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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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イメージ 1  薩摩の西郷隆盛といえば、地元の鹿児島では神様として神社に祭られているほどの人物です。
その西郷が吉之助(きちのすけ)と名乗っていた頃、若者たちを集めて庭で相撲を取らせていました。
そこに小柄で弱々しげなある若い男が来たことを告げられると、西郷は一目見て
「これは大した人物ではないだろう」と思い、相撲が終わるまで部屋で待たせていました。
やがて汗を拭きながら現れた西郷に向かい、その男は
「我が国の進むべき道について教えて頂きたい」と畳に両手をつきました。
しかし、西郷は笑いながら「いやいや、おいはそのような大それたことは何も考えておりません」と受け流そうとしました。しかし、その男はあきらめることなく教えを求め、まずは自分の意見を語りはじめました。
すると西郷はだんだんその男の話に引き込まれていく自分に気付きました。
自分よりずっと年下であるこの男の言葉は、西郷の心を熱くさせ、時に打ちのめし、時に激しく揺さぶったのでした。この男が去った後、西郷は見た目だけで人を判断した自分を深く恥じ、深く反省しました。
そして、翌日、西郷はすぐにその男の藩邸を訪ね、その男が姿を現すまでその場に両手をついてすわり、その男が現れると、昨日の無礼を詫びました。 この男こそ、橋本佐内であります。
そのこと以来、西郷はこのように人々に語るようになりました。
「わしが心から尊敬する人物は先輩では水戸藩の藤田東湖先生、同輩では橋本佐内だ」。
 明治になり、西郷は日本政府が新しい近代国家を建設しようとするばかりに、元々持っていた日本の素晴らしい精神を忘れていることを憂いていました。
そして明治10年、士族の乱(西南戦争)を起こして、その戦いに敗れ、切腹して亡くなりました。
西郷の死後、カバンの中から手紙が見つかりました。それは西郷が昔、橋本佐内からもらったものでした。西郷は死ぬまで橋本佐内の手紙を肌身離さず大切に持ち歩いたのです。
・・・・・
 
イメージ 2 安政の大獄によって橋本佐内が江戸の牢獄に閉じ込められていた頃、同じ獄の別室には長州の吉田松陰がいました。松陰は佐内がいると知ると、何としても直接会って話したいと願ってやみませんでした。
また、佐内もすぐそばに松陰がいることを知ると、一編の詩とともに松陰に手紙を送りました。
「以前からあなたのことを人づてに聞き、これほど素晴らしい人がまだ我が国に入るのかと自分をなぐさめていました。ぜひ、一度お目にかかり親しく話し合いたいものです」と書かれていました。
しかし、それからしばらくした107日、佐内は処刑され、26歳という若さでこの世を去ったのです。
佐内と同じ牢にいた勝野という武士はその後、偶然にも松陰の牢に移されることになります。
勝野から佐内が処刑されたことを聞いた松陰は「今更ながら佐内と一度も会えなかったことが悔やまれてならない。」と日記に記しています。
その20日後、松陰もまた佐内の後を追うように、わずか30年の生涯を閉じました。
 安政の大獄という徹底した取り締まりの中で、佐内や松陰など多くの優秀な人材が命を落としていったのです。
・・・・
 
戦前の「修身」の教科書には『人間の度量』という題でこのようなことを習っていました。
ここには今の学校教育にはない、日本人として忘れてはならない大切なことが多く詰まっています。
橋本佐内の生誕地が校区にある福井市春山小学校では、住民たちでつくる「佐内塾」が協力して橋本佐内の功績や精神を学ぶ学習が行われています。授業を受けた生徒の一人は「佐内は相手を大切にしたり日本のために努力したり心の広い人。教科書に載っていないこともわかったし、もっと調べてみたい」と話した。(平成23118日 福井新聞)
福井県は「全国学力テスト」の際に全国でもトップクラスの成績を出しています。福井で教育に従事している方は「佐内さんの啓発録が大きく関係していると思う」と話しています。
橋本佐内が福井県の教育に直接影響を与えているかは定かではありませんが、歴史を尊び、歴史に学ぶ地元の教育が子供たちによい影響を与えているのは確かかもしれません。
では、橋本佐内とはどのような人物なのでしょう。・・・
 
イメージ 3
                            (橋本佐内)
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

イメージ 1
 
 
イメージ 2
新年一般参賀に集まった臣民に手を振りあそばされる天皇陛下、皇后陛下 御尊影=2日午前、宮城
 
 
 
 
君が代
 
 
 
謹んでお伝え致します。

新年恒例の一般参賀が2日、宮城・宮殿で行われ、畏くも天皇陛下、皇后両下、皇太子徳仁親王殿下、同妃雅子殿下をはじめとする皇族方が長和殿のベランダに出御(しゅつぎょ)あそばされ、東庭に集まった臣民に手を振りあそばされた。
 午前10時すぎからの初回の出御には両陛下、皇族方15人が姿を見せあそばされた。昨年10月に20歳になった秋篠宮文仁親王殿下の長女、眞子内親王殿下初めておでましあそばされた。
 畏くも天皇陛下におかせられましては昨年、東日本大震災や豪雨など災害が相次いだことに触れ「被災した人々が厳しい状態に置かれていることを案じていますが、被災地の復興が進み、この年が国民一人一人にとり、少しでも良い年となるよう願っています」と玉音を賜りました。
 畏くも天皇陛下、皇后陛下、皇族方は午前に3回、午後に2回お出ましあそばされた
 
畏くも天皇陛下のお言葉の全文は次の通り。
 
 
 
「新しい年をともに祝うことをうれしく思います。昨年は東日本大震災や各地の豪雨などによる災害があり、心の痛む年でした。被災した人々が厳しい状態に置かれていることを案じていますが、被災地の復興が進み、この年が国民一人一人にとり、少しでも良い年となるよう願っています。年頭にあたり、世界の平安と人々の幸せを祈ります」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭和28年の新年一般参賀での昭和天皇、香淳皇后(26年1月1日より画像のように天皇陛下、皇后陛下がお出ましになられました。この画像の年より1月2日になりました。)
 
 
皇居での新年一般参賀は,昭和23年1月1日から始まりました。当時の参賀は,正午から午後4時までの間,参賀者が正門から入門し,正門内鉄橋付近に設けられた記帳所で記帳の上,坂下門から退出していました。当時は,現在のような天皇皇后両陛下・皇族方のお出ましはありませんでしたが,昭和天皇は,この参賀の様子を庁舎の屋上からご覧になっていました。
昭和26年1月1日,庁舎中央玄関上のバルコニーにおいて,昭和天皇・香淳皇后が参賀者の前に初めてお出ましになりました。
昭和28年からは,行事の都合により参賀の日が1月2日になりました。
その後,宮殿造営のため一時中断されましたが,昭和44年1月2日から現在の宮殿で行われるようになりました。
 
宮内庁HPより引用
 
 
 
 
 

 
 
 

 
 
 
 彌榮 彌榮 彌榮
 
 
日本國民(やまと民族)は皇室と共に・・・・
 
天皇陛下、皇后陛下 萬歳 萬歳 萬歳



畏くも天皇陛下、皇后陛下、皇族方におかせられましては、いつまでもお健やかにと願ってやみません。

 
 

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