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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。

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今年の1月3日、前・情況出版代表大下敦史氏が逝去された。享年71歳。
大下氏を偲んで、6月17日(日)東京・神田の「学士会館」で「大下敦史ゆかりの集い、追悼!記念講演会」が開催された。今回のブログはその集いの概要を掲載する。

【当日の呼びかけ文】
大下敦史ゆかりの集い、追悼!記念講演会/懇親会(2018年6月17日)
前・情況出版代表の大下敦史が逝ってから6か月が経ちました。
彼は「情況」誌を引き継いでから約20年、厳しい活字離れ、出版業界の中で、また、論壇の急速な右傾化の中で、いわば孤高を保って「情況」を守り出版を続けてきました。
新自由主義が跋扈し,思潮においても、現実の運動においても、「情況」が出発した“68年”当時と様変わりし、“体制変革”志向の衰退するなかで,松明を掲げ、知識人、運動家の輪をつないできました。
そして、リーマンショックと2011年以降の世界同時の新たな運動の波の中で、「情況」を通してそれを解析し、また運動の輪を広げるチャレンジをしてきました。その途上の死でした。残念であっただろうと思います。
そのような大下敦史を偲び、生前ゆかりのあった山本義隆氏、白井聡氏の協力を得て両氏の講演を交えた追悼会/懇親会を2018年6月17日に開催いたします。ハワイ留学中の愛娘、朝子さんが帰国しているこの時に開催することをご理解頂き、ご多忙かと思いますが皆様方のご参加をお願いします。
(呼び掛け人代表  新開純也)
共同発起人  大谷行雄(義弟) 大下朝子(長女)
呼び掛け人  山本義隆 白井 聡 新開純也 米田隆介 表 三郎 末井幸作 山中幸男

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【式次第】
第一部 講演会 
 司会挨拶  辻 惠/福井伸一
発起人 開会挨拶と謝辞  大谷行雄
呼び掛け人 挨拶  米田隆介
重信房子メッセージ代読  山中幸男
追悼メッセージの紹介  福井伸一
記念講演    白井 聡
記念講演    山本義隆
呼び掛け人 挨拶  新開純也
発起人の閉会挨拶と謝辞  大下朝子

第一部

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辻 恵(司会)(弁護士:10・8山博昭プロジェクト)
「大下さんは昨年8月の10・8山博昭プロジェクトのベトナム・ツアーに参加されました。そういう縁もあり、今日司会をさせていただくことになりました。最後の頃、新しい政党を作らなければいけない、政党、政党と、どういうイメージで仰っているのかと思って、もう一歩深い話ができないままにお別れになってしまいました。大下さんが『情況』誌を拠点に、日本の50年代60年代以降の様々な闘いを、しっかりと次につなげるための孤塁を守ってきていただいたということを、私たちはきちんと胸に刻んで、(今日の集いが)これからも頑張っていくという誓いの場でもあればいいと思います。
最初に、発起人を代表して大谷行雄から皆さま方にご挨拶させていただきます。」

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大谷行雄(発起人)
「大下の義理の弟の大谷行雄でございます。よろしくお願いします。
本日はご多忙な中、亡き大下敦史の追悼記念講演会にお越しいただきまして心より感謝いたします。先月末に大下の長女、朝子が出生地に出向き、菩提寺に無事納骨を済ませました。
会の呼びかけ人、世話人、その他協力をいただいた方々に深くお礼を申し上げます。中でも特にお礼を申し上げたいのは、山本義隆さんです。いうまでもなく、山本さんは全共闘のリーダーとして、そして大下はブントの指導部の一人として、同じ時代を闘ってきたわけですけれど、聞くところによれば、あまり2人の接点はなかったということです。ただし、昨年の山本さんがリーダーとなって推し進めてきた10・8山博昭プロジェクトのベトナムの展示会に、大下が参加したことによって、同志的きずなというか、大下の意気に感じていただいたのか、山本義隆さんがお話をしていただくことになり、大下も非常に喜んでいるのではないかと思います。
この会に向けて、大下とゆかりのあるいろいろな人に声をかけました。鳩山由紀夫元首相が呼びかけ人の参加に賛意を示してくれました。『海外にいるためにここに参加することはできない、残念である』というメッセージをいただいています。また、60年安保闘争を代表する蔵田計成さん、篠原浩一郎さんもここに来ていただいています。それと、私を含めて、元高校生活動家であった諸君にも来ていただいています。また、大下の高校の同級生も3名来ると伺っています。これが大下の人徳であって、人脈の広さでもあると、私なりに確信しています。
ご臨席の皆様、本日は感謝いたします。どうもありがとうございました。
最後に、今回の純益は、残された一人娘、二十歳の大下朝子のカンパに当てたいと思いますので、皆様のご理解と異議なしの言葉をいただきたいと思います。」
(会場から「異議なし!」の声と拍手)

<ビデオ上映「10・8山博昭プロジェクト・ベトナムツアー」の記録映像を編集したもの>
【大下さんの発言】

〇ベトナムツアーについて
「歩ける状態じゃなかった。あと4ケ月で何だかんだといわれていたから。4ケ月間寝てたんだけど、4、5、6、7月まで目いっぱい寝てたんだけど、7月の途中からね、8月のこれ予定していたから、俺絶対来るって言ってたから、7月の中頃から歩く練習を始めたんだよ。今まではスーパー行ったり駅に行ったりという程度だったんだけど、そんな短い10分程度の距離じゃなくて、何しろ1日数時間歩くというので、足腰鍛えたんだよ。今回、普通に動いても何とか足引っ張ってないでしょ。一応、これだけは人生の区切りだと思って僕は来ているからね。
ベトナムというのは1975年から45年以上経っているでしょ。それが今どんな現状なのかって見たかったのよ。これが大きいよね。一番驚いたのはオーバートバイの数。あれ暇な連中でしょ、はっきり言って。オートバイに乗っている連中は。あれが今後どう変わっていくのかね。本当はハノイに行きたかった。
ここに来てベトナムの人の意見聞いてみて、あっ、そんなにすごかったんだと初めて知るようなことの方が多かったね、今回は。それは驚きでしたよ。我々、日本でアメリカのベトナムのはよくないと、その前、フランスのことは俺なんか世代的に知らないんだよ。50年代の初期でしょ。17世紀くらいからもう反フランス闘争ずっとやってて、穴掘って潜ったところ何だったっけ、あれを17世紀くらいからずっとやってたと思うんだよね。だからベトナム人というのは、ほとんど反植民地闘争を伝統的にやってきた集団だから、これはすごいと思ったね。ベトナムみたいなちっちゃい国で、アメリカなんかに勝てるなんてなかなか思ってもいなかったからさ、我々はね。」

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〇これが記録に残った大下さんの最後の言葉となった(インタビュー)
「1968年の闘争について
10・8で68年革命が起きたんだよ。日本的な意味のね、大衆運動が起きた。それまでは党派による、60年安保だったら共産党と安保ブント、党派が大衆運動を作る、社会党も含めてね。ところが10・8の三派全学連がやりだして、学生たちが党派と関係なく動き出したんだよ。反戦青年委員会みたいなものも登場したしね。党派があるんだけど、党派主導だと人数なんか少ないじゃないですか。それが膨大に広がったというのは全学連運動の成果だよね、あれは。
Q 10・8が大衆運動の出発点だった?
左翼勢力というのが、まだ60年代は強い時代だった。同時に三派全学連みたいな形の大衆運動が起きて、そのあと、内ゲバなんかでよくいわれないけれども、でも、あの大衆運動は純粋にうまくいったんだよ。そうすると、今度はそれを中心にした新しい学生の人たちの動きが膨大に全国的に広がって、これは全国全共闘になっていったわけ。山本さんなんかがヘゲモニーを持ってやっていって・・・
Q なぜそのタイミングだったのか?
これがね、俺なんか当事者として集団の中にいたけれども、あれよあれよという間に周りが変わっていくんだよ。自分たちがやったという思いもあるんだけど、それを越えてね、自分たちの意志と関係なく大衆運動が広がっちゃった。ベ平連とか市民運動、佐世保闘争なんかすごい全国運動だったからね。68年の1月。10・8は67年の10月8日でしょ。だから数ケ月後。だから山君だってまだ1年生だからね、あの当時。中核派だなんだかんだって関係ないからそういうことは。全学連のメンバーが亡くなったということで皆一斉に動いたわけだから。現地闘争で体を張ってぶつかってやったという、これが大きかったね。しかも全学連運動だから、あまり党派運動色がないんですよ。学生たちがその闘いをやっていると。だから60年安保みたいなところがちょっとあるんだよね。だからあれが党派だけでやっていたら、あの影響は生まれなかったと思うよ。」
<ビデオ上映終了>

辻 恵(司会)
「昨年の8月20日(ベトナム・ホーチミン市戦争証跡博物館での展示会の)開会のセレモニーがありました。19日に関東から25名、関西から25名、それぞれ訪越団を組んで、現地で50人、現地に直接集まられた方を含めて60名で8月20日のセレモニーに参加して、2ケ月の予定で山プロジェクトと、ホーチミン市の戦争証跡博物館の共催で、『日本のベトナム反戦闘争とその時代展』というのを開催しました。年間70万人の参観者がいるということですけれども、2ケ月間の予定が1ケ月延長になって、11月15日まで延長して欲しいと博物館からいわれて、結局、3ケ月弱の間に23万人が、この日本のベトナム反戦闘争の展示会をご覧いただいた。そのうちの20万人は海外からの、主に欧米からの参観者であったといわれています。この展示会は、日本でも一昨年、東京の根津と、京都の京都精華大学で展示会をやりましたけれども、今年の8月、同じくベトナムのメコンデルタ地域最大の都市カントーというところで展示会をやろうという話が進んでいます。それから、今年、(10・8羽田闘争の)51年目の集会を10月7日(日)に四谷の主婦会館で開きますけれども、アメリカ・カリフォルニア大学の准教授であるウイリアム・マロッティーさんが、『アメリカから見た日本のベトナム反戦闘争』というテーマで講演をしていただいて、来年にはぜひカリフォルニア大学で展示会をやらないかというお誘いを受けています。アメリカ帝国主義の本場に乗り込んでいって、当時のベトナム反戦闘争の展示会を開催したいと思っているところです。
そういう流れの中で、大下さんが最後にベトナムを訪れ、50年前の闘いの場をその目でご覧いただいたということは、我々もうれしい限りだと思っています。
それでは次に、呼びかけ人を代表して米田隆介さんの方からご挨拶をちょうだいします。」

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米田隆介(呼びかけ人)
「米田隆介と申します。ビデオにありました67年の10・8闘争、私は大下君と一緒に闘っていました。ですので、大下君との付き合いは、もう50年以上になります。
大下という男をいろいろ考えているんですが、まず、時間は守りません、約束は忘れます。そういう意味では日常生活上は、極めていいかげんな男でした。それに引きかえ、私は約束は必ず守る、時間も必ず守る。こういう私と大下君が50年以上にわたって友人でいられたのは何なのか、ということを今考えています。確かに私を引き付ける何かが大下君にあったんですよね。
一つエピソードをお話します。今から20年前、大下君が『情況』誌を引き受けるにあたって、『ブントの大将の島さんに挨拶をしたい。協力をお願いしたい』ということで『何とか沖縄に行きたい』ということを言い出しました。そこで、大下君、及川さん、生まれたばかりの朝子さん、それと私と私の連れあいの5人で沖縄の自宅にお伺いました。そこで豚足と泡盛の接待を受けまして、2時間ほどお話をしたんですが、島さんは大下君の希望を快諾していただきました。そういうことがあったので、今、思いますと、まず大下君は、こうだと思ったら、周りのことなど全然斟酌せずに突き進むという、身勝手なバイタリティーがありましたね。それともう一つ。こうと決めたら、自分の思っていることをストレートに相手にぶつけて、説得し、納得させてしまうという、何というか、タラシ的な情熱がありました。この二つがあったので、私は常識人なので、逆に大下君に心をワシづかみにされてしまったのではないかと思っています。
亡くなって半年近くになりますが、今の私の気持ちとしては、肩の荷が下りた、ほっとしたという気持ちと、何か心の中に大きな穴が開いてしまったという喪失感を今でも持っております。簡単ですが、私の挨拶としたいと思います。」

辻 恵(司会)
「米田さん、ありがとうございます。今日、皆さんにお配りしております式次第の中に、呼びかけ人ということで、7名の方々のお名前を掲載しております。本当は、それぞれお話を頂戴したいところですが、時間の関係上、懇親会の場で語っていただければと思います。
お配りした資料にありますが、多くの方々から追悼のメッセージが届いています。
まず重信房子さんからのメッセージを、救援連絡センター事務局長の山中幸男さんから代読していただきます。」

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山中幸男(救援連絡センター事務局長)
「山中です。代読とプログラムには書いてありますが、私の声は不適切ではないかと自ら思っておりましたので、山本万里子さんを紹介したいと思います。昨年(のベトナムツアーの時には)日暮里で大下さんと待ち合わせて、成田まで一緒連れて行って、現地に行きました。そもそも、僕が大下さんとどこで知り合ったのか定かでないんですね。ただ、大谷行雄さんの弁護士のお姉さんの関係です。重信さんの、極めて格調高いメッセージを、このあと、山本万里子さんに代読してもらいます。それから資料にありますが、「よど号事件」で北朝鮮にいる小西隆裕、最近、米朝協議もあったりして、非常ににぎわっているんですが、このままいくと、安倍晋三がまた登場してきて、「よど号」が忘れられるんじゃないかということで、小西隆裕さんのメッセージを急いて取り寄せて掲載させていただきました。あとで読んでいただければと思います。
大下さんは、一度、北朝鮮に行く手配をして行ったのですが、小西さんもメッセージに書いていますが、もう一度来ないかという話を伝えていたのですが、正直、あんまり行きたがらなかったんですが、昨今の情勢を見ると、彼が元気だったら『俺行くわ』と言い出す気がしたけれども、残念ながら実現できないこととなってしまいました。
それでは重信さんのメッセージは山本万里子さんにお願いしたいと思います。」

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山本万里子(重信房子さんを支える会)
「私は重信さんの救援の方を手伝っております。皆さまとはあまり親しみがないと思いますが、重信さんの追悼の言葉を読ませていただきます。
<重信房子さん追悼メッセージ>
大下敦史さんありがとう
明るく朗らかな便りで大下さんが胃癌の末期にあると伝えて下さったのは、去年の春だったでしょうか。驚き、癌患者の先輩として語るうちに、大下さんはそれからベトナム行きを敢行し、旅行記の原稿を送って下さり、思いきり生きている様子に励まされて、私もブント総括の方法を提案した矢先に突然の電報で訃報を知らされました。
正月の静かな病房で「大下さんありがとう」と心を鎮めながら、永別の挨拶を送りました。
同世代の社学同仲間でありながら、60年代当時、私は大下さんを知りませんでした。早稲田の村田さんは私の社学同加盟の推薦人の一人だったし、荒さんは明大や中大によく出入りしていたし、斉藤さんやあべさんら女性たちとも顔を合わせ、活動を共にすることもあったのに、大下さんとは、そんな機会がありませんでした。昨年の11月頃の便りで、私の文から小学校・中学校時代には、世田谷の隣の学区域らしいと知らせて下さいました。どうも御近所だったのですが、交流の機会には恵まれませんでした。
私が2000年の帰国時に逮捕された後、情況誌に「冒頭意見陳述書」を掲載して下さったり、かつてのブント・社学同の縁で交流の機会が生まれました。そして、パレスチナからライラ・ハリドさんが訪日された際も、共同してして下さいました。
多忙の中、短い10分程の面会にも足を運んで下さいました。最高裁の刑確定直前に、小学6年生の朝子ちゃんと共に最後の面会に来て下さって、「あと十数年なんてすぐだから」と励まして下さったのを思い出します。
マーガレットの花を思わせる楚々として美しい少女、朝子ちゃんは、お父さんが大好きで、一緒に出かけるのが嬉しそうでした。「でもね、お父さんね、時々お鍋を焦がすのよ」と教えてくれました。お父さんは「何を言うんだ!ハハハハ」と嬉しそうに照れ笑いしていました。「観念的」で「極楽とんぼ的」なところが見受けられると思っていた大下さんの印象は、朝子ちゃんの登場でなんてすばらしい親子なんだろうと、がらりと変わりました。愚痴は言わないけど、すべて苦労を寛容に引き受けている大下さん、これが大下さんの姿だと実感しました。暖かい人です。
受刑処遇の中、私が抗癌剤治療と、手術を繰り返していたころ、2015年2月、米国から旧友の城さんが強制送還され、そのまま逮捕拘留されたころのことです。
大下さんから情況誌に中東情勢の分析など原稿を書いてほしいと依頼されました。獄外には中東情勢などを書ける専門家もいるし、私の友人たちも書けるでしょう。それに獄では、資料入手も不十分だし、検閲で時間もかかるし、受刑処遇では無理と返事を一度は返しました。彼から再び依頼があったころ、私は、3月警視庁と検察庁の任意取り調べがあり、拒否しました。
それから1週間程して、突如、病房に「ガサ入れ」が入りました。4人の公安刑事が、狭い独房を1時間以上にわたって捜索を行いました。何という嫌がらせでしょう。憤りと共に、「まてよ・・・彼ら公安は私を『現役扱い』している。それなのに私は、受刑処遇に甘んじて受動的になっているのではないか?せっかく現役扱いされるのなら、それにふさわしい仕事をしなくちゃ!」と目覚めさせられました。
こうして、大下さんの誘いを受けて、情況誌に2015年から中東情勢について書き始めることになりました。大下さんの寛大な原稿受け入れに気を良くして書きだすと、書きたいことが溢れ、書くことがとても楽しくなりました。大下さんありがとう。機会を与えて下さってと、お礼を伝えました。
情況誌は1968年のブントが主導した8月の国際反戦集会(米・仏・独からラジカルな代表が参加した画期的な集会)にむけて、春から出版を準備し、変革のための総合誌として企画されたものです。当時私は、明大の文学研究部で「駿台派(すんだいは)」という雑誌の編集長をしていたことを知っていた松本礼二さんと、専修の前沢さんから、この新雑誌の編集スタッフに入ってほしいと誘われたことがあります。ちょうど卒論で多忙で、また、社会批評や革命論は私の任ではないと辞退しました。当初は、詩や文学論なども考えていたので、私を誘ったそうです。そんな50年前になる因縁を思い返しながら、大下編集長の下、情況誌に楽しく書かせて頂きました。
68年に、ブントが描き、持っていたあのような変革の総合性は、いつのまにか政治主義に狭められ、更に権力問題から、軍事へと短絡していきました。ブントの多様な連合性を否定し、マル戦派排除にはじまる「純化」過程は、「7・6事件」の過ちから「連合赤軍事件」へと自己対象化しえぬまま進み、敗北していきました。
大下さんは、ブントを愛した人々の思いを、情況誌の中に受けとめ続けていました。大下さんは、良くも悪くもブントを代表する一人だったと、しみじみ思い至ります。
共にブント総括を語り尽くせなかったけれど、遅れて彼岸に向かう私は、大下さんが誘って下さったことで再発見した“書く中東”の楽しみを、これからも命尽きるまで行使していこうと思っています。
大下敦史さんありがとう。彼岸での再会まで!

獄窓の落暉(らっき)を赤旗代わりとし 歌いて葬送(おく)らんインターナショナル
リッダ闘争を思いつつ  五月三十日         重信房子

PS:今受け取った白井聡さんの新著の巻末に「本書を、大下敦史の想い出に捧げる」とあり、嬉しくなりました。
以上です。

山中幸男(救援連絡センター事務局長)
「山本さん、どうもありがとうございました。重信さんは昭島市の東日本成人矯正医療センターにいますが、このままいけば、オリンピック明けの2022年に出所予定ですので、皆さんよろしくお願いします。」

辻 恵(司会)
「いろいろな方からのメッセージをいただいていますが、福井紳一さんの方からご紹介いただきます。」

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福井紳一(司会)(60年代研究会)
「思いのこもったメッセージをたくさんいただいたのですけれども、今、全文読むことはできませんので、あとで読んでいただきたいと思います。
重信さんに続き、『大下さんを偲ぶ』?秀実さんからのメッセージ、そして椎野礼仁さん、そしてまた『大下敦史さんを追悼して』ピョンヤンかりの会小西隆裕さん、そしてまた『故大下敦史君のご逝去を悼み心からお悔やみ申し上げます』高校同級生林哲さん、それから『大下さんへ』榎原均さん、それから『大下君を偲んで』高原浩之さん、それから『大下敦史の「遺言」』村田能則さん、皆さまからいただいておりますので、集会が終わったあと、ゆっくりとお読みいただければと思います。」

【追悼メッセージ】
当日の資料に掲載されたメッセージのうち、3人の方のメッセージを掲載する。
●「大下敦史さんを追悼して」  ピョンヤンかりの会小西隆裕
大下さん・、こういう文章を書かねぱならなくなり、本当に残念です。
貴方とはもう一度お会いしたかった。会って、これからの日本のこと、闘いのこと、いろいろ話し合いたかった。
私白身、貴方とお会いしたのは、二度きりとなりました。一度目は、東大安田講堂の付近で。そして二度目は、22年前のピョンヤン。貴方は、われわれの宿所に松平さんと二人で訪ねてきてくれましたね。田宮さんを亡くし傷心のわれわれに対する貴方の思いやりが身と心にしみました。
今、情況は動いています。朝鮮半島をめぐり北東アジアが動き、その新時代の波動が日本に押し寄せてきています。貴方が人生の最後をかけようとしたアジアと日本の問題が、今こそ、いつにも増して切実にわれわれの前に提起されてきているように思います。      
日本が朝鮮に、そしてアジアに、アジアの外からでな<中からどう向き合いどう対すべきか、今問われてきている問題の大きさは、50年前、いや150年前にも匹敵し、それを超えるものになるのではないかと思われます。
貴方の無念を思いながら、ご冥福、一層深くお祈り申し上げます。

●「大下君を偲んで」    2018.6.17 高原浩之(元ブンド・元赤軍派)
昨年2月に胃癌が判明し今年1月に亡くなるまでの約1年間、医師に病状の説明を受けるのにも同席したし、折に触れて、『情況』のことや朝子ちゃんのこと、さらには塩見のお別れ会のことなど、いろいろな話をしました。亡くなった当日も直前まで話していました。
『情況』の人民闘争と結合した発展を願う
大下君の生涯では『情況』が何と言っても大きいと思います。新左翼とブンドが党派的組織的に解体した困難な時期に、人民の大衆闘争と結びつける面で『情況』と大下君は大きな役割を果たしてきました。この会が、大下君の業績を引き継ぎ発展させる出発点となるよう願っています。
新左翼とブンドは、ベトナム反戦・70年安保闘争において、社共・総評ブロックより少数ではあったが、先頭に立って人民闘争を主導した。しかし、闘争に敗北し、党派的組織的にも解体した。その原因は、依拠する社会的階級的基盤が基本的に学生に限られ(一部の青年労働者と結合したが)、この狭い基盤の上で情勢も見誤って日本帝国主義と決戦しようとしたこと、このように言えるでしょう。少なくともブンドはそうであった。赤軍派の革命戦争路線はその誤りの典型であり、その破綻が連合赤軍事件でした。
今日、グローバリズムと金融資本主義で日本資本主義の矛盾が深まる中、2015年反安保法闘争など、人民闘争が発展する情勢である。この人民闘争には数多くの具体的な課題があるが、その一つ一つに、新左翼・ブンド系の党派あるいは活動家による、「偉大な」と言うべき努力が存在していると思う。大きくは民族・女性・部落など差別の問題や労働者階級「下層」の問題で、人民大衆と結合する、プロレタリア階級の階級闘争に依拠する、こういう努力が継続した。これこそが、今日、人民闘争が発展する情勢をもたらしていると思う。
大下君の『情況』はこの新左翼・ブンド系の党派および活動家と人民の大衆闘争との結合で大きな役割を果たした。新しい『情況』がこれを継承し発展させるよう切に願います。
70年闘争世代でケジメをつけておきたい
70年闘争を闘った、新左翼とブンドの活動家の間の人間関係は、党派的組織的に解体する過程で大きく破壊された。原因は「内ゲバ」と「リンチ」、これを党内闘争と党派闘争に持ち込み、それで組織を統制し維持しようとする、革命運動を長く蝕んできた体質、と言えるでしょう。少なくともブンドはそうであった。第7回大会、7・6事件、連合赤軍事件、ブンドを崩壊させ、最後は人民闘争と革命運動に壊滅的な結果をもたらした。
大下君の『情況』は、新左翼とブンド系の党派と活動家、言わば70年闘争世代がそれぞれに連絡を持ち、その中心に位置して交流を維持してきた。しかし、人間関係の問題は当事者がケジメをつけることがやはり必要であると考えます。
今日の人民闘争が発展する情勢で、革命と革命党の問題に必ず直面するでしょう。ソ連が崩壊し中国が変質した現状からして、ロシア革命や中国革命を総括し、マルクス・レーニン主義そのものも総括し、社会主義・共産主義論を新しく構築する問題に必ず直面するでしょう。新左翼とブンドの崩壊を総括し、新しく革命党を建設する問題に必ず直面するでしょう。それは基本的には現在と将来の世代の任務でしょうが、70年闘争世代も自分たちの経験を踏まえた総括を、言わば遺言として残しておくことは有意義であろう。
しかし、「内ゲバ」と「リンチ」の問題だけは、それが二度とくり返されないよう、70年闘争世代の当事者が過ちを反省する態度を表明しておく義務があると思う。それがケジメだと思う。私は、連合赤軍事件については「塩見お別れ会」の場を借りたが、第2次ブンドから赤軍派結成に至る過程の7回大会と7・6事件の「内ゲバ」と「リンチ」についてはこの「大下ゆかりの集いの会」の場を借りて、ここに謝罪と反省を表明します。
最後に、朝子ちゃんへ、大下君の生涯に学び、しっかり自分の人生を歩んで下さい。

●『大下散史の「遺言」』    村田能則
 早稲田ブントの最初の同窓会が開かれたのは、「7.6」の分裂から、40年以上経った2010年頃。長い空白は、過酷な党派関係のせいである。党派闘争は、ブントの大きな汚点だが、早稲田はそのド゙真ん中にいたのである。各メンバーは、分裂した党派の中心になる場合が多く、同窓会など難しかったのである。
 転換のきっかけは、72年の連合赤軍の同志殺しである。左翼を震撼させたこの出来事で、運動と組織は衰退の、長い坂を転がってゆく。同時にそれは、ブント系の各組織にとって、内ゲバ否定の長い、長い道のりの始まりでもあった。一方、革共同両派、革労協系の内ゲバは、逆に連赤以降に激化し、犠牲者も急増。構改系や第4インターを除いて、新左翼系の党派は殆どが内ゲバを肯定し、実践してきた。現在はあまりに大きな犠牲と、組織の分裂・衰退のせいで、暴力行使はひと休みのようだが、内ゲバ肯定の立場は変わっていないのではないか。ブントを名乗る組織や、グループでは、現在、内ゲバを肯定、実践しているものはいないようだ。連赤排出の事実は重いが、これは評価しても良いのではないか。
 早稲田ブントの同窓会が始まると、大下や松平が連絡や運営を引き受けてくれた。大下と会って議論する機会も増えた。末期がんと闘った最後の一年間は、私が同じ病気で生き残った“先輩”ということもあり、連絡が急増した。
 大下が最後まで気にしていたのが、やはり“内ゲバ”だった。我々はよく話し合った。残念ながら「内ゲバ止揚の論理」などは、見つからない。問題の核心はそんな魔法ではなく、「実際の運動」「現実的な判断」の方にあるのではないか。「内ゲバ」は、実際の運動に、深刻なダメージをもたらす。仲間同士を出口のない争いに引きこみ、解体してしまう。一般の運動参加者は嫌悪と恐怖で、離れて行く。これは理屈ではなく、現実なのだ。
 内ゲバの頂点は、連合赤軍の同志殺しだが、それはどこから来たのか、出発点は何だったのか、語られることは少い。連赤という怪物が、自分だちとは無関係に、ある日突然天から降ってきたのか。責任逃れのためか、そう主張する輩もいるが、そうではあるまい。
 私と大下は、1968年のマル戦派との組織分裂に、重要な鍵があるのではという議論に向かっていた。組織分裂が、学生運動の高揚期に当たっていたせいで、運動や組織に与えるマイナスが、当時はあまり意殲されなかった。否、それ以上に、我々の間では、肯定的に評価されてきたように思われる。運動の退潮期であれば確実に、組織と運動は大きなダメージを受け、長期の分裂の泥沼にはまってしまったことだろう。実際には、この分裂の後、組織と路線はスッキリし、動員力も戦闘力も増強されたように感じたのである。全共闘運動が日本全国を席捲していた頃は、マル戦派との分裂を思い出すことは殆どなかった。
国際反戦闘争や、全共闘運動の高揚は、圧倒的だった。この“成功体験”こそが、党派闘争に関する間違った考え方を温存し、発展させたのではないか。「正しい党派闘争は、組織と運動を飛躍的に発展させる」という確信。これはブント全体の共通認織になっていたと考える。後に致命傷となるような棘が、そこに潜んでいるとは誰も考えなかった、これが大下の意見だった。「方針さえ正しければ、組織分裂はマイナスではなく、組織と運動を発展させる」。「正しい方針、正しい党派闘争の中では、暴力の行使も認められる」など。一言でいえば、「正しい方針(戦略戦術)」が絶対的で、この目的のためには何でも許される、こんな「教訓」を身に付けてしまったのではないか。この成功体験と傲慢さが、我々を蝕んでいったと考える。「我々は正しい方針をもっている」という確信は、間違った路線を主張する人々を、排除する権利を持つと考えられた。その後の様々な内ゲバは、この認識を変えることはなく、別の成功体験によって、更に補強された可能性さえある。その行きつく先には、凄惨な場面が待っているとは、誰も想像出来ない。誤りを止め、修正する手段を、内ゲバの成功体験の中に置いてきてしまったように思われる。
 マル戦派との分裂後、「スッキリした」我々が揚げた“正しい方針”は、「プロレタリア国際主義」と「組織された暴力」であり、それを更に深化させた(と主張する)赤軍派の「過渡期世界論・国際根拠地論」「前段階武装蜂起」によって、組織分裂が行われた。私は「63年革共同の分裂」を別にして、新左翼の間で発生した内ゲバは、全て不必要だったと考えている。特にブント系で起こぅた内ゲバは、全面的に間違っていたと考えている。マルレ戦派、赤軍派、・ぞの他大小の全ての内ゲバが、意味がなく、してはならない分裂だった。このレヴェルで分裂を繰り返しでいれば、大衆的信頼を背景とする、強力な革命党など、出来るわけがない。成熟した議論と、知恵によづて、組織の統一を継続すぺきであった。大下もこの考えに同意してくれた。とりわけ、最初のマル戦派との組織分裂の「成功体験」が残した、大きな負の遺産に注目し、点検総括そして、謝罪までやり遂げなければならないという考えで一致した。
 因みに「10.8羽田闘争」のブントの戦術方針は、マル戦派の成島忠夫氏の仕業であった。当時は、優れた経済学、組織運営の能力、献身的戦闘性など、マル戦派の長所など誰も認めようとはしなかった。塩見さんの死去とお別れ会を前後して、過去の内ゲパに対する謝罪の実例がいくつか伝わっている。しかし、マル戦派のことは誰も言い出さない。大それた革命的遺産など望むべくもないが、後世の革命家たちに“やってはならないこと”を、“やるとこうなる”という経験的資料に残すことくらいは、必要ではないかと考える。大下はこれにも賛成してくれた。文章として、はっきり残っているわけではないが、私はこれを大下の遺言と考えたい。

<このあと、白井聡氏が大下氏との思い出を語り、山本義隆氏が50年前の東大闘争について発言した。この講演内容は、別途ブログで公開予定なので、今回は内容の掲載を省略し、写真だけ掲載する。>

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辻 恵(司会)
「新開さんから、今日の呼びかけ人代表としてシメのお言葉をよろしくお願いします。」

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新開純也(呼びかけ人)
「今日は、大下の偲ぶ会に大勢の方に集まっていただきまして、本当にありがとうございました。また、山本さんの熱い思い、そして白井さんの大下に対する愛情のこもったお話をいただきまして、本当にありがとうございました。公式の私の大下に対するメッセージは、今日の冒頭の呼びかけ文に書いておきましたので、それを読んでいただくことにして、大下との付き合いについて、若干喋らせていただきたいと思います。
僕は京都におりますし、歳もそこそこ離れていますので、大下君の名前はよく聞いておりましたけれども、直接的な付き合いが始まったのは、この10数年なんですね。僕は一時ブルジョアをやってましたから、それを整理をつけてブントに復帰したときに、古賀と大下が、ある関西の集会のあと訪ねてきて、『お前は会社を辞めたのだからやることないだろう。だから「情況」を手伝え』ということで、それからの大下君との付き合いでありました。その後、僕が東京に来ますと、しばしば大下邸に泊めてもらっておりましたし、大下君が関西に来ますと、我が家に来て、安酒を飲んで、タバコをもうもうと吸いながら、延々と話をしました。その中で彼が常に言っていましたのは、一言でいえばブントの再建であります。
これはいろんな解釈があると思います。大下が言う言葉というのは、まっとうに、字ずらどおり解釈するのは間違いなわけで、彼の思いみたいなことをどうつかまえるかという、少なくとも、僕はそういう付き合いをしておりました。だから、彼のブントの再建というのは、文字通り狭義な意味でブント系の再建という風に使われたこともありますし、もう少し広げて、三派ないしは新左翼、そういう範疇での大同団結として使われたこともありますし、また、時には、山本さんが言われたような、小運動を含めた、そういう運動の発展という風に使われたこともあったように、僕は思います。だから、多くの方が大下の『ブントを再建しようや』という言葉にオルグされた、あるいは悩まされたか知りませんが、そういうことだったと思います。僕は彼の言わんとするところをできるだけ理解に努めようとしてきたわけであります。
60年安保の時は、今日来られている篠原さんとか、そういう言葉でいうと失礼ですが、大風呂敷を広げる人は結構いたかと思います。でも、僕の年下で、そういう大風呂敷を広げる人は、僕が付き合った中で2人いました。一人は大下君、もう一人は塩見です。冒頭、米田君が言いましたけれど、僕は極めてある種の原則主義者であり、ある種の常識人ですから、塩見だとか大下だとか、そういう大風呂敷を広げる人とは全く異質な人間なんですけれども、2人とも僕にとってはよき後輩で、2人ともそういう言葉で言えば愛していました。先方の大下君や塩見から見ると、僕は非常に好都合な人物だったと思うんですね。つまり、自分の広げた風呂敷が。世の常識ある人にとってどう映るか、対話したいと思ってくれていたのだと思います。そういう意味で、大下君とは10数年、彼の言うところのブント再建をめぐって、いろんな議論をしました。
断っておきますが、僕は、いわゆるブント再建なんていうことは、今はさらさら考えていません。それは歳だということもありますけれど、そいうことではなくて、例えば最近、米朝会談があったからということではありませんが、文政権を生み出した韓国の運動の構造みたいなことに非常に関心があって、いろいろ考えることがあるんですけれども、一つは文政権を生み出した『共に民主党』、それを支えているのは、ご承知のとおり、進歩連帯だとかそういう運動、そしてまた、その中に広い意味でマルクス主義を含んだグループがある、という三重構造になっていると思うんです。我々に最も必要なのは、そういう運動の構造を、現実の運動から出発して作りあげるということが必要なのではないかと僕は思っている。だからブントの再建とか、それは狭義な意味での昔のブントを含めて、新しい、共産党に代わる政党という意味での政党、そういう意味でのブントの再建というのは、考えませんけれども、そういう小運動の構造を作るためには、何らかのまとまった一定の政治勢力が必要であるということについては、僕は今でも揺るがない信念を持っているわけです。それが、いろんな小運動を糾合する構造を持たなければならないと考えています。僕は、そのことが、大下がいうところのブント再建の意味であると私流に解釈しているわけであります。その限りにおいて、私どもは大下の遺志を継いで、これからがんばっていかなければならないと思っております。私は今年で77歳になりますから、到底、そういうことを中心になってやることはできませんので、ここにおられる方が、いろいろな小運動を通じて、少しでも、そういう新しい意味での政治勢力、新しい意味でのブントをつくられるよう、私も一兵卒としてそれにやっていきたいと思いますけれども、お願いしたい、そのことが大下の思いではないかと思います。
それから、もう一つは、大下は「情況」の人なんですね。古賀のあとを受けて20年やってまいりました。世の中が右傾化して、論壇も右翼的な雑誌ばかりになっている中で、いわば孤高を保って「情況」をずっと20年やってこれた。僕は横で見ていましたからよくわかりますけれども、これは非常に大変なことなんです。ああいう人格ですから、金の苦労から、いろんな事の苦労があって、でも結局は「情況」は大下が20年を捧げたんです。そういう意味で、我々は「情況」をこれからどうやっていくのかということも考えていかなければならない。「情況」は大下の遺志を継いで、必ず守り育てていくということを最後にお願いします。そして、私も及ばずながらお手伝いするということをここにお約束して、今日のお礼の言葉にさせていただきたいと思います。
今日は大勢の方に集まっていただきまして、本当にありがとうございました。」

辻 恵(司会)
「今、新開さんが仰られたように、新たに『情況』をしっかり灯を消さないでつないでいこうという風に、皆さん意思を新たにがんばるとされているので、是非とも今日お集まりの皆さん、『情況』を支えて中軸を担っていっていただければ、本当に大下さんの思いが、今日このような場を設けたことの意味が、本当に具体的な形に現れると思います。ぜひともよろしくお願いしたいと思います。
去る6月10日に、日大全共闘の50周年の集会があって、200名以上の、元ではなくて日大全共闘の皆さんがお集まりになった。1968年ということで、いろんな本が出たり、いろんな情報が出たり、いろんなイベントなり集まりがあります。やっぱり、この50周年の中で、今、新開さんが仰ったように、昔の非常に単線的な党統一戦線とか党共同戦線とかいうのではなくて、本当に重層的な、ありとあらゆる運動を、重層的な展開をする、その中で知恵を働かせていって、本当に目にもの見せて、もう1回世の中を引っくり返すというような、そういう方向で、大下さんと一緒に、大下さんの遺志をついで、我々もがんばれればいいなと思っています。
それでは、最後に発起人の大下朝子さん、お礼のあいさつをお願いします。」

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大下朝子(発起人)
「本日は父のためにお集まりいただきありがとうございました。エピソードを用意しておいてといわれたんですけれども、日常的すぎて、特別なエピソードが思いつかなくて、むしろ逆にエピソードを教えていただきたいくらいですし、話さなくても父のことをよくわかっていると思ので、ごめんなさい。」

辻 恵(司会)
「生前、大下さんが、将来ハワイに娘と一緒に住みたい、暮らしたいとくり返し言っていたわけで、朝子さん、ハワイでがんばってやってください。
今日はお忙しいところ、100名を超えるたくさんの皆さんにお集まりいただいて、前情況代表『大下敦史ゆかりの集い』を開催できました。大下さんが20年かかって孤塁を守ってきた『情況』を絶対に絶やさないで再興していこうということを、もう一度皆さんの拍手で確認していただいて、今日の場の結論としていきたいと思います。ご確認よろしくお願いいたします。(拍手)どうも今日はありがとうございました。」

このあと、御茶ノ水の明治大学の裏にある、お好み焼き・もんじゃ焼きの店「祭」で懇親会があった。この店は、「明大土曜会」が偶数月の第一土曜の午後2時から開催している定例会の会場として利用している店である。
この「明大土曜会」は、明大に限らず、いろいろな方が自由に参加している「情報交換の場」である。最近では、元一水会の鈴木邦男氏や東京新聞の田原牧氏などを呼んでお話を伺っている。興味のある方はぜひ参加をお願いしたい。
私は体調不良で懇親会に参加しなかったが、発起人の大谷行雄氏のフェイスブックに懇親会の様子が掲載されているので、転載させていただいた。

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※ 白井聡氏と山本義隆氏の講演内容は、別途、ブログに掲載する予定です。

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は7月6日(金)に更新予定です。

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 国家権力による不当な弾圧に対して救援活動を行っている「救援連絡センター」が、来年で設立から50年目を迎える。センターは、1969年3月に故水戸巌氏が事務局長となって設立されたが、同年9月に逮捕者の救援活動のためのポケット版「救援ノート」を発行している。この「救援ノート」には、救援活動の注意事項や体験談、逮捕された時の心得などが書かれており、現在も発行されている。
私が持っているのは1969年11月22日発行の第3版だが、いつ買ったのか覚えていない。当時の定価は100円。ラーメンが70円の時代だったから、今の価格だと千円くらいだろうか。
この「救援ノート」はデモや集会に行くときはヘルメットやタオルとともに必ず持って行った。救援連絡センターの電話番号が591−1301だったことから、ゴクイリハイミオオイ(獄入りは意味多い)と覚えておくように言われていた。

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救援ノートの目次を見ると
第1部 救援活動
 第1章 差し入れ(留置場の場合)
 第2章 接見(拘置所の場合)
 第3章 裁判の傍聴
 第4章 現場での救援活動
第2部 家族の心得
 第1章 家宅捜索
 第2章 任意出頭
 第3章 家族はどうすれば一番よいか
第3部 逮捕されたとき
 第1章 デモや集会に行くときの注意
 第2章 弾圧
 第3章 黙秘権
 第4章 警察署で
 第5章 未成年者の場合
この「救援ノート」を読んでみると、単なる「心得」に留まらず、当時の状況を反映した資料であることに改めて気づかされる。そこで、この「救援ノート」の内容を何回かに分けて紹介することにした。今回は1回目として、第一部の「差入れ」の部分を掲載する。

【救援ノート 安保を闘う婦人連絡会編集・救援連絡センター発行 1969.11.22】
はじめに
反戦・反安保のたたかいは、学生・労働者・農民・市民によって、さまざまな形で、急速に、はげしく、くりひろげられています。とくに、1967年の羽田闘争以来、国家権力は、これらのたたかいに対して、催涙性毒ガスの使用、ガス弾の水平狙撃、逮捕後のリンチ、大量の不当逮捕、8ケ月にもおよぶ長期勾留、分離裁判の強行などおどろくべき弾圧を日々強化しております。また、きわめて市民的なデモに対しても、ジュラルミンの楯をもって規制し、逮捕するという横暴が日常化しています。
 私たちは、救援連絡センターの掲げる
1.国家権力による、ただ一人の人民に対する基本的人権の侵害をも、全人民に対する弾圧であるとみなす。
2.国家権力による弾圧に対しては、犠牲者の思想的信条・政治的見解のいかんを問わず、これを救援する。
という救援の基本的立場に立って、救援活動をもっともっと充実させいくために、より多くの人々に参加していただくためにその手がかりとなり、心得となるものをまとめてみました。
 この小さなノートによって、「私にもできる」自信が生まれ、「私にできる」ことからはじめていくことができればと期待します。
1969年9月

第一部 救援活動
 10.21新宿デモ、1月東大闘争以来、東京各地区に地域救援組織が自発的に生まれています。学園闘争の全国的拡大とともに、北海道、名古屋、京都、大阪、横浜にも相次いで地域の救援センターが生まれています。
 これらの組織は、逮捕され、各地区の警察署に留置された人々への差入れ、長期勾留者への接見を基調に、さらに、弾圧実態の暴露、各闘争の意味の理解などのための活動を行っています。これらの活動に参加している人々の年令、職業経歴は、全く色とりどり、高校生もいれば、主婦もおり、戦前の弾圧を経験している老闘士もいます。しかし、何といっても婦人の活動の比重が大きいのは事実です。
 この人々に共通のものは。政治的要求をもち、それを直接に、自分の存在をかけて、つきつけようとする若者たちに対して、警察力によって弾圧することしかしない国家権力に対する激しい怒りであり、また、その弾圧を、自分たちの肉体の一部に加えられたものとして感じる痛覚なのです。
 私たちの出発点は、だれにも強制されない一人一人の自発性であり、自立性です。私たちは、たとえ一人であっても自分の及ぶかぎりで、自らの一部に加えられた国家権力の圧政への抵抗として、救援活動を行うでしょう。同時に私たちは、権力の側の組織性に対して、私たち自らを組織して立ち向かう必要を知っており、地域救援会をつくり、さらに地域救援会相互間の連絡組織、救援連絡センターを作ってきました。
 ここで、のべられる救援活動は、もちろん孤立した一人の人間でも行ないえる活動です。しかし、読者の皆さんが、各地域救援組織に属し、あるいは連絡センヤーとの連絡のもとに、その活動を行うならば、その効果を十倍、百倍に高めることができるでしょう。この第一部は、そのような立場から執筆されていることを念頭において下さい。

第一章 差入れ
 ここでは、大学単位やセクト単位の救援活動ではなくて、一般市民が地域で、自分のできる範囲で、救援活動をするときの手引きとして、例をあげて説明します。
1.救援組織との連絡
 大量逮捕のあったときは、東京ならば23区にかぎらず、三多摩や隣県にまで及ぶ警察署に、何人かずつ留置されます。救援者は、センター(救援連絡センター、電話591−1301・1302)に電話して、自分の住んでいる地域の救援責任者を知り、その責任者と連絡をとります。自分にとって行きやすい警察署を確認しておきます。
 <盗聴について>
救援連絡センターに電話をかける場合、その電話は恐らく盗聴されていますから、逮捕者について問い合わせる場合に、逮捕された者の氏名、所属などわかってしまうことのないよう注意しなければなりません。事件直後には特にこのことが必要です。ですからまだ警察署にいて、黙秘している可能性の大きい逮捕者についての用件は、電話ではごく簡単にして直接センターに行って、詳しい事情を話したり聞いたりしなければなりません。救援連絡センター以外の場合でも、大きな事務所、たとえばベ平連の電話なども盗聴されている可能性が多いので、同様の注意が必要です。
 責任者はセンターと打ち合わせて、その警察署に留置された人数と留置番号を聞きます。この番号は、逮捕後すぐにはわからないことが多い。というのは、逮捕者が数百人となると、弁護士が接見にまわりきれないからです。(弁護士が接見しないうちは、人数も番号も分かりません)
 逮捕者は原則として、みな黙秘しているから救援者は、たとえ名がわかっていたとしても、差入れのときは、留置番号を使うこと。

2.差入れの用意
 人数と留置番号がわかったら、次の段どりで差入れ品を用意します。(日曜・祝日も原則としては受け取るべきなのですが、実際には、全然受け付けません。一般の差入れは5時までというのが普通ですが、日曜日にがんばって係に受け取らせた例もあります。)
(1)最初に入れるもの
〇タオル・・・1本を半分に切ります。おしぼりでもよい。タオルまたは日本てぬぐい1本の長さは、首をしめることができるという理由で許されません。
〇ハミガキ・・・かならず半ねり。チューブは、その角で血管を切ったりするおそれがあるとして許されません。
〇ハブラシ・・・何でもよい。ただし、新品。
〇石けん・・・浴用石けん。石けん箱もつければなおよいが、人数が多いときは費用がかさむので、倹約します。
〇チリ紙・・・適当。
〇小遣・・・500円ずつでも入れられたら入れたいが、財政上無理かもしれません。しかし、現金があると留置人は、くすり、ちり紙、店屋もの、タバコなどを係の刑事か、留置場の看守に頼んで買ってもらうことができます。
〇下着・・・少なくとも、パンツとアンダーシャツ、女子には生理用品、ズボン下およびくつ下、くつ下は長いのは許されません。留置場は地下室や半地下室にあり、板の間で夏でも冷えます(洗たくして、アイロンでよく湿気をとってあれば古着でもよい)。枚数は別に制限ありません。
〇上着類・・・太った人の古着、つまりL判だからという遠慮は無用。むしろ小型のものよりよい。ズボンのベルトは許されないから、後ろのベルト通しに20ゼンチ長さのひもを2本つける。昔式のズボン下の要領でウエストまわりを加減できるように。
 留置人は、少なくとも1週間に1度は下着を自分で洗たくできるから(洗たく石けんは、とくに差入れなくてもよいようです)何枚も差入れる必要はないようだが、重ね着ができるから、梅雨時には3組くらいほしい。
(2)食物
 センターを中心とする統一救対としては、週2回(火・金)を差入日と決めています。少なくとも、その曜日だけは全員に同じもの(同じ署でのこと)が入るようにしています。しかし、一署に20名ちかく入っていると、1日に全員一人ひとりを留置場から出して(監房の中で特別なものを食べることはできません)食事をさせる時間がないという理由で、係の刑事が受け取らないことがあります。刑訴法第八十一条「接見交通の制限」の最後に「・・・但し、糧食の授受を禁じ、又はこれを差し押さえることはできない」とあるのに、実際には、いろいろいじわるをして、これを妨げようとします。
〇食物の種類
 何でもよいはずだが、次のことは守りましょう。
 くさりやすいもの、かむのに時間がのかかるもの、不消化なもの、あまり刺激の強いもの、酒・アルコール類(チョコの中のでもダメ)、は不可。
 食物はなるべく手料理で、ぜいたくでなく、実質的に誠意のこもったもの。男子はモーレツに腹がへるというから、米の飯のように、お腹にこたえるものがよいが、さりとてタンパク質が不足すると、かえって栄養が不足して満足感がなくなります。
(一例)
〇おにぎり2個・・・外はのりで巻くなり、ゴマでまぶす。中味は、うめぼし、タラ子、細かくきざんだミソズケ、おかかなど、よくご飯をさましてから、ラップかアルミ箔でつつむ。
〇肉だんご、または小型のハンバーク、カツレツ、フライ、野菜の煮つけ、肉としらたきのすきやき風、魚肉のミソズケ、照焼など(アルミ箔でつつむ)
〇生野菜(アルミ箔でつつむ)
以上を(よくさましてから)たとえば、プラスチックのいちごの箱などに入れて、必ずハシをそえましょう。
〇サンドイッチ(ハム・チーズ、野菜)・・・すべてお弁当の要領。
〇果物類・・・サクランボとか、いちご、スモモのように皮ごと食べるものは不可。
〇菓子類・・・署によって、いろいろ制限する(チョコはいけないとか)。あらかじめ電話で聞くのもよい。常識的に考えてピーナッツはよくありません。時間もかかるし、不消化のおそれもあります。ガムは不可。
〇ミソ汁・・・人数分を大きなポリバケツで差入れた例があります(いいアイデイア)。
以上、用意したものを、なるべく清潔で色のきれいな包装紙などにつつみ、大きく留置番号を書いてゴムワでまとめます。決して新聞紙や、あまりうすぎたない袋を使わないこと。また、外部から書き入れをしないこと。通信の疑いで不許可になることがあります。

3.警察署での応対
 朝9時前に看守に電話しておくのもよい(この際、救援組織の名前を名のればよい)。午後は3〜4時まで、人数が少なくても午前中がよい。
 まず、受付に差入れに来たことを告げます。直接捜査係に行けといわれるところもあります。捜査係から公安係へ電話してくれる。廊下のベンチで30分くらい待たされることもある。
(1)留置番号だけで
 公安係が来たら、何号と何号に差入れに来たと告げます。相手は、わざと、「それは逮捕番号か、留置番号か」などと大声でおどかすことがあるが、どぎまぎしないで「留置番号です」と答えます。「番号ではダメだ。名前は?」とか、「親じゃないといけない」とか、「今日は忙しいから」「もう外の人が来たからダメ」とかいうが、そんなことは皆デタラメのおどかしです。番号で入らないはずはありませんし、9時前にだれか来たのなら、差入簿を見せてくれといえばよい。
(2)本人との関係は「救援会」
 つぎに「身分証明書を見せろ」ということがあります。「毒でも入っていたら、だれが責任をとるのだ!」などともいいます。主婦だと身分証明書はないというと、住所・氏名・電話番号を聞かれます。住所・氏名を公表できない人は、救援組織の名で差入れます(この場合、氏名、住所、電話などについて、あらかじめ組織と連絡をとっておきます)。まちがいないかどうか係が電話で問い合わせます。実在の人物だとわかると、やっと「どんな物を持ってきたか」と相手は、中味を全部あらためます。差入簿を出して「これに書け」といいます。警察署によっては、用紙が一枚一枚別になっているかもしれませんが、たいていは、昔風のとじた帳面で、一頁に上下2名分書き入れられるようになっています。本人との関係という欄には「救援会」でよい。もし、差入れが許されないときは、その場から救援連絡センターまたは弁護士に電話しましょう。
(3)差入簿の見方
 次に行った時、差入簿の前の頁をめくってみて、本人に品物が渡っているかを見る。渡っていれば、黒い色で拇印が押してあります。ついでに、誰が差入れたかも見ます(例えば親、兄弟、友人)。刑事によっては「いかん」と言うが、そんな理由はありません。そして差入れの少ない人は誰か(何号か)を記憶します(人数が多い時には、実際にはなかなかできません)。

4.その他の注意
(1)差入れの期間

 三泊四日経つと、それで釈放される人と、さらに十日延長される人が分かりますから、その日のうちに、このことをセンターに連絡しておきます。さらに十日後にも同様のことがおこります。
 二十三日後に起訴が決まります。起訴されてすぐ拘置所へ移管されるとは限りませんから、そのまま差入れを続けます。だいたいその後1週間で移管されますが、何号がどこの拘置所へ移管されたか、確かめてセンターへ知らせましょう。
(2)けが人がいるとき
 逮捕時、重症でなければそのまま留置場にほうりこまれ、赤チンかアルコールをつけられ、ろくな手当も受けない人がいます。
 これは、弁護士からセンターへ資料が渡っているはずですから、救援者はこのことを頭に入れておき、差入れのときに「ケガ人の様子はどうですか。何号のキズは治りましたか。病人は出ていませんか」と聞く。「いや、皆元気です」と刑事の答はだいたい決まっていますが、「何か変なことがあったら、すぐ知らせて下さい」と頼んでおきましょう。
 法律上のことは、すべて弁護士の方へ通知されますが、その他の身のまわりのことは、救援者の家へ警察が電話で頼んでくることがあります。「上衣も下着も靴もない子がいるから一通り持ってきてくれ」と電話がきて、急いで取りそろえて持っていったら、刑事が礼をいって受取った。一応、差入簿に書かせたが、なぜか理由をきかせてくれなかった。こんなこともセンターに連絡しておきましょう。
(3)家族が地方にいるとき
 被疑者の家族が地方の人である場合、逮捕後警察から呼び出しをうけて驚いて上京します。
 しかし、東京に1ケ月近く滞在することは不可能ですから、差入れの点で在京の人との差がついてきます。こんなときは「家族からの差入れのない人は何号ですか」と聞いて、火、金、以外の日にも差入れをしてあげたいと思います。
 しかし、こんなことも一応センターに連絡し、学生の属している学校なりセクトなりと打ち合わせた上、やるようにしましょう。
(4)差別をしない
 被疑者の中には早くから(特にその親が)特定の弁護人に頼む人がいます。つまり統一弁護団に弁護を依頼しないということは、分離裁判を希望している(本人が希望していなくても)ことになります。そのことは差入れのときにも刑事の口からわかることがありますが、救援の面で差別してはいけません。

5.日常の準備と地域の救援組織
(1)日常の準備

〇古着類・・・下着、くつ下(短)、チョッキ、上衣、セーター、カーディガン、ズボン(男女)、ドテラ、オーバー、腹巻、ジャンパー、ズボン下―以上は警察署用―
〇タオル、湯上りタオル、シーツ、毛布、浴衣(ネマキ用)、サラシ、ホータイ等、いずれも古物でよいーこれらは多量の放水のある(毒液を含む現場、例えば三里塚、佐世保)で、すぐハダカにして着がえさせたり、体を洗ったりするときや、病院にかつぎ込まれたケガ人のために必要―ケガ人のケガをかくすための風呂敷、マフラー、スカーフもー
 古着類は、事件のあるなしにかかわらず、近所の人、知人等に頼んでおいて、くずやに出さぬように約束しておきましょう。
〇箱や紙袋・・・果物店でイチゴなどを入れて売っているプラスチックの箱(弁当入れに)、梅干しなどを入れてあるフタ付きの箱(おかず入れに)をためておく。デパートなどでもらう手のついた大きな紙袋は留置番号を書き、公安係に渡しておく。身のまわり品などをまとめて入れておくのに便利です。
(2)地域の救援組織をつくる
 差入れ活動は一人でもできます。しかし、集団で行った方が能率もよいし、差入れの回数や迅速さも増して、逮捕された人たちのためにより大きく役立つことができるでしょう。それにこのような活動は、決して単に個人的な活動ではなくて、大衆運動全体の中の、一つの部分を受け持つという意味を持っています。ですから差入れをするときは、救援センターその他関係する救援組織と連絡をとりながらやらなければなりません。その地域に救援会のあるときは、そこに加盟して、いっしょに活動しましょう。まだ救援会のできていないときは同志を集めて、救援会をつくることを考えてみましょう。その方が資金集めのためにも、衣料などを集めるにしても、また差入れに行く人手の点でも有利です。
 そして、このような救援のための組織は、やがてより広い活動をする市民運動のための母体としての意味も持っています。
 この場合、参加の仕方の深い浅いは問わないことにしましょう。自分のできる範囲でやることが、長続きの要領でもあると思われます。
 最後に、いろいろな救援組織の関係を簡単に述べておきます。
 学生運動の各党派、大学の全共闘、地域の反戦青年委員会などは、自分たちの運動に対する弾圧に対処するため、それぞれ救援対策部(救対)を持っています。しかし、最近の大量逮捕の現実では、各組織の救対の独立した活動だけでは手におえなくなっています。それで諸組織が合同で闘争をする場合に、大量の弾圧が予想されるようなときは、各組織の救対が協力して、統一救対をつくります。また、それぞれの地域に市民的な救援組織が次々と生まれています。救援連絡センターは、やはり市民組織ですが、いろいろな救援組織と連絡をとり、逮捕者についての情報を集め、弁護士の接見を依頼するなど、救援活動をスムーズにするという特別な役目を果たします。大きな大衆行動のある場合には、先に述べた統一救対は代表を救援連絡センターに派遣して連絡に当たります。そのほかの場合でも、救援センターは常に逮捕者についての情報をつかんで、弁護士の接見、差入れの依頼などを行います(いわゆる反日共系の学生・労働者に対する弾圧を弁護してくれる弁護士は、現在非常に数が少ないので、手いっぱいで、すぐ接見に行ってもらえないことがしばしばあります。しかし、面会に行って長く弁護士が来ていないことがわかった場合には、連絡もれでないかどうか救援センターに確かめてみましょう)。センターと各地域救援会とは独立した組織で、上下関係はありません。しかし、日頃から連絡を密にとっておくと、いざという場合に便利です。差入れはセンターから依頼された場合でも、そうでない場合でも、十分連絡をとっておくと、重複したり、差入れもれが生じたりすることなしにすみます。また、連絡センターは決して電子計算機のように働く情報機関ではなくて、不備なところがたくさんあります。地域救援会はこのことをよく承知して、連絡センターの活動を批判し、より充実させていくように注意すべきでしょう。

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<体験記>(「救援センター」より)
“おばあさん”の差しれ
竹中ゆき
 4・28闘争の逮捕者に差入れを頼まれた時、私は断った。理由は家庭の事情で、とはいってみたものの、実は勇気がなかったのです。警察に顔を見せにいくようなものだと思ったりして。しかし、その後、何回かの集まりに出て、救援を自分のこととして、何の抵抗もなく差入れをしておられる数多くの人たちの話を聞いて、はずかしく思っておりました矢先の6月2日、救援連絡センターより再度の差入れの依頼があり、今度は引き受けてしまいました。
 駒込署12名、今日4時頃までに届けるようにとのこと。あと2時間しかない。そこで私は駒込署差入れ係に電話した。
 「はじめて差入れに伺います。何時ごろまでに伺ったらよろしいでしょうか。おばあさんですから、どうかお手やわらかに」と。
 洗面用具一式を求めるため、いつも出入りしているスーパーマーケットに飛び込んで、店員さんに相談した。
 「5月31日、機動隊に不当逮捕された学生さんに差入れするんです。コレコレのものを各12個ずつ買いますから協力してください。」
 下着はデパートの地下である。私は走った。また前と同じ協力を求めた。親切である。
 「ありがとう、またね。」
 挨拶もそこそこに、国電に乗る。国電の座席で、タオル1枚ずつを広げて、2枚に切る。隣にかけていた婦人が、立って手伝って下さる。2枚に切るわけと、差入れの品々であること、学生運動の正当性等を説明する。
 そして、駒込駅前でタクシーに乗る。もうすぐ警察だ。落ち着きなさい、留置場の若者たちが待っているんだと、自分にいいきかせるけれど、だめ。そこで私は「インター」をうたい始めた。「ああインターナショナル我らがもの!効果はテキメン、気持ちは落ち着いてきました。
 差入れ室ではおまわりさん3人、どうやら初顔の私を待機の様子。
「初めまして、先ほどの電話の者です。どうぞよろしく」名前、どこからと聞かれて記入される。
「おばさん、学生ってどうしてあんなにきついのかね」
「それは逮捕する方と逮捕される方ではきつくもなりますよ」
「こっちから渡したものも、領収証に名前どころか番号も書かないんだよ、それが女の子なんだからね」
「女の人は男の人とちがって、体の調子のことがありますから、そんな時はお産の時と同じで、人によってはノイローゼになったり、万引きしたり、自殺する人も、そういう時が多いんですよ」
「そういえば昨日買わされたんだよ」
「そうでしょう、だから女の人、早く出して下さい」
「差入れは女の人がいいよ、おばさんずっとくるの」
「ええ、最後まで私来ます。では子供たちよろしくお願いします」
インターの力を借りなければおさまらなかった先ほどのブルブルはどこへやら。今後の差入れが、今日のように調子よくいくようにも思われませんが、私の救対活動も少しずつ私自身のこととしてやっていけるようになりたいと思っております。

※ 救援連絡センターの機関紙「救援」第68号(1974.12.10)を「新左翼党派機関紙」にアップしました。
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html
(つづく)

【お知らせ】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)
午後1時 御茶ノ水「錦華公園」集合
(明治大学裏)
午後2時から5時
アジア青少年センター
千代田区猿楽町2−5−5
参加費4千円

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【お知らせ2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は6月22日(金)に更新予定です。

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今年は激動年1968年から50年目となる。50年の節目ということで、さまざまなイベントや出版が企画されているが、もう一つ、三里塚(成田空港)管制塔占拠闘争から40年目の年でもある。
3月25日、御茶ノ水の連合会館で三里塚芝山連合空港反対同盟(柳川秀夫代表世話人) と元管制塔被告団主催にとる「三里塚管制塔占拠闘争40年 新たな世直しを!3・25集会」が開催されたので行ってきた。
今回はこの集会の概要を掲載する。

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(パンフ写真)
<プログラム>
1)第1部  映画「三里塚のイカロス」上映
 終了後発言 代島監督
2)第2部  集会  
 主催者あいさつ  三里塚反対同盟 柳川秀夫さん 
    、     管制塔被告団 平田誠剛さん
発言 清井礼司 弁護士
発言 平野嫡識さん
メッセージ 加瀬勉さん(ビデオ)
映像 2017木の根幻野祭
発言 大森武徳さん(ビデオ)
石井紀子さんメッセージ(代読)
現地報告(資料説明)山崎宏さん
発言 鎌田慧さん
発言 反空連 渡濃充春さん
   福島 中路さん
      羽田
出席被告紹介 和多田、前田、平田、中路、中川、高倉、太田、児島、藤田、石山、山下、若林、佐藤さん              `
3)懇親会 

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<チラシ掲載のメッセージ>
【空港突入40年の集いにむけて】
三里塚芝山連合空港反対同盟代表世話人 柳川秀夫

世直しの旗が翻ったのは駒井野の強制代執行であった。まさに戦争状態でむかえた代執行。世直しの闘いを宣言することで百姓も誇りを持って闘うことができた。
百姓は畑に種をまくと、訪れる豊かな稔りを迎えるために手入れを惜しまず汗を流す。山の木の手入れ等、何十年も次の世代の為続ける。
闘いも途中で決してあきらめず根気よく闘い続けてきた。作物を育てるのと似たようなものだ。
新しい年を迎える度、又今年も頑張れば来年は勝てると年寄りが話し会っていたのを今も覚えている。作物も今年だめでも来年があるように。
しかし、百姓では出来ないこともあった。今日ではボランティアとかになってしまったが、多くの人達の助けが求められた強行開港阻止という難題。それは果断に生命、人生を代価に3月26日に行われた。
重くて背負いきれない程の快挙であり、大義の春であった,
40年目に何を思えば良いのか,三里塚では世直しはいくさと密接でもあったが。時が移り世の中の在り方を見直すことへと重みが増している。
今あの日に帰って夢は色褪せてないか。さらに輝いているか確かめるのも大切なのかも。世直しの新たな旗が翻るために。 (2017.11.7)

「3・26」の闘いを継承し、新たな世直しへ
元管制塔被告団 中川憲一

1978年3月、時の福田赳夫自民党政権は成田開港を国家の威信をかけた最重要課題と位置づけ、力ずくで3・30開港を図ってきました。1966年閣議決定から、機動隊の暴力を前面に出した国家の土地取り上げと闘ってきた三里塚の農民と支援は、この非道に真っ向から立ち向かいました。
1年を超えた開港阻止決戦の正念場となった3月26日。「空港包囲・突入・占拠」を掲げて菱田小跡に結集した三里塚闘争に連帯する会、労調委などの仲間は、横堀要塞の闘いと連動して空港へ突入。
前日25日夜から下水溝に進入していた私たち管制塔部隊は、26日午後1時、9ゲート・8ゲートからの空港突入に呼応して、マンホールから飛び出して管制塔に駆け上がり、管制室を占拠しました。
時の政権の道理を無視した3・30開港を人民のパワーが阻止したのです。この闘いは、60年代の反戦・全共闘の闘いから70年代連赤・内ゲバという後退とは違う闘いのあり方を示しました。管制塔の闘いは海外の運動にもインパクトを与えたと聞いています。
その後も2005年には皆さんの協力による一億円カンパ運動によって、管制塔被告は政府による賠償強制執行をはね返すことができました。
いま法も道理も無視した安倍政治が憲法改悪を目指し、沖縄では基地建設反対の闘いが続いています。成田空港でも住民を無視した夜間発着時間拡大、第三滑走路の計画が出されています。
このような中で迎える管制塔占拠闘争40年。40年集会を開催したいと思います。
「3・26」40年にあたり、民衆の闘いの歴史を貶め消そうとする体制に対抗して「3・26」を語り継ぐととともに、40年前の闘いをもう一度見直し、その原点を再発見・再定立していきたい。この集会が旧交を温めると共に、78年を知らない人々と共に、その今日的意味を考えるきっかけになれば幸いです。
全国の皆さんの集会への参加と賛同を呼びかけます。

【日本人民の希望と未来の赤旗】
三里塚大地共有委員会代表 加瀬勉

開港阻止決戦・空港包囲・突入・占拠。三里塚空港にディエンビエンフーの戦いを。空港を包囲し突入し、亀井・三井警備局長率いる警視庁精鋭部隊を粉砕し、管制塔に突入占拠し赤旗を翻した。開港を阻止し、ディエンビエンフーの戦いを三里塚闘争で実現させたのである。三里塚で「警視庁敗れたり」と秦野警視総監に言わしめたのである。
管制塔戦士たちが打ち振る赤旗の血潮の燃え滾る鮮やかさは我々の前途を指し示すものであったが、また権力の容赦ない弾圧でもあった。新山君が原君が犠牲になって斃れていった。囚われた管制塔戦士達は冷たい鉄格子、獄中の深い闇、家族の苦難の生活。10年余の歳月。三里塚闘争のさらなる前進と勝利を、日本の夜明けを信じて戦い抜いた。俺たちは万難を排して獄中にいる管制塔戦士に連帯したのか。したと言い切れるのか。問い続ける40年であった。
その問いに一人一人が答える時代が到来してきた。戦争政策遂行、改憲内閣、ファシストの安倍内閣の4度の成立、「三里塚空港機能拡大・夜間飛行制限緩和・空港用地700ha拡大・新滑走路の建設・50万回増便」の10年計画の新たなる攻撃がかかってきた。戦いの思想を魂を管制塔戦士の行動を規範に共に競いあい磨きあってゆこうではないか。団結して前へ。

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3月25日の集会には約250名の参加があり、会場は満席(私は立ち見)であった。
集会では多くの方から発言があったが、そのうち5名の方の発言概要を掲載する。

第一部
映画「三里塚のイカロス」上映
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代島監督 挨拶
「いろんな方々、それからここに参加していらっしゃる皆さんのご協力を得て完成させたような作品です。この前に『三里塚に生きる』という作品を作っているんですけれども、それは闘争の当事者、農民が主人公の映画でした。でも、支援の人たちが三里塚にどう関わったのかということは、とても描きずらいテーマでしたし、『三里塚に生きる』を一緒に撮った大津幸四郎にも『支援にだけは触らない方がいい』と言われていたんですが、僕自身が皆さんより10歳くらい年下の1958年生まれなんですけれども、皆さんの世代の、あの時代の闘争の姿を思春期に見て、憧れていたんですね。だから、ずっとあの問題って何だろうという思いがありました。あと、あの時代が何で挫折してしまったんだろうという思いも一緒に持つようになりました。

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三里塚であの時代を生き、理想に燃えて支援に入った皆さんの映画を作りたいと思ってこの映画を作ったんですけれども、ただ、三里塚もそうですし、例えば、今、沖縄や反原発もそうですが、組織で動いているということがとてもいろんな要素が含まれていて、ここにいらっしゃる方が一人ひとり、ご自分が三里塚でどういう風にしてきたかということを自分に問うた時に、やっぱり、一人ひとりの中にそれぞれの答が生まれてくると思うんです。とてもいろんな要素が含まれた闘争だったと思うんです。ただ、この『三里塚のイカロス』に関していうと、最後にもう一度羽田闘争の写真が出てくるんですけれども、もう一度皆さんに、あの時代を生きた自分を思い出し、問うてもらいたい。これからどう生きていくかを含めて、何か考える材料になればいい。それから、今の10代20代の若い人たちはあの時代を全く知らないんですが、三里塚について理解をしていって欲しい、自分たちがどう生きるかということを大事にして欲しいと思って、この映画を公開しています。
この映画を昨年の9月に公開して、平田さんがフェスブックに『三里塚のイカルスを熱く語る会』というスレッドを開いて友人たちが投稿しています。それとともに、平田さんが『開港阻止決戦って何だったのよドキュメント』をフェイスブックで連載したんですが、それはそれで面白いエピソードが満載なんですが、このドキュメントをどう締めくくるのかと思っていたら、家族、お母さんから獄中に届いた手紙の一節を書いていました。それがすごく僕の心を打ったので、ちょっとご紹介して終わりたいと思います。
『池の柳が芽吹いた。今年は寒かったのに春はまたやってきた。
その足にもの言わせて走れと言って聞かせたのに、逃げる気のないおまえのこと。
かくなるうえは、立ったり、しゃがんだり、足踏みしたりして来たる日に備えよ。』
平田さんは福島の支援をしていますが、もしかしたら来る日に備えて皆さんも、立ったり、しゃがんだり、足踏みしたり、いろんな人生を送ってきたと思うんです。
この40周年の集会は、来る日に備え、考え、どう行動するかというきっかけになるといいなと思っています。
本日はありがとうございました。(拍手)」

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第二部
主催者挨拶

三里塚反対同盟 柳川秀夫
「今日の40周年集会は、反対闘争に関わる戦争のための集会ではない。今日は警察関係はいないと思いますが。40年前もとてもいい日でした。ここにお集まりの皆さんも、3・26の当日に力を合わせておられた方が大半ではないかと思います。
大勢の中で話すことがめったになくて、何を話していいのかわからないんだけれども、今、三里塚の現状から言いますと、新聞などでご存知かもしれませんが、第三滑走路をもう1本造るということで、相変わらず空港を巨大化しようとやっております。昔から住んでいるところがズタズタにされる。反対闘争が始まってから52年になります。当時は村で総決起して反対運動を闘い始めたんですが、今の状況というのはなかなかそうはならない。
皆で集まって力を合わせてというのは、今は出来ないような社会構造になっているわけです。その辺が昔と違うところです。だから、反対の決起集会も全然行われない。私の部落は滑走路に直接かかるところですが、昔は反対運動を部落ぐるみでやってきたところでもあるわけですけれども、誰一人反対という声が上がらない。それは、私の住んでいる部落にも関わることですが、日本全国の農村は昔の共同体というものはもう存在しないということです。個人で生きていくのに不自由しない。こういう社会状況の中で、成田の滑走路が巨大化するという時に、自分を含めた営々と住んできた地域も、すでに一番大事なものではなくて、それをステップにして次の人生を考えようという感じになっている。
三里塚闘争というのは『腹八分目の社会』『世直し』ということを代執行の中で必死になってたどり着くわけですけれども、それは『持続できる社会』ということ、それがやっぱり三里塚の大きな課題だと思っています。

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反対同盟と名乗ってはいますけれども、実際のところ大半の人は去ってしまって、私と数人がいるだけの関係です。三里塚の課題というのは、魂の問題だと思っています、いろんな人が何十年もかかって、いろんな人の思いが結集して、その中で出された結論だと思っています。持続できる社会にするためには、皆が腹いっぱい食べるのではなくて、腹八分目の考え方というのが備わっていかないとだめだと思います。それが今の大きな課題で、滑走路問題があるんだけれども、もう一度そういうものはだめなんだというには、もう1回、ズタズタにされた社会の中の考え方というものを作り直さないと、そういう反対だという考えも出てこない。残念ながらそんな状況になっています。三里塚に限ったことではなくて社会全体の状況ではないかとか思っています。
なかなか物事は進まないですけれど、私も70歳になりましたが、ここにお集まりの皆さんもそれなりのご年配で、最後の頑張りとして、自分が悔いのない生き方をしていく、例えば40年前の今日、明日の日に思った考えや、その生き方というのはいろいろ培われて養われて、皆さんここにお集まりだと私は思っています。そういう意味で、今日は感謝しています。どうもありがとうございました。」

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管制塔被告団 平田誠剛
「管制塔の占拠メンバーの一人だった平田です。管制塔元被告団を代表してご挨拶をするということらしいんですが、本当にいいかげんで、いつの間にか私がここで挨拶をすることにさせられてしまった。管制塔グループらしいです。
今朝起きて、見事に晴れ上がった青い空を見ました。40年前の3・26の暗がりから私たちが青い空に向かって飛び出すところから、私たちの空港の中での闘いが始まりました。
いろんなことを思い出しながら、面白かったことや辛かったことや、あまり管制塔被告団というのは、白い帽子を被って目を吊り上げる人たちとちょっと違って、世の中に悲劇はないと思ているやつばっかりで、全部お笑いだぜ、という世界になってしまっていっちゃたんですね。確かにあの時の闘いで、9ゲートのN君は命を失うことになりましたし、管制塔に一緒に行ったH君も、4年後に拘禁症で、それが保釈中に激化する形で自ら命を絶つという辛い経験もしました。それでもやぱり俺たちは、面白がって生きようぜという風に思って生きてきたんだと思います。
私たちの頃は、鉄パイプを持って行くぞ、と決意して行く。これよりは、今の時代、よく考えたら『そだね〜』と言いながらやっていた方が平和でいいと思う。確かに私たちの頃、40年前には決意をしてやらなければいけない闘争のやり方だっただろうし、私もそれが正しいと思うんです。1ミリもそのことについて譲るつもりはない。じゃあ、今、それを同じことをやるのか?そうはいかないと思います。映画の中にも出てきましたけれども、先人のいろんな苦労を受け取りながら、どうやってそれを今に生かし、今の中で未来にそれをつなげていくか、ということを、やっぱり考えなければいけないんだろうなと思います。

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(映画で駒井野の団結小屋を作る時に)吉田義朗が、花嫁を歌いながらあの道を帰ってきたみたいなこと言ってましたよね。あの道は私たちが空港に忍び行った排水口の一部です。つまり、反対同盟の人たちというのは、外側から管制塔に至るあの排水口の存在は、ある意味常識です。直前になって、それを使おうという計画を作らなければ、たぶん、空港の中の地下構としてあっただけだと思います。
管制塔のカンパ1億円を皆さんにご協力いただきました。ありがとうございました。(拍手)
感謝するだけでは平田の芸風ではないです。金があるなら福島で動いているんだから出せよ、と言ってもなかなか出てきません。でも、私が福島の避難者のところで活動する時に、その拠点になっているのは、1978年3月26日に一緒にいた人たちが、平田が言うんだったらしょうがねえか、と場所を提供してくれたり、いろいろなものを持ってきてくれたりして支えてくれています。それから、私が通っている仮設住宅のおばちゃんたちが、熊本に行きたい、熊本で地震で被災した人たちの仮設住宅を訪ねたい、仮設住宅でどうやって暮らしていくのか、お話を聞きながら話をしてこようじゃないか、という話になりました。お金を集めるときに、なんだかんだと言ってもドンとお金を出してくれる。熊本では、3・26を一緒に闘った人たちが、向こうの受け入れ態勢を作ってくれて、きちんとやってくれました。警察官や役人になる公務員を育てるような専門学校に行って、頑張れよ、いい公務員になれよ、いったん事が起こった時に、どれほど公務員の仕事が辛くて、だけど大事なのかという話をしました。それから被災者の人たちは、体験した自分たちの話を、あなたたちちゃんとやってね、とその困難さと大変さとやるべき仕事の大事さについて語ってきました。それから、仮設住宅に行けば、熊本の人たちがこんなに笑ったり泣いたりできたと言いました。自分の心をきちんと話せない、でも、福島から来た仮設住宅に住んでいる人には自分のことを全部言ってもいいんだ、と思ったんですね。感動的な場面でした。それを俺たちができるか?活動家や支援者にそれができるか?できません。でも、それが出来たのは普通の人たちです。普通の人たちが、そういう辛いところに行って、きちんと相手と心を通じることができる。たぶん、私たちは、そういうところをサポートすること、後ろから黙ってサポートすることが、たぶん私たちに一番求められていることなんだろうなと思って帰ってきました。普通の人たちが、こんなにすごい働きをするような、そういう風に思うようになるんだ、それは熊本の人たちだけじゃなくて、福島から行った人たちがそうなるということについて感動して帰ってきました。とてもい経験でした。
さっき代島さんが言ってくれましたけれど、今、私たちは何もできる力がないと思っているかもしれない。だけど我慢が必要です。我慢して我慢して、目の前にあることに、人々を信じて進むということが、この先、とても大事だろうと私は思っています。
私にとっては、ここがフィールドです。福島のいわきの仮設住宅がフィールドです。皆さん方にも、今、つながらないかもしれないけれど、私たちをつなぐフィールドが、きっとあると思います。我慢しながらそこを進みましょう。心はつながっています。あそこの大熊町仮設住宅の一番しんどいところを支えている人は、実は、あの吉田義朗が(トンネル掘りの)落盤事故で生き埋めになった時に、その後ろですぐに助けていた人です。つまり、お仲間というのは、見えていないけれども、きちんといます。
私も少しずつ、足踏みをする状態になるかもしれないけれど、進みたいと思います。皆さん、一緒に確実に我慢しながら前に行きましょう。」

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現地報告  山崎宏
「こんにちは。山崎です。私は支援として約30年、横堀に住んでいます。いわゆる団体の三里塚現闘という形で存在しているわけです。現地と、全国の三里塚に関心を持たれる、心を寄せられている人たちとのいろんなつなぎ役としてやっています。
現地報告ということですが、主要な問題点については、プログラムに掲載していますので、あとで読んでください。(注参照):
私が毎回、集会で言うことは、三里塚闘争は決して過去にあった闘いではない、現在進行形の闘いであるということなんです。三里塚の問題というのは、キーワードとして挙げるならば『国策である』ということです。反原発建設の闘い、辺野古の新基地建設に対する沖縄の人たちの闘い、これは明らかに国策に対する闘いであり、であるが故に国家権力は全体重をかけて、この闘争をつぶし、自分たちのやりたいことをやってくる、そういう関係性にあると思います。国策であるが故に、現在まで続いている闘いが永続的に続くものであるだろうと思います。例えば、原発建設についても、国家権力機動隊を使った直接的な暴力、そして膨大な金を地元にばらまいてこれをやっていく。これはまさに沖縄の辺野古でも見られるし、現在の三里塚においても進められていることです。

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第三滑走路については、4年くらい前に国土交通省の方から計画が出されまして、第三滑走路を2030年までに建設する、東京オリンピック・パラリンンピックに向けて旅客の増大が予想されるので、そのために飛行時間を延長するという計画が出されてきました。これに対して、地元の住民たち、とりわけ騒音直下の住民の人たちは大変反発しまして、例えば成田市の川上地区においては、そんなことは絶対に認められないという住民の強い意志が表明されました。そして、横芝光町という空港圏の町がありますが、ここは第三滑走路が建設されると、今でさえ第二滑走路によって騒音被害を受けていますが、その騒音が更に拡大する。横芝光町は、第三滑走路が出来れば、第二滑走路、第三滑走路の騒音地帯に置かれてしまい、町の約4割がその騒音被害を受けるようになる。横芝の自治体町長も、地元住民の力に押されて、合意することをずっと否定し続けてきました。しかしながら、この3月中旬、いよいよ他の市町村の早く作れという圧力に抗することができなくて、住民の騒音被害による反対を切り捨てて、ついに合意してしまいました。それによって、周辺市町が全て第三滑走路計画に賛成しているという事態に今なっています。
朝日新聞の記事の社説の中で、『強まる同調圧力に抵抗できない』と的確に問題点を指摘しているわけですけれども、全体の周辺市町が合意しない限りこの計画は前に進められない、だから横芝に対しても無言の圧力をかけて屈服させて、関係市町村全体が第三滑走路建設に合意していくという構造ができあがってしまいました。これは年度がわりに間に合わせるために、住民の騒音に対する危機意識を切り捨てても、横芝光町の町長が同意せざるを得ないというところに追い込まれていった結果であります。苦渋の選択ということで、本当に住民の受ける被害については切り捨てても、膨大な地域振興策と大量の金をばらまいてやっていくことを認めてしまっているわけです。
この第三滑走路問題については、まだまだ私たちの力が足りないし、地域の行動そのものが、現地の皆さんが話されているように、社会的構造が変化していく中で、なかなか反対の運動を作り上げていくことができないという厳しい状況に入っています。これについても、私たちは更なる闘いを支援する、推進していく義務があると思います。私たちは『三里塚空港に反対する連絡会』という首都圏を中心にして仲間たちが、毎年2回、東峰現地行動というものを行っています。このように、今、私たちの仲間は、ごく少数で細々とした運動を取り組んでいるわけです。逆に少数であっても、そういった意思を表明し続けること自体が非常に大事なことだと思っています。

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それから、皆さんに知っていただきたいことは、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて飛行時間の延長を打ち出しているわけですけれども、2002年サッカーのワールドカップが行われた時も、それを口実に平行滑走路を造るということで、東峰地区の農地を分断し、そして住宅を分断して、部落を用地内に組み込んで、平行滑走路を開業しました。このように常にスポーツイベントが、自分たちの野望を遂げるための大きな要因として扱われてきたということがあると思います。
最後に、映画の中でもパレスチナとの連帯ということがいわれていましたが、やはり現在も、三里塚空港反対の闘いは、パレスチナ連帯という言葉に象徴されるような、反帝国主義、国際連帯の代名詞でもあると思います。私たちもこれから、この国際連帯ということでも、三里塚闘争を闘っていきたいと思っています。」

(注:プログラム)
<成田第3滑走路建設一飛行時間延長反対の闘いを!>

 国土交通省一成田国際空港会社は資本の利潤の追及のために空港機能の拡大をはかろうとしている。2030年度までの第3滑走路の建設、2020年東京五輪・パラリンピックでの旅客の増大をロ実にした夜間飛行制限時間の緩和(現行午後11時から午前6時までの7時間を午前1時から5時までの4時間)を決め、さらに平行(B)滑走路の北側延伸計画まで提示した。
 国・千葉県・関係9自治体・空港会社からなる四者協議会はこの計画を推進するために住民説明会を各地区で行ってきた。移転対象となる佳民、新たに騒音地域となる住民、騒音がさらに増大する騒音地域住民からは厳しい批判の声が上がり、断固反対が次々と表明された。この結果、空港会社は飛行制限を現行より1時間短縮するという見直し案を提示し住民に説明した。しかし、住民はこれにも納得せず、なし崩し的にさらに短縮するのではないかと不信感を募らせている。
 しかし、関係自治体は住民の反対を無視し、交付金の増額・地域振興策と引き換えに空港会社の見直し案を受け入れ「早急に地域振興策を」と、前のめりになっている。住民の生活を破懐してでも一部の利害関係者の利益を目指す利権追及の構図そのものである
<裁判所を使った強権的土地取り上げ>
 空港会社(当時空港公団)は「成田シンポジウムー円卓会議」の結果、「強制的な手段によらず話し合いによる解決をはかる」と確約し、事業認定を取り下げ、強制代執行による土地の取り上げは不可能となった。
 しかし空港会社はそれ以降、民事裁判に提訴して裁判所の強制力で農民、地権者から土地を取り上げるという手段を取ってきた。それによって用地内の1坪共有地を強奪し、農民の耕作地を取り上げようとしている。
 横堀地区にある反対同盟現闘本部も裁判で土地の所有権を奪ったうえで、建物の撤去、土地の明け渡しを求める訴訟を起こした。一審千葉地裁は反対同盟側の証人調べの申請を却下し、たった4回の書面審理のみで空港会社の主張を全面的に認める判決を下した。控訴審の東京地裁は第1回の公判で突然結審を言い渡し、控訴棄却の決定を行った。
 上告した最高裁は昨年7月上告棄却の決定を下し、判決が確定した。それを受けて空港会社は千葉地裁八日市場支部に撤去の申請を行い、5月31日深夜午前0時から裁判所による強制撤去が行われた。このような裁判所を使った土地の取り上げは強制代執行と何ら変わらない公権力の行使による土地強奪である。
<強権と金の力で空港は建設されてきた>
 成田空港は最初から地元住民の意志を無視して作られてきた。政府と財界、千葉県の一方的な思惑によって三里塚の地に決定され、住民にとっては全く寝耳に水の出来事だった。政府・空港公団は農民の生活の糧である農地を奪い、追い出そうとあらゆる手段を尽くして三里塚農民に襲い掛かった。国家権力−機動隊の暴力を使って体を張って抵抗する農民を弾圧し、また札束を積んで農民を懐柔、分断し空港を建設していった。現在の政府一空港会社のやり方は形こそ違っても本質的には何も変わっていない。あたかも住民の意見を聞くというポーズを取りながら、政府が決めたことは何が何でも進めていくという姿勢だ。
<空港反対の闘いは今も続く>
 現在、空港建設予定地内には成田市の束峰、天神峰、木の根地区に農民・住民が生活し、生産活動を行っている。また芝山町の横堀地区にも反対派の土地があり、政府・空港会社の横暴と闘っている。住民が闘い続ける限り、そして三里塚に心を寄せる労働者・市民が連帯して闘う限り政府・空港会社の思い通りには行かない。
<成田空港の軍事使用を許さない>
 新滑走路の建設は単に経済的な利潤追求という要因に留まらない。空港こそまさに兵粘基地、出撃拠点として戦争遂行のための不可欠の軍事的インフラフである。安倍政権の進める戦争国家体制を阻止する闘いと共に第3滑走路建設に反対していかなければならない。

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発言  鎌田 慧
「今、映画を初めて拝見したんですけれど、中川さんがお連れ合いに手紙を書いたくだりとか、ホロリとさせられました。管制塔占拠がどうして成功したのかということが一つありまして、それとどうこれからの運動をつなげていくのかというのが、これからのテーマだと思います。映画の最後の方で小川直克さんの屋根スレスレに飛行機が飛んでいるシーンがありまして、これも胸打たれる光景でして、あそこの2階に泊めてもらって、飛行機が来るとどれだけの騒音になるか体験したことがあるんですけれども、相変わらず今のああいう形で騒音直下にさらされて暮らしている人がいるという、この空港の残酷さというのが改めて感じられました。そして、最近行っていないなという犯罪的な意識になったりしました。そういう意味で、みなさんもいろんな思いで映画をご覧になったと思います。
私は『廃港要求宣言の会』という団体で、『連帯をする会』と一緒に全国的に宣伝をしていくという形で、反対同盟の新聞を作ったり、全国集会をやったり、パンフレットを作ったりしていましたが、やはり三里塚闘争というのは戸村一作さんのことをやっぱり思い出すわけです。
この映画で触れられていなかったのは、労農合宿所のことが出てこなかったんですが、今日、ここに集まっている人たちは、現闘にいた人たち、あるいはその周辺で頑張っていた人たち、あるいは全国的にいろんな地域で頑張って三里塚に結集してきた人たち、そういう人たちが同じ思いで集まっていると思います。『連帯する会』は上坂さんというう人が、本当に歯をくいしばって頑張っていまして、彼は大阪に住んでいたけれど、ずっと東京で暮らして運動の全国化に頑張っていて、やっぱち忘れられていない人だったと思います。『廃港宣言の会』は前田俊彦さんが労農合宿所のそばに家を作りまして、住んでいました。九州に帰って亡くなられましたが、そういう人の死がありますね。
それから闘争では三ノ宮さんが自殺し、新山さんとか原さんとか、そういう方々の死がありまして、東山薫の虐殺というのもあったと思います。闘争があったときに催涙弾が飛んできているわけですけれども、プラスチック製の万年筆よりもう少し大きい銃弾ですね、硬質のプラスチックの弾が飛んで落ちていたのを見ています。それに当たって怪我した人は聞いていませんけれど、そういう形で大弾圧だったし、それに対する闘争でもあったというのは、やはり歴史的にキチンとしておきたいと思います。
そして強調したいのは、管制塔占拠というのは突出した闘争のように思われていますけれど、そうじゃなくて、やっぱりそれを管制塔の戦士たちに実行させた広い運動があったということです。それは岩山鉄塔の前からずっと準備されており、岩山鉄塔戦があり、横堀要塞があって、そして大鉄塔があって、そして管制塔という闘争の積み重ねという、これは農民たちが実際に要塞に入って、彼らが逮捕されて投獄されていったんですね。ごく普通の農民が逮捕されて刑務所に入っていたという、そういう風なことがあったわけで、これは歴史的な闘争で、それは秩父困民党の闘争でもあったし、足尾銅山の谷中村からの数度にわたる『押し出し』で、東京に向けた人民の『押し出し』が弾圧されて逮捕されるという、そういうこともあったわけだし、近くは砂川闘争もありました。そのようないろんな闘争の思いが、ぞれぞれの人の胸に刻まれて、ああいう風な大闘争が成功した。しかし、私は『第二第三の管制塔を』という言い方はあまりしない。無理なんです、それは。管制塔を占拠するというのは、あの当時の闘争で、盛り上がった形で決起し、成功できたわけで、それをいつも幻のように追い詰めて、あれができないから駄目だと言っているのでは運動にならないわけで、管制塔占拠しなくても勝てるような運動をどのようにして作っていくのか、そういう風な作り方が今問われていると思います。
それは、例えば沖縄の辺野古闘争もカヌーでピケを張ったり、ピケで車を止めたり、運搬するトラックやブルドーザーを止めるという形でやっているわけですけれど、それは素手で闘う非暴力闘争ですけれども、管制塔は非暴力闘争の一つの頂点を実行した、実践した。しかし、それに続く闘争という形ではなくて、それを更に上回る闘争、あれだけの知恵と組織と準備と熱意と勇気とを、他の現場でどういう風にして私たちが日常的に作っていけるのか、そういうことが問われていると思います。

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空港建設は国家的事業ですけれども、何とこの国家はひどい国家でしょうか。安倍首相の昭恵夫人が名誉会長になっていた、たかだか学校の建設にために国有地を8億円も安くするという、安倍と安倍の妻のやったことじゃないですか。それを官僚に責任を取らせて逃げようとしている。安倍が首相でなければ、安倍昭恵は8億円を安くする学校の名誉会長に納まるわけがないので、彼女が名誉会長だから8億円を引いたというのは歴然としているわけで、こういう腐敗した堕落した国家のために、私たちはどうして死ななければいけないのかという根本的な問題と、今、三里塚の人たちの思いを、今、私たちはどう胸に刻んで、原発反対闘争とか沖縄の闘争とか、さまざまな問題、年金も悪くなり、非正規労働者が希望もなく働いて、倒れて死ぬまで働かなければいけないような社会にしている社会に対して、私たちはどのように抵抗し攻撃していくのか、それは三里塚でいろんな運動を広げて、そこからいろんな知恵を出したように、いろんな人たちが話し合って運動を広げていく、そういうことが今問われている、それが今日の集会だと思います。
三里塚闘争は66年の空港計画から始まって、戸村一作さんは闘って闘い抜いて亡くなった、反対同盟の委員長の頭を警棒でかち割るような野蛮な警察、今、沖縄の山城さん、運動の代表をみせしめ逮捕して5ケ月も拘置する。こういう野蛮なことが許されていて、それに対する全国的な抗議がなかなかできない。そういう中心人物を頂上作戦でやっつける。これは戸村一作さんの時はやられているわけです。そいう風にとても狂暴な国家で、ますます腐敗して堕落してきている。なおかつ私たちは何もできていない。非常に残念に思っています。
三里塚闘争の意義というのは、非暴力闘争で成功したことだけではなく、やっぱり持続可能な社会を闘争の中で生み出してきたということです。三里塚の農民、百姓といっていますが、百姓が闘いを宣言した百姓宣言、百姓のプライドというのを打ち出したわけだし、それから有機農業というのもいち早く始めた。それは大地とか自然とか有機とか農業とか、そういうキーワードをいち早く出していた闘争だったということも強調しておきたいと思います。

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あの3・26の日に、菱田小学校に結集した時の、あの決意がみなぎった集会に参加された方がいらっしゃると思いますが、会場に集まって、そこから出発していった日に、私も立ち会うことができて、とてもうれしく思っています。そういう意味で、三里塚闘争あるいは管制塔占拠を単なる追憶で終わらせてはいけない。私たちは三里塚闘争で死んだ人たちの魂を引き受けて、それを追憶するのではなくて、今、まだこういう生活をしていて頑張り足りていない、頑張りきっていないという自省を鏡として、心の中を映す鏡として頑張っていかなければいけないと思っています。
あれから40年経ったわけですけれども、とにかく管制塔占拠を心の中で想起しながら、次の運動をどういう風に作っていくのか、そのバネにしていく、知恵と源泉にしていく、闘争の源にしていくという気持ちを広げていくという、単に思い出に浸らない、今の安倍政権、公文書偽造ということが出てもまだ内閣が倒れないという、こういう瞬間に立ち会って、非常に残念、悔しく思っています。私たちはとにかく三里塚闘争を精一杯掲げて闘ってきましたけれども、まだまだ頑張るべきだったことがあります。今、青行隊から出てくる人は柳川さん一人しかいないという状況になっていますし、それは40年経っても天神峰とかいろんなところにいた人たちの苦しい生活があるし、それは原発の避難者、自主避難といわれますが勝手に逃げたわけじゃない、放射能に追われて故郷を去らざるを得なかった人たち、そういう人たちと、三里塚から追い出された人たちは、やっぱりつながっていると思うんです。そういうことを含めて、私たちは今日の集会を胸に落として、そして追憶ではなくて、更に新しい運動をきちんと受け止めていく、僕はもう寿命が短くて数年しかないわけですけれども、もう少しだけはやれるかなと思っています。皆さん、もう少し頑張っていきましょう。」

※ 管制塔占拠闘争を報じた第四インター機関紙「世界革命」517号(1978.4.3)を「新左翼党派機関紙」にアップしました。
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html

(終)

【お知らせ1】
●10・8山博昭プロジェクト東京集会
シンポジウムと徹底討論「死者への追悼と社会変革」

2018年6月2日(土)
午後2時〜5時
全水道会館(JR水道橋駅徒歩5分)
参加費 1,500円

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【お知らせ2】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)
午後1時 御茶ノ水「錦華公園」集合
(明治大学裏)
午後2時から5時
アジア青少年センター
千代田区猿楽町2−5−5
参加費4千円

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【お知らせ3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は6月8日(金)に更新予定です。
 

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1967年10月8日の「第一次羽田闘争」から50年が過ぎた。昨年の10月8日には10・9山博昭プロジェクト主催の50周年記念集会も開かれた。50年が経つと「歴史」になるといわれるが、そういう意味では「10・8羽田闘争」も「歴史」となったのかもしれない。
私が明治大学に入学したのは1969年4月。その頃の集会では「10・8が切り開いた組織された暴力とプロレタリア国際主義の旗のもと・・ ・」という言葉が必ずアジテーションの冒頭に出てきた。10・8羽田闘争を知らない私のような学生には「ジュッパチ?何のこと?」という感じだったが、先輩たちからゲバ棒が初めて登場した輝かしい記念すべき日として教えられてきた。
 この「10・8羽田闘争」に関連して、当時の活動家による回想などで、前夜の10月7日に、法政大学で中核派による社青同解放派へのリンチ事件があったことが知られるようになってきた。昨年発行された「情況」2017秋号にも「10・8闘争とその功罪」というタイトルで高橋孝吉氏(当時:三派全学連書記長)のインタビュー記事が掲載されている。
 佐藤首相(当時)の南ベトナム訪問に対し、三派全学連が一致団結して阻止闘争を組むべき日の前日に、なぜこのような「事件」が起きたのか?この「事件」の背景については、今まで語られることはなかった。
 この度、10・8羽田闘争50周年を機に、当時、三派全学連書紀局に関わっていたN氏から、10・8羽田闘争を巡る三派全学連内部の視点からの貴重な証言(文章)を寄せていただいた。
今回のブログは、その証言(文章)を掲載する。

【10・8羽田闘争の光と影 −三派全学連内部からの視点―】
この原稿は、2017年10月8日に開催された「10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争50周年」に寄せて書いたものである。その後、ブログ「野次馬雑記」への掲載依頼により、加筆したものである。

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(弁天橋)
<1967年10・8羽田闘争と山博昭君の死>
山博昭君の死は、当時ベトナム反戦闘争を闘った者たちには忘れることのできないことである。
だが、結成されて1年も経たない三派全学連の一員として10・8羽田闘争を闘った者たちにとっては実に複雑な気持ちが同居しているのも事実である。
複雑な気持ちとはなんであろうか。
60年安保闘争における樺美智子さんの死が、あの闘いの象徴であるように山博昭君の死は、日本におけるベトナム反戦闘争を象徴するものである。
このことに誰も異議をはさまないだろう。そして、私が感ずる「複雑さ」は、彼の死の歴史的意味を貶めるものではないと確信している。
ものごとはいつも美しく語られ、同時にあった「負の側面」を語らずに終わる。
この「負の側面」は、すでに語られ、ある程度知られていることかもしれない。
今さら、「負の側面」を語ることに果たしてどれほどの意味があるのか確信を持てないが、三派全学連結成を共に担い、10・8羽田闘争を闘った者たちに残る共通の違和感・複雑な想い=「10・8羽田闘争を美しく語って終わるわけにはいかない」という理由を述べることは意味のないことではないと思える。

<10・8前日に起きたこと>
10・8前日の10月7日、法政大学(中核派拠点キャンパス)において、三派全学連書記長T、都学連委員長K(両氏とも『社青同解放派』)が拉致され、凄惨なリンチが加えられるという「事件」が起きた。
この結果、三派全学連として闘うはずであった「10・8佐藤訪ベト阻止闘争」は、分裂して闘われることになった。
凄惨なリンチを受け、膨れ上がった顔とボロボロになった体を引きずり、抱えられて中央大学講堂に現れた二人を見て、みんな目を疑った。
ここには、全国から結集した学生が明日の10・8羽田闘争に向け、総決起集会を開いていた。
1965年都学連再建、1966年三派全学連結成等の過程で、各派はそれぞれの政治主張を掲げ、論争をし、よく殴り合いの衝突をしたことがある。しかし、それは限度を心得ており、密室に連れ込むなどという陰湿さはなく、オープンで実に爽やか。このような衝突が一度くらいないと全学連大会は盛り上がらず、すっきりしないという実に健康的なものであった。
しかし、10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争を目前にして起きた法政大学での中核派の社青同解放派に対するテロ・リンチは、陰湿かつ凄惨さにおいて、かつてないものであり、それは、大衆運動とは両立しえない性格のものであった。この事態は、ようやくにして結成された三派全学連を分裂へと導くに十分であった。

<原因は何だったのか>
1)ここに至る経緯と要因をいくつかのポイントに絞ってあげれば、次のようになる。
第一は、10・8羽田闘争の全学連総指揮者をめぐる対立である。
10・8佐藤訪ベト阻止闘争を前にして、「全学連の総指揮を誰がやるか」が 重大な焦点となった。
本来であれば、委員長、副委員長、書記長の三役から選べばいい話で、「委員長がやる!」と言えば、即、決まる話である。しかし、委員長A.Kは「自分はできない。しかし、総指揮者は中核派から出す」とし、具体的には、広島大学A.Tを提案した。
理由は次のようなものであった。
「10・8直前の9月14日、法政大学学費値上げ反対闘争で大量逮捕者を出し、委員長Aもそこで逮捕され、釈放されたばかりで総指揮をとることはできない」と。
これに対して、「委員長ができないなら書記長か副委員長が指揮をとるのが筋」と解放派・ブンドは主張した。この時、全学連副委員長はN(静岡大・ブント)、書記長はT.(早大・社青同解放派)であった。
大衆運動組織の原則からすれば当然の主張である。そしてこの時、書記長のTが「Aがやれないなら、俺が指揮をとる」と名乗り出ていた。
今から思えば、「釈放されたばかりだから指揮は取れない」というのはおかしな理屈である。9月14日に逮捕されて20日足らずの拘留で釈放されたのは、幸運な話で、10・8羽田闘争を指揮するのに別段支障はない。10・8の総指揮を執ることは、逮捕され一定の長期拘留を余儀なくされることが前提だから、そこに20日前後の拘留が直前にあったことなど何の関係もない話である。Aにそうした覚悟がないというなら話は別だが、そんなわけはなかろう。10・8佐藤訪ベト阻止闘争を歴史的闘争と位置づけ、並々ならぬ決意を中核派もまた表明していたのだから。
要するに、10・8で逮捕されれば長期拘留を覚悟せざるを得ず、中核派にとってAの不在は、ようやく手に入れた三派全学連のイニシアティブを失いかねない―このリスクは回避したい。更に、『総指揮』も手にすることによって、中核派のヘゲモニーを目に見える形にしたいという欲張りな党派利害を主張したものにすぎない。
この主張が無理筋であることをA、Yは認めざるを得ず、初期、全学連書記局では書記長のTが総指揮を執ることについて、彼らは半ば承諾していたという。(Tは私の質問にそう答えている)   
ここには、党派利害を最優先する中核派政治局の指導方針があり、この方針を無理筋と思うA、Yと中核派政治局の間に微妙な相違が生じていたことは事実である。しかし、A、Yは、最終的には全学連書記局での合意を翻し、強引と思える中核派政治局の路線に転換したのである。
2)思い起こせば、1966年12月に結成された『(三派)全学連』(全国35大学、71自治会、1800人結集)の初代委員長はS.K(明大・ブント)であった。だが、1967年初頭の明大学費値上げ反対闘争において大学当局との「ボス交」が露呈して批判され、初代委員長S.Kは辞任した。代わってA(横国大・中核派)が委員長となった。
ブントにとっては何ともいえず悔しいものだったろうが、彼らは潔くよくこれをのんだ。
大衆運動・大衆組織の原則に沿った在り方が、ここには生きていたのである。
だが、こうして委員長の座を手に入れた中核派は、10・8佐藤訪ベト阻止闘争にあたって、この原則を破壊した。この矛盾した二つのことが、三派全学連結成後1年も経たないうちに起きている。それは、「大衆運動組織と党派の在り方」をめぐる根本問題であった。
この党派は、あらゆる闘争において「主流派の位置」を求め、そのヘゲモニーを脅かす党派に対してゲバルトを伴う恫喝をかけてその芽を摘み取るという「党派性」を持ち、当たり前のように行使してきた。
これを中核派は、「党としての闘い・党のための闘い」と「理論化」し、活動の基軸に据えていた。この「前衛党建設論」こそが安保ブントに欠落していたものとし、その欠落を補う前衛党建設論が黒田理論にはあるとして「革共同黒寛派」に走った理由でもあった。
だが、中核派指導部が培ってきた「ブント的大衆運動感覚」は、革マル派の「徹底した反急進主義・秩序派体質」と合うはずはなかった。この相違は如何ともしがたく、両者は短期間で分裂へと向かうのだが、自派の純粋培養の延長上に「前衛党建設」を目指す「排他的党建設論」は残った。この前衛党論が生み出す党派主義・セクト主義が、全学連という大衆運動・大衆組織に持ち込まれたのである。
ちょっと古くなるが、私の記憶に残るレーニンの次の一節との対比はどうだろうか。
1917年ロシア革命のさなか、「党かソビエトか」と二者択一的に問題を立て、混乱するボルシェヴィキ党員にレーニンは答えている。(ソビエトの多数派はエスエル、メンシェヴィキであり、ボルシェヴィキは少数派であった)
「そのように問題を立てるべきではない。党かソビエトかではなく、党もソビエトもだ!」と。(今、私の手元にレーニン全集はないので、これはあくまでも記憶だが、そう違っていないと思う)
中核派が示したこのような党派主義・セクト主義は、他党派に対するものというより、より根本的には大衆運動そのものに対立するものとして作用し、絶えず矛盾を生み出し続けることになる。
後に述べるが、このことは中核派だけの問題ではなく新左翼全体が内包していた問題であるが、この当時のブント、解放派は、この体質とは無縁であったと思う。
他党派の私から見れば、ブントは「自然発生的大衆そのもの」であり、常にその先頭に立っていた。解放派は、「大衆の自然発生性」を重視し、ある意味では「ブント的」であった。私の眼に彼らは、「愛すべきブント」と映っていた。
3)それにしても、中核派はなぜかくも余裕を失った強硬路線を選択したのであろうか?
彼らが持っている特有の体質・路線のほかに、当時過剰な危機感を持つことになる事態が進行していた。
それは、社青同解放派が首都圏において確実に伸びていたことである。
この時期の解放派の伸びと勢いはかなりのものであった。
1965年に「反戦青年委員会」が結成された。「反戦青年委員会」は、総評青年部、社会党青少年局、社青同中央本部の三者によって、世界的ベトナム反戦闘争の高揚を背景に結成され、共産党、新左翼を含むすべての青年労働者にここへの結集を呼びかける画期的なものであった。(このイニシアティブは、社会党江田派によってとられた!この当時の社会党構造改革派の懐の深さには目を見張るものがある)
都学連、三派全学連の結成は、この流れとも軌を一にしている。
そして、社青同解放派は総評・社会党運動の中にあって、この最左派に位置していた。
要するに青年労働者運動においても解放派は重要な位置を占め、伸びていた。
当時の新左翼諸党派にあって、労働運動に基盤を持っていたのは「解放派」(社会党、社青同東京地本等)、「第四インター」(三多摩社青同、三多摩地区反戦、社青同宮城、宮城県反戦等―これらは社会党・社青同への加入戦術活動による成果である)、大阪中電を軸とする「ブント」(ここでも片山甚一をはじめとする大阪社会党構造改革派の懐の広さが目につく)、三菱造船長崎社研の独立左派グループぐらいであり、中核派は青年労働者の中にまだ基盤を持っていなかった。
そして、この影響は解放派学生運動にも及んでいた。
大衆運動における「大衆の自然発生性とその自立的発展」を重視する解放派の「ローザ主義」は、中核派の「レーニン主義」(党派主義)と一線を画し、学生の中にも支持を広げていた。この『伸び』が、中核派を刺激し、危機感を募らせていた。
4)中核派は、解放派を「総評民同と癒着する『改良主義・敗北主義・日和見主義』である」と批判し、この批判を巡って両派の対立は絶えず生じていた。(この対立は、1969年に再建された「全国反戦」の終焉を告げたあの時へとつながる。それは1971年6月明治公園での全国反戦主催―沖縄闘争集会における中核派―解放両派の軍団化した部隊による激突によって、「全国反戦青年委員会」が名実ともに終りを告げた「あの時」である)(註1参照)
当時、中核派の拠点である法政大社会学部で解放派が学生の支持を受け伸びていた。これは中核派にとって由々しき事態であり、許してはならないことであった。
この時期、中核派の社青同解放派の伸びに対する警戒・危機感は、解放派が認識するよりはるかに深いものであった。
そうであれば、中核派にとって10・8佐藤訪ベト阻止闘争における全学連総指揮者は、中核派でなければならず、全学連書記長T(解放派)の総指揮などあってはならない事であった。
このことが大衆運動・大衆組織の原則を破壊し、統一戦線を解体することにつながるテロ・リンチ事件を引き起こした重要な背景にあったのである。

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(法政大学 1970年)
<ここに至る若干の経緯>
1)10月7日午前10時より全学連書記局会議が中央大学学館で予定されていた。
議題は、①10・8の総指揮者について②10・8の闘争戦術について。
以上二点である。
だが当日、定刻を過ぎても中核派は現れないし、連絡もなかった。
全学連書記長Tと都学連委員長K(いずれも解放派)が、「A、Yを迎えに行ってくる」といって法政大学に向かった。
この何ともいえない楽観的行動は、この時期の健康な学生運動の状況を示していたし、A,Yから「10・8羽田闘争の総指揮は、書記長T」という内諾を得ていたことによるものである。
ところが法政大学では、深刻な「事態」が起きていた。
2)ことの始まりは、10月6日、日比谷野音でのある出来事に発する。
「10・6ベトナム戦争反対集会」(社・共共闘)の現場で、中核派Mと解放派Kが論争した。その中味は、例の「総評民同と癒着した改良主義者―解放派」という批判をめぐってであった。頭にきた解放派KがMをぶん殴った。これに対しデモを終えて法政に戻った中核派が法政大解放派メンバーに暴力をふるった。この暴力行為を聞きつけた早大の解放派が法政大に乗り込み中核派をぶん殴るということがあり、10月7日、その仕返し・報復として法政大解放派の学生が中核派に拉致され、リンチされるという事態に発展した。
解放派にとってこれらは、よくあること。それがちょっとエスカレートしたものという程度の認識だったが、中核派にとってはそうではなかった。両派対立の性格は、中核派政治局の主導によってとんでもない性格に変わっていった。
3)10月7日。この日、中核派政治局(H・S.T・S.K・K)は、法政大学に腰を据えていた。それは、中核派政治局の10・8羽田闘争にかける並々ならぬ決意を示すと同時に、解放派の振る舞いに対する重大な決意の現れでもあった。
法政大解放派メンバーを密室でリンチしながら、「このメンバーを解放したければ指導部が身代わりに法大に出向いて来いと通告した」らしい。(水谷保孝・岸宏一著「革共同政治局の敗北」)
こんなことが起きているとはつゆ知らず(Tは、全く知らなかったと私に語った)、T、Kは法政大に向かった。全学連書記局会議への出席を促すために。
そして、法政大構内に入るや否や中核派に拘束された。T、Kは拉致され、その代償に法政大解放派学生は解放された。
そして、中核派政治局(S.T,H,K)指導による全学連書記長T、都学連委員長K等解放派学生指導部に対する今まであり得なかった陰惨なリンチが行われたのである。
この凄惨なリンチについて詳しくは書かないが、Tによれば、現場にいたY(Aもいた)が耐えられなくて、「もうやめてくれ!」とS.Tに願い出たらしい。かくしてT、K等解放派指導部は解放された。
10・8羽田闘争を指揮するはずだったTはリンチされ、傷を負い、総指揮は不可能となった。さらに、当日の戦術は全学連として意志統一されることはなかった。
かくして、三派全学連の分裂は確定した。
4)中大講堂に全国から結集した学生は、顔が膨れあがり、ボロボロになり、抱えられて壇上に登場したT、Kの姿を見て目を疑い、間もなくにして何が起きたかを理解した。
中大講堂を埋め尽くしていたすべての学生は、直ちに法政大学に向かい、すべての門を閉ざした法政大前で、明日の闘争の指揮をとる三名が抗議のアジテーションをし、明日の闘いへの決意を述べた。
かくして、10・8羽田闘争は分裂した。そして、三派全学連として復元することはなかった。

<10.8当日のこと>
1)10・8当日、中核派を除く全学連部隊は、中大から御茶ノ水―東京―品川を経て、京急大森海岸駅で非常用コックを開け、電車を緊急停止させ線路の石を拾い、角材をもって鈴ヶ森ランプを突破した。
これを見届けた全学連副委員長Nと私は萩中公園に向かった。
Nは萩中公園に結集していた反戦青年委員会の労働者に向かって、「わが全学連は首都高速鈴ヶ森ランプを突破し一路羽田空港に向かって前進している」とアジった。この時丁度、中核派部隊が萩中公園に到着した。

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(萩中公園でアジるN副委員長)
角材に小さなプラカードをつけて登場した中核派は、昨日の今日、萩中公園で中核派以外の全学連部隊との衝突を予測していたかのような構えで登場した。
しかし、全学連副委員長Nのアジテーションを聞くや否や、「遅れてはならじ!」と踵を返して弁天橋に向かった。
実はこの時、鈴ヶ森ランプを突破した全学連部隊は、道を間違え羽田空港と逆方向に向かっていた。
そもそもの誤りは、鈴ヶ森ランプ「入口」を突破し進入したことであった。この「入口」は、本線につながっているのだが、本線は「羽田」ではなく「東京方面」に向かっていた。全学連部隊は突破した勢いで前進したが、「どうも逆ではないか?」という不安がよぎる。前方を走って逃げる警官に「羽田はどっちだ」と訊くと「あっちだ!」と逆方向を指す。「警察を信用するわけにはいかない」と前進するが、「どうも景色がおかしい。向かっている方向は東京方面で、羽田とは逆方向ではないか?!」という声が学生の中から聞こえてきた。指揮者陣は立ち止まり、決断した。「逆だ。方向転換!」―今度こそ羽田へ向かって部隊は前進した。
方向転換し進む先に間もなく機動隊が現れた。
この日の警備体制は、「羽田空港に反対派部隊は一歩も入れない」という警備方針で、穴守橋、稲荷橋、弁天橋に阻止線を敷いた。ここが最重要阻止線であると。高速道路から全学連部隊が来るとは全く考えていなかったのである。
「全学連部隊、鈴ヶ森ランプ突破!」の報を聞いた警視庁はあわてた。予想外の報に急遽機動隊を高速に向かわせた。彼らが、間一髪で全学連部隊の羽田空港突入を阻止しえたのは、わが部隊が方向を間違え、羽田空港突入までに時間を要したからであった。
高速道路「平和島出口」付近でかろうじて阻止線を敷くことに間に合った警視庁機動隊と全学連部隊は衝突した。この衝突の中で逮捕者を出し、全学連部隊は一般道へと押し出された。そしてわが部隊は第一京浜を走り、再結集して穴守橋で闘うことになった。(註2、註3参照)

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(高速道路で衝突する全学連部隊)
2)こうしたことがありながら、二つに分裂した全学連部隊は、それぞれが10・8羽田闘争を全力を挙げて闘いぬいた。
昨日あったことなど忘れ「佐藤訪ベト阻止・ベトナム人民との連帯」を掲げて闘いぬいた。
そして、山君の死を知り、それぞれの闘いを終えて萩中公園に集まった学生部隊は反戦青年委員会の労働者とともに黙祷を捧げた。
山博昭君を追悼する統一集会が持たれたのである。
3)10・8第一次羽田闘争で分裂した三派全学連は、11・12第二次羽田闘争を分裂したままで闘った。(第二次羽田闘争で筆者は全学連副委員長N、書記長T(Tはなんとか復活していた)とともに全学連部隊の総指揮をとった。この時、初めて「ジュラルミンの盾」と「投石よけ防護ネット」が登場した)
翌年1968年1月エンタープライズ寄港阻止佐世保闘争が闘われた。
この時、10・8以前「全学連」を構成したブント、解放派、社青同国際主義派(第四インター)、中核派は、分裂後初めて現地で共同の戦術会議を持った。
佐世保現地における大衆闘争がこれを強制したというべきである。(ブントからN、T、解放派からT,F、中核派からY、社青同国際主義派(第四インター)からN(筆者)。
佐世保現地闘争は社会党・総評傘下の労働者とともに大衆的実力闘争として闘われた。そして、全学連部隊は佐世保市民に圧倒的に支持された。これは、闘争後街頭に立った時、寄せられたカンパへの反応が経験したことのないものだったことに示された。各派ともヘルメットを持って街頭に立ったのだが、ヘルメットは百円札、五百円札で、あっという間に溢れかえった。バスの窓から手を差し出してカンパする人もいた。
この時、早く東京に帰ってこの反応が特殊佐世保的なものか、そうでないのか確かめてみたいと思った。帰って後、東京での佐世保闘争報告とベトナム支援カンパの反応は良かったが、佐世保での反応は、やはり群を抜いていた。
こうした人々の反応は、大衆運動の形成を最優先する統一戦線の在り方とその重要性を何よりも明らかにしていた。
そして、「突出した闘い」とは、それを支える大衆運動が基礎にあって初めて意味を持つのであり、大衆運動を組織することと切り離された「突出」に意味はないことを示している。

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(エンプラ阻止闘争)
<10・8羽田闘争の「負の側面」を明らかにする今日的意味>
1)以上が栄光に輝く10・8羽田闘争とその裏側にある「負の側面」である。
10・8羽田闘争を担った者たちが抱く違和感・複雑な感情とは、山博昭君の死を含み全力で闘われた10・8羽田闘争の誇りといつも同居している、決して忘れることのできない「負の側面」である。
山博昭君は弁天橋の闘いの中で亡くなった。弁天橋の闘いを担ったのは、中核派を中心とする学生諸君である。このことにより中核派の10・8弁天橋闘争は、10・8羽田闘争総体の象徴的闘争として語られてきた。
本来なら中核派指導部の行為は、批判され、闘う人々の信頼を失い、存続の危機に陥る性格のものだった。だが、中核派は無傷で残った。いや無傷で残ったのみならず、圧倒的「優位」を手にした。
その「優位」を維持するために、前日あった事実を中核派は隠蔽しつづけた。
彼らは、事実が表に出ることを恐れた。知っているのは、中核派政治局と指導部のほんの一部のみである。
法政大に結集し、弁天橋で闘った学生のほとんどは、この事実を知らない。当然のことながら、この闘いで亡くなった山博昭君は知る由もなかった。
そして、中核派以外の党派もこの事実を取り上げ、真正面から問題とすることはなかった。このことを取り上げることは、10・8羽田闘争の意義を失わせることになりはしないか?それともことの重大さを認識していていなかったのか?
ただ、違和感と複雑な感情が残った。

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(羽田のデモ隊)
2)こうして、10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争は、11・12第二次羽田闘争、翌1968年1月のエンタープライズ寄港阻止佐世保闘争へと続く日本におけるベトナム反戦闘争の高揚を決定づける歴史的闘争であったことは間違いない。
しかし、この時生じた「負の側面」の真実を明らかにし、しっかりと総括できなかったことは、その後の新左翼運動にとって禍根を残すことになった。
この時期に代表される「学生運動中心の政治闘争」を概括すれば、良くも悪くも「党派活動家集団運動」であり、その性格を脱することはできなかった。これは、60年安保に至る学生運動と比較すれば違いは明瞭である。学生自治会結成から始まった戦後学生運動の歴史を担い、その原則を保持してきた全国学生自治会総連合運動は、「層としての学生運動」として形成され、単なる「党派活動家集団運動」ではなかった。しかし、60年安保闘争の敗北とその過程で生まれたばかりの新左翼の水準がその後の学生運動を規定した。(註4参照)
闘いの高揚を実現したある局面では、党派活動家集団運動を越えた大衆運動の自立的発展が全体を覆うこともあったが(全共闘運動は、その一部を垣間見せた)、それはほんの一時期で、やがて訪れる運動の後退(衰退)局面に入ると再び「党派」が全面を覆いつくすことになる。また、そのようにしてしか運動を持続できなかった現実が、「党派運動」に意味を与えた。大衆性は急速に失われ、後退は衰退にまで至る。
運動の高揚と後退(衰退)は絶えず繰り返される当たり前のことだが、高揚の局面では表面に現れなかった「負の側面」が、後退(衰退)の局面では隠しようもなく露呈する。
10・8羽田闘争前日という高揚の局面で生起した中核派による他者排除の論理とその行使は、運動の後退(衰退)局面では、より一層色濃く中核派もちろん、ブントにも解放派にも現れた。
「社会変革の道」=「革命」と真逆な内部ゲバルト=「内ゲバ」が公然となされ、日本社会を覆った。意見の異なる他者を物理的に抹殺する「内ゲバ」と「革命」が同居していることに疑いを持たない主体=党派―その革命理論・革命党建設論とは一体何であろうか?
ソ連邦共産党における「スターリン独裁政治」を批判したはずの新左翼が、スターリニストと寸分違わぬ他者殲滅の泥沼に陥っていた。
なぜこのようなことが起きたのかは、広い視点から根本的に総括されなければならないし、そのことは今日可能だと思うが、ここでは10・8羽田闘争前日に生起したことの事実とその背景を明らかにし、その重要な意味を内ゲバが公然化する前から示唆していたという指摘にとどめたいと思う。
10・8羽田闘争と山博昭君の死が持つ歴史的意味をおさえながら、同時に起きた「負の側面」にも向き合うこと。この双方を捉えることによって10・8羽田闘争50周年の歴史的意義はより正確に捉えることができるのではないか。10・8羽田闘争50周年は、そのような場でもあってほしいと思う。
「美しい物語で終わらせてはならない」というのは、そういう意味である。
3・11東日本大震災・福島第一原発事故以降、新しい社会運動が芽生え始めているのだからなおさらである。
 「自由とは、常に思想の異なる者の自由である」(ローザ・ルクセンブルグ)
「単なる同一性ではなく、多様性を許すような同一性へ」
「他者(他人)を手段としてのみならず、目的(自立した個人)として扱え」
(カント)
  2017年9月
               N.T(元第四インター・社青同国際主義派)
<註1>
1965年に結成された反戦青年委員会については本文で触れたが、諸々の事情により機能不全に陥っていた反戦青年委員会の再建によって生まれた「全国反戦」について述べたい。このことについては、江藤正修遺稿集「社会的労働運動の模索―明日を見つめた格闘の記録」第一章の「反戦青年委員会の総括」が事実を正確に語っているので少々長くなるが引用する。
「・・・ところが全国反戦は、68年3月から機能麻痺・凍結状況が続き、このような新たな情勢に対応する全国展開ができない事態が続いていた。そうした中で、『社会党・総評が動かないのならば各県反戦がまとまって全国反戦を再建すればいい』と考えた宮城県反戦の今野求さん(宮城県評オルグ・第四インター)は、69年初頭に上京して全国県反戦青年委員会連絡会議(全国反戦)の結成を呼びかけた。このオルグは、宮城、埼玉、神奈川、石川、大阪、徳島、福岡、長崎など11県反戦呼びかけの4・20全国集会(沖縄闘争)へと結実したのである。
この時に、全国反戦の世話人に選出されたのが今野求さんと村上明夫さん(埼玉県反戦)である。第四インターの今野さんはともかく、主体と変革派結成以前(主革派結成準備会は同年8月)の村上さんが世話人に選出されたのは、新左翼諸党派にとっても社青同反戦派の存在が総評・社会党との関係で重要だったからにほかならない。
こうして全国反戦は、同年11月の佐藤訪米阻止闘争を頂点とするベトナム反戦闘争、沖縄闘争、三里塚闘争などを全国全共闘、ベ平連と並ぶ全国運動のセンターとして、71年6月まで闘い抜いた。しかし、全国反戦再建以降、顕著になったのは新左翼諸党派の内ゲバを含む対立の激化であり、反戦青年委員会の党派軍団化である。
結成スローガンとしての自立・創意・統一を掲げた反戦青年委員会運動は、労働疎外と労働組合の官僚化が進む青年労働者の日常から、そのみずみずしい感性を解き放つ場であった。彼らのエネルギーは街頭闘争での戦闘的デモンストレーションで噴出すると同時に、職場における支配の網の目を突き破る職場反戦の運動としても体現されていた。
ところがこの時期、反戦青年委員会では職場と街頭が対立的運動スタイルとして語られ、職場に重点を置く主張は、中核派などから“日和見主義”の代名詞として批判の的になった。(中略)しかし、右傾化する労働運動と対峙して、職場の変革と社会の変革の双方を貫く闘いを模索しようとすれば、自主管理社会主義をイメージする職場反戦や産別反戦の主張が出てくるのは当たり前である。
(中略)
ところが「根拠地」的な存在(職場反戦、産別反戦を主張する潮流―引用者)は、その後の反戦青年委員会運動の中で多数派を占めることはなかった。反戦青年委員会に結集する多くの青年労働者は軍団としての党派反戦の側に獲得されたのである。68年に垣間見られた社会革命的な運動の要素があっけなく消え失せ、カリカチュア的なレーニン主義に基づく党派軍団化の道に圧倒的多数の反戦青年委員会運動がなぜ進んでいったのか。その原因は、日本の政治・経済・社会構造の何に由来するのか。
反戦青年委員会を取り上げたこの論考で私が言いたかったのは、この点の総括の進化なのである。
全国反戦の解体も、実はこの点と深く絡み合っている。全国反戦世話人であった今野さんが、その解体を71年6月と明言したのは理由がある。全国反戦主催の沖縄闘争の集会が明治公園で行われたが、その場で中核派、解放派の反戦部隊が激突したのである。反戦青年委員会の主軸をなした両党派の軍団化した部隊による内ゲバ的激突によって、総評の鬼っ子といわれた反戦青年委員会は、名実ともに終りを遂げた。」
<江藤正修略歴>
1944年8月17日生まれ。1964年法政大学文学部入学、1968年社青同埼玉地本書記長、埼玉県反戦青年委員会事務局長、1974年第四インター日本支部加盟。1992年労働情報編集長。2017年5月24日永眠。享年72歳)

<註2>
鈴ヶ森ランプには「入口」と「出口」がある。「入口」から入ると、この道は東京方面に向かっている。「出口」は、文字通り出口である。しかし、「出口」から入り、これを逆走すれば羽田空港に向かうことができる。だが、1967年10・8当日全学連部隊は、このことを認識していなかった。そして、「入口」から突入した。このため、「東京方面」に進撃することになったのである。
途中で気がついて方向転換するが、幸か不幸か、警視庁が羽田空港防衛のためこの区間を車両通行止めとしたため車は来ず、悠々逆走できたのである。当時の三派全学連書記長T(解放派)の話によれば、10・8、3日前に解放派指揮者を乗せ高速を走り、現地を下見したという。しかし、「肝心な時に間違えて…」と話してくれたが、この間違いは仕方ないと思う。
あの頃「四輪自動車」の運転免許証を持っている学生など僅かで、日常的に運転している者など皆無、高速道路を運転したことのある者などいなかったのではないか。
ことほど左様に当時の闘争はどこか抜け落ちていることがいっぱいあり、決意に満ちた真面目なものであったが、笑い溢れるおおらかなものであった。
そして特質すべきは、闘争の経路―「京急大森海岸下車―高速道突破」の指示は、部隊の責任者のみに限定され、事前に漏れることはなかったことである。警視庁は、「鈴ヶ森ランプから全学連乱入」の報を聞くまで全く知らなかった。「寝耳に水」であったことだ。

<註3>「ゲバ棒」について
この時登場した「ゲバ棒」・「角材」についていえば、「闘争前日、中大で机、椅子を壊して作った」説と「大森海岸駅で線路に飛び降り、線路に敷き詰められた石をもって駅前に出たとき、路上に止められていた「1トンの平ボディートラック」に山積みされた角材があり、これを持った」説と二説あるが、この二つとも正しい。
前者は私も現認している。後者は、当日全学連総指揮の一人だったY(横浜国大・社青同国際主義派)に確認している。そして、三派全学連書記長Tは、「角材は、解放派がトラックに積んで用意した」と話してくれた。さらに「ヘルメット」についていえば、10・8では指揮者も含めてほとんど被っていない。高速道路突破の最先端を担った各派の指揮者もノンヘルがほとんどである。第二次羽田でデモの最先端にヘルメット姿が見られるが、部隊のほとんどはまだノンヘルである。「ヘルメット、角材」が大衆的に登場するのは1968年1月の佐世保闘争からである。この時角材は、ブントが鳥栖駅から列車で持ち込んだのと佐世保現地の材木屋に行って「なにがしかの金を置いて」手にした覚えがある。
ところで、10・8の「角材」について「本当は、対中核派用に用意された『ゲバ棒』だ」というデマがまことしやかに流れているようであるが、これは全くの嘘である。
10・8前夜、中核派への抗議で法政大に向かった時も「角材」を持って行ってはいないし、10・8当日、「高速道路突破前に中核と衝突すること」などありえない。当時の指導部に「中核派とのゲバルトのための角材」など考えたものは一人もいない。
中核派が萩中公園に登場する前にわが部隊は、鈴ヶ森ランプ突破行動を開始しているのである。中核派もまた「高速道路突破」戦術は「寝耳に水」だったのである。
噂は、「社学同ML派」筋からと聞いたことがあるが定かではない。
社学同ML派と10・8羽田闘争についていえば、「ML派は10・8羽田闘争にはいなかった」というのが真実ではないか。当時、横浜国大のML派は、10・8羽田闘争を一度も呼びかけていない。

<註4>
柄谷行人(1941年生まれ、哲学者)は、著書「可能なるコミュニズム」(2000年1月、太田出版)の「序言」の中で「学生運動」の重要性に触れ、次のように書いている。
「・・・最後に、そして最も重要なのは学生運動の問題である。日本の学生運動は、戦後、全日本学生連合―学生のアソシエーションとして始まっている。それは、戦前、あるいは、今日のそれとは決定的に異なっている。それは、学生を、階級ではないが、一つの階層、その成員が数年で入れ替わるとしても総体としてはつねに存続する自立的な一階層として見る考え方に基づいている。それは政党や労働者の運動とつながることはあっても、それらに従属することなく、普遍的な課題を自立的に追及すべきである。これは、全学連を組織した初代委員長武井昭夫(てるお)氏の考えであった。そのことを知る人は稀だが、実は、ブント全学連から全共闘に至るまで、この武井氏の考えが貫かれていたのである。
しかし、それをつねに脅かし破壊する考えが、マルクス主義の主流―旧左翼であろうと新左翼であろうと−にあった。それは、革命の主体は労働者であり、また、生産過程にこそ闘争の中心があるというものである。だから、学生運動は副次的であり、労働運動に従属すべきだということになる。
しかし、実際のところ、生産過程(職場)で労働者が「主体」であることなどありえない。したがって、学生は革命家としてそこに入り込んで、彼らの意識を変えなければならないということになる
かくして、学生運動は革命政党に従属し、あるいはその養成所でしかないということになる。
これは戦後の初期から、全共闘の時代にまで存在した問題である。事実上学生運動しかなかったにもかかわらず、それがいつも否定されてきたのである。その結果、日本では、労働運動のみならず、学生運動そのものが実質的に消滅してしまった。私は、それがポストモダニズムに固有の現象だとは思わない。それはむしろ日本的な現象である。実際には、学生たちは何かをやりたがっている。しかし、そうすることができないのは、かつての新旧左翼が亡霊のように徘徊しているからである。阪神大震災の時、私は多くのヴォランティア学生を目撃したが、それはまさに学生運動であった。もともと学生運動は根本的にヴォランティアだったのだ。それを否定する理論が学生運動を破壊したのである。
資本への対抗運動の中心を、流通過程、つまり、「消費者としての労働者の運動」に見出すならば、学生のもつ意味は決定的に変わってくる。学生は労働者ではないが、将来において労働者となる。その意味で、学生の運動こそ「消費者としての労働者の運動」を観念的に先取りするものである。学生の考え方は抽象的で普遍的でありすぎる、という非難は、的外れである。むしろそうだからこそ、価値があるのだ。労働運動や市民運動は、具体的な利害によって左右される。もちろん、個々人はいつまでも学生でいるわけではない。しかし、階層としてはつねに存続する。学生運動は、政党・市民運動と連帯することがあっても、それに従属すべきではない。また、それは、かつての学生運動の真似をする必要はない。まして、元左翼のノスタルジーに付き合う必要はない。
それは独自のアソシエーションの方法を編み出すべきである。」
※柄谷行人氏は、1960年に東大に入学。すぐ60年安保闘争に飛び込んでいる。
安保闘争後、柄谷氏は三派に分かれ論争するブントにあって、駒場グループとして「中立」の態度をとっている。ブントが解散したあと、1961年5月に柄谷氏は「社会主義学生同盟」(社学同)の再建を構想する。先ず、駒場で「社学同」を再建。それをもとにして全国的な社学同再建のアピールを書いた。このアピールは、「無名の学生が書いた」といわれているが、書いたのは柄谷行人氏。
柄谷氏はこのことについて、次のようにいっている。
「僕は、社学同再建にあたって、前衛党としてのブントを目指すことを否定しました。僕が考えていたのは、事実上「全共闘」のようなものだといってよいと思います」(「政治と思想」2012年3月刊、平凡社ライブラリー)

以上、N氏の紀行である。
10・8羽田闘争を巡る三派全学連の内部の動向について、正面から書かれたものは今まで公表されなかったと思う。そういう意味では、貴重な証言である。
(終)

※ 10・8羽田闘争を報じた「戦旗」(1967.10.15)を「新左翼党派機関紙」にアップしました。
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html


【お知らせ】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)
午後1時 御茶ノ水「錦華公園」集合
(明治大学裏)
午後2時から5時
アジア青少年センター
千代田区猿楽町2−5−5
参加費4千円

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【お知らせ2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は5月25日(金)に更新予定です。 

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2018年3月4日、御茶ノ水の連合会館で、昨年11月に亡くなった元赤軍派議長塩見孝也さんの「お別れ会」があった、
私は、塩見さんとは10年ほど前、ある会合で一緒になり、名刺交換をしたことがある。塩見さんとの接点は、その時の1回のみである。「お別れ会」の案内状を見ると、「交流の濃淡を問わず参加を」ということなので、参加してきた。
今回は、その「お別れ会」第一部の発言をまとめたものである。
※ ブログの字数制限2万字を超えるため、昨日と今日の2回に分けて掲載しています。

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【「塩見孝也お別れ会」後編】
村田(司会)
「若い人はご存じないかもしれませんが、昔、三派全学連というのがありました。このネーミングは革マル派なんです。三派の寄せ集まりで、三派一緒にやってもいずれ分裂するだろうということを揶揄するために三派全学連という名前を付けたんです。これが学生運動の高揚期と重なりまして、新聞にも三派全学連が堂々と載るようになったんです。10・8から王子、成田闘争と学生運動の発展期にありましたので、三派全学連という名前が市民権をもつようになった。だから揶揄されている我々の方も、三派全学連は野暮と思っていたのがかっこいい響きになってきたので、我々も三派全学連を使うようになってきた。これから何人かの方は、その当時の三派全学連のリーダーの皆さんにご発言をお願いしたいと思います。
最初に三派全学連時代の東京都学連委員長の三島浩司さん、旧名山本浩司さんです。」

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三島浩司(元東京都学連委員長)
「今、司会の方が仰いましたけれども、私たちの時代はいわゆる三派の時代。私が塩見孝也さんと初めて会ったのは、おそらく1963年の春だったと思います。1963年の春は、全国自治会代表者会議が京都でありました。場所は京都先斗町の芸者さんとか舞子さんがお稽古するところです。彼と知り合ったのはその頃で、彼は本能寺のあたりの下宿に住んでいました。それからしばらくして、個人的にも親しく付き合いまして、京都に行った時は彼のところに泊めてもらいました。
連合会館のすぐ近くに全電通会館がありまして、65年の7月に都学連の再建大会がありました。その都学連再建大会以降、彼はしばしば東京に出てきている。それから1年くらいで常駐するようになったと思います。
彼らしい面白いエピソードがあります。白川さんの話でロマンチストという話がありましたが、彼が東京に出てきて、何人かと一緒に新宿の飲み屋で飲んでいて、彼は何を思ったのか、店の若い仲居さんに『私は京都から出てきた塩見孝也と申します。全学連再建のために東京に出てまいりました。付き合ってください』(笑)無理だと思いますけれども、そういうことを言った。彼とはそういう風な付き合いで、よく飲んだ。その後、あまり付き合いはなかったんですが、72年の連合赤軍事件の前に彼は逮捕されて、連合赤軍事件でかなり参っているのではないかと思い、当時の東京拘置所に会いに行った。事実、かなり落ち込んでいて、第一声は『すべて俺の責任だ』と言っていました。塩見に『全部自分の責任だというのは、ある種ごう慢じゃないか。お前がそんなことをできるわけがない』と言った。
塩見は新潟刑務所にいて、府中刑務所に移されて、出たときに府中での出獄の歓迎会で20年ぶりに会った。その後、彼と平壌に行ったりした。彼とは大勢で一緒に飲んでいたが、二人だけでじっくり飲んだ経験はないような気がします。
陶淵明に『長い年月を経ってみれば、栄誉や知力は何でもない。ただ、この世を去るにあたって残念なことがあるとしたら、もうちょっとだけ酒を飲みたかった』という意味の詩があります。
やがて私も行くと思いますので、今度はゆっくり彼と飲んでみたいと思います。」

村田(司会)
「次の発言者として、秋山勝行さん又は吉羽忠さんと書いてありますが、江戸川区の前進社あてにご案内の親書を出しましたが、返事がきませんでした。今日はお見えになっていませんので、残念ながら発言はないということになります。
ブントの当時の書記長だった渥美さんにご挨拶をお願いします。」

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渥美文夫(元ブント書記長)
「塩見とは長い付き合いがあったわけですが、塩見孝也でまず思い出されるのは、第二次共産主義者同盟結成のために共に頑張ったことが思い出される次第です。
しかし、1969 年7月、塩見孝也が前段階武装蜂起を主張しました。私はそれは時期尚早である、そこまで情勢は煮詰まっていないと考え、塩見孝也と別れた。連合赤軍事件は、森あるいは永田の指導者としての問題があると思いますが、私は、連合赤軍事件というのは、まさに塩見が唱えた前段階武装蜂起という政治路線が具体的に破綻していくプロセスそのもの、政治路線的な事件として我々は捉えなくてはいけないいと考えます。
塩見と話をしても、最後までそれは受け付けませんでしたが、私はそのように思っています。
1970 年以降、我々の運動は後退を強いられてきました。その中で大きな要因として、連合赤軍事件と内ゲバが指摘されてきました。私は確かにそれは大きな要因であったと思っています。しかし、我々左翼の後退というのは、日本的な現象というよりも、むしろ世界的に我々左翼、共産主義の運動が後退を余儀なくされている、これは事実だと思います。その原因は何であるか考えた場合に、その一番大きな要因は、ソ連の崩壊と中国の変質、これが非常に大きな要因として我々に突き付けられていると思います。実際に今のロシア、中国、これは開発独裁というか国家資本主義です。そういう現実を突きつけられる中で、私たちはそれをどうとらえ返すのか。確かに我々はソ連共産党の官僚化、腐敗を指摘し彼らは世界革命の立場を捨てて、各国の革命運動を自国防衛のための道具にする、そういうことを我々は厳しく批判してきました。しかし、ソ連崩壊 中国の変質、そういうことは、我々にさらに厳しい課題を突き付けている。
今年はロシア革命100 年、中国革命70 年、ここで示されてきたことに対して、裏切りである、腐敗であるということだけでは済まない。70年100年というのは一つの歴史の重みだと思います。ロシア革命の100年、中国革命の70年を考えると、いったいプロレタリア独裁と一党独裁はどう違うのか。結局のところ一党独裁でしかない。これを我々はどう総括するのか。我々はブルジョア民主主義ということで、いつもこれを見下してきました。しかし、実際のプロレタリア民主主義とは何だったのか、ということが問われている。それに対して、我々は、今や明確な我々が考える政治システムを提起しえない。ただソ連共産党の腐敗、中国共産党の腐敗というだけでは、不十分である。さらには、中央集権的な国有化経済というものが、実際には経済合理性を差別化していった、これも事実として我々に突き付けられた。あるいはスターリンのコルホーズ政策、あるいは毛沢東の人民公社方式を我々が批判するとするならば、我々はどういう農業政策を持っているのか、そういう我々が考える政治システム、我々が考える政治経済政策について、我々がより立ち入って、我々の考えを鮮明にさせていく、そのことを抜きにしては我々は進むことはできない、そういうことを私は突き付けられてきたと思っています。
今、搾取と抑圧、支配と差別に反対する戦いは全世界いたるところで展開されています。。しかしながら、それらの運動と共産主義とは乖離した状況にある。共産主義思想は何らヘゲモニーを持っていない。そういう中で、我々の道はロシア革命100年、中国革命70年の歴史総括を内包したものとして提起されなればならない、我々は圧倒的に立ち遅れている。我々は急がなければいけない。
以上、塩見孝也お別れ会の言葉とさせていただきます。」

村田(司会)
「次から元赤軍派関係の方の発言をお願いいたします。高原浩之さん。」

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高原浩之(元赤軍派)
「私は、第二次ブンドと赤軍派を通じて、塩見孝也とずっと政治行動を共にしてまいりました。そういう意味で、その間の政治的責任を共有するという立場で、少し思いを述べさせていただきたいと思います。
 まず、赤軍派についてどのように思うのか、ということですけれども、赤軍派が70年闘争を飛躍的に発展させたいという思いから結成されたことは間違いありません。しかし、現実に起きたことは何かというと、第1に7・6事件で第二次ブンドを崩壊させた。第2に起きたのは何かというと、連合赤軍事件。この事件は人民の闘争に壊滅的な損害をもたらしたことは間違いないと思います。なぜ起きたのか?赤軍派は実際に武装闘争に着手する前に、大菩薩峠で多くが逮捕されて基本的にはそこで挫折しました。にもかかわらず、人民に依拠しない、革命の原動力の点では根本的に誤っていた革命戦争路線を引きずった結果というのが連合赤軍事件であったと私は思っている。その赤軍派の路線が破綻したときに、いったい何で組織が維持されたのか。リンチでしょう。このことによって組織を維持する。それは革命運動の中にずっと蝕んできていた悪い『体質』が、いわばそこの路線の全面的な破綻の中で噴出してきたと考えざるをえないと思います。事件の後、当然、人民に依拠する、そういう路線に転換することを我々は問われました。実際、自己批判と総括を行って、赤軍派という組織はなくなりましたが、関係者はそのような路線に転換していったと思います。
しかし、連合赤軍事件というのは、もっともっと悲惨であると考えています。『時代』だとか『夢』だとか、そういう言葉で赤軍派の指導路線の責任をあいまいにしたり、あるいは赤軍派を美化するのは止めていただきたい。赤軍派の指導路線に問題があったわけですから、赤軍派の指導部は、当然、根本な誤りは路線にあったと認めなくてはならない。その上で、連合赤軍事件で殺された同志に対して謝罪する。また、さらに連合赤軍事件で生き残った人たちも、極めて不本意な形で他人を殺している、人生を破滅させている、そのことに対しても赤軍派の指導部は謝罪しなければいけない。あるいは、さらに、赤軍派関係者の中にも、多くの人が人生を狂わされている。そういう関係者全員に対して謝まらなければいけない。そういう意味で、この『会』は赤軍派の問題に関して決着をつける、けじめをつける、そういう『会』になるべきであると私は思っています。そういう意図で発言しています。ここに塩見孝也の写真が飾ってありますが、同時に連合赤軍事件で殺された山田孝とか遠山美枝子とかの写真も飾るべきでしょう。あるいは、事件の責任をとって自殺した森恒夫の写真も飾るべきでしょう。そういう意味で赤軍派に結末をつけるのがこの『会』だと思っています。私にとって赤軍派は、今、後悔とそして贖罪以外の何物でもないと思っている。
次に私が申し上げたいのは、赤軍派を生み出した第二次ブントと塩見孝也についてどう思っているかということですが、昨年は羽田闘争50年でしたが、70年において、新左翼は、三派全学連とか全共闘運動あるいは反戦青年委員会を通じて学生大衆と結合し、一部の青年労働者と結合し、数としては社共・総評ブロックより少数ではあったかもしれませんが、明らかに70年闘争全体をけん引していた。そういう中で第二次ブンドも、それなりの役割を果たしましたし、塩見も第二次ブンドの有力な指導者であったと思っている。
この70年闘争は21世紀の現在でも非常に大きな意義がある。例えば新左翼の代名詞はいわば実力闘争ですけれども、これが大衆を捉えましたけれども、それは日帝打倒、プロ独、社会主義革命という新左翼の政治路線を抜きには考えられないものです。この実力闘争の思想というものが、直接民主主義ですけれども、現在的には『自己決定権』とか言われるものであって、それは、今後、コンミューン・ソヴィエトとつながっていく、そのようなものだろうと思っています。また、70年闘争はベトナムと中国、民族解放闘争と文化大革命に対する共感と連帯と支持とを大きな力として、世界的な闘争で『68年革命』といわれましたけれども、そういう闘争として日本の人民運動の中にアジアと連帯するという思想と体質を根付かせたと思っています。このアジアと連帯するという体質も、70年闘争以降、ずっと日本の人民闘争に根付いてきている体質だと思っています。
それから考えると、塩見の『過渡期世界論』は帝国主義から社会主義への過渡期である。そこにおいては3ブロックの階級闘争が結合するといわれましたけれど、何よりも、ロシア革命以降、民族解放闘争・社会主義革命の発展は、アジアにおいてなされていく。そのアジアの革命と日本の社会主義革命は結合する、というところに根幹があったと思いますけれども、こういう時代認識は現在も引き継がれていると思っています。
以上の点で、私は赤軍派の罪は大きい、後悔と贖罪であるというと同時に、第二次ブントが存在した意義、そこで塩見が果たした役割というものを、やはり高く評価しなければならないと思っています。

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我々70年闘争の世代が、最後に何を残していかなければいけないのか。
2015年の反安保法闘争を頂点として、人民闘争が発展に向かっていますけれども、その人民闘争というのは、一つ一つの課題、例えば民族・女性・部落などの差別問題が大きいだろう。あるいは労働者階級の『下層』という問題がとても大きいと思う。私は直接大衆運動には関与しませんけれども、その運動を見ると、新左翼がその運動の中で良い体質、一言でいえば実力闘争、自己決定権という体質は堅持しながらも、小ブルジョア急進主義という悪い体質を払しょくし、清算し、人民大衆と結合していたことの結果として。現在の人民闘争はあると思います。その一つ一つの努力は偉大なものであると表現すべきだと思っています。私は70年闘争の世代なので全共闘運動は見ていますけれども、今の人民闘争の5年10年20年をかけた先には、おそらくあの全共闘運動が全人民化し、全社会化するというものが展望できるのではないか。それを一言でいえば人民民主主義といってもいいかもしれないし、革命的民主主義といってもいいかもしれない。そういう運動が目の前にある。あるいはアジアとの連帯について、残念ながら中国はすでに帝国主義になっておりますけれども、日本と中国の2つの帝国主義に反対し、2つの覇権主義に反対する、そういう中で朝鮮、韓国、台湾とか香港とかアジアの民族と国家の独立とか自己決定権を守るとか、そういう闘争を支持する中に、中国とか朝鮮、韓国、日本人民が結合していくという方向も強まっていくと思います。
ロシア革命から100年、いろんなことがありました。私はソ連の崩壊は帝国主義の崩壊だから大変よろしいことであると思っています。しかし、文化大革命が破綻した後の中国の変質、民族解放闘争に勝利した後のベトナムの変質、そして今ある朝鮮の信じられないような現実、これは極めて深刻なことであって、やはりマルクス・レーニン主義そのものを対象にした総括が必要である。そのことによって共産主義の理論を再構築していかなければならない。少なくとも、こういうことが起こったのは、我々の時代ですので、我々の世代の大きな責務として、それを総括するために一歩でも二歩でも踏み出していくのが我々の責務ではないかと思っています。
最後にもう一言申し上げたい。人民闘争の発展のためには、70年闘争の正と負の経験、とりわけ三派全学連は塩見が担ったんでしょうけれども、その後の八派共闘というのは、ブントを代表して出ていた立場でしたので、人民闘争の発展のためには、やはり革命党派の共同と統一が必要だと思っています。ただ、残念ながら新左翼と言われた我々の世代はそれには完全に失敗した。新左翼の党派的な崩壊が進行した。そしてよくよく総括すれば、『内ゲバ』と『リンチ』という最悪の体質も持っていた。こういう我々の世代の苦い教訓があるわけですけれども、今の運動を担ってくる現在そして新しい世代の人には、是非、我々の苦い経験を教訓として、是非とも闘争の発展に成功していただきたいと思っています。」

村田(司会)
「50年前の高原君の演説を聞いたような感じがしております。ありがとうございました。同じく元赤軍派の松平直彦君。」

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松平直彦(元赤軍派)
「この会は呼びかけ文にもありましたが、塩見さんとの付き合いの長短を問わず、塩見さんに対する評価の違いを問わず集まっていただいたということなので、高原さんの提起は友情の一つの意見として、真剣な提起ですので、それぞれの人に受け止めていただきたいとは思います。
ここに参集された人は、どういう気持ちで、どういう考えで集まってこられたのかはそれぞれだろうと思いますが、私は区切りを付けたいということです。それは塩見さんとの関係に区切りを付けたいのと、この半世紀の後退戦に区切りをつけたい、こういう気持ちで、この会の準備に関わってきました。この会を準備する過程は結構大変だった。普通のお別れ会であれば、論議する必要もないし、懐かしんで集まってくれればいいし、同窓会になってくれればいいが、みんな断る、来たがらないということがあった。とりわけ第二次ブントの人たちは『絶対に行かない。行く気持ちになれない』というのを説得して集まっていただいた。この後、『よど号』の小西さんと重信さんのメッセージがありますが、小西は『非常に困っている。どう語っていいか分からない。本当は書きたくない』と。これは山中さんが向こうに行って、その時に説得して書いてもらったということです。重信さんも『こういう会はやるべきではない』と言っていたわけですけれども、メッセージを寄こしていただきました。そういうことに象徴されるように、非常に塩見さんに対する評価もさまざまで、否定する人たちも多い。そういう中で、これだけの人が集まってお別れ会に臨んでくれたということは、非常に良かったと思っています。
私の塩見さんとの付き合いは、67年から69年です。路線以上の関係はなかった。67年の暮れに、早稲田の近くのアジトで会った。その当時私はまだ一年生で、塩見さんが早大支部の先輩たちと話しているのを聞いていただけだった。塩見さんと直接話をしたのは、69年11月の『大菩薩』の直前頃にホテルの一室に呼ばれ、首相官邸占拠の作戦を提示され、引き受けた。そして『大菩薩』に行って捕まった。その2回くらいしか記憶していない。
その後、71年のM作戦あたりまでで赤軍派は破産した。ハイジャク、重信さんがパレスチナに行くということはありましたが、現実に国内で何もできていない状況で、破産を総括する必要があるだろということで、私自身は転回して論争に入っていく、そういう時に 連合赤軍事件が表面化してきた。私にとっては、連合赤軍事件は一つの路線的破産の大きな側面ということで、冷静に静かに受け止めて、次にどうするかを考えるテコになっていった事件でした。
出てから塩見さんと論争になっていくわけですが、彼は連合赤軍事件というのは、革命戦争路線は正しかった、しかし指導者の森が悪かったということで、前段階武装蜂起の路線と密接に結びついた同志間の関係の問題であったわけで、その辺を切り離して、自己保身を図っていくという方向に入っていった。71年72年以降はそういう関係でずっと対立していた。ですから、塩見さんの生前葬の時は関与しなかった。生前葬に関与していたらこういう会をやろうと思わなかったと思います。
ある意味、大きな区切りに来ている。朝鮮で南北対話が作られて、何とか今、日米合同演習から第二次朝鮮戦争という危険が強まっている中で、実際に戦争になれば南北朝鮮、日本を含めて数百万が死ぬような戦争になっていくことが予想される中で、どうそれを押しとどめて我々の時代を切り開いていくのか、そういう重大な局面に来ていると思うし、資本主義が終焉の時代に入っている。同時に金融バブルが崩壊するかという局面にもなっている。そういう中で、日本の社会は欧米の社会と同じように人々の関係がズタズタになっている。新しい社会の構想を持った運動が、今、問われているのではないか。戦争の問題と社会変革の問題が煮詰まって眼前に迫って来ている。そういう大事な局面の中で、いつまでも総括問題にこだわっていいのか、ということです。いろいろな総括があっていいと思う。それぞれの総括をこれからの闘いの中に生かしていって欲しいと思います。
その中で共同しながら、今のトランプ・安倍の反動を跳ね返して新しい時代を切り開いていこうではないか、というのが私の考えです。」

椎野(司会)
「残念ながらここに来られないお二人のメッセージを代読させていただきます。最初は1970年に『よど号』をハイジャックして平壌の彼方に飛び立ってしまて以来、ずっとそこで暮らしている小西さんからのメッセージを、2月に平壌で小西さんに会ってきたばかりの救援連絡センターの山中事務局長が代読いたします。」

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山中幸男(救援連絡センター事務局長)
「『平壌で向こうに監禁されているのではないか』という昔の赤軍派の人がいたようですが、必ずしもそうではなくて、私は2月23日に朝鮮に行きまして、27日に帰ってきました。本当は書いてもらったものを持って帰るつもりだったんですが、なかなか書けなくて、昨日やっとメールで届いたものです。代読させていただきます。」
<メッセージ 「塩見孝也への追悼文」>
 塩見さん、このように貴方の追悼文を書くようになるとは思っていませんでした。
貴方に対する怒りだとか断罪だとか、そういったものを言うよりも、何か住む世界が違ってしまったという感じだったのです。
だから、今、こうして追悼の文を書きながらも、後が続きません。
人間にとって、住む世界が同じだということは、やはり大切なことですね。
50年前、住む世界が同じだったあの頃、わずか半年余りの時でしたが、われわれの命はかなり鮮烈に結びついていました。先行き不透明の中、なんとか出路を切り開いて行かなければという思いは。皆一つだったのではないかと思います。
憶えていますか、あの時、塩見さんにした「世界革命戦争の未来のあり方」についての私の質問への答えは、「そんなこと分かるか!」でした。
それで妙に納得したのを憶えています。混迷に近い状況をもう一つ分からないままに切り開く、それがわれわれが共有した世界における一つの合意点だったのではないでしょうか。田宮さんは、「塩見には無茶ができる。それがいいところだ」とよく言っていたものです。
今、世界を覆った混迷の露はかなり晴れてきているように思えます。この世界をともにして、もう一度一緒に闘ってみたかった。この追悼文を書きながら、浮かんでくるのはその思いです。
しかし、塩見さん、貴方はもうこの世にはいません。願わくば、向こうでの再会を果たし、もう一度同じ世界の下、ともに闘うことができる日が来ることを。合掌。
2018年3月4日ピョンヤンかりの会 小西隆裕

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山中幸男(救援連絡センター)事務局長
「日付は私の判断で今日付けにして紹介させていただきました。
私は1989年の塩見さんの出所の時に行ったんですが、彼が入っていた期間は19年9ケ月。『よど豪』事件の前の1970年3月にすでに逮捕されていた。前の年69年11月の『大菩薩』事件の一斉逮捕、それから凶器準備結集罪、破壊活動防止法が塩見さんに対して発動された。皆さん、考えてみてください、今、『よど号』事件に関しては実際に行っていない方が共謀共同正犯という形で起訴され、裁判を行っていたわけです。最近話題になっている共謀罪は、『よど号』事件の共謀共同正犯というよりは、何も事件が起こる前の共謀罪で、同じ共謀といっても質が違います。考えてみれば、80年代末から90年代にかけて旧ソ連邦が解体して、その後、朝鮮にいた『よど号』の人たちは、88年に柴田さんという実行メンバーが日本国内で逮捕されて、その後裁判、下獄、出所を繰り返してきたわけです。塩見さんはその間ずっといたわけですが、89年の年末に出所して、90年から朝鮮に行くようになりました。その後、今日に至るまで30年、(逮捕から)かれこれ50年になろうとするのが年月の月日です。
私の関わっている救援連絡センターも来年で50年目です。今日の会の呼びかけ人にもなっている情況出版の大下さんが1月に亡くなられて、私どもの代表弁護士を務めていた方の奥さんが1月に亡くなられて、葬式、葬式で、今日は偲ぶ会で、いったい救援というのは葬儀屋の代わりかという感じで、腐ってばかりもいられませんが、そんな状況です。
先月、朝鮮に行く前に高沢晧司さん(ジャーナリスト)を探し当てて会ってきました。生きていましたが、実際は再起不能の状態で多少会話をしてきました。なぜ高沢のことをあえて紹介するかというと、高沢さんから『山中は赤軍派とは何の関係もないのによくそこまで付き合ってきたが、それはなぜなんだ』とよく言われました。『よど号』事件だけではありませんが、新左翼の活動家の人たちは志はあるんですが、志に留まらずについ難局に直面する。そういうのを政治的遭難と私は表現させていただきました。政治的遭難者をのまま放置しておけばそれでいいんですが、我々の世代の責任として政治的遭難者を助ける、それが『救援』だと思います。救援連絡センターで、こういう考え方は私で終りかもしれませんが、若い方がもしいましたら、志を継ぐような方が是非とも出て欲しいと一言いわせて終りたいと思います。」

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椎野(司会)
「それでは最後になりました、日本赤軍の重信さんは、権力によって懲役20年という判決を受けて昭島の医療刑務所で過ごされています。メッセージを代読しますのは、頭脳警察のパンタさんです。パンタさんは、ある日、重信さんの裁判の傍聴に行って 面白いと思って通っている間に重信メイさんとも交流が出来て、重信房子作詞、パンタ作曲の『オリーブの樹の下で』というアルバムを出しました。そういう関係で来てもらいました。」

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パンタ(頭脳警察)
「50年が経って訃報が続き、毎日が命日となっていますけれども、来年、頭脳警察も何度かの分派を繰り返しながら結成50周年を迎えます(拍手)。70年72年当時、『世界革命戦争宣言』という歌を歌って、これをあわよくばヒットさせて、紅白歌合戦で紅組で歌わせてもらおうと思ったんですけれども、見事発売禁止にされました。
重信房子さんと、『オリーブの樹の下で』というアルバムを作らせてもらった関係で、今日は彼女のメッセージを代読させていただきます。

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<メッセージ「塩見孝也さんのお別れ会に」>
 塩見孝也さんのお別れ会に集まられたみな様と共に塩見孝也さん、そしてこの会の呼びかけ人でもある大下敦史さんの逝去に、ここに哀悼を捧げます。
 大下さんについては、60年代の闘いの当時は存じ上げませんでしたが、私が逮捕されて以降、情況誌・パレスチナ連帯などで交流しました。塩見さんとは、短い期間でしたが同志として塩見さんのリーダーシップの下で活動を共にしました。
 塩見さんに初めてお会いしたのは、確か千葉で行われた初の69年赤軍フラクの会議の時です。あれは5月だったのでしょうか6月だったのでしょうか。
 この会議のために、「現代革命Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」という、のちにパンフ№4へと再編される印刷物を明大の仲間とスッティングを頼まれて藤本敏夫さんらと、それを携えて遅れて会議に到着したのを覚えています。
その会議で文字通り口角泡を飛ばして熱烈にアジっていた人が、このフラクのリーダーの塩見さんだと知りました。
 チェ・ゲバラは「我々を夢想家と呼ぶなら、何度でもイエスと答えよう」と語ったと言われていますが、塩見さんは、まさに夢想において夢の力を発揮した人です。そしてまた当時のブント、そしてのちに赤軍派をはじめとして分裂していく人々も又夢想し、そのために実存を捧げて闘う人々でした。私も又、そのひとりでした。
 ロシア革命によって、以降労働者階級は世界性、普遍性をもち、本質的には資本家階級を逆制約する位置に転位し、人類史を切り拓く主体になったという大きな視野の中に、当時のチェ・ゲバラの「2つ、3つ、さらに多くのベトナムを!それが合言葉だ」という声が重なって私をかきたてたのです。
 塩見さんをはじめ、みんなのその頃の志を尊い誇りとして、今も熱く思い返します。
 塩見さんは、先駆的ひらめきと、大きなイメージによって、一時は、ブントの68年「8・3論文」などで牽引しましたが、しかし、レーニンやカストロ、チェ・ゲバラのような現実と社会、人民を知る、知ろうとする革命家ではありませんでした。塩見さんに限らず、ブントの人々の多くも、私もまたそうでした。
 それは、「現実を変える」という闘いにおいて、革命家としての真価が問われたからです。
私たちは十分に社会を知らず、人民に学ばず、知らず、常識すら理解していない若者たちであった為に、私たちは、敗れるべくして敗れたのだと思い至ります。
 塩見さんとは、あの初対面以降、翌年の70年3月、彼が逮捕されるまでの10ヶ月に満たないつきあいでした。
当初は「7人PB」と呼ばれる赤軍派の指導部を形成する者たちが居て、塩見さんと直接会うのは、会議くらいでしたが、藤本さんは去り、堂山さんが逮捕され、高原さんや田宮さんらも東京を離れたりして、連赤事件で殺された山田孝さんと私が一時書記局的に塩見さんと行動を共にすることになりました。正直なところ、塩見さんには、あきれかえる日々が続きました。
 僭越を承知で言わせて頂きますが、塩見さんは、あまりに自己中心的で自らを対象化しえない分、他者への配慮の無い無神経な行動、非常識が自覚できないことが多々発生しました。
 今なら笑って話せることもありますが、私は当時は許し難い思いで批判ばかりしたかもしれません。追悼のお別れ会にはそんな時代のエピソードを笑って送ってあげたいとも思います。
 ある日のことです。山田さんが青い顔をしてとんできて、「塩見が戻らん。捕まったかもしれん!」というので2人で対策を練り、ラジオ報道を気にしつつ、遠くにいた田宮さんに連絡したり、山田さんは、あれこれ悔いて食事も出来ません。
ところが塩見さんは、夜更け過ぎて「やー、すまん、すまん。ハラ減ったなあ」と元気に戻ってきました。
みなが心配したと、山田さんが問い糾すと、自制の効かないいつもの塩見さんの悪い癖が出て、当時一時熱中していたパチンコで有り金全部を使ってしまい、タバコのハイライトの景品を幾つか稼いだ時には、すでに終電を過ぎタクシー代も無いのに気付いたそうです。そこからが塩見さんらしいのですが、歩いて帰るという考えが浮かばなかったそうで、タバコの自動販売機の横に立って買いに来る人を待ち、やっとタクシー代を調達して帰宅したという訳です。
「あなたが赤軍派のリーダーと知ってたら、私は赤軍派に来なかったと思うわ」と、この時は批判したものです。
 塩見さんは、強烈な野心というか大志の割に計算のない無私な人ですが、自己中心的な考えの自制がない分、数々の問題行動も起して来ました。「7・6事件」はその最たるものの一つです。
 当日を知る者の一人として、塩見指導の疑念にもとづく強引な行動が「7・6事件」を引き起こし、ブントの分裂から崩壊へと、更には、連合赤軍事件への道を開いてしまったことを批判すると共に、それに与した一人として私は自己批判致します。
 最後に塩見さんと会ったのは、2010年私の最高裁判決が出る前の東京拘置所です。
7年の接見禁止が解けた後、塩見さんは、それまでにも面会に来ては励まして下さいました。
あの最後の時「結局何年や?20年の刑期か…。きついなあ。15年なら待てるけど20年はしんどい。無理かもしれんなあ…。今、ワシも、若者たちに結構もててるから一緒にやろうと思ってたんや。その5年はきついなあ」と、いつになく深刻そうに語っていました。
 「15年なら」と言っていた通り、20年を待たずに先に逝かれました。再会し、変革の志を熱く語っていた塩見さん。自分の志は、アラブで継続されたと主張していた塩見さん、昔と違って自分は、社会もわかっていると主張していた塩見さん。
 私にとっては、昔と変わらない塩見さんでしたが、赤軍派の過ちを前向きな力に育てたいという点で共に在りました。
当時の時代の情景を辿りつつ、現在の日本を直視する時、今も続く官僚・自民党支配は、当時の私たちの闘い方の過ちにも、その責任の一端があることを自覚せざるをえないこの頃です。
塩見さん、大下さんの追悼と共に、その思いを強くしています。 
2月18日 記 重信 房子

村田(司会)
「この小冊子にも書いてありますが情況出版の大下敦史君。塩見さんは昨年の11月14日に亡くなっていますが、その頃、大下君はまだ生きていたんです。この塩見お別れ会をやるに際して実行委員会を作りまして会議を積み重ね、その中でお別れ会に対する否定的な意見も出ました。大下君は残念ながらこの会に出席する前に、今年の1月2日に亡くなりました。ここに文章がありますので、彼が挨拶したものと思って是非読んでいただければと思います。」

<「私の思い」 大下敦史(情況出版)>
私は今、狭山市の病院にいます。塩見さんの「お別れ会」の準備のために、皆さんが、私の病室に集まっています。
話を聞きとることはできますが、ペンをとる力はありません。
「塩見さんを賛美するようなセレモニーには一切反対」という、強硬な意見も聞こえます。
厳しい意見は、赤軍派やブントで一緒に行動した、かっての仲間の間で多いようです。自分の誤りや、謝罪について、“肝心なこと”を言い残さずに、逝ってしまったことに対する失望感だと思います。
反対に塩見支持者(ファン)の間では、心のおもむくままに「革命バカ」で一生を押し通したことが、魅力的なのかも知れません。
反対意見がどんなに強かろうとも、いやそうであればこそ、「お別れ会」は実行しなければなりません。塩見さんのためというよりも、自分のために、同じ時代を闘った我々自身のためです。
「お別れ会」イコール肯定・賛美というわけではありません。賛美しない「お別れ会」もあるはずです。塩見さんがやり残したもの、それは何か。なぜできなかったのか。議論しなければなりません。
評価は、個人によって異なります。塩見さんとの距離を測りながら、自分の立ち位置を確かめる。そこからまず始めることです。 万人が納得するような、根本的な総括や、革命的な未来の構想が簡単に出てくると考えない方が賢明だと思います。出口の方向や、筋道、その初歩的なヒントだけでも意味があります。
我々がやってきた記録を正確に残すだけでも、正負両面でかなり重たい教訓になるはずです。我々の多くは高齢者で、訃報が珍しくない昨今です。寿命に追い立てられて、時間切れになるかも知れません。
ないものねだりではなく、実現可能な範囲で、何を残すことができるのか真摯に考えたいと思います。
この「お別れ会」が、その出発点になることを願っています。

※ 「お別れ会」参加者には、鹿砦社の松岡社長より、塩見孝也頂著「革命バカ一代 駐車場日記」100冊が無料で配布されました。

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<塩見孝也略歴>

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(終)

【お知らせ】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)
午後1時 御茶ノ水「錦華公園」集合
(明治大学裏)
午後2時から5時
アジア青少年センター
千代田区猿楽町2−5−5
参加費4千円

【お知らせ2】
ブログは隔週で更新しています。
GWはお休みします。
次回は5月11日(金)に更新予定です。

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