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台湾人医師の直言 林 建良 著
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日本よ、こんな中国とつきあえるか?(十八ノ一)靖国を政治ショーの舞台にしたエセ台湾人 よりつづきます。 4.靖国を政治ショーの舞台にしたエセ台湾人 ●親中反日派の手引きで反靖国活動に乗り出した高金素梅 高金素梅(こうきん そばい)は台湾の歌手・女優・政治家ですが、現在は中華民国立法委員で、所属政党は無党団結聯盟。中国北京市中央民族大学に留学。台中県和平郷谷関在住。芸能人時代から現在の立法委員に至るまで、数々の不倫騒動から「誹聞天后」(スキャンダル・クイーン)のあだ名をマスコミに付けられたいわば、札付きの人間です。 筆者は高金素梅を許しません。護国の神を侮辱する最低の人間です。 続く・・・ |
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2012年08月31日
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台湾人医師の直言 林 建良 著
日本よ、こんな中国とつきあえるか?(十七)中華民国は「シナ共和国」であって台湾ではないより続きます。 4.靖国を政治ショーの舞台にしたエセ台湾人 ●靖国問題で訴訟を起こした台湾の女性国会議員 投稿文字数制限の為、二分割しています。 コメント等は、(十八ノ二)にお願いいたします。 (十八ノ二)に続く・・・ |
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妃殿下に付き添われ、聖路加国際病院を退院あそばされる三笠宮親王殿下 御尊影=31日午後、東京都中央区
花束を受け取られ、聖路加国際病院を退院あそばされる三笠宮親王殿下 御尊影=31日午後、東京都中央区
心臓の手術を受けられ、東京都中央区の聖路加国際病院に約2カ月半入院しておられた三笠宮親王殿下が31日、ご退院あそばされた。今後は東京都港区の赤坂御用地内にあるお住まいの宮邸におかれまして、リハビリをなされながら過ごされる。
車いすで病院から出られ、報道関係者から「退院おめでとうございます」と声をかけられると、穏やかな表情で手を振って応えあそばされ、病院関係者から花束を受け取られた。連日見舞いに訪れていた妻の妃殿下が付き添われ、一緒に車に乗り込まれた。
三笠宮(みかさのみや)は、大正天皇の第4皇子崇仁親王の宮号である。
三笠宮の宮号は、昭和10年12月2日に崇仁親王殿下が成年式を行った際に賜ったもので、阿倍仲麻呂の和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」に出てくる奈良の三笠山にちなんで命名あそばされた。同時に大勲位に叙せられている。
三笠宮親王殿下におかせられましては、幾久しく、お健やかであられますよう祈念いたします。
三笠宮親王殿下 萬歳 萬歳 萬歳
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まずはここをポチッとご協力お願い申し上げます。 「埴生の宿」をご存知でしょうか?
土で造った粗末な家でも、我が家が一番よい、という意味です。これも教科書から消された唱歌のひとつです。 大東亜戦争末期、日本軍の一隊がビルマからタイへ逃れようとして山中をさまよいます。
隊長は音楽学校出身なので常日頃、部下に歌を教えコーラスの指導をして軍隊生活を慰めていました。伴奏は水島上等兵手づくりの「ビルマの竪琴」。水島は演奏の名手でした。 ある小さな部落で野営している夜、敵軍のイギリス兵に囲まれました。戦闘準備をする時間稼ぎに「埴生の宿」のコーラスを歌って、いざ出撃しようとしたその時、敵のイギリス陣からも同じ歌の英語のコーラスが聞こえて来ました。それは「埴生の宿」の作詩はアメリカ人ですが、作曲はイギリス人。明治初年から日本では学校の唱歌として歌われてきました。
包囲したイギリス兵と包囲された日本兵。 敵・味方の兵士が一曲の歌によって互いに感じ入ったのでした。
その後、戦争終結。しかしまだ戦おうとする三角山の日本軍に投降を勧めるために、水島上等兵が派遣されましたが、失敗して瀕死の重傷を負います。水島はビルマ僧に助けられ、そして変装して遙か遠い南部のムドンの捕虜収容所に向かいます。その途中で水島は恐ろしいものを見ます。山の谷間、ジャングルの中、川辺の泥の中にあった、たくさんの日本兵の屍体でした。
「私は戦友たちをこのまま放置して日本に帰れない。・・・」
水島の苦闘が始まります。屍体埋葬、しかし一人では限界があります。それを見かねたビルマの村人たちが協力してくれます。
「日本の兵隊は実に勇敢でした。イギリス軍には立派な武器があり、多くの飛行機もありました。しかしイギリス軍の略奪や婦女暴行は相当にひどかった。それに比べて日本の兵隊は軍律が厳しく婦女暴行は全くなかった。そして日本の兵隊は銃剣一つで立ち向かっていきました。あの勇敢さと軍律のきびしさを我々は今でも尊敬しています」
これが現地の人々に今も伝わる日本兵の勇姿です。 さて、捕虜収容所では水島の帰りを願って毎日コーラスを歌いました。声がかれるまで歌いました。
隊長は物売りのおばあさんが持ってきたインコに言葉を教え、それを水島にと おばあさんに託します。 しかし、水島は帰って来ませんでした。 「水島! 一緒に 日本に 帰ろうよー」、と彼らは叫び続けました。
やがて、日本へ送還の日程が決まります。毎日、コーラスで水島に呼びかけますが姿を見せません。
そしてある日、ビルマの少年を連れた水島が現れ、静かに「惜別の曲」を演奏し、森の中に姿を消しました。水島の心中を察した隊長は黙って見送りました。
輸送船内で隊長は、水島の心情が書かれている長い手紙を読みます。
「ビルマの土は赤い・・・」 ・・・・・・ 2009年10月25日、タイ北部の街メーソートにて中野弥一郎さんが亡くなりました。享年89歳でした。中野さんは数多くいたと思われる「ビルマの竪琴」の水島上等兵の一人です。
兵士としてインパール作戦に参加し、ビルマからインドのコヒマを攻めたが敗走。3万人以上が戦病死。
戦後の昭和20年9月、同郷の友人と捕虜収容所を抜け出しそのままビルマに残りました。
しかし内戦が激化、背中に仏塔の入れ墨をしてカレン族となり、カレン族の難民としてタイ国境を越えました。 中野さんのタイの自宅には日本語の新聞や雑誌が積まれ、壁には昭和天皇の御真影と出征前の自身の写真とが飾られていました。
日本には帰らずとも、魂や心は最期まで日本人であり続けたのです。
・・・・・・
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