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マハティール・モハマド首相
すめらぎいやさか。
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。
マハティール・モハマド氏がマレーシア首相に再登板します。
しかも九十二歳の高齢で激務は死を賭しての就任です。
日本人がマハティール首相について知っておくべきことは、前回首相をつとめた際には「ルック・イースト(日本の経済成長を見習おう)政策」を掲げたほどの親日家であるということです。
マハティール首相は、自国民に日本の素晴らしさを伝えると同時に、日本人に対してもさまざまな形で熱いメッセージを送り続けてきました。
「ルック・イースト政策」というのは昭和56年(1981年)に当時のマハティール首相が提唱した政策で日本型の集団主義と勤労倫理を学び過度の西洋型個人主義を見直すというものでした。そしてマハティール首相は平成2年(1990年)に日本主導のEAEC(東アジア経済会議)構想を打ち出しました。こしかし、れはアメリカの反発を買い、アメリカの顔色をうかがう日本は積極的にはなれませんでした。
平成4年(1992年)10月14 日、香港にて首相が「日本なかりせば」と呼ばれた演説があります。
「東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも他の世界各国も驚くような成功を遂げた。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、実際にそれを証明してみせた。
もし、日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していたであろう。富める国はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の言い値で売り続けていたであろう」
しかし、戦後の復興の第一線で陣頭指揮を執った世代の多くは辞世を迎え、世代交代し、長い年月は日本人の価値観を大きく変えました。「官僚が主導してきた日本型の経済運営システムは、我々のモデルとして適切ではないことが分かった」「日本から学べる点として挙げるのは『先端技術のみ』」という厳しい声も上がっていると報じています。
首相が日本を訪れたのは昭和三十六年(1961年)57年前の家族旅行でのことでした。当時の日本はまだ復興途上で、あちらこちらに爆弾による破壊の跡が残されていました。オリンピックの準備中の東京では、日本橋の上に高速道路が建設されつつあるのを目にしました。
このとき、私は日本と日本人のダイナミズムを体感したのです。人々が国の再建と経済を発展させるために献身的に尽くす光景は、今もまぶたに焼きついています。その後も訪れるたびに発展していく日本の姿を見てきたからこそ、首相になったとき私は日本と日本の人々から学ぼうと思ったのです。 もっとも注目したのは、職業倫理観と職場での規律正しさによって、品質の高い製品をつくりあげるという姿勢でした。 戦前の日本製品は「安かろう悪かろう」の代名詞でした。しかし戦後は品質の高い製品を次々に生産し、日本は国際社会で大きく成功しました。労働者は職業倫理観が優れていて、管理能力も高い。多くの国民が戦争で命を落としましたが、残された者が立ち上がり、新しい産業を興し、日本はすばやく発展していきました。 日本の大企業のシステムは、欧米の会社のシステムとはずいぶん違っていました。会社同士は競争しても、会社は社員の面倒を見る。終身雇用という形態は、西側諸国にはないものでした。社内で従業員による混乱は少なく、労働組合によるデモも就業時間外に行われたため、生産活動には支障を来さなかったのです。 多くの製品が生まれ、輸出され、外貨を稼ぎ、結果として日本は大きく発展しました。私たちが日本からコピーしたかったことは、日本型システムなのです。国を発展させるための政府と民間企業の緊密な関係を、私は「日本株式会社」と呼んでいます。私たちはこの日本から学ぶことで、他の発展途上国に比べて早く発展することができました。そしてマレーシアの国民は現在、自信を持っています。 その一方で、米国型の極端な経済改革を行なおうとしている今の日本では、失業率も高く、国民が自信を失っているようです。最近の日本の若者は、もはやかつての日本人のように献身的ではなくなったと私は聞かされました。確かに、貧しい人はそこから抜け出そうと必死に働きますが、ひとたび豊かになると人生はたやすいと思ってしまう。そして努力することを忘れてしまうのです。
しかし日本を再びいい国にするために、ぜひ頑張っていただきたい。皆さんには勤勉であるという日本人の素質が根づいているのだから、他国の言いなりになるのではなく、自分の考えで行動してほしい。そして自信を取り戻し、日本人であることに誇りを持ってもらいたいと思うのです。 と首相は著書、『立ち上がれ、日本人』で述べられています。
2002年11月には、マレーシアを訪れた東京都立国際高校の修学旅行生に向かって「あなたたちは日本人の勤勉な血が流れているのだから、誇りに思いなさい」と訴えている。
いまの日本人に欠けているのは大国という自負、自信と愛国心であり、ナショナリズムです。日本が『愛国心』という言葉に過激になる理由は、戦後教育、行き過ぎたマスコミの偏向報道による弊害です。
マハティール・モハマド氏の余生を賭しての首相再登板は我々日本人に何かを投げかけているようでなりません。
参考文献、マハティール首相の著書『立ち上がれ、日本人』
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天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログにお越しくださり感謝を申し上げます。
冒頭の画像は「この国の心をうつす、日本人になろう。」と題し、國學院大學が産経新聞 に掲載された、國學院大學の全面広告です。
國學院の建学の精神は、初代総裁の有栖川宮幟仁親王殿下の「凡學問ノ道ハ本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ故ニ國體ヲ講明シテ以テ立國ノ基礎ヲ鞏クシ徳性ヲ涵養シテ以テ人生ノ本分ヲ盡スハ百世易フベカラザル典則ナリ而シテ世或ハ此ニ暗シ是レ本黌ノ設立ヲ要スル所以ナリ」にあります。
かって明治維新の際、わが国の急務は、まず、世界の先進国に追いつくことでした。欧米諸国の思想、文化、体制の導入が急ぐあまり、欧化万能の風潮が日本全土を覆い、日本古来の思想・文物が顧みられない状態となった。
しかし一方、わが国が独立を全うし、国家の発展を将来に期するためには、思想も文化も体制も、単に欧風の模倣でなく、わが国の歴史・民族性に基づくものでなければならないという気運が興り、國學院大學の母体である皇典講究所は、このような反省の気運を背景として、明治15年に創立された。(國學院建学の精神より引用)冒頭の画像は気品溢れています。
古来より皇室のみ用いることを許された色、優雅で繊細な雰囲気をもつ日本の伝統色「麹塵(きくじん)」の前に、美しい所作でお辞儀をする清楚な女性の所作(しょさ)は忘れられつつある日本人の高貴さを現した画像です。
そして、國學院HPには、「姿勢と所作」、「お辞儀」について述べられています。
日本のお辞儀は歴史が古く、三世紀には行われていたと言われます。
敬意や感謝の気持ちを表すとされ、場面によって会釈、敬礼、最敬礼の三つのカタチが使い分けられています。 お辞儀の美しさは日本人の心そのものです。・・・・ 今一度、お辞儀から、自分のルーツを学んでください。
日本人のアイデンティティについて、じっくり考えてみませんか? と問いかけています。 かってのわが国では学校や会社、おおよそ日本人が暮らしているいたるところで、お辞儀をしている人を見かけたました。 わが国では「お辞儀」は最も一般的な挨拶のひとつであり、欧米人からしてみれば相手に対しへりくだったように見える不思議な光景かもしれない。しかし、わが国においてお辞儀は「挨拶」「感謝」「敬意」の意味合いが込められています。
わが国において、お辞儀をすることは相手に対して自分が敵で無いこと、敵意がないことを示し、相手に首を出し、頭を下げるのは、自分の身体の中で一番弱いところを相手に見せる動作です。その部位を殴られてしまえば死に至る可能性もあります。余談ですが、わが国頭部切断にも文化的理由が在るはずです。魂・人格が宿る依代として、人物の標識として、頭部というのは今も昔も重要な部位でした。その人物の象徴言うべき身体部位です。それを奪う意味合いは大きいのです。かって武士の時代の事例から想像がつきます。例えば、敵に首が渡る事を恐れて自決した武士が首を切り落として隠させたり、討ち取られた主人の首を守ろうとしたり、取られた首を取り返しに行く、といった行為が歴史上多々見られました。「首級(しるし)」ともいわれました。そして晒されるのはもちろん首でした。また敵を確実に討ち取った証拠として、どの敵を討ち取ったかという確認として、切断した頭部という物は最も確実でした。そしてそれは主君に対しての、最も確実な手柄の証でもあり、確認の方法として首実検が行われました。
こういった意味で首を差し出すことは相手に対しての最大の「敬意」でした。
座礼
激動の明治を生き、戊辰戦争で賊軍の汚名をきせられた長岡藩の筆頭家老の娘、杉本鉞子(えつこ)が表した著書「武士の娘」を著者と同じく新潟長岡出身の櫻井よしこ氏が読み解かれた「明治人の姿」でもお辞儀について述べられています。
「お辞儀は。唯、体を曲げる動作ではありません」「お辞儀は日本人のこころの表現なのです」外国の方々のように多くの言葉を交わさなくても、お辞儀に深い愛情を込め、お互いを理解し合える。日本人にとってのお辞儀の本来の意味を櫻井よしこ氏は鉞子から教わったと述べられています。筆者は「明治人の姿」で「武士の娘」に感銘をうけた場面は多々ありましたが、印象深いのは官軍による長岡城攻撃が迫るなかで杉本鉞子の父母が見せた武家夫婦の深い絆でした。原文をそのまま引用します。
鉞子の父は母に<大事の数々>を聞かせたうえ、役目を帯びて家をでました。稲垣家の命運は母に託されたのです。
<母はまだ二十歳を越したばかりの若さでありましたが、武士の妻としての務めはよく心得ておりました。女の人格に目醒めるた母は父に万一のことがあれば、嗣子の生命は一家存亡に関わることに思い至り、譜代の家来である忠義な蓑田殿に託して、菩提寺にかくれさせました>
そして雨の夜、一人の若侍が家を訪ねてきます。父が捕らわれの身となって江戸に送られることになり、今夜、真夜中に城外を通りかかる折に、母に会見が許されるというのです。
何かの計略かと疑うのが当然ですが、母は一つだけ問いました。
<御身(おんみ)は武士か>
その男が刀の柄に手を置いて<仰せのとおり武士でござる>と答えると、母はこう言いました。
<見方にせよ、敵にせよ、御身が武士ならばその言葉を信じましょう>
「武士である」という言葉を信じ、真夜中に一人でその若侍について行くのです。もちろん、万が一の時は覚悟の上のことで、着物の下に白装束を着込み、胸には懐剣(かいけん)を秘めていました。月も星もない雨の夜、現在と違い、灯りはありません。まさに漆黒の闇のなか、街を抜け、寂しい畦道をすぎ、城下から離れた場所で、夫の行列を待つのです。
やがて駕籠が近づき、母の前で止まりました。地上に網乗物が下ろされると、両側に武士が付き添い、駕籠かきは退きました。母が目を上げると、駕籠についた小さな角窓から父の顔が見えます。父と母の間には、武士が差し立てる二本の槍が交叉していました。しばらく沈黙の」後、父が口を開きました。
<奥か、刀を預けるぞ>
ただそれだけでした。「刀」は武士の魂を表します。武士の妻としての母に、以降、すべてを任せると、父は言っているわけです。死に行く自分が妻にに任せる大事の最重要事が、忠義の家来に託して、菩提寺に隠されている幼い息子、つまり鉞子の兄の身の上であることは明らかです。しかし、二人は会見に立ち会っている他藩の武士の耳を意識し、具体的には何も触れないのでした。
<母は唯お辞儀をしただけでしたが、気持ちが母に通じたことが父にはよく判ったのでありました>と鉞子は書いています。
「刀を預けるぞ」のひと言と、深いお辞儀ですべてを理解しあえたのです。夫婦の信頼のなんという深さでしょう。武士とその妻の、自覚と覚悟の何と見事なことでしょう。
ここで私たちは、鉞子の母のお辞儀の意味に想いを致したいと思います。当時の日本人はお辞儀に万感の思いを込めました。(引用ここまで)
「お辞儀は日本人のこころの表現なのです」だと筆者は思うのです。昨今はお辞儀をする方々が減りました。お辞儀をしない、しかたをを知らない、お辞儀と謝罪を混同する方々によって人間関係が複雑になり、社会が歪んできているのではと筆者は思うのです。最近はわが国のお辞儀と似ても似つかぬお辞儀が巷に氾濫しています。これではわが国の文化、習俗の継承もあったものではありません。所作の美しさもさることながら、いかに感情の篭もったお辞儀ができるかではないかと筆者は思うのです。 |
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十分な審議時間を 衆院厚労委 野党側が要求
9日の衆院厚生労働委員会で野党側は、与党が主要野党抜きで同委員会開催を強行してきたことに抗議し、十分な審議時間確保を求めました。高鳥修一委員長は立憲民主党の西村智奈美議員の質問に対し、「4月18日以降、委員会の運営が円満にならなかったことは遺憾だ。充実した審議が行われるよう委員長として努力する」と表明しました。 良識ある日本の回復を願う国民の皆様におかれましては、この野党の身勝手な要求をどう思われますか?
勝手に休んでおいて何を言っているのでしょうか?
休んでいても歳費から報酬は支払われます。
休んでいた期間の各々の行動を国民に提示すべきです。
それでなければ与党を追及する資格も資質もありません。
野党を叩かぬマスコミも同罪、同じ穴の狢(むじな)です。
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すめらぎいやさか。
少欲知足とは、文字の如く「欲を少なくして、足るを知る」ことです。
足るを知らず、今に満足できず、森羅万象に感謝せず、嫉み、喧嘩、闘争ばかり繰り返しています。
物質が豊かになればなるほど人の心は豊かになれず荒んでいきます。
満たされれば満たされるほど、また新しい欲を生み、そんな欲は人に「不平不満・愚痴・文句・悪口」を言わせ、欲があるから、人は不満をいい、心が乱れ、世の中は乱れていきます。
かっての日本人はとりわけ明治以前の日本人は心が豊かでした。
欲を少なくし、今持っているものに満足し感謝し、生活していました。
世界屈指といわれた大都市「江戸」は数次の大火に遭いながらも人々はすぐ立ち上がり歩きました。当時の江戸は世界一と言われた治安と識字率に比例するように繁栄を極め、二百数十年に及ぶ泰平の世の中が続いたことは皆さんご存じでしょう。 筆者をはじめ現在を生きる現代日本人は大小に関わらずテレビや戦後の影響をうけています。テレビの時代劇を見て育った今の日本人は、西洋の文物が流入する以前の江戸時代は、いたるところに悪代官や悪徳商人がいて、民衆はしいたげられ、街角では辻斬り、盗賊、放火などが行われてた野蛮な犯罪の多い時代、暗黒な時代というイメージをもっているかもしれませんが、よく調べてみると、それはまったくのフィクションで、実際にはとても平和な時代で、本当の意味においても幸せな時代であったのです。
わが国では元禄三年当時になる1690年から1692年にかけて日本に滞在したケンペル(ドイツ人)は、「この民は、習俗、道徳、技芸、立居振舞いの点で世界のどの国民にも立ちまさり、国内交易は繁盛し、肥沃な田畠に恵まれ、頑健強壮な肉体と豪胆な気象を持ち、生活必需品はありあまるほどに豊富であり、国内には不断の平和が続き、かくて世界でも稀に見るほどの幸福な国民である」と記しています。
たとえば、花魁も現代の日本人の感覚では花魁は高級娼婦のように言われていますが、読み書きソロバン、あらゆる稽古事を身につけた人間性の良い女性はトップを極めました。二十五歳を越えると花魁は卒業しなければならないしきたりがあります。
躾、教養がある花魁は武家の妻や大名の妻になった女性もいます。
これらも今日語られることもありません。
今日の貨幣経済ではなく、米経済が物流の根幹を担っていたこともあり、蓄財
できないシステムもさることながら、当時の日本人は人としての「教養、見識」が今日の日本人と比肩できないほど豊かでしたした。
なぜならば、江戸の民は、いろいろな物を欲しがらず、現在の状態で満足し、欲望を全て、消してしまうのではなく、欲張らないで、与えられた現実を素直に受け入れ生活していました。
我々日本人は太古の昔より連綿と繋がる「やまとのこころ」を失わず明治以降の白人支配の価値観を捨て、「日本人が日本に帰る」秋がきています。
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天皇彌榮(すめらぎいやさか)
今日5月5日は端午の節句、日本では今日は子供の日です。
昨今は、大型連休に組込まれ、本来の端午の節句の意味もあまり意識しなくなったのではないのでしょうか? 最近では余り歌われなくなりました「鯉のぼり」ですが、この歌は、鯉のぼりの雄大さをたたえ、男児がこいのぼりのように雄大に成長するようにという願望を歌っています。
最近は、戦後教育の堕落から、戦前の文部省唱歌が殆ど、歌われなくなりましたが、よき日本人となって欲しいという、国の思い、親の思い、国を思う国民の思いを歌った唱歌の復活を願うばかりです。
少子化の影響もあるでしょうが、筆者が子供の頃は「鯉のぼり」があちらこちらの家庭で、大空高く泳いでいたように記憶しています。そして、端午の節句の由来、意義も薄れ、大人が遊ぶ為の単なる休みとなってしまっているのが実情ではないでしょうか? 端午の節句の由来は中国の楚の国の愛国の士屈原(くつげん)(前340頃〜前278頃)に由来します。
詩人でもあった彼はその正義感と国を思う情は強く、人々の信望を集めていました。
しかし、屈原は陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。 その時の想いを歌った長編叙事詩「離騒(りそう)」は中国文学史上、不朽の名作と言われています。 故国の行く末に失望した屈原は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまいました。5月5日がその命日にあたります。 屈原を慕う楚 の国民達は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし,さらにちまきを投げて,「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。 その日が中国の年中行事になり,へさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事が生まれたそうです。 これは今日のドラゴンレース(龍舟比賽)の始 まりとも言われています。 これがちまき(肉粽=ローツ ォン)の起源です。このようなエピソードから、毎年命日の5月5日の屈原の供養のために祭が行なわれるようになり、やがて中国全体に広がっていったのです。 国と人民に尽くした屈原の政策は、死んだ後もいっそう人々に惜しまれ、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れて国の安泰を祈願する風習に変わって行きます。
急に暑くなるこの時期は、昔から病気にかかりやすく、亡くなる人が多く、5月を『毒月』と呼び、厄除け・毒除けをする意味で菖蒲やヨモギ・ガジュマロの葉を門に刺し、 薬用酒や肉粽を飲食して無病息災を祈りました。
その風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となったと言われています。三国志の時代に端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わって行きました
日本の端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事です。 端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。 日本でも、季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれていました。この日に薬草摘みをしたり、蘭を入れた湯を浴びたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりという風習がありました。厄よけの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式も行われるようになりました。 菖蒲は薬草で、邪 気を避け、悪魔を払うという昔からの信仰があり、節句 にはヨモギとともに軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。
古来おこなわれていた宮廷での端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。しかし、武士のあいだでは尚武(武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになったのです。 こいのぼり(鯉のぼり)の由来は、鯉が「龍門」という急流の川をのぼると龍になって天へ登るという中国の古事からきています。 我子も健康に育ち、将来は大きく出世して欲しいとの気持を込めたものです。また、「わが家に男の子が生まれました。どうぞお守りください。」と天の神様に伝え、守っていただく意味があるとも伝えられています。
愛国の士屈原の慰霊に始まり、時代の変遷のなかで、薬草を摘んで邪気をはらうという端午の行事が、男の子の誕生の祝いへと結びついていったと考えられます。 何故なら子供が育たないことには、国家、家、文化の伝統の継承がありえないからです。
江戸、明治の時代に日本を訪れた外国人は、世界中で一番子供を大切にする民族であり、子供たちは世界中で一番礼儀正しく、輝いていると幾多の書物でも紹介されています。 端午の節句は、国思う愛国の士に由来し、災難を避ける風習の日であり、子供の成長を願う日でもある。
これは、先人が連綿と国家の連続を願ったものであり、また現世に生きる我々も、連綿と続く子孫とを繋ぐ一人として、子孫の繁栄を祈ったものです。現世に生きる我々はそれを継承し、次の世代に伝える「祈りの日」でもあることを忘れてはならないでしょう。
天皇彌榮(すめらぎいやさか) |





