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■御所を廻る数万の人々■
それは、天明7(1787)年6月7日に始まった。京都の御所の築地塀の周りを廻る人々が現れた。ある記録によれば、どこからか老人が来て、御所の周囲12町(1300メートル)を廻る「御千度(おせんど)」をしたのが、発端だという。 7日には50人ほどの程度であったが、次第に数を増し10日には1万人もの老若男女が集まって塀の周りを廻った。その人数は、18日前後の数日間にピークを迎え、一日7万人に達したという。 人々は南門にたどり着くと、その少し低くなった柵の垣根から、銭を南門前面の敷石に投げ入れ、その向こうにある紫宸殿に向けて手を合わせた。現代の初詣と同じ光景である。 噂は大阪や近国にまたたく間に広まり、大阪から伏見までの淀川を行く船の業者は、運賃を半額にした「施行船」を仕立てて、客を運んだ。沿道では参拝者に茶や酒、食事が振る舞われた。 暑さの厳しい頃なので、御所では築地塀の周囲の溝に、冷たい湧き水を流して、手や顔を洗えるようにした。後桜町上皇は、3万個のりんごを配らせたが、昼前になくなってしまったという。隣接する有栖川宮家、一条家、九条家、鷹司家は、茶や握り飯を配った。菓子や、酒、トコロテン、瓜などを売る露天商が5百人ほども出た。 人々は御所、すなわち天皇に何を祈ったのか。当時の資料では「飢渇困窮につき祈誓」「米穀不自由につき」「米穀段々高値になり」などと記している。天明の飢饉で米価が高騰し、差し迫った生活苦からの救済と、五穀豊作を祈願したのである。 米価が高騰し、餓死者まで出るという困難な事態に、人々は、幕府の京都所司代や京都町奉行所に繰り返し嘆願した。ところが、これらの役所はいっこうに救済策をとらなかった。 前月5月には、怒った大坂の町民が数十軒の米穀商人の家を襲った。堺、播磨、紀伊でも同様の打ち壊しが起こった。そして5月19日から5日間、将軍のお膝元の江戸でも数百人が鉦かね)や太鼓を打ち鳴らし竹槍で武装して、騒擾を起こした。 江戸時代で最悪と言われる天明の大飢饉だが、いずれの地においても、幕府は有効な施策をとっていなかった。幕府の威光は地に落ちた。もはや幕府に頼んでも埒(らち)が明かないと悟った人々は、御所千度参りという形で、天皇に救済を訴えたのである。 ■光格天皇の幕府への前例なき申し入れ■ 光格天皇は、これを見て、すぐさま行動に移った。御所御千度参りが数万人の規模に達した6月12日、関白・鷹司輔平を通じて、対幕府の窓口である武家伝奏に、幕府方の京都所司代に対して窮民救済に関する申し入れをするよう、命じた。 世上困窮し、飢渇死亡の者数多これあるのよし、内院(天皇と上皇)ははなはだ不憫に思し召され、、、 賑給(しんごう、古代の朝廷が毎年5月に全国の貧窮民に米や塩を賜った儀式)などはできないか、関東から救い米を差し出して貧窮を救うことはできないか、との申し入れであった。 朝廷が江戸幕府の政治に口を出す、などという事は、まさに前代未聞の申し入れであった。 江戸の幕府は、申し入れ以前から米500石(7.5トン)を救済手当てに使っても構わないと京都所司代に指示を出していたが、朝廷からの申し入れを受けて、さらに千石(15トン)の救い米放出を命じ、これを朝廷に報告した。 この年の11月に挙行された大嘗祭では、光格天皇の次の御製が世上に流布し、評判となった。 身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかりぞ 飢饉に対して手をこまねいて民の打ち壊しに見舞われた将軍と、ひたすらに万民の安寧を祈り、幕府に救済を命ずる天皇と、鮮烈なコントラストが万民の目の前に明らかになった。 尊皇倒幕の大きなうねりは、ここから始まった。 光格天皇は9歳という幼少で、閑院宮家という傍系から、はからずも皇位についた方だった。閑院宮家は宝永7(1710)年に新井白石の意見により、皇位継嗣の安定のために創設された宮家であった。東山天皇の第6王子直仁親王が初代であり、その3代目の第6王子が佑宮(さちのみや)、後の光格天皇であった。皇位につく可能性はほとんどないため、わずか2歳にして、いずれ出家し聖護院門跡を継ぐことが予定されていた。 佑宮が9歳の時に、運命は急転した。当時の後桃園天皇が、病気のために急逝してしまった。わずか22歳の若さであり、子供もその年に生まれた女子しかいなかった。朝廷は幕府と秘密裏に交渉して、佑宮を後継とした。後桃園天皇の死から一月も経たないうちに、佑宮は御所に連れてこられ、新天皇となった。まさに青天の霹靂の即位であった。 傍系から幼少にして皇統を継いだために、朝廷や幕府の中には、光格天皇を軽んじる向きがあったという。それを案じたのか、先々代の後桜町院(*)は天皇に学問を熱心にするよう勧めた。光格天皇もその期待に応え、熱心に学問に励んだ。傍系として軽んぜられている、という事を幼少ながら感じ取っていたのであろう。理想的な天皇像を追い求め、それを立派に演じよう、という志をお持ちだったようだ。 *先代・後桃園天皇の伯母。後桃園天皇は父・桃園天皇が亡くなった時、まだ5歳だったため、成長するまでの中継ぎとして皇位についた。 御所御千度参りが起きた天明7(1787)年には、光格天皇は数え17歳。関白として九条尚実がいたが、老齢にして数年前から病気となっていた。この頃には、近臣の補弼を得ながら、自ら朝廷の中心となって、政務を取り仕切っていたようである。この点も、ここ数代の天皇とは異なっていた。 ■天下万民への慈悲仁恵のみ■ 寛政11(1799)年、後桜町上皇から与えられた教訓への返書に、光格天皇は次のように書いている。 仰せの通り、身の欲なく、天下万民をのみ、慈悲仁恵に存じ候事、人君なる物(者)の第一のおしえ、論語をはじめ、あらゆる書物に、皆々この道理を書きのべ候事、すなわち仰せと少しのちがいなき事、さてさて忝なく存じまいらせ候、なお更心中に右のことどもしばしも忘れおこたらず、仁恵を重んじ候はば、神明冥加にもかない、いよいよ天下泰平と畏(かしこまり)々々々入りまいらせ候・・・ (仰せの通り、自身の欲なく、天下万民への慈悲仁恵のみを思うことは、君主たる者の第一の教えであると、論語をはじめ、あらゆる書物に、みなこの道理が書かれていることは、仰せと少しの違いもなく、さても有り難く存じます。さらに心中にこの事をしばしも忘れ怠ることなく、民への仁恵を重んずれば、神のご加護も得られて、いよいよ天下泰平と、つつしんで承りました) 無私の心で、ひたすらに天下万民の幸福を祈ることが、皇室の伝統であり、光格天皇は学問を通じて、それを強く意識していた。「身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかりぞ」という御製も、ここから出たものである。 ■ロシア軍艦の来襲■ 天明の飢饉による各地での打ち壊しとともに、幕府の権威をさらに失墜させた事件が起きた。文化3(1806)年のロシア軍艦の北辺からの攻撃であった。 寛政4(1792)年に来日したロシア使節ラックスマンに対して、幕府は通商許可をほのめかしていたが、文化元(1803)年に来訪した使節レザノフには、全面的な拒否回答を行った。 これに怒って、ロシア軍艦が文化3年9月に樺太、翌年4月に樺太と択捉(エトロフ)、5月に利尻の日本側施設、船舶を攻撃し、幕府は東北諸大名に蝦夷地出兵を命ずるなど、軍事的緊張が一気に高まった。江戸ではロシア軍が東海地方から上陸するとか、すでに東北地方に侵入した、との噂が立っていた。また、外国との戦争で、わが国開闢以来の敗北を喫したことは、日本国の大恥だと、幕府を批判する言動も登場した。 ロシアとの本格的な戦争に備え、幕府は諸大名に大規模な軍事動員を覚悟しなければならない情勢となった。そのための布石であろう、幕府は進んで朝廷にこの事件を報告した。いざという時には、朝廷の権威を借りて、国家一丸となって戦う体制を作ろうと考えていたのかも知れない。朝廷に報告するのは、初めての事であった。この先例が根拠となって、後に幕府が外国と条約を結ぶ場合は、朝廷の勅許がいる、との考え方が広まっていく。 この時期に、光格天皇は石清水八幡宮と加茂神社の臨時祭再興に熱意を燃やしていた。この二社は、伊勢神宮に継ぐ崇敬を朝廷から受けていた。石清水臨時祭は、天慶5(942)年に平将門・藤原純友の乱平定の御礼として始められたが、永享4(1432)年に中絶されたままであった。加茂神社は皇城鎮護の神を祀り、国家の重大事には、かならず皇室から奉幣、御祈願があった。しかし、こちらの臨時祭も応仁の乱(1467-1477)後に中断していた。 光格天皇は早くから、両社の臨時祭再興を願っていたが、ロシア軍艦の襲撃のあった文化3年から幕府との交渉を本格化させた。開催費用がネックとなったが、幕府の老中は「禁中格別の御懇願」と光格天皇の熱意を受けとめた。その結果、文化10(1813)年3月、石清水臨時祭が約380年ぶりに挙行され、翌年11月には加茂神社臨時祭も約350年ぶりに再興された。 この石清水八幡宮と加茂神社には、幕末に次々代の孝明天皇が将軍家茂を同道して、攘夷祈願のため行幸されている。 こうした国家護持祈願に立つ天皇の姿は、危機の中で国を支えているのは皇室である、と改めて人々に印象づけたであろう。 こうして、内憂外患に十分対応できない幕府の威光が低下する一方、光格天皇の努力により朝廷の権威は徐々に増していった。この傾向を学問的にも定着させたのが「大政委任論」だった。 本居宣長は天明7(1787)年に執筆した『玉くしげ』の中で、「天下の御政(みまつりごと)」は朝廷の「御任(みよさし)」により代々の将軍が行う、すなわち国土と国民は天皇が将軍に預けたものであって、将軍の私有物ではない、と主張した。大坂の儒者・中井竹山、後期水戸学の祖・藤田幽谷も、同様の論を展開した。 学者・思想家だけでなく、老中首座・松平定信は、天明8 (1788)年に当時16歳の将軍・徳川家斉に対して「将軍家御心得十五カ条」を書いて、同様の主張をしている。 六十余州は禁廷より御預かり遊ばされ候事に御座候えば、かりそめにも御自身の物に思し召すまじき御事に御座候。 この論は、委任された大政を幕府がしっかり果たせない場合には、それを朝廷に奉還すべき、という主張に発展する。幕末の「大政奉還」論がここに兆していた。 ■約900年ぶりの「天皇」号復活■ 天保11(1840)年11月、光格天皇は在位39年、院政23年という異例の長きにわたった70歳の生涯を終えた。この間に、天皇の権威は大きく向上した。 「光格天皇」との称号は、崩御後に贈られたものである。これは当時の人々を驚かせた。江戸時代、天皇のことは通常「主上」「禁裏」などと称し、そもそも「天皇」とは馴染みのない呼称だった。また第63代の「冷泉院」から先代の「後桃園院」まで「院」をつけるのが通常であり、「天皇」号の復活は、57代約900年ぶりのことであった。皇室伝統の復活に捧げられた光格天皇の御生涯を飾るにふさわしい称号であった。 日本近世史を専門とする藤田覚・東京大学文学部教授は、もし江戸時代中期にペリーの黒船がやってきたならば、そもそも幕府が条約勅許を朝廷に求めることもなかったろうし、外様大名や志士たちが攘夷倒幕のために、尊皇を持ち出すこともなかったろう、と述べている。 その場合、幕府と外様大名の間で長く内戦が続き、日本が植民地化されていた可能性が高い 光格天皇の孫にあたる孝明天皇が、幕末に尊皇攘夷のエネルギーを結集し、明治天皇が、王政復古のもと近代国家建設の中心となった。9歳から70歳まで「朝な夕な民安かれ」と祈り続けた光格天皇が、その基を作られたのである。
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2011年08月24日
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コメント(6)
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天皇陛下、皇后陛下 御尊影
君が代
天皇陛下、皇后陛下 ご動静 23日 (火)(宮内庁発表分)
【午前】
両陛下 車で群馬県へご移動
両陛下 群馬県知事、県議会議長、県警本部長からごあいさつ、少時ご歓談(群
馬県富岡市・富岡市役所)
【午後】
両陛下 ご会食《群馬県知事、県議会議長、富岡市長、市議会議長》(同)
両陛下 富岡製糸場ご視察(富岡市)
両陛下 群馬県富岡市から車で長野県軽井沢町へご移動
両陛下 長野県知事、県議会議長、県警本部長からごあいさつ、少時ご歓談(長
野県軽井沢町・軽井沢町研修所)
天皇陛下 ご執務(同)
天皇陛下 皇后陛下、富岡製糸場ご覧に富岡製糸場の繰糸場を視察あそばされる天皇陛下、皇后陛下 御尊影=23日午後、群馬県富岡市
富岡製糸場の繰糸場を視察あそばされる天皇陛下、皇后陛下 御尊影=23日午後、群馬県富岡市
畏くも天皇陛下、皇后陛下におかせられましては23日、ご静養のため、静養のため車で長野県軽井沢町に入りあそばされた。同町と群馬県草津町に滞在あそばされ、29日に還幸啓あそばされます。
畏くも天皇陛下、皇后陛下におかせられましては23日午後、軽井沢に向かわれる途中に、明治5年に明治政府が設置した官営工場・富岡製糸場(群馬県富岡市)にお立寄りあそばされました。
富岡製糸場は昭和62年に操業を停止。陛下の訪問は昭和44年以来42年ぶりでしたが、操業していた当時を覚えている様子で、「この前来たときはこの器械でしたね」と、展示されている器械を見てお言葉を賜りました。東日本大震災の影響を心配あそばされ、質問されあそばされた。
畏くも天皇陛下、皇后陛下におかせられましては、ご公務、祭祀と多忙であられ、ご高齢でもあられるので、ごゆっくりご静養あそばされることを願ってやみません。
常に臣民の幸せを願われ、世界平和を願われる畏くも天皇陛下、皇后陛下。
畏くも天皇陛下の臣として生をうけたことを誇りに思い、畏くも天皇陛下、皇后陛下、皇族方がいつまでもお健やかであられることを祈念いたします。
常に国民とともに、国民は皇室とともに・・これが日本のお国柄です。
皇尊 彌榮 彌榮 彌榮
天皇、皇后両陛下 萬歳 萬歳 萬歳 日本国民は(やまと民族)は皇室と共に
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吉本興業は23日夜、同社東京本部(東京都新宿区)で
緊急の記者会見を行い、タレントの島田紳助さん(55)が
不祥事を起こしたため、同日付で引退すると発表した。
口を真一文字に結び、涙ぐみながら会見場に姿を見せた
紳助さんは2人の暴力団関係者と面識があることを認め、
「正直言って僕の中では芸能人と付き合ってはいけないと十分理解していた。人を介してメール送ったり、(自身が経営する)店にも何度か来られた。
これは悪いことをしている意識はなく、
芸能界のルール違反をしていないと日曜夜まで思っていた。
吉本興業の調査によると平成17年6月ごろから
2年間にわたり暴力団体関係者と親密さを伺わせる
携帯メールのやり取りが確認された。同社は違法行為はなかったとしている。
紳助さんはつなぎにリーゼント姿の漫才コンビ紳助・竜介として
昭和50年代ごろから大人気となった。
その後、「歌のトップテン」(日本テレビ系)で
司会を務めて番組の進行役として頭角を現し、
現在は「行列のできる法律相談所」(日本テレビ系)
や「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京系)など、数多くのレギュラー番組で
司会を務め、同社の看板タレントとして活躍している。
このため、今後のテレビ番組や芸能界に大きな影響が出るのは必至だ。
島田紳助さん一問一答「僕の中ではセーフだが、間違っている」23日夜、東京都新宿区の吉本興業東京本部で記者会見し、
突然の引退を発表したタレントの島田紳助さん(55)。会見では、
大勢の報道陣を前に、暴力団関係者との親密な関係、
引退の決断にいたった経緯を、声を詰まらせながら語った。
30年以上、芸能界のトップを走り続けてきた人気者の目に涙が浮かんだ。
一問一答は次の通り。
引退自体に納得しているか
「僕が何も言わなければ謹慎処分で済んだだろう。 でもそれでは示しが付かないと思った。
一番重い処罰は引退だと思ったので、引退することにした」
迷いはなかったか
「(暴力団関係者に)会ったのは十数年間で5回にすぎず、 人を介しての付き合いなので、僕の中ではセーフだと思っていた。
だが、明らかに芸能界のルールを間違っているし、
間違っていることに気づかなかった。
吉本でだいぶ先輩格のぼくがこんなことをやっては示しが付かない。
だから今後はその人には会いません。ただ、
道であったら遠くから頭は下げる。それは人としての感謝です」
長年の芸能生活の感慨は
「いろんな方に会えて、いろいろ勉強させていただきました。 すてきな人ばかりでした。
尊敬する上岡龍太郎さんが55歳で引退すると宣言しており、
同い年での引退に運命を感じます。
和田アキ子さんにも電話したがつながらず、
報告できなかったのが心残りです」
今後のことは
「何も考えていないが、何か世の中の役に立つようなことをやっていきたい」 吉本興業から挨拶全文
「このたび、弊社所属のタレント・島田紳助について、
平成23年8月23日をもって芸能活動を引退することとなりましたので
ご報告申し上げます。
弊社の調査によれば、島田紳助について、
平成17年6月頃から平成19年6月頃までの間、
暴力団関係者との間に一定の親密さをうかがわせる携帯メールのやり取りを行っていたことが判明しました。
このような行為は、社会的影響力の高いテレビなどのメディアに出演しているタレントとしては、その理由を問わず、許されないものであります。
今回判明した行為自体は法律に触れるものではなく、また
、経済的な利害関係が認められるものでもありません。
しかしながら、島田紳助が、多数のテレビ番組にメーン司会者として出演していることなどに鑑(かんが)みれば、
弊社としては厳しい態度で臨むべきであると判断するに至りました。
この点について本人に事実確認を行った結果、当該行為を認め、
何ら弁解することなく深く反省したうえ、今後について、
自ら社会的責任を取って芸能活動を引退したい旨の申し出を受けましたので、弊社はこれを了承し、本日限りで芸能活動から引退することとなりました。
弊社では、皆様からのご批判・ご意見を全て真摯(しんし)に受け止め、
今後の会社運営に生かしていくとともに、
さらに反社会的勢力との関係を断ち切る取り組みを
一層強化してまいる所存です。
最後となりますが、島田紳助が出演するテレビ番組などを
楽しみにしていただいたファンのみなさまを始め、関係各位の信頼を裏切り、多大なるご心配とご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます」
島田紳助の突然の発表に、ネットの反応はどうか。
大手掲示板には既に数万件のコメントが寄せられている。
内容をみると「なんだか腑に落ちない」
「こんな幕引きで一体誰が納得するんだ」
「3年も前の暴力団との関係でいきなりやめるものか?
なにか隠してるんじゃないの」「やっぱりわからん。何でこのタイミング?」
と不信感を抱いているユーザーも多く見受けられる。
島田紳助さんの第二の人生が闇に染まることなく、
平凡でも堂々と生活していく中でこの日の
想いを忘れる事がありませんように。
人生はそれこそ小説より奇なりです。
だからこそ負けずに。
あと、こんな婆を余り驚かせないでくださいよ。
お元気で、誠実にね。
お元気で…
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