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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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サンフランシスコ講和条約から59年、果たして「大東亜戦争」は終わったのでしょうか?
拙ブログで昨年6月にご紹介させていただいた沖縄戦でこの世を去った兄への思いから、20年以上にわたって戦没者の遺骨収集に携わり、遺産7000万円を靖国神社、遺骨収集団体に寄付され、昨年1月、87歳で亡くなった大阪市阿倍野区の陰山三千代さんを今一度ご紹介したい。
 
 
以下産経新聞より引用します。
沖縄戦でこの世を去った兄への思いから、20年以上にわたって戦没者の遺骨収集に携わり、今年1月、87歳で亡くなった大阪市阿倍野区の陰山三千代さんが生前、「兄たちの慰霊に充ててほしい」と示した遺志で、総額7千万円が遺骨収集の実施団体や寺社などに寄付される。このうち4千万円は、兄の御霊が眠る靖国神社(東京)に贈られるという。沖縄戦終結から23日で65年。関係者は「陰山さんは、私たちが忘れかけている大切なことを教えてくれている」と話す。

陰山さんの1歳違いの兄、文吉さんは昭和20年6月に24歳で戦死した。当時、陰山さんは看護師として働いていたが、終戦後に勤務した京都府舞鶴市の引き揚げ者の収容施設では、旧満州で旧ソ連兵に性的暴行を受けて妊娠した女性の中絶手術に携わるというつらい経験もした。
独身だった陰山さんは、看護師を定年退職後の昭和62年ごろから毎年、兄が亡くなった沖縄を訪問し、戦没者の遺骨収集をした。小柄な体で高齢にもかかわらず、ヘルメット姿で壕などに入り、懸命に作業に励んだ。陰山さんの体はがんにむしばまれていたが、昨年1月にも病をおして沖縄を訪れたという。
「先生に相談がある」。元大阪弁護士会会長の小寺一矢さん(68)が、陰山さんに突然電話で呼び出されたのは2年前。陰山さんは医師をしていた小寺さんの父の部下で、40年来の親交があった。陰山さんはすでに病床の身だったが、兄の戦死や遺骨収集について初めて打ち明け、遺産の寄付の相談を持ちかけた。
「明るくさっぱりした性格の陰山さんが、まさかそんな思いで生きてきたとは思いもしなかった」。小寺さんは思いの強さを感じ、遺言執行者を務めることを承諾した。
今年1月初旬、舞鶴時代の話を涙しながら聞いた際、陰山さんは「先生、舞鶴に行きたい」とつぶやいた。陰山さんには中絶された子供たちの供養をしたいという意志もあり、小寺さんは「春になって暖かくなったら行こう」と話したが、陰山さんは1月23日に息を引き取り、約束は果たせないままとなった。
陰山さんの死後、遺品を整理した小寺さんは、カレンダーの裏を利用した手作りのアルバムを見つけた。写真の一つ一つに、びっしりと説明や感想などが書き込まれていた。
「糸満市山城にて。私が頭蓋骨一部と上顎骨を発見した場所」「兄の戦死場所と同じ」…。昭和62年2月の訪問時の記述。参加者が収骨現場で手を合わせている写真には「どんなに苦しい思いで追いつめられ、ここにて最期になられたのだろうかと、胸の痛み、悲しみ…」と言葉が添えられていた。
遺品にふれ、小寺さんは「どの遺骨も兄さんやと思ってなでるんや」と語っていた表情を改めて思い浮かべた。遺産は大阪や京都の寺院や神社、遺骨収集団体に寄付し、残りは全額靖国神社に贈る。小寺さんは今夏の終戦記念日までに終える予定で準備を進めており、「陰山さんは、潔くいちずな人生だったと思う」としみじみ語った。
 
お亡くなりなった陰山さんは、病をおしてでも遺骨収集に従事されました。
全戦没者240万柱に対して114万柱の遺骨収集がまだなのです。
病をおしてでも遺骨収集された陰山さんをそうさせたのは何だったのでしょうか?
後世の我々の為に、たった一つしかない命を捧げられ、生き残られた方々は国の復興に一身を擲って働かれ、英霊の為に鎮魂され、自らの使命を果たされたの如くの一生を終えられる。
我々戦後世代がどんなに頑張ろうが、到底真似すらできません。
「日本人としての矜持」ではなかったでしょうか?
その矜持をもっている世代の方々に石を投げるような行為。
日本国民としての誇りを捨て、先人の残した遺産さえも食い散らしていく「餓鬼」のような現世の日本人。
 
私たちの先人、先祖は素晴らしい日本人でした。
山岡荘八氏の著よりご紹介します。
 
 
この土のつらなる果てに母ありて明日の壮挙の成るを祈らん

西田高光 命
大分県、海軍中尉、大分師範、予学13。
第五筑波隊員。
二十年五月十一日山岡荘八氏に見送られ沖縄に特攻戦死。二十三歳。
 
西田中尉の辞世です。
戦争当時、海軍報道班員であった山岡荘八氏は海軍の鹿屋基地に配属された。そこで山岡氏は特攻隊員の「闊達さと自由さに時に傍若無人にさえ見えて、その実、接近するほど離れがたい別の美しさ」を感じていた。この底抜けの明るさがなぜ隊員達にあるのかという疑問をいつか解きたいと考えていた。

彼はこの質問をすることの出来そうな相手を見つけた。それが西田高光中尉であった。西田中尉は入隊以前、昭和17年4月4日から18年9月まで、19歳の若い教師として郷里の国民学校に奉職。68名の教え子に兄と慕われた。そして、その師弟間の文通は飛行科予備学生として海軍入隊後も続いた。20年5月、古畳の上で胡座して、教え子に最後の返事を書いていた西田中尉に、「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのか?負けても悔いはないのか?今日の心境になるまでにどのような心理の波があったかなど・・・・・」と質問した。

西田中尉は、重い口調で、現在ここに来る人々は皆自分から進んで志願した者であることと、もはや動揺期は克服していることを話した。そして最後に

「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです・・・・・・・おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに・・・・・・・」

と言われたそうである。

西田中尉の出撃の2日前、死装束となる新しい飛行靴が配給された。すると、彼はすぐに部下の片桐一飛曹を呼び出し、「そら、貴様にこれをやる。貴様と俺の足は同じ大きさだ」と言った。いかにも町のアンチャンという感じの片桐一飛曹は顔色を変えて拒んだ。「頂けません。隊長のくつは底がパクパクであります。隊長は出撃される・・・いりません。」すると「遠慮するな。貴様が新しいマフラーと新しいくつで闊歩してみたいのをよく知っているぞ」「命令だ。受取れ。おれはな、くつで戦うのでは無いッ」
彼がパクパクとつまさきの破れた飛行ぐつをはいて、500キロ爆弾と共に大空へ飛び立っていったとき、山岡氏は見送りの列を離れ声をあげて泣いたそうである。
 
西田中尉出撃の2日後、中尉の母と兄嫁が基地にたずねてきた。 真実を話せなかった山岡氏は、中尉は前線の島に転勤したと告げ休息所に案内したが、そこには「西田高光中尉の霊」が祀られ香華がそなえてあった。あわてた山岡の耳元に兄嫁が「母は字が読めません」とささやく。その場を取りつくろったつもりで2人を控室に伴い、お茶が出された時だった。「ありがとうございました。息子がお役に立ったとわかって、安心して帰れます」山岡氏はいきなりこん棒でなぐられた気がした。文字は読めなくても母親の勘ですべてを悟った中尉の母は、丁寧に挨拶し、兄嫁を励ましながら涙一滴見せずに立ち去った。
他にも特攻に志願する夫に後顧の憂いを抱かせんと、「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています」と遺書を残され、幼い子供を道連れに、入水自殺をされた藤井一中尉(特攻戦死後少佐に特進)の妻君。
 
筆者は戦争を美化しているものではありません。悲劇といえましょう。
しかし、先人、先輩をそうさせたのは、「日本人の矜持」といえましょう。
戦後、坂道を転がる石のように落ちていく日本人の魂。
自分を生み、慈しみ育てていただいた親すらも、自分の都合で老後をも観ようとしない現世の日本人の勝手さ、英霊の遺骨収集すら放置していることなど、「根っこ」は同じです。
占領国から押し付けられた、まがいものの憲法、教育、神道指令、何ひとつ占領は終わっていません。
今回のTPP問題然りです。
戦前の日本人を知る、外国の方々が嘆き悲しむ、諸外国の要人。
 
「大東亜戦争」未だ終わらず・・・・
 そう思うのは筆者だけでしょうか?
 
 
 
 
 
イメージ 1
天皇陛下、皇后陛下 御尊影
 
 
 
 
 
 
君が代
 
 
 
 
イメージ 2
旧開智学校の特別展示室を見学あそばされる皇太子徳仁親王殿下 御尊影=14日午後、長野県松本市
 
 
謹んでお伝え致します。
 
 
 
皇太子徳仁親王殿下におかせられましては14日、全国農業担い手サミットの式典にご台覧あそばされるため、行啓先の甲府市から、列車で長野県松本市に移動あそばされた。15日に松本文化会館で開かれる式典にご台覧あそばされ、、若手農業者らと懇談あそばされる。
 14日は135年前に建てられた日本で最も古い旧制小学校の一つ、旧開智学校をご覧あそばされ、明治13年に明治天皇陛下が学校を行幸された際に使われた敷物や金びょうぶをご覧になられた。
 皇太子徳仁親王殿下におかせられましては、13日に畏くも天皇陛下のご名代として、甲府市で「恩賜(おんし)林御下賜(かし)100周年記念大会」にご台覧あそばされていた。
 
 
(14日・月)
 
 (宮内庁発表分)
 
 【午前】
 
 皇后陛下 東京大学医学部付属病院(東京都文京区)お見舞い、のち宮城(皇
 
 居)・御所へお戻り
 
 【午後】
 
 皇后陛下 同上
 
 
 
昨日本ブログでもご紹介させていただきましたが、気管支炎などのため東大病院に入院中の畏くも天皇陛下のご病状について、11日朝から一時的に熱が高くなるなど、不安定な状況が続きしばらくご入院が続きます。
ご高齢でもあられるのでとても心配です。
 
畏くも天皇陛下がご平癒あそばされることをこころから願い、祈念いたします。
 
 
 

[食生活]「焦がすな」「捨てるな」「腐らすな」が御所の厨房の三大原則だった/工藤極

【工藤極氏は昭和49年から54年まで宮内庁管理部大膳課に勤めた。この特殊な職場に勤めたいと思ったのは、主厨長の秋山徳蔵氏が高齢を理由に勇退される、という新聞記事を読んだことがきっかけだった。工藤氏は第二係(洋食)に配属されていた】

聖上(おかみ)——われわれ大膳課の職員は天皇陛下のことをこうお呼びした——の朝食には毎日オートミールとコーンフレークが交互に出されていた。普通の家庭の食卓と大して変わらないのだ。これは昼食、夕食においても同様で、宮様との会食や、要人が招かれた饗宴ではそれ相応の料理が出されたが、普段の食事は非常に地味で慎ましいものだった。

大膳課で働くようになってまず驚いたのが、使っている調理器具が、いずれも年代物と言ってよい古い物だったことだ。<中略>調理にはミネラルウォーターではなく、水道水を使った。食器も金箔が押してあるようなものではなく、菊の御紋はあるものの、それ以外はどこの家庭にもある食器と違わなかった。

洋食の内容は、古典的なフレンチだ。フレンチというと、すごいご馳走だと想像する方もいるだろうが、過剰なデコレーションもなく、シンプルな家庭料理だ。肉か魚が1品あり、それにスープ、パン、温野菜、生野菜というのが通常のパターンだった。スープはつかないこともあった。<中略>担当ではなかったが、和食も焼き魚にごはん、味噌汁、付け合わせ、といったシンプルなものだった。

大膳課では料理人として多くを学んだが、その1つに、食材は常に余すことなく使い切る、ということがあった。例えば鶏肉は御料牧場から丸ごと1羽仕入れるのだが、これをさばいて胸肉2枚、もも肉2枚、手羽、ぼんじりと分ける。胸肉、もも肉はグリルするなどして主菜にし、残った手羽は後日、軽く湯がいてカットしスープの具にする。骨はスープの出汁を取るのに使う。ぼんじりは軽く揚げてから薄いコンソメで煮て、付け合わせにする。野菜の皮は後でスープの具にし、葉物だったら漬物にするといった具合だ。これは「一物全体食」といって、食材を全部使うことで栄養バランスが偏らないようにする考えで、大膳課が長年守ってきた伝統であり調理の基本となっている。

もう1つ、守るべき基本があった。それは秋山さんの後を継いで主厨長となった中島伝次郎さんがよくおっしゃっていたことで、「明治の料理の三大原則」だった。こういうと何やらものすごく難しいことのように思うが、実は非常にシンプルで、「焦がすな」「捨てるな」「腐らすな」である。つまり商品にならないものを作るな、余った食材を捨てる前に何かに使えないか考えろ、在庫を把握して常に鮮度を見ろ、というものだ。

いずれも日本の家庭で失われつつある文化、心構えを大膳課では誰もが持ち、天皇の食卓にはそれが受け継がれているのである。


【歴史を振り返れば現代が見える  昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々】より引用


 
皇室には、現代日本の我々が失いつつあるものが連綿と受継がれています。
日本人は皇室に学ぶべきです。
皇后陛下はじめ、皇族方がいつまでもお健やかであられることを願ってやみません。
 
 
 
 
尊 彌榮 彌榮 彌榮
 
 
日本國民(やまと民族)は皇室と共に・・・・
 
 
 
 

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