最近、NHK大河ドラマで「龍馬伝」が放映され、現在のところ攘夷の話題のまっただなかですが、私の好きな中国の政治家に屈原(くつげん)も愛国の士として名を残しています。 屈原(くつげん)は中国の戦国時代・・今から約2300年前の政治家であり、「楚辞」の中でも代表とされる『離騒』は後世の愛国の士から愛された詩人でもあります。 屈原(くつげん)の生きた時代は群雄が割拠し、なかでも後に中国全土を初めて統一した秦が力をつけ覇道に突き進む頃です。楚の国でも秦の傘下に入り国の安泰を図る派閥と他の国と連合で秦に対抗しようとする派閥が楚のなかで争っていました。 屈原は王族ゆかりの名家に生まれ抜群の政治センスを発揮し、王の信任も厚く左徒の地位まで上り詰め、連衡派の代表格でしたが、屈原の政治能力は当時の楚では群を抜いていたが非常に剛直な性格のために同僚から嫉妬されて讒言を受け、王の傍から遠ざけられ同時に国内世論は親秦派に傾き、必死で秦は信用できないと説いたが、屈原の心配どおり秦の謀略家張儀の罠に懐王が引っかかり、楚軍は大敗。 再び要職に復帰したが、親秦派の公子子蘭が台頭し、子蘭の勧めで秦に行った懐王が捕えられ、その後亡くなった。 王を捕らえられた楚では頃襄王を立てたが、頃襄王の令尹(丞相)に屈原が嫌いぬいた子蘭がなったために屈原は中央政界から再び追われて、江南に左遷された。その後、秦により楚の首都郢が陥落した事で楚の将来に絶望・悲観して、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺し波乱の人生に幕を引いた 。 後に「入水した憂国の士屈原を助けようと民衆が先を争って船を出した」 故事が由来で、伝統的な競艇競技であるドラゴンボート(龍船)ペーロンとなり、入水した屈原の無念を鎮める為、また、亡骸を魚が食らわないよう魚のえさとしても人々が笹の葉に米の飯を入れて川に投げ込むようになったと言われ、これがちまきの由来となります。 また命日の5月5日(旧暦)の供養が中国全土に広がり国と人民に尽くした屈原の政策は、死んだ後もいっそう人々に惜しまれ、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れて国の安泰を祈願する風習に変わって行き、やがてその風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となり端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わって行きました。
日本では宮中の行事でしたが、やがて武家の行事となり江戸時代に男子の行事となりました。 |

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