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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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日本の誇りが消されて久しい。
かつての日本の軍人たちの数々の誇りある偉業や勇戦を「戦争の美化」という連中がいる。
同じ歴史本を読んでもその人の持っている思想や信条で受け取り方は大きく変わってしまいます。
特に戦前については、悪いところしか見ない、欠点ばかりしか見ない、傾向が強い。
こういうものの見方しかできない人間が教育に携わっていると子供たちが悲劇であるといえるでしょう。
しかも彼らの言う「戦争の美化」という言葉はチャイナや韓国も同じく使うのだ。
このことは何を意味するのか、考えたい。・・・ 
 
さて、「沈勇」と聞いてピンとくる方はいるでしょうか?
戦前は修身の授業で「沈勇」と題して佐久間艇長を子供たちに教えていました。
修身の授業では多くの歴史上の人物などを取り上げて、その行いを学ぶものです。
子供たちはそこから、礼儀、道徳心、モラル、孝行、忠君など、
日本人としての生き方を感じ取り、日本の精神や大和心を自然と身につけていったのです。
 
佐久間 勉。
当時は日本国内だけではなく、世界の人々に感動を与えました。
今も佐久間艇長の命日には出身地の福井県で「遺徳顕彰祭」が行われています。
海上自衛隊音楽隊による演奏やイギリス大使館付武官によるスピーチも行われています。
 
明治43415日。
瀬戸内海の新湊沖で海軍の第一潜水隊に所属する六号艇が沈没しました。
艇長の佐久間勉大尉は潜水隊の一号艇から四号艇までの艇長を歴任したベテランで、
日露戦争中は水雷艇に乗り組み、多くの武勲を挙げました。
 
佐久間大尉が六号艦艇勤務になったのは、
潜水艦隊の中でも最も小さく低速の六号艇で僚艦との艦隊行動を可能にするためでした。
艇速をあげる試みとして佐久間大尉は繰り返し半潜航の訓練をしていました。
半潜航とは艦体を半ば沈めて隠密性を確保しながら外気への直接排気をすることで
速力と航続距離を得ようとするものですが、通気筒から浸水する可能性が高く危険な航法でした。
 
この日、六号艇は半潜航中に浸水がはじまりました。
慌ててバルブを閉じようとしましたがバルブのチェーンが切れて
艦体の後部が満水となり、傾斜したまま沈没してしまいました。
 
沈没した艦体が引き上げられたのは翌々日でした。
生存者がいることは期待されていませんでしたが、引き上げられた艦内を見て、
関係者は慟哭せざるを得ませんでした。
 
14人の乗組員全員が自らの持ち場で倒れていたのです。
薄まっていく酸素と、逃げられないことが明らかな死が近づきつつある状況においても、
乗組員たちはみな死にいたるまで取り乱すことなく職務に忠実でありました。
 
そして佐久間大尉の軍服のポケットからメモが発見されました。
沈没と同時に電灯は切れ、艦内に排気ガスが充満している状況において、
さすがに筆跡は乱れてはいるものの、整った文章で沈没に至る過程を記述し、
部下や上官への陳謝を記し、潜水艦の将来をおもんばかっているのです。
・・・・・・
 
佐久間艇長の遺書
 
小官の不注意により陛下の艇を沈め 部下を殺す、誠に申し訳なし、
されど艇員一同、死に至るまで 皆よくその職を守り沈着に事をしょせり
我れ等は国家のため職に倒れ死といえども
ただただ遺憾とする所は天下の士はこれの誤りもって
将来潜水艇の発展に打撃をあたうるに至らざるやを憂うるにあり、
願わくば諸君益々勉励もってこの誤解なく 将来潜水艇の発展研究に
全力を尽くされん事を
さすれば 我ら等一つも遺憾とするところなし
 
 
公言遺書
謹んで陛下に白す 部下の遺族をして 窮するもの無からしめ給わんことを 
我が念頭に懸るもの之あるのみ ・・・
 
十二時三十分 呼吸非常に苦しい・・・
 
十二時四十分なり
 
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このように記して遺書は終わっています。 ここで気を失い、亡くなったと思われます。
この佐久間大尉の遺言を知った日本の国民は震撼し、号泣した。
同時に佐久間大尉が日露戦争での旅順封鎖作戦で戦死した広瀬中佐にも勝るとも劣らない感動を日本全国民に与えました。
 
ヨーロッパなどでは同じような潜水艇事故の時には、脱出しようとした乗員が出入り口に殺到し、
最悪の場合互いに殺し合うなどの悲惨な事態が実際に発生していました。
 
イギリスの新聞グローブ紙には
「この事件で分かることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか道徳上、精神上にもまた勇敢であることを証明している。今にも昔にもこのようなことは世界に例がない」と驚嘆しました。
 
佐久間艇長以下の最後は深い尊敬の念を呼び起こし、世界各国から多数の弔電が届きました。
 
佐久間艇長の中学時代の恩師である成田鋼太郎先生は愛する教え子を失った深い悲しみと共に、この遺言を読んでこう言ったといいます。
「これを読みて、予は感極まりて泣けり。今泣くものは、その死を悲しめるにあらざるなり。
その最後の立派なりしに泣けるなり」
 
その後、佐久間艇長は武士道の鑑として言われました。
しかし、人間としての佐久間勉は決して英雄豪傑肌の人ではなかったといいます。
自分には厳しく、人には優しい、温和で思いやりの深い人だったと言われています。
 
自分が息をひきとろうとする間際において、
なお、部下の家族のことまで気遣う心根の優しさ、思いやりの深さは、
まさに海よりも深いものがあるのではないでしょうか。
・・・・・・
 
最後になりますが、この佐久間艇長のお話を今の小学校6年生の授業で聞かせているとろがあり、
子供たちの感想を書かせたものを記しておきます。
 
≪佐久間さんやその部下は自分の仕事をやり通した。その執念は今の人にはないと思う。
佐久間さんは国のために死んでいったのだろうと思った。≫
 
≪みんな亡くなっても自分の仕事を果たすなんて,誰にでも出来ることではない。この事はどこでも有名になってもおかしくない。自分の仕事は命をかけなければ出来ないことだ。命をかけなければどんな仕事でも出来ないような気がした。≫
 
≪最後まで自分の事を書かず,陛下,上官,部下の事を書き,ひたすら書いた。やっぱり日本は武士道だ。心が強い。こんなにいっしょうけんめい書いて後の人に残すなんて,さらに泣き言なんて一つも書いていない。≫
 
≪佐久間勉さんもすごいが乗っていた人達もすごい。各受け持ちの仕事を死ぬまでやっていたからだ。さらに佐久間勉さんも普通の人ならパニックになる時でも遺言を書いて事故の様子を詳しく書いていた。悲しい事故だと思う。≫
 
≪佐久間勉さんの潜水艇の人は,最後まで自分の仕事をやっていた。自分の受け持ちの所に居る時,恐くはなかったのだろうか。外国の場合とは全く違う。日本の人は勇敢だった。≫
 
≪亡くなる時はみんなパニックだったと思う。でもその時少しも騒がずに仕事をした佐久間艇長はすごい。もし自分が艇長だったら我先にと潜水艇を飛び出して死んでいただろう。もし死ぬんであれば誇れる死に方をしたい。そう思う。≫
 
≪自分だったらあわてて遺言なんて書けないと思う。日本の海の人はすごいと思う。自分が乗っている艇が沈んだら,私は絶対あわててパニックになっていると思う。佐久間さんはよくあわててパニックにならなかったと思った。≫
 
 
子供たちはこのような日本の偉人、先人たちの偉業こそ知りたがっているのではないでしょうか。 
そして、今の日本人が広く知らなければならないのはこういうお話ではないでしょうか。
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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永井博士を見舞われた昭和天皇陛下 御尊影
 
 
 
永井隆博士という人を皆さんはご存知だろうか。長崎では知らない人はいない。恥ずかしいことに、私はこの記事を作成するにあたって初めて知りました。
永井隆博士は、助教授をつとめる長崎医科大学付属病院で被爆されました。
 自らも重い傷を負ったその直後から、負傷者の救護や原爆障害の研究に献身的に取り組まれたそうです。
 やがて、彼の思いは医師としての役割から、長崎の町と文化の復興、そして平和の願いへと広がっていきました。
 被爆以前から患っていた白血病が次第に悪化するが「余命3年」、病床についてからも、執筆活動を通してその実践を貫かれた。
 
ご来訪の皆様は昭和天皇陛下が、47年2月の神奈川県を振り出しに、全国を訪問され、戦争で疲弊した国民を見舞われ、励まされたことはご存知だと思います。
長崎県には、49年5月24日から4日間滞在され、佐世保、川棚、大村、島原、雲仙、諫早、長崎などをつぶさに視察し、県民を励まされた。特に長崎市では歓迎に集まった5万人の市民を前に昭和天皇陛下は、「長崎市民が受けた犠牲は同情にたえないが、われわれはこれを礎として平和日本建設のために、世界の平和と文化のために努力しなければならない」と玉音賜りました。
昭和天皇陛下は5月27日永井隆博士を見舞いあそばされました。
 
 
「どうです、ご病気は?」
 昭和天皇は、ベッドのすぐ近くまでお寄りになり永井隆博士をいたわられた。この永井隆博士は、放射線医学の研究家で、原爆で愛妻を亡くし、自らも重傷を負いながらも「己の如く隣人を愛する」という精神のもと救護活動にあたった人物である。その後、被爆による骨髄性白血病で倒れ、病床で『この子を残して』を執筆し一躍世に知られた。巡幸日程が組まれた当初、永井博士は長崎医大附属病院屋上で昭和天皇をお迎えすることになっていたが、容態の悪化を侍従から聞かされた昭和天皇が屋内で出迎えてもよいと指示されたという。
 「あなたの書物は読みました」と昭和天皇がおっしゃると、博士は『この子を残して』に登場する子どもたちを振り返って「これが本の中に出てくる子どもですよ」と紹介した。昭和天皇は、子どもたちをしばらくご覧になった後に、「しっかり勉強して立派な日本人になって下さいね」とお声をかけられた。
 最後に昭和天皇は、博士の主治医影浦教授に「博士の治療を頼みますよ」と言い残され病院を後にされた。博士は「うれしかったですバイ」と感動にむせび泣いたという。この時の印象を博士は後に「天皇陛下にお会いして」という手記に次のように記している。
 「私はあの細やかな心遣いをして、どんな小さなものでも、いたわられる愛情と御態度こそ、今の私達日本人が、毎日の生活にまねをしなくてはならないと思う。今日本人はお互いに分離しているが、陛下がお歩きになると、そのあとに万葉の古い時代にあった、なごやかな愛情の一致が、甦って日本人が再び結びつく」

1948年(昭和23)10月 へレン・ケラー女史が訪れ、1950年(昭和25)教皇ヨハネ・パウロ二世からロザリオを贈られる。首相の表彰を受け、昭和天皇陛下より銀盃を贈られる。
1951年(昭和26)白血球39万となる(正常値7千)。5月1日午後9時50分 長崎医大で亡くなる。著書に「長崎の鐘」「この子を残して」
 
 
昭和天皇陛下の大御心に永井博士が感動し、日本人は斯くありたいと述べられたものです。
現世の我々は昭和天皇陛下、今上天皇陛下の大御心を忘れてはいまいか?
先人の教えを忘れてはいまいか?
日本のこころを忘れてはいまいか?
 
 
 
 

 
 
常に国民とともに、国民は皇室とともに・・これが日本のお国柄です。

皇尊 彌榮 彌榮 彌榮


天皇、皇后両陛下 萬歳  萬歳 萬歳


日本国民は(やまと民族)は皇室と共に
 
 

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