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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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和気清麻呂の子孫の半井小絵さん

戦後消された日本の英雄に和気清麻呂がいる。

第46代天皇であられた孝謙上皇が病で伏せていた時、弓削道鏡が祈祷で治癒させた。これで信頼を得た道鏡は孝謙上皇の寵愛を受けることになった。
 
しかし淳仁天皇が孝謙上皇に道鏡のことを諌めると、孝謙上皇との関係が悪化し、淳仁天皇は廃位させられて淡路に流されてしまった。
 
孝謙天皇が称徳天皇として重祚されると、道鏡は「大臣禅師」となり、さらには「太政大臣禅師」という大宝令にない官に任じられ、翌年になると「法王」になり、ついには天皇の位を狙うのではないかという疑いが出てきた。
 
それ見て機嫌を取っておこうと九州大宰府では「八万の神のお告げがありました。道鏡が天皇の位につけば天下太平であるとのことです」と言った。
 
称徳天皇は尼の法均(ほうきん)をやって八幡のお告げが本当であるか確かめたいと思ったが、婦人の身で九州まで行くのは容易でないため、弟の和気清麻呂を派遣させた。
 
それを聞いた道鏡は和気清麻呂に賞罰をちらつかせて「自分に有利になるように言えば高い地位に就けるが、逆らうと容赦しない」と脅した。
 
和気清麻呂は大分に参り、八幡の神前にぬかずいて謹んで神意を伺った。
 
すると神が出現して、
「我が国は開闢以来、君臣の分が定まっている。しかるに道鏡は何たる無道であるか。臣下でありながら天位を望むとは。汝は帰って天皇に上奏せよ。天位は必ず皇統を以て継承されよと。無動の者は早く取り除くがよい」と仰せられた。
 
和気清麻呂は奈良に帰り、ありのまま上奏し、道鏡が天皇になるのを阻止した。
 
それに怒った道鏡は和気清麻呂を鹿児島、姉の法均を広島に流した。
 
しかし和気清麻呂が流された翌年、称徳天皇が崩御され、光仁天皇となられると、国を憂う重臣達が道鏡を追放し、和気清麻呂と法均を呼び戻した。・・・
 
 
気象予報士の半井小絵さんは、皇統を救った和気清麻呂の子孫である。
 
現在、保守論壇でご活躍されている。
 
平成30年53日の「憲法フォーラム」ではこのようにお話をしされた。
 
「天皇陛下が国民の安寧を祈って下さっていること、そして天皇陛下と国民の関係を知ると皇室の男系の血筋を守った和気清麻呂の子孫として、先人から引き継いできた日本のよさを、後世にも遺して行きたいと、心から思うのです」

 

我那覇真子さんとともに素晴らしい女性論客が現れました。
皆さんも、ぜひ応援して下さい。

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拉致問題と拉致解決を訴える半井小絵さん




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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

日章旗が翻る街

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岐阜県 中津川市 中津川在住 武川 典靖氏撮影 「昭和の日」




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岐阜県 中津川市 中津川在住 武川 典靖氏撮影 「昭和の日」



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岐阜県 中津川市 中津川在住 武川 典靖氏撮影 「昭和の日」


すめらぎいやさか。
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。

日本人の99パーセントの方々は祖国を愛する方々ばかりです。
国旗を掲げることは愛国心を涵養し、アイデンティティを示すことです。万世一系の皇室の御稜威と、先人の労苦によって今日の繁栄を享受している日本人。
日本という国が存在してこそ今日の豊かな生活があるのです。

日章旗や旭日旗を軍国主義の象徴と嘯く方々がほんの僅かですが今日の日本にいます。
しかし、事実は否です。

かっての日本人は今日の日本人よりも子供を愛し、妻を愛し、兄弟を慈しみ、両親を尊敬していました。
 誰一人、日本が侵略戦争をしたとは思っていません。祖国日本を護る為に戦いました。

 外国の土地を強奪した事実もありません。統治を委任されたり、併合を願ってきたのです。
 礼・義・智・信という、厳しい道徳観の中で育った日本人は、不正義を憎み、卑怯・卑劣を嫌う武士道を軍人魂として教育されてきています。

 あなたがもし日本人ならば、そして正義を愛するならば、かつての日本人も今の日本人も同じ日本人です。
 あなた方が誇れる、先人の方々であり、先祖です。
 あなたが自分を信じるならば、日本を護った先人、先祖を信じて下さい。
 戦没者のみたまを、先人の愛を見つめて下さい。

そして日章旗や旭日旗を大切にしてください。
日本中が祝日には日章旗が翻ることを願ってやみません。
日本人が日本人らしさを失ったら日本ではなくなってしまいます。
取り戻してほしい、「やまとごころ」を

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先帝陛下ご真影





先帝陛下を病気快癒を願い記帳に訪れた日本国民 何十万人の人が宮城の前で快癒を願った。 もちろん、誰一人として動員をかけられた人はいません。 





先帝陛下崩御






先帝陛下崩御






先帝陛下崩御



今日は昭和の日、先帝陛下の誕生日にあたります。
かって我国は、畏くも天皇陛下の誕生日を「天長節」皇后陛下の誕生日を「地久節」として国家挙げて祝い慶びました。
戦前の祝祭日は、根拠、目的、由緒がはっきりとしたものでしたが、戦後の祝日法によって定められた祝日は、目的、由緒が漠然としており、これでは何の為の祝日かわかりません。
昭和の日を「昭和節」文化の日を「明治節」とし、皇室祭祀にまつわる祭日も本来に戻すことこそ愛国心を涵養し、今の日本にとって大事なことです。
昨今、伝統の何たるかを忘れ、わが国の文化を否定する風潮が多々見られ、それに伴い治安の悪化が著しい・・
先人を否定し、文化を忘れ、日本人らしさを失っていくのは自らのルーツを否定しているのと同じではないかと筆者は思うのです。
昨今の日本を見るにつけ、日本が日本で無くなっているような錯覚にとらわれ落胆させられることが多々あります。
今一度、日本という「祖国」「母国」について熟考せねばならぬ時代が来ているのではないでしょうか?

「降る雪や明治は遠くなりにけり 」

昭和58年に亡くなった俳人、中村 草田男(なかむら くさたお)氏は明治生まれでした。昭和の時代を目の当たりにして、雪が降るという季節の節目に立ち、母校の小学校を尋ねた際に作った句だそうです。
生まれた時代を振り返って、明治という時代が遠くになったものだな、と言う感慨を句にしたものと思います。
昭和に生まれた筆者も還暦を前に、時々昭和という時代を懐古し、今日の日本と対比することが多々あります。今日のように物質的に恵まれ豊かな時代に暮らしていても、何か大きな忘れ物をしたような?大事なものを置き去りにしてきたように思えてなりません。地域の紐帯は薄れ、個人主義が蔓延り訴訟社会になってしまった平成の日本。豊かではなかったけれど幸せだった昭和の時代。

「昭和は遠くなりにけり 」と・・・



冒頭の画像は一般参賀、続いて先帝陛下ご不例(ご病気)において当時の国民が平癒を祈り記帳に駆けつけた画像です。誰一人として動員をかけられた人はいません。心より先帝陛下を慕い平癒を祈ったのです。
祝い事やイベントを自発的に日本国民は自粛し、ご快癒を祈りました。一億国民の願いも届かず、先帝陛下は崩御あそばされた。多くの日本国民は悲しみました。
激動の時代に君臨された先帝陛下。その御稜威は今日においても色褪せることなく昭和の国民のこころに焼き付いております。
先帝陛下のエピソードをいくつかご紹介させていただきます。

薨去あそばされた寛仁親王殿下「公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」

――昭和天皇とお二人きりでお話になられたことはございましたか?
殿下 二十代の頃でしたが、将来のために陛下とどうしても直接お話をして伺いたいことがあると高松伯父様にお願い申し上げたら、二度実現しました。その時の記憶で特に鮮明なのは、陛下が「自分は半生の中で自らの意見を述べたのは二度ある」と淡々とおっしゃったことでした。一度目が二・二六事件の時、二度目が終戦の時というのです。本来陛下を補弼(ほひつ)する責任を持つ重臣たちが、前者の場合は消息不明であり、後者の場合は意見を伺いたい旨を言上(ごんじょう)したわけで、いずれの場合も陛下ご自身がお動きにならざるを得ない状況におかれたのです。この話は後に陛下が記者会見でも発言されましたが、その時は初めて聞く話でしたから、仰天すると同時に背筋がゾッとしました。
またある時、高松伯父様が「若い者が陛下のところに行ってお話ししろ」とおっしゃるので、私と弟の高円宮の二人で陛下のお側に行きました。私は青少年育成で日本中を回っている時の話を色々申し上げました。自分が直に全国各地の青少年と議論をして聞き出してきた、各地方の特色ある生の声を得意になってご説明したのですが、陛下はみんなお見通しでした。「その地方の若者はこういうことを言わなかったか」と、実に的を射たご下問をなさる。各地の若者たちの悩みや問題点をじつによく把握なさっていました。私は帰りの車の中で高円宮と「これは一体どういうことか、不思議なことがあるものだ」と話し合いました。

――昭和天皇は実に細やかな気配りをなさる方であったと伝え聞いております。

殿下 これはあまり世に出していない話ですが、私が昭和五十五年に結婚(信子妃殿下は麻生太郎元首相の実妹)した時に、両陛下をはじめご親族を招いて晩餐会を開いたのです。
義祖母の夏子おばあちゃん、義母の和子女史や義兄の太郎をはじめ、麻生家の親族に列立してもらって、陛下に拝謁を賜りました。父が一人ずつ紹介しようとしたところ、陛下は皆に向かって突然、
「太賀吉は元気でおるか?」
とおっしゃったのです。
実はその時、岳父の麻生太賀吉氏は食道がんで入院中でした。その情報はもちろん陛下のお耳には届いていたのでしょう。それでも陛下のお心遣いに一同言葉にならず、ただポロポロと涙を流すばかりで、とても紹介どころではありませんでした。このような絶妙なタイミングで、思い遣りのお言葉を自然に出されるのが昭和天皇でした。

――国民に対するお気遣いも有名でした。

殿下 台風の時など、まず「稲穂の状況と被災民の様子」を常に心配されて、侍従を通してご下問がありました。それは見事に自然な形で発せられるので、地元の人々はこのお言葉を翌日の紙面で知ると勇気づけられますし、奮起するのです。どの災害、事件の時も同じでした。あれほど「公平無私」の心をお持ちの方を私は知りません。

――今の日本の繁栄があるのは、昭和天皇が常に国家の平安を祈られ、国民を激励し続けてこられたからではないでしょうか?

殿下 敗戦国の元首が国民の中に分け入って熱狂的な歓迎を受けるという例は、世界史上皆無でしょう。ここに、他国の王室や皇室とはどうしても比較できない、陛下と国民の間の人間的な絆があるのです。
ある時、過激派への対策として、皇居や赤坂御用地に機動隊のバスがずらりと並んでいたことがありました。それをご覧になった高松伯父様は宮内庁の役人に、
「お前たち、皇室は軍人や警察官に守られて二千数百年も続いたんじゃないぞ。国民に守られてきたんだ。あんなものは即刻撤去せよ!」
とおっしゃり、翌日、すべての配備をときました。もちろん、何も起こりません。
また、伯父様はこうもおっしゃっていました。
「京都御所を見てみなさい。わずか三十センチくらいの疏水が流れているだけで、誰でも乗り越えられるし、どこからでも侵入できる。でも、長い年月、何者にも侵されていない。それは歴代の国民が守ってくれたからだ」
まさにおっしゃる通りだと思います。良識ある国民の総意で万世一系の百二十五代は続いてきたのです。


昨年7月亡くなった皇室記者ひとすじ56年・松崎敏弥さん

[激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸
 当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、号泣していたのである。
後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、たびたび思い出した。

先帝陛下は酒を嗜まれず、美食を好まれなかった。衣類についても飾ろうとされることがなかった。側近にすすめられて、公務の場で着られる洋服を新着されても、新調した服が傷まないように、奥に入られると几帳面にすぐに古い背広に着替えられた。昭和天皇陛下・香淳皇后陛下は、戦時中の昭和19年の暮れから、防空施設として作られた御文庫に、居住されておられました。
そこは、元侍従長の入江相政氏によると、屋根には砂が盛られ、湿っぽく、居住性の極めて悪い施設だったそうです。しかし、昭和天皇陛下は戦後もそこに住み続けられました。何回か新しい御所を作ることを進言申し上げたのですが、昭和天皇陛下は、「国民はまだ住居がゆきわたっていないようだ」といって、断り続けられました。そして、国民の生活水準が戦前をはるかに上回り、神武景気も過ぎた昭和36年の11月、先帝陛下はようやく現在の吹上御所に移られました。
新宮殿が創建されたのは、それよりさらに遅れて昭和43年のことでした。
そして先帝陛下は、以下のように仰せられた。

「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ。」


先帝陛下は終戦の詔勅において日本国民に向けて発せられておられます。
「常に汝ら臣民とともにある。」と・・・

昭和の日に先帝陛下のご遺徳を偲び、御国の隆昌と皇室の彌榮(いやさか)を願ってやみません。



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画像は産経新聞より引用



産経新聞の四月十三日版によると、防衛省統合幕僚監部は13日、平成29年度に航空自衛隊の戦闘機が実施した緊急発進(スクランブル)が904回に達し、統計開始以来6番目の多さだったと発表した。前年度比では264回減った。国別では中国(支那)の500回が最多で、ロシアは390回。
中国機に対するスクランブルは過去最多だった前年度の851回から大幅に減少したが、過去5年でみれば3番目の多さ。昨年8月にはH6爆撃機6機が初めて紀伊半島沖まで飛行する「特異な動き」をみせた。5月には尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺で中国海警局公船の上空を飛ぶ小型無人機「ドローン」による領空侵犯も1件確認された。
 また、宮古海峡を通過する飛行が36回と過去最多で、12月には中国軍の戦闘機による初の対馬海峡通過も確認されたことから、統幕監部は「中国側の活動範囲の拡大を特徴づけている。回数は減ってはいるが、活動が低下しているとは認識していない」と分析する。
一方、ロシア機に対するスクランブルは前年度比で89回増えた。TU95爆撃機による日本周辺の長距離飛行を含む「特異な飛行」が前年度比12回増の21回で、統幕監部は「ロシア機による訓練・偵察の活発化傾向は継続している」とみている。

スクランブルとは緊急発進防空識別圏内に敵機または国籍不明機侵入した場合迎撃戦闘機最短時間離陸する行動を言います。しかしこれらは偶発におこりうることではありません。戦闘機や偵察機の搭乗員が自己の判断において行うことではありません。国家が意識してわが国の防衛体制や技術の判断材料を測量していることが背景にあります。ここ一年以上にわたる国会での精華なき不毛の国会のありさまは、主権国家ならざる状態です。文民統制とは武力集団(わが国では自衛隊)を政治が統制する仕組みのことです。政治が軍事に優先し、軍人は文民(政治家)に服従することを原理としています。しかし、どうだろう?今の国会における権力闘争(倒閣)は有事に一命を賭して国防を担う自衛隊諸君の模範となる活動をしているでしょうか?
否と言わざるを得ません。国家とは国民の命と財産を護ることにあります。これらから逃げる政治家は政治家を辞していただきたいと筆者は思います。無能な政治家に賄われる歳費は国民の血と汗から供出された尊いものであることを忘れないでいただきたいと願うものです。




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画像引用元 神宮


すめらぎいやさか。
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。

長きにわたるつまらぬ議論しかせぬ国会に辟易されておられる方々も多いでしょう。もっと国の将来に山積している問題に取り組んで欲しいと願っているのは私だけではないとおもうのです。
日本人が日本人らしさを失っているように思います。
傲慢、増上慢、独占ばかりが目立ちますが、元来日本人は「足るを知り」、満足する事を知っている人間が本当に豊かな人間であり、努力を続けてきました。
伊勢の神宮の日々の神事、営みは日本人に日本人らしさを示しておられます。


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