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天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログへお越しくださり感謝をもうしあげます。
日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
わが国は春夏秋冬の眺めの”美しい国”です。
山や川や海のきれいな国です。このよい国に私たちは生まれました。
戦前まで我々の先人はわが国をこのように形容しました。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。 自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
世界にはキリスト教、イスラム教のような信仰がありますが、神道にはキリスト教、イスラム教などのように教典や、教義、絶対神はありません。しかもほとんどの宗教が教えであるのに対して神道は教えではなく道です。しかし、日本全国津々浦々に神社があり、異なる神を崇め、祀っています。他の地域の神を貶(けな)したり、除外することなく世界各地で起こっている宗教戦争もなく、日本人は共存共栄をはかり「和」を尊んできました。
穢れを嫌い、寛大、正直、なこころは連綿と受け継がれてきたものです。
わが国では森羅万象、すべてのものに神が宿ると信じられています。
現在でも雷は畏怖されるものですが、我々の遠い祖先にはどう映っていたのでしょうか?閃光走る稲妻、大地を叩く大粒の雨、直撃された惨状は怖い存在でした。それゆえカミナリ(雷)は神鳴りとして神の怒りだと信じられたのです。古事記や日本書紀にも雷神は幾種類も記されています。
火山の噴火を「御神火」、つまり火の神の荒ぶる姿、川が氾濫し、あらゆるものを流してしまう洪水は水神の荒ぶる姿と捉えていました。
お正月には信仰に関係なく全国民の7割の方々が神社に参拝し、手を合わせます。食事の前にも「いただきます」と手を合わせる習慣は祖先から受け継いだ習慣といえましょう。
神の怒りをかうのではなく、神の意志に応えることができれば、神は五穀豊穣、安寧、繁栄をもたらしてくれます。
日本人は往古の昔より神の意志を尊重して生きてきた民族です。
それゆえ、仏教が飛鳥時代に、キリスト教が室町時代に伝来しても信仰はゆるぎないものでした。民族の誇りであり、往古のむかしより連綿と紡いできた感性だといえましょう。
我々の祖先は純粋に神々に感謝の祈りを捧げてきました。
しかし、物質が豊かになり、近代になるほど、我が身の意のままにならぬと神さまに悪態をついたり、責任転嫁する風潮が現代日本人です。
祈りとは本来、「意乗り」つまり「神の意に乗ること」と言われています。
人の心に自制心を回復し、共生の思想の重要性に気付くために、いま「お祭り」の効果に大きな期待がよせられています。
お祭りを行う大きな意義とは「感謝(かんしゃ)と慰霊(いれい)」の誠を捧(ささ)げることで神さまやご先祖さまと、自分との間の命の繋(つな)がりを確認し、家族の絆(きずな)を深め、地域の繋がりを再確認し、身を修ることに繋がるからです。 昨今、「自分探し」などと言う言葉を耳にしますが、本当の自分探しとは、先祖の生き様を学び、自分自身の座標(ざひょう)を定めることにあります。好き勝手に生きることではありません。 自由をも行き過ぎれば、わが身勝手、我が儘にしか過ぎないことを知らねばなりません。「ならぬことはならぬ」ことも知るべきです。
迷走する今日のわが国のありさまは、すべては本来あった、我々の祖先から永い間受け継がれてきたことを戦後日本が忘却したことに起因していると筆者は思います。
捨ててしまったものは取り返しがつきませんが忘れ物はきっと見つかります。迷った時はもと来た道を辿(たど)れと言います。
原点回帰こそわが民族の生きる道、やまとごころの継承にも繋がるのです。
「いのちを繋ぐ、魂を繋ぐ」「神の意に乗る」ことこそ、日本人に生を受けた日本人なのです。 |
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勉強になりました(^^)
日本人が忘れたものですね
ナイスとツイート
2016/1/1(金) 午後 11:53
又、勉強になりました。
今年もよろしくお願いします。
ナイス
2016/1/2(土) 午前 1:43
( ´ー‘)y─┛あけましておめでとうございます。
良い年になればいいですね〜
ナイス!
2016/1/4(月) 午後 8:48