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日本軍と連合軍との戦死者・捕虜の違い
米軍の残虐行為について、チャールズ・リンドバーグ(1902〜74)(ニューヨーク・パリ単独飛行など有名。)日米開戦後、軍の技術顧問。南太平洋に赴任。は日記に次ぎの事柄を書き記しています。
リンドバーグの日記より抜粋。
*各地の太平洋戦線で日本人捕虜の数が欧州戦線に比し異常に少ないのは捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、米兵が捕虜を取りたがらないから。手を上げて投降してきても皆殺しにするから。
*あるところでは2000人ほど捕虜にしたが本部に引きたてられたのはたった100か200だった。残りのの連中にはちょっとした出来事があった。それを知った戦友は投降したがらないだろう。
*捕虜を取らないことを自慢する部隊がいる。
*将校連は尋問の為捕虜を欲しがる。捕虜1名に付きシドニーへの2週間の休暇を出すとお触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入る。懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなり、つかまらなかったと嘯くだけ。
*一旦捕虜にしても英語が分かる者は尋問のため連行され、出来ない者は捕虜にされなかった、即ち殺された。
*捕虜を飛行機で運ぶ途中機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告。ある日本軍の野戦病院をある部隊が通過したら生存者は一人もいなかった。
*2年以上実戦に参加した経験がない兵が帰国前にせめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、偵察任務に誘われたが撃つべき日本兵を見つけられず捕虜一人だけ得た。捕虜は殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で軍曹がナイフで首を切り裂く手本を示した。
*爆弾で出来た穴の中に皆四肢バラバラの状態の日本兵の死体を投げ込みその後でトラック1台分の残飯や廃物を投げ込む。
*捕虜にしたがらない理由は殺す楽しみもさる事ながらお土産を取る目的。
金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰りそれでペン・ホルダーとかペーパーナイフを造る、耳や鼻を切り取り面白半分に見せびらかすか乾燥させて持ちかえる、中には頭蓋骨まで持ちかえる者もいる。
*日本人を動物以下に取扱いそれが大目に見られている。我々は文明のために戦っているのだと主張しているが、太平洋戦線を見れば見るほど、文明人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。事実この点に関する成績が日本人のそれより遥かに高いという確信は持てないのだ。
*リンドバーグはドイツ降伏後ナチスによる集団虐殺現場を見学した時の日記で「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ。爆撃後の穴に日本兵の遺体が腐りかけ、その上から残飯が投げ捨てられ、待機室やテントにまだ生新しい日本兵の頭蓋骨が飾り付けられているのを見たときだ。ドイツはユダヤ人の扱いで人間性を汚したと主張する我々アメリカ人が、日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのだ」と。
以上で抜粋終わり
しかも、各戦線でも自国の戦死者の遺体捜査は行うが、日本兵の遺体はそのまま放置。
硫黄島などでも見られるように遺体の片付けもしないまま飛行機の滑走路を造ったりしている。(現在も英霊がそこに眠っています。)
捕虜をとらない方針というと、南京における日本軍の方針。第16師団長中島今朝呉中将の陣中日記に「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クル」という一節が拡大解釈され、大虐殺派は「捕虜の即時処刑の方針」という意味に解釈し大虐殺の証拠とした。
だが、実際は「投降兵は武装解除後に追放して、片端から逃がしてやることだ」が日本語解釈です。
一方日本軍は相手戦死者には最大の敬意を表し、弔っています。
中国人からも「緑の連隊長」とよばれた吉松喜三大佐は、作戦終了後、英霊は緑の樹に宿ると信じ、「弔日支両軍戦歿勇士之霊 興亜祈念樹」という慰霊標をたて、その周囲に樹を植え、吉松連隊長が大陸各地で植えた樹は実に四百万本に達し、敵将、蒋介石総統も感謝しました。
またマレー作戦において破竹の進軍で知られる山下奉文将軍と交戦し、勇敢に戦い玉砕したオーストラリア軍の兵士を讃え弔う為に、二百人を葬った墓地の上に巨大な木製の十字架を建てた。十字架には『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』と。
当時上等兵として戦った中島慎三郎氏(ASEANセンター代表)によると、「そんなことはいくらでもあった。第一山下奉文司令官が偉かった。山下将軍は仏の心を持っていたから、 英兵の死体を見ると、必ず挙手の礼をしていた。司令官がそうだから、我々も勇敢に戦った敵将兵の跡には、十字架や墓標を建てていったのだ。特に我々は中国戦 線で戦ってから、マレーに進撃した。当時の支那兵は 戦意が乏しく、逃げてばかりいた。ところがマレーの英兵は踏み止まってよく戦った。だから尊敬の心が起ったのだ。勇敢な敵兵に敬意を表するのは、当時の習いだった。それは海軍も同じだった。日本の海軍航空隊は十二月十日に英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを轟沈させた。すると指揮官の壱岐春記大尉は、撃沈させた後、愛機を現地まで飛ばして、勇敢に戦った英国将兵のために花束を投下したではない か。
日本が英国植民地勢力の牙城シンガポールを陥落させると、アジア諸民族は熱狂した。寺内寿一南方軍総司令官はこの意義をアピールするために、山下将軍に対し、盛大な入場式をやるように勧告した。しかし山下将軍は、敗戦した敵軍のことを思ってとりやめ、敵味方の戦死者を弔う合同慰霊祭を斎行した。」と当時を述べている。 このような事実は他にも多々存在する。
日本兵の捕虜が少なく死者が多いのは「生きて虜囚の辱めを受けず」として捕虜になることを無理やり禁じた「戦陣訓」の為だったとする説がありますが、リンドバーグ日記を読むとそうばかりではないことが覗えます。
あまり知られてませんが、「戦陣訓」は日清戦争で清軍が日本の捕虜に対し残酷極まりない辱めを与えたことに由来し、中国軍の残虐性も垣間見れます。
日本軍は多少の虐殺は有ったかも知れないが、基本的には国際法を守り投降者は捕虜にし、生還させている。(ロシアのような卑劣極まる抑留などありえません)
米兵は相手が日本軍だからこそ生還できたのであり、若し敵が米軍なら彼等は捕虜にされず殺されたかもしれない。日本の文化・伝統において死者・投降者には寛大な國であり、戦後の誤った史実を捏造し、政治利用し日本を追込んでいる國があり、また誤った史実を聖職であるにも関わらず教えている教職員組合がある。
間違った歴史を信じてはならない!
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