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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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台湾人医師の直言  林 建良 著



日本よ、こんな中国とつきあえるか?(十一)木を植 える日本人と木を伐る中国人
より続きます。


第2章 台湾から見た日本および日本人

争いを避けたがる日本人に平和は守れない


5.きれいに死のうとする日本人と死なないようにする中国人



●桜に投影される日本人の死生観

日本人と中国人の決定的な違いはどこにあるのかといえば、それは死生観にあるといってよい。死に対しての考え方や死に直面したときの態度は明らかに違う。日本人はきれいに死のうとし、中国人はいかにして死なないようにするか、という考え方に歴然と現れている。


一九八七(昭和六二)年四月一日に日本にやってきたときの東京は桜が満開の時期で、私は日本人が花見をする光景を初めて目にした。当時の東大病院に通じる道の両側は桜並木で、日本人は病院の前の桜の木の下でさえ花見を楽しんでいた。この光景を見て、日本人がいかに桜を大切にしている民族であるかを肌で知った。


日本人がなぜこれほどまでに桜を好きなのだろうと考えたとき、日本人は、パッといっせいに咲いて、短い期間に咲き誇り、パッと散ってしまう、この桜に一種の哲学を感じ、日本人の生命観、哲学観はこの桜のサイクルによって生まれてきたのではないかと思った。


いっせいに咲いて、きれいに散る。これはある意味で非常に心地よい光景であり、潔いと言った方がより適切かもしれないが、この桜が日本人の死生観、命に対する考え方を象徴しているのではないかと私には思われたのだ。


つまり、日本人にとって命というのは、長さではなく、美しさにあるのではないかと思ったのである。命永らえることに執着するのではなく、その瞬間に全身全霊を傾けて美しさを表現し、それを終えたら潔く散っていく、そういう死生観を持っているのが日本人ではないだろうか。


●日本の葬儀に参列して感心したこと


私は大学病院で七年間研究に没頭し、外来や入院患者への治療も経験したあとで、栃木県の片田舎に移った。ここに来て驚かされたのは、日本人の生活のなかでは死に直面する機会が多いことだった。


栃木県の田舎にはいくつもの集落があり、その集落のなかに数戸で構成する班や組がある。当初、職員が「お葬式ができたので休ませてください」と申し出てきたので、私はてっきり身内の方が亡くなったのだと思った。台湾では、家族が亡くなったのでなければ休むことはあり得なかったからだ。しかし、その職員は「組内にお葬式ができたので、手伝いにいかなければならない」と言う。つまり、組や班は自分の家族のような考え方なのだった。このように、日本人の生活のなかには死に直面する機会が少なくない。


私自身も医者という仕事柄、葬儀に参列する機会はかなり多い方かもしれない。そこで、「なるほど」と感心したことが一つある。


日本では通夜でも葬式のときでも、最後のお別れということで、故人の顔を見させてもらう機会がある。これは台湾ではなかったことだ。台湾では、死人の顔は家族かごく親しい人以外に見せることはない。しかし日本では、すべての参列者に顔を見せ、触らせもする。これが故人とのお別れの儀式となっている。そして、遺族に「ああ、いいお顔ですね」と慰めの言葉をかける。この言葉は、遺族にとっては最高の慰めのようである。


あるとき、私の友人だった市議会議員が忘年会に行く途中、誤ってトンネルの壁に衝突して亡くなり、顔も体もめちゃくちゃになった。もちろん、葬儀の前に顔をきれいにして死化粧を施してはいたものの、顔にはそれなりの傷が残っていた。それでも、その葬儀に参列した人々は「ああ、いいお顔ですね」と遺族に声をかけ、お別れをしたのだった。「ひどいお顔ですね」という人はいなかった。

「いいお顔ですね」というのは、その死顔に事故などの傷痕が残っていたにしても、苦しんだ痕は残っていないということなのだろう。苦悶せず、従容として死んでいった様を確かに拝見しましたということを遺族に伝え、遺族にとってはその言葉が最高の慰めとなる。それが日本人のお葬式のようだ。

このように、私は栃木県の田舎に来て、日本人がきれいに死のうということを大切にしているのを改めて感じた。


●武士道がいまも生きる日本


めったに死に直面したことのない台湾社会で育った私からすれば、日本人は日常的に死に直面しているように見える。


たとえば、日本の新聞の地方紙には必ず訃報欄がある。大手新聞は著名な方ばかりだが、地方紙には亡くなった方がすべて紹介されているようだ。著名人であると庶民であるとを問わず、名前、年齢、亡くなった原因、お通夜や告別式の日時、葬儀の場所などが網羅されている。だから、故人とご縁のあるなしにかかわらず、誰でもこの訃報欄を見て葬儀に参列できる。


しかし、台湾の新聞には著名人ならいざ知らず、名もない庶民が亡くなったことを伝えるこのような訃報欄はない。また台湾では、葬儀に参列できる人間は遺族から招待された人間に限られる。だから、日本のスタイルを知ってしまった私から見ると、台湾では意図的に死を避けているように見えてくる。


たとえば、台湾のホテルや病院には四階という表示はない。だから、エレベーターにも四階はなく、三階の上は五階となる。これは、「四」が「死」の発音に似ているということで、意図的に避けているのである。それくらい死というものを日常生活から遠ざけているのが台湾社会だ。


確かに日本でも「四」は「死」に通じるということで避ける傾向はあるものの、台湾の徹底ぶりには及ばない。日本社会は死にあふれていると言っても過言ではない。死という自然の摂理が生活のなかに生きているのである。


台湾では、亡くなってからお葬式の日までは二週間ほど間があるが、日本のお葬式は非常に早いペースでおこなわれる。亡くなってから、通夜、告別式までほぼ三、四日でおこなわれる。また、お葬式は台湾と比べて非常に質素で整っており、美しささえ感じる。


葬式というセレモニーは、その民族の文化の根本をもっとも表しているといってよい儀式である。日本人は、死を日常の一部として組み込んでいる民族であり、恥の文化、すなわち他人を意識し、自分の死顔や死様が他人からどのように評価されるかを意識しながら死んでいくように、台湾人の私には見える。


死につながる概念は、生につながる概念でもある。日本人はこの世の無常、つまり人はいつか必ず死ぬということを意識するがゆえにきれいに死のうとしているのではないだろうか。その極めつけが武士の切腹である。


新渡戸稲造の『武士道』にもあるように、切腹は単なる自殺の方法ではなかった。切腹は「武士が罪を償い、過ちを謝し、恥を免れ、友を贖い、もしくは自己の誠実を証明する方法で」あり、また「それが法律上の刑罰として命ぜられる時には、荘重なる儀式をもって執り行われる」という。


私は映画のなかでしか見たことはないが、切腹の儀式やそれに臨む武士の服装は日本人の美学そのものではないかと思う。しかし、不思議だったのは、切腹は練習できるものではなく、誰一人として体験できるはずがないのに、なぜ日本の武士はあのように冷静沈着な態度でその場面に臨むことができたのかということである。ひょっとすると、あれは映画のなかだけのことだったのかもしれないとさえ思っていた。


しかし、この原稿を書いている最中の二〇〇五年一二月一〇日、保守派運動家の三浦重周氏が故郷である新潟市内の岸壁で、皇室典範を改正して女系天皇を容認することに抗議し、皇居に向かって割腹して自決した。現場に駆けつけた三浦氏の親友である評論家の宮崎正弘氏は、次のようにその模様を伝えている。


驚天動地の衝撃が走りました。


十二月十日午後九時半頃、政治思想家の三浦重周(本名 三浦重雄、重遠社代表、三島由紀夫研究会事務局長)は郷里の新潟市の岸壁で寒風吹きすさぶなか、壮絶な割腹自決を遂げました。遺体の発見は翌日(十二月十一日、日曜日)午前九時頃で、直ちに近くに住む兄上が立ち会われて検視の結果、心臓部は肋骨に達し、咽喉部を切ったので喉に刃物がつきささったままの状態でした。


三浦代表は皇居遙拝のかたちで正座したままうつぶせの状態であったことが判りました。菩提寺の三浦家代々の墓には本人が前日に訪れた足跡がありました。


壮絶にして見事な割腹を遂げた大西中将の最後を思い出させてくれます。


三浦氏の切腹は諫死であった。私はこの報に接し、切腹という荘重な死に方は映画のワンシーンではなかったことを強く思い知らされた。


日本人は死を意識しながら生きている民族であり、日常的に経験する死の場面を文化にまで昇華させているように思われる。そのせいか、世界第二位の経済力を持ちながらも、日本人一人ひとりの現世に対する執着心はそれほど強くないように見受けられる。日本人は常に無常観を抱えて生きているようだ。それはまさに、人間はいつか死ぬ定めにあり、命には限りあることを意識しているがゆえの日本人の死生観となって現れてきているようだ。


日本人は生きているうちに一所懸命に仕事をして世界最高レベルの技術を創出しつつ、一方では、自然の摂理に融け込みながら、死を生活の一部として淡々と取り入れ、自分が人生の最終局面に向かい合うときにはいかにしてきれいに死ぬのかを考えているようである。


少なくとも、日本は他国の文化と比べた場合、死をかなり強く意識しているように思われるのである。それが桜を愛でる花見となって現れているのではないだろうか。


●中国人の死生観を見落とした石原慎太郎


石原慎太郎氏は産経新聞に「日本よ」という連載を執筆している。その二〇〇五年一二月五日付の「アメリカは勝てまい」のなかで、「アメリカは中国とまともに戦争をしたら決して勝てることはない」と論じている。石原氏はその理由を次のように説明している。


前にも記した通り毛沢東が対アメリカ戦争を想定してポンピドーに明言した、千万単位の人命の損失を決して恐れはしないという、市民社会を経験したことのない中国伝統の、人命に関する我々とは百八十度違う野蛮な価値観が発露してくる限り、アメリカの市民社会の世論は中国との全面戦争を許容する訳がない。


果たしてそうだろうか? 保守派、それも中国に批判的な保守派論客といえども、中国あるいは中国人の本質についてはさほど知らないのではないかという印象を持った。


石原氏はアメリカが勝てないのは「人命尊重という市民社会の当然な世論希求の前にアメリカは手を引く」からだと言うのだが、それを理由にアメリカが勝てないというのはどうにも腑に落ちない。少なくとも日本人より中国人の本質を知り得る立場にある台湾人にとっては説得的ではない。これだと、人命を尊重する市民社会を持つ国家や民主主義の国家は、独裁国家に勝てないという結論になりそうだ。


しかし、今、私が言わんとしているのはそのような政体の違いからではない。アメリカという国家は確かに人命を尊重する国家である。ただし、一方で信仰心の強い国であって、価値のある死と認められるならば命を捨てることをいとわない国でもある。また、中国人の死生観からすれば、いかに死なないようにするかが大事なのであって、理念や国家のため、あるいは他人のために自らの命を差し出そうとするような考え方はしない。まず頭にないといってよい。


だから、もし中国人が死ぬことを恐れない人間ばかりだったら、確かに今の兵器の量や質のもとでは非常に恐ろしい軍隊であって、アメリカの苦戦を予想するのは難くない。


しかし、くり返して言うが、中国人にとっては、いかに死なないようにするかが大事なのであって、大義のためや、国家あるいは他人のために自らの命を投げ出すことはあり得ないといってよい。


それゆえ、石原氏が指摘するように、毛沢東などの指導者が国民の生命を鴻毛のごとく軽く見ていることは疑いようのない事実だが、中国人自身がそもそも国家のために死のうとしないのであるから、石原氏の結論には大いに疑問なのである。




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続く・・・・



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