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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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めらぎいやさか。
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。
新年より二週間が過ぎようとしています。
相変わらずマスコミは同胞同士の足の引っ張り合い、粗探しに終始し、情けない限りです。スキャンダルや事件は人目を引くのでこれらに徹しているのでしょうが、もっと社会貢献、世界に発信してもよいこともあるのではと筆者は思うのです。

兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎
六合(くにのうち)を兼ねてもって都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(せ)んこと、またよからず
自民党三原じゅん子参院議員がかって予算委員会において、「八紘一宇(はっこういちう)は大切にしてきた価値観」として発言したことは記憶に新しいところです。
八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる」と発言、麻生財務相にその真意を糺しました。
我が邦の歴史において異なる民族や同胞に大量虐殺や、粛正、奴隷が存在したことはなく、人身売買が行われた歴史もありません。我が邦のおける統治制度が一変した明治維新、さしずめ「廃藩置県」は画期的大改革でした。いくらかの局地的紛争がありましたが、それ以降は国内における紛争はありません。冒頭の画像にあるように「ひとつ屋根の下、皆仲良く」が我が邦の建国以来の価値観として今日に至っているのです。


「貧しさゆえに」
 昭和41(1966)年6月7日。1通の投書がきっかけとなり、サンケイ新聞(現・産経新聞)社会面に闘病生活を送る幼い少女の記事が載りました。今日多くの命を救う「明美ちゃん基金」の発端となるものでした。少女は、鹿児島県に住む伊瀬知(いせじ)明美ちゃん(当時5歳)。生まれつき心臓の右心室と左心室の間に穴が開いている心室中隔欠損を患い、「手術をしなければあと2、3年の命」と宣告されました。
 手術費は50万円。現在の約500万円に相当しました。8人家族で農業を営む両親にとって、わずかな田んぼを売り払ってもとうてい手の届かない大金でした。
 「明美ちゃんを救おう」。記事は大きな反響を呼びました。その日のうちから社会部に電話や手紙が殺到し、翌日までに全国から66件、268万円余りの善意が寄せられました。1週間後には420件、425万円余りに達し、手術に必要な額をはるかに上回りました。
 「まだ第2、第3の明美ちゃんがいることと思います。そのような人たちに1日も早く明るい日を与えてください」(4000円を寄せた神奈川県の私立中3年生たち)
 善意を寄せた人の中には、こんな意見も多くありました。産経新聞社は、明美ちゃんの両親や、手術を引き受けた東京女子医大付属心臓血圧研究所の所長、榊原仟教授(故人)らと協議しました。
 41年6月15日、心臓病の子供を救う日本で初めての基金「明美ちゃん基金」が誕生しました。
画像は産経新聞より引用
明美ちゃんは、ただちに心臓血圧研究所へ入院しました。当時、心臓病の世界的権威といわれた榊原教授の執刀で手術に臨みました。手術は成功し、昭和40年代には明美ちゃんに続き、心臓病に苦しむ「第2、第3の明美ちゃん」たちが適用を受け、元気を取り戻していきました。そして上記画像にあるように明美ちゃんは現在医療の現場に携わりその恩恵に報いる活動をされています。
 基金の活動をきっかけに、先天性心臓病の子供に対する国の対策も前進しました。厚生省(当時)が42年から育成医療費を増額し、心臓病を支給対象に含めるなど、医療費は健康保険や公的扶助でほぼカバーされるようになりました。
 国内で対策が進むにつれ、基金には、発展途上国の子供たちを救うという新たな使命が加わりました。すでに47年、インドネシアのニューニューちゃん(当時7歳)が外国人の適用第1号として手術を受けていましたが、医療事情の悪いアジアの発展途上国を中心に、子供たちが次々と適用を受けて来日しました。
 これまでにネパール、韓国、カンボジア、マレーシアなどの子供たちが手術を受けました。昭和63年以降の適用者は、すべて外国籍となっています。

基金の事務局は現在、産経新聞の東京、大阪両本社の社会部に置かれています。代々の社会部記者たちが担当し、ふだんの取材活動をしながら事務が行われています。
明美ちゃん基金はこれまで50年にわたり、“愛といのちのバトンタッチ”という大きな善意の橋渡し役として成長、こころある人々の預託、寄付によって紡がれています。自らが住む祖国日本を貶め、他国に阿る曲学阿世の徒らが跋扈する反日新聞社らの存在を筆者は疑うのです。
明美ちゃん基金こそ今日に生きる「ひとつ屋根の下、皆仲良く」すなわち「八紘一宇のこころ」の精華ではないでしょうか?
「明美ちゃん基金」への振り込みは、みずほ銀行東京中央支店(店番号110)普通口座567941「産経新聞社会部明美ちゃん基金」。郵送の場合は、現金書留で〒100−8077 産経新聞東京本社社会部「明美ちゃん基金」。
参考までに。
参考文献:産経新聞HPより引用、加筆
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在りし日の先帝陛下と香淳皇后 御真影




天皇陛下崩御


天皇彌榮(すめらぎいやさか)

二十九年前の今日、一月八日に平成元年が始まりました。
昭和の国父、昭和天皇崩御より二十九年の秋をわが国は刻みました。
平成31年の一月七日は先帝陛下の式年祭にあたります。
その式年の年に今上陛下は皇太子殿下に譲位あそばされます。
今一度、先帝陛下の御遺徳を偲び、皇室の彌榮を祈念します。



やすらけき世を祈りしもいまだならず
               くやしくもあるか きざしみゆれど
 
 
昭和六十三年に、「全國戦没者追悼式八月十五日」と題されて詠ませられた畏くも、昭和天皇陛下の大御歌(おおみうた)です。
陛下最晩年の大御歌であり、公に発表された大御歌でこの後に詠まれた御歌は二首のみです。
畏くも、昭和天皇陛下のお嘆きの深さを痛感致します。
ご病状も進み、那須の御用邸でご療養中であられたにもかかはらず、八月十五日の『全國戦没者追悼式』にヘリコプターで移動あそばされ、御親覧あそばされたのであります。
畏くも、昭和天皇陛下はそれほどまでに戦没者に対する慰霊と感謝の思いをお持ちになっておられたのであります。有難き限りであります。
畏くも、昭和天皇陛下はこの2年前に、
 
 
この年のこの日にもまた靖國の
               みやしろのことにうれひはふかし
 
 
と詠まれあそばされ、必死の力をふりしぼり全國戦没者追悼式の壇上にのぼられたのであられました。
六十三年間もご在位になり、この全く異例の恐れ多い最後の國事に対しての御製になったことは臣下として全く申しわけなく思います。
日本画家であり『「日本の神話」伝承館』館長、『「日本神話の心」伝承の会』会長を努められ平成二十二年に辞世された出雲井晶さんは、「『やすらけき…』を拝誦しますとき、申しわけなさに身のちぢむ思いがするのは私だけではないでしょう。…國民みなが思し召しを自分の問題としてとらえ、無私の大御心をみならおうと努めるとき、現今の様々な危機的状況は次第に消えましょう。
わが國の本当の姿である『明き清き誠の心』がみなにあらわれ、わが國は新しくよみがえりましょう。天上にいます昭和天皇にご安堵いただける日のくることを祈らずにはおられません。」(『昭和天皇』)と書かれています。
 
大東亜戦争終戦後、先帝陛下はマッカーサーは戦後、11回にわたり会談あそばされた。
しかし、マッカーサーが解任されたとき先帝陛下はアメリカ大使館を訪問あそばされ、別れの挨拶をされました。
しかし、マッカーサー離日の日、GHQからの要請にもかかわらず、先帝陛下は見送りにいかず侍従長遣わされたのみでした。
昭和39年マッカーサーは84歳で死去し、バージニア州のノーフォークにはマッカーサー記念館が建設されました。
昭和50年、先帝陛下は訪米されました。このときマッカーサー記念館から記念館来訪と墓参の要請がきましたが、先帝陛下はこれを断りあそばされた。マッカーサーの未亡人から改めての要請の手紙がきましたが宮内庁はこれを拒みました。
  訪米あそばされた先帝陛下はワシントンの歓迎行事を前にウイリアムバーグで2日間の休養をとられましたが、この町からマッカーサー記念館まで車でわずか40分の距離にありました。それでも先帝陛下は記念館には出御あそばされませんでした。
GHQは民主主義を米国が日本に持ち込んだと盛んに刷込みました。
現在でもマッカーサー信者がわが国にも存在します。
しかし、訪米を前に外国人記者団に昭和天皇陛下は次のように叡慮を述べられています。
 
記者「戦後の日本の民主化、皇室自体の変化、婦人や労働組合の変化など具体的な問題をどう考えられますか」 
陛下「そのような動きを変化と呼べるかもしれません。しかし、日本の民主主義の基盤は、明治時代の初期にさかのぼるものです。わが国の旧憲法は明治天皇の『五箇条の御誓文』に基づいていました。私はこの五箇条が日本の民主主義の基盤であったと信じています」
 
明らかにマッカーサー及び、米国の悪意ある占領政策を否定された先帝陛下。
國父の大御心、臣民知らず、最も恥ずべきことであります。
國家のことに一身に背負われるのは、行政の長、内閣総理大臣でも、政治家でもありません。肇國以来、天皇陛下ただお一人なのです。
 
先帝陛下の御製、
やすらけき世を祈りしもいまだならず
               くやしくもあるか きざしみゆれど


心ある臣民の皆様には、今一度熟考いただきたい。


【皇室】 昭和59 [1984年] 春の皇居




『 降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ 』




終戦の翌年詠まれた先帝陛下の大御歌(おおみうた)です。
深い雪に覆われても時が来れば青々と茂る松の木を 雄々しき日本人に例え、今の苦しみを耐えて再び隆盛とならんと鼓舞されたもので、同時に日本人が日本人らしさを失わぬようにと願われたのです。

畏くも今上陛下におかれましても、先帝陛下と大御心は同じであられます。

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された靖国神社。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
靖国神社には現在、幕末の嘉永6年以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。
消防殉職者五千六百五十四柱、自衛隊殉職者千七百七十七柱(平成18年現在)殉職警官、千六百八十五柱(平成18年現在)彼らは皆、祖国、国民を信じ、悔いなく亡くなられた。
自己の命を捧げて悔いなきものをもつことこそ、悲しいことですが、生の最高の充実です。
多くの方々は「後は頼む」と残され亡くなられた。
はたして、残った我々は、「後は頼む」との約束を守っているでしょうか?
先帝陛下は決死の覚悟で国民を救われた。

『 降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ 』

祖霊(それい)御霊となられた、多くの先人・先達は望まれているのではないでしょうか・・・


天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)

日章旗を掲げる街

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岐阜県 中津川市 中津川在住 武川 典靖氏撮影 平成29年天皇誕生日



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岐阜県 中津川市 中津川在住 武川 典靖氏撮影  平成30年お正月



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大阪府東大阪市松原



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東京都千代田区 四ツ谷駅前から、半蔵門交差点までの約1.3キロ。
千代田区地域振興部安全生活課によると、周辺住民から「新年のお祝いをしたい」と要請され、国旗が掲げられるようになったとのこと。ここ数年続けられているとのこと。


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熊本県菊池郡菊陽町 鉄砲小路





秋田県大仙市協和、唐松神社(物部神社)周辺。





宮崎県北諸県郡三股町



すめらぎいやさか。
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。

民族が大移動するお正月休みも終わりお仕事に復帰された方々も多いと存じます。昭和のお正月にあって平成のお正月にないもの。それは国旗掲揚です。
お正月早々無知なる芸能人の愛国心なき言動が話題になりましたが、日本人の99パーセントの方々は祖国を愛する方々ばかりです。
国旗を掲げることは愛国心を涵養し、アイデンティティを示すことです。万世一系の皇室の御稜威と、先人の労苦によって今日の繁栄を享受している日本人。
日本という国が存在してこそ今日の豊かな生活があるのです。


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わが国のけじめ

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すめらぎいやさか。
新年あけましておめでとうございます。
昨年は多くの方々のご来訪いただきありがとうございました。
本年も幾久しくよろしくお願いいたします。

冒頭の画像は未曾有の経済繁栄を誇っていた大阪万博の年に決死の覚悟で「檄」を発っせられた国士、三島由紀夫氏の画像です。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」。

「果たし得ていない約束−私の中の二十五年」と題されたその記事は、昭和45年7月7日、サンケイ新聞夕刊に、三島由紀夫氏の記事が掲載された。この記事の発表から四ヶ月余り後、三島氏は自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)で決起を促す訴えの後、割腹するという壮絶な最期を遂げました。
当時の世間は、3月にはじまった大阪万博の豊かさに酔いしれていました。
多くの人々が空気のように豊かさをむさぼり享受している傍らで、三島由紀夫氏は絶句していたのです。
また三島由紀夫氏と親交のあった俳優、鶴田浩二氏も当時の世情を憂い、

 「私の飲む酒の味は苦い。だからつい、ガブ飲みになり、3日酔い、4日酔いということになる。私には今の日本の見せかけの平和が気にいらないんだ。純粋に国のために戦って死んでいった人達の骨が、まだ海の底に、南方各地に散らばっているというのに、もう戦後は終わったとばかりぬくぬくしている連中に腹が立つ。万博の、オリンピックのとお祭り騒ぎをする前に、何でその金の何百分の一でも遺骨収集に使ってくれないのか。一映画俳優の私だが、そのために微力をつくしたい。私が決して好きでないリサイタルなどをやったのも、そのためなのです」と三島氏の死後、昭和46年に語っています。
真の姿の鶴田氏は黙々と働き、巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、日本遺族会にも莫大な寄付金をした。この活動が政府を動かし、ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなったのです。生涯を通じて、亡き戦没者への熱い思いを貫き通しました。
三島氏や鶴田氏の他にも豊かさを謳歌する当時の世相を否定する方々は多く存在したはずです。もちろん大東亜戦争を戦った方々です。
三島氏の自決からもうすぐ半世紀を迎えようとしています。
一部の日本は三島氏が予見したとおり、いやそれ以上の加速を増し、『日本』は亡国へ向かっています。
外交面では覇権国家「支那」の膨張になんら大きな効果がないまま時が過ぎ、主権国家としての矜持すら感じられない北朝鮮による拉致被害者奪還にむけての停滞感。
教育においても改革の二文字は躍るのみで何ら精華を発揮せず、「いじめ問題」は大きくなるばかり。生徒、児童の学力は低下の一途をたどり、教育現場の崩壊すら叫ばれている。
これらに歩調をあわせるかのように市場原理の跋扈のもと、弱肉強食の世間になりつつあり、かって終身雇用を誇った日本商店の精華さえも崩壊し、日本国じたいが不安定になっています。

世界一を誇った「治安」も失われ、働かない若者が増え、犯罪の低年齢化が進み、金銭にからむ不正が官界、財界、国民一般の道徳も地におちたと筆者は感じます。
これら問題の根幹は政治家、官僚だけの問題、財界人の見識不足だけにとどまらず、学校教師、家庭教育の力量不足も要因している。
体に例えるならば手足が痛い歯が痛いなどの局所的なものではなく全身が悪しき細胞に冒された全身症状といえる。国家の体質は国民ひとりひとりの体質の集積であり、国家の品格は国民ひとりひとりの人格形成の集大成といえましょう。
この国家的危機、堕落の本質は教育に要因しています。
「ゆとり教育」「人権教育」「個を尊重」「国際人を育てる」「生きる力を育む」「指導ではなく支援」あらゆる処方箋が唱和され、投薬されてきましたが一向に回復に向かう兆候すらなく、いたずらに秋を刻んでいるのみです。

教育を立て直す以外に我が邦が再生する道はありません。
七十年かかって歪んだ教育の再生は十年、五十年、百年の長い時間を必要とします。
まずは言語の乱れを正すことが教育再生の一歩といえるのではないでしょうか?言語の乱れは社会の乱れともいいます。
一時英語を「第二の公用語」にするという話題がありましたが、筆者にはまったく理解できません。フランスの憲法ではフランス語が国語であると定められています。我が邦の憲法に「日本語が国語」であるという条文はありません。
「日本語が国語」であるという条文がないのは、日本が日本語を国語として定める必要がないのは「日本人なら日本語があたりまえ」と筆者を含め多くの日本人が感じていることでしょう。これらは我が邦が言葉を奪われた歴史がないからです。一定期間その民族の言語と歴史を奪えばその民族は滅びます。
大東亜戦争後、我が邦は米国によって占領された期間がありましたが、寛大なアメリカは日本語を奪い、英語を押しつけようとはしませんでした。幸運だったとしかいえません。占領したのがソ連(ロシア)支那だったら確実に言語と歴史は奪われていたことでしょう。それほど言語と歴史は大切なものなのです。
昨今はマスコミによる日本語の変革がなされています。昭和の時代になかった外来語が溢れ、エリートぶった浅はかな人々によって日本語は歪められています。








小学校から英語を教えることは日本を滅ぼすもっとも確実な方法


数学者で「国家の品格」「祖国とは国語」の著者、藤原正彦氏は十年前に主張されました。
当時全国の駅前に英会話教室が現れ、巷に英会話の教材が溢れていました。
しかし、駅前留学の英会話が多くの人々に賛同を得られたでしょうか?
大学生の学力低下、とりわけ国語力劣ると言われて久しいのですが、その原因は小学校からの初等教育のあり方にあると思います。初等教育では徹底して基礎学力をつけなければなりません。
基礎学力とは「読み・書き・ソロバン」=国語・算数を言います。
これは江戸時代の寺子屋教育の時代に当時の先生らが喝破しています。
藤原正彦氏は、「1に国語、2に国語、3,4がなくて5に算数」だそうです。自分の母国語、つまり日本人なら日本語の能力がすべての基礎になります。日本語のできない人間に外国語ができるはずがありません。こんな簡単な理屈が分からないのは戦後の日本の学者や役人の異常さとしか言いようがないと言われています。
戦後文部官僚が施した政策に見るべきものがあったでしょうか?

「戦前教育は国語教育重視」
戦前の時間割では、国語が小学校四年生までの総授業時間の約半数を占めており、国際的に見ても傑出していました。
現在見られるような「教科の平等」ではなく、あくまでも国語重視でした。
その理由は、母国語こそが全ての知的活動の基盤であり、表現だけでなく思考そのものが国語を通じて行なわれる。国語力なくして算数も理解できないとの基準でした。

言葉は人間のすべてといっても過言ではありません。
言葉を身につけるのは、小学校間が最も適していたからです。国語による読書を通じ、情緒や道徳を学ぶことができ、古典・詩歌を読むことで、感情、情緒が養われ、家族愛・郷土愛・祖国愛・人類愛が養われていったのです。
過去、現在においても、「言語を一定期間奪われると民族は亡びる」と言われています。なぜなら、民族としての情緒、道徳、文化、伝統の中核に母国語があるからです。
これは、世界の歴史が証明しています。
戦前世代の方々の国語力はここから生まれています。
誇りある文化を失いつつある日本、荒れ果てた民心、青少年の著しい学力低下、といった現状を考える時、小学校国語の質と量にわたる飛躍的充実は、日本再生のための不可欠な第一歩です。
 
藤原氏の著書「国家の品格」で英語教育について次のように述べられています。
そもそも小学校で英語を23時間勉強しても何の足しにもなりません。きちんとした教師の下、週に10時間も勉強すれば少しは上達しますが、そんなことをしたら英語より遥かに重要な国語や算数がおろそかになります。そのような教育を中高でも続ければ、英語の実力がアメリカ人の5割、日本語の実力が日本人の5割という人間になります。このような人間は、アメリカでも日本でも使い物になりません。
 少なくとも1つの言語で10割の力がないと、人間としてのまともな思考ができません。言語と思考はほとんど同じものだからです。日本の公立小学校は一人前の日本人を作る教育機関ですから、英語はダメなのです。

付け足す言葉もいりません。
しかし、我々の思惑、願望をよそに亡国の教育は今日も続いているのです。
「米百俵の精神」はどこへ・・・

天皇彌榮(すめらぎいやさか)
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明治神宮



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明治大帝、昭憲皇太后 ご真影


すめらぎいやさか。
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。

正月も三日目を迎え多くの方々が、神社仏閣に詣でられたことと存じます。
冒頭の画像は明治神宮の鳥居、明治神宮のご祭神であられる明治大帝、昭憲皇太后さまです。初詣は例年日本一の参拝者数を集める神社としても知られます。鬱蒼と茂った緑したたる常磐の森は、神宮御鎮座にあたり、全国から献木されたおよそ10万本を植栽した人工林です。面積は70万平方メートル、豊かな森に成長し、東京都民のみならず日本国民の心のふるさと、憩いの場所として親しまれています。
明治45年7月30日に明治大帝、大正3年4月11日には昭憲皇太后が崩御になりましたが、両陛下を慕う国民から御神霊をお祀りして、御聖徳を永遠に敬い、お慕いしたいとの熱い願いが沸き上がり、大正9年11月1日(1920年)に両御祭神と特にゆかりの深い、代々木の地に御鎮座となりました。
皆様もご存じのように本年は明治の御一新より百五十年を迎えます。
明治大帝の時世は四十五年でしたが、わが国を見事に近代国家へと仕立てあげられました。明治大帝の御代には今日のわが国と違い、綺羅星の如くに多くの元勲が現れ、その方々たちが明治大帝の大御心を謹んで承り、国民が一丸となって励み、欧米に肩を並べる国になったのです。
昭憲皇太后さまは常に明治大帝のおそばにあられ、偉大な明治大帝の仁愛、慈愛のこころを感得あそばされました。

皇室には代々、施薬(無償で薬を施すこと)救療(無償で治療すること)によって国民を救済する伝統があります。古くは、聖徳太子が難波(大阪)に建立された四天王寺に併設の「施薬院」「療病院」「悲田院」があり、皇太子妃時代の光明皇后が興福寺に施薬院と悲田院と、代々医療のみならず常に民草の生活を案じて慈恵救済を行ってきました。
今日世界最高レベルの医療、福祉の享受は明治大帝、昭憲皇太后さまは深く関わっておられます。
慈恵医大、「恩賜財団(おんしざいだん)済生会」の創設も一例です。

昭憲皇太后基金は、明治45年(1912年)にワシントンにおいて第9回赤十字国際会議が開催された際、昭憲皇太后さまが赤十字の平時事業を奨励する思し召しをもって国際赤十字に10万円(現在の3億5千万円相当)を寄付され、これを基に創設されました。赤十字が戦時の活動を中心としていた時代、今日の開発援助を先取りする本基金の創設は極めて画期的なことでした。
同基金は皇室をはじめとする日本からの寄付金によって成り立っており、運営と配分は昭憲皇太后基金管理合同委員会によって行われ、毎年、昭憲皇太后のご命日にあたる4月11日に基金の利子を財源として配分しています。これまでの配分は158の国と地域に上り、世界中の災害・感染症などに苦しむ人々の救済や福祉の増進、防災、病気の予防などの活動に充てられてきました。その実績は世界で高く評価され、日本の皇室の、時代を先取りした率先的な人道行為に深い敬意と謝意が寄せられています。この利子の配分は昭和19年を除いて絶えたことがありません。世界平和を願い、人類みんなの幸せを願っておられる皇室の昭憲皇太后さまの御心が大戦中も続行され、世界福祉というかたちで続いていたのです。
実はこのような基金は、ほかにもあったのです。旧ドイツ皇帝ウイルヘルム一世皇后によるもの、ロシア皇帝ニコラス二世の母后によるものがありましたが、いずれも運営難に陥り、昭憲皇太后基金が現在、世界唯一の存在なのです。ではなぜ現在も残って利子配分が出来るのでしょうか?
 実は基金が増額されているのです。大正天皇の皇后・貞明皇后や昭和天皇の皇后、香淳皇后、そして日本赤十字の名誉総裁であらせられます現皇后陛下も基金を下賜、増額されているのです。明治神宮崇敬会会員の寄付や、外務省、それに基金の趣旨に共鳴して下さる個人等の寄付で現在においても増額されつづけています。昭憲皇太后さまはこの世にあって一切の報いを求めずに無私の愛をそそいだ女性です。女神といっても過言ではありません。昭憲皇太后さま崩御より百四年の秋がめぐりましたが、昭憲皇太后さまの博愛、仁愛のこころは世界を潤し続けられています。わが国の子供たちが自分の国の明治大帝の皇后さまが後世に遺された博愛、福祉のことを知れば、誇りを感じ、教育になると思うのは筆者だけでしょうか?

参考文献:明治神宮HP、日本赤十字社HP、出雲井晶「明治天皇とその時代」
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