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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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大石内藏助にふんし、勇ましく歩く松平健さん(中央)=平成26年12月14日、義士祭、赤穂市内 出典:神戸新聞(撮影・大森 武)


すめらぎいやさか。
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。
今日まで芝居、劇、映画、テレビドラマなどで最も人気があり、不動の王座をしめてきたのは赤穂義士の物語、忠臣蔵でした。
筆者の生まれ故郷である兵庫県加西市北部は赤穂藩のとびちになり、赤穂五万三千石の禄高のうち九千石近い領地を有していました。

以下加西観光ナビより引用

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河上山久学寺は、浅野藩三がく寺(赤穂の花岳寺、東京の泉岳寺)の一つとして赤穂藩歴代の城主と浪士の位牌がまつられています。秋の紅葉が美しく、12月14日には、恒例の義士祭が行われます。 加西市上芥田町982



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河上山久学寺は、浅野藩三がく寺(赤穂の花岳寺、東京の泉岳寺)の一つとして赤穂藩歴代の城主と浪士の位牌がまつられています。秋の紅葉が美しく、12月14日には、恒例の義士祭が行われます。 加西市上芥田町982



浅野内匠頭長直は常陸の国(茨城県)笠間の城主であったが、正保元年(1644年)大阪加番を命じられ、翌年6月同じ石高をもって播州赤穂へ国替えなります。これが赤穂浅野家の初代です。
赤穂城主となった長直公は赤穂藩53000石の領地を見聞され、特に飛地で石高の多い旧加西郡の北部(現加西市)8920石の領地を熱心に見聞されました。そしてその途中、久学寺にて宿泊され、当時の住職に深く帰依され山林田畑12石を寄付され、浅野家の菩提寺として父、長重公と浅野家代々の弔祭を依頼されました。
その後、長直公は現花岳寺を再建され中興開山として久学6世と7世住職をも招請し浅野家の弔祭を依頼されました。
やがて、長直公も隠居されその子、長友が後を継ぎましたが僅か5年足らずで若死されたのでその長子である長矩が9歳で赤穂5万石の家督を継ぎ祖父の官名(内匠頭)を賜りました。
その後、赤穂藩では旧加西郡大和村(現多可郡八千代町)に灌漑用のダム建設に着手し、その工事の進行を城代家老である大石内蔵助が再三訪れ、久学寺に宿泊し、当時の住職と囲碁を楽しんでおられた様です。江戸城での刃傷事件の時、江戸から早籠が赤穂に到着した時も大石内蔵助は久学寺で碁を打っており、赤穂よりの使者から刃傷事件を聞き慌てて赤穂に帰られたという言い伝えがあります。
また、菩提寺という関係から浅野内匠頭長矩公及び46士の戒名は久学寺住職が贈ったという記録の過去帳が現在保存されているほか、大石内蔵助(花岳寺の維持、浅野家の弔祭依頼)と吉田忠左衛門、大高源五の手紙(先祖供養の依頼)も保存されています。

引用ここまで
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赤穂義士ゆかりの地 磯崎八幡宮 兵庫県加西市下道山村字祟磯

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奥野将監(しょうげん)屋敷跡。
奥野大石の義盟に加わり、御家再興運動でも引き続き大石を補佐した。しかし、元禄15年7月、浅野長矩の弟浅野長広広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的になると、京都円山の会議で大石は吉良への仇討ちを決定するが、その直後に奥野は脱盟。一女が嫁いでいた加西の下道山の磯崎神社神宮寺秀経に身を寄せ、名も右衛門と改めて新田開発に尽力。久学寺とは近い。
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奥野将監の娘の子の墓と伝えられています。筆者らが子供の頃にはいかいしたものです。
江戸時代、全国の芝居小屋で演じられた忠臣蔵。日本人は忠臣蔵を愛してきました。大石内蔵助はじめ四十七士の生き様に日本人本来の美しい心と生き方を見いだしてきたからにほかならなでしょう。四十七士は日本人の清らかな潔い高潔な生き方の模範とされました。同じ兵庫県で最期をとげられた楠木正成公の「義」の精神を継承するものです。ですから四十七士は赤穂義士と称えられ、忠臣蔵(忠義の武士の集まり)と呼ばれたのです。義士たちは仇敵吉良を討った後、自訴し裁きに服し切腹しました。逃げも隠れもしない堂々たる振る舞いに武士から庶民にいたる日本中の人々が心底共感し、感銘、感涙したのです。義士が命を捨てて立ち上がったのは武士道の核心たる「義」のこころであり、忠臣蔵はいうならば「義の物語」です。日本国民は義のこころを愛し、物語を愛する稀有な民族と言えましょう。忠臣蔵が後世に感化した影響力ははかりしれません。「義」なき「大義」なき愚行は日本人は共鳴しません。しかし、今日「義」を忘れた日本人の愚行が多く見られるようになりました。荒廃した世相を思うにつけ義士の日に思いを馳せ、武士道精神、日本人がいにしえに還ることを願ってやまない。

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    大楠公の七生滅賊は国賊足利の生き残り吉良家を滅ぼして成すことができました。

    ナイス

    保守の会会長 松山昭彦

    2016/12/14(水) 午前 7:36

  • どうも御無沙汰です。

    真相は定かではありませんが、浅野内匠頭長矩に関しては、同時代に幕府隠密の手で記された『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』という書物では長矩が、

    「淫蕩に耽って政務を顧みない」

    「美女を好み、美女を献上した家臣だけを出世させた」

    だのと、ケチョンケチョンに扱き下ろされています。

    そして浅野家が御取り潰しになった時、赤穂藩の領民は、苛政から解放された嬉しさで、餅を搗いて祝ったと言われています。

    これらの事が史実なのかどうかまでは何ともですが・・・。

    ZODIAC12

    2016/12/14(水) 午前 10:54

  • また明らかなのは、吉良上野介義央はフィクションの『忠臣蔵』と史実では、人物像が正反対だという事です。つまり悪人ではなかったという事です。

    この事件は山鹿素行の興した山鹿流という思想が根底にあるみたいですね。

    つまり従来伝えられて来たような、

    「強欲ジジイが賄賂を貰えなかった腹癒せに、純粋無垢な青年をイビリ倒した」

    「そんな理不尽な仕打ちを受けた挙句、死に追いやられた事への報復」

    というようなケチ臭い次元の話ではないみたいです。

    その詳細を書き記した記事を、当方より2本ばかりTBします。

    ZODIAC12

    2016/12/14(水) 午前 10:55

  • 教育勅語にもありますが、日本人は古来より「忠」と「孝」の民族ですね。謙譲と尊敬で結ばれし「和」のこころは、私達日本人の一番の美徳です。そして、この大和こころを守れない「義」無き者には、正義の刃で立ち向かわねば為りません。現在の日本では、憲法9条とやらで、この刃が平和ボケして錆び付いてしまって居ますが、一刀両断出来る強さを身に付けたいものです。いつも、素晴らしい逸話とご訓示をありがとうございます。

    ナイス☆

    so-kei♪

    2016/12/14(水) 午前 11:48

  • 顔アイコン

    義もありましょうが、武士の意地が大石の動機だったと思います。

    [ 陸奥掃部助 ]

    2016/12/15(木) 午前 1:16

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