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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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両陛下、沖縄からご帰京
沖縄県を訪問していた天皇、皇后両陛下は29日、特別機で帰京された。
 
皇太子同妃時代を含め11回目となる今回の沖縄訪問での総移動距離は2泊3日で約4500キロメートル
 
国立沖縄戦没者墓苑(糸満市)で先の大戦での戦没者を慰霊したほか、初めて日本最西端の与那国島にも足を運ばれた。
 
陛下は来年4月末の譲位が決まっており、沖縄訪問は今回が最後とみられる。一方、宮内庁関係者によると、8月上旬に両陛下の北海道・利尻島ご訪問が検討されている。(平成30329日)
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今上陛下は戦争で亡くなられた方々に対する思いを非常に深く持っておられる。
 
かつて小泉首相は戦争で亡くなった方々を「心ならずも戦争に駆り立てられて戦死された人々」と言い、メディアの評論家なども「無謀な戦争で命を失った」と言った。
 
しかし今上陛下は全く違う。
 
陛下は硫黄島で「祖国のために精魂込めて戦った人々」と仰せられ、東京国立劇場『戦後五十年を記念する集い』では「今日の平和と繁栄をもたらす礎となった多くの人々」と仰せられた。
 
そして、我々日本国民が決して忘れてはならないのは、今上陛下が仰せられた「日本国民が忘れてはならない4つの日」である。
 
それは623日の「沖縄戦闘終結の日」、86日の「広島原爆投下の日」、89日の「長崎原爆投下の日」、815日の「終戦の日」である。
 
昭和天皇は戦後の占領下の厳しい状況下で、国民を励ますために全国各地を御巡幸されたが、最後まで何とかお出ましになりたかったのが沖縄であられた。しかし叶うことなく崩御された。
 
その御遺志は今上陛下に継がれ、「国民が忘れてはならない日」として沖縄には何度も足を運ばれてこられた。
 
沖縄の多くの皆さんはいつも「日の丸」を振って両陛下を奉迎されてきた。


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今回も多くの方々が「日の丸」を振っていた。さくらの季節に多くの日の丸が振られ、天皇陛下の奉迎をお迎えされる。
 
日本人として、この場面を見て感動しない者はいないはずである。
 
また327日夜、那覇市で「天皇皇后両陛下奉迎パレード」が行われ、会場では「君が代」斉唱、「天皇陛下万歳」が行われ、陸・空自衛隊音楽隊の演奏も行われた。

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ぜひ見てほしい場面 2:36〜3:02
 
大手メディアというのは、米軍の事故や基地反対闘争は活動家を“市民”と詐称して大きく報じるが、こういう正しいことは報じない。
 
本来は逆である。だから安倍政権の報道改革が必要なのだ。
 
今上陛下は慰霊の旅を続けてこられ、国境の島も行幸される。
 
これは今の日本の政治家や国民に訴えているのではないかと思う。
 
祖国のために命を捧げた方々を国がいつまでも大切にし、同時に国の守りは“国境”が非常に重要であることを仰せられているのではないかと思う。

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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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与那国空港に到着し、集まった人たちに手を振られる天皇、皇后両陛下、ご真影=28日午後、沖縄県・与那国島


画像は産経新聞より


すめらぎいやさか。

畏くも天皇、皇后両陛下におかせられましては28日、沖縄本島から特別機で与那国島(よなぐにじま)に入られた。日帰りで島内をまわられ、「日本最西端の碑」を訪れられ、日本在来種の「与那国馬」や世界最大級の蛾「ヨナグニサン」をご覧になられた。国の重要無形文化財「棒踊り」もご覧になられた。
 畏くも両陛下におかせられましては日本各地の離島に行幸啓あそばされ、沖縄でも宮古島、石垣島などに行幸啓なされ、在位中最後になるとみられる今回は日本最西端の与那国島行幸啓を望まれていた。動画は27日夜、沖縄本島で行われた天皇陛下奉迎パレードの様子です。

天皇陛下萬歳、萬歳、萬歳。



両陛下、沖縄行幸啓

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画像は産経新聞より

すめらぎいやさか。
畏くも天皇、皇后両陛下におかせられましては27日、羽田発の特別機で沖縄県入りあそばされた。同日は国立沖縄戦没者墓苑(糸満市)で先の大戦の戦没者を慰霊し、遺族に「がんばってこられましたね」「ご苦労さま」などと声をかけられた。
畏くも両陛下の沖縄行幸啓は、皇太子同妃時代を含め11回目。激しい地上戦の舞台となり、戦後も米軍施政下に置かれた沖縄に心を寄せてきた両陛下が強く希望された。先帝、昭和天皇も崩御されるまで沖縄を気にかけておられた。今上陛下は先帝陛下の大御心を継承され、臣民皆に等しく慈しまれる。感謝の言葉しか見つかりません。
28日は日本最西端にある与那国島(よなぐにじま)を初めて行幸啓あそばされ、日本最西端の碑などをご覧あそばされ。29日に還幸啓される。両陛下はじめ皇族の方々がお健やかであられることを衷心よりお祈りします。



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「日立の大煙突」のプロフィール
建 立:1914年(大正3年)12月
所在地:茨城県日立市三作山頂(標高328m)
高 さ:155.7m(当時世界一)
材 料:鉄筋コンクリート(382トン)
規 模:延べ36,800人、9ヶ月間
目 的:銅精錬の煙害防止
所有者:日鉱金属日立工場

一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。

 ご来訪の皆様もご存じ、聖徳太子の「十七条憲法」の第一条の冒頭にある名文です。
現代語訳では、

一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

 爾来、日本人はこの言葉をどれほど尊重し、肝に銘じてきたことでしょう。
 では、この場合の「和」とは何か? 
 和は、和食、和歌、和紙、和英辞典などが示すように、「日本」という意味を表します。それだけでも、この一字が往古の昔より日本の核になっていることは明らかです。
 ここでいう和とは、自分を失って相手に合わせるのではなく、しっかり自分を保った上で、相手を尊重し、調和すること。神仏習合や和食の基本がそれです。わが国には神道が肇国以来ありました。しかし、それを保ちつつ新来の仏教を取り入れた。和食の素材は仕上がったときに他国の料理のように元来の素材がわからぬような料理はしない。つまり、「自分」というものを見失いません。
 ですから、「和」とはやみくもに迎合するのではないということ。しかも、相手の価値観も認め、バランスをとっていくということ。それが自然体でできるのは、地球広しといえど、日本人以外しかないと思うのです。

しかし、大東亜戦争後、かって日本人が大切にしてきた価値観、慣習、文化、伝統も大きく変わろうとしています。
もっとも政治の世界では、目の前に課題が山積しているというのに、現在の国会を見れば明らかですが、対立をあおる動きばかりが目立つ。政治家がこうだから民間までもが右習えで対立ばかりが目立ちます。






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かつて市のシンボルだった煙突は、高さ156メートル、大正3(1914)年の建設当時は世界一だった。平成5年に崩落し、3分の1の高さになる。植樹されたオオシマザクラに囲まれて、現在も使われている。

「芙蓉の人」「孤高の人」などの著書で知られる、新田次郎氏の著作、『ある町の高い煙突』を原案として映画『ある町の高い煙突』の撮影が茨城県日立市で始まります。
明治後期に開業した日立鉱山(前身は赤沢銅山)は、富国強兵を掲げる政府の下、銅の生産量を飛躍的に伸ばしていた。同時に精錬所から排出される大量の亜硫酸ガスは、農作物を枯らし、住民の健康をむしばんだ。




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小説、映画は実話を基にしている。主人公のモデルとなったのは、地元の旧家出身の関右馬允(うまのじょう=上記写真)という人です。村のリーダーとなった関は郷土を守るため、粘り強く日立鉱山と交渉していきました。



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鉱山の創業者である久原房之助(上記写真)は、気象観測の結果に基づき、社運を懸けて大煙突の建設を決意、乗り切った。




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日立鉱山側の煙害対策の中心人物、角弥太郎(かどやたろう)日立に着任前に小坂鉱山で煙害を経験し、自らの社会使命は煙害問題にあると覚悟し、「煙害による損害は、鉱業主が進んで賠償の責を果たさなければならぬ」という基本方針の下、地域との共存共栄を」理想とし、被害者側との信頼関係と交渉のルールを確率した。

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建設中の大煙突の足場。
大煙突建設に従事した労働者数は、日立鉱山史によれば男性32,389名、女性4,451名の計36,840人に及んだ。多くの労働者は東北地方から募集に応じて日立までやってきた。工事現場の日当が当時は通常18銭から20銭であったというが、大煙突建設工事の場合、倍以上の45銭であり、日当の良さのため労働者はすぐに集まり、現場での生活環境も東北などより好条件であったこともあって、勤務状況も良好であったという。また高所で足場を組む鳶職には驚くほどの高賃金を支払ったと言われている。

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建設終了して足場解体中の大煙突。これだけの大工事でありながら工事による物故者は2、3名と言われています。現場の最高責任者、尾崎武洋は現場監督として日夜現場労働者と寝食をともにし、高所でも陣頭指揮をしたと伝えられています。

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現在、日立市は「さくらのまち」と言われています。今年も4月1日から15日まで「さくらまつり」が開かれます。前述した角弥太郎は煙害の状況が一変するとただちに自然環境を回復させるために「オオシマザクラ」「ヤシャブシ」「スギ」「ヒノキ」などの植林を開始しました。18年に渡る植林の面積は1200町歩(約1190ヘクタール)に及び植えられた苗木は500万本、そのうち「オオシマザクラ」の植林面積は595町歩、260万本が植林されました。日立鉱山による植林とともに周辺地域の希望者に対する苗木の無償配布も大規模に行われました。大正4年度の日立村はか17か村に対する29万本の配布をはじめ、昭和12年までの23年間に約500万本の無償配布が行われ、そのうちオオシマザクラの苗木は72万本に及びます。オオシマザクラの苗木がうまく育つようになるとこの苗木のソメイヨシノの苗木を接ぎ木して大量の苗木を作りました。角弥太郎はこの桜の美しさに着目し、大正6年頃、日立の社宅、学校、道路、鉱山電車線路沿いに2000本の桜を植えさせこれが「さくらのまち日立」の原点となっています。日立市の桜はその美しさの背景に、地域の煙害を企業と住民が克服した歴史と環境回復への悲願のもとに懸命に努力を重ねた地域の人々の歴史が秘められています。

新田次郎が『ある町の高い煙突』を発表した昭和40年代前半は、日本全国で公害問題が深刻化し、企業と住民が対立していた。その半世紀以上も前に日立では難題を解決していた、夢のような話に引かれたという。気象庁の職員でもあった新田氏の著書『ある町の高い煙突』はあとがきでまず、日立市天気相談所所長だった山口秀男の名前を挙げている。気象庁職員時代の先輩にあたる新田に、大煙突をテーマに小説を書くよう勧めた。ちなみに、現在の公明党代表の山口那津男氏の父親である。
日本人は公害については、克服しつつある。しかし、対立ばかりが目立つ今日、「和をもって貴しと為す」のやまとごころが薄れていくのは残念でならない。捨ててしまったものは二度と元へは戻りませんが、忘れ物はいつかもとへ戻ることもあります。日本人が「和をもって貴しと為す」の精神を再び身につけていくことを願うものである。



参考文献:日立市報2018年3月5日号、産経新聞3月23日「産経抄」、日立の大煙突アルバム、より引用、加筆
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わが国は水と緑の国です。山を大切にし、川を大事にしてきました。
日本では水道水をそのまま飲む人も多いですが、韓国はどうでしょうか。
北朝鮮の水道事情はよくわかりませんが、韓国の水道水は質的には飲用として問題がないそうなのですが、韓国国内での認識はそうではありません。2013年の水道水満足度調査(韓国)によると、日本では47%の人が水道水を直接飲むのに対し、韓国では5.4%の人しか水道水を飲んでいないそうです。
それは昔よりの水事情に起因しています。
昭和12年の業界誌に開城(現北朝鮮)の上水道事業について書いた一文があります。《朝鮮の開城府は高麗朝500年間の都…昭和5年の府制実施時には鮮内有数の都市にして人口約5万(略)市街一体井(戸)水に乏しく且(か)つ飲料に適するもの稀(まれ)なるを以(もっ)て一朝(いっちょう)悪疫の発生あらんか、その惨害蓋(けだ)し戦慄すべきもの…上水道の建設は亦(また)実(じつ)に喫緊の急務なりとす》と飲料水事情の悪さと上水道建設の必要を述べています。
わが国(日本)の水道技術は当時からトップレベルにありました。世界でも少ない「飲める水」を蛇口から供給できるのが今も昔も日本の水道技術の自慢です。そのために良質の水源を見つけて取水し、導水し、浄水施設で濾過(ろか)しなければならない。こうした技術と資金を投入し、12年の段階で、朝鮮の約60都市に、上水道を建設。住民の衛生環境も飛躍的に改善した。日韓の国交が正常化した昭和40(1965)年、当時の韓国国家予算を上回る5億ドル(有償・無償)の巨費が日本から供与されたことは皆さんご存じだと思います。この資金を利用して、老朽化や供給量不足に陥っていた韓国約10都市の上水道を再整備する計画がありましたしかし、実際には、新日鉄(現新日鉄住金)が全面協力した韓国東海岸・浦項(ポハン)製鉄所の建設にも、その資金が回されたため、水道整備計画は縮小されたが、これを担当したのもまた日本の技術者でした。当時の韓国にはこうした技術がなく、日本に頼るほかなかったからである。東大名誉教授(衛生工学)の藤田賢二さん(83)は当時、水道メーカーの技術者として、1960年代後半から70年代にかけて韓国での事業を担当した。大田(韓国中部)、光州(同南部)2都市の取水・導水・浄水施設の計画、設計、建設に携わり、冷却水などに大量の水を使う浦項製鉄所の案件も担当した。ただ残念なのは、こうした水道施設が日本の資金・技術でできた事実を韓国では“封印”されてしまいました。光州の通水式で、あいさつに立った市長は「われわれだけの力で水道建設が行われたことはまことに喜ばしい」と話し、日本のにの字も口にしませんでした。藤田さんが数年前に大田で開かれた水道関係の国際会議に出席したときも、市の浄水施設ができた経緯を参加者の誰も知らなかった様子だったそうです。
 藤田さんは言う。「(光州の市長のあいさつを聞いたときは)苦笑いでやり過ごしたが、じゃあ、なぜ通水式の場に日本の技術者が出席してるのかってね。僕がメーカーを退職した後も、後輩たちが韓国の水道事業に貢献しています。だけど記念碑もないし、(技術者の)名前も残らない。まぁわれわれ技術者は、ちゃんとものが動きさえすればいいんですけれど…」という。
日本統治時代、莫大な資本が朝鮮半島に投下され、近代化されていきました。しかし、ほとんど韓国の方々はその事実を知りません。本当に残念に思います。

参考文献:産経新聞「海峡を越えて」(朝の国ものがたり)より引用、加筆

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