|
命日に大久保利通翁を偲ぶ
132年前の今日、西郷隆盛・木戸孝允とならび明治維新三傑といわれた大久保利通の命日にあたります。
同じ薩摩(鹿児島県)出身でありながら、大久保翁は西郷翁と比較しても人気がありません。
未だに日本人は「西郷さん」なのである。
何故、明治の初頭に西郷翁とともにあれだけの偉業・改革を成し遂げながら、人気がないのでしょうか?
特に私の周囲の鹿児島出身の方々に聞いても大久保翁は全く人気がなく「西郷さん」「島津の殿」なのです。
それは、やはり西郷翁との袂を分けたことが最大の要因であると思います。
大久保翁と西郷翁は親友であり、王政復古までの間、右往左往時しながら時には命がけの歩みでした。戊辰戦争後は西郷翁の力を借りながら、版籍奉還・廃藩置県・東京遷都と今日の礎となる改革をおこなう傍ら、新政府への反抗勢力の一掃を強い姿勢で行った。
反乱は不満分子を一掃できると歓迎したといわれ、「佐賀の乱」は大久保翁が画策したものである。
しかし、国内最後の内乱となった西南戦争には自ら反乱軍への説得役を願いたが、政府は大久保翁が殺されるのを危惧し、引きとめている。
西郷翁の死を知った大久保翁は号泣したとされ同時に新しい日本が生まれるとも語ったと言われている。
西郷翁亡き後数々の近代化を推進めていた志半ば、明治11年(1878)5月14日朝、東京の紀尾井坂から赤坂御門に至る北白川宮邸付近の通行人のない閑静な路上で凶刃に倒れました。
享年49歳でした。 その最後は、大久保翁は刺客に「待て」と言い、自らドアを開け路上に降りました。「無礼者っ!」と一喝を残し、前後から刃を受けて倒れました。 襲撃された時利通は西郷翁の手紙を読んでいたということです。
彼らが掲げた暗殺理由(斬奸状)には「薩長藩閥の専制独裁」「法令の乱用による政府官吏の私利私欲」「国費の乱費と憂国の士の排斥」
とありました。
襲撃後、刺客たちは「人を害して我が身のみ逃れることをしない」と自首しました。
彼らの態度は、現代のまったく関係のない人を標的にして殺し、自分は隠れるという殺人と違い「武士道」の心がありました。
殺害された大久保翁も毅然とした態度であったということです。
口数が少ないながらも、他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家であったと当時の人は述べています。
また現代の政治家と違い金銭には潔白で蓄財せず、逆に予算のつかないが必要な公共事業に私財を投じ、国の借金を個人で埋めるような状態だったため、死後は借金が残った。
また貸した方々も大久保翁の人柄に敬意を表し返済を求めなかったそうです。
大久保翁が行なった政治は、独裁政治と呼ばれた。ただし、明治初期の時代に民主的政治など不可能ですし、現代と比較にならない物差しで利通を「権力主義の権化」と決めつけることは、思慮が浅いです。
私見ですが、西郷翁と大久保翁はお互いに役割を担っていたのではないでしょうか?
親友同士が策略をもって貶めたと私は考えたくありませんから・・・
現代の官僚機構の基礎を作り、後世の繁栄を切り拓いた大久保翁に感謝します。
|
過去の投稿日別表示
-
詳細
2010年05月14日
全1ページ
[1]
コメント(7)
|
栃木県とほぼ同じ大きさの島、ガダルカナルは単なる島の名前ではありません。
それは帝国陸軍の墓地の名です。
ここで最強といわれた帝国日本が陸戦においてはじめてアメリカに敗れました。
大東亜戦争において連戦連勝の日本はここから血のページを染めていくことになります。
ミッドウェー海戦で帝国海軍が敗北し、
このガダルカナル島(ガ島)において帝国陸軍の敗北が刻まれました。
これを失って以降、日本は大勢日々に傾くことになり、
まさに日米勝敗の天王山と称すべき6ヶ月にわたる激闘が、ここガ島でありました。
一木支隊、川口支隊、第二師団、第三十八師団の兵力が次々投入され、
その合計は約三万二千名に達しました。
そのうち戦死が一万四千五百五十名、
戦病死が四千三百名、
行方不明が二千三百五十名、の計二万二千名を失い、
残る一万名は廃疾者同様に衰弱したまま、かろうじて帰還するという全滅的敗戦でした。
第八方面軍司令官の今村均中将は、
引き揚げ兵団を直ちにショートランド島に見舞って、驚愕しました。
起立して報告できる将校はほとんどなく、
今村中将の慰労の片言を聞いただけで声を上げて泣き、
これが最強を誇る帝国陸軍の軍人とは信じ難い、
魂の抜けた幽霊と化しているのにびっくりしました。
今村中将は戦場で涙を見せるのは禁じられているため、室外に飛び出して涙をこらえた。
島から撤退してきた1万名も、もはや軍人ではなかった。
陸軍だけがガダルカナル島に墓を掘ったわけではありません。
犠牲の量は海軍も多く、前後6回の海戦がその周囲で戦われ、
戦艦霧島、比叡以下二十四隻、十三万五千トンが失われました。
海軍航空隊の犠牲も多く、ガ島戦六ヵ月で八百九十三機が失われ、
搭乗員の死者は二千三百六十二名にものぼり、
機数の損傷も当時の連合艦隊にとっては耐え難いが、
百戦錬磨の戦士二千三百四名を失ったことは対米空戦を戦ううえに大きな打撃でした。
これこそガ島が陸軍の墓地であるばかりではなく、海軍合わせた共同墓地であったと言われるゆえんです。
島の飛行場の奪還が目的であったガ島。
このジャングルの中に、あるいは草原に、または海辺に、鉄兜を冠ったままの白骨が、
傍らに剣銃を擬して、ルンガ飛行場の方向に向かって横たわっている光景が想像される。
・・・・・・・・・
富士山の麓にて「雨やどり」と称し、半自給自足の生活をしながら様々なボランティア活動を行っている夏井辰徳さん。
この夏井さんがガ島に行くことになったきっかけは思わぬことからでした・・・。
今から数十年前、当時、夏井さんは地雷というものに対し大きな憤りを持っていた頃、
たまたま「朝まで生テレビ」を見ていると、
何!
と思った。
それはテレビの中で議員になる前のピースボートの活動家 辻元清美が、
口角泡を飛ばして自民党議員たちに対して畳み掛けていた。
「あなたたちはガダルカナル島で多くの残砲弾で現地の人たちが今も被害にあっていることを知っているか?」
「私は現地に行ってそれを見てきたんだ。あなた達は現状を知っているのか?」
それに対して絶句するばかりの自民党議員たち。
夏井さんは言われっぱなしの自民党議員たちも情けないが、自分自身もこう思った。
「自分も人の事は言えない。そんな現状が本当にあるのか・・・」
その日のうちに夏井さんは問い質すべく、辻元のピースボートの事務所を訪ねました。
「今朝のテレビを見たが、そのことを聞きに来た」
辻元本人は不在で、辻元と同行した者が出てきました。
夏井さんはその者にテレビでの事実確認をした後、
「ガ島には旧日本軍や連合軍の砲弾が今も取り残され、
それが不意に爆発して現地の人々を殺傷し苦しめているという。
その状況を見て如何されたんですか?」
考えてもいないことを聞かれて相手は驚いた。
「・・・。遺憾に思いますが・・・。 結果、何もしていません」
「遺憾に思うのは、そりゃ当然だ。現地のあの状況を知っていてそのままか?
いえ、本当の歴史というものを誰も教えてくれないのなら自分たちで足を運び、学び、
それを以降どのように生かすかは各々に委ねるということが、この団体の主旨であることは理解しています。では、●●さん、あなた個人としてそうした現状に対しどう思うのですか?何かされたんですか?」
「・・・。」
「一人の日本人として、一人の人間として、どう思われますか?」
「・・・・」
言葉が返ってこなかった。
あの状況を見てそのままか? 遺憾? それで終わりか?
「貴様は日本人として、現地の方々が亡くなっているその状況を知っておきながら・・・遺憾の一言か・・・」
腹に据えかねた夏井さんはすぐに首相官邸、外務省、防衛庁、厚生省のそれぞれにも電話して
「ガ島はこのような状況ですが、知っていましたか? 国として対応はしないのか」
それに対して一様に、
「把握していません。それよりも日本政府としては“戦後処理”は終わっていますから」
何?
“戦後処理”? それは銭金を指す。
現地に遺骨はいまだ帰還せず、残砲弾もそのままで、
現地ではどんどん被害が出ているじゃないか。
お金さえ払えばそれで全てが終わりか、・・・。
ピースボートで既に憤りの火が点いていたところに加え、
こうした日本の役人の対応に、夏井さんの行動に最早、躊躇はありませんでした。
「日本人としての大いなる悲しみと憤り」この一念でした。
国がやらないなら俺がやる!
これが夏井さんがガ島に行くきっかけでした。
・・・・・・
「日本の現状を見向きもせずに、平和だと言って、
自己中心で自分勝手で行き過ぎた個人主義が横行している日本人を憂い、
日本人としての、人間としての誇りを取り戻し、再生すべく、
微力ながらも自らの命を賭けてでも、砲弾処理と遺骨収集を行う」
夏井さんはそう決めた。 決めたら行動あるのみ。
夏井さんは昨年まで計六回、ガダルカナル島に行きました。
そして、今年も(平成22年3月6日)7度目のガ島へ向かいます。行程は1週間。
日蓮宗・身延山大学の講師1名と生徒6名が一緒に行くことになりました。
学長・宮川了篤上人より
「この堕落した宗教界において、命懸けで事を成すということは如何なることか。
それを夏井さん、是非、生徒等に見せて欲しい」
とお願いされてのことでした。
夏井さんは言う。
「基本的には私が残砲弾処理を担当し、その姿を見ながら他メンバーが遺骨収集。
この活動は最大の要である『命と銭はてめぇ持ち』という前提です。
費用は生徒自ら寒行を行い賄いました」
先人達の遺骨収集というと正義感ある行動ですが、言うほど生ぬるいものではない。
残砲弾がいつ爆発するかも知れないところに、全くの素人が行くのです。
「死ぬかも知れない」
この言葉はいつも頭によぎっていたはずです。
まして現地では昨年も9人の方が死傷していました。
更に夏井さんは自身の命の他、7名の命までも背負っているのです。
「御遺骨収集には、先ず御遺骨がどのような場所にあるのかを把握せねばなりません。
英霊となられた方々は祖国日本を思い、最後の最後まで戦う気持ちでいたんです。
だから砲弾がいつでも撃てるように準備されてあるんです。
その砲弾のそばに眠っておられるんです」
僧侶の卵と言われても、現代に生きる日本の若者達にこの覚悟が出来るのか。
この覚悟を決するまでにやはり若者たちは数ヶ月の時間が必要でした。
・・・・・・
そして、いよいよガダルカナル島へ向かった・・・。
現地ガダルカナル島へ到着し、活動拠点となるレレイ村へ入りました。
夏井さんと共に命懸けの活動をサポートしてくれる現地の方々も決まり、
いざ英霊が眠るジャングルへ出発しました。
しかしジャングルの中です。次々に続く悪路。
大雨、強烈な日射、蚊、脱水症状等に苦しみながら、英霊の方々の元へ進みます。
半日で悪路に足を取られた一人の生徒が崖のようなところから10mほど転げ落ち捻挫しました。
これでは数日のジャングルは無理です。
レレイへ戻し、夏井さんたちが戻るまで村で御経を上げることにしました。
山越えが最も難関とされる険しい道。
ここを先輩である旧日本軍は行軍した後、餓死していった「白骨街道」と呼ばれる丸山道です。
次々にメンバーが転げ落ちたり、過度の疲労で動けなくなったりしました。・・・
(つづく)
・・・・・・
ブログ友の夏井さんにこんなことを聞いてみました。
「ガ島で苦しい時につい口ずさんだりした歌がありますか?」
「心で口ずさんでいた歌があります」
と言って教えてくれたのが「さすらい」です。
おっと!小林旭。
私はつい唸ってしまいました。
この「さすらい」の元々の曲は「ギハロの浜辺」という曲で、
かつて大東亜戦争中にフィリピンのルソン島に駐屯していた日本兵士たちに歌われた歌です。
このギハロというのはルソン島にある地名です。
この歌はニューギニア方面の兵士たちも歌って日本をしのんでいたという。
きっとガダルカナル島でも歌っていたかもしれません。・・・
夏井さんはこの曲の二番が気に入っているという。
知らぬ他国を流れ流れて
過ぎて行くのさ 夜風のように
恋に生きたら楽しかろうが
どうせ死ぬまで ひとりひとりぼっちさ ・・・
恋して自分の快楽を求めて思うように生きていれば楽しいだろうが、
それよりも大義のために生きることを選ぶ。
ガダルカナル島という遠い島での夏井さんの心境が現われている。・・・
|

>
- Yahoo!サービス
>
- Yahoo!ブログ
>
- 練習用
全1ページ
[1]


