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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。

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重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、重信房子さんの神田カルチェラタン闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ−ブの樹」編集室及び重信さんの了承を得てあります。)

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【初めての御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争 1968年6月】   重信房子
 67〜68年のベトナム反戦を求める闘いが米政府を追い詰め、米国内でも学生・市民の反戦運動が広がっていました。また、欧州でも反戦闘争と労働運動・学生運動が結びつき、革命をもとめる新左翼潮流の活動が汎欧州レベルに広がっていきました。このころのこうした海外の動きは、日本の新聞の国際面でも大きなニュースとなって私たちの興味を引いていたのです。毛沢東の言葉を借りれば、「国家は独立を求め、民族は解放を求め、人民は革命を求める」。60年代を体現し、ことに資本主義国においては、その闘いの質の同時性を表現していました。これまでのソ連型の共産主義・社会主義にとってかわる闘いが各地で討論となり各国共産党批判となっていました。資本主義にとってかわる社会主義計画経済は、資本主義を揚棄する道に進んでいるのか?否。プロレタリアートの独裁とは、プロレタリアートが例外なく社会成員を解放する能力を持つこと、つまり人間解放が故ではなかったのか?それが党独裁の官僚機構へと変質しているのではないか?チェコスロバキアではドプチェク第一書記のもとで改革が始まり、ソ連との矛盾があきらかになっていました。ソ連中心の国際共産主義運動は「平和の共存」の名で各国の階級関係の現状固定をのぞみ、人民の闘いに連帯する国際主義を失っているのではないか?などなど。当時の欧米の新左翼運動や人種差別に反対する運動は、ラジカルな変革を求めていました。5月にパリでは、学生運動と労働運動が結びついた「5月革命」と呼ばれる闘いが始まろうとしていました。
 私たち社学同・現思研は神田・御茶ノ水の大学同士の助け合いの「闘いの季節」の中にいました。現思研の67年68年の活動は、いわば全盛時代で、学生運動の盛んな時代と重なります。
私が、まだ卒論作業に意欲的なころにパリの5月革命の闘いがニュースになりました。「すごい!労働者と学生が一体になって蜂起している!」と新聞、テレビのニュースから学館の仲間たちは沸き立っています。「パリのカルチェラタンの機動隊との攻防はすごいな。あれは学生街だぞ!御茶ノ水街・神田街でも戦えるんじゃないか?!」と大いに話題になりました。
パリの5月、カルチェラタン闘争から1ケ月くらい後のことです。6月には、7日全学連統一行動、6月15日共産主義者同盟の政治集会や6月21日全学連集会が街頭行動としても続きます。東京の社学同の中心として「2・2協定」をのりこえて再び明大も力を増し、中大や専修大と共にラジカルに活動していたころです。私たちの仲間ばかりか、いろいろな友人たちが御茶ノ水から神田一帯のカルチェラタン闘争を、いつかやろうと言い出しました。明大が地理的にも重要な場所にあります。御茶ノ水駅から明大前通りの駿河台下まで解放区にできるからです。
 6月のある日、当時社学同の委員長だった早大の村田さんが現思研に来ました。早大の村田さんと医科歯科大の山下さんが、私の社学同加盟の時の推薦人でした。「おいカルチェラタンやらんか?!パリのカルチェラタンみたいなの。やれるのは、やっぱり明治だろ。中大で全学連の社学同集会をやって呼応させるから」と。全学連統一行動の中で、当時ブントはアスパック(アジア太平洋閣僚会議)反対闘争を、日米によるアジア政治経済支配として重視していて、中核派とは違う党派性として主張していました。「4・26の国際統一行動は、機動隊に御茶ノ水駅で封じ込められたから、今度はゲリラ的に闘って、解放区を作ろうぜ」と村田さんは気軽に言います。
「でも、とっかかりがないと・・・。どうやってカルチェラタンのような解放区が出来るかな」みんなで語り合いました。「やったら何とかなるって」といつものブントの官僚的な説得ですが、実は現思研のみんなもやりたいのです。昼間部に頼まず、夜間部に頼んできたのは、昼間部は中大全学連社学同系集会に参加動員のためだったかもしれません。
とにかくみんなでワイワイ話し合って、「やってみよう」ということになりました。社会的な影響や責任は問われるな・・・と思いつつ、新宿駅のフォークソングの広場まで制圧しようするこの間の警察の強権や、日大を含めた街頭抗議も続いていて、「4・26闘争のお返しとして駅前交番を占拠して赤旗を立てよう」などと、ゲリラ戦術になると、みんな次々とアイディアが浮かびます。二部の学生が授業の始まる直前の5時ころには、御茶ノ水駅から明大前通りは、昼間の学生あわせて歩道をはみ出すほどの人でいっぱいになります。その時を狙おうということにしました。それに、私たちの多くは、仕事をもって勤めていて、昼間から参加できる人は少ないのです。中大で行われる全学連社学同の決起集会も夕方には呼応できるし、5時半の授業開始前に闘いを始めることにしました。

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(8号館)
明大前通りとマロニエ通りの角に立つ8号館は学生会館の旧館で、各学部自治会室、生協事務室、それにサークル部室が入っていて、ちょうど、明大前通り側に小さなドアがあります。この8号館のドアの内側に5時ごろ集合することにしました。それまでに、このドアの近くに長椅子と長机をできるだけ多く集めて積んでおくことにし、昼間部の仲間も手伝ってくれることになりました。学館旧館(8号館)の明大前通りに面した小さなドアは、すぐ歩道から車道に続いているので、5時になったら一斉にそのドアから机と椅子を車の通行を止めるために車道に並べて、バリケードにしようということにしました。この明大前通りも車の往来はひっきりなしです。それには、たくさんの椅子と机がいるな・・・などと話していました。
6月21日、初のカルチェラタン闘争が始まりました。この日、現思研や居合わせた社学同の仲間や政治的には関係ない友人たちも、午後のうちに、教室から長椅子と長机を持ち出して、学館旧館ドアの内側にきれいに積み上げました。入り口は狭いけど奥行があり、いくつも積むことはできたし、通路も確保しているので、出入りの邪魔にはなりません。「正門のバリケード封鎖もこんなもんだった。これくらいで大丈夫だろう」と話しながら準備を終えました。
5時ごろ、現思研の仲間ははりきっていたけれど、職場からまだ戻ってこれない人もいました。どうしようか。入学して間もない法学部の樫村クンが、「決めたとおりにやりましょう」と主張したので、彼を目直して、そうだね、そうしよう、と、そこにいた10人くらいの者たちで2人1組になって、まず長机を運べば道路に5つの机を横に並べられるというので、じゃあ、始めようと決断しました。樫村クンらが、まず、少し場違いな感じて恥ずかしそうに長机を道路に運びだして、明大前通りの真ん中に置きました。途端に激しいクラクションが鳴りわたりました。一人が赤旗を横にして、工事現場のストップのような合図をして笛を吹き、車を止めようとしました。怒った車の運転手は徐行し、クラクション鳴らしながら次の机が運ばれる同じころ、最初の机に前進して接触し、机を倒しました。本当にアッという間でした。ピ−ッと笛と共に、あちこちから学生たちが道路に飛び出してきて運転手の車を囲み、もたもたしている私たちの机を奪うと、さっさとバリケードを作り始めたのです。そして赤旗に誘導されて車は中華料理「味一番」のある狭い通りへ迂回し通行するよう学生たちが采配しています。
中大中庭で、社学同のアスパック粉砕・東大闘争支援の全学連集会を行っていた1,000人近い全学連部隊がタイミングに合わせて行動を開始したらしい。中大では午後から、全学連副委員長の中大の久保井さんや、同志社大の藤本さん、明大学生会中執委員長米田さん、東大全共闘、160日ものストライキ中の医科歯科大など、全学連の社学同系の部隊が、独自の集会を開いていました。機関紙「戦旗」によるとヘルメット部隊1,000人、集会3,000人とのことです(当日の毎日新聞では500人とのこと)。それによると、集会を終えて4隊に分かれてジグザグデモで街に繰り出したのです。それにあわせて、私たちのバリケードが解放区がはじまったのです。

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あたりを見まわすしと、「待ってました!」とばかり、学生たちや勤め帰りの人らしい人々も、バリケードを補強して、どんどんその机・椅子を担いで御茶ノ水の駅の方へと移動して解放区の陣地を押し上げて広げています。ふりかえると、駿河台下では、正門よりずっと向こう側にむかって交差点のところまで机を運んでいる人もいます。工事用の看板なども集めてきて、たちまち御茶ノ水駅から駿河台下まで、またたく間に解放区が出来上がってしまいました。車の通らない「歩行者天国」の道路をジグザグデモがあちこち繰り出しています。さっそく立看に「解放区」・「反安保反戦の砦神田カルチェラタン戦闘中」など、御茶ノ水駅近くの通りの真ん中に立てました。あたりは万を超える人々が道路でデモしたり、踊ったり楽しんでいました。当時の「戦旗」には、こんな風に当日のことを記しています。
「6・21全学連駿河台で2万余のバリケード集会。
70年の新局面切り拓くASPAC(アスパック)粉砕第二波機動隊を圧倒。
全学連集会は中大中庭で1,000人のヘルメット、3,000人の大集会として行われた。2時45分、久保井司会で開始、藤本基調報告、東大時計台占拠で全学ストを喚起した東大全学闘争委員長、160日スト中の医科歯科大、熊本大の原島委員長、明大中執からの決意表明。4時半に4隊に分かれて中大を出発。神田駿河台一帯をジグザグデモし、一梯団が医科歯科への支援デモを敢行する最中、その三梯団はバリケードを駿河台通りの街頭に進出させる。パリのラテン区に比すべき学生の街神田一帯は、まさに反戦闘争の砦として出現する。5時半、機動隊は御茶ノ水駅、駿河台下の両方向から全学連の部隊を挟み撃ちしようと攻めてくる。激しい投石の雨を降らすが、機動隊はバリケードをトビで破壊して迫てくる。一進一退、数千の学生・市民・労働者もバラバラと投石。機動隊後退。再びバリケードが出現し、御茶ノ水駅まで押し返す。機動隊はいったん、御茶ノ水橋を渡り、順天堂大横まで総退却。この時、医科歯科大5階の学生・研修医が占拠している医学部長室辺からスピーカーでバリケード戦に結集し、連帯の呼びかけ。機動隊は態勢を立て直し聖橋口から御茶ノ水橋に配置し、横と正面からバリケードの破壊。『突如』出現した街頭バリケードがASPAC、70年安保粉砕の新たな戦術であることを理解して、万余にふくれた大衆は『機動隊帰れ!』のシュプレヒコール」と興奮気味に記録しています。

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実際、当日は、みな、新しい闘い方に大興奮でした。いったん、バリケードで解放区ができると、あちこちからうっぷん晴らしの野次馬含めて、万余の学生たちがバリケードと投石で陣地を広げます。御茶ノ水駅前交番も避難し、無人となったのです。すかさず明大の仲間が赤旗をそこに掲げました。広々とした明大前通りにフランスデモで道いっぱい手をつないでワルシャワ労働歌や国際学連の歌を歌いながら行進しては機動隊へと投石。今ではあの一帯はアスファルトで固められてしまいましたが、当時はレンガや正方形の敷石で歩道がおしゃれだったのです。この敷石をみんなで掘り起こしては、車道で力いっぱい落として割り、礫(つぶて)にして抵抗しました。ポケットいっぱいにつぶてを抱えては、最前線から機動隊へ投石を繰り返しました。機動隊もいたちごっこを止めて遠巻きにし始めたので、その間、赤ヘルメットの大衆集会、歌やジグザグデモが夜まで続きました。8時半すぎには、社学同部隊は撤収したのですが、野次馬や一般の人たちは、機動隊との攻防に普段のうっぷん晴らしもあってか、ずっと闘っていました。夜学授業が終了する10時にも、学生会館内には勝利の戦術に「やった!やった!」と喜ぶ人々でいっぱいでした。
これ以降、カルチェラタン闘争のスタイルは、何度も御茶ノ水駅のこの明大前通りから駿河台下までを解放区として戦う戦術を繰り返しました。今からは考えられない「騒乱」ですが、当時の私たちは街頭戦の新しい闘い方を提示する一翼を担ったことで、現思研としては達成感で意気揚々でした。今から見れば無謀の謗りを免れない行為といわれるでしょうが、当時はこういう楽しい開放感と、一つの戦術の小さな勝利感と、人々との連帯感が、学生運動の拡大をつくりだしていったと思います。東京における社学同の拠点は、この地域、明大、中大、医科歯科大、専修大、東大医学部、慈恵医大など、御茶ノ水と神田にありました。その分、社学同仲間は何かあるたびに、中大と明大の学館に集まって語り合ったものです。
68年は、このように、反戦闘争が社会的にも日常化していたので、佐世保の住民や、王子野戦病院に反対する住民、三里塚の農民と共同し、国会の社会党、共産党などの野党勢力の力もあって、正義感を持って闘いを続けえたのだと思います。公正・正義を求める闘い、その一員として参加できることが喜びであり、闘争は楽しいと実感していた時代です。全面的に肯定しえない点もありますが、当時は非暴力直接行動の中で、様々な野党勢力と共闘しながら戦おうとする、謙虚さがありました。
しかし問題は、その後、私たち社学同や三派系勢力が「図に乗って」いき、佐世保や王子、三里塚など、住民の支援と連帯に支えられて闘いえたことを、自分たちの力と自惚れて、運動の急進化へとまっしぐらに進んだことです。党派による戦術の急進化の競合は、後の分裂や運動の否定面を広げていきました。その苦い後の教訓とともに、68年の朗らかな闘いを思い返します。
(終)

【お知らせ その1】
1968年6月21日の神田カルチェラタン闘争を報じた「戦旗」137号(1968.6.25)をHPにアップしました。
新左翼党派機関紙・冊子
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html ;

【お知らせ その2】
50年前の芸術はこんなにも熱く激しかった
「1968年激動の時代の芸術」展
10月7日に行われた10・8山博昭プロジェクト東京集会で講演したウイリアム・マロッティさんと嶋田美子さんが企画に関わっている展示会です。
●会  場:千葉市美術館
●開催期間:2018年9月19日から11月11日

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【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は10月26日(金)に更新予定です。

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重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、前田祐一さんの10・21防衛庁闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ−ブの樹」編集室及び前田さんの了承を得てあります。)

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【1968年10月21日 防衛庁は燃えているか!】
日本はベトナム北爆の基地提供国、防衛庁に巣食う戦争犯罪人を告発せよ!
10.21防衛庁突入総指揮、よど号ハイジャック共謀共同正犯 前田祐一
 1968年は、1月のベトナム民族解放戦線のテト攻勢、2月の中大学費値上げ白紙撤回から始まった。米軍・南ベトナム軍に対する北ベトナム軍・民族解放戦線のテト攻勢の勝利は、世界を動かし、パリの5月革命(カルチェラタン)、ドイツ赤軍結成、アメリカブラックパンサー(4月にキング牧師が暗殺されている)、8月プラハの春、10月日本の防衛庁突入へと連なる歴史があったと思う。過渡期世界論が第2次ブンドの指導理論となったのも1968年であり、私達は、世界同時革命が始まっているかのような予感さえ感じていた。前年に10.8佐藤訪ベト阻止羽田、11.12佐藤訪米阻止羽田を闘い、2月−3月には、新東京国際空港公団三里塚現地事務所突入闘争を闘っていた。成田については、当時の我々は、東大都市工学部大学院との事前の共同研究から、新しい国際空港は、アジアのハブ空港にするべく東京湾上に作るべきと主張し、当時の東京都知事が美濃部亮吉氏であったことを奇貨とし、全学連=東京都の統一戦線を形成し、新国際空港を成田に建設することを阻止しようとしていた。もし50年前、新東京国際空港が東京湾上に建設されていれば、その経済効果は計り知れないものがあった筈である。利権に群がる愚かな政治家が、失われた50年を生み出し、国家に多大な損害を与えたのである。万死に値する行為であると言わざるを得ない。そうした日々の中で10・21が近ずいて来ていた。50年前、日本の学生運動を最前線で担っていた我々は、所謂、団塊の世代のトップランナーであり、戦後民主主義と憲法9条を頭から叩き込まれ、「聞けわだつみの声」第5福竜丸「ビルマの竪琴」「野火」「火垂るの墓」を原体験に持つ世代であり、戦争を忌避する尋常ならざる感覚を持っていた世代であった。
そうした感覚を持っていた我々は、必然的に抗議の意思をぶつけるターゲットは、ベトナム戦争の片棒を担ぐ国家の中央権力であり、その象徴としての防衛庁こそターゲットにすべきものと考えていた。私は、10月に入って間もなく。10.21の総指揮を早大のHと2人でやれとの密命を受け、一人で密かに、乃木坂周辺の下見、防衛庁建屋の構造、突入口、部隊編成、アクセス方法の調査等、周到な準備に入っていた。
しかしながら、他の党派が新宿闘争を主張していたことから、ブンド内の幾つかのグループも新宿を言い始め、その後の第2次ブンド分裂の予兆が表面化した。その最終作戦会議は中大学館で開催され、標的は防衛庁か、新宿か、それともう一つ、火炎瓶を使うかどうか、殴り合い寸前の攻防となった。
新宿を主張する複数の意見があったが、多数の群衆・市民がいることによる発信効果に論理的拠り所を置く主張が多かったが、戦略を間違えた議論であると多くの者には映り、新宿の主張は怒号でかき消され、ブンドの組織決定は中央権力攻撃・防衛庁に決まった。実際には、当日、新宿に行った部隊も少数いたとのことだが、詳細は不明。肝腎な火炎瓶を使うかどうか、この議論は、誰もが未経験であり、投げれば放火罪が適用され、重罪が科されることが明白であることから、総指揮をする自分としても腰砕けの主張しかすることが出来なかった。結論として防衛庁には使わないこととなったが、標題に書いた通り、もし、あの時防衛庁に火炎瓶が投げられ、防衛庁が炎上し、焼失していたら、歴史は、大きく変わっていたであろうと身震いする。歴史の事実は、この防衛庁から3ヶ月後の1969年1月、東大安田講堂攻防戦で火炎瓶が登場し、7月の第2次ブンド分裂、赤軍派誕生へと歴史は動き続ける。
事前の下見を続けていた私は、当時乃木坂にあった防衛庁が、左右から挟み撃ちにされれば、どこにも逃げ場がない攻めにくい地形で、しかも防衛庁正門扉は、かなりの厚みの鉄扉で簡単には壊れないことを思い知らされていました。従って如何に短時間で正門扉を破壊し突入出来るか、もたもたしていれば、左右挟み撃ちで全員逮捕される。鉄扉を効率的に破壊する何かが必要だ、従来のカッコ付けだけのすぐ折れる角材では役に立たない。そこで考えたのが、工事現場にゴロゴロしていた丸太棒を拝借し、最も戦闘的な部隊が、連続して破壊打撃すれば鉄扉の一部位、曲がったり壊したり出来る筈だと考えたのです。

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1968年10月20日深夜、直系30センチ長さ10メートル位の丸太棒20本を調達拝借し、中大学館内に隠匿しました。翌、10月21日、中大中庭で全学連委員長:藤本敏夫のアジテーションから始まり、総指揮の私から、予め指示した通りのルート、時刻に部隊別に、乃木坂・防衛庁に集結せよ!詳細は現場で指示する旨絶叫し、20本の丸太棒を肩に担いだブンド精鋭部隊が中大中庭を出発し防衛庁に向かいました。

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最精鋭部隊を率いる私は、御茶ノ水駅聖橋口を正面突破し信濃町駅下車、明治公園前を乃木坂へ進軍、防衛庁正門まで何事もなく到着、続々と別ルート部隊も集結、正門鉄扉に丸太棒を担いだ精鋭部隊が何十回となく体当たりし、突入口を作るべく格闘しました。防衛庁内からは、高圧の放水が巻き散らされ、1時間以上体当たりを繰り返しましたが、正門鉄扉はビクともしません。このままでは、挟み撃ちにあって全員逮捕され、何も出来ないまま終わってしまう。判断が迫られていました。正門は壊れない、正門を乗り越えて突入し、中から開けられるかやってみるしかない!早大のHが、最初に乗り越えました。正門を乗り越えて中から開けろ!

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しかし、正門を乗り越えた向こうには、自衛隊の屈強な精鋭が木銃を構えて待機しており、一人一人拘束され連行されていきました。ほぼ同時刻、機動隊が動きました。左右からの一斉突撃に会い、多くの学生が負傷し身柄を連行されていきました。1968年10・21は無残に終わり、私も逮捕されました。
(終)

【お知らせ その1】
1968年10・21防衛庁闘争を報じた「戦旗」号外(1968.10.25)をHPにアップしました。
新左翼党派機関紙・冊子
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html ;

【お知らせ その2】
10・8山博昭プロジェクト2018年秋の東京集会
「異なった視点からの10・8羽田闘争」

●日 時 2018年10月7日(日)17;30〜20:30(開場17:00)
●会 場 主婦会館プラザエフ9階「スズラン」(JR四谷駅下車)
●参加費 1,500円
第一部 講演
「政治のターニングポイントとしての10・8羽田」
ウイリアム・マロッティ(UCLAカリフォルニア大学ロスアンゼルス校准教授)
「60年代をどう歴史化できるのかー外からの視点」
嶋田美子(アーティスト)
第二部 ベトナムからの挨拶
フィン・ゴック・ヴァン(アオザイ博物館館長)
チャン・スアン・タオ(ホーチミン市戦争証跡博物館館長)

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【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は10月12日(金)に更新予定です。

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重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の143号(2018年8月26日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さん、前田祐一さん、水谷保孝さんの3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、水谷保孝さんの佐世保闘争のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、「オリ−ブの樹」編集室及び水谷さんの了承を得てあります。)

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【1968年は佐世保エンプラ闘争で始まった】
水谷保孝(元佐世保エンプラ闘争被告)

●日本のベトナム反戦の広さを示す
 世界史的な「1968年革命」から50周年となる本年2018年、私にはあの高揚した佐世保エンプラ闘争の記憶が大きな感動とともに蘇える。
当時、アメリカのベトナム侵略戦争は南ベトナム解放民族戦線の驚異的な戦闘によって苦戦に陥り、それゆえ北爆、枯葉剤、ナパーム弾の大量投下を強め、ベトナム人民に残酷な犠牲を強いていた。そのなかで、「動く核基地」原子力空母エンタープライズ佐世保入港は、日本を出撃基地としてベトナム戦争を一層激化させるものだった。よりによって広島県とともに原爆の惨禍に苦しんできた長崎県に核空母を寄港させることは、日本のベトナム参戦と核武装化を決定的に進めるものだった。
1966年12月に再建された全学連(三派と称されるが、社学同、社青同解放派、マル学同中核派、ML派、第四インターの五派)は、幾多の闘いを経て、内部での対立と亀裂を抱えつつ、1967年12月、エンプラ寄港実力阻止方針を決定した。ベトナム侵略戦争への加担を許さない、けっして加害者にはなるまい、70年安保闘争と日本帝国主義打倒の展望をつかむぞ、という強い決意がそこにはあった。
明けて1月の15日、警察・機動隊は、法政大学から出発した中核派系学生のうち131人を問答無用で大量逮捕した。16日に博多駅事件という同じ予防検束に出てきた。14日には、前年の10・8羽田弁天橋の闘いで京大生・山博昭君を警棒乱打で虐殺しておきながら、中核派2学生を「奪取した装甲車で轢き殺した」とでっち上げ逮捕した。かつ破防法適用恫喝が加えられた。
16日、全学連は、九州大学教養部に入構することができ、学生会館で総決起集会をもち、闘いの意味と獲得目標をめぐって激論を交わした。
以後、17日の平瀬橋の闘い、18日の佐世保橋と米軍住宅地の闘い、19日の佐世保橋の闘い、20日の佐世保市街地での一斉カンパ行動、21日の佐世保橋の闘い、22日のカンパ行動、23日のエンプラ追い出し闘争と続いた。それは、間断なく発射される催涙弾、佐世保川の水(佐世保湾から入り込む海水なのだ)をくみ上げ催涙剤を混ぜた大量の放水、特殊警棒の乱打、背後からの襲撃、倒れた者への集中的な攻撃、報道陣や市民への無差別の警棒乱打、市民病院や民家への見境のない乱入という常軌を逸した警察暴力との闘いだった。
全学連は、警棒で殴打され、催涙弾で撃たれ、催涙液で眼を傷め、体中が火傷する状態になりながらも、血を流し、炎症の痛みをこらえ、涙を流しながら前進をくり返した。めざすは佐世保基地突入、基地内集会だった。17日以降の激突、凄まじい過剰警備の様子が報道されるや、西日本、東日本から学生が自治会ごと、グループ、個人で続々と佐世保に駆けつけた。
地元九州の労働者、労働組合が大挙結集し、18日佐世保市民球場から5万人デモ、21日松浦公園から2万人デモを繰り広げた。反戦青年委員会がその牽引車となった。何よりも、佐世保市民が数千・数万の規模で過剰警備を弾劾し、機動隊に立ち向かった。

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●三派の共闘と対立
断片的だが象徴的な若干の事実を記しておきたい(以下、敬称略)。
17日、九州大学を出発した中核派は、別途用意した角材を入手する作戦に失敗した。窮した秋山勝行(全学連委員長)はブントの成島忠夫(同副委員長)に相談したところ、成島は自分たちが確保する予定の角材の一部を中核派に譲ることを快諾した。博多駅からやがて鳥栖駅に着くと、ホームで待機していたブントの別動隊が角材を車内に持ち込んだ。成島がホームを走って中核派の車両に乗り込み、角材を梱包した束を二つか三つ示して、「これを使え」と叫んだ。吉羽忠(同国際部長)が「有難い」と感激の声をあげ、成島と抱き合った。「中核派、頑張れよ」と成島が応じた。私もブントの別動隊と固く握手し、健闘を誓いあった。聞くと、佐賀県(あるいは熊本県)出身のブント同志の実家が山を所有しており、そこから新しく角材を切り出したとのことだった。
 ブントから譲られた角材をもって、中核派は最初の平瀬橋の激闘を闘うことになったのだ。 
 全学連各派は、対権力の闘いで競い合い、大学内や全学連集会の場で何かにつけて殴り合っていた。エンプラ闘争でも、九州大学の学生会館での決起集会で何がきっかけかは忘れたが、演壇上で激しく衝突し、殴り合いを演じた。だが、前記のような闘う者同士の友情も忘れてはいなかった。

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●装甲車を奪取した佐世保橋上の党派闘争
 21日は、社会党・共産党、総評が松浦公園で集会、その後に佐世保橋を通過し基地の横を行くデモが予定されていた。全学連は、松浦公園の集会に参加し、デモの先頭に進み出て、佐世保橋に向けてデモした。かなりの角材を確保していた。
 佐世保橋で、全学連は繰り返し突進した。機動隊が攻めてくると退き、それを数万人の市民が包み、守った。機動隊はそれ以上前に進むことができず退くと、また全学連は佐世保橋に進み、機動隊の前面に激突した。やがて、佐世保橋と川の東側一帯は解放区となった。その間、労組のデモが佐世保橋東詰めに到達した。
学生と市民と労働者のものすごい圧力を受けた機動隊は後ろに退いた。全学連は猛然と突進し、機動隊に肉薄し、投石し、角材と旗竿を振るい、これをついに橋の西詰まで後退させた。彼らは装甲車2台を部隊と一緒に下げる余裕がなく、乗り捨てていった。全学連は装甲車上に登り、旗を大きくうち振った。装甲車を奪ったのだ。
 なおも全学連は機動隊との激突を続けた。その状態がしばらく続いた時、奇妙なことが起こった。デモの先頭で肩を並べて角材を振るっていた解放派の顔見知りの指揮者が、「社会党の闘争本部が、労働組合のデモを佐世保橋に進め、前に出るから、学生はプラカードを捨て、投石をやめ、装甲車から降り、後ろに退けと通知してきた。われわれはそれに従う。中核派も従ってくれ」と申し入れてきた。私は即座に拒否した。「市民と労働者と学生が一体となって佐世保橋を占拠しているではないか、基地突入へともに闘っているではないか、そのときに学生に闘いをやめろというのか、解放派は親(社会党)からやめろといわれたら従うのか、それが解放派の正体か」と怒鳴った。たちまち殴り合いになった。周辺にいたそれぞれの活動家たちが角材で殴り合った。
私は、装甲車の上に上がり、中核派の隊列に向って、「解放派が進路を妨害している、解放派を粉砕して前進するぞ」と二度三度、呼びかけた。そして装甲車の上から下にいる解放派のヘルメットに向って「解放派はどけ」と叫びながら、旗竿で何度も突いた。その顛末はよく憶えていないが、解放派の方から橋の東詰めに退いたのではなかっただろうか。
敵機動隊の面前で党派間ゲバを演ずるとは思ってもみなかったことだった。

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●中核旗、基地内走る
そのさなか、下から「水谷、早く降りてこい」という声が聞こえた。車の上から降りると、彼は声をひそめて、「本多さんの伝言だ。佐世保川を見ろ。そういえばわかる、とのことだ」といった。私はハッとなり、そっと佐世保川の川面を見た。すると、干潮時となり、川の水位がぐっと下がっていた。夕闇が降りつつあった。
私は赤松英一(京都大)とK(横浜国大)を探した。赤松はすぐ近くにいたが、Kの所在がわからない。だが時間がない。私と赤松は、中核派集団のうち後方にいる約100人に5列縦隊のスクラムを組ませた。そして、「わっしょい」の掛け声で先頭の向きを逆にぐるっと回して、橋の東詰めに向けてデモし、袂から右に向きを変え、川下方向に150メートルほどデモした。ここなら歩いて渡れる。川幅は約50メートルだ。デモを止め、肩車に乗って演説した。
「見ろ。佐世保川の水位が干潮で下がった。今から川を渡ろう。鉄条網を越えたら米軍基地だ。念願の佐世保基地突入を今、やるぞ」と。全員が歓呼の声を挙げた。数人が岸から飛び降りるのを見て、私は中核旗を担いで、川を渡った。ばしゃばしゃと水しぶきがあがった。向こう岸に着いた。有刺鉄線が身体を突き刺す痛みを感じながら、一気に高さ2メートルの鉄条網の上に乗り、旗を大きく打ち振った。見ると、デモ隊の大半が元の岸に残っている。三〇人ほどが川を渡ったが、鉄条網を越えた者は数人しかいない。私は「早く来い、基地に入れ」と手を振り、叫んだ。
先に基地内に入っていた赤松が角材を振り回しながら、「早くしろ。機動隊が駆けつけてくるぞ」と叫んだ。私はすぐに鉄条網の上から飛び降り、旗を掲げて走った。はるか右前方に十数人の刑事と機動隊員が駆け寄ってくる姿が見えた。左前方の小高い丘に教会があった。その前には、カービン銃をもった米兵が二人、猟犬を従えていた。私と赤松は「よし、あっちだ」と米兵に向って走った。「カービン銃で撃つなら撃ってみろ」と心の中で叫んだ。
驚いた様子で立ち尽くす米兵に近づいた地点で、刑事らが襲いかかり、乱闘となった。われわれは組み伏せられ、逮捕された。刑事たちは手錠を持っていなかった。よほど慌てていたのだろう。基地内に侵入したのは結局、二人だった。
佐世保橋上では、その間も全学連、労働者、市民と機動隊との激突がくり返された。

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●政治局が現場に立っていた
 佐世保闘争では、各派の活動家は誰もが勇敢だった。ブントは、折りしも一気に燃え上がった中央大学の学費闘争に力を注ぎ、そのため佐世保現地には西日本勢以外には参加は少なかった。それでもブントは、角材調達で一日の長があり、しっかり武装して果敢に機動隊に立ち向かった。解放派は、三池闘争の地でもある九州は自分たちの本拠地という意識が他派に比べて強く、身体をはって闘う決意に満ちていた。
とくに感嘆したのは、19日である。この日、解放派は前夜、佐賀大に入り、いち早く佐世保に登場した。中核派が九大から佐世保橋に到着したときには、すでに解放派が機動隊との激闘を重ねていた。高橋孝吉(全学連書記長)を先頭に、丸太を抱えて猛然と機動隊に激突していた。それを何度も繰り返した。機動隊の壁がどっと崩れ、解放派の隊列が機動隊の海に突っ込んでいった。
私は「ああっ、この手があったか。解放派にやられたな」と思った。この日、中核派は立ち遅れていた。
とはいえ、「佐世保の1週間」でスポットを浴びたのは中核派だった。私はその理由は、各党派の最高指導部の構えの差だと思う。中核派の上部組織・革共同の政治局は、本多延嘉書記長を先頭に佐世保に乗り込み、常に現場に張り付いていた。しばしば伝令をとおしてデモ指揮者に指令を出した。
また事前には、政治局の指導のもと、佐世保現地調査が行われた。その一つとして、佐世保川の最下流は佐世保湾の海水で浸されており、潮の満干によって川の水位が大きくちがうという、佐世保市民なら誰でも知っている事実を現地で教えてもらっていた。干潮時には川を歩いて向こう岸、つまり基地フェンス前に行けることがわかっていた。数十人の中核派指揮者団は、最後の手段として、夕刻時の佐世保川渡河の秘策を発動するならば必ず基地に突入できるという確信をもっていた。指揮者の強い確信はデモ隊全員に受けとめられ、伝播するものだ。
この小さな戦術を含め、政治局が現場に立ち、組織の命運をかけていることを感得した数十人の指揮者団と全参加者がベトナム反戦の正義に揺るぎない確信をもったことが、機動隊に惨めにうちのめされ、催涙液でひどい痛みと苦しみを味わってもまったくへこたれなかった一つの要因だったのではないかと思う。

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●エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民
 50年後に佐世保エンプラ闘争を検証すると、その歴史的意味が当時のとらえ方とはやや異なって発見される。
 当時、「佐世保現象」ということばが生み出された。連日、何千何万という市民が学生を包んで、機動隊と対峙した。市民が機動隊の暴力行使に身体を張って抗議し、機動隊の囲みから学生を救い出し、また自ら石を投げ、棒を振るう人たちもいた。全学連が街頭カンパに出ると、カンパ箱代わりのヘルメットに次々と多額のカンパが投ぜられた。
 佐世保市民は全学連の単なる応援団ではなかった。戦前・戦時下の軍港佐世保の歴史、被爆県長崎の経験、その後の「米軍基地の町」の体験から、核戦争への強い不安と怒りを共有していた。当時の新聞報道にもそれを示す市民の動き、怒りの声がいたるところに記録されている。
 そのなかから福岡ベ平連(石崎昭哲事務局長)などが誕生した。何よりも2月19日、佐世保ペンクラブ代表の矢動丸廣氏の呼びかけで「19日佐世保市民の会」が生まれた。市民の会は毎月19日、市内デモを続け、50年後の今も持続している。半世紀を越えて営々と反戦の意志を反復表明する、このような市民運動はどこにもない。静かな、しかし驚異的なほど強靭な反戦、非戦の運動である。
 矢動丸氏は、全学連のエンプラ裁判では特別弁護人を務め、長年にわたって私たち被告学生を激励し続けた。矢動丸氏は、戦前・戦中は佐世保女子高校教員を務め、その後、戦後早くに井上光晴らと郷土雑誌『虹』を創刊するなど、地元の文学者として敬意を払われていた。
同裁判の地元の弁護人・小西武夫弁護士は、戦時中、海軍法務大佐として軍法会議の法務官であった。辛い判決を下さざるをえなかった戦争体験から、戦後、非戦を誓ってクリスチャンとなり、エンプラ闘争以後、全学連の闘いに公然と支援を寄せた。
ところで、エンプラは1月22日、佐世保を出港した。ベトナム侵略戦争が激化するなか次の寄港が日程に上るのは明らかだった。それについて、佐藤栄作首相の側近中の側近、木村俊夫官房長官は「今回の寄港にともなう教訓と国内での反響、とくに佐世保市民が警備陣に対してある程度の批判的な動きを示した点を重視したい」と、慎重な姿勢を示したのだった(毎日新聞、1968.1.22)。
実際、その後15年にわたって、エンプラはついに佐世保に入港することはなかった。1983年に再度来たときは、すでにベトナム戦争はアメリカの歴史的敗北をもって終結していた。
半世紀という長い眼でみたとき、佐世保エンプラ闘争の真の勝利者は佐世保市民だった。政府権力からみると、全学連の闘い以上に、佐世保市民の存在こそ脅威だったのだ。

●ラディカル左翼の総括の一視点
 私は当時からずっと、中核派セクト主義の急先鋒だった。その私の苦い反省も含めて、1960年代〜70年代のラディカル左翼を総括するとき、三派全学連や反戦青年委員会における党派関係、とりわけ中核派と解放派の党派闘争の問題を厳しく、かつ率直に自己検証することは不可欠の作業であろう。われわれは対権力の闘いでの戦友関係であった。だが、党派の創立あるいは本質において水と油のような関係でもあった。だからこそ、そこをのりこえて共闘関係を形成するにはどうすればよかったのだろうか。別のところでも書いたが、われわれが抱いていた党概念のコペルニクス的転換が求められている。
 半世紀という長い歴史のスパンで総括することで、階級闘争の全体像とそこで世界革命・アジア革命・日本革命をめざしたわれわれの存在意義と大きな誤りもみえてくるのではないだろうか。
 最後になりましたが、この度、執筆の機会を与えてくれた重信房子さんと『オリーブの樹』編集部に心から感謝申し上げます。(2018年8月10日)

【お知らせ その1】
10・8山博昭プロジェクト2018年秋の東京集会
「異なった視点からの10・8羽田闘争」

●日 時 2018年10月7日(日)17;30〜20:30(開場17:00)
●会 場 主婦会館プラザエフ9階「スズラン」(JR四谷駅下車)
●参加費 1,500円
第一部 講演
「政治のターニングポイントとしての10・8羽田」
ウイリアム・マロッティ(UCLAカリフォルニア大学ロスアンゼルス校准教授)
「60年代をどう歴史化できるのかー外からの視点」
嶋田美子(アーティスト)
第二部 ベトナムからの挨拶
フィン・ゴック・ヴァン(アオザイ博物館館長)
チャン・スアン・タオ(ホーチミン市戦争証跡博物館館長)

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【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は9月28日(金)に更新予定です。 

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沖縄の辺野古をめぐる情勢が緊迫する中、明大土曜会のメンバーが7月13日から15日まで沖縄を訪問した。沖縄では、現地で活動を続けているO氏に案内と説明をしていただいた。
8月4日に開催された明大土曜会で、その報告があった。以下、明大土曜会メンバーの沖縄現地訪問レポートである。
なお、訪問後、翁長知事の逝去や辺野古の土砂搬入延期など、情勢が変化しているが、このレポートは8月4日時点のものであることを念頭に置いて読んでいただきたい。(写真はO氏の沖縄報告から転載させていただきました。)

【沖縄現地訪問レポート 2018.7.13〜15】
この7.13から7.15 、Oさんと沖縄でお会いし、いろいろ案内していただきました。Oさんは、1970年に沖縄現闘として一橋大学から沖縄に渡り、48年の在沖縄です。
 Oさんと一緒に読谷村の反戦地主、Cさん経営の民宿に泊まりました。Cさんは沖縄海邦国体で、日の丸を焼き捨てました。
 このあとすぐに右翼のCさんへの脅迫電話、Cさん自身や経営するスーパーへの襲撃、村役場への爆弾脅迫電話、読谷村集団自決のチビリガマ平和像の破壊とヘイトとレイシズム攻撃を受けています。
 この時は読谷村の村が一緒になってCさんを守ったそうです。
日の丸を焼き捨てた男がやっている民宿というブログが韓国で流れているそうです。私たちが泊まった14日は韓国から三名の人が泊まりに来ていました。
 1996年には読谷村の「像のオリ」にある土地の返還を求め米軍用地特別措置法を違憲として最高裁まで戦いました。その前は、沖縄大学自治会委員長として72年の復帰闘争を戦っていました。五年前から東本願寺派僧侶、反ヘイトの「のりこえネット」の共同代表もつとめています。
辺野古の抗議活動封じー7.14深夜シュワブ前に新たな柵設置
 7.14深夜、キャンプシュワブ前のテント村がテントごと撤去されました。
そして抗議行動の座り込みスペースに「柵」が設置されそのスペース空間をゼロにしようとしています、
同日普天間基地のフェンスの横断幕やステッカー等の撤去勧告が出されました。
辺野古ー普天間への同時弾圧です。辺野古土砂投入予定の前日の8.16には大きな県民大会が開催されます。
「沖縄防衛局発表、8月17日からの辺野古護岸土砂投入体制に入る
(7.15沖縄タイムス記事)
7.14深夜シュワブ前の工事用ダンプ搬入ゲート前に新たな柵を設置、座り込み抗議行動のスペースをなくすることが目的。歩行者用通路は残すが、柵は国道側に大きく張り出す形になった。」

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(キャンプシュワブ前写真)
13日午後には14日土曜のダンプ搬入はないので、座り込みは3連休で中止の連絡がSNS等で流れていた。14日夜11時半、抗議市民の不意を打つかたちでの柵設置となった。
 14日午前中、Oさんの案内で辺野古現地へ。シュワブ前のテント村には約5名の常駐者のみ。警察はおらず、国道事務所の職員が数名だけだった。
(シュワブ前で旧明大生協職員、経産省前テント村に常駐し、2015年から辺野古に来ているHさんとお会いする)
 海上抗議の拠点になっている辺野古のテント村前で、辺野古新基地建設の全体図を手元にして、在沖縄48年のOさんから工事の進行や問題点についていろいろお聞きする。
同日、普天間基地のフェンスに貼り付けていた横断幕やステッカー等も次から撤去との警察の警告があったそうだ。辺野古と連動した弾圧が強化される。
15日午後、県庁前で辺野古弾圧抗議の緊急座り込みが行われた。市民側はこの7.15から5日間の県庁前座り込み抗議活動に入る。
土砂投入は8.17予定。8.11か8.16に土砂投入反対の大きな県民大会(オール沖縄)が開かれる。

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(全体図写真)

【報告書】
1.辺野古新基地建設の全体図と工事の進捗度合いと問題点
1)辺野古米軍新基地建設事業は、仲井真前沖縄県知事が2013年12月末に埋立を承認して以来、すでに四年半以上が経過した。2014年夏から沖縄防衛局は本格的な護岸工事を開始した。2017年秋からシュワブ沿岸には大型クレーンが立ち並び、フロートで大きく囲われた海では、護岸作業が行われている。
2)新基地総面積205ha、内埋立160ha(内、辺野古漁港周辺5haは作業ヤード)。海上埋立5年、滑走路・陸上施設5年の計10年とされる。護岸総延長は7257m、現在は浅瀬のK4(傾斜)護岸が中心で長さにして全長の約6%の進捗。護岸工事は外海と埋立地区を切り離すために行われている。
3)8月17日土砂投入予定の沖縄防衛局発表は、K4護岸の約100m弱の部分である。簡単に工事に着手できる浅瀬の辺野古K4(全長1029m)護岸造成はほぼ完成したが、これは埋立の実績を早く作り、県民の諦めを誘うため。
4)埋立予定の大浦湾には辺野古ダムから流れる美謝川が流れ込んでいる。せき止めて埋立外に流さなくては、埋め立て工事は出来ない。現状では美謝川の流れ切り替えのメドは立っていない。
5)沖縄県では特定外来生物の侵入防止のための条例が2015年から施行されている。県外からの埋立土砂にも大きな壁がある。 
6)今後は次第に深場のケーソン護岸(長さ52m、高さ24m、幅22mのコンクリート函で総数38ケを本土から曳航する、その下には膨大な捨て石が必要、船の係留のため)や中仕切り鋼管護岸(直径1.4m、長さ約30mの矢板で約2700本)の難工事なる。
7)辺野古弾薬庫の下を通って海に入る辺野古活断層と大浦湾の楚久活断層に囲まれた海底区域は、マヨネーズ状の軟弱地盤と活断層による空洞とその下のねじれが多いと指摘告発されている。政府はボーリング調査や海底音波検査のデーターは非公開としている。
(北上田毅さん:沖縄平和市民連絡会、元公共土木技師、辺野古抗議船団船長)
直下地震や津波が発生すれば想像を絶するものになるであろう、辺野古新基地の立地条件が根本から問われている。
8)8月中旬の土砂投入前の翁長県知事権限の「埋め立て承認撤回」表明がなさられるのかと土砂投入反対の沖縄県内外の大きな声と抗議行動が当面の山場になる。土砂が投入されると原状回復の見込みがまったくといっていいほど無くなる。

2.7月23日辺野古移設の賛否を問う沖縄県民投票成立(7.7万票で必要数の3倍超え)−11月知事選以降(12〜1月?)実施
1) 行政に対する法的拘束力はないが、住民の意思そのものが示される。以下は過去の例。
・少女暴行事件の後の96年県民投票は「基地の整理縮小と地位協定見直し」賛成が89%。
97年の名護市住民投票、普天間の移設先しての同市辺野古案に対して反対が54%。
市長は辺野古への移設受入れを表明して辞職。本土や沖縄の今後の世論形成には影響を与える。
2)署名請求代表者にはオール沖縄を離れた県内でスーパーと建設業を展開する金秀グループの呉屋会長がいる。
会長は沖縄の二紙に「県民投票が辺野古問題の唯一の解決策。反対・容認であれ、県民の総意として受入れ、分断を乗り越え新しいスタート切ろう」と主張。
3)県民の会代表は一橋大学院生のM君(26歳)。
今年4月から一年休学して、若者グループをつくり、勉強会や賛同者を募る活動をした。20年前の県民投票を知らない若い世代が登場した。前の県民投票は大田知事・革新共闘が周到に準備し用意した。今回はオール沖縄や翁長県政与党や辺野古座り込み部隊等への事前根回しはなかった。移設反対の民意が示された場合、オール沖縄や座り込み部隊等の新基地建設反対との距離感は不明であるが、若い世代が新しい政治の流れをつくれるかに注目する必要がある。
もう一つは、相互の棲み分けが可能な新しい社会性を持った「島ぐるみ」理論が必要になっているのかも知れない。
(主な島ぐるみ:土地を守る4原則、軍用地20年一括払い反対・プライス勧告反対、祖国復帰、日の丸・君が代・乱開発反対、少女暴行事件、米軍基地の整理縮小、オール沖縄)

3.7月27日翁長知事 辺野古土砂投入迫り「埋立承認撤回」を表明
1)前回の翁長知事「理立承認取り消し」は、前仲井真知事の「承認に瑕疵があったことを理由」として行われた。(2015年10月から法廷闘争、2016年12月最高裁で敗訴その間工事は中断された。)
今回の取り消し(撤回は)、その後の工事で生じた事態を理由としている。沖縄防衛局は辺野古の海に8月17日以降から土砂を入れる予定で、県はこれを阻止する手続きに入る。官邸サイドは「大型台風が来たと思って工事が遅れたと思えばいい」と言い、国は執行停止を裁判所に巾し立てる予定。
2)県は8月早々にも沖縄防衛局を聴聞(2週間かかる)→反論内容を精査して8月中旬に撤回に踏み切る。工事は即座に停止となる。仮に聴聞に応じなくても工事は知事権限で停止できる→政府は撤回の効力を一時的に失わせる執行停止を裁判所に申し立てる→認められれば申し出から数週間から数か月後に工事が再開する可能性がある。また、県から国に対して撤回を求める訴訟が起こされるだろう。工事再開‐土砂投入は11月18日の知事選の前か、後か??(投入強行や県民世論反発か諦めか)が大きなポイントになる。
3)翁長知事は撤回の理由として①理立予定海域の地盤が軟弱で護岸が倒壊する危険性があること(「マヨネーズくらい」柔らかな土壌=N値ゼロが深さ40mにわたって重なっている。政府が届けている設計や工法では建設が不可能だ)②理立要件として義務付けられている「全体の実施設計や環境対策についての事前協議」がなされていない③ジュゴンの海草藻類やウミガメの産卵砂場の保全をしなかった④サンゴ類を移植せず着工したことなどを上げている。
(他の具体的な理由として、ジュゴンの消失との消失、米軍の飛行場設置の高さ制限(約55m)に反する建物が71棟(小中学校や工業専門学校も含む)存在する、そもそも護岸工事用石材の陸上輸送は「県公有水面埋立法違反」、大浦湾の二本の断層は活断層の疑いがある)
4)官邸では、知事候補の佐喜真宜野湾市長が辞任するタイミングによっては、普天間基地がある宜野湾市長選と知事選(11月18日投票)のダブル選挙が目論まれているようだ。(今年に入っての名護市長選や沖縄市長選などで与党系候補が連勝。その勢いを生かす)
沖縄の政治日程:8月17日土砂投入通告日、9月9日沖縄「地方統一選」、9月20日?自民党総裁選、10月31日那覇市長選(翁長系保守中道現市長が勝つかが知事選前のヤマ場)、11月18日知事選投票日、12月以降県民投票実施か?
いずれにしても、保守中道層をも取り込めるのは翁長氏以外に見当たらない。
今回の辺野古の海土砂投入反対は、県民の総意を背景に現場の大衆抗議行動と県の行政が一体となって中央政府に立ち向かうという闘争構造を維持し、その力関係を変えることが大切なのではないか。
5)普天間基地の面積は沖縄米軍基地全体の2%です。辺野古に移転しても1%の減少でしかありません。
沖縄の米軍基地1%を減少させるために、あらゆるものを犠牲にして新基地をつくり一兆円の建設費(税金)が投入されます。普天間は移設ではなく撤去でなければならなかったはずです。「辺野古移転は普天間の危険性の除去のためとか沖縄の基地負担軽減の唯一解決の道」などという、コケ脅しはもう聞きたくもありません。
辺野古新基地は「沖縄の声が届かない」国の土地になり、米軍に差し出されます。(普天間基地:480ha、辺野古新基地予定:205ha、嘉手納基地:約2、000ha 本島全体:18、609ha)
米軍は辺野古ダム周辺に兵舎などを建設し、辺野古弾薬庫やキャンプ・シュワブと一体となって運営します。(辺野古弾薬庫:121ha、シュワブ:2、062ha、オスプレイの訓練に使われている北部訓練場(高江ヘリパット含めて):3、500haと伊江島演習場:800ha)
辺野古新基地は滑走路を2本にした飛行場に加えて、強襲揚陸艦ボノム・リシャール(全長257mのヘリ空母)が接岸できる岸壁もヘリやオスプレイに弾薬を積む「弾薬搭載エリア」、タンカーの接岸と燃料の貯蔵施設が造られます。
普天間にはない出撃機能が隠されています。
米軍の飛行場の高さ制限(滑走路から約2、300m範囲は45.7m以下、辺野古の標高9mを足した約55m)を超える建物が71棟あります。(幼稚園小中学校、約800人の全寮制の工業高専がある)
小野寺防衛相は「米軍と調整により高さ制限とはならない」と国会で答弁し、送電線の撤去で済まそうとしています。住民は「東京だったら許されないはず」。
沖縄でのオスプレイ墜落地点は辺野古の約6km先であった。

4.名護市長選の構造(2018年2月オール沖縄稲嶺進市長3選敗北)
翁長知事前知事の「辺野古埋立承認」取り消しの2015年10月から法廷闘争を展開し工事中止にしたが、2016年12月最高裁で敗訴し工事が再開された後での市長選だった。
辺野古問題は辺野古がある名護市長選の最大の争点になるはずだったのだが。
1)安倍政権の原発・基地問題地方選の勝利の方程式
・「自公セット」(名護市人口6万人に公明延べ2000人動員、自民はウラでステレス型の徹底的な保守・基地容認層支持基盤固め)
・「官邸主導」(名護市を通さず辺野古などに補助金バラマキと官房機密費投入と、選挙前に工事を加速して、もう工事中止は難しいという諦めムードをつくる)
・「争点隠しの抱きつき選挙」(基地問題を争点から外し稲嶺の政策=実績をパクリ、アメ=すべての医療費・保育費、給食費の無料化。
(中学卒業までの医療費を無料にしているのは沖縄全体で稲嶺名護施設だけだった)
・「組織ぐるみの期日前投票」(投票率77%、内期日前投票率44%の異常値)
2)渡具知(自民市長候補で市議辞任)・公明陣営の手口
・公明の戸別訪問(各戸毎ごとに情報把握、訪問してそれに合った話をし、医療・給食の署名を集め、集票リストを作る)
・公明党沖縄本部は辺野古反対。前回市長選では公明票の半分くらいが稲嶺に入ったが、今回は自民・渡具知と協定を結んで基地問題を外して、集票マシーンになった。
・子育て世代、「基地には反対だけど、生活につながる負担を軽くしてくれるのなら無料化の市長を選びたい」。
・2010年稲嶺初当選から基地交付金は切られたが、「稲嶺が貰わないので市の経済と財政は苦しくなった、市民の生活を圧迫している」キャンーンを張る。
特に。18才初選挙の若者層にネット、LINEで流す。
・道路、港湾、病院、校舎整備などの補助金は分野ごとに各省庁が個別に予算を計上するが、沖繩だけは内閣府沖縄担当部局が一括して予算を計上する。総理官邸の菅は沖縄担当で予算、人事、政策をコントロールしている。
(2010年の稲嶺初当選前、北部振興策800億のうち400億が名護に流れた。国保の滞納者増え、生活保護世帯が増え、建設業者30社が倒産した。振興策は市民の生活を豊かにしないという認識が生まれ、稲嶺に流れが変わった。2014年の市長選挙では自民党の石破幹事長が名護に500億とぷちあげたが一晩で破産した)
・相手陣営と同じような市民組織をでっち上げ、8回あった公開討論会には徹底して出ない。若い人の間に「稲嶺さんは基地問題とか大変だから重荷を降ろしてあげようね」、「お父さんを応援してね」わーっと拡散される。情に訴える、フェイクニュースを安易に信じる若い人が多い。
小泉進次郎の街頭演説とかバラ色の未来イメージチラシにもどんどん飛びつく。
・選挙中の小泉進次郎の街頭演説。内容は稲嶺の応援演説みたいにして途中と最後に、だから渡具知にしましょうとする。集まった人をショベルカーのように期日前投票にごそっと運ぶ。
・企業の組織ぐるみ期日前投票はあたりまえだが、だんだん手の込んだ手口になる。
従業員だけではなく、例えばウコンの工場では地域の生産者を巻き込む。
・渡具知市長、当選一週間後に官邸詣で。「名護にお金をください、優秀な官僚を回してください」。(菅に会えたのかは定かではないが)
(沖縄市民のオピニオン雑誌「けーし風」2018年4月より)
*「官邸人事‥・2018.7.31 朝日新聞2面」
沖縄県の抵抗で辺野古の工事が遅れていた。2016年1月官邸は工事を加速させるために国交省の港湾局の埋立のプロ2名を防衛省に出向させた。

(補足)
稲嶺派が何故負けたのか?

1)相手の候補者は市会議員。市会議員と2期やった市長では格が違う。横綱相撲で行けるという「おごり」があった。
2)全国から稲嶺陣営の応援に来た。応援部隊はレンタカーに乗って「辺野古反対」を訴えるが、住民を問い詰めるようなことも言う。それに対して住民が反発した。
3)稲嶺選対も政党ごとに選挙事務所があって、統一性がない。公示直前に翁長知事が喫寒を持ってカツを入れたが、すでに遅かった。
(終)

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2018年6月2日、東京・文京区の全水道会館で、10・8山博昭プロジェクト主催によるシンポジウムが開催された。タイトルは「死者への追悼と社会変革」。当日、シンポジストとして、三橋俊明さんと真鍋祐子さんが参加したが、今回のブログでは、そのうち三橋俊明さんの発言を掲載する。
(当日のレジメを文末に掲載しましたので、併せてご覧ください。)
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【「死者への追悼と社会変革」10・8山博昭プロジェクト東京集会 2018.6.2】
佐々木幹郎(司会:詩人)
「今日のメインイベントです。シンポジウム『死者への追悼と社会変革』というタイトルで、今日は三橋俊明さん、日大全共闘です、それと真鍋祐子さん、このお二人に来ていただきましてお話を伺いたいと思います。
ちょうど絶好のタイミングとなりまして、日大アメフト部問題、50年前と全く変わっていない現在で、三橋さんはそのことも含めて、いろいろとこの間、マスコミやいろんなインタビューなどで大変ご活躍されております。本も、私は昔出た河出ブックスで『路上の全共闘1968』を読ませていただいて、面白い本だなと思いました。そして、今日2冊、まだ本屋に出ておりません。彩流社から『日大闘争と全共闘運動』それからもう1冊『全共闘、1968年の愉快な叛乱』、今日出たばかりですので、是非ご覧ください。

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もう一つ、真鍋祐子さんの博士論文を基にしてまとめられた『烈士の誕生―韓国の民主運動における「恨」の力学』、冒頭からとっても面白い問題意識で書かれたものだと思いました。
韓国の問題も、今日、トランプが6月12日にシンガポールで(北朝鮮と)会談をやることを決定したという報告がありましたけれども、南北朝鮮の問題が、これから世界史的に大きく展開していくというこの時期に、真鍋さんに韓国における民主化運動はどういう歴史をもっているのか、その構造は何であったのかをお聞きするのは絶好のタイミングだと思います。『恨』という力学の視点から見た場合、我々は韓国人のその考え方を、我々はどんな風に誤解しているのかというのが、この本の中ではよく描かれています。
私は司会をさせていただきますが、今日は三橋さんに最初20分ほど、そして真鍋さんにも20分ほど報告を受けて、その後、お二人の対話という形で一部を終わります。それから休憩をはさんで、皆さんからの質問を受け付けたいと思います。
では三橋さん、よろしくお願いします。」

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三橋俊明
「三橋です。どうもとんだ時期にお引き受けしまして、レジメを作るというお話だったんですが、その最中に今報道されている日大アメフトの「悪質タックル」が起こったものですから、急にレジメに付け加えさせていただきました。ただ、今日のシンポジウムは「死者への追悼と社会変革」がテーマです。私も寄稿しておりますが、『かつて10・8羽田闘争があった−山博昭追悼50周年記念(寄稿編)』が主役ですから「悪質タックル」についてお話するつもりはないのですが、三点だけ今も日大全共闘として活動している僕から指摘しておきたいと思います。
 その一つは、事件の経緯は皆さん報道でご存知だと思いますが、日大の体質が1968年当時と全く変わっていないことがアメフト部の「危険タックル」問題を通して見えたという点です。それは日大全共闘に引き付けていうなら、50年前の日大闘争は民主化要求闘争だとマスコミの皆さんは仰っていましたが、その目的が達成できずに、日大を民主的な大学に変えることができなくて今の日大に引き継がれてしまったという忸怩たる思いも含めて、その現実が透けて見えたというのが一点目です。
 その今の日大の体質を作ってきたのは田中英寿理事長なんですが、彼は1968年に日大闘争がたたかわれていた当時、相撲部に所属していました。日本大学の本部体育会相撲部で大活躍していたわけです。その体育会がどういう役割を日大闘争の中で果たしていたかというと、象徴的な出来事としては1968年の11月8日、関東軍を名乗る連中が江古田にある芸術学部のバリケードを襲うという事件が起こりました。そのときは日大全共闘が各地のバリケードから駆けつけて撃退し、何人もの関東軍を捕まえました。襲った連中が誰なのか確認したところ、他大学や暴力団もいましたが日大の体育会運動部もたくさん襲撃に参加していたんです。中には、日大の付属高校時代に私と机を並べていたN君という剣道四段でインターハイや国体に出ていた選手もおりました。一生懸命に剣道の道を歩んでいたヤツでしたが、そのNが角材で一般人を殴る行為を自ら望んでおこなうでしょうか。そんなはずはないと思いますが、でもそれを引き受けざるを得なかった。たぶん運動部の中で『やってこい』と言われて行かざるを得なかったんでしょう。それは正に、田中理事長体制下でアメフト部の内田前監督が命令に従わせようとしてきた体質と同じだったのでしょう。アメリカンフットボール部には上から言われたことは「悪質タックル」であろうともしなければならない上意下達の命令が生きていましたが、その体質は1968年に全共闘を襲った体育会の相撲部だった田中英寿によって築かれてきたわけです。それが2点目です。
 もう1点は、しかし、変わったものが一つありました。今お話しした剣道部の友人は、たぶん罪悪感を抱きながら芸術学部のバリケードを襲ったんだと思いますが、その行為をきっと誰に話すこともなく、また懺悔することなく日大を卒業して今を生きているんでしょう。しかし今回は、その運動部の中から「私が何をしたのか」を記者会見を開いて告白する運動部員が出てきたわけです。1968年の話として言うなら「関東軍として全共闘のバリケードを襲って悪うございました」と謝って記者会見をするようなことを、一人のアメフト選手がしたわけです。日大全共闘としては、その勇気ある決断に、もしかしたら日大が変われるかもしれない希望を見たいと思っています。これから果たして日大はどうなるのでしょうか。とりあえずアメフト部員たちは集まって声明を出しましたけれども、次に声をあげるのは日大で学んでいる学生たちだと思います。学生たちがどういう形で行動に起ち上がるのか。もし起ち上がることになったら、我々は日大全共闘OBとして喜んで学生たちとともにあらためて日大闘争を闘いたいと思います。以上が、日大の「悪質タックル」問題についてです。

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 本題に入りたいと思いますが、僕の『かつて10・8羽田闘争があった−山博昭追悼50周年記念(寄稿編)』(以下「寄稿編」)へのかかわりについてまずお話しすると、当初は「10・8 山博昭プロジェクト」賛同人の一人として名前を連ねておりました。ただ、賛同人として名前を連ねているだけでなく、何らかのお手伝いができればと考えていたんです。これまで仕事として原稿の執筆や編集や本の制作にかかわってきたので、お手伝いできることがあるかなと思っていました。どんなお手伝いを考えていたかというと、実は日大全共闘の仲間たちと2011年から『日大闘争の記録−忘れざる日々』という冊子を1年に1冊くらいのペースで刊行してきました。

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1968年当時、日大全共闘は大衆団交のときに3万人とも3万5千人ともいわれる日大生を集めたんです。そんなに大きな集団だったこともあって、今も定期読者の名簿が600名から700名くらいは確保できています。その皆さんに日大闘争の「記憶を記録に」とうったえて冊子をお送りする活動を続けてきました。その名簿が私たちのところにあるので、その皆さんに今回の「寄稿編」の出版をお知らせして、書籍販売のお手伝いのようなご協力ならできるかなと思っていました。そこで事務局にご連絡を差し上げたんですが、佐々木幹郎さんからご連絡をいただき校閲作業をやってくれないかとの依頼が来たんです。出版に携わっている方ならご存じだと思いますが、校閲作業というのはとても専門的な分野ですから、経験のない人間が安易に引き受けるような仕事ではないんです。でも佐々木さんから『当時の出来事について知っている、あの時代を経験している三橋さんに、できる範囲で協力をお願いしたい』という丁寧なご依頼だったものですから、お引き受けすることにいたしました。したがって、皆さんが「寄稿編」を読まれる前に、僕は校閲作業の中で原稿を読ませていただくという立場になったわけです。
 当初「寄稿編」への投稿は、原稿用紙10枚でという規定でスタートしていたと記憶しています。校閲担当の僕はご寄稿いただき文字校正の済んだ原稿を読ませていただいたんですが、正直にいってあまりの原稿枚数の多さに、言ってしまえば原稿執筆枚数のいいかげんさに驚かされたんです。たくさん書かれている方がけっこういらっしゃいました。僕はたまたま書くことを仕事としてきましたから、10枚でと言われれば素直に10枚で書きあげてしまうんです。読んでいただければ分かる通りです。ですから、当初僕はこの「寄稿編」がどういう形で着地するのか心配していました。当然のことですが、10枚の規定をこえて20枚も30枚も書いているような原稿は削るなり減らしてもらうのではないか、またそうなるであろうと思いながら校閲作業のお手伝いに入ったわけです。ところが、佐々木さんの編集方針をお聞きするとまったく躊躇することなく『全文を載せます』という。えっと驚きましたけれども、正直にいってその揺るぎない姿勢に心をうたれたんですね。それは、読んでいただければ分かると思いますが、「寄稿編」に掲載されている文章は、まさに書かずにはいられない人たちが書きたいと思っていた内容を率直に記した原稿なんです。これらの原稿は、他人の誰かが枚数を減らせとか、短くまとめろとか、もう一度書き直せとかいって修正することが可能な種類の文章ではなかったんです。あえて感覚的に言わせていただくなら、人には止めることのできない「ほとばしり」や書かずにはいられない「心情」があって、その思いが原稿用紙の枚数を10枚では済まずに20枚にも30枚にも膨らませていったんだろうと思えたんです。その細部にわたってまで語りつくそうとしている「ほとばしり」や「心情」をひとかけらも削ることなく載せようというのが、佐々木さんの編集方針だったんだろうと思います。もちろん僕はその方針に賛同して佐々木さんの依頼にそって校閲作業をいたしました。とても厚い本になるだろうなと予想したとおり、見事に厚い本になりました。一気に読んでいただくのはちょっと大変かもしれませんが、この「寄稿編」は現在の10・8への皆さんの思いの結晶なんだなと感じながらしっかり作業をさせていただきました。

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 僕が書かせていただいた「全共闘は10・8から生まれたのか?」という文章についてですが、当初原稿を書くつもりはなかったんです。なぜかというと、直接10・8にかかわっていなかったからです。少し踏み込んで言うと、僕が10・8のことを当時ほとんど知らずに毎日ぶらぶら遊んで暮らしているような大学生だったことがありました。1968年の4月から日大闘争に参加することになりましたが、それまではまったくのノンポリで政治や社会問題にとくに関心はなかったんですね。日大にはそんな全共闘たちがたくさんいるんですが、まあ、その典型といえるのかもしれません。そのように1967年の10月8日を過ごしていたこともあって、寄稿する立場にはないかなと考えていました。でもその一方で、もう一つの別な思いもあったんです。それは『日大闘争の記録−忘れざる日々』という冊子の編集人をしながら日大闘争にかかわった皆さんの経験をまとめていくなかで感じてきた思いと重なっていました。たとえば、直接には日大闘争にかかわらなかった多くの支援者たちの声をどのように集めればいいのか。街角で一万円札をカンパしてくれたご婦人や路上で一緒に石を投げてくれたサラリーマンの話は、どうすれば聞けるのか。また日大闘争のことをよく知らない人に経験を伝えていくにはどうしたらいいのか。そうした課題について考えてきたことと重なっていたんです。「寄稿編」に、10・8や山博昭さんにかかわりのあった人たちだけでなく、何もしなかったり出来なかったり知らなかった人たちが、どうして、どのように向き合うことになったのかを伝えていく文章があってもいいのではないか。というより、もしそうした文章が加わることになったら、山さんや10・8をめぐる経験に質のちがう幅や奥行がでてくるのではないかと思ったんです。今、ここにいらっしゃる皆さんは10・8と身近にかかわってきた方々でしょう。たとえニュースとしてしか知らなかったとしても、同じ時代を共に生ききたわけです。しかし当たり前のことですが、この寄稿編がこれから何年にもわたって読まれていくとしたら、10・8という出来事に触れてみよう、山博昭さんについて知ろうと思った人たちは1960年代の経験を共有していない世代の方たちになっていくわけです。別の時代に暮らしている人たちが、10・8や山博昭さんについて理解しようとこの「寄稿編」を読むわけです。その時に、同時代を生きながらも10・8を知らないで全共闘運動に参加し、でも10・8の経験を受け継ぎ山博昭さんと向き合うことになった。そんな人たちが当時いたんだという時代と経験の広がりを伝えていく役割ならできるかなと思って「全共闘は10・8から生まれたのか?」を書かせていただきました。
 僕としては山博昭さんと10・8への思いを、率直に「共感」として語りたいと考えて書かせていただきました。それは、たとえば共に感情を共有するといった次元を超えた、出来事の由来や真相を知ることで自分の体験と過去の歴史とが重なり、経験を分かちあえたと思えるような「共感」について書こうと思ったんです。そうした次元の「共感」をつかむためには、出来事の「由来」や「真相」、いつ、どうして、誰が、どこで、なぜ、何をしようとしていたのかを知らなければなりませんでした。知ることが多ければ多いほど歴史的な出来事に接近できるし、自らの体験との重なりが見えてくるからです。知れば知るほど、経験を分かちあえる分量が増えていくように思えたんです。ですから、大切なのは「どのような出来事が、なぜ、何をめぐって起こったのか」という「由来」や「真相」をまずは知ることではないでしょうか。『かつて10・8羽田闘争があった−山博昭追悼50周年記念(寄稿編)』は、そのことに応えようとしている記録になっているのではないでしょうか。すくなくとも僕は、そのようにこの「寄稿編」を読ませていただき山博昭さんへの「共感」を僕なりに深めていくことができたと思っています。
 「寄稿編」は、山博昭さんの思いや10・8の経験を、あの場にはいなかった人たちと分かち合っていくための素材を提供しているんだと思います。僕は「寄稿編」を読ませていただくことで、これまでより密度の濃くなった、魂にふれる「共感」を受け取れたように思えました。あの場にいなかった僕が山博昭さんの思いや経験をこれまで以上に感じられるようになったのは、少なくとも羽田闘争が10・8になぜ実力闘争として闘われ、山さんがどのような反戦への意志をもって参加し、なぜ亡くなったのかを「寄稿編」をとおして多角的に複雑に知ることができたからだと思います。当時、何も知らなかった僕には近づけなかったんです。10・8という出来事を知らなかった僕には、「共感」するための土台がありませんでした。日大闘争に参加し、政治や社会について考え機動隊の暴力と向き合っていく中から、1960年代に起こった社会運動への「共感」の芽が少しずつ育っていったんだと思います。
 日大闘争も同じですが、他人と経験を共有しようとするなら出来事の由来や真相が何だったのかをしっかり語り伝えていくことがまずは大切なのではないでしょうか。一人ひとりの細かな記憶を拾い集めたり語ってもらって記録していくこと。どんなに細やかな記録や資料であっても、その一つが残っていなければ共有していくことが難しくなる経験が、そういう何かがあるのではないでしょうか。「記録」は、魂にふれる「共感」が生まれていく原点の一つなんだと思います。
 『かつて10・8羽田闘争があった−山博昭追悼50周年記念(寄稿編)』は、そしてこれから刊行を予定している「資料編」は、10・8の羽田闘争と山博昭さんの経験を未来にわたって誰かと共有していくための記録になると思います。最後になりますが、僕は二冊の記録本をもとにあの日の出来事をもう一度見つめ直し、直接には知り合いでなかった山博昭さんとあらためて向き合ってみようと思っています。

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 本日、もう一つお話しておきたいことがあります。山博昭さんともつながっているんですが、日大全共闘は日大闘争の中で一人の同志を亡くしています。皆さんには『中村克己の略歴と事件経過』というタイトルでレジメに書かせていただいたので、それをお読みいただくと大体の出来事と、中村克己くんがどういう人物なのかお分かりいただけると思います。
 日大闘争は1968年6月11日からバリケード闘争に突入しますが69年2月頃から各学部のバリケードが機動隊によって撤去されていきます。その前後から70年にかけて疎開授業が始まって、1年間の単位をおよそ1週間から2週間で取得できるという馬鹿げた授業が始まります。日大全共闘は各学部で疎開授業阻止の抗議行動に取り組みました。その最中、最寄り駅でビラ配りをしていた日大全共闘にたいして右翼からの襲撃があり、踏切の付近に追い詰められた中村克己くんが致命傷を負って亡くなったんです。この右翼による襲撃事件は裁判闘争としても争われましたが、急行電車との接触事故として処理されてしまいました。もちろん事件の真相は明らかになっていませんし、万が一急行電車に接触していたとしても右翼から襲われない限り踏切に追い詰められ事故になることはなかったわけです。ところが、右翼の襲撃についても事故の原因を作った行為として認められませんでした。中村克己くんは電車との接触による事故死として処理され亡くなってしまいました。亡くなった後、日大全共闘葬が日比谷公会堂でおこなわれ、墓参会もそののち続けられていて僕も参加しています。

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(写真:中村克己さんが当日被っていたヘルメット)
 僕が当時の出来事を語ろうとして少々しどろもどろになるのは、1969年9月30日に「9・30大衆団交1周年法経奪還闘争」という御茶ノ水にある明大学生会館の前庭で開催した闘争で逮捕され起訴されてから10ケ月間、1970年の7月10日まで府中刑務所の独房に拘束されていたために、事件の全体像が分からないからなんです。70年6月の安保闘争が終わるまで下獄できなかったため、中村克己くんが襲撃された70年の2月25日にまだ僕は府中刑務所にいたんです。襲撃事件のことは、独房にとどけられた一通の電報によって知りました。夜半に救対から発信された『右翼に襲われ中村克己くん危篤』という電報を監守から受けとりました。辛かったです。ですから、事件の経緯を直接には知らないんですね。僕はさまざまな機会に、山博昭さんと同じように日大闘争の中で右翼からの襲撃によって亡くなった仲間がいて、彼がどういう経歴をたどり、どんな思いで日大闘争に参加し、どうして亡くなったのかを出来る限り皆さんにお知らせしようと思ってきました。中村克己くんが日大闘争を通して実現しようと願っていたことを皆さんと共有していただければと思って機会があるごとにお話しています。
 以上、日大アメフトの現状、寄稿編へのかかわり、そして中村克己くんと日大闘争をめぐってということでお話させていただきました。

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 いま写っている写真が70年に日比谷公会堂で開催していただいた「中村君虐殺糾弾日大全共闘葬」の様子です。この時は皆さんにご協力いただいたと思います。まだ水戸巌さんがお元気だったころで、呼びかけ人として名前を連ねていただいております。今日は水戸喜世子さんがいらっしゃっていますが、あの時は大変お世話になりまして、ありがとうございました。
 中村克己くんのお墓は1971年に作られ、毎年、墓参会をしてきました。ただ、墓参委員会による協議の結果、2020年の中村克己くんが亡くなってから50年目に墓石を壊してすべて土にかえすことにしました。とても不思議なことだと思うんですが、一方では山博昭さんのモニュメントがつくられ、その一方で僕たちはあと何年も生きられないしお墓を放置できないので、墓石を無くすことを選択したわけです。中村克己くんの墓に刻まれた言葉を拓本に取って、去年、日大闘争の資料が国立歴史民俗博物館に収蔵されることになったので、そこに記録として残すことにしました。当初は「墓石をモニュメントとして残してください」とお願いをしたんですが、歴博からは「いくら何でも墓石は資料として残せません」とお断りの連絡がありました。

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(会場から)墓石の文字は何と彫ってあるんですか?
 この文章は中村くんが書き残したメモからの言葉なんですが、『現在における激烈な階級闘争は自己の内的世界をも破壊する闘いとしてある』と彫られています。当初は、お父さんお母さんのお墓の横に建ててあったんですが、後にお父さんお母さんの遺骨を中村克己くんの妹さんが引き取ってそちらの家族のお墓に収めたんですね。その妹さんが中村くんの遺骨も一緒に収めて下さることになりました。今の墓石がなくなったあと中村くんの遺骨は妹さん家族のお墓に合葬されるので、我々も命が続く限りそちらの墓への墓参会を続けようと墓参委員会では決めております。2月の命日ちかくの日曜日におこなわれてきた墓参会には毎年30〜40人くらい集まります。
以上です。

【レジメ】
死者への追悼と社会変革『かつて10・8羽田闘争があった(寄稿篇)』をめぐって
『日天闘争の記録一忘れざる日々』編集人 三橋 俊明
はじめに一日大闘争と日大の今
① アメフト傷害事件への日大の対応と日大体質
・日大の体育会は「保健体育審議会に所属する競技部」と今は名前を変えて呼ばれているが、大学本部直属の日大エリート・コースに変わりはない。本部が予算や人事などのすべてを掌握し、競技部は本部の指示にしたがう。
・1968年の古田重二良会頭は柔道部出身。ボクシング部の柴田勝治氏も。12代理事長として2008年田中英寿が就任。相撲部出身。次期理事長候補がアメフト出身の内田正人前監督。
・田中理事長はアマ横綱としで活躍し1983年に日大相撲部監督に就任。指導者として舞の海や野球賭博で追放された琴光喜などを育て、今は“アマ相撲界のドン”として君臨し、日本オリンピック委員会(JOC)の副会長など歴任。一方で山口組組長の司忍や住吉会福田会長との写真が流出。
・また田中英寿理事長は、かつて日大本部から指示され、学生弾圧で暴力行為をはたらいた右翼体育会メンバーの一人と目されている。
② 日本大学・宮川泰介選手が拓いた希望
・変わらない日大体質と変わった体育会学生
③ 6月10日「日大全共闘結成50周年の集い」
・田中英寿を日大から永久追放する「声明」を「日大全共闘結成50周年の集い」参加者一同で採択する予定。

1『かつて10・8羽田闘争があった一山崎博昭音匝50周年記念[寄稿編]』をめぐって
① 記念誌へのかかわり
・賛同人一原稿の執筆−お手伝いへ
・校閲作業をとおして
② 「全共闘は「10・8」から生まれたのか」をめぐって
・日大闘争とはどのような出来事だったのか一五大スローガンを掲げた「民主化闘争」
・日大全共闘のノンセクト組にとって「10・8」とはーその現実の率直な記録
・「10・8」によって切り拓かれた実力闘争の地平と日大闘争
「日大闘争に参加した日大生のなかで、!967年の「10・8」に参加しなかった、できなかった、知らなかった日大全共闘たちにとって、「10・8」とは何だったのか。
そして「10・8」の何と、どうかかわることになったのか。
③「sympathy ・同情」を超えた「empathy ・共感」へ
・相手と同じ感情を共有する「同情」の次元を超えて、出来事の「由来」を知り相手の感情を自らの体験に重ねて経験を分かちあう「共感」へ

2 日大全共闘商学部闘争委員会・中村克己さんの略歴と事件経過
① 中村克己さんの略歴
1947年10月21日、東京都世田谷区に生まれる。
第二岩淵小学校、赤羽中学校をへて62年4月、都立北高等学校入学。
高校二年生のころはバレー・ボールに熱中する。三年生の春、家庭の事情により西巣鴨のアパートに下宿。高校卒業後一年間、代々木ゼミナールに通って受験勉強。
1967年4月、日本大学商学部経営学科に入学。『平凡パンチ』やマンガ雑誌を読み、ジャズを聴き、ときには妹のギターを借りて弾くような学生生活をおくる。
1968年3月王子野戦病院闘争中べ平連の行動に参加するようになり、「世田谷べ平連」を商学部内に作る。5月、日大闘争がはじまる。 69年4・28闘争を機に「学生解放戦線」に参加。70年「ML同盟|加盟。
1970年2月25日、日大文理学部闘争委員会のメンバーとともに、京王線武蔵野台駅前でのビラ配布中、体育会系学生の襲撃の最中に頭部に重傷を受けて入院。
3月2目死去。享年22歳。
(『明日への葬列−60年代反権力闘争に斃れた10人の意志』高橋和巳編・中嶋誠着より)
② 事件経過
1970年、日大文理学部では京王線武蔵野台駅南方にプレハブ校舎を建て、一年間の授業を一週間から10日ほどで終了させて進級させる疎開授業を実施していた。
日大全共闘文理学部闘争委員会では、こうした疎開授業に通う学生たちに、日大闘争への支援や討論会への参加を呼びかけるビラなどを、2月14日、21日に配布していた。
1970年2月25日、京王線武蔵野台駅前で商学部の中村克己さんは文理学部闘争委員会の仲間たち30人ほどと一緒に、「2・25討論集会に結集せよ」という内容のビラを配布していた。その最中、突然つめ襟の学生乱闘服などを着たおよそ20名の右翼・体育会系学生からの襲撃をうけた。襲撃した右翼・体育会系の学生たちは、鉄筋の棒や角材などの武器をあらかじめ準備し計画したうえで襲ってきた。
ビラまきをしていた全共闘の学生たちは、一部は駅のホーム方面に、一部は狭い踏切のほうへと逃げたが徐々に追い詰められ、激しく攻撃を受け続けた。そのとき、踏切付近にいた中村克己さんも攻撃され、左側頭部に致命的な傷を負ってしまった。倒れた中村克己さんに二人の女子学生かかけよって助けようとしたが、襲った右翼・体育会系の学生は中村ざんにむかって「鼻血を出しだくらいで倒れやがって」といって蹴ったため、その場で抗議をしたという。
その後、踏切を通過した特急電車が停車して車掌と運転士指導の助役がかけつけ、文理学部の小型トラックが来てヘルメットなどを回収し、それから救急車がやって来た。警察のパトカーは、車掌が来る前に現場に来ていたという。
襲撃された中村克己さんは、救急車で府中市の奥島病院へと運ばれた。
そして3月2日に死去、享年22歳。
1970年3月11日、日比谷公会堂において「日大全共闘葬」がおこなわれた。
ビラまきをしていた文理学部闘争委員会のメンバー29人は、襲撃されたあと府中警察に連行され、逮捕された。襲撃した右翼体育会系の学生たちは、事情聴取のあと何事もなく釈放となった。その後、この事件で文理学部闘争委員会の高橋成一さんが起訴され裁判闘争が続いた。
中村克己さんの死因は「電車接触」によるものと断定され、「右翼体育会系学生による襲撃との因果関係はなし」と結論された。
③ 「中村克己君墓碑委員会」による墓参’
中村克己さんのお墓は、一周忌となった1971年に千葉県八千代台にある八千代霊園に造られた。墓参は中村克己君虐殺糾弾委員会から墓碑委員会へと受け継がれ、毎年2月25日に近い休日に墓参会が続けられてきた。
「中村克己君墓碑委員会」では、これまで休むことなく継続してきた八千代霊園への墓参を、虐殺事件から50周年となる2020年に終了することを決定した。また八千代霊園に建立しだ墓石のモニュメントは、どこにも残さないこととなった。
墓碑に記された名前と言葉などは拓本をとって「国立歴史民俗博物館」に資料として寄贈された。遺骨は、南大沢にある妹さんの管理する墓に、克己さんの父母とともに合葬されることとなった。
今後中村克己君墓碑委員会では、南大沢への墓参会をこれまでと同じように継続する。
中村克己さんについでは『70・2・25中村君虐殺糾弾』(中村君虐殺糾弾委員会1971年1月30日発行)、『明日への葬列−60年代反権力闘争に斃れた10人の意志』(高橋和巳編1970年7月27日発行)、『日大闘争の記録一忘れざる日々』第四号「特集 中村克己同志との思い出」(2013年9月10日発行)がある。
レジュメとして配布させていただいた「独房の全共闘1969−中村克己の拳と「エコー」と」は特集に収録されている文章です。

【本の紹介】
『全共闘、1968年の愉快な叛乱』 三橋俊明 著  彩流社発行
定価2,200円+税
1968年、全国各地の青年によって多様に多彩に取り組まれた全共闘運動が楽しき日々であったことは、ほとんど語られることなく注目されてこなかった。本書では「愉快な叛乱」として著者自身の体験が語られる。政治や社会に無関心だったノンポリ青年たちが、マルクス主義や革命を掲げる政治党派とは無縁な学生運動集団として日大全共闘に「成」り、ノンセクトであることを誇りとして闘った愉快な叛乱の記録。

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『日大闘争と全共闘運動 −日大闘争公開座談会の記録』三橋俊明 編著  彩流社発行
定価1,800円+税
1968年5月に、日本大学で日大闘争が沸騰してから50年。20億円にも及ぶ使途不明金問題に端を発した日大闘争は、同じ頃に東京大学や各地の大学でも結成された全共闘と大学の不正や教育体制に抗議し社会に対しても異議を申し立てました。本書は、昨年国立歴史民俗博物館で開催された「『1968』無数の問いの噴出の時代」展に1万5千点余の日大闘争関係資料を寄贈した「日大闘争を記録する会」が、日大全共闘議長・秋田明大氏をはじめとする闘争参加者と対話し全共闘運動の経験を語り合った貴重な記録です。

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