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陸軍兵長 池田 伝吉 命
昭和十九年十月十二日
ビルマ・サンドウェイ国境にて戦死
香川県大川郡引田町出身 三十一歳
お国の為にお召にあづかる自分としてこの上もない喜び、男子の本懐となすところなり。自分が出征後親類一同に相談をして子供の安定をはかり、家計の事はきまりよくして、世間の人に対してご迷惑にならぬ様にしなさい。
私が武運拙く戦死した時には、軍人の妻として心を落付けてなさけないふるまひせない様に頼む。自分は三人の子供の事が気がかりになるので随分によく気をつけてやつてくれ。お前も無理しない様に身体に気をつけて子供と一緒に末永く安楽に暮らしてくれ。
頼りない遺言であるが、これ以上は書けない。
では呉々も子供の事を頼む。
右遺言す。 伝吉
妻 ハスヲへ
昭和四十八年十月靖國神社社頭掲示
陸軍伍長 広島 鶴雄 命
昭和十六年十二月八日
マレー・ケランタンサバクにて戦死
熊本県天草郡登立町出身 二十二歳
拝啓などと書くのも何とやら、相変わらず霜雨にもかかはらず、お元気にてお働きの事と思ひます。―入隊以来、最早一年、何もわからなかった私でしたが、今ではどうやら、一軍人らしくなり、今度いよゝ本当の戦場らしい檜舞台に臨むに当り、もとより生還は期し難き覚悟ではありますが、いざ死すといふ事になれば、やはり皆様の懐が恋しくなつてまゐります。
想い出しますに、鶴雄が六才の時より、入隊まで本当の父以上に可愛がつて下さいまして、ただ感謝に堪えません。―鶴雄亡き後は母の事をよろしく頼みます。母も年老いて頼るべき者はなく、哀れな者と思います。くれぐれもよろしくお願ひします。―東洋平和の礎となる帝国の人柱、残る心はただ母の事のみです。ただ信じてゐる父上に頼んで安心して死んで行きます。―南国の花と散る鶴雄の最後の便りです。
さうして来春は楽しく桜花の下、靖國神社でお逢ひしませう。
では皆様元気で、さやうなら。永久に。
昭和五十一年四月靖國神社
陸軍中尉 木本 修 命
歩兵第百十四聯隊
昭和十七年二月十一日
シンガポール島ブテキマにて戦死
山口県豊北町出身 二十三歳
吾、人身を享けてより二十三年。
君恩、親の恩、師恩、万物の恩を一身に受け、一として返すを知らず。唯、帝國軍人として國民最大の誇りを持ち、微力を尽くし得たるは、無上の光栄、本懐なり。あゝ吾が喜び何に比すべき。然れども報恩の一をも算じ得ざるを強く深く痛む。
時は刻一刻として移る。人の良心は即ち神にして永劫の時間に没入し人の死は一点も残さず。吾が身窮むるとも吾が心永遠に君國に尽さん。
大元帥陛下の御為、祖國のために、一身一家を捧げ、私を捨てて公に就かれんことを祈る。隊長殿、部下諸氏、祖父、父母、姉上、恩師、大変お世話になりました。弟妹よ、何の役にも立たず兄たるの資格なきを心から詫びる。何一つ心配なかりし吾生涯を喜ぶと共に、一億國民の一層私心を捨てて共々に生き、國家の弥栄に貢献されんことを祈る。
以上、吾が生涯の信念と御礼を記す。
昭和五十四年六月靖國神社社頭
陸軍伍長 金山 利美 命
昭和二十年七月二十八日
ビルマにて戦死
島根県出身 二十八歳
父上、母上、病気になつたでは心配を掛け、学校に入つたら入つたで心配を掛け、文学をやるといつては心配を掛け、随分我慢をして長い間御世話になりましたが、いよいよ征途に上ることになりました。
薄志弱行何もなすことの出来なかつた不肖の子の本懐であらうかと思ひます。これを開封された時は、僕の人生も終わつてゐるのです。
遺言を書き残すやうにと言はれてゐるのですが、行に臨んでは、最早、言ふ可きこともありません。どうぞ呉々も御身御大切に御暮し下さいますやう。
弟よ、お前については、お前の二世が一日も早く出来るやうに祈つて一足先きに征途に上る。お前も軍人だ。来る可き日を期して仲良く暮してくれ。
義妹よ、あなたについては、殆ど親しむ機会もなく征くことになつたが、どうぞ万事のことを宜しくお願ひ致します。
父上、母上、弟よ、義妹よ、さらば。
昭和十九年六月十四日
於京城
金山 利美
追伸 僕には婦人関係はありませんから、戦友の忠告により後顧なきやう此処に認め置きます。
昭和五十九年七月靖國神社社頭掲示
陸軍中尉 三木 清 命
昭和二十年八月六日
ビルマトングー県にて戦死
兵庫県出身 二十五歳
謹みて
父上様 想えば幼少の頃より慈しみ下されまして誠に有難う御座いました。何もいたさない私の如き者に、斯くも親とは申せ御慈しみ下されし事を重ねて深謝致します。
今、幸にも大東亜の花と歌はれし○○に向ひます。
唯御両親始め妹に何一つとして盡さなかりし身を悲しむのみです。
護りの神として遥に九段の神域に神鎮ると思へば、唯皇恩の厚きに涙流るゝものを洵に感慨にたえません。
幸にして戦死を得ますれば 清よ よく死んでくれたと一言申して戴きますれば 南十字星のもと、私は世界一の幸福者です。
墓は極く小さな物にて可。決して亡き母上より大きくすべきにあらず。
唯此上は御父上様には御体を大切に、長寿を全うせられます様御祈り致して居ます。
母上(注 継母)妹様の御健康を祈りつゝ身も心も清く、笑つて○○に向つて行く事が出来ます。
昭和十八年二月二十三日
清
父上様
昭和五十九年十月靖國神社社頭
陸軍憲兵中尉 塩田 源二 命
昭和二十二年十一月二十二日
ビルマ、ラングーンにて殉難死
栃木県出身 二十四歳
突然お知らせせねばならない不幸をお許し下さい。先頃もお知らせ致しましたが、不幸戦争犯罪なるものに問はれました。そして先頃裁判があり、その結果、思ひがけず絞首刑の宣告を受けました。私は自分の行った行動に対しては、何等の後悔も持つて居りません。
私は断じて愧づべき行動をとつて居りません。私は甘んじて、否満足して、この大東亜我々民族の礎石として死んで行きます。
私として心残りは私の最後をお知りになつて、お悲歎遊ばされるのではないかと思ふことです。何卒はかない運命の私と思ひなされて、あきらめ下さる様お願ひ申上げます。
私は身はたとへ南の地に果てても私の魂は皆様のお傍近く必ず行きます。そして皆様のお幸福の為にお守りする積りです。
昭和二十二年十月十日
蘭貢監獄にて
源二拝
父上様
母上様
遺書をよむ父母の心を思ふとき
はるかに居ます方ぞをろがむ
昭和六十一年十一月靖國神社社
陸軍中尉 室木 能之 命
昭和二十年五月十四日
ビルマ・レバタン東方にて戦死
石川県出身 二十三歳
母上様
幼きより私と苦楽を共にせられたる御恩靖國の御社より永遠に御慕ひ申上げます。
私の一死にて御心身相乱さるる事なく銃後の一婦とし邁進せられん事を御祈り致します。
最後に幸子を御願ひ申し上ぐる我が儘を御許し下さいませ。
遥かに御身体の健かならん事を併せて御祈り致します。
有難うございました。
能之
母上様
昭和十九年七月十三日
幸子様
兄は大忠孝に死す。
唯幸子の立派な一皇国女性にならん事のみ靖國の御社より御祈りします。
御父上様御母上様の御教へ通り最後迄正しく進まん事を祈ります。
幸子は常に兄が加護しあり苦しい時は兄を思へ。
「死は苦よりも楽」とは武人たる兄の心なり。
死を超越し苦を乗り切り皇国の一女性として立派に生きられよ。
能之
幸子様
昭和十九年七月十三日
平成二年九月靖國神社社頭掲示
陸軍憲兵准尉 住本 茂 命
昭和二十三年四月二十日
サイゴンにて殉難死
兵庫県出身 三十六歳
伝 言
皆様ノ御厚意ニハ感謝ノ辞ガアリマセン。
私ハ今年二月死刑ノ判決ヲ受ケマシタ。
爾来既ニ今日アルノ覚悟ハ十分ニ出来テ居リマス。今更何モ驚クコトハアリマセン又申スコトモアリマセン。常々乏シキ中カラ色々ノ差入ヤ御配慮ニ感謝シテ居リマス。幸道司令官以下「キャンプ」ノ方々ニ住本ハ幾重ニモ感謝ノ意ヲ表シテ刑ニ服シタト言フコトヲ御伝ヘ下サイ。
最後ニ、子供丈ケハ御國ニ役立ツ立派ナ人間ニ育テル様申伝ヘテ下サイ。只ソレ丈御願シマス。
最後ノ言葉「刑場ニテ」
大楠公精神ヲ継承シ七度生レ代ッテ誓ッテ皇國ニ報ゼン。
日出ズル國日ノ本ニ生ヲ享ケタル大丈夫ガ今旭日ヲ浴ビツツ従容トシテ國ニ殉ズ、男子ノ本懐之ニ過グルモノナシ。(國歌奉唱二回)
皇國ノ彌栄ト皇國ノ隆盛ヲ祈ル。
天皇陛下万歳(三唱)
此レデ終リマス。サア、ヤッテ下サイ。
(「射て」の意)
平成三年六月靖國神社社頭掲示
陸軍上等兵 迫 末一 命
昭和十九年四月十五日
印度アッサム州チエザミにて戦死
奈良県出身 三十二歳
正一ハ父ノ顔ヲ知ラナイダラウ。生レテヨリ十一ケ月ダカラネ。母ノ手ニダカレテ、ヨクナイタモノダヨ。父ナキアトハ母ノ言フ事ヲヨクキイテ、リッパナ人ニナレ。
オヂイサンヤ、オバアサンノイフコトハ、ヨクキイテスナホナ子供ニナルコト。カラダヲタイセツニシテ、母ニシンパイヲ、カケナイコト。センゾヲシッカリトマモリ、リッパナ日本人ニナレ。職業ハナンデモヨイカラ、スキナヨウニセヨ。ナンデモジシンヲモッテセナクバイケナイ。ソレカラ土ヤ原ノオヂイサンヤ、オバアサンノ、ハカマヰリニモ度々行クコト。
親孝行ヲセヨ。
正 一 殿
昭和十八年十月四日
父ヨリ
平成四年九月靖國神社社頭掲示
陸軍伍長 小泉 博美 命
独立自動車百一大隊
昭和十九年三月二十七日
ビルマカレワ県にて戦死
神奈川県出身 二十五歳
先日は大量の絵葉書を皆さんして誠に有難う御座いました。絵葉書の一つ一つがとても巧妙にすてきにそして奇麗に出来て居るのでびっくりしました。兄ちゃん一人ぢゃないんだよ。戦友も班長さんも皆なの。御礼の御葉書を書かうと思ったのですけれど住所が分からないので出すわけにもゆかずちょっと困ってしまひました。そして最後に優秀な敬子ちゃんから級友の皆さんに御礼を云って戴かうということにしました。
戦地でもお正月になれば密柑や南京豆もあるしバナゝやお菓子も沢山あります。然し何処をさがしても皆さんの書いた美しい絵葉書や又は素的なお写真は一つもありません。兄ちゃんは遠いビルマの戦地から皆さんに厚くゝ感謝して居ります。
― 謹みて御霊に捧ぐ ―
御佛の 生れし國なる 印度をば
救はむ聖戦に 君神になりぬ
高津高等学校 札場眞一(妹の恩師)
平成十七年十二月靖國神社社頭掲示
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2010年05月12日
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日本史上、親しみを込めて「さん」づけで呼ばれる英雄は多くはありません。
その一人が西郷隆盛です。
もうひとりは明治から昭和の三十年代頃まで「さん」づけされていたのが乃木希典です。
明治から国民が真に愛したのは伊藤博文でも坂本龍馬でもなく、西郷さんであり、乃木さんでした。
最近でも西郷さんは国民に敬愛されておりますが、乃木さんはあまり評価されていません。
これは司馬遼太郎の「坂の上の雲」で乃木大将の無能さが強調され、戦下手な指揮官とされてしまった影響もあるのでしょう。
しかし、先日私は東京の乃木神社の前でこういう光景を目にしました。
歩道を歩いていた年配の男性が神社の前で神社の鳥居に向きを変え、かぶっていた帽子を取り、
直立不動となり、深々と頭を下げて一礼し、それから通りすぎて行きました。
これが何を意味するのかはわかろうというものです。
・・・・・・
明治十年、西南戦争で西郷隆盛を首領とする薩摩軍が熊本城を包囲しました。
乃木は主力を率いて小倉を出陣し、夜行軍で熊本城の植木で薩摩軍と遭遇しました。
戦闘は凄まじい白兵戦となり、乃木は一時撤退を決意しました。
その時、天皇陛下から授かった大切な連隊旗を敵に奪われてしまったのです。
陛下への忠義を自分の支えとしようとしてきた乃木にとって、
軍旗喪失という軍人にあってはならない失態を犯したことは乃木の心に重くのしかかりました。
乃木は恥辱のあまり、自分から死地に何度も入り、
あえて薩摩軍の正面に立ち敵弾にあたって死のうとしました。
この乃木の異常な行動はやがて明治天皇の耳にも達しました。
すると明治天皇は「乃木を殺してはならん」と前線指揮官の職からわざとはずすように命じられました。
明治天皇は乃木の責任感の強さに対して深く人間としての信頼の念を寄せられたのでしょう。
明治という時代に我々日本人が一番大切にすべき日本人の心が光り輝いた瞬間ではないでしょうか。
それは、陛下の軍旗を喪失した恥辱の臣に対して、明治天皇は乃木のまごころを知り、
親が子を抱きしめるように許されたのです。
そして、国民がこれを知って共感することによって、
己を虚しくしても大義に殉じる明治の精神が確立したように思えます。
後年、乃木は明治天皇の後を追って殉死を遂げる際、
この軍旗喪失への謝罪を遺言の第一に挙げておりました。
・・・・・・
明治二十七年、日清戦争が勃発すると乃木は歩兵第一旅団を率いて出陣。
乃木の属する第二軍第一師団は堡塁と砲台に守られた旅順要塞をわずか一日で攻略。
蓋平の戦いでは桂太郎指揮する第一軍隷下の第三師団を包囲する清国軍を撃破するなど
目覚しい活躍を遂げ名将振りを世界に示しました。
乃木は「将軍の右に出る者なし」という賛辞を受けて凱旋帰国しました。
その後、台湾総督に就任した後、帰国し、新設の第十一師団長に任じられます。
乃木はこの新設の師団の将兵を厳しく鍛えると同時に、深い慈愛をもって接したので
多くの将兵から信頼を得ていました。
真夏の炎天下、師団の工兵隊が橋を架ける訓練をしていた日のことです。
気づくと乃木が一人で対岸の河原に立ちこちらを見つめています。
やがて正午になり、兵士達が弁当を食べると、乃木も握り飯を頬張り、
兵士が河原に寝転んで休息をとれば、乃木もそうしました。
作業再開後、乃木は再び午前と同じ河原に立ち、夕方作業が終わるまでその場を立ち去りませんでした。最初は監視されていると思って緊張していた兵士達も、乃木が自分達とあえて困苦をともにしようとしているのだと気づき、感激しない者はなかったといいます。
この第十一師団こそ、のちの日露戦争の旅順戦において
乃木司令官の下で勇猛果敢に戦った師団の一つです。
「わが身は常に兵士とともにある」
乃木の指揮官としての姿は日本人が最も愛する名将の姿そのものであったといえます。
・・・・・・
日露戦争で難攻不落の旅順を落とした乃木が「日露戦争の英雄」として
長野師範学校で講演を求められた時のことです。
乃木は演壇には登らず、その場に立ったまま、
「私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」とひとこと言って絶句し、
止めどもなく流れる涙を延々と流したのです。
これを見た生徒と教師らも、ともに涙を流し、慟哭したといいます。
自身の息子も二人とも戦争で亡くしていましたが、それは一切触れず、
少しも己の功を誇ることなく、多くの将兵を死なせた責任を痛感して慟哭する乃木の姿に
人々は感動したのです。
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海上保安の日
1948年(昭和23年)のこの日、海上保安庁が設置されたのを記念して設けられた日。「開庁記念日」が2000年(平成12年)より「海上保安の日」と改められた。広く国民の海上保安庁に対する理解及び信頼を深めるために定められたもの。
看護の日
看護する心、ケアの心を広く知ってもらおうと、厚生省(現在の厚生労働省)と日本看護協会などがが1991年(平成3年)に制定した。国際看護婦協会(ICN)でも、この日を「国際看護婦デー」としている。12日を含む週の日曜日から土曜日までが「看護週間」となっている。
ナイチンゲール・デー
赤十字の母と呼ばれるイギリスの看護婦、フローレンス・ナイチンゲールがイタリアのフィレンツェで1820年の今日、誕生したことを記念する日。赤十字ではこの日に、ナイチンゲール精神を範とする看護婦にナイチンゲール記章を授与している。
民生委員・児童委員の日
全国民生委員児童委員連合会が1977(昭和52)年に制定。1917(大正6)年、民生委員・児童委員制度の前身とされる岡山県の済世顧問制度が発足した。民生委員とは福祉の増進の為に、地域住民の生活状況の把握、生活困窮者の保護指導、福祉事務所が行う業務への協力等を行う人のことで、厚生労働大臣の委嘱により市町村に置かれる。また「児童福祉法」により児童委員を兼務することとなっている。
パンの日
パン食普及協議会が1983(昭和58)年3月に制定。 1842(天保13)年4月12日に伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が軍用携帯食糧として乾パンを焼いたのが、日本初のパンと言われています。この日を記念して毎月12日をパンの日としています。
アセロラの日
1999年(平成11年)に沖縄県本部町(もとぶちょう)が制定。アセロラの初収穫の時期。アセロラは西インド諸島原産の果物で、ビタミンCを豊富に含んでいる。
袋物の日
1993年(平成5年)に日本袋物協会が制定。「ハンドバッグの日」ともいう。
ホームソーイングの日
日本ホームソーイング振興会によって制定。
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政府は10日、中国からの観光客を増やすため、年収25万元(約350万円)以上の富裕層に限定していた個人観光ビザの発給要件を7月1日から緩和し、中間層まで拡大する方針を固めた。ビザの申請窓口も現在の3カ所から7カ所に拡大するほか、申請を取り次ぐ旅行会社も増やす。 7月からは、大手クレジットカード会社が発行する「ゴールドカード」を所持していることや会社の役職、収入などを総合的に判断して発給を決める。同カードの所有者はおおむね年収6万元以上(約85万円)となっている。世帯主本人が条件を満たせば、2親等以内の家族にも発給できるようにする。(5月10日 時事通信)より一部抜粋 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100510-00000107-jij-pol
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