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美しい沖縄
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。
大東亜戦争末期、沖縄は県土が戦場となりました。
組織的戦闘の終わりが73年前の6月23日でした。
多くの御霊の慰霊の日であってほしい沖縄の6月23日は静かな祈りと、怒号が飛び交う日でもあります。亡くなった御霊の多くは国を護らんと、郷土沖縄を護らんと戦われた。
日本側の兵力は、116,400人。沖縄戦では、この兵員のうち 94,136人が、戦死、または行方不明となりました。
沖縄戦で忘れてはならないのは、沖縄の民間人死者 94,000人です。当時の沖縄県民の人口は、約59万人ですが、実に人口の2割が戦禍の犠牲となりました。 では沖縄では、そこまで莫大な民間人の被害者がでたのか? 沖縄は我邦の領土であり、侵略者は米国です。
昭和19年7月、わが邦の委任統治領サイパン島が陥落。東条内閣は、緊急閣議を開いて「沖縄に戦火が及ぶ公算大」であるとして、沖縄本島、宮古、石垣、奄美、徳之島の五島から60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童の、本土及び台湾へ疎開を決定しました。
軍隊は今も昔も、国土と国民を護るために存在します。
もし沖縄が戦場と化したら、軍隊は民間人を護るために人員を割けなければならず疎開は急を要しました。軍は疎開に関して行政機関である県庁にたよらなければならず、県は速やかにこれを行わなければなりませんでした。
しかし、当時の沖縄県知事、泉守紀は、沖縄本島の老人婦女子の疎開について、「沖縄県が戦場とならないために努力するのが軍の仕事である」などと、言い出して、県が疎開行動に協力するのを拒み、待ったをかけました。
戦争とは我邦の都合で行われるものではありません。県民の疎開がまだだから米軍よ来ないでくれの理屈は通じません。疎開を拒んだ挙げ句、泉知事は任務を放棄し逃げてしまいました。当時の県知事というのは、いまのような公選制ではなく、中央の内務省からの辞令を受けて赴任したものでした。
島田知事 「俺が行かなんだら、誰かが行かなならんやないか」
「俺は死にとうないから、誰か行って死ねとはよう言わん」 「断るわけにはいかん。断ったらおれは卑怯(ひきょう)者や」 「沖縄軍司令官の牛島さんから赴任を望まれたんや。男として名指しされて、断ることなどできやへん」 実に立派な覚悟、決断であり、日本人の矜持です。着任するや職員を励まし、職員や県民は「この長官は自分たちを捨てていかない。この人なら最後までついていける」と。
島田知事は軍に全面協力するとともに犠牲を最小限にするために、県民の疎開、避難に傾注し、22万人の人々を疎開させました。
島田知事でなかったらもっと多くの犠牲がでたと言われています。しかし、多くの沖縄県民の犠牲者をだしたことを知事の責任であると自決を遂げられました。島田知事が沖縄県知事を務めたのは、沖縄戦の直前からのわずか五カ月にすぎません。しかし、戦後も長らく「島守の神」として沖縄県民の多くから敬慕されました。
島田知事が戦後も存命であり、政治の道を志されたならば戦後の日本はまた違う展開であったと思うと残念でなりません。
「島守之塔」にある慰霊碑 島田知事夫人 今尚、高校野球の夏の沖縄県大会を制した高校には、「島田杯」が授与されています。また、沖縄・兵庫高校テニス選抜大会にも、「島田杯」の名が冠され島田知事を顕彰しています。
また
島田知事の母校、兵庫高校で島田氏顕彰碑を囲む 前述していますが、最後まで沖縄県民を救おうとした功績から沖縄では今も「島守」として慕われ、また母校の兵庫高(兵庫県)でも語り継がれてきた。
同校では過去40年、北海道、東北などでスキーを体験する修学旅行が定着してきた。しかし「せっかく兵庫高校に入学した生徒に、偉大な先輩のことをもっと知ってほしい」と沖縄行きを提案。石井稔校長(60)も「リーダーとしての島田さんの魅力を学ぶ機会」と賛同し、平成27年沖縄への修学旅行実現した。現地では県職員を追悼する「島守の塔」などを見学。壕(ごう)で島田知事と身近に接していた元少年警察官の上原徹さん(86)からは、当時の過酷な状況や島田氏の人となりを聞く機会を得た。島田知事の遺骨は今尚、遺族のもとへ還っていません。現在、兵庫高OBらが現地で遺骨の捜索を続けている。(兵庫高校記事:参考文献 神戸新聞より出典)
島田知事の座右の銘は「死後慕われる人になれ」でした。今も島田知事は沖縄県民、出身であるこころある兵庫県民からも敬慕されています。 拙記事は平成28年10月に投稿した記事に加筆したものです。 |
日本人の忘れたもの






御記事に感動しました。
2018/6/20(水) 午後 5:11
島田知事は日本人の魂として教科書で教えるべきです。
ナイス
2018/6/21(木) 午前 6:27