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八坂神社 西楼門(重要文化財)
まつり くらしを彩る京の行祭事 八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社。
八坂神社すなわち祇園さんの御祭神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)八柱御子神(やはしらのみこがみ)- 素戔嗚尊の8人の子供(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)です。素戔嗚尊は、『古事記』では「須佐之男命」、『日本書紀』では「素戔嗚尊」と表記されており、神話では天照大神の弟神として語られています。
天照大神は天神(あまつかみ)の代表、素戔嗚尊は地祇(くにつかみ)の代表的存在として崇敬されています。特に素戔嗚尊は、母の死に慨き悲しみ、あるいは天照大神との勝利に驕り、さまざまな罪も犯しましたが、高天原からの追放という悲境に自ら雄々しく立ち向かい、遂にこれを克服して、善悪を超えて彼岸に到達したわが国最初の英雄神でもあります。
素戔嗚尊こそが、日本神話の中で一番個性的で魅力的な神であるともいえます。それというのも、現に素戔嗚尊を祀る神社は全国に数多く存在するからです。
その多くは、「祇園さん」、「天王さま」、「天王さん」と呼ばれて親しく信仰されています。
八坂神社の由緒に素戔嗚尊の記述がありますので引用します。
素戔嗚尊が生れ坐したのは、イザナギ・イザナミニ柱の神が国生みの果てに火の神カグツチを生んで、黄泉国(死後の世界)に隠れられたイザナミの神を 追っていかれたイザナギの神が、ケガレをすすぐために筑紫の海でミソギハライ(禊祓)をせられたとき、次々に神さまがお生まれになりましたが、最後に清浄 の極に至ってお生まれになった神さまが、天照大神(アマテラスオオミカミ)・ 本殿(重要文化財)・舞殿
八坂神社といえば、すぐに思い出すのが京都の祇園祭(ぎおんまつり)だと思います。このお祭りは、平安時代、疫病(えきびょう)退散のために御所(ごしょ)内で祇園御霊会(ごりょうえ)が行われたのが最初で、疫病・災害の原因を怨霊と考え、それを鎮めるために牛頭天王(ごずてんのう)をおまつりしました。
牛頭天王は、インドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神といわれ、疫病封じのご利益があることから、仏教伝来と共に、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同一視されるようになりました。八坂神社を天王さまと呼ぶところも多いようですが、それはこの名残です。 全国各地の八坂神社も、その地域で疫病が流行(はや)り、それを鎮めるためにおまつりされた例が多いようです。夏に行われる天王祭では、地域によってキュウリをお供えする風習も見られます。 この神さまがなぜキュウリが好物かと言えば、こんな話が伝えられています。その昔、牛頭天王が悪い神さまから逃れるために、キュウリ畑の中に身を隠し難を逃れました。悪い神さまはキュウリのトゲが嫌いだったのでしょう。 それともう一つ、この八坂神社のご神紋は、ちょうどキュウリを切った切り口に似ているからという説もあります。右側の紋がきゅうりの切口に似ているため京都の年配の方は祇園祭の期間(7月中)はキュウリを食しません。飲食店でも出ないとのことです。 八坂神社 御神紋 平安京建都以前より八坂神社のある東山一帯はひらけた場所で、渡来人であった八坂造(やさかのみやつこ)一族が住したところであった。「八坂の塔」で有名な法観寺も平安京以前の創建で、八坂造の氏寺ではなかったかともいわれている。
八坂神社一帯には広大な寺域を持ち、「定額寺」という高い格式を誇った観慶寺があり、別名を祇園寺といいました。
その寺域内にあった「天神堂」が八坂神社の前身で、観慶寺はどういう理由かわからないが衰退し、天神堂が多くの崇敬を集めるようになり発展し、祇園社(八坂神社)となりました。
慶応4年(9月8日に1月1日に遡って明治元年に改元)の神仏混交禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改め今日に至っています。
祇園祭
※参考文献 八坂神社HP豪壮かつ華麗な祇園祭は、千百年の伝統を有する八坂神社の祭礼です。
古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を 祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈ったことにはじまります。
祇園祭は、7月1日の「吉符入」にはじまり、31日の境内摂社「疫神社夏越 祭」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられます。
蘇民将来子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)
八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔鳴尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなしました。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されました。
その故事にちなみ、祇園祭では、「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。
また7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越 祭」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与されます。
このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭も幕を閉じます。
神を崇(あが)め、神に祈り、和(なごみ)を尊しとする、わが国は「美(うま)し国」です。 |
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2012年07月16日
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明治丸
カレンダーには今日16日が、「海の日」と記載されています。 しかし本来は、7月20日が海の日なのです。 そのことを覚えている人がどれだけいるだろうか? そもそも海の日というのは「海の恩恵に感謝し、海洋国家日本の繁栄を祝う」ために国民の祝日とされたのであるが、その経緯等については広く知られていません。
もともと「海の日」は、戦前の一時期に設けられていた「海の記念日」であり、明治9年に東北・北海道へおよそ50日に及ぶ御巡幸に臨まれた当時23歳であられた明治天皇が、明治丸で横浜に帰港された日に因(ちな)んだものでした。
御巡幸その目的は、戊辰戦争に敗れて以降、艱難辛苦(かんなんしんく)の日々を送っていた人々を天皇みずから慰撫(いぶ)し激励するためにほかならない。出発は6月2日、馬車で福島から仙台、岩手、青森と北上、次いで明治丸で津軽海峡を渡り、函館を経て三陸沖を海路戻るというコースを辿(たど)っている。 明治維新による、戊辰戦争で幕府に恩義を感じ、抗戦し、敗れた多くの東日本の雄藩は、新政府に参政することなく、辛苦の日々を送っていました。
賊軍の汚名を着せられた多くの人々は、新政府に対して言いたいことは山ほどあったはずです。
しかし、彼らは新政府への非難も、自己弁明もせず、自らの運命を引き受けていました。
その抗い難い天命をも潔く受け入れる、そのことで國全体が保たれるのであるのならば、自分自身の悲運は甘受する。
日本國が新たな方向に進む時に犠牲が必要で、自分が犠牲となる立場になったら、その立場を引受けるという覚悟、自分の利益、責任放棄はなく、自分が逆の立場になった時も、身命を賭して任務に就く、当時の雄藩の方々は実に立派でした。
このことを、明治天皇はご存知でありました。
ご巡幸は、陛下と東北の人々の絆を結び、深める「心の巡幸」でありました。
実に尊き叡慮でありました。
今日のように交通機関、道路が整備されていない当時、ご巡幸も玉体に鞭打ってのことであったことは推察できます。
天皇陛下はいつの時代も臣民とともあられます。 このような由緒を持つ記念日がハッピーマンデーなる不見識な制度によって不明となりつつあるのは返す返すも残念でならないのです。 平成15年、景気低迷の打開を図るためにアメリカの月曜日祝日法を真似たのか、三連休を増やすために「海の日」が7月の第3月曜日に移動されたのである。 元来、祝日というのは祝日法により「国民挙って祝い、感謝し、又は記念する日」とあるのに、感謝したり記念する日が毎年変われば、何に感謝したり何を記念したりするのかが、よく分からなくなってしまわないだろうか。 戦後GHQにより「紀元節」→「建国記念日」「明治節」→「文化の日」、「新嘗祭」→「勤労感謝の日」のように祝日の名称を変更され、レジャーのために祝日の日付けまで移動し、元から祝日の意味を考えるような教育が少なかったためか、もはや、「祭日」「祝日」「休日」の違いを語れる人間も少なくなった。 もっとも、祝日と祭日の意味を説明できないことは必ずしも責められないのです。戦後の学校教育では祝日・祭日の意義を教えられることはなく、教科書のどこにも書いていないからです。 戦前の教科書はきちんと教えられていました。修身教科書では、「祝日・大祭日」「春から夏へ」「秋から冬へ」「新年から春へ」などの項目で、祝日・祭日の由来と意義が詳しく記述され、教えられていました。
例えば「祝日・大祭日」では、11月23日の新嘗祭(にいなめさい)を次のように説明している。
「此の日には、宮中の新嘉殿(しんかでん)で、神々に初穂をお供へになつて、天皇陛下御みずから、新穀を召上ります。(中略)祝日と同じく、我が国にとつてまことに大切な日で、宮中では、天皇陛下御みずから、おごそかなお祭をあそばされます。ことに新嘗祭には、霜の白く置く頃の寒い夜を明け方にかけて、御みずから、ごていねいに神々をお祭りになり、今年の秋のみのりのお礼を、神々に申し上げさせられます」 修身教科書での祝日や大祭日の記述は、「国旗」「君が代」などの項目との関連も強く意識されていました。大東亜戦争直後、日本人は占領されるということははどういうことかを嫌というほど知らされた。GHQから占領基本法(日本国憲法)を一方的に押しつけられたことはその最たるものだったが、「祝日」が全面改定されたこともそうです。 例えば明治天皇の誕生日だった明治節の11月3日がなぜ「文化の日」なのか、皇室の祖霊を祭る春季皇霊祭がなぜ「自然をたたえ、生物をいつくしむ」(国民の祝日に関する法律)「春分の日」となったのか、理解は難しい。 我々日本人が「感謝」する対象は、建国以来国家の中心であり、日本国そのものであられる歴代天皇陛下、今上陛下であり、皇室とともに歩んできた祖先・先人ではないでしょうか?
戦前の祝日は、祝日と大祭日を併称したもので、正式には「祝日大祭日」といいました。祝日として四大節、新年宴会、大祭日として七祭の計十二日が制定されていました。
〔祝日〕 四方拝(一月一日、四方節とも言います) 紀元節(二月十一日) (建国記念の日) 天長節(天皇誕生日。四月二十九日) (昭和の日) 明治節(十一月三日。明治期の天長節)(文化の日) 新年宴会(一月五日) 〔大祭日〕 元始祭(一月三日) 春季皇霊祭(春分の日) 神武天皇祭(四月三日) 秋季皇雲祭(秋分の日) 神嘗祭(かんなめさい・十月十七日) 新嘗祭(にいなめきい・十一月二十三日)(勤労感謝の日 ) 大正天皇祭(十二月二十五日) かつての日本人は祝日大祭日やその意味や素晴らしさを十分に理解していました。新しい祝日が制定される前、政府が行った「どんな祝日がいいか」という世論調査で「新穀に感謝する日」が約64%の支持を集めたのは即ち皇室の祭祀を尊ぶ精神の現れでもあります。 本当の祝日の意味も理解せず、何でもかんでも反対運動をした、当時の社会党、共産党などの議員、似非文化人、反日マスコミなどにより捻じ曲げられた正しい史観。
すべての物事には原因があり、結果があります。近年のわが国の世相の荒廃は、捻じ曲げられたままの歴史をそのままにしてきたことの結果であり、現在いじめ問題で混乱している教育現場の荒廃も「教育勅語」「修身教育」を破棄した結果でもあります。「教育勅語」「修身教育」世代の方々が占める人口の割合も少なくなってきました。 筆者はこの世代の方々との交流を進んで行なっています。多くの方々が今日のわが国の混迷の原因を「お国柄を否定した結果」だと言われます。 実際、「教育勅語」「修身教育」世代の方々が一線を退かれ、世代交代した途端に混迷が始まっています。 祝日に国旗を掲げなくなった時代とも整合します。 そして、「日本人は日本人らしく」と多くの方々が言われます。 近代を切開いた明治日本の象徴でもあられる明治天皇の崩御より、今年が百年の式年にあたります。 祝日・祭日の由来と意義を正し、「お国柄を正しく伝えよう」ではありませんか。 |
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