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靖国神社
韓国の李明博大統領が、日本固有の領土である島根県・竹島に日本政府の中止要求を振り切って上陸しました。
慰霊の日を15日に迎え、靖国の英霊にはどう映ったでしょうか? 戦没者の慰霊と靖国神社を巡る問題は、今世間を騒がせている国会の諸問題よりも、日本という国の根幹にかかわる問題です。それほど大事なことなのです。
日本人は自分の国をどういう国でありたいと考えるのか?自主独立の国でありたいと考えるか否か?自ら自分の国を守ろうとする意思を持つか否か?世界最古にして、世界最長の国であり、常に国民と苦楽を共有される万世一系の畏くも天皇陛下を仰ぎ、一国一文明、独自の文化と歴史を持つ国として、その文化と歴史を継承・発展させていこうとするか否か? 単なる個人の寄せ集めではなく、一つの共同体としてまとまった国であろうとするか否か? 先祖と自分たち、そして将来を担う子孫との間に、生命と愛情の「絆」のある国であろうとするか否か? これらの問いに深く関係する問題なのです。
明治時代の啓蒙思想家、慶応義塾の創設者でもある、福沢諭吉翁の、「一身独立して一国独立」を読んでいただきたい。
国と国とは同等なれども、国中の人民に独立の気力なきときは一国独立の権義を伸ぶること能(あた)わず。その次第三ヵ条あり。
第一条 独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず。 独立とは自分にて自分の身を支配し他によりすがる心なきを言う。みずから物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の智恵によらざる独立なり。 みずから心身を労して私立の活計をなす者は、他人の財によらざる独立なり。 外国へ対して自国を守るに当たり、その国人に独立の気力ある者は国を思うこと深切にして、独立の気力なき者は不深切なること推して知るべきなり。 第二条 内に居て独立の地位を得ざる者は、外にありて外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶること能わず。 独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり。常に人を恐れ人に諛う者はしだいにこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。いわゆる「習い、性となる」とはこのことにて、慣れたることは容易に改め難きものなり。 第三条 独立の気力なき者は人に依頼して悪事をなすことあり。 世間に外国人の名目を借る者はあらずや。余輩いまだその確証を得ざるゆえ明らかにここに論ずること能わざれども、昔日のことを思えば今の世の中にも疑念なきを得ず。こののち万々一も外国人雑居などの場合に及び、その名目を借りて奸(かん)を働く者あらば、国の禍(わざわい)、 実に言うべからざるべし。ゆえに人民に独立の気力なきはその取扱いに便利などとて油断すべからず。禍は思わぬところに起こるものなり。国民に独立の気力いよいよ少なければ、国を売るの禍もまたしたがってますます大なるべし。すなわちこの条のはじめに言える、人に依頼して悪事をなすとはこのことなり。 右三ヵ条に言うところはみな、人民に独立の心なきより生ずる災害なり。今の世に生まれいやしくも愛国の意あらん者は、官私を問わずまず自己の独立を謀(はか)り、余力あらば他人の独立を助け成すべし。 (福沢諭吉著「学問のすすめ」より一部抜粋) いかがでしょうか?
独立自尊の精神を持ち、国家主権を堅持しようとする国民は、自ら国を守ろうという意思を持つでしょう。他国への依存や隷従をよしとしない国民は、そのために努力を惜しまず、自国の文化や伝統を大切にし、それを継承・発展させようと考える国民は、先祖や先人に対し、感謝と尊敬を抱くでしょう。自分達の子供や孫、さらに将来それに続く子供達への責任と愛情を持つ国民は、先祖や先人への愛情を持つだろう。そういう意思を持つ国民は、過去の歴史において自国を守るために命を捧げた人々に感謝と尊敬を禁じえないでしょう。そして、国を挙げて、心から戦没者の慰霊を行うでしょう。
逆に独立自尊の精神を失い、自ら国を守ろうという意思を持たない国民は、過去の世代の貢献に対して鈍感となり、戦没者の慰霊に無関心となろ、それによってますます独立心を失い、国家主権を保とうとする意志の弱い国となるでしょう。祖国の文化を粗末にし、歴史を忘れ、単に自分達の世代の快楽や繁栄をのみ追い求める国民は、先祖や先人に恩義を感じることがなくなるだろう。こういう国は、諸外国の圧力によって、平時からじわじわと溶解、退化していきます。一旦、戦いとなれば、侵略者に対してあっけなく敗れ、占領・支配され、下手をすると亡国にいたる。それが現在の日本という国の姿ではないでしょうか?。
過去において我々の先祖や先人が国のために命を捧げたということは、自分の命を犠牲にしてまでも、国を護ろうされたのです。自分の家族やその時代の国民のためだけではない。これから生まれてくる子孫や、将来の祖国・国民のためでもあったのです。しかし、戦後のわが国では自分を犠牲にして国のために尽くした人々の行為が正当に評価されず、名誉も与えらず、だとすれば、今後、国民が窮地にぶつかった時、評価されることもなく、誇りも名誉もない死とわかっていながら、誰が貴い生命を賭けて国を護ろうとするでしょうか? そして、自分が命を賭けてでも守る値があると感じるのでなければ、この国の文化や精神を本気で守ろうとする人はどれほどいるでしょうか?。
戦没者の慰霊という問題は、過去に亡くなった人たちの慰霊という問題だけではなく、現在、そして将来に渡って、自国をどのように国を維持し、発展させていくかという問題につながるのである。
わが国では、大東亜戦争後、くだらない憲法により、公より私、全体より個人を尊重する考えが大勢を占めています。個人主義・利己主義が蔓延し、長年にわたり倫理道徳が低下してきた。この傾向の背後・根幹には、国のために命を捧げた人々の存在への軽視があるのです。
わが国は、幕末の危機を乗り越えるために明治維新を成し遂げ、明治大帝の下、近代国家を建設し、主権国家として国際社会を歩んで来る過程で、多くの人々が尊い命を国の将来のために捧げた。その人々への感謝や恩義が忘れられていることが、国民道徳の崩壊の要因となっている。国民道徳の究極の拠り所を失ないつつあるからである。
靖国神社は、こうした国事に命を捧げた人々を追悼するための施設です。だから、靖国神社への正しい理解なくして、日本という国のあり方を根本的に考えることはありえません。それとともに、日本人の公共心、社会道徳の再建もありえません。
戦没者の慰霊と靖国神社を巡る問題とは、日本という国が、一つの共同体であろうとするか否かという大きな問題でもあるのです。すなわち、日本国民が共通の先祖を持ち、その先祖から受継いできた生命を共有し、独自の文化と歴史を継承してきたことを自覚し、今後とも生命と文化と歴史を共有する社会であり続けようという意思を持つか否かという、「国のかたち」を為す問題なのです。
慰霊と靖国という問題は、国家、主権、道徳、生命、文化、歴史、伝統等が結集する国家・国民の重要問題である。言い換えると、日本人が互いを結ぶ「絆」に関わる問題なのである。
筆者が尊敬してやまない、さくらの花びら大兄が、本ブログの拙稿、靖国神社「日本人よ日本人に帰れ」に次のようなコメントをいただきましたので抜粋します。>お国のために命を捧げて、国に見捨てられるのは裏切り行為そのものです。と・・・ 日本人が、国と国民を結ぶ「絆」、アイデンティティーをも否定する、国が決してしてはならないことです。 前述した、福澤翁は、、「貧富強弱の有様は、天然の約束に非ず、人の勉と不勉とに由って移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。我日本国人も今より学問に志し、気力のたしかにして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」 と、日本人があるべき姿を説いておられます。 護国の神々(英霊)が望まれているのは、この精神ではないでしょうか?
恩知らずな日本人は日本人になる資格はありません! |
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2012年08月11日
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