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橋本佐内は良い先生やよい友にも恵まれたこともあり、二十歳を過ぎた頃には福井藩の政治改革を任されるほどの人物になりました。佐内は「立派な武士たるもの、心配することといえば国の安危のみ。選ばねばならないことは正義であるかそうでないかだけである。そのほかのことは一切議論する必要もない」と決意を語っています。
当時、隣国である清国などは完全に西欧諸国に支配され植民地と化していました。外国勢力は津波のように迫りつつあり、日本は深い谷の間に張られた一本の綱の上を歩くような危ない道しか残されておらず、一歩でも踏み外せばたちまち外国の餌食となってしまうような危機的な状況でした。
もはやさびついた幕府政治では山積する内外の問題を解決することは出来ず、天皇のもとで新しい体制をつくらねば、間違いなく日本も外国の植民地になってしまう、という強い危機感を佐内はもっていました。
この頃佐内は次のような詩を詠まれました。
数曲のあでやかな音楽が流れる中 うまい酒を酌み交わす
美しい着物で飾り 海から出る月を迎える
誰が知っているであろうか この美しい月光が 欧米の餌食となったマカオで
人々の白骨をかつて 照らしていたということを
楽しい酒の場で美しい光景を見ていても、佐内の眼には国の独立を失い、悲惨な運命に苦しんでいるアジアの光景が、日本の未来と重なり合って見えたのです。
そして、佐内は外国に負けない国をつくるためには、外国の優れた点を知らなくてはならないと考え、福井の藩校に洋学科や数学科をつくり、造船、鉱山、化学、機械など、外国の知識を藩士たちに学ばせました。
その頃の福井藩は学問が他の藩よりも比較的遅れを取っていました。しかし、佐内が教育制度の改革を行っていったため、めきめきと実力をつけていきました。中でも、福井藩主松平春嶽が設立した学校・明道館(めいどうかん)の教育は、外国の技術をただ学ぶだけではなく、日本人としての自覚と誇りを養うことを重視し、洋学を学ぶ者は、あらかじめ日本の学問を学んだ者でないと学習させないようにしていました。
その後、佐内は藩主である松平春嶽の秘書役に抜擢され、優れた人物といわれる徳川慶喜を次の将軍に迎えるため各地を飛び回ることになりました。佐内が西郷と初めて知りあったのもこの頃です。
佐内や松平春嶽ら一橋派は、朝廷や公家に働きかけ、徳川家茂を次の将軍にしようとする幕府の方針を改めさせようとしました。
しかし、十四代将軍には家茂が決定しました。すると、その後、大老・井伊直弼を中心とする人たちは、大がかりな巻き返しをはかり一橋派の大名や公家に情け容赦ない弾圧を加えていきました。世にいう「安政の大獄」です。
佐内も井伊に目をつけられた一人でした。安政六年、佐内は主君の許しを得ず天皇に手紙を出したという罪に問われ、江戸の牢獄につながれることになりました。そして、取り調べの結果、「島流し」されることになったのです。しかし、この「島流し」の報告を受け取った井伊は自ら筆をとって、佐内の刑罰を「死罪」に書き改めたのです。井伊にとって佐内は自分をおびやかす恐るべき相手であり、ここで命を奪っておかなければならない人物だと考えたからでした。
佐内や松陰が処刑された伝馬町処刑場の跡(東京日本橋)
佐内は江戸の牢獄に閉じ込められ、ここに吉田松陰がいることを知りました。
佐内の牢獄には凶悪な人物がいました。しかし日が経つにつれその凶悪な男はすっかり佐内のことが気に入ってしまうのです。
そして佐内が処刑されることが決まり、牢から引き出される朝、その男は涙を流しながら、「お前はまだ年が若いというのに大した秀才だ。それなのに今日首を斬られるとなんとも惜しい。出来ることならこのわしがお前に代ってやりたいものだ」と言いました。橋本佐内は処刑され、26歳という若さでこの世を去りました。
佐内の死後、幕府の役人水野忠徳(ただのり)はこう言いました。「井伊大老が橋本佐内を殺したというその罪だけで、徳川氏は滅亡しても仕方がない」
橋本佐内亡き後も、幼心をうちすてた十五歳の決意「啓発録」は、福井で今も受け継がれています。
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