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九人の乙女の像
私は幼い頃からソビエト(ロシア)という国が嫌いです。
職業軍人だった母の伯父から「アメリカも嫌いだが露助は汚い!人間ではない!」と教えられ育った影響もあるのでしょう。
何年か前に『霧の火 樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち』が放送されました。
放映された時のみ話題になり、すぐ日本人は忘れてしまうのでしょう、今現在、真岡郵便電信局事件を国民のいかほどのかたが覚えているでしょうか?
1945年8月15日大日本帝国は連合軍に対してポツダム宣言を受諾降伏文書への調印を連合国へ通達、翌日には各軍への停戦命令の布告及び武装解除を行いました。
これに対応しイギリス軍やアメリカ軍は即座に戦争行為を停止しました。
ソビエトとは日ソ不可侵条約を締結していたのにも関わらず
終戦間際の8月9日これを破棄し、当時大日本帝国領であった樺太に攻めてきました。
大津樺太庁長官は、婦女子や老人を本土に送還させるため
本土に引き揚げさせようとしました。
真岡郵便局でも残留交換手に関する説明されたが、残って交換業務を続けてもらえる人は、一度家族と相談した上で、返事を聞かせてほしいと説明したが、全員が残ると意思を示した。最終的には20人が残った。
事件のあった8月20日ソビエト軍艦接近の報に緊急連絡し、電話交換手は12名となった。
緊急事態となった局員たちは郵便局へと向かったが、ソビエト軍の猛攻やまず、郵便局へ向かう途中で射殺されたり、避難していた防空壕へ手榴弾を投げ込まれて爆死したり、生存者の証言によると地獄絵図のようであったと。
ソ連軍艦からの艦砲射撃が始まると、真岡郵便局内も被弾するようになり、電話交換手12名は、別館2階に女性のみが孤立することになった。
班長はじめ7名の乙女が青酸カリ、モルヒネ等で自決、伊藤は、既に7人が自殺し、自分も自殺することを泊居郵便局に連絡。更に、蘭泊郵便局へも同様の連絡をした。この時点では、伊藤さんのほか境さん、川島さん、松橋さん、岡田さんの4名が生存していた。伊藤さんは、続いて電信課へ自殺を連絡し、服毒自殺されました。
記録によれば『交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら。長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』
本土への最後の通信でした。
逓信省電話主事補
高石ミキ命 二十四歳 可香谷シゲ命 二十三歳 逓信省電話事務員 伊藤千枝命 二十一歳 吉田八重子命 二十一歳 志賀晴代命 二十一歳 高城淑子命 十九歳 沢田キミ命 十九歳 渡辺照命 十九歳 松橋みどり命 十七歳 昭和二十年八月二十日歿(自決) この時点で、松橋さんも自殺をしていたので、自殺者9名、生存者3名でした。
英霊の遺体は8月の時期に10日以上たってから仮埋葬され12月に本葬。
その後真岡郵便局はソビエトの支配下におかれた。
昭和38年樺太関係者と遺族の手で氷雪の門と九人の乙女の像が建立されました。
昭和天皇・皇后両陛下は、昭和四十三年九月二日札幌で開催された北海道百年記念式典に御臨席なられ、式典後北海道各地を御視察途次、同月五日「九人の乙女の像」の前にお立ちになり、後日、昭和天皇はこの時の御感慨を次のようにお詠みになられたのである。
樺太に 命をすてし たをやめの こころおもへば むねせまりくる (昭和天皇陛下) 樺太に 露ときえたる をとめらの みたまやすかれと ただいのりぬる (香淳皇后) 碑文には軍の命令により自決したとありましたが、軍の命令などなく、生存者の証言もあり碑文は書き直されました。
なお9名は公務殉職として昭和48年3月31日付で勲八等宝冠章を受勲、靖国神社に祀されており、碑は稚内駅近くの丘に樺太に向って立っています。
現代を生きる一人でも多くの人々がこの受難史を知り、彼女たちを始め樺太で散った多くの同胞たちの冥福を祈りたい。
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2010年05月20日
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