を投入しながら、ベトナム人民の北部、南部の強じんな抵抗の前で、米政府は痛打をくらわされていました。米国内の反戦運動は社会に広がり、政府を脅かし、欧州、ソ連、東欧から非同盟運動の主体である第三世界に至るまで米国のベトナム侵略に反対し、ベトナム人民連帯行動を強化しました。日米安保条約を盾に、米国のアジア侵略基地として、日本の米軍基地は侵略の前線として機能していました。兵力の補給、武器の更新、負傷兵の撤退、海軍兵力の寄港と日米政府の様々な密約の中で進められていきます。
 67年1月のベトナム反戦第一波闘争が、12月に再建された三派全学連の初の行動として、羽田へと、400余名が全学連部隊として登場しました。明大は、学費闘争の最終局面でしたが、初代全学連委員長が斉藤克彦さんであり、参加も多かったようです。その後「2・2協定」を経て、斉藤さんに代わって秋山勝行委員長代行のもとで、全学連の第二波行動として、2月26日、砂川基地拡張阻止闘争が行われました。この時の参加か、その後の参加か、私自身の参加記憶ははっきりしません。たぶん「2・2協定」後で多忙で参加しなかったのでしょう。
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(1967.2.26滑走路前での総決起集会)
 ただ、この2・26闘争で三派全学連と反戦青年委員会は、初めて独自の集会を持ち、「反戦勢力」の流れを作り出したと、全学連自身が評価しています。このため、砂川基地拡張反対同盟青木行動隊長は、1,500人の青年、学生、労働者に次のような挨拶をしたと、記録されています。
 「あの11年前の砂川闘争以来、こんなに前進した集会はなかった。これまで抗議集会といっても、基地に近寄ることができず、立川市役所前の広場などに集まって、犬の遠吠えをするだけでした。それが今日はどうでしょう。このようにして今日は滑走路の前で堂々と集会をやり抜いたのです」(77年「流動」8月号より)。67年前半の私たちの主要な闘いは、「2・2協定撤回」「学生処分白紙撤回」と、現思研の組織化であり、学外では、ベトナム反戦・砂川闘争が中心としてありました。その中で、第一次砂川闘争を闘ったのは、全学連の明大の先輩たちであり、この時の逮捕起訴の裁判で、「伊達裁判長判決」が出たことを学びました。伊達裁判長は「米軍は日本国憲法に違反する軍隊であり、基地に侵入したと起訴された全学連の学生は無罪である」と言い渡したのです。ところが検察は、高裁を飛び越えて上訴しました。そして最高裁判決で差し戻しされ有罪になったという話です。当時も、司法権力のいかさまだと、私たちは話をしていましたが、のちに、このころの記憶は、2013年、土屋源太郎さんの話で、1955年の闘いが再び明らかにされているので、ここに触れておきたいと思います。
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(土屋源太郎氏2015年撮影)
 土屋源太郎さんは、伊達判決で無罪を受けた被告の一人であり、当時明大生で、全学連の都学連委員長として活動していました。土屋さんは、「伊達判決をいかす会」を立ち上げ、「砂川伊達裁判判決破棄した最高裁判決は無効」を求めて活動を開始していました。なぜなら、伊達判決を覆すために米駐日大使と日本の外相・最高裁判所長官が判決を巡って会っていたことが示される資料が、米国の機密文章解除の中から発見されたためです。土屋さんの発言は次のような内容です。(「情況」誌2014年11・12月合併号)
 「1950年朝鮮戦争が始まると、立川基地からも米軍機は飛びたち、ベトナム侵略戦争でも拠点になっていった。米軍立川基地もその一環であり、原水爆を搭載できる大型機、高速戦闘機発着の必要から、滑走路拡張が必要となった。1955年5月、砂川町長に政府は基地拡張の通告を行い、126戸の農家と17万平方キロメートルの接収を告げた。これは町の生活破壊であり、砂川町議会を始め、反対を表明して『砂川基地拡張反対同盟』が結成された。これが砂川闘争の始まりだった。この基地のための測量に抗して、機動隊の暴力にスクラムで抵抗し、5,000余が流血の中で闘い抜いた。『土地に杭は打たれても心に杭は打たれない』と青木行動隊長の発した言葉は、その後の闘いの合言葉となった。権力の分断工作、逮捕などに抗して、1956年、反対同盟は全国の人から応援され、全国へも支援を呼びかけた。この時から全学連として砂川闘争に関わるようになった」と土屋さんは述べています。そして、延べ2万5千人以上の学生が砂川に泊り込み、地域ぐるみの支援活動を行ったとのことです。
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(ポスター)
 「1956年10月12日、13日、数千の機動隊に守られて早朝から測量隊が現れた。6,000を超える労働者、学生、市民が座り込み、測量阻止のスクラムを組んで反対同盟と一体となって闘った。この闘いの中で『赤とんぼ』が唄われ、大合唱となり、さすがの機動隊も静かになった。この日、1,000人以上の怪我人、13人の逮捕者が出た。世論の反対の高まりの中で、15日以降の測量は中止になった」。その後のことです。57年の7月8日、早朝から基地の柵をゆさぶり、抗議行動を行った柵がこわれて立ち入れるようになり、基地内に200〜300人の人数が数メートル侵入した結果となったようです。当時、都学連委員長だった土屋源太郎さんは、指揮をとっており、この基地への侵入は当然のことと考えていたそうです。
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(基地に突入する全学連)
 「基地に入ると、1.5メートルくらいの高さに鉄条網が数百メートルにわたって置かれ、その後ろから機関銃を乗せた米軍ジープが2台現れた。司令官から基地内に入った者があれば射殺してよいと命令を受けていたという。対峙は昼近くまで続き、国会議員や調達局(測量当事者)、警察と話し合いがなされた。『本日の測量は中止する。双方は同時に引き上げる。逮捕者は出さない』ということで闘いは終わった」のです。
 ところが2ケ月以上も経った9月22日に、米軍立川基地に侵入したとして、労働者、学生、23人が逮捕され、労働者4名、学生3名が『安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反』として起訴されました。土屋都学連委員長もその一人でした。この砂川事件で起訴された7人の被告には、総評弁護団中心に、大勢の弁護団が結成されました。被告側の主張は「安保条約に基づく米軍基地の駐留は、日本国憲法第九条違反であり、基地侵入は無罪」という立場で、「この裁判は憲法裁判だ」として臨んだのです。59年3月30日、東京地裁一審判決は伊達裁判長によって宣告されました。「主文・被告人全員無罪」。主旨は、「米軍の日本駐留は軍備なき真空状態からわが国の安全と生存を維持するため、自衛上やむを得ないとする政策論によって左右されてはならない。米軍の駐留が国連の機関による勧告または命令に基づいたものであれば、憲法第九条第一項項前段によって禁止されている戦力の保持に該当しないかもしれない。しかし米軍は、米戦略上必要と判断した場合、わが国と直接関係ない武力紛争に巻き込まれる危険があり、駐留を許可したわが国政府は、政府の行為により、再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意した日本国憲法の精神に悖る。
わが国が、外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で米軍の駐留を許容していることは、指揮権や軍出動義務の有無にかかわらず、憲法第九条第二項前段によって禁止されている戦力の保持に該当するものであり、結局わが国に駐留する米軍は、憲法上その存在を許すべからざるものと言わざるを得ない。米軍が憲法第九条に違反している以上、一般国民の同種法益以上の厚い保護を受ける合理的理由は存在しない。軽犯罪法より重い刑事特別法第二条規定は、なん人も適正な手続きによらなければ刑罰を科せられないとする憲法第三十一条に違反し無効である」以上が伊達判決の主旨です。
 この「伊達判決」に危機感を持った米日権力者は、司法に介入してこの一審を否定すべく、秘密裏に話し合っていたのです。そのことは、当時の秘密だったので、被告らも知りませんでしたが、この会議の結果、上訴に至ったのです。この最高裁判決によって編み出された「統治行為論」という詭弁が、以降も日本国憲法をを骨抜きにしていくようになりました。最高裁判決いわく、日米安保条約のような、高度の政治性を有するものに対する違憲か否かの判断は、司法裁判所の審査には原則としてなじまず、一見きわめて明白に違憲、無効と認めない限り、裁判所の司法審査権の範囲外であるとして司法判断をしないと決めたのが、「統治行為論」です。「統治行為論」というこの論理によって、以降の「福島裁判長判決(自衛隊違憲論)」を退け、また。「イラク派遣訴訟」や、米軍基地に関する判断回避など、立憲主義の否定、骨抜きは基本となってしまいました。
 司法において、最高裁判所が憲法判断できなければ、国の統治者の恣意的な憲法判断を許し、憲法第九条も骨抜きにされていかざるをえないのです。とにかく、土屋源太郎さんらは最高裁の差し戻し判決によって、再度、地方裁判所の審理が行われ、有罪となり、被告7人は罰金2,000円の有罪刑を科されました。最高裁判決から40年を経て、2008年、米国立公文書館で砂川事件「伊達判決」に関する解禁文章14点が発見されました。(国際問題研究者の新原昭さんの発見)その主な重要な点は、マッカーサー米大使と藤山外相の田中最高裁判所長官との間で行われた砂川裁判「伊達判決」を破棄するための謀議密約があったこと、その内容を大使が、米本国国務省にに報告した公電にあったのです。以上のように、50年代砂川闘争は闘われ、かつ、権力の謀略によって、無罪から有罪に変化したばかりか、「統治行為論」という、日本の立憲主義の否定が公に「合法」化されてしまったのです。
 こうした歴史の上に、再び砂川基地に対する拡張計画が出され、それを阻止する闘争が日程にのぼったのが、67年だったのです。
 67年2月以降、ベトナム反戦、さらには4月28日沖縄返還要求闘争が続き、そして5月16日、「三派全学連」は中大学生会館において350人以上の学生参加の上で「砂川基地拡張実力阻止闘争全学連総決起集会」を開きました。同じころ、明大二部の研究部連合会(研連)合宿が行われています(4月29日〜5月3日)。研連は執行部が、学苑会執行部に対案として名を連ねた人々に代わって、教育研究部幹事長の諏訪さんらが中心となって新執行部を運営していました。この合宿には、教育研のクラケンや、現思研の仲間も参加しています。(私の記憶はあいまいですが、遠山さんと当時一緒に参加した写真が残っています。)
 5月16日には、学苑会は5月末の定例学生大会開催を決定しています。すでに4月以降、新入生を迎えた自治会の呼びかけで、反戦・反基地闘争は広がっていきます。全学連の呼びかけで、5月26日、砂川基地拡張阻止の日比谷野音集会や、デモが繰り広げられていました。この集会で、革マル系の全学連と場所取りめぐって乱闘になったとのことですが、私には記憶にないです。この集会をふまえて、5月28日、砂川現地において総決起集会が行われました。立川市砂川町に基地拡張予定地において、日共系の集会と、三派全学連の基地拡張反対決起集会が別々に行われることになりました。当初は、社共統一行動を予定していたのですが、結局、全学連の参加をめぐって折り合いが付けられなかったのだと思います。明大新聞67年6月8日号によると、日共系の集会には3万人で、明大からは約20人が参加し、安保廃棄・諸要求貫徹実行委員会主催の「ベトナム侵略反対・立川基地拡張阻止・米軍基地撤去諸要求貫徹、6・28砂川集会」として開かれました。当時の日共系の主張には、必ず「諸要求貫徹」という言葉が使われていたのを思い出します。一方、三派全学連は、約3,000人で、明大からは約250人が参加しています。そこから200メートルほど離れた場所で、約500人の革マル系全学連も集会を開いていたと、明大新聞に載っています。
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(1967.5.28砂川現地闘争)
当日は、私も現思研の仲間と共に参加しました。私たちの結集した全学連(三派全学連)は機動隊と激しく衝突し、双方合わせて約100人の負傷者を出し、学生48人が逮捕されています。私たちも、明大昼間部の自治会も「2・2協定」の敗北的事態をのりこえて、再建された社学同勢力も勢いづいていました。まだ学費闘争指導部に対する処分が行われる少し前であったので、200人を超える人々が参加しています。
私も、現思研の仲間も、ブント社学同の隊列に加わり、「明治大学」としての隊列を組んで滑走路北側の集会に参加しました。和泉校舎から現地にマイクロバスで乗り付けた部隊が200人と明大新聞に出ているので、農・工学部の生田校舎や、神田駿河台校舎も含めれば、はるかに300人を超えていたでしょう。このころ、現思研のメンバーは、研連や各学部自治会、学苑会執行部で活動しつつ、学外のデモ、集会には15人から20人の仲間がデモに加わっていました。時には現思研のみならず、学部学生も誘って、より多くの仲間が加わります。
この日は、新入生の経験教育もあったので、私たち上級生らもほとんど参加しました。13時からの集会を経て、4時過ぎからデモ行進に移りました。「江ノ島ゲート」と呼ばれる付近から大量の機動隊が隊列を狭めるように規制し、それに抗議する学生たちは楯と警棒の暴力に阻まれてしまいました。私たちは歩道側へと追いやられ、片側サンドイッチ規制のまま、立川駅方面へと向かいました。
私は青医連の人たちと、傘に大きく「救護班」と書いた紙を貼ってさし、腕にも同種の腕章をまいて、社学同の医学部の友人たちのグループと一緒に、緊急医療救護体制をとる一員として、歩道をデモに並行して歩きました。衝突のたびに、頭を割られる怪我人が出ていました。それでも学生側も機動隊の隙をついて、投石や駆け足行進で抗議します。基地正面ゲート付近になると投石が激しくなり、投石を止めると、ゲート付近で急に一斉座り込みに入るなど、全学連の指揮のシュプレヒコール・笛に従ってスクラムを固めてシットインを行います。機動隊のごぼう抜きに対し、退去させられたあとから再びスクラムを組んで態勢を立て直し、投石する学生たち。
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(1967.5.28砂川現地闘争)
たまらず機動隊は、逮捕した学生を盾にして投石に対抗するという卑劣な行動にでました。野次馬含めて「ナンセーンス!」「何だ!」と騒然です。救護班と書かれた傘を目印に、怪我人が次々と運び込まれてきます。白衣をまとった医学連の友人たちが、即応体制をとっています。この友人たちは、かつて雑談の中で「手術にはまだ立ち会っていない」とか、「縫ったことは一度だけある」という医者の卵たちで、普段は活動の方に熱心な人もいます。でも、こういう場では未経験でもそれどころではないと、果敢です。
頭を割られて血がドクドクと出ています。その本人が何か話すと、それに合わせるように血が更に流れ出ています。青医連の者たちは止血し、また縫い合わせています。「大丈夫?」と私の方が不安になって尋ねると、真剣な顔で「消毒をしっかりしていれば大丈夫。血が出ている方がまし。打撲で脳内出血で血が外に流れない方が怖いんだ」などと言っています。これは頭から血を流し、縫ってもらっている人への励ましの説明かもしれません。私は何もできす、もっぱら消毒か、必要物品を手渡すか、服をハサミで開いて医者の卵たちが治療しやすいような補助しかできません。私と行動を共にしていたのは遠山さんともう一人、女性もいました。
夜8時半ごろ、デモ隊は、ジグザグデモや渦巻デモをくり返して、立川駅前で党派別というより大学別に集まって総括的に逮捕者や怪我人などの安全確認をして、9時ごろにみんなで立川駅から御茶ノ水へと向かいました。学館に戻り、現思研の仲間は、すでに新学期前に新入生逮捕の経験から、よく注意していたので、みな無事でした。この日の明大からの逮捕者は1名でした。当時は逮捕されてもだいたい2泊3日で釈放されていた時代です。長期勾留は指揮者のみだったと思います。
その後も6月も数次にわたって砂川基地拡張阻止の全学連の闘いは続きます。6月末に佐藤首相の第一次東南アジア訪問に対する新たな経済侵略に対する、訪問阻止闘争が広がっていきます。
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(1967.7.9砂川現地闘争)
7月9日には、砂川基地拡張阻止大集会が社共統一行動として行われました。雨の中、全学連、反戦青年委員会も加わり、12,000人の人々が集まっています。
この日も激しい市街戦となり、機動隊はデモのたびごとに、新しい防護服や乱闘靴から、盾や指揮棒に替わっていくというのが、当時の私の印象です。学生は反撃して投石しますが、社共統一行動を要求された反発もうまれます。このころの闘いから、反戦青年委員会は既成左翼や組合の無力さや、しがらみを超えること、「自立・創意・工夫」のもと、独自に全学連との行動を重視するようになっていきます。そしてまた、砂川闘争の先陣争い的な競合が闘いの中から育ち、党派間の内部矛盾も顕著になっていったと思います。
ちょうどそのころ、明大ではすでに述べた学費値上げ反対闘争に関わった指導的な位置にあった学生たちに、不当な大量処分が、6月23日、学長名で発表されました。退学処分11名を含む21名に懲戒処分が科されました。退学処分には、学費闘争の始まりの学生会中執委員長の中澤満正さん、全学闘争委員長の大内義男さん、全学連初代委員長だった斉藤克彦さんも、また「2・2協定」の混乱を収拾していた委員長代行の任を負っている小森紀男さんも含まれていました。二部では、酒田全二部共闘会議議長や研連委員長だった岡田さんに退学処分が下されました。ただちに、昼間部、夜間部の各執行部、各学部自治会は、不当処分に対し「処分撤回闘争」を組み、ハンストや、授業ボイコット体制を取る宣告しました。それらはすでに述べたとおりです、
当時のブントの学生対策(学対)指導部は、中核派と競合しつつ、明大の「2・2協定」自己批判の苦い教訓から、学園内闘争に対しても無理な急進的方針に執着していたのではないかと思います。街頭でも大学でも「改良と革命」の話はかつてのようには出ず、「革命的敗北主義」が主張されるようになりました。徹底的に非妥協に闘って敗北することによって次の勝利への展望をつくるとする考えです。私たちはそうした主張を大学の自分たちの活動の中では実践していないままでした。
私たちは、そういう意味では「社学同」といっても自分たち流のやり方で加わっていたので、仲間意識を大事にし、相互扶助・共同のスタイルで、働きながら学ぶ範囲で、街頭政治闘争に参加していました。党内を、だれが指導していて、どんな派閥があるかも興味はなく、明大学生会館を中心に出会う仲間たちと交流し、助け合っていたので、御茶ノ水周辺大学とは、ブント同士仲良しでした。明大・中大・医科歯科大、専修などの友人たちです。また、関西から東京に任務がえで常駐する全学連や反戦活動家のブントの人たちも、明大学館を根城にしていたので親しく、頼まれれば、現思研の仲間が助けました。後の反帝全学連の委員長の藤本敏夫さんや、学対の山下さん、村田さん、高原さんや佐野さんらです。「2・2協定」以降、明大闘争の過ちを他党派に対しては謝罪しつつ、ブント内では「斉藤糾弾」を求めて彼を探しまわったりはしていたけれど、ブント指導部自身の自己切開の痛みを伴うものではなかったのだろうと思います。その分、東京に乗り込んで活動を始めると、「関西方式」をそのまま持ち込んで、「関西派」的な人脈形成しつつ、自らを自己肯定したまま「革命的敗北主義路線」を主張していたように思います。私の知る関西派の人たちは「政治主義」というか文化、芸術、文学を語り合うことはありませんでした。
ブントは、全国の自治会数では中核派をしのいでいるのだということでした。中核派の断固非妥協路線と競うように「革命的敗北主義」路線が主張されていたように思います。解放派やML派ももちろんライバルではあったけれど、「反中核派」でブントと共闘していたように思います。現代帝国主義の規定、情勢分析、ベトナム連帯の位置づけなどー米帝国主義の侵略戦争か、スターリニズムと帝国主義の代理戦争かといったーあらゆる局面で論争し、他派批判を自らの立脚点とするといったやり方です。
当時の全学連中執のメンバーは、中核派11、社学同9、解放派5、第四インター2となっており、議決においては、中核派の方針に反対して拮抗したまま進んでいきます。その結果、「非妥協性」を競うような運動戦へと、全学連の活動が益々傾斜していったといえます。夏休みを経て、9月佐藤訪韓阻止闘争から、500名をこえる実力部隊を先頭に街頭行動を更に重視し、9・20佐藤東南アジア訪問実力阻止闘争を経て、10・8羽田闘争へと飛躍していくことになります。

(文章が長いので2つに分けています。後半もアップしていますので、ご覧ください)

後半に続く

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重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」145号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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<独居より  2018年11月13日〜2019年2月12日>
11月15日 今日は例年より十数日遅く初霜が下りたとラジオが伝えています。例年より暖かい小春日和が続いていて、今日の快晴は隙間の富士山もきれいです。もう作務衣木綿(パジャマ)の上にフリーズジャンパーを羽織ってもいいかな……と思いつつ、そのまま作務衣だけで屋上に出ると風があって寒い程でした。でもウォーキングしているうちに身体が熱くなります。
(中略)
11月19日 夜のニュースで、日産のカルロス・ゴーン会長逮捕。特捜部は国民的関心事の財務省改ざん問題に動かなかった割に、一民間人に周到に手ぐすね引いて羽田で逮捕には、大きな違和感です。ゴーンの強欲さを擁護する考えはないですが、「司法取引」は、益々日本の警察国家化・検察の「正義の独占」を確立したことを示しています。会社の一部と権力が共謀して、排除したい人物を司法取引で排除し、会社は安泰、というモデルがこれから増えそうです。「別件逮捕」の名人たちですから、やろうとしたら「司法取引」何でもありで、陰険な権力の恣意的民事介入が今後とも続きそうな日本。ゴーン会長の拘留がどうなるのか、日本の遅れた司法のシステムを世界に訴える良い機会かもしれません。日本は、否認すれば公判まで長期拘留されることなど、世界のスタンダードと大違いですから。
(中略)
11月21日 今日は八王子で毎年恒例だった国府弘子さんと早稲田桜子さんジャズライブコンサートがありました。いつも梅雨の季節だったので、こちらではイベントなしなのかと思っていましたが、昭島センターでの初ライブです。でも八王子の講堂ではわずか数メートルから十数メートルの距離で動き回って肌感覚で楽しめたのですが、昭島センターの講堂は少し大きめですが、2階がすごく高い位置にあり、そこから観賞するので、なんだかがっかりでした。ステージ台を使わず平場で演奏してくれているのですが、こちらはプラスチック板越しの高い位置からで。八王子の時と違います。でも、「枯葉」からビートルズナンバー、それに新しい曲もバイオリンとピアノの競演を楽しみました。オリジナル曲の「ノスタルジア」と「スターランド」が特に良かったです。1時間の演奏を楽しみました。
11月22日 今日の空は昨日の快晴から転じて暗く、降りそうな寒い日です。
今日はフリースのジャンパーを着て屋上に行こうと準備をしていたら、10時過ぎN和尚の法要面会で、フリースを脱いで面会室へ。多忙の中感謝!
一般の友人が面会不許可なので、できるだけ月一回法要面会に来て下さるとのこと。申し訳ないですが、ありがたいことです。今月には遠山さんの御遺族にも会われるとのこと。体調のこと、土曜会は12月1日ですが皆も元気にしていることなど話してくださって、いつもニコニコ、お坊さんの包容力を感じます。(昔は目の色変えて学園闘争中だったことも……!)
(中略)
11月25日 今日の新聞に「星野文昭さんを自由に」の新聞全面広告!すごい。紙面は不屈の力の結晶のよう。感激しました。一度「さわさわ」が表紙の絵を星野暁子さんから許可を得て、載せていたのを思い出します。一刻も早い釈放をと、心から連帯します。
(中略)
11月27日 今日は11月コーラスの日。「365日の紙飛行機♬」(編集室註:数年前のNHK朝ドラ「あさが来た」のテーマソング)というAKB48の歌と「古時計」「花は咲く」の3曲を思い切り歌いました。(中略)
今日珍しい蝉を発見しました! “晩秋にはぐれ一匹油蝉獄の六階仰向けに果てたり”不思議です。今頃。今年初めて蝉を見ました。回廊でそのまま冬中天を向いているのかと思ったら、夕方、片羽だけ残されていました鳥かねずみか何かが食べてしまったのか? これも不思議。7階の獄窓の外の回廊の三和土です。
(中略)
12月11日 今日は早めのクリスマス会。第1部(13:30〜14:10)と第2部(14:20〜14:40)です。第1部はカソリックの浅草教会の神父さんのお話で、神の愛を語っておられたようです。聞き取れませんでしたが、ちょうど官本の「新約聖書入門」を借りていたので、その内容を思い出しつつ聴いていました。それから「聖夜」合唱。第2部はカリタス聖歌隊の讃美歌などの斉唱・合唱です。聖歌隊の人たちの作った「君は愛されるために生まれた」や「いのち」の清々しい歌声に多くの若い人が泣いていました。後悔したり感じること多かったのでしょう。「オーホーリーナイト」「あめのみ使い」「ハレルヤ・クリスマス」、最後に「花は咲く」を歌ってくれました。劇場2階席から観賞といった場所です。クリスマス会に合わせて、夕食も早めのローストレッグとケーキ(ヤマザキの五つにカットしたロールケーキ)が出ました。まだ食べきれず、机の横にあります。
(中略)
12月17日 資料の中に、初めて「監獄人権センタ―」の「ニュースレター」を見ることができました。(長く獄中に居たのに読んだことがありませんでした。)そのNo93(2018 1/10)のニュースレターに海渡弁護士の「東日本矯正医療センター内覧会報告」が記されています。「はじめに」で、地理的条件や収容施設の概況に触れ、「施設の概要と収容規模」更に「居室と所内の環境と眺望」「医療内容の改善と医療の独立性の向上」について記されているものです。当所に収容されている一人として、この海渡弁護士の内容に対応して記しておくべきと思う点を記しておきます。
私は2010年9月29日、東京拘置所から八王子医療刑務所に移監されました。(2008年12月、大腸癌発見で2009年2月、大阪医療刑まで手術のために移監され、手術後戻り、その後東拘で抗癌剤治療を続け、2010年8月に最高裁で刑が確定)八王子では、抗癌剤治療・開腹手術(子宮癌)PET検査(外の病院でのPET検査)開腹手術(小腸癌・大腸癌)3回を経て、2012年7月腫瘍マーカーが初めて正常化しています。そして、2018年、東日本矯正医療センターの開設に伴い、2018年1月14日に入所しました。その後大腸癌で2016年再び開腹手術をしています。私の居房は、海渡弁護士が内覧会で見た「ルーバー付きの窓」ではありません。(幅130cmの窓で、5cm程開けられる。)設備について言えば、八王子でもCTやMRI、透析装置もありました。でも、建物の老朽化で、患者も医師・スタッフもシモヤケ状態のとても寒いものでした。
新しい施設は、CT、MRI、透析装置は更新されて最新のものとなり、一度にこれまでの何倍かの患者に対応できるようになっています。眼科も器材が一新され、これまで外部でしかできなかった視野検査(緑内障チェック)の機材も導入、各科の機材・スペースは最新の市民病院並みか、それ以上と思えます。すべて電子カルテとなり、患者のプラスティックブレスレッドのデータ記録を読み取って管理しています。ただ、放射線関連施設はないようで、PET検査はできません。受刑者(患者)は、施設について情報提供されませんので、経験や推察、資料学習などで知るのみです。そのため、居房・運動・診察以外の外の園芸のことは(梅の苗木のこととか)、海渡先生の報告で知りました。患者の建物内の環境は驚くほど快適に改善されています(八王子の自然の中で、走ったり運動する喜びを失ったのは大きな損失ですが)。
第一に空調によって、厳寒の凍傷から逃れられ、また、蚊やダニなど夏の酷暑もなく、その点では天国のような気分を味わっています。第二に、市民病院並みの病室の設備(寝具類、これまで10㎏もある古い布団から、軽い人工羽布団へ)週一回の布団カバーやシーツの交換。病房は大きく、幅2.3m、奥行3.6mくらいでベッドごと扉を通ることができます。(ベッドも最新のもの)私物管理のロッカーは幅28cm、高さ85cm、奥行45cmの細長い事務用ロッカーで、中には仕切はありません。その他に小さな棚があり、日用品や広辞苑を置いています。椅子はなく、よく病院にある一本足のテーブルで、ベッドに座って書きものをしています。(患者がベッドで食事をするテーブルです。)第三に清潔な浴場(個人用と4人用。4人用は広い湯舟に熱い湯が満々。八王子はぬるく、寒くて湯舟に入れなかった)。第四に、運動は7Fの半屋上の一部スペースを使っています。8mx5mくらいか。自然芝で、そこにノゲシ、カタバミなどもまぎれて、可憐な花を夏には楽しみました。第五は食事です。社員食堂かファミレス並みに盛付も工夫し、PFI方式のため、食器から(ふた付きのきれいなもの。八王子のプラスチックと違って)食欲をそそります。メニューは35日(5週)毎に繰り返すようですが、それも材料のせいか、時々変わります。味もまあ、社員食堂かファミレス並みです。第六に、処遇は八王子と基本的に変わりません(日課・規則・罰則・指導・検閲など)。検閲(手紙などや書籍)は、八王子より厳しく、自著も70年代・80年代のものは不許可。年賀状も「〇〇さんによろしく」も不可でした。ただ規模が大きくなり、女区は6Fですが、フロアーを管理する女性の制服の人以外は、用事がない限り男性の制服の方々に会う機会はなく、病院の病棟そのものです。
海渡先生は患者(受刑者)が自然に接する機会が失われないよう配慮されているのを感じた、と記されていますが、患者から見ると、屋上の運動場も病房も、居房の外の回廊は斜めの50㎝幅のプラスチック板の柱で、外がみえないようになっていて、光は入りますが、ちょっとした隙間10㎝くらいから外が見える程度です。八王子から来た分、やはり庭も見えないし、地面を歩けず、見えず、は辛いです。今は南向きの舎房にいて、隙間から昭和記念公園西端の紅葉が、プラスチック柱の間の10㎝くらいから見え、太陽も仰げるのがとっても嬉しいです。第七に医療ですが、フロアー入口付近に診察室と看護師のスタッフルームがあり、主治医や担当医が主張して来て、診察を行います。パソコンモニターが常備され電子カルテに入力しつつ、検査結果をモニター画面に呼び出し、立体画像やグラフ化したデータなどで、説明してくれます。
八王子時代から主治医は変わりません。医師はとても丁寧で信頼しています。他の医師・看護師も皆、辛抱強い方たちと見うけられます。どの患者にも積極的に患者を治療しようと意欲的ですし、概ね患者たちは満足しています。もちろん私もそうです。制服の方々も、規律は厳しいですが、みな丁寧で親切です。他の刑務所にある非人間的な扱い(泉水さんの懲罰のような)は、見たり経験したことはありません。アジア・世界に対する日本のモデルとして、このセンターを重視していくのでしょうが、この水準において、日本全国の刑務所や医療施設が改善されるよう願ってやみません。尚、このセンターの「刑事施設視察委員会」は、まだできていないのか、何も連絡はありません。海渡先生の要望事項にあるように、豊かな自然あふれる環境が、年と共に整備され、それが患者にも味わえるようになることを望んでいます。(八王子では男女運動会もありましたが、昭島では患者は見学もできませんでした。)以上、海渡先生の報告を読んで、患者側からの報告です。
(中略)
12月22日 冬至。大好きな日。これから希望が育つように陽が長くなるからです。夜7時遠くでピストルのような連続音。真暗な空に次々ときれいな花火が上がっています。7時から5分位?12月8日にもあったけど何だろう。方角は府中や多摩の方。競馬場か百草園、高幡不動の催しか……。何か嬉しい贈り物、受け取りました。
(中略)
12月26日 (中略)
今日は12月の花、真紅のアネモネ(ベカーのアネモネを思い出す花!)純白のアネモネ、パープルのアネモネの3本とキリンソウの蕾の枝が届きました。正月まで花は持ちそうで嬉しいです。今年も皆の支えの中、対話を描きつつ日記を記して来ました。年を越えるごとに、友達がいること、そのありがたみをしみじみと実感しています。こんな環境にある私に、へこたれずいつも励ましてくれるみんなに有難うを伝えます。来年もよろしくお願いします。どうか良いお年を!健康でいて下さい。私も再会の希望を力に、また頑張ります。ありがとう。房子
(中略)
12月31日 今年の最後の日、Mさんの手紙に「今年の年越しは『平成』という年の最後の年越し。最近つくづく思うのが、時間の経過が早すぎるということ。昭和・平成、あっという間に新しい世の中が5月から始まりますが……、期待半分不安半分です。でも、いつでも前を向いて、自分らしく正々堂々と嘘のない生き方をしていきたいなと思っています」と彼女らしい、まっすぐなひたむきさが込められていて、私も刺激を受けています。
日本は、新しい天皇、オリンピックと宣伝されていくうちに、どんどん政権の思い通りのやり口が実行されています。改憲阻止はなんとしてでも! と思う新しい年です。
中東では、米軍のシリアからの撤退の流れに呼応して、これまで湯水のように武器と金でシリア・アサド政権打倒を主導してきたサウジとUAEが、アサド政権と関係を復活させて、反イラン包囲を狙っています。父親のハフェズ・アサドは、反帝反植民地主義者で、イラン革命後、一貫してイランを支持してきました。イラン・イラク戦争時を含めて、世俗主義ながら「アラブ対ペルシャ」や「スンニ―対シーア」に与せずに、イスラエルに対する態度をメルクマールとして、イランと同盟を維持してきました。その路線は息子も踏襲しています。また、クルドの人民防衛隊は、対トルコ戦に備えて、アサド政権と組み、マンビジュをアサド政権に引き渡し、新しい動きはアサド政権に有利な流れをつくっています。もともとアサド政権は、ずっとシリア内クルドを支援し、クルディスタン労働者党(PKK)も支援してきたのですが「反テロ」攻撃の中で、カルロスやPKKのオジャランらも国外にでてくれ、と要請した経緯があります。その結果、オジャランも逮捕されましたが、「自治」で折合いをつけられないわけではないでしょう。2019年、中東もまた、トランプに、ネタニヤフに、金満サルマーンに抗して、国も人民も闘いを続けるでしょう。サルマーンらがアサド政権をアラブ連盟の資格から追放し、これまでアラブ連盟の中で調整してきた「アラブイニシアチブ」を宗派的なものに変えた結果、非アラブ主体のロシア、イラン、トルコのイニシアチブが登場しました。サルマーンらは収拾がつかなくなって、再びアラブ連盟にアサド政権を招き入れ、「反イランアラブイニシアチブ」を復活させようと目論んでいるように見えます。アサド政権も強権で、自国民に行った蛮行は非難されるべきですが、サウジ等の、常識では考えられない武器の流入が、内戦化を招き、非和解的に広げ、住民の難民化の元凶をなしたのは事実です。そしてアサド政権の世俗主義は、自国民反対派を弾圧しつつ、少数民族や左派の砦として今もあるのが現実です。
大晦日、世界を見渡し、日本を直視し、狭い房ながら新しい年の流れを想像すると、胸躍ります。そしてまた、親しい友人たち、家族、遠くにいる友らがどんな年の瀬を迎えているだろうか…と、顔を思い浮かべて語りかける一年の区切りです。みんな、ありがとう。

2019年1月元旦 新年のご挨拶を申し上げます。今年は「初日の出」をちゃんと眩しく見ました。良いことがありますように! ひとつでも人々にとって良い政治を! と願わずにはいられません。
昨夜は夕食時、小さなお椀に年越しそばがほんの少し。それから祝日用菓子3点(ポテトチップス60g、トーハンキャラメルコーン80g、ヤマザキクッキー9枚入り)配給。夜は紅白と年越しで0時15分まで放送延長です。どの歌も耳に残らず、読書と就寝合図の減灯、ベッド入りの9時以降はウトウト。0時に窓辺でインターナショナルを。
朝は気持ちの良い元旦です。例年は、朝にお節料理が箱入りで届くのですが、ここは日常的にきちんと料理メニューが施されているせいか、それとも手違いか、昼食後に「明日回収」という、これまでにない簡素なパック入りの「お節料理もどき」の、プラスチックパックに、野菜煮、黒豆、ソーセージ、膾などの入ったものが配られました。えっ? というものでしたが、食事は良いので満足です。朝は珍しく、数の子。それに鶏肉スープ、3が日は麦なしの白飯です。昼はブリ、夕食はチーズ入りハンバーグ、サラダ、スープ、抹茶水ようかんの小さなパックです。みんなからの年賀状、ありがとうございます。嬉しいものです。

1月2日 初夢、楽しくて目覚めたのに思い出せない! と、まだ明けない暗闇の窓辺で、南の燃えるような赤が、群青色の空と溶けあって何ときれい。そして、群青色の明けの明星の隣に新月近い月が煌き、まるで砂漠の月のよう! トルコやアルジェリア国旗を思わせる☾☆形です。良いことのある新年を! と祈りました。“格子越し暁闇に煌めく明星に新月迎える月が寄り添う”
(中略)
1月14日 送って頂いた福島泰樹歌集「うたで描くエポック大正行進曲」を読んでいるところです。激しい追憶と哀切の歌の数々に何かを突き付けられて己を思わず問うような思いに駆られつつ読んでいます。序の「大逆の歌」から白秋を歌う「鶏頭の歌」、野枝や大杉、辻潤らを歌った「万物流転の歌」、和田久太郎や大杉の友情の友らを詠んだ「白屋襤褸の歌」や「パナマ帽の歌」など、著者は「思えばこの二年数カ月を私は大正という圧政の冬の時代を激しく抗い、活き活きとして闊歩する先駆的庶民、画人、文人、芸人、アナキスト、男や女たちに歌を作るという行為をもって向き合ってきた。一首をなすことによって、おのれの生を倍加するほどのエネルギーを得た瞬間もあった」と「跋」に記しているように、熱量が溢れた歌の数々で、それを一首ずつ好きな歌をもぎとると、その通史の意味を失うのではないか……と思わせる歌の数々です。
著者はこの人々と歌で向き合う中で「歴史とはそれを意識する人々の中に常に現在形として在り続ける。それが一人称詩形にこだわり、歌を作り続けてきた私の実感である。」「存在と時間が織りなす魂のリアリズム」がためらいなく現在形で書くことを可能としたとも述べています。歌は現在を鋭く直視し、比較し、不甲斐無さに憤慨し、批判しているのは間違いありません。その分突き刺さるのです。そのまま読まないと一首一首の関係性や情熱、憤りが伝わらないのですが、いくつか好きな歌を記します。とくに管野スガの歌がいいです。
管野スガ二十九歳中庭に白い蕾がただ顫(ふる)えてた
天に向き淡くひらきていたりしが風に縊られ散ってゆきにき
踏まなければならない階梯ならばよし獄窓に雰れこよ朝のひかりよ
淫売ニモ紡績女工ニモナラナイデスンダ、寝棺ヲ希ムト調書ハ誌セリ
著者が幸徳秋水を詠んだのもあります。秋水が明治43年11月獄で脱稿した「基督抹殺論」に対して“「さようなら」の一語にこめた憶い出の千万無量の感慨なるを”他に人物と向きあいつつ読んだ他の歌を切り取って並べることになりますが、例えば“響海抜蕕弔あげて立っていた赤旗風に震えている午後”(これは渡辺政太郎の葬儀に和田久太郎が赤旗先頭に革命歌を歌いながら進んで行く様が想起されます。)“大川は哭いているのか一切を呑み込み夕陽の中に没せり”
“みちばたの柘榴の皮はこの俺を嘲笑うための真赤な舌か”
“顔腫らし立っているのは新兵か一銭五厘のそよ吹く風か”
“この俺は誰かと問えば泣きはらした目のように散る白い花びら”など、哀切な抒情に響く歌もいくつもあります。時代は常に現在形で甦ることを実感しつつ、何故か私はそこに「連赤」の友が連らなって浮かびます。

1月17日 今日午後、再びまた、検閲の指導。Yさん宛てに、Y先生に哀悼の意を伝えてほしい、という一行で「〜伝言してください」とか「伝えてください」は不許可で書き直し。八王子では、一、二行の短い伝言は許されたのですが、ここでは一行でもダメだ、とのことで書き直しをして「伝言してください」の言葉は消しました。今後は、一行でも、伝えてくださいとか伝言という言葉は使えません。刑務官は書き直すよう指導しているが、今後はそれもなしに、抹消や禁止もありうると通告。不適当な部分の抹消で、黒く太く消されるのですが、それを避けるために書き直させるわけです。勿論、規格外なら「抹消」はあると思いますが、「禁止」とは……。脅され権力を誇示されたようでびっくり。「禁止ですか?! どういう場合に禁止ですか?」と尋ねると、「例えば、このYという人物が犯罪行為があれば禁止しますよ」と言うので、あまりに無関係な返答に「それは飛躍ですよ。犯罪と今の書き直しの禁止と話が違うでしょう? 書き直しの抹消はよくわかります。でも、そちらの言った禁止は脅しではないでしょうか。私には、そう聞こえました」と言いました。脅しではない。自分は国民の支持を受けて、こうして矯正を行っているので、民主主義云々と、話が大きくなりました。それは国民の「支持」ではなく、「付託」と言うべきでは?と言いたくなったのですが、失礼かと。こういう時、女区担当責任者が同席しますが、この刑務官は女区の立ち合いを入れません。一人同行してドアを閉めてしまうのです。これまでにない新しい経験をしています。
(中略)
1月21日 週が明けて午前中、運動から戻ったところで入浴なのですが、その前に「引越し」を通知されてしまいました! 今まで南向きで、存分に陽が房に届いていたのです。そして今日は満月を捜そうと思っていたところでした。まだ新年から月を見つけていないので、今日こそ!と。作業していると、時間を忘れて集中してしまい、昨日も逃しました。1月21日、今日の月の出は17時1分。18時〜20時の間に捜そうと思っていたのです。月齢は15.1、満月です。北側は入ったとたん、寒い! 窓はこちら開いていたせいでしたが、でも、閉めても2度くらい違うとみんなが言う通り。しかも、プラスチック塀で、何も見えない……。前の南の房なら、西端の昭和記念公園の桜が見えるはずなのですが、3か月は 引越しなしで、この北側です。
(中略)
1月24日 今日はN和尚の新春祈祷会です。寒い中感謝します。
“風邪召した僧侶の友はマスクのまま新春祈祷会法華経朗誦”と面会室で一首雫れました。ここでは3月まで面会者はマスク着用がルールですが、N和尚は風邪を引いたとのことでしたが、朗々と通る声で読経して下さいました。30分の面会のうち半分くらいは読経などで学習し、その後話が少しできます。私の方からは面会が毎月許可されないことも有りうると告げられた点を伝えました。「そうですか、その時はその時で」と和尚は泰然としています。Tさんの便りでも「僕たちの気持ちを代弁してぶつけられるのはNの存在ですから、僕たちも彼の行動を全面的にバックアップしたいものです。」と面会法要にエールを送ってくれています。
3月には遠山さんの命日(発見された日を命日として3月13日)に近い12日に御遺族とクラケンら現思研の仲間たちと法要が執り行われるとのこと。時間がかかりましたが昨年高原さんら遺族とN和尚の面談が叶い、以降親しい交流が育っていること嬉しい限りです。私も遠山さんを歌に詠んで「三月哀歌」を送りました。
(中略)
1月28日 「宝島」はとても読ませる小説でした。沖縄の庶民の「アメリカー」に対する憎悪の情念、そこでどんな支配下に置かれているか、1972年沖縄返還になっても基地・米の支配の変わらなさを知る庶民の感情が巧みに描かれています。物語は「戦果アギヤー」という米軍基地から略奪して貧しい人々に配る義賊的集団の活動などに至る人々の話です。戦争中どんな目にあい、10歳〜13歳で敗戦下に生きてきたか。その4人の主人公たちの活動が、成長に合わせて沖縄返還の72年までを歴史の節目の反米闘争や米兵の犯罪を縦軸にして物語が展開されていくのですが、ミステリーとエンタメでありながら沖縄が被り続けている現実がしっかり描かれていて、面白くてテンポの良い小説です。
(中略)
2月5日 春節。今日は曇りつつ晴れの旧正月です。(中略)
人民新聞の1月25日号を受け取りました。12月下旬に送った私の一文「2019年中東の緊張と混迷の脱却を願って」が載っています。長かった分、編集してスペースに収めてくれました。ちょっと言葉足らずもありますが、よくまとめて下さってありがとう。今後は短くします。深謝!明日は「人民新聞ガサ入れ国賠訴訟」ですね。連帯しています。
(終)

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この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969−70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年代前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第5号に掲載された都立竹早高校闘争である。都立竹早高校のホームページを見ると、文京区・小石川にある歴史のある高校で、明治33年「東京府立第二高等女学校」として創立、今の名称になったのは昭和25年とのことである。今回の記事に登場する「生徒権宣言」についても「竹早高校の歴史」の中で『昭和44年6月「生徒権宣言」出される。(いわゆる高校紛争の時期)」』と記載されている。
また。「日本マラソン界の発展に大きく寄与し、NHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』の主人公にも描かれた金栗四三先生は、大正10年から昭和4年まで、府立第二高等女学校(現在の竹早高校)で地理歴史の先生をしていました。」とのこである。

イメージ 1


【高校生のひろば 週刊アンポNo5  1970.1.12発行】
学校の“正常化”とは何か
都立竹早高校 三年S生

竹早闘争、その発端は教師の不正事件であった。竹早の特殊事情という中で、不正は行われた。教師は、竹早の閉鎖的、排他的な租界としての特殊性の中で、ぬくぬくと日常性に浸りこんだ没主体的な生活を続けた。その中から悪に対する不感症が生まれた。
しかし、没主体的な彼らの生活態度から生まれたものは、単に汚職だけではなかった。彼らは非教育的な現教育体制=受験体制を肯定した。彼らが管理者的立場=非教育的立場をとって、われわれから自由を奪い、受験を押し付けることによって、彼らは体制を維持し、自己の日常性を守ろうとしたのだ。
<不正事件の背景>
 4月10日の毎日新聞をかわきりに、新聞、ラジオ、テレビによって竹早の不正事件が報道された。そしてわれわれ生徒は、このとき初めて教師の汚職を知らされたのである。現校長は着任以来、秘かに“改革”に着手し、彼の言葉によれば“正常化”を行ってきた。生徒には何ひとつ知らせずに、事件が明るみに出てから次つぎに生徒に配られたレポートによれば、補修費などの収支決算内容の公開などの“成果”をあげていたというわけである。そして彼は事件の“首謀者”であり、彼の正常化に反抗した某学生主任を他校に転任させることによって改革の終了としようとしていたのである。幸いにも、学生主任が転校を拒み、リベートをとったのは自分だけでなく、またそれは長年の慣行であることなどを内外に主張したため、事件が公になった。もし、校長の意図どおり事が穏便にはこび、表面化に至らなかったら、被害者であるわれわれはつんぼさじきにおかれたまま卒業していたにちがいない。校長のこのような“改革”に対する態度はいったい何を示しているのか。校長は今回の事件をあくまでも竹早の特殊事情だとしている。その特殊事情とは、都立高校として、独自の校地、校舎を持つことができず、学芸大附属中学との同居の中で、極端に教育活動が圧迫されている。進学熱が高まり、そのための補習費などを学年で運営してしていくうちに学年を中心とした強固な校務運営体制ができあがった。その中で学年主任がすべてにわたっての大きな権力を握り、校長さえ口出しができなかった。たしかにこのような特殊事情が汚職を生み出す巣となった。しかし、竹早の問題は金銭上の不正だけではない。入学して以来、われわれが受けてきた教育そのものが問題とされるべきではないか。受験教育ただそれだけであった。そして、それがすべてをゆがめていったのではないか。教師に盲目的に服従するだけの生徒、そしてすべてに対して無関心、無批判の逃避者としての生徒を生み出していった。それを単に教師の頭のすげかえ、校務運営体制の改革によってーしかも生徒不在のままー乗り切ろうとした校長の管理者態度は批判されねばならない。
<5月の10日間>
 竹早の教師のほぼ全員にあたる34人が教育庁の処分をうけた(免職1人、諭旨退職1人、減給2人を含む)。われわれの教師に対する不信感がどうしようもない形で存在し、われわれは授業を拒否する以外に他はなかった。討論会が19日間にわたっておこなわれた。
 それは、われわれの今までの積り積もった不満の爆発であった。そこには受験を頂点とした価値体系ができあがり、自由を、権利を捨て、われわれは受け入れた。教師は生徒の服従を得て、学校運営、授業、特別活動に絶対的な権力をふるった。1年から行われた補習、息つく暇もなくテストが続いた。テストの成績、これがわれわれの全てを決定した。ゆがんだ優越感と劣等感。これを助長させ逆に利用しようとする教師、そこから生まれる生徒と教師の間の、そして生徒どうしの間の醜い人間関係、次第にわれわれは出口のない袋小路に追い込まれていった。
 やり場のない苛立ちの中から、はけ口が見つかり、一挙に吐き出された。緊張と興奮に包まれた討論会であった。しかし、われわれの教師に対する不満、学校に対する不満はやがて社会に対してぶつけられねばならなかった。そして竹早の改革=社会の改革といった図式ができあがったが、それはあまりにも直感的であった。そして、その理論的根拠に欠けていて、行動の具体的方向性が見失われがちであった。改革は空振りするばかりで、授業をしていないというあせりから授業再開が決議され、以前となんら変わることのない授業は始まった。
 ここの段階ではまだ既成の価値基準から完全に抜けきれず、真の教師を求めて高校教育そのものを根底から考え直すといった態度は見られなかった。
<生徒権宣言>
 10日間の討論が成果らしい成果を残さなかった中で、具体的な形として表されたものに、生徒権宣言がある。
 その中でわれわれは、まず第一に教師の従来の権威を否定した。そして生徒は一個の人間として認められることを確認し、われわれの持つ権利を明確化した。すなわち、自由の権利、学校運営参加の権利、そして一切の思想、表現の自由であり、言論、出版、掲示の自由は保障され、サークルも自由とされる。
 われわれは、このようなことが二度とおこらないように、教師一人ひとりから確認書(自己批判と改革の意志表示をしたもの)をとり、竹早の歴史として永久に残すことを決めたが、校長の拒否にあい、ただ今後の教育の方針を示したプリントが配られただけであった。
<全学スト突入>
 5月の討論が終わり、改革がいっこうに進展しない中で、われわれは授業という日常性の中に埋没していった。そして5ケ月。11月決戦が近づき、青山高校は封鎖をもって闘い、しだいに緊張が高まっていった。その中でわれわれは、新たな決意をもって再び立ちあがった。
 きっかけは生徒権宣言の承認問題。学校当局は生徒権宣言に対する見解の中で、われわれの宣言を「全般的には妥当なこと」とし「生徒の切なる願いの言葉として受けとりたい」といいながらも、明確な形での承認はなされていなかった。
 この点を追求するために総会が開かれ、10月4日、ストライキの提案がなされた。要求項目として、1.生徒権宣言の全面承認。2.処分権の撤廃。3.試験制度の廃止。4.スト件の承認があげられた。そして1週間がたった。その間、生徒権宣言は承認された。処分権についても撤廃は拒否されたが、修正案が認められ、不当と思われる処分については生徒側の合意に基づかなければならないとされた。
しかし、10月22日、われわれは全学ストに突入したのだ。要求すべき項目もなく全学ストに入った。その時からストライキの性格が変化していった。それは、要求を掲げて、ある程度受けいれられた時にスト解除するといった要求獲得の総評的なストライキではなかった。日常性の打撃であり、自由な活動の場の確保であった。
ストライキを自主的な活動の場とする必要があった。そして3年ABクラスにストライキ実行委員会がつくられた。
数クラスで自主講座が始まり、討論会では試験制度や授業について話された。しかし、その自主講座とはいったい何を目的としたものなのか、その意味は、今までの授業とどこが違うのか、そこの追求がなされていなかった。そして末梢的なことを議題にした討論が、いったいなんの意味を持つのか。
具体的な問題を討論する前にまず、教育というものを本質からとらえ直していかねばならない。そして、そのために現状分析が必要であった。生徒権宣言を実践していく意味で、最首悟氏の講演をABスト実行委員会の主催で行ったが、教師は講堂前にピケをはり、実力阻止をはかった。ここに教師の管理者的態度がはっきり露呈したのだった。われわれは管理者としての教師を断固追及し、そのかずかずの恫喝の中、闘いを続けていかねばならない。
そしてその闘いとは、結局われわれ自身の存在を確かめる闘いであろう。5月以来の闘いを通してわれわれは、以前あれほど強固であると思われた高校のすべて、毎日毎日惰性的にくりかえされた授業、そして教師の強大な権威、その他いっさいのものが、静かに、しかし根底から崩れつつあることを感じた。そして、そういった価値体系の崩壊の中で、教育とは何か、学問とは、そして学校とはと問いかけるうち、それではなぜ自分は高校に来ているのかという疑問が生じた。すなわち、自己存在の基盤が問われているのであった。結局、闘いの中で自分自身の存在を確かめていく他はなかった。いや、そのための闘いだった。そしてこれからも。
(終)

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