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ベトナムのズン首相夫妻と会見あそばされる天皇陛下、皇后陛下 御尊影=2日午前、宮城・宮殿
ベトナムのズン首相夫妻を迎えあそばされる天皇陛下、皇后陛下 御尊影=2日午前、皇居・宮殿
天皇陛下、皇后陛下 御尊影
天皇陛下、皇后陛下、ベトナム首相夫妻とご懇談 謹んでお伝え致します。
畏きあたりにおかせられましては2日午前、皇居・宮殿で、ベトナムのグエン・タン・ズン首相夫妻と懇談あそばされた。
宮内庁によると、天皇陛下におかせられましては東日本大震災に関連し、同国政府から受けた支援や、1日にズン首相が被災地の宮城県名取市を訪問したことについて謝意を表明あそばされた。
畏くも天皇陛下におかせられましては、震災で2人のベトナム人が亡くなられたことに触れあそばされ、「残念なことでした」と叡慮を賜わりました。
ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく)、通称ベトナムは、東アジア・東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和制国家。国土は南北に長く、北に中華人民共和国と、西にラオス、カンボジアと国境を接し、東は南シナ海に面し、フィリピンと対する。首都はハノイ。
ベトナム共産党(ベトナム戦争中は「ベトナム労働党」)による事実上の一党独裁政治が行なわれている。名目的に存在した民主党、社会党は1980年代末に解散され、複数政党制から単独政党制に移行した。現在でも、しばしば政治の民主化を望む人々が逮捕されることがある。現在、ベトナム共産党とその衛星政党以外の政党の結成は一切禁止されている。
敬宮(としのみや)愛子内親王殿下 御尊影
敬宮(としのみや)愛子内親王殿下におかせられましては2日午後、発熱とせきなどの症状のため、東京大学医学部付属病院(東京都文京区)に1日入院された。
宮内庁東宮職は、「軽い肺炎とみられる」と診断されたことを明らかにした。
「いましばらく入院を続けられる」としている。
1日は敬宮愛子内親王殿下に皇太子妃雅子殿下が付き添いあそばされ、病院に泊まられたという。
2日午後には皇太子徳仁親王殿下におかせられましては、病院を訪問あそばされた。
一日も早いご平癒をこころより祈念します。
天皇陛下、皇后陛下 御尊影 (地久節)
皇后陛下におかせられましては1日午前、東京都中央区の高島屋東京店で、尼門跡寺院の美術品を集めた「大和の尼寺 三門跡寺院の美と文化展」におでましあそばされた。
尼門跡寺院は皇族や公家など高貴な身分の女性が住職を務めた尼寺。会場には皇室と縁が深い、奈良の圓照寺、中宮寺、法華寺に伝わる美術品約100点が展示。
皇后陛下におかせられましては、陛下ご自身がお持ちになられている法華寺の尼僧が手作りした犬型のお守りをご覧あそばされ、「かわいい。よく頂きました。いつも守っていただいて」とお言葉を賜わりました。 天皇陛下、皇后陛下 動静 (宮内庁発表分)
【午前】
皇后陛下 「大和の尼寺 三門跡寺院の美と文化展」ご覧(東京都中央区・高島屋
東京店)
【午後】
天皇陛下 ご執務(宮城・御所)
皇后陛下 森野嘉郎・社会福祉法人いのちの電話理事長ほかから説明お受けに
《同団体の開局40周年記念式典に当たり、活動および歩みにつき》(御所)
天皇陛下、皇后陛下はじめ、皇族方がいつまでもお健やかであられることを、臣民の一人として祈念します。
皇尊 彌榮 彌榮 彌榮
日本國民(やまと民族)は皇室と共に・・・・
天皇陛下、皇后陛下 萬歳 萬歳 萬歳
タイ、トルコの災害にて被災し、亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、両国の国民の皆様にお見舞い申しあげます。
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2011年11月02日
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コメント(2)
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現在、我国は朝鮮半島の民族から、ありとあらゆる難癖をつけられ、嘘・捏造を押し付けられています。
我国においても、こころないメディア、悪しき思想に冒された日本人が、これらを肯定する発言、学校教育を行なっています。
では、真実はどうだったのでしょうか?
以下に朴贊雄(パク・チャンウン)氏の「日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想」より抜粋・引用します。
「日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想」より |
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明治天皇陛下、昭憲皇太后陛下 御尊影
明日、11月3日は明治天皇陛下の誕生日、明治の天長節の日です。
明治天皇陛下は、僅か16歳でご即位され、剛毅果断の性格で進取の気象に満ちていました。この若き天皇陛下を中心として、時代は大きく転換してゆきました。慶応3年10月、徳川幕府十五代将軍、徳川慶喜公は大政奉還を行い、政権は700年ぶりに朝廷に返されました。これを受けて、明治天皇陛下は、同年12月、王政復古の大号令を発せられました。翌年の明治元年(1868)3月、天皇は、五箇条の御誓文をもって、国是としてお示しあそばされました。
その後のわが国の発展はめざましく、翌2年版籍奉還、4年廃藩置県、5年学制頒布、鉄道の開通、太陽暦の採用などが進められました。さらに、明治22年、明治天皇陛下は大日本帝国憲法を発布、翌23年には帝国議会を開設し、また教育勅語を下賜あそばされました。
こうしてわが国は、明治天皇陛下の下、僅か半世紀の間に、アジアで初めての近代化に成功し、文明開化、富国強兵、殖産興業、教育の普及、文化の向上など、欧米に伍した近代国家として躍進していったのです。 明治天皇陛下は6度にわたって地方御巡幸をされました。
まだ交通手段が発達していない当時ですから、馬車や船による旅行は、身体的に大きな負担だったことでしょう。しかし、天皇陛下は自分の目で国内各地の様子を見られ、また国民に接せられ、直接世情を知りたいという強い希望をもっておられました。御巡幸の旅は、2ヶ月の長期に及ぶこともありました。今日も各地に明治天皇陛下が巡幸された記念碑が建てられています。
明治天皇陛下は避暑避寒などはほとんどされなかったそうです。記録に残っているのは、わずかに東京・小金井に遠乗りして桜を賞でたとか、また多摩の丘陵の兎狩り、清流での鮎漁ぐらいと伝えられます。
我が身をいとうことなく、常に国家国民のために尽くす指導者としての明治天皇陛下の姿がうかがわれます。
明治の国難は、日清・日露戦争です。
新興国日本の「国家の威信」「国運」を賭けた戦いでした。
明治天皇陛下は、その間、常に国民の先頭に立たれ、国利民福のためひたすら尽力されました。そして出征兵士と苦労を共にするという考えから、炎暑の最中でも冬の軍服を着用しておられました。
日露戦争の際は、明治天皇陛下は非常な心労を続けられ、それがもとで健康を害され、明治45年7月30日、61歳で崩御あそばされました。
その御代は、ひたすらに「公」のために尽され「私」を省みない明治天皇陛下の生涯でした。
幕末から明治の時代は、欧米列強から独立を守るため、わが国が急速に変革を成し遂げねばならなかった時代でした。この変革に成功しえたのは、明治天皇陛下を中心に、国民が君民一体となって懸命の努力をした結果でした。
戦前は明治天皇陛下のご遺徳、偉業を讃え、偲ぶ日として明治節が制定され、国民が明治天皇を偲び、国民の精神を支える日でもありました。
戦後、文化の日と名前を変え、意味のない祝日になってしまいました。
声を大にして、「明治節」「明治の日」と呼びたいものです。
誇り高き日本国民でありながら、明治節、天長節さえも知らない国民が増えつつあるのを哀しく思い、また民族の行く末を危惧するものであります。
いつまで、戦後なのか? 誇りは何処へ行ったのか?
かっての誇り高き日本を取戻さんが為、かっての祝祭日への回帰を願ってやまず、国是「五箇条ノ御誓文」、億兆安撫国威宣揚の御宸翰(おくちょうあんぶこくいせんようのごしんかん)を今一度、熟読せられ、日本人としての誇り、矜持をもって欲しいと願うばかりです。
国是「五箇条ノ御誓文」
『五箇条ノ御誓文』(明治元年または慶応4年3月14日--原文) 五ケ条の御誓のあったその日、億兆安撫、国威宣揚の宸翰が宣布せられた。急変する時代、次々と打出される改革に、国民のとまどうことをおそれ、旧来の晒習を破り、天皇親ら艱難の先に立って、未曽有の時代を乗り切ろうとの御宣言である。その文の平明雄勁なる、格調高き中に叡慮の切々たる、まことに明治維新の精神が凝って、ここに千古の大文字となって宣言せられた。宸翰は、武門が政権を握ってから、表には朝廷を尊奉しながら実は敬して遠ざけ、天皇と国民の間の真情も隔てられて来たことを嘆き給い、
今般朝政一新の時に腐り、天下億兆一人も其の処を得さる時は、皆朕か罪なれは、今日の事、朕自身骨を労し心志を苦め、艱難の先に立ち、古列祖の尽させ給ひし蹤を履み、治蹟を勤めてこそ、始めて天職を奉して億兆の君たる所に背かさるへし。(現代語訳) |
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