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東日本大震災の被災地の復興を応援しようと、
愛知県日進市で18日夜に行われた「にっしん夢まつり・夢花火」大会で、
市などでつくる大会の実行委員会が、
福島県川俣町の業者が生産した花火の使用を
市民からの抗議で急きょ取りやめていたことがわかった。
実行委員会によると、震災復興をテーマに岩手、宮城、 福島各県産のスターマインを打ち上げる予定だったが、
16日から17日にかけ、「放射能汚染の心配はないのか」
「安全性を示すデータはあるのか」などと、
電話やメールで抗議が20件ほど寄せられたため、対応を協議。
打ち上げを委託した愛知県内の業者からも放射能検査機器がなく、
放射線量の確認が間に合わないと連絡があり、
17日、福島県産スターマイン1セット(80発)だけ、
愛知県内の業者の花火に代えることを決めた。
日進市の萩野幸三(こうぞう)市長は記者団に対し、 「結果的に福島県の方々に大きな迷惑をかけて申し訳ない。
被災地にエールを送るつもりで、福島の花火業者を指定して企画したが、
市民の不安にも答える必要があり、実行委も打ち上げを判断仕切れなかった」と話した。
福島産の花火、市民らからの抗議で使用中止日本テレビ系(NNN) 9月19日(月)12時56分配信
愛知・日進市で18日に行われた花火大会で、大会の実行委員会が、
福島県の業者が生産した花火の使用を、
市民らからの抗議で取りやめていたことがわかった。
日進市の花火大会の実行委員会によると、18日の花火大会では、 福島・川俣町の業者が生産した花火80発が打ち上げられる予定だった。
しかし、市民らから電話やメールで抗議が20件以上寄せられたため、
使用を取りやめたという。
抗議の内容は「放射能で汚染された花火を持ち込むな」「花火でまき散らすのか」といったもので、 実行委員会は愛知県の花火業者を通じて、
安全性を証明するデータを福島県の花火業者に求めた。
しかし、大会までにデータが間に合わなかったため、
使用を取りやめ、愛知県の業者の花火に差し替えたという。
福島県の花火業者は、 使用が取りやめられたことについて、「大変残念」とコメントしている。
これぞ風評被害ですね。抗議が20件ほどとありますけど、
逆にお尋ねしたい。
危険と言うデータは?
放射能汚染がなぜ心配?その全てのソースを
教えて下さい。
この20件の抗議は福島県の人を差別したばかりではなく、復興しようと言う
心まで踏みにじったと想います。
自分の県が住まいが安全ならそれでいいのかとお聞きしたい。
福島県産のものを美味しそうだと思えば私は普通に買いますし、
見たかったです。福島県産の花火。
福島県産だから…?こんな考えもう捨てませんか?
もし自分の住んでる所で同じような原発事故が起きて、復興もままならない
けど放射能汚染が心配で拒否されたら…どう想うのでしょうか。
日本人として悲しい事です。
こんなに心が狭いなんて。世界にも恥ずかしい事です。
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2011年09月19日
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副島種臣翁
9月17日の産経新聞・消えた偉人物語に、副島種臣翁が紹介されていました。
近年の我国の外交は、昨年の尖閣諸島問題に見られる摩擦を怖れ、事なかれ主義の一国の外交と呼ぶには程遠い惨状にあり、民主党政権の「弱腰」を見透かしたように、隣国ロシア、中国、韓国などが、我国の主権を脅かしています。
明治日本には、日本人としての誇りと気概の外交を展開した官僚、政治家が存在しました。
副島種臣翁は、文政11年9月9日(1828年10月17日)佐賀藩に生まれました。
幕末・明治維新において佐賀が生んだ七賢人の一人に列せられています。
最上部、鍋島直正公、中段右より、大隈重信、江藤新平、副島種臣、下段左より、佐野常民、島 義勇、大木喬任(敬称略)
慶応3年(1867)、大隈重信と脱藩し勤王の志士として活動するが捕らえられて佐賀に送還され謹慎処分を受ける。
明治維新後は慶応4年(1868)、新政府の参与・制度取調局判事となり福岡孝悌と『政体書』起草に携わる。のち外務卿になり、マリア・ルス号事件で活躍します。
マリア・ルス号事件とは、明治5年(1872)6月、ペルー国の汽船マリア・ルス号が横浜に入港した際、マカオから奴隷として売られて行く清国人231名が船客名義で載せられていましたが、苦力(クーリー)二人が海に投じて逃亡を企て、イギリス軍艦に身を投じたことにより、日本官憲の探知する処となったのでした。
当時の我国とペルーは条約未締結国であり、障らぬ神に祟りなしで知らぬ顔をしていれば済んだのですが、外務卿だった副島種臣翁は直ちに神奈川県令大江卓に調査を命じます。調査の結果、逃亡者の虐待のことなども判明しまし、奴隷売買の不当と人権蹂躙の立場から、一般支那居留民同様に奴隷を取扱い、ペルー船の出帆を押えて、表向きに取調べを始めます。
船長の罪は杖百にあたるが情状酌量で無罪と判決。苦力229人を清国側に引渡します。
そこで国際的に問題が紛糾し、ペルー公使は日本に謝罪と賠償を求めますが、イギリスは日本の主張に声援します。問題はいよいよ大きくなり、その談判や判決に満3年間を要する程の大きな事件となってしまいました。
副島種臣翁は、帝国の正義と国権を以て一歩も譲らず、人道上決して黙許すべきでないと主張します。明治8年(1875)ロシア皇帝の仲裁裁判判決により日本の主張を認められ、アメリカ人顧問の援助も得て、初の国際裁判に勝利したのでした。
この事件は我国の陰の部分の問題も解決しました。
裁判の審議で船長側弁護人が「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出してきたのです。
日本国内でも娼妓という「人身売買」が公然と行われており、奴隷売買を非難する資格がないとのこの批判により我国は公娼制度を廃止せざるを得なくなり、同年10月に芸娼妓解放令が出されたのです。
明治4年(1871)に宮古島島民遭難事件が起きました。
宮古島島民遭難事件とは、当時、日本と清国双方に属し、二重体制にあった琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、漂着した69人のうち3人が溺死、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件です。
副島種臣翁はこの事件の、特命全権公使兼外務大臣として清の首都北京へ派遣されました。産経新聞の消えた偉人物語・副島種臣はこの時の副島種臣翁の堂々たる外交を紹介しています。
副島種臣翁の堂々たる外交は、当時大国だった清国高官より、「台湾には生蕃と熟蕃があり、王化に服するのを熟蕃といい、服従しない生蕃は化外に置く」との言質をとり、我国の台湾出兵の根拠となった。
明治6年10月(1873)の征韓論争に敗れたためいったん下野しましたが、明治12年、宮内省に出仕して宮内卿と同格の一等待講。明治17年、伯爵。明治20年に宮中顧問官、明治21年に枢密顧問官、明治24年に枢密院副議長になり、明治25年には第1次松方内閣において3ヶ月間内務大臣を務めた。
西郷南洲翁とは、互いに尊敬していた友人であり、大橋昭夫『副島種臣』によると、西郷南洲翁は辞世の時、「副島に期待する」と語ったそうです。
記事冒頭でものべましたが、近代日本の夜明けに、日本人としての誇りと気概の外交を展開した副島種臣翁は、昨今の外交を何と思われるでしょうか?
我国は人道を重んじた道義国家であり、後年、世界で最初に「 人種的差別撤廃」を国際連盟に提議した国であることも、忘れてはならないでしょう。
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