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明治天皇 御真影
明治四十五年七月三十日、明治天皇は崩御あそばされた。当時の悲嘆にくれる明治日本の国情は如何ばかりだったのだらうか。「うつ志世を神さりましし大君のみあと志たひて我はゆくなり」の辞世を残して殉死された乃木希典陸軍大将と、妻・静子夫人の悲史や、文豪夏目漱石が名作『こころ』の主人公をして語らせる「明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました」との言葉のなかに、多くの国民の衝撃と悲しみの一端を想像するばかりです。拙稿、世界に誇る「代々木の杜」 でも述べさせていただいておりますが、このような明治天皇に対する国民の追慕の念が、やがて明治神宮の創建にも繋がったのです。
常に国民を思われた明治天皇陛下を敬う国民の心もまた、熱いものがありました。ご不例が発表されると、多くの人が二重橋前までやってきて、ご平癒をお祈りしたのでした。
明治天皇の崩御から百年が経過した式年にあたる今年、明日七月三十日には明治天皇百年式年祭が、宮中の皇霊殿及び京都の明治天皇山陵(伏見桃山陵)で斎行され、また、明治神宮では明治天皇百年祭が執りおこなはれるほか、さまざまな記念行事が実施・予定されており、去る十八日には天皇・皇后両陛下が神宮親謁になられ、27日には秋篠宮両殿下と眞子内親王殿下も参拝された。
この節目の年にあたり、明治の御代を振り返り、明治大帝の御聖徳を偲び、明治の精神に学びたい。
明治神宮に親謁あそばされた天皇陛下 御尊影=18日午前、東京都渋谷区
明治天皇の御生涯は、近代日本の形成期と重なる。ペリーの黒船が来航した年、明治天皇は1歳であられました。当時、白人諸国は、競って東洋に植民地を求めて進出し、一歩誤れば、わが国はたちまち欧米列強に征服支配されるおそれがありました。しかし、260年にわたる徳川幕藩体制は、もはや対外的な対応力を失い、国中が開国か鎖国か、国論を二分し、朝廷か幕府かで激動していました。こうした情勢の中で、尊皇攘夷の中心となっていた父・孝明天皇が崩御し、明治天皇は僅か16歳で、皇位を継ぐことになったのです。慶応3年1月のことでした。
明治維新を経て、西欧列国と対等の国家としての歩みを進めるなかで、明治天皇は常に政治や文化の中枢にあって、近代日本の国造りをみごとに成し遂げられた。その御聖徳は称へても称へ過ぎるといふことはありません。
明治元年3月、天皇は、五箇条の御誓文をもって、施政の大方針を示しました。
その後のわが国の発展はめざましく、翌2年版籍奉還、4年廃藩置県、5年学制頒布、鉄道の開通、太陽暦の採用などが進められました。明治22年、明治天皇は大日本帝国憲法を発布、翌23年には帝国議会を開設し、また行き過ぎた欧化政策のため国情が混乱すると、国民道徳の基本となる「教育勅語」を下賜あそばされ、明治天皇御自身も率先垂範されたのです。
明治天皇は6度にわたって地方御巡幸をなされました。まだ交通手段が発達していない時代ですから、馬車や船による旅行は、身体的に大きな負担だったことは容易に推察できます。しかし、明治天皇は自分の目で国内各地の様子を見、また国民に接し、直接世情を知りたいという強い希望をもっておられたのです。御巡幸の旅は、2ヶ月の長期に及ぶこともありました。今日も各地に明治天皇が巡幸されたという記念碑が建てられています。
日本各地にある明治天皇 巡幸記念碑
こうしてわが国は、明治天皇の下、僅か半世紀の間に、アジアで初めての近代化に成功し、文明開化、富国強兵、殖産興業、教育の普及、文化の向上など、欧米に伍した近代国家として躍進していったのです。
しかし、幕末に諸外国と締結した不平等条約は依然として残り、日清戦争の勝利後の明治三十二年になりようやく治外法権が撤廃された。さらに関税自主権を完全に恢復するのには、日露戦争に辛勝し、さらに数年を経た明治四十四年を待たねばなりませんでした。
まさにその翌年、明治天皇は六十一歳で崩御されたのである。その御代は、ひたすらに「公」のために尽くし、「私」を省みない明治天皇のご生涯でした。肇国以来、2672年を越える皇室の歴史の中でも、他に例のない大転換の時代であり、四十五年間に及ぶ御治世は心労の多い日々であったと拝察されます。ただ、明治の元勲を含め、臥薪嘗胆、君民一体の国民意識が、新たな国民国家を形成するに大きな力となった時代でもありました。だからこそ、明治天皇の崩御は国民にとって、譬へやうのない悲しみであったのです。 明治時代の最大の危機は、日清・日露戦争でした。これらは、新興日本の国運を賭けた戦いでした。明治天皇は、その間、常に国民の先頭に立ち、国利民福のためひたすら尽力されました。そして出征兵士と苦労を共にするという考えから、炎暑の最中でも冬の軍服を着用され、冬には暖もとられなかったと言われています。
明治天皇は、御生涯で九万三千三十二首の大御歌を残された。和歌史上にも例のないことで、御歴代でも断然突出しています。
明治天皇は、敷島の道を尊ぶ皇室の伝統を実践され、四季や花鳥風月を数々の大御歌に詠まれた。これらのなかには、折々の感慨がこめられています。
あしはらの 国とまさむと 思ふにも
青人草ぞ たからなりける
(大意:日本の国を富ませたいと思うにつけても、第一に貴い宝は
わが国民である)
照につけ くもるにつけて おもふかな
わが民草の うえはいかにと
(大意:照れにつけ、曇るにつけて思うのは、わが国民の生活は
どうであろうかということである)
あさなあさなみおやの神にいのるかなわが国民を守りたまへと
ちよろづの神のみたまはとこしへにわが国民を守りますらむ 上記二首の大御歌のように、国民の平安を祈念された大御心は不変で、それは御歴代とも重なる。常に国民の平安を祈られつつ、西欧諸国と対等の国家建設に励まれた明治天皇。その大御心に象徴される明治の精神に学ぶことは、今の時代に最も必要なことである。戦後、こうした気風は失はれてしまい、その大切さに気付いている人はごく僅かかも知れません。今こそ虚心に明治天皇の御事跡と大御歌に学び、明治天皇と共に歩んだ明治人の精神に立返りたいものです。
あさみどり すみわたりたる 大空の
ひろきをおのが 心ともがな
(大意:浅緑色に澄みわたった大空のように、広々とした心を自分の心
としたいものだ)
神職が舞う「明治神宮大和舞」
曇なき日本人の「こころ」です。
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2012年07月29日
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林 建良 著
日本よ、こんな中国とつきあえるか?(二) より続きます。 3.「愛国という中国人の仮面」(引用ここまで) 日本はシナと国交を回復して以来、あらゆる面でシナを支援しつづけてきました。援助すれば日本の誠意が通じると期待したが、その当ては大きく外れ、シナは反日政策をさらに強めている。日本人はいつになったら気がつくのか。シナ人は話して分かる相手ではない。日本の常識が全く通用しない国なのです。 次回に続く・・・ |
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