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皇居・宮殿で10日、天皇、皇后両陛下が学問の権威者から
説明をお聴きになる「講書始の儀」が行われ、皇太子さま、秋篠宮ご夫妻、
常陸宮ご夫妻、寛仁親王殿下の長女の彬子さま、高円宮妃久子さま、
長女の承子さま、次女の典子さまが列席された。
明治2年に原形となる儀式が始まったとされ、
昭和28年からは現在のように
人文科学・社会科学・自然科学の3つの分野から
説明が行われるようになったという。
2日後の12日には「歌会始の儀」が宮殿で行われた。
開催される日付は毎年異なるものの、新年に行われる一連の宮中行事は、
歌会始の終了でようやく一段落つくといわれている。
昨年成年を迎えた秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまについては、
今年初めて出席される新年行事が相次いだ。
歌会始には出席しなかったが、歌会始の場でお歌を初めて披露された。
そのお歌は
「人々の想ひ託されし遷宮の大木(たいぼく)岸にたどり着きけり」。
20歳となった翌月の昨年11月に伊勢神宮を参拝した際、
5年前に見た「御木曳(おきひき)」の川曳の光景を思い出し、
20年に1度お宮を建て替える、
式年遷宮に対する多くの人々の気持ちに思いをはせられたという。
御木曳は遷宮に伴って必要となるヒノキの用材を内宮、外宮まで
運ぶ行事で、内宮用の用材については五十鈴川をソリでさかのぼるため
川曳と呼ばれる。
眞子さまは秋篠宮さまと一緒に平成18年7月にご覧になったという。
写真:秋篠宮眞子内親王殿下
一般からの入選歌の倍率は1883倍。
終了後、入選者10人による記者会見では、
「夢だった」「光栄」などと感激する声が続出した。
最年長の茨城大名誉教授、寺門龍一さん(81)によると、
陛下は「いわきはどういう状況でしたか」と寺門さんに尋ねられた。
かつて校長として勤めていた福島工業高専の卒業生が津波で殉職したため、「心を痛めている」と話すと、
皇后さまは「本当にお辛いことでしたね」と話されたという。
また、海外から唯一の入選となった、
カンボジアで活動するNGO「日本地雷処理を支援する会」の
渡辺栄樹さん(65)に対し、
皇后さまは「雨期になると地雷がたいへんじゃないですか」と
尋ねられたという。
渡辺さんは、現地では円形の地雷が雨によって別の場所に流れ、
子供が遊んで事故が起こっていることを明かし、
「皇后さまが、対人地雷の特性までご存じだったのでびっくりしました」
と述べた。活動に対しては「頑張ってください」との励ましを受けたという。
昭和天皇の命日にあたる7日、皇居・宮中三殿の皇霊殿で、
昭和天皇祭皇霊殿の儀が行われ、両陛下、皇太子さま、眞子さま、
常陸宮ご夫妻、彬子さま、高円宮妃久子さまが拝礼された。
午後の御神楽の儀には、陛下と皇太子さまが拝礼された。
秋篠宮ご夫妻は武蔵野陵(東京都八王子市)で行われた昭和天皇祭山陵に
奉幣の儀に臨まれた。
各宮家は今週もさまざまな公務を果たされた。
秋篠宮ご夫妻は11日、宮邸で、
国立特別支援教育総合研究所理事長から進講を受けられた。
13日には、宮邸で、外務省国際法局長から進講を受けられた。
秋篠宮さまは11日、宮邸で、日本動物園水族館協会会長らと懇談された。
13日には都市センターホテル(東京都千代田区)で、
生き物文化誌学会理事会、評議員会、賛助会員の集いに臨まれた。
高円宮妃久子さまは8日、第一生命ホール(東京都中央区)で、
高円宮殿下メモリアル第12回日本マスターズオーケストラキャンプに
臨席された。
9日、国立霞ヶ丘競技場(東京都新宿区)で、
第90回全国高等学校サッカー選手権大会の決勝戦を観戦された。
11日、帝国ホテル(東京都千代田区)で、
2012年日加協会新年会に臨まれた。
今回は御具合の悪い宮様方が多く心配致しております。
皆様、ご平癒をお祈り下さい。
宮内庁の小町恭士東宮大夫は13日の定例会見で、
皇太子妃雅子さまが体調を崩され、
10日に感染性の胃腸炎と診断されたことを明らかにした。
感染経路は不明で、ウイルスが原因の可能性が高く、
ノロウイルスの疑いもあるとしている。
胃腸の不調や、37度台の発熱などの症状があったが、
すでにほぼ回復し、食欲も戻られてきている。
一時は辛そうなご様子だったという。
しかし、皇太子ご夫妻の長女、敬宮愛子さまは10日、
学習院初等科の始業式を迎えられた。
通学に対する不安は改善し、
昨年末は雅子さまのお付き添いなしで通学する頻度が高くなっていたが、
この日もお一人で登下校し、式典にも出席されたという。
寛仁さまは10日、あごに見つかった腫瘍の治療のため、
入院先の佐々木研究所付属杏雲堂病院(東京都千代田区)で
手術を受けられた。
執刀医の海老原敏院長は翌11日に宮内庁で記者会見を開き、
腫瘍について「がんの再発とみるのが普通」と説明した。
海老原院長によると、寛仁さまの下咽頭を中心に
中咽頭や口腔(こうくう)にがんが広がり、
中咽頭と口腔の右半分を切除して欠損部を腹部の皮下脂肪で再建した。
転移を防ぐため首の両側のリンパ節も一部切除。術後の経過は順調だが、
傷の回復に2、3週間かかり、ご退院の時期は未定という。
手術は約10時間に及び、医師だけでも、麻酔医2人、
形成外科医2人を含む計8人がチームを組んだ。
手術の手法によっては、あごの骨を切り取ることも検討されたが、幸い、
あごを残したまま患部を切除できたとしている。
寛仁さまの顔の表情に影響はなく、飲み込んだり、
話したりされる機能も保たれた。
回復すれば、公務に臨まれることも可能だという。
寛仁さまががんに関連した手術や治療を受けられるのは15回目となったが、海老原院長は、今後同じ場所にがんが再発した場合、
さらなる手術は難しいという見解も示した。
こんなにお体の悪い寛仁親王殿下がまだ公務や私たちに
お心を寄せられる事は本当に有難い事です。
平癒を祈りましょう。
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2012年01月15日
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1881年3月のことです。
ハワイ王国のカラカワ王は世界一周旅行の途上で日本の横浜港に到着しました。 日本の海軍軍楽隊はハワイの国歌「ハワイの国民」を演奏して出迎えたのです。王は思いがけない日本側のもてなしと、異国の地で自身が作詞した国歌を聴かされた事に感じ入って、涙を流した。
カラカワ王は日本人通訳を連れて密かに明治天皇との会見を願い出たのです。特別列車で皇居に向かう途中、港も鉄道も白人ではなく日本人が運用されているのを見て感激しました。これはハワイでは白人がいたるところで独占していたからでした。
カラカワ王はこのような心づくしと独立した誇りある日本を見て、日本と同盟を結んで白人支配から独立しようと思ったのでした。
明治天皇と会見したカラカワ王は、日本の伝統文化と近年の国家的隆盛を賞賛した後、ハワイ王国の内憂外患の窮状を述べ、日本に対してハワイの人口減少を日本人移民の実現したいこと、王位を継がせる姪のカイウラニ王女と日本皇族の山階宮定麿親王との婚約を申し入れました。 明治天皇もこの申し出には驚かれ、即答せずに後日返答する旨を伝えました。
我が国としては明治維新後まもなく、米国と対抗する力のないため、明治天皇はカラカワ王に特使を派遣して婚姻の議は「日本の皇室にはそのような前例がないこと」「米国の勢力圏に立ち入るのを好ましくないと判断」したことを理由に辞退されたのでした。
しかし、移民については1885年に実現しました。ホノルルに到着した日本移民のために歓迎会が催され、カラカワ王自身も参加し、日本酒を振る舞い、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会でもてなしたのです。
しかし、ハワイの米国人たちはカラカワ王の動きを封じるために新憲法を起草し、白人武装集団の圧力のもと承認の署名を行うようカラカワ王に突き付けました。この中には王の政治的行為は全て議会の承認を必要とし、多くのハワイやアジア人を選挙から排除するものでした。銃剣でカラカワ王に署名させたこの憲法は「銃剣憲法」と呼ばれました。 1891年、カラカワ王が病死すると、実妹のリリウオカラニ女王が即位しました。 女王は選挙権を貧しい島民にも与える憲法改正を発表し、イオラニ宮殿前では数千人のハワイ人が集まって女王支持のデモを行いました。
しかし、白人側はこれを機に一気に王制打倒に動き出しました。
米国公使スティーブンスは「血に飢えた、そして淫乱な女王が恐怖の専制王権を復活させようとしている」というデマで訴え、「米国人市民の生命と財産を守るために」と言ってホノルル港に停泊中の米軍艦「ボストン」の海兵隊を上陸させて女王を退位させたのです。
ここにハワイ王国は消滅し、ハワイ共和国が樹立され、頃あいを見て米国は併合しようとしました。
しかし、ここで思わぬことが起きました。
「浪速」の艦長は東郷平八郎です。後に日本海海戦を指揮して世界に勇名を馳せた名提督であります。東郷平八郎は、「武力でハワイ王制を倒す暴挙が進行している。我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる」と宣言しました。この市民の中には米国市民も入っていました。
「浪速」は3ヶ月ハワイに留まった後、いったん帰国、一年後に再び姿を現しました。ハワイ共和国大統領から「建国一周年」を祝う礼砲を要請してきましたが、東郷艦長は「その理由を認めず」と拒絶しました。するとホノルル軍港の各国軍艦も東郷にならいました。世界の新聞は「ハワイ王朝の喪に服するような静寂の一日に終わった」と伝えました。
ハワイ人の間では日本の軍艦が味方してくれたという話が語り継がれ、子供に「トーゴー」と名づけたり、ある地域では「ナニワ(浪速)」が「ありがとう」の意味で使われたりしたという。・・・
浪速
金剛
かつて日本という国は強くて正義感ある国でした。
しかし、現在の日本はどうだろう。
1月14日、我が領土である北方領土に視察した玄葉外務大臣は自国領土であるのに遠くから眺めるだけで島に近づくこともできず、以前の前原外相の北方領土視察も遠くから見ているだけでした。同じく1月4日、尖閣諸島付近ではチャイナ漁船監視船が接続水域に入ってきました。尖閣付近では頻繁に起きていますが、我が国は注意をして様子をうかがっているだけであります。
竹島は韓国が我がもの顔で構造物を作り続け、日本政府は韓国や在日に気づかって「不法占拠」とも言えず、それが更なる挑発行為となり、ついには韓国日本大使館前に従軍慰安婦像を置く行為にもつながっているのです。
戦前が全ていいというわけではありません。戦前にも幣原喜重郎のような軟弱外交もありましたが、やはりその時も多くの日本人の犠牲を伴ってきた歴史的事実があります。
国の護りというのは自分たちの「手」と「命」で護らねばなりません。自国の護りを他国に依存する愚行は戦前にはありません。
きっと自衛隊の中にも東郷提督に劣らぬ立派な方はいるであろう。ただ、今の日本はそういう人物が表に出てこられない土壌があることが残念であります。
かつて日本には東郷平八郎のような堂々とした立派な提督がいたことを誇りに思い、今のダメな日本を変えて行こうじゃありませんか。
「私は戦場で三十年、『生きる』意味を真剣に考えた。戦前、人々は『命を惜しむな』と教えられ、死を覚悟して生きた。戦後、日本人は『命を惜しまなければいけない』時代になった。何かを“命懸け”でやることを否定してしまった。覚悟をしないで生きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで日本人は『生きる』ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。・・」
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わが庭の そぞろありきも 楽しからず
わざはひ多き 今の世を思へば
※昭和五十八年年頭の御製です。
総ての臣民に対し、御慈しみの心をもって接せられ、私心(わたくしごころ)を一切現わされるこ との無い 畏くも昭和天皇陛下が「わざはひ多き世」と御詠みあそばされました。
俗に言う「災い」としては、「戦争」「天変地異」「不景気」などが挙げられますが、この御製を詠まれた当時、戦後四十年近くも 平和が続き、
今年3月に東日本を襲った東日本大震災ほどの大きな災害もなく、景気も好況を呈していました。
陛下にこのような御歌を御詠みいただく程の事件は、何も考えられません。
それにも拘らず「わざはひ」とお詠みになられたのは、天変地異や不景気などとは比較にならない 大きな「災い」である「精神の荒廃」について深く 大御心を痛められたが故と推察致します。
この荒廃の根本原因はマッカーサーが命じて作らせた占領基本法である現行憲法(と称するもの) です。
憲法は国の魂です。近年目を覆いたくなるような、政治の迷走、拝金主義に走った犯罪、尊属殺人など枚挙すればきりがありません。
すべて、個の尊重への偏重による占領憲法を原因としております。
清水澄(しみず・とおる)博士肖像、自決ノ辞
昭和22年9月25日、最後の枢密院議長となった清水博士は、熱海錦ヶ浦の断崖から身を投じられた。享年80歳でした。
大日本帝国憲法下の天皇陛下の忠臣として、自らの生涯を全うする決意であられた博士は、占領憲法発布の同年5月3日屈辱の日に意を決せられ、密かに上掲画像の「自決ノ辞」に認められ、自室の机の引き出しに隠されたのです。
発見された博士の亡骸は、モーニング姿の正装、左手に数珠を巻き、口を真一文字に結び、両手の拳はしっかりと腰に当てられ、まさに古武士の大往生の風貌であったと言われています。
占領軍は武力を背景とし、国際法の精神を無視し、占領者の都合のいい植民地憲法を速成させ、新憲法として押し付ける暴挙のでたのです。
昭和22年5月3日は、日本人による、日本人の為の「大日本帝国憲法」が、日本人の総意に基づくことなく廃止せられた屈辱、国辱の日であることを、やまと民族たる日本人は決して忘れてはならないでしょう。
終戦を境に、占領軍に媚びを売り、戦争には反対だった、我國の政治に疑問を感じていた、戦争に負けていい國になったなどと、臆面もなく宗旨替えする破廉恥な日本人、敗戦利得希望者が各界に声を挙げた。
敗戦利得者の多くは他界しているが、その後継者、追従者が今尚、生き続け一昨年政権を搾取しました。
戦後手中にした、敗戦利得を保持するため、今も政界、マスコミ界、学会、において活動し、国民を騙し、国益を損じているのです。
東宮御用掛、宮内省御用掛として、先帝陛下にお仕えされた清水博士には、占領憲法は耐え難いものであったことでしょう。
博士が予測されたとおり、かってのお国柄とは似ても似つかぬ国に変わり果ててしまった今日の日本。
本ブログの拙稿、「誇り高き日本一の町、岡山県奈義町」の中で、昭和44年「大日本帝国憲法復原決議を紹介しましたが、まだこの頃は戦前世代の方々が国を憂い、行く末を修正しようとされていました。
冒頭の先帝陛下の御製を賜った昭和58年には、世代変わりが進み、この異常な植民地、占領憲法を異常とさえ思わぬようになっていたのです。
わが庭の そぞろありきも 楽しからず
わざはひ多き 今の世を思へば
先帝陛下は、変わってしまったお国柄、民族の精神の荒廃を「わざはひ」と詠まれたものと推察することは容易です。
我々こころある臣民は、博士の遺志を継ぎ「大日本帝国憲法」を復原し、占領憲法の呪縛を解かねばなりません。
そして、敗戦利得者の後継、追従者を駆逐せねばなりません。
清水澄博士の墓(青山霊園)
最後に博士の大往生の折り、ポケットに入っていた遺書、辞世ともいえる
「われ楚の名臣屈原にならって自決し幽界より國體を護らん」
尊い御心を胸に刻みたい。
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11月16日に
西田昌司参議院議員が紹介議員となり、現行の日本国憲法が無効であるとの請願が国会で受理されました。 勿論、反日マスゴミによって、報道はされていません。 請願は以下のとおりです。
一 請願の趣旨
1 日本国憲法であると詐称し続けてゐる占領憲法は、GHQの軍事占領下で我が国の独立が奪はれた時期に制定されたもので、独立国の憲法として認めることはできません。
占領憲法第9条第2項後段の交戦権(right of belligerency)とは、アメリカ合衆国憲法に云ふ戦争権限(war powers)と同義であつて、宣戦、統帥、停戦、講和といふ一連の戦争行為を行ふことができる権限のことです。
ですから、交戦権がないことから戦争状態を終了させる講和行為を行ひえない占領憲法が仮に憲法であれば、我が国はサンフランシスコ講和条約によつて戦争状態を終結させ独立することができないことになります。
そのことからして、我が国は大日本帝国憲法第13条の講和大権によつて戦争状態を終了させて独立を回復したことになるのですから、大日本帝国憲法は現存してゐるのです。
2 つまり、占領憲法は、無効規範の転換理論を定めた大日本帝国憲法第76条第1項により、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印からサンフランシスコ講和条約に至るまでの一連の講和条約群の一つとして評価されるもので、大日本帝国憲法の下位規範として認められるものです。
3 そして、昭和44年8月1日に岡山県の奈義町議会が『大日本帝国憲法復原決議』を可決したやうに、国家にとつて他国による干渉行為がなされたときは、まづは原状回復をなすべきことが国際的にも普遍の条理であることは云ふまでもありません。
4 北朝鮮に拉致された被害者、ソ連(ロシア)に奪はれた北方領土、韓国に奪はれた竹島について、すべて完全な原状回復を実現することが我が国の基本方針であるとするのであれば、我が国の国法体系についても同様でなければなりません。
5 ましてや、ご皇室の家法である明治22年に制定された正統なる皇室典範は大日本帝国憲法などと同列の国家の最高規範であるにもかかはらず、これを廃止させた上、占領憲法下で同じ名称を付けた昭和22年の法律である皇室典範(占領典範)は、法令偽装の典型であつて、国民主権の占領憲法により、国民を主人とし天皇を家来とする不敬不遜の極みである皇室弾圧法に他なりません。 6 我々臣民としては、国民主権といふ傲慢な思想を直ちに放棄して、速やかに占領典範と占領憲法の無効確認を行つて正統典範と正統憲法の現存確認をして原状回復を成し遂げる必要があります。これによつて、拉致問題、領土問題、教育問題、原発問題などについても原状回復による解決が図られ、祖国の再生が実現しうるものと確信し、以下の事項を請願します。 二 請願事項
1 憲法問題、典範問題、拉致問題、領土問題、教育問題、原発問題などの解決のために必要な国家再生の基軸は、原状回復論でなければならないことを国会議員全員が自覚されることを求めます。 2 占領憲法が憲法としては無効であることを確認し、大日本帝国憲法が現存することの国会決議がなされることを求めます。 3 占領典範の無効を確認し、ご皇室の家法である明治典範その他の宮務法体系を復活させ、ご皇室の自治と自律を回復されることを求めます 岡山県奈義町(矢印部分)
奈義町議会「大日本帝國憲法復原決議」昭和44年7月30日、地方自治法第120条に基づく議案提出。
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日本の劣化を象徴する日教組はじめ反日左翼団体、朝日新聞などのマスコミ、自国の国益より支那朝鮮に配慮する愚かな政治家たち、そして文部省。彼らは反日支那人江沢民の来日をおもねるが如く、現状の日本の教育を最前線で憂う愛国者 福地惇先生の発言を槍玉にあげ、更迭したのです。
この事件に関して福地先生が最も尊敬する西尾幹二先生が1998年12月にこのように書いております。
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調査官更迭は仕組まれた罠 文部省だけが軽挙妄動した
評論家 西尾幹二
江沢民氏来日に照準
文部省の主任教科書調査官 福地惇氏が「近隣諸国条項」を批判したとして11月26日更迭処分された事件には、従軍慰安婦問題と同様に再び左翼に仕組まれた明確な罠が読みとれる。問題が生じてから処分までが余りに短い。おおよそ2〜3日なのである。
待ってましたとばかりに急いで処分した文部省幹部ないし文部大臣その人が左翼体質である可能性はきわめて高い。
問題発言の載った会員制月刊誌「MOKU」9月号が最初に人の目に触れたのは、版元によると9月初旬である。左翼関係者が問題化を目論んだのはいつかは分からないが、すぐに問題化せず、時期を待っていたのには理由がある。江沢民来日に照準を合わせるためであった。
共同配信記事11月23日付を見て、それだけのことで有馬文相は24日に記者会見を行い、間髪を入れず「厳正に対処したい」と返答。
『朝日』に文相記者会見の記事が載ったのが24日夕刊であり、出版労連など6団体が福地解任の要請書を提出したのが25日である。その25日にかねて予定した通り江沢民が日本に来た。
25日と26日の『赤旗』に一連の関聯記事がのり、26日夕方に更迭処分が発表された。
電光石火の勢いである。まるで呼吸を合わせているかの如き素早さである。
不思議なのは文相が、出版労連など左翼6団体が文部省に要請書をまだ出してもいない前の日に、どこでどういう仕掛けがあったか、あわてて「厳正処分」を口走り、その通りにしたことである。背後に左翼の動きがあって、理科系で人文思想のない(あるいは最初から左翼に好意的な)文相がシナリオ通りに行動した、ということか、それとも江沢民訪日の生贄に身内を捧げることで文部省が内閣に忠誠心を示そうとしたか、のいずれかであろう。ばかげた話である。なぜなら小渕内閣は今回可能な限り中国の圧力に屈しまいと努力し、外相も私の見る限り日本の利益を守るために良くやったという印象だからである。ひとり文部省だけが軽挙妄動した。やらないでもいいことをやった。内閣の中で突出したことをやって、むしろ内閣を傷つけた。そして、日本国民を侮辱した。国民はこの大臣のしたことをしっかり覚えておこう。
日本人は悪魔か外道か
いわゆる「近隣諸国条項」は昭和57年の教科書誤報事件をきっかけに設けられるなど、成立過程に疑問があり、これの廃棄が今後保守政権内部で、中韓両国の内政干渉を排除するためにどうしても必要な案件になるであろう。
しかし今さしあたり、この条項は存在するのである。すなわち「わが国と近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いにあたっては、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること」というくだりである。が、それを仮に認めるとしても、福地氏の雑誌発言は言論の自由の範囲にあり、どう考えても同条項に違反するものには読めない。
「近隣諸国条項」は近隣への「必要な配慮」をうたっているだけで、近隣諸国は正義の化身、日本は悪魔か外道という「全面屈服」を書けと言っているものではない。ところが現行教科書が文面においても、イラストにおいても、日本人を悪魔か外道のように描く、行き過ぎた誇張に堕している
ことを、われわれは実証してきた。
良識的認識の範畴
福地氏は現行小学校教科書が、「ほとんど戦争に対する贖罪のパンフレットなんです。それで、侵略戦争を二度としないようにするためには、どうしたらいいかということが最後の結びになっている。僕はちょっと気が滅入りました。あの戦争はよかったとはいえませんが、わけありでああいうことになったわけで、日本だけが悪いという感じで書かれると、子供たちが本当にどういう気持ちがするだろうかと思いますね」と述べているが、氏は現行教科書が「近隣への配慮」を越えて「全面屈服」となっていることを批判しただけで、なんら近隣諸国条項に違反していない。
「贖罪のパンフレット」という言葉がいけないということだが、それは低劣な教科書の実態をおおい隠して、検定制度は立派にやっているとのみせかけの権威を守りたい文部省の言いがかりにすぎない。
今の歴史教科書の下劣さが政治パンフレット以下ですらあることは、文部官僚諸氏が文部省を離れて、一私人の常識に立ち還れば、残念ながら一人として例外なく認めざるを得ない処であろう。
福地氏が「わけありでああいうことになった」と戦争を説明した内容は、仮に日本というものがなくて、中国と朝鮮だけだったら、東アジアはどうなっていたか、に関連して、中国はロシアとイギリスに上手に分割されたのではないか、日本の中国進出には、そういうことを阻止した面もあった、というリアリスティックな判断に終始している。これは左翼歴史家を除く、今日の近現代史家の大半が所有する良識的認識の範畴に入るといっていい。
こういう立派な現実思考の歴史家を追い落とすことで、このレベルの人物が調査官を志さなくなり、今後の検定内容がさらに劣化することを私は最も恐れている。しかもそれが文部省の左翼迎合競争の虚栄に発するとしたら何をかいわんやである。
昭和57年当時「近隣諸国条項」の成立に抵抗し、首相官邸に反抗した気骨ある先輩文部官僚を少しは見習ったらどうなのであろう。(にしお かんじ)
この事件からすでに14年。日本は変わらず・・・
・・・・・
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