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天皇陛下、皇后陛下 御尊影
天皇陛下、皇后陛下 御尊影/君が代
天皇陛下、皇后陛下 ご動静 11日 (木)(宮内庁発表分)
【午後】
両陛下 宮内庁、皇宮警察の人事異動者が拝謁(宮城・御所)
【夜】
天皇陛下 検事長ら4人の認証官任命式(御所)
皇太子徳仁親王殿下、同妃雅子殿下、敬宮愛子内親王殿下、那須御用邸へ静養のためJR那須塩原駅に到着された皇太子徳仁親王殿下、同妃雅子殿下、敬宮愛子内親王殿下 御尊影=11日夕、栃木県那須塩原市
皇太子徳仁親王殿下、同妃雅子殿下、敬宮愛子内親王殿下 におかせられましては11日、静養のため栃木県に入られた。那須町にある那須御用邸に数週間、滞在あそばされる。
新幹線でJR那須塩原駅にご到着あそばされた皇太子徳仁親王殿下、同妃雅子殿下、敬宮愛子内親王殿下 におかせられましては、栃木県の福田富一知事が出迎えると、皇太子徳仁親王殿下におかせられましては、「こちらも東日本大震災で被災を受けた方々が多くいらっしゃるでしょう。お見舞い申し上げます」とお言葉を賜りました。
ピンクのワンピース姿の敬宮(としのみや)愛子内親王殿下も、雅子妃殿下とともに、福田知事に会釈をされあそばされた。福田知事が「アカトンボとセミがお待ちかねですよ」と話すと、愛子内親王殿下におかせられましては笑顔を見せられました。
宮内庁によると、皇太子徳仁親王殿下にあらせられましては公務のため27日に一度帰京あそばされ、30日に再び那須御用邸に戻られる予定。
昭和天皇陛下と国民昭和天皇陛下、香淳皇后陛下 御尊影
ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「五つの佳話」/加瀬英明
天皇は敗戦の年の昭和20年12月に、松村謙三農林大臣を皇居に呼ばれてこういわれた。 「戦争で塗炭(とたん)の苦しみを受けた国民に、このうえ餓死者を出すことは自分には耐え難い。政府が要請をしたのにもかかわらず、アメリカは食糧を与えてくれないという。だが、考えれば、当方に代償として提供すべき何物もないのだから、いたしかたがあるまい。 それで聞けば、皇室の御物(ぎょぶつ。天子の所有物、あるいは皇室の所蔵品)のなかには、国際的に価値のあるものが相当あるとのことだから、これを代償としてアメリカに渡して食糧に代えて、国民が飢餓を一日でもしのぐようにしたい」 そして帝室博物館の館長に命じてつくらせてあった皇室御物の目録を農相に渡された。天皇の意向は幣原喜重郎首相(在任昭和20年10月〜21年5月)を通じてマッカーサーに伝えられた。しかし、マッカーサーは「それは皇室の人気取りだ。そのようなものは必要ない。私が責任を持って、かならず本国から食糧を輸入する方法を講じよう」といって、緊急食糧を日本に放出するようワシントンに求めた。 昭和54年8月、宮内庁記者団とのご会見のときに、記者団から当時のことについて質問が出された。 「そういうことがあったのは事実です。しかし、自分のしたことですから、あまり公にしたくはありません」 これが天皇のご返事であった。 ※昭和24年から東宮御教育常時参与となった小泉信三博士は、皇太子(今上天皇)の教育係を引き受けるに当たって、昭和天皇に拝謁した。 そのときに、「陛下の御態度は、侍臣のおすすめ参らせた結果によるものでしょうか、あるいは古の聖人の書や明哲の伝記などをお読みになって、そういう習慣を御身につけられたのでしょうか」とうかがった。 すると、天皇はいとも簡単に「それは人のすすめによったものでもなく、読書の結果でもない。これはわが家の伝統である」とお答えになった。 ※天皇は酒を飲まれなかったし、美食を好まれることもなかった。衣類についても飾ろうとされることがなかった。側近にすすめられて、公務の場で着られる洋服を新着されても、新調した服が傷まないように、奥に入られると几帳面にすぐに古い背広に着替えられた。 ※皇太子が学習院初等科を卒業された昭和21年3月、天皇はお祝いに写真機を贈ることを思いつかれた。侍従に「市場にあるものは、闇市でたかいことだろう。(宮内省)写真部に中古はないか」と写真部から中古品を一つ取り寄せられた。 「これでよろしい。皇太子にはこれが手ごろだよ。あまり立派なものや、高いものを与えては、将来のためにならない」 といわれた。今上天皇のカメラ好きはこのときに始まる。 ※昭和のはじめ、陸軍大演習のため名古屋地方へ行幸された際、演習終了後に名古屋市内にある愛知時計電機の工場を視察されたその夜、30名ばかりの地方の民間功労者を晩餐(ばんさん)に招かれた。 時計が話題となった。すると陪食(ばいしょく)を賜(たまわ)った一人が、チョッキから金鎖を手繰(たぐ)り、金時計を取りだし、得意げに「陛下、これは外国製で御座居ますが、実によく合います。国産のものはどうしても不正確で、まだまだとうてい外国製には及びません」と申し上げた。 天皇はそれを聞かれると、ご自分の右ポケットから懐中時計を取り出された。 「わたしのこの時計は12円50銭の国産品だけどもよく合うよ」 と嬉(うれ)しそうに示された。その時計は侍従が天皇にいわれて東京・銀座のシチズン時計店で買ってきたものだった。高価な外国製時計よりもはるかに安価だったが、天皇はお使いになって外国製に負けないことを心から喜ばれていたのだった。 ※天皇の機知にあふれたユーモアは外国でも大いに発揮された。 昭和50年、天皇皇后両陛下はアメリカを訪問された。カリフォルニア州のディズニーランドを行幸啓され、居合わせたアメリカの子どもたちとも交歓されて大いに楽しまれた。このときにミッキーマウスの腕時計を贈られ、帰国後にこの時計を腕にはめられるという茶目っ気も御披露された。 ※御訪米時にお迎えしたのが、ジェラルド・フォード大統領だった。両陛下がお泊まりだったホワイトハウスの向い側にある迎賓館「ブレアハウス」にフォード大統領が訪ねて、予定時間よりも長く歓談された。両陛下は翌日にアメリカの国民的スポーツであるアメリカン・フットボールをご覧になる予定だった。そこで、フットボール談議となった。 フォード大統領が「スポーツのゲームを(大統領として)観覧しますときには、どちらかのチームを応援することができないので困ります」と申し上げた。 すると、天皇が相づちを打たれて、「とくに明日、あなたが出場されていたら、困りますね」とすかさず答えられた。 天皇はフォード大統領が学生時代にアメリカン・フットボールの名選手としてならしていたことを、知っておられたのだった。 この話は私が直接フォード大統領から聞いたものである。フォード大統領は昭和49年に国賓として訪日したときにはじめて天皇と会ったが、天皇の真摯(しんし)なお人柄にすっかり魅せられていた。 昭和天皇のお人柄によって、深く魅了された外国の元首や政治家は多かった。 ※昭和天皇の即位式である即位大礼が行なわれたのは、大正天皇の諒闇(りょうあん。天子が父母の喪に服する期間)が明けた昭和3年11月だった。天皇は27歳。 翌月の15日、東京の皇居前広場で、東京、千葉、埼玉、山梨、神奈川の諸団体から、青年男女約8万人が参加する大礼奉祝の式典が行なわれ、天皇が御親閲されることになった。天皇は大会の開催に同意されるとともに、天候を心配された。 「もしも当日、雨が降ることがあったら、青年たちに雨具を着用させるようにしてほしい。また、いかような大雨になっても、わたしが立つ場所に天幕を張ってはならない」 とお命じになった。当日は早朝から大雨であった。そこで、御座所の位置の上に天幕が張られた。宮内大臣をはじめ側近たちは天皇のご健康を思いやってのことだったが、天皇は「天幕を取りに除いてほしい。司令官も時と場合によっては第一線にたつことがある。今日はわたしのいうことに従ってほしい」と要望された。 午後2時、天皇は雨のなかを二重橋正門から自動車で式場に到着された。天皇が下車されると、侍従がすぐにうしろから雨用のマントをおかけした。だが、お立ち台の上でマントをお脱ぎ捨てになった。広場を埋め尽くした青年たちが篠突(しのつ)く雨のなかを雨具もつけずに全身を濡らしているのを、ご覧になったからだった。 やがて、青年たちが御前で分列行進を開始すると、天皇はずぶ濡れになられながらも繰り返し、挙手の礼をもって答礼された。多くの青年たちは感動して、涙が雨にまじって顔を濡らした。 天皇は式典が終わる1時間20分のあいだ、軍帽や軍服から水をしたたらせながらお立ち台に裁ち続けられた。 当時の代表的なジャーナリスト、徳富蘇峰は翌日の「国民新聞」に、式典の天皇の姿に感動して「真に感涙が溢るる」という文章を寄稿した。 ※終戦直後、フランス領インドシナ、東南アジアなどはイギリス軍の管轄下で約50万人、グアムなどアメリカ軍管轄下にも多くの日本兵がいた。 ノンフィクション作家、工藤美代子さんがロンドンにある国立公文書館で発見した外交文書によれば、天皇が個人の資金から赤十字国際委員会に5万円を寄付したというのである。その目的は「敵国にいる日本人の帰還が円滑に行なわれるのを助けるためと、彼らを勇気づけるため」に寄付を申し出たという。現在の貨幣価値に換算すると7500万円くらいになる。 当時の皇室財政は莫大なものといわれるが、天皇にとって皇室財政は国民のためのものであり、私するものではないという思いが沁(し)みついていた。 だが、戦争に負け、終戦を迎えると遠い異国で捕虜となっている日本兵の身の上が気がかりでならない。おそらく赤十字国際委員会に託した5万円は、天皇がご自分の意志でなんとか自由になる財産だったに違いない。 それは天皇が個人としてできる最大の心遣いだったのである。 我が心の昭和天皇 陛下の自然体のご威光を受けながら日本は驚異の復興を遂げた/平沼赳夫 私は終戦の翌年に小学校に入学し、戦後教育を受けた人間である。そのため、一時期は皇室の存在自体に疑問を抱くほどリベラルな思想に染まっていた。だが、中学3年生の頃、谷口雅春氏らの著書を読んで昭和天皇のお人柄、事蹟に触れ、目から鱗が落ちるように感激した。 <中略>全国を行幸されたときのエピソードにも感銘を受けた。例えば、地方によってはまともな宿泊施設がなかったため、焼け残った民間の建物や学校の教室にお泊まりになることも厭わなかった。また炭鉱では労働者が皇室制度に反対する演説をぶとうと待ち受けていたが、いざ昭和天皇がこられると、自然と万歳を唱えていた。昭和天皇の持つ、言いようのないご威光を感じたに違いない。 <中略>今上陛下まで数えれば125代という、世界で唯一無二の家系の重みを背負いながら、一瞬にして人を包み込むおおらかさをお持ちになっている。それがご威光になるのである。そのお姿を間近に拝見するたびに、私には、自然に万歳を唱えた炭鉱労働者たちの気持ちが理解できた。 敗戦、そして復興という、我が国の歴史の中でもとりわけ激動の時代に、昭和天皇という偉大な存在を戴いたことは、日本人にとって幸福なことだった。(談) 「SAPIO」、昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々より
常に国民とともに、国民は皇室とともに・・これが日本のお国柄です。
皇尊 彌榮 彌榮 彌榮
天皇、皇后両陛下 萬歳 萬歳 萬歳 日本国民は(やまと民族)は皇室と共に
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2011年08月12日
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