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民主党幹事長・岡田の非日本人的な対応。
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櫻井よし子氏は自身のブログでこのように書いておりました。
藤原正彦氏が『日本人の誇り』(文春新書)で日本文明の価値を、欧米人が至高の価値とする「自由」や「個人」の尊重と対比させて、「秩序」や「和」に求め、こう書いた。
「(日本人は)自分のためより公のために尽すことのほうが美しいと思っていました。
従って個人がいつも競い合い、激しく自己主張し、少しでも多くの金を得ようとする
欧米人や中国人のような生き方は美しくない生き方であり、そんな社会より、
人びとが徳を求めつつ穏やかな心で生きる平等な社会のほうが美しいと考えてきました」
「実はこの紐帯こそが、幕末から明治維新にかけて我が国を訪れ日本人を観察した
欧米人が『貧しいけど、幸せそう』と一様に驚いた、稀有の現象の正体だったのです。
日本人にとって、金とか地位とか名声より、家や近隣や仲間などとのつながりこそが、
精神の安定をもたらすものであり、幸福の源だったのです」
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「現在、国を挙げての救援活動が進められていますが、厳しい寒さの中で、
多くの人々が、食料、飲料水、燃料などの不足により、
きわめて苦しい避難生活を余儀なくされています。
その速やかな救済のために全力を挙げることにより、
被災者の状況が少しでも好転し、
人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。
そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、
これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています」
東日本大震災から6日目の3月16日、
陛下はビデオで国民にお言葉を発せられました。
櫻井よし子氏はこれについてこのように書いています。
「それは、皇室が常に国民と共にあり、国民のために祈り、励まし、
精神的支柱とならんとしていることを示している。
・・・。
大東亜戦争に敗れ、史上初めて他国の占領下に入ったとき、
昭和天皇は国民に向けてこう発信された。
1946年の歌会始でのことだ。
降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ
厳しい寒さの中に、凛として青々と立ち続ける松の雄々しい姿こそ、
国民の姿であれと詠われたのだ。
和と絆で支え合う日本国民は国難に直面するや最も雄々しい人々となる。
課題に正面から向き合い、闘い、励まし合い、必ず立ち直る勁(つよ)い人々である。
日本国民はそうして生きてきたのであり、常にそうあらねばならない。
立派な国民であれ、雄々しくあれと詠われた。」
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昭和天皇の大御心を感じるエピソードを記しておきます。・・・
昭和天皇は昭和21年2月、凍るような日に皇居を出て川崎に向かわれた。
戦後の地方御巡幸のはじまりです。
神奈川県から昭和29年の北海道に至るまで、
アメリカ軍政下の沖縄を除いて全都道府県を巡られました。
御巡幸はのべ165日にわたり、距離にして33000キロ以上に及びました。
陛下が背広を着て皇居の外に出られたのはこれが初めてのことでした。
敗戦までは、沿道に出ている人々は御料車が近づくと、通過して遠ざかるまで敬礼するか、
そのあいだ土下座をして頭を下げていなければなりません。
そして、警官か憲兵が数メートル間隔で並んでいました。
もちろん誰であれ高い所から見下ろすようなことは許されませんでした。
昭和天皇は川崎で二つの工場を視察されました。
工員や女子事務員の前で立ち止まられて、
「生活状態はどうかな」
「食べ物は大丈夫か」
「家はあるのか」
と質問されました。
返答があるとその都度、
「あっ、そう。 あっ、そう。」と答えられました。
陛下はにわか造りの粗末な木造建ての共同住宅に入られて
戦火の被災者を見舞われました。
「どこで戦火にあったの」
「冬は寒くないかね」
「生活はひどくないかね」
とおたずねになりました。
小学生には「学校の道具は燃えなかったの」と聞かれました。
「はい、焼けませんでした」とお答えすると、
「それはよかったなあ」と頷かれました。
ある部屋には、表に『御下賜』と書かれた義足の箱がありました。
陛下は「ご主人はどうしたの」とたずねられました。
「フィリピンで・・・」と感動して泣きながら婦人がお答えすると、
「夫をなくして、困っていることはないか」と聞かれました。
「いえ、負傷しただけで、今日も工場へ参っております」という返答に、
「ずいぶん働いてくれたんだね。それはご苦労だったね」
とねぎらわれました。
陛下が行幸されているというニュースが広まると、
多くの近隣の住民が集まってきました。
陛下の車が近づくと、沿道に並んだ国民は帽子をとり、襟巻をはずした。
陛下が車の中から会釈されると、
合掌する者、
「もったいない、もったいない」とつぶやきながらすすり泣く者、
「申し訳ございません!」と絶叫して最敬礼する者、
土下座する者など、
そして、陛下の車が目の前から去ると、どこからともなく「君が代」の合唱が起こり、
みんなが泣いていました。
昭和22年6月、兵庫県を御巡幸された時のことです。
酒造組合や武庫川高女を廻られた日は神戸女学院で昼食をおとりになりました。
昼食後、陛下が御休所を出られると、
校庭には職員、生徒、卒業生、父兄等五千人が待機していました。
突然前方に並んでいた七百人の専門部の学生が、
「讃美歌第四百十二番(祖国)」を二部合唱で歌い始めました。
わが大和の 国をまもり あらぶる 風をしずめ
代々やすけく おさめ給え わが神 ・・・
合唱のメロディは静かに流れる。
陛下に、「次へ」とお促し申し上げても、
そこに釘づけにされたかのように動こうともされません。
歌が進むにつれて、歌う女学生みんなが泣きながら合唱を繰り返しました。
歌は、ときどき涙にとぎれる。
みると陛下もまた泣いておられる。
お目は涙に濡れて光り、何度もしばたたかれる。
侍従長をはじめお付きの人々もみんな泣き、数千の奉迎者も、また涙を流す。
嗚咽のうちにつづく歌声のあとに、
陛下は静かに玄関を離れられました。・・・
昭和22年12月、陛下は原爆の地・広島を御巡幸されました。
ここでも陛下が泣かれました。
市の境の近くで、84人の戦災孤児が並んでお迎えしていました。
陛下はお車を停めて降りられると、子供たちのそばまで行かれ、
慰めの言葉をかけられました。
そして、原爆によって髪の毛が抜けおちた男の子の頭をかかえこむようにして抱かれると、
あふれる涙を指先でぬぐわれ、しばしば目頭を押さえられました。
群衆は陛下が泣かれるのを見て、そろって嗚咽したのです。
・・・
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