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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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五ヶ条の御誓文
 
 
今日の政府民主党などが声高らかに唱えている、政治主導、平成維新などという文字の羅列は、改革でも革命でもない、ただのママゴトにしかすぎません。ただ國を混乱させ、疲弊させているにすぎないのです。
我國において、革命と呼べるのは、明治維新しかありません。
明治維新は、世界でも類のない変革であったのです。
幕末の日本は、アメリカのペリー提督が黒船を引き連れて浦賀に現れた時から、激動の時代に入りました。それからわずか15年で、維新が実現しました。それによって、260年間も続いた徳川幕藩体制が終わり、新しく近代国家が誕生しました。
 
15年の間に、開国か鎖国か、倒幕か佐幕かなど、日本の進路をめぐっての争いがありましたが、当時の人々に一貫していたのは「護国」の精神でした。
戊辰戦争から西南戦争までの死者は、2万人〜3万人。フランス革命の死者が200万人といわれることに比べると驚くほど少なく、中国が現在の國家となるのには、長い年月を要しています。
どうしてこれほど大きな変革が、これほど短期間に、しかも流血が極めて少ない形で、実現できたのでしょうか。
幕末の日本人は、昨年の「龍馬伝」でもありましたが、ペリー来航以来、非常な危機感を感じていたことにあります。欧米列強は強力な軍事力と高い科学技術を保持していました。
また、不平等条約を余儀なくされました。ここで外圧の対処に失敗すれば、白人種に隷属することになりかねず、また、もし日本人同士が争えば、その隙に欧米諸国に付け入られる危機を感じてたのです。
この絶体絶命の状況をどう乗り越えるか、その危機意識が明治維新を促進したのです。
昨年、中国が、尖閣諸島へ進出してきましたが、多くの日本人、政府が危機を感じていなかったのとは雲泥の差があります。
政権は、大政奉還(1867)によって、幕府から朝廷に移動しました。
しかし、新政府と言っても、まだ全国に大名がいて各地方を支配する封建体制はそのまま残っています。この社会の仕組みを根本的に変えなくては、変革にはなりません。
維新直後の明治新政府の課題は、一日も早く近代国家を建設して、欧米列強に支配されることのないようにすることでした。明治2年6月に版籍奉還が行なわれ、各藩の土地と人民は朝廷に返還されたものの、実質的には藩はそのままの形で残っていました。そこで行なわれたのが、廃藩置県(明治4年)です。
当時の明治政府の収入は幕府直轄地より、引継いだ年貢収入のみで860万石、全国の石高が3000万石ですから、約三分の一程度でした。
財政の基盤を作り出さねば、新しい国造りはできません。それには、各藩の徴税権を中央政府に集約するしかありませんでした。
廃藩置県は、鎌倉幕府以来、700年もの間日本を支配してきた武士階級を一挙に廃止するものでもあり、西洋でいえば領主の身分を廃止して土地を取り上げ、明日から平民にするといった大変革でした。ヨーロッパではこのような変革は、流血の革命を通してしか実現できませんでした。
各藩から経済的基盤を奪い去るのですから、激しい抵抗が起こり大乱となるかもしれません。維新最大の難題でした。この改革の中心となったのが、西郷隆盛でした。
実行の段階になると、首脳会議は紛糾しました。時期尚早ではないかとか、抵抗が起こるのではないかと、大久保と木戸は大激論になったのです。しかし、黙って聞いていた西郷が、口を開きました。
「貴殿らの間で実施についての事務的な手順ができているのなら、その後のことは、自分が引き受ける。もし暴動が起これば、自分がすべて鎮圧する。貴殿らは心配せずに、やって下され」。
 この西郷の一言で、廃藩置県が断行されました。
明治4年7月14日、政府は東京に住む元大名の知藩事を集め、明治天皇陛下の詔勅が発せられました。
 
【廢藩置縣の詔・明治四年七月十四日】
朕、惟ふに、更始の時に際し、内、以て億兆を保安し、外、以て萬國と對峙せんと欲せば、宜しく名實相副ひ、政令、一に歸せしむべし。

 朕、曩に諸藩、版籍奉還の議を聽納し、新たに知藩事を命じ、各々其の職を奉ぜしむ。然るに數百年、因襲の久しき、或は其の名ありて、其の實、擧がらざる者あり。何を以て億兆を保安し、萬國と對峙するを得んや。朕、深く之を慨す。仍て今ま更に藩を廢し、縣と爲す。是れ勝(つと)めて冗を去り簡に就き、有名無實の弊を除き、政令多岐の憂ひ無からしめんとす。汝群臣、其れ朕が意を體せよ。


しかし、彼らにも全国の武士たちにも、抵抗らしい抵抗はほとんどありませんでした。一日にして藩は廃止され、全国の土地は中央政府の管轄になりました。政府は全国から税を徴収できるようになり、財政の基盤を確立できたのです。それゆえ、廃藩置県は、世界史にも類を見ない無血革命といわれます。
当時261名もいた藩主は、全員そろって、先祖代々、保持してきた絶大な特権を返上したのでした。
 
明治4年、サンフランシスコで行われた岩倉使節団歓迎会で、伊藤博文は「数百年の強固さをほこった日本の封建制度は、一個の弾丸も放たず、一滴の血も流さずして撤廃せしめられたのだ。この驚くべき事実は、政府と人民の共同行為によって達成され、今や相一致して進歩の平和的道程を前進しつつある。戦争なくして封建制度を打破した国がどこにあるだろうか」と述べています。
ヨーロッパではこのような変革は、流血の革命を通してしか実現できませんでした。
当時、欧州ではこのことに驚き、大英帝国の首府ロンドンの新聞は、一面扱いで大々的に取り上げています。
廃藩置県は、これまで特権階級だった武士階級にとって、収入の基盤を失うことを意味しましたが、どうしてこれほどの改革が、無血のうちに実現できたのでしょうか?
明治維新を行った武士階級は、逆に自分たちの特権をなくす改革を行ったのです。しかも、それによって、武士という階級そのものを自ら消滅させる改革だったのです。
 ここに、我が国の武士道の精神、お国柄があります。
武士道は、大義に生きる精神であり、主君への忠誠のためには、「私」を捨てるのが武士です。幕末の武士たちは、藩を超えて日本國のために行動しなければならないと考えるようになっていきました。そして、忠誠の対象は、藩主から天皇陛下へと変わっていました。そして維新の過程で、全国の武士たちは、日本という「公」のために、自ら「私」を捨てたのです。
昨日の本ブログでも述べましたように、西郷隆盛は公正無私の英傑でありました。その無私の精神が、全国の武士たちに「私」を超え、「公」に尽くす行動をなさしめたのです。
自らをリストラした武士、崇高な精神です。 
 
「公」の精神が薄れつつある今日、私たちの先祖・先人が持っていた武士道の精神、お国柄を見直すべきではないでしょうか?
 
 
 

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