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中江藤樹先生 像
先日、「子供の手本だった二宮尊徳翁」 の記事をエントリーしました。 今回ご紹介させていただく中江藤樹先生も「修身書」に多く取上げられた先人です。 中江藤樹先生は江戸時代初期の人で、慶長13年関ヶ原の戦いの六年後に、近江国高島郡小川村に生まれました。9歳の時、米子藩の家臣であった祖父の養子となり、父母の元を離れて米子に行きます。翌年、藩主の国替えにより、祖父とともに伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)に移り住みます。愛媛・大洲藩士ののち、郷里に一人残した母への孝養のため、帰郷。生家で日本最初の私塾を開かれました。本名、与右衛門。屋敷内の藤の古木のもとで学問を教えたことから、門弟の誰いうともなく、藤樹先生と称されています。 筆者も小学校の頃、道徳の時間に学んだ≪中江藤樹先生と母・・・あかぎれこうやくの話≫を比叡山麓三宝莚住職・天台宗金乗院住職、当世名僧の一人といわれる栢木寛照(かやき かんしょう)和尚著「親が育てば子も育つ」よりご紹介します。 中江藤樹は幼名を藤太郎(とうたろう)といいました。小さいときに父を亡くしたので、母は、わがままな子にしてはならないと、七歳のとき人に預けて学ばせました。藤太郎は出立の時、「帰りたいなどと考えてはいけないよ・一生懸命学問して早く一人前の立派な人になっておくれ」と母にいわれたことを良く守り、一生懸命学問し、先生に仕えました。しかし、二年目の冬が来た頃、母がアカぎれやしもやけで難儀しているということを風の便りで聞き、居ても立ってもいられなくなり、アカぎれやしもやけによく効くという薬を買い求めて、雪の中を師匠の家を抜けて帰るのです。藤太郎が故郷に着いた頃には、あたりは薄暗くなっていました。懐かしい家のそばまでかえって来ると、表の井戸端に片時も忘れたことのないお母さんの後ろ姿がありました。「お母さん!」思わず叫んだ藤太郎の声は母の耳に届きました。これまた片時も忘れたことのない藤太郎の声に母は、「藤太郎かい」そういって振り向き顔も見たい、抱きしめてもやりたい、そんな母としての気持ちをぐっとこらえてそのまま家に走り込み、障子を閉め、雨戸も閉め、中から心張り棒をしてしまいました。藤太郎が雨戸の外から、アカぎれによく効く薬が手に入ったのでそれを持って帰ってきましたと伝えると、母は「そうかえ、それじゃその薬はありがたくもらっておきますから、そこにおいて、お前はお帰り」と追い返したのです。藤太郎の雪を踏み遠ざかる足音に耳を澄ませていたお母さんは、そっと障子を開け、雨戸を動かし、我が子の後ろ姿に「ありがとう」といって手を合わせるのです。栢木寛照和尚は、このときの藤樹の母の姿・心を不動明王にたとえて、ほんとうに心から我が子の為を思いとった母の表面の厳しさと、子を思う奥に秘めた優しさはまさに母の慈愛であり、慈母に他ならないと説いています。 15歳の時、祖父が死ぬと、藤樹先生は武士の身分に取り立てられます。その3年後、郷里の父が亡くなると、藤樹先生は近江へ駆けつけ喪に服した後、また大洲へ戻ります。藤樹先生は、この時、母を説得して大洲に連れて帰ることができませんでした。そのことを、藤樹先生はたいへん悔やみ続けることになります。
少年の日、11歳の藤樹先生は儒教の経典『大学』を読まれました。そして、誰もが身分に関係なく聖人になれるという教えに感動され、自分も聖人をめざそうと決心されました。なかでも『孝経』にある、孝行は人倫の第一であるという教えに、深い感銘を覚えられたのです。藤樹先生は、母親と離れ離れのままであることに、強い自責の念を感じられ、27歳の時、藤樹先生は、母親を見捨てたような状態で、天下国家を論ずれぬ、自分は何をおいても親孝行を実行しなければならないと決意されたのです。そして、母への孝行と自身の健康を理由に、大洲藩士の辞職を願い出られたのです。しかし、事はうまくはかどらず、しびれを切らした藤樹先生は、ついに藩主の許可を待たずに脱藩され、近江へ帰られたのです。
親孝行のために武士の身分を返上した藤樹先生は、老いた母を養うため、近江でわずかな金で酒を買い、商売を始められました。また刀を売り払って資金を作り、村民を相手に金貸しをされました。その後、生計の一助にと医学を学ばれ、医師として人々の病を治療するようになりました。そのかたわら、藤樹先生は私塾を開かれ、大洲藩から自分を慕ってやってきた武士や、近くの村人に学問を教えました。藤樹先生の人柄や生き方や思想は、多くの人々に感化を与えたのです。
次のような逸話が残っています。
隣村の河原市宿に又左衛門という馬方がいた。馬方というのは、馬に旅人や旅人の荷物を乗せて運ぶ仕事。ある日、加賀の飛脚を次の宿場まで送り、帰って見ると大金が忘れてある。夜中、急いで道を引き返し、金を届けると、飛脚は涙ながらに喜び、この金がないと私の命がないところだったという。飛脚は礼金を申し出るが、又左衛門は、小川村の与右衛門さんの教えを守っているだけ、当然のことをしたまでだといって、受け取らない。あまり何度もいわれるので、又左衛門は、それでは、ここまで、もう一度、運んだ運賃だけをもらうといって、帰ってしまった。
藤樹先生の教えは「致良知」(良知にいたる)という言葉に代表される。良知というのは良心、美しい心。人は誰でも天から与えられた美しい心を持っているのです。しかし我欲によって曇らせてしまうので、絶えず磨きつづけ、鏡のように輝かせておく努力が必要。良知が明らかになれば、天と一体になって人生は安らかになります。 良知にいたるには、日常、五つのことを心がければいいという。なごやかな顔つきをし、思いやりのある言葉で話しかけ、澄んだ目でものごとを見つめ、耳を傾けて人の話を聴き、まごころをもって相手を思う。何より正直であることが大切と説かれています。 前にも述べていますが、藤樹先生は生計のために酒を仕入れ、それを量り売りしておられましたが、塾が忙しくなったので、村人に自身で量り、自分で代金を計算して置いていくようにされていたそうです。 しかし、月末に精算したとき、酒の量と代金に狂いがあるということはありませんでした。また、村内で落としものがあると、それは必ず落とし主が捜し出されて、返されたということです。荒廃した現代を思うと、江戸時代、そんな村があったことは信じられないでしょうが・・。 病弱であった藤樹先生は、41歳で生涯を閉じられました。 そして、一〇〇年後、ある武士が藤樹先生の墓参の案内を野良の百姓に頼んだそうです。百姓は、途中、自宅に立ち寄り、正装に着替えて現れました。武士は自分への敬意だと思って喜んでいると、百姓は藤樹先生の墓前に正座し、頭を垂れていたのです。武士は、一〇〇年経っても藤樹先生の遺徳が生きていることを悟ったそうです。 人間と動物の根本的な違いはどこにあるのでしょうか。親が子をかわいがるということなら、動物もやっています。それは本能です。しかし、子供が親を大切にし、年老いても面倒をみるのは、人間だけなのです。親に孝行をする点が、人間と動物を分けているわけです。実はそこに人間が動物より優れている点があるのです。「孝」が人間生活に現れる形を、藤樹先生は「愛敬」と呼ばれました。「愛敬」の「愛」とは「人々が親しく睦まじく交わること」を意味し、「敬」とは「下は上を敬い、上は下を軽んじないこと」という意味です。いわば、縦のつながりと横のつながりの両方において、人と人が愛し合い、助け合う姿です。それが「愛敬」であり、「孝」の表れなのです。
「孝」という文字は、『老いた親を子が背負う姿』をかたどって『孝』と名付けたのである」と先人は考えました。
キリスト教のように、無差別的で観念的な隣人愛を説くのとは違い、現実的な親子の愛を、身内から周囲に押し広げるところに、東洋的、日本的な特徴があります。自分の親を大切にすることを実践せずして、遠くの人への愛を説くことはできないでしょう。
また、孝行とは父母の心の安楽なる用に、また父母の身体を敬い養うことである。わが子の願いのままに育てるのを「姑息」の愛と説かれています。
世間の幸福感は、子孫の繁栄が上、次が長寿、官位が高く富貴となることを下としています。
「不孝」は最大の罪であり、万物は一原(根源は同じ)であり、自分と他人という差別は存在せず、自分の身に跳ね返ってきます。清廉な心がけは、貧心がない。清廉こそ得であり、廉直を重視し、貧欲を捨てて陰徳を励むことと説かれています。
藤樹先生は母を愛し、妻子を愛し、門人を、また村人を愛されました。藤樹先生は、いつしか「近江聖人」と称えられるようになりました。
「人は誰でも生まれつき美しい心を持っている。心を磨き修養に努めれば、誰でも立派な人になれる」と藤樹先生は説とかれ、実践されました。こうした思想は、後の石田梅岩翁や細井平州翁や前回紹介させていただいた、二宮尊徳翁の精神にも見られます。封建的な身分制を超えた彼らの人間平等の思想は、庶民における「やまとごころ」を豊かなものにしたのです。
我欲にまみれた現世の日本人。かっての日本人は清らかで美しかった・・・
年老いた親を養いもせず、あれこれと理屈をつけて「孝」から離れて行く日本人を藤樹先生は天界からどう感じておられるでありましょうや・・・・
ご一考願いたい・・・
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2012年02月11日
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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
護持すべき「國體」とは何か
高知大学名誉教授 福地惇
「國體」とは何なのだろうか。
歴史・伝統・文化を土台に成り立つ国家の特性を意味するもので、非常に幅の広い説明が可能なのだが、国家論・憲法論・政治論に限定すれば国家体制のことと理解するのが最も妥当であろう。宮沢俊義はそれが古色蒼然たる「神勅主権主義」の似非立憲政だったと主張する。だが、その言説は祖国の歴史、戦前の国家体制に対する強い悪意に満ちた讒言(ざんげん)と言わざるを得ない。
幅広い説明が可能な「國體」には、かりに国家論・憲法論・政治論に限定したとしても、明治憲法起草者伊藤博文の『憲法義解』(井上毅原案執筆)が示すような厳正な立憲君主制論から神権政治論まで幅広くあったが、明治憲法の発布からポツダム宣言受諾までの(準)公式説明は『憲法義解』である。神懸かり的な解釈は古くから存在したが、昭和動乱期に特段に活発化し、シナ大陸における日支の軍事的緊張が高揚した時期に文部省が編纂配布した『國體の本義』(昭和12年5月末)などはそれに当たるし、若き憲法学徒 宮沢俊義もそれに近い理解者だったのは事実である。だが、それは国際情勢の緊迫化と国内世論の熱狂に過剰反応したヒステリー的人士の見解であった。
「終戦の詔書」に謳われる「國體」概念は、戦時ではなく平時の理解である。
ポツダム宣言の原案作成者グルーの見解、それにGHQから迫られて明治憲法の精査に取り組んだ幣原首相と松本国務相の理解の通りであった、『憲法義解』が説明する明治立憲君主制のことである。明治憲法は、十九世紀中葉の欧米諸国の憲法と比較しても遜色ない立派な近代立憲君主制憲法である。欧米諸国の憲法をよく勘案斟酌し、我が国の歴史の正当性を踏まえて制定された。筆者の理解では、明治憲法は君民共冶の「国家主権」説であって、国家権力が天皇を含む一部国家機関に集中するのを排除しながら天皇を国家・国民統合の要と擬制する法治主義の国家基本法である。
他方、現憲法の「国民主権」説は、個人が国家より上位であるという本末転倒の虚偽観念に基づく国家・国民拡散の思想である。
明治憲法が「国家主権」説に基づく立憲君主制憲法だと知っているくせに、神権政治の似非立憲であると宮沢は主張し、「絶対主義君主制憲法」と言いくるめるために、「天皇主権(独裁)説」を高唱した。戦前の宮沢は、実は神権論的解釈者だった。身過ぎ世過ぎから心憎い素早さでGHQの見解、つまり講座派理論に乗り換えたのだと筆者は解している。個人の意見変更は自由だが、彼は我が国憲法学界の権威(東京大学法学部教授)であり、敗戦国家の今後の方向性を指し示す重責を担っていた。無責任な変節学者の言説に、国家・国民は諸共に巻き込まれたのだから堪らない。
日本製憲法だと強弁するマッカーサーは、「日本政府は新聞やラジオで新憲法について大規模な啓発運動を起こし、憲法のあらゆる面を説明し、質問に答えた。四月の総選挙に私が望んでいた通り真の国民投票となり、新憲法採択の態度を公に表明した人々が新議会で大多数を占めた」と、GHQ自身の教宣活動や日本政府操縦、厳密検閲による言論操作、選挙操作も公職追放も共産主義者の官庁的活用も全くなかったかのように嘯くが、頭隠して尻隠さずで、「新憲法は、日本国民にすべてなかった自由と特権をもたらしたものであり、恐らく占領軍が遺した最も重要な成果だろう。もし占領軍が当時極東委員会の審議に頼っていたら、この憲法は絶対に生まれなかったと私は確信している。極東委員会にはソ連の拒否権というものが控えていた」と揚言する。
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